[行政不服審査法65条・再審査請求の認容裁決]現場編 「二回負けたんだから、もう終わりです」の嘘。棄却された裁決を取り消し、役所の“やり直し”まで引き出す再審査請求の刃
一度負けると、へこみます。
二度負けると、だいたいの人は「もう駄目なんだ」と思います。
役所が相手なら、なおさらです。
処分された。
不服を申し立てた。
それも棄却された。
――はい終了。
そんな雰囲気になります。
でも。
法律というのは、ときどき往生際が悪い。
そして、その往生際の悪さに救われる人がいます。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「……これ、もう駄目なんでしょうか」
その日、相談に来た女性は、二枚の紙を重ねて机に置きました。
一枚目。
市から出された通知。
二枚目。
その処分を争った審査請求に対する裁決書。
どちらにも、気持ちのいい言葉は書かれていません。
私は二枚目を持ち上げました。
主文。
――本件審査請求を棄却する。
役所文書というものは、人を落ち込ませるときまで簡潔です。
「お名前、もう一度いいですか」
「森下澄江です」
五十九歳。
駅東口から少し離れたところで、小さな弁当屋を営んでいる女性でした。
店の名前は「おかずの森下」。
朝五時から煮物を炊き、
昼には工場や商店へ弁当を届け、
夕方には残った総菜を近所の人に売る。
その配達に使っていたのが、一台の手押し車でした。
「リヤカーってほど大きくないんです」
森下さんが両手で幅を示します。
「こう、箱が乗っていて。主人が生きていたころに作ってくれたもので」
「今は?」
「市役所に持っていかれたままです」
私は顔を上げました。
「持っていかれた?」
「はい」
話は二か月ほど前に遡ります。
駅前再整備に伴い、市は東口周辺の歩道について「通行障害物の一斉整理」を始めた。
森下さんの手押し車は、配達の途中、いつものように店先脇の歩道寄りに置かれていた。
そこへ市の職員が来た。
再三の注意に従わなかったとして、その場から車を移動。
市の資材置場へ運び、現在まで保管しているという。
「注意されたことは?」
相馬先輩が聞きました。
「あります。でも、ずっと置きっぱなしじゃありません。お弁当を積む間だけです」
「何分くらいだ」
「十分とか、十五分とか」
「毎日?」
「朝と昼です」
「市は何て言った」
「歩行者の邪魔になる、と」
そこまでは、分からなくもありません。
問題はそのあとでした。
森下さんは返還を求めた。
市は応じなかった。
駅前整備期間中は再び道路上に置かれるおそれがあるから、しばらく留置する。
そう説明された。
「それで審査請求を?」
「息子が調べてくれたんです」
「結果が、これか」
相馬先輩が裁決書を指で叩きました。
棄却。
理由を読む。
歩行者の安全確保。
駅前整備の円滑な実施。
再度の放置防止。
市の行為には必要性と相当性がある。
だいたい、そんな内容です。
「車がないと困るんですか」
私が聞くと、森下さんは少し笑いました。
困るのに、笑う人の笑い方でした。
「配達できませんから」
「代わりは?」
「息子の自転車を借りてます。でも、十個も積めなくて」
「お店を閉めるほどではない?」
「まだ大丈夫です」
まだ。
この言葉は便利で、怖い。
今日を越えられる人は、みんな「まだ大丈夫」と言えます。
でも明日も同じとは限らない。
「新しいのを買うお金は?」
「……今はちょっと」
森下さんは目を伏せました。
店の冷蔵庫を春に買い替えたばかり。
駅前整備で客足も落ちている。
そのうえ、夫が作った手押し車は、金額だけの問題ではありませんでした。
「捨てられたりしませんよね」
「今のところ、保管だそうです」
「役所には何度も行ったんです。でも『審査請求でも市の判断が認められましたから』って」
来た。
役所界の必殺技。
手続が一段終わるたびに、
――もう決着しています。
という空気を一枚ずつ上からかぶせてくる。
最終的には布団圧縮袋みたいになります。
「所長」
私は二枚の紙を並べました。
「これ、何か変じゃないですか」
「どこがだ」
「処分そのものというより……今も返してないことです」
片桐所長がこちらを見ました。
何も言わない。
続けろ、の顔です。
「最初に移動させたことと、そのあと何週間も持ち続けてることって、同じ話なんでしょうか」
相馬先輩が腕を組みました。
「どういう意味だ」
「危ないから、その場からどかした。そこまでは緊急性があったかもしれません」
「うん」
「でも今、市役所の資材置場にあるんですよね」
「そうだな」
「危険はもう取り除かれてます」
私は裁決書をもう一度読みました。
「なのに『また置くかもしれないから返さない』まで当然についてくるのかなって」
森下さんが、こちらを見る。
私は口に出しながら、頭の中で線を引いていきました。
移動させる。
保管する。
返さない。
一見、ひと続きに見える。
でも法律では、一つの出来事を分けて考えることがあります。
そこが行政法の面倒くさいところであり、
面白いところでもある。
昨日までテキストで見たら、
事実上の行為。
継続的性質。
物の留置。
あたりで私の意識は遠い南の島へ旅立っていました。
でも。
夫が作った手押し車を二か月返してもらえない女性が目の前にいる。
すると眠かった単語が、勝手に起床します。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「裁決の日は」
「え?」
「確認しろ」
私は慌てて日付を見る。
裁決書の日付。
さらに森下さんへ確認。
「これが届いたの、いつです?」
「一昨日です」
「一昨日?」
「はい」
相馬先輩が言いました。
「ならまだ間に合う」
「何にです?」
「再審査請求だ」
私は固まりました。
「……再審査請求」
「何だ、その顔」
「いえ」
頭の中に、未来の条文が開きました。
行政不服審査法。
再審査請求。
現代では、法律に定めがある場合に限る。
原裁決等について再び争う。
認容されれば――。
「待て」
私は自分の頭に言いました。
ここは昭和六十三年。
現代法の第六十五条を、そのまま机に置くな。
私はすでに何度もこれで事故りかけています。
現代なら。
再調査の請求。
審査請求。
再審査請求。
審理員。
行政不服審査会。
でも昭和六十三年の旧法は違う。
異議申立てと審査請求が併存。
そして再審査請求の規定も、今とは条番号も構造も違う。
「また未来の顔してるぞ」
相馬先輩が言いました。
「未来の顔って何ですか」
「今の法律とごっちゃになってる顔だ」
「正解です」
「威張るな」
片桐所長が裁決書の末尾を指しました。
「教示を読め」
私は読みます。
この裁決について不服がある場合、条例の定めにより、所定の行政庁に再審査請求をすることができる。
期間の記載もある。
「この事件、再審査請求できるんですね」
「だから言ってる」
「でも、再審査請求って何でもできるわけじゃ……」
「そうだ」
所長が言いました。
「道がある事件だけだ」
そこは今も昔も大事です。
一回目に不服申立て。
負けたら二回目。
さらに負けたら三回目。
無限コンティニュー。
そんな親切設計ではありません。
再審査請求は、法律や条例などによって道が開かれている場合に使う特別なルート。
森下さんの件には、その道があった。
「期間は?」
相馬先輩が私に振ります。
「六十日」
反射で答えました。
沈黙。
あ。
嫌な沈黙。
相馬先輩が目を細めました。
「何の期間だ、それ」
「……審査請求」
「これは?」
「再審査請求」
「じゃあ?」
私は裁決書の教示を見直しました。
「三十日……」
「危ねえな」
「今の私を穴に埋めてください」
「自分で掘れ」
旧法。
審査請求や異議申立ては、原則六十日。
でも再審査請求は、審査請求の裁決を知った日の翌日から三十日以内。
同じ不服申立てでも期間が違う。
行政法。
初見殺しだけでは飽き足らず、身内でも足を引っかけてくる。
「現代ならまた期間が違うんですよ……」
「今は昭和だ」
「はい」
「今使える法律で仕事しろ」
「はい」
何度目でしょう、この会話。
転生者なのに未来知識がそのままチートにならない。
むしろ行政法では、ときどき呪いです。
片桐所長が立ち上がりました。
「市役所へ行く」
「今から?」
「現物を見る」
市役所裏手の資材置場。
金網の向こう。
道路工事用の柵。
看板。
折れた標識。
そして、その隅に。
「あれです」
森下さんが指しました。
青い木箱を載せた手押し車。
車輪は二つ。
柄の部分には、布が巻かれている。
古い。
傷も多い。
けれど丁寧に補修されていました。
「主人がね」
森下さんが小さく言いました。
「私が手を痛めないように、ここだけ布を巻いてくれたんです」
相馬先輩が金網越しに車を見ます。
「壊れてはなさそうだな」
「はい」
「使おうと思えば使える」
「はい」
「なのに二か月ここか」
市役所二階。
総務課。
そして当然のように。
「またですか」
沢渡課長がいました。
「その言い方、こっちが趣味で来てるみたいじゃないですか」
私が言うと、沢渡課長は眼鏡を上げました。
「違うんですか」
「違います」
「朝比奈さんは楽しそうですが」
「法律論が見えると少し」
「ほら」
しまった。
相馬先輩が私の頭を軽く小突きました。
「遊びに来たんじゃねえ」
「分かってます」
片桐所長が裁決書を机に置きました。
「森下澄江さん」
「ああ」
沢渡課長の表情が少し変わりました。
知っている。
「手押し車の件ですね」
「審査請求は棄却」
「ええ」
「その後も留置継続」
「ええ」
「理由は」
「裁決書に記載されているとおりです」
出た。
紙を盾にする役所。
紙一枚でATフィールドを張るな。
相馬先輩が言いました。
「裁決の理由じゃねえ。今、返さない理由を聞いてる」
「再び道路上に置かれる可能性があります」
「本人は店の敷地内で保管すると言ってる」
「それでも再度持ち出される可能性はあります」
「だったら一生返さねえのか」
「極端ですね」
「じゃあいつ返す」
「駅前整備の状況を見て判断します」
「いつまでだ」
「具体的な時期は申し上げられません」
うわあ。
行政法受験生が嫌う言葉ランキング上位。
総合的に判断。
状況を見て。
現時点では未定。
三つ揃うと、役所の曖昧トリオです。
私は手を挙げました。
「課長」
「何でしょう」
「最初に車を移動させた理由は、歩行者の安全ですよね」
「そうです」
「それはもう達成してますよね」
「移動した時点では」
「じゃあ今、持ち続けている目的は?」
「再発防止です」
「そのために、返還期限を決めずに持ち続ける必要があります?」
沢渡課長がこちらを見ます。
「審査請求では、その点も含めて判断されています」
「だから、その裁決にも不服があるんです」
少しだけ。
空気が変わりました。
沢渡課長が裁決書へ視線を落とします。
「再審査請求をする、と」
「できますよね」
「この件については、条例上の規定があります」
「ならします」
「朝比奈」
相馬先輩。
「はい」
「お前が決めるな」
「すみません」
森下さんを見る。
「森下さん」
「はい」
「もう一度、争うことができます」
「また役所にですか」
「はい」
「でも、もう一回駄目だったんですよね」
その言葉が重かった。
処分された。
審査請求した。
棄却された。
普通なら、そこで心が折れます。
法律上の道が残っていても、
人間のほうに歩く力が残っているとは限らない。
「同じことを、同じところへ言うんですか」
「完全に同じではありません」
私は答えました。
「今度は、審査請求を棄却した判断そのものも含めて、もう一段見てもらいます」
「棄却した判断を?」
「はい」
「それが間違っていたら?」
私は一瞬、未来の六十五条を思い出しました。
認容裁決。
原裁決等の全部または一部の取消し。
事実上の行為なら、違法または不当であることを宣言して、撤廃を命じる。
ただし。
今は昭和。
条番号も仕組みも違う。
私は未来の言葉を飲み込んで、今の事件だけを話しました。
「少なくとも、『一度棄却されたから正しいことが確定した』わけじゃありません」
森下さんが黙る。
片桐所長が言いました。
「再審査請求は、負けた者に気休めを与える制度じゃない」
「……はい」
「裁決がおかしければ、その裁決も見直しの対象になる」
短い。
でも。
森下さんの肩が少しだけ上がりました。
さっきまで下を向いていた顔が、裁決書へ向きます。
「それなら」
森下さんが言いました。
「お願いします」
事務所へ戻ってから、私たちは申立書の材料を並べました。
感情は、いったん横へ。
これは所長のいつものやり方です。
「夫の形見だから返してほしい」
大事です。
ものすごく大事です。
でも、それだけを書いても、法的な争点にはなりません。
整理する。
市が車を移動した時点で、歩行者の安全確保という目的は一応理解できる。
しかし。
その後二か月以上にわたって留置を継続している。
返還期限は示されていない。
駅前整備の具体的工程とも結びつけられていない。
本人は私有地内で保管すると申し出ている。
それでも返さない理由は、
「また道路へ持ち出すかもしれない」。
「先輩」
「何だ」
「これ、考え方としてはかなり危なくないですか」
「何が」
「またやるかもしれないから返さない、で期限なしに物を留められたら」
「ああ」
「何でもありになる」
「そういうことだ」
片桐所長が赤鉛筆を置きました。
「最初の行為が必要だったことと、継続が必要なことは別だ」
私はその言葉を書き留めました。
これです。
今日の芯。
始める理由。
続ける理由。
同じとは限らない。
最初に適法でも、
いつまでも適法とは限らない。
最初に必要でも、
いつまでも必要とは限らない。
法律というのは、時間を切り分けることがあります。
「審査請求の裁決は」
私は言いました。
「そこの検討が薄いですね」
「どう薄い」
「移動させた必要性と、留置し続ける必要性をほとんど一緒に扱ってます」
「そうだな」
「『歩行者の安全確保のため必要だった。だから現在の留置も相当』って」
「間が抜けてる」
相馬先輩が言います。
「はい」
現在も返さない理由。
なぜ二か月なのか。
いつまでなのか。
もっと負担の軽い方法はないのか。
誓約書。
保管場所の確認。
必要なら再度指導。
ほかに方法があるのに、
物そのものを無期限に押さえておく必要があるのか。
そこが問われます。
私は申立書の下書きを見て、妙な感覚になりました。
再審査請求。
受験勉強では、
審査請求の次。
例外的。
法律に定めがある場合。
期間注意。
そんな箇条書きでした。
でも今は。
一回目の判断で拾われなかった論点を、
二回目の見直しへ持っていく道に見える。
「これが再審査なんですね」
私が言うと、相馬先輩が鼻を鳴らしました。
「まだ認められてねえぞ」
「分かってます」
「再審査請求すりゃ勝つ、みたいな顔するな」
「してません」
「してる」
「希望の顔です」
「似たようなもんだ」
片桐所長が言いました。
「勝ち負けで考えるな」
私たちは黙りました。
「何を直させるかだ」
所長は申立書を指します。
「処分か」
「はい」
「裁決か」
「はい」
「続いている事実行為か」
「……はい」
「そこを混ぜるな」
胸の中で。
何かがカチッとはまりました。
行政不服審査は、
ただ「役所が悪い」と叫ぶ仕組みではない。
何がおかしいのか。
元の処分なのか。
その後の裁決なのか。
今なお続いている行為なのか。
対象を切り分ける。
そして。
何をどう戻してほしいのかを決める。
論点が整理されると、
さっきまで巨大だった役所の壁に、初めて継ぎ目が見えました。
三日後。
再審査請求書を提出しました。
沢渡課長は控えを見ながら言いました。
「よく分けましたね」
「何をです?」
「当初の移動措置と、その後の留置継続です」
「一緒じゃないですよね」
「少なくとも、同じ理由だけで最後まで通せるとは限りません」
相馬先輩が言います。
「それ、先に言えよ」
「私は処分庁側ですので」
「便利だな、その立場」
「立場というものは、だいたい便利だから存在します」
この人のこういうところ、嫌いになり切れません。
「課長」
私は聞きました。
「再審査で認められたら、市が好きな内容に直して終わり、ってことですか」
「質問が雑ですね」
「分かりやすさ重視です」
「そこは、何について認容されるかで違います」
「ですよね」
私は頭の中で、未来の第六十五条をまた思い出しました。
現代の再審査請求。
理由がある場合。
原裁決等については取消し。
そして事実上の行為なら、
違法または不当である旨を宣言し、
処分庁に撤廃を命じる。
しかも再審査請求では、
審査請求の認容裁決のように、
何でも「変更してちょうどいい内容に作り直す」という話ではない。
でもこれは。
未来の制度。
今、私が口に出す条文ではありません。
「朝比奈さん」
「はい」
「また変な顔をしていますよ」
「未来法を飲み込んでます」
「意味が分かりません」
「私もたまに分かりません」
二週間後。
電話が鳴りました。
「片桐行政書士事務所です」
『総務課、沢渡です』
私は受話器を持ち直しました。
「森下さんの件ですか」
『察しがいいですね』
「最近それしか考えてません」
『それは健康に悪いですよ』
「課長に言われたくないです」
『再審査庁から裁決が出ました』
背筋が伸びる。
「結果は?」
『原裁決の一部が取り消されました』
私は一瞬、意味を飲み込めませんでした。
「……一部?」
『長期留置の相当性について十分な検討がされていない。とりわけ、継続の必要性、代替手段、期間についての判断が不十分だと』
「じゃあ」
『市にも対応を求める内容です』
「手押し車は?」
数秒。
沢渡課長は、わざと間を取った気がします。
『返します』
「返す?」
『ええ』
「今日?」
『今日でも構いません』
「本当に?」
『朝比奈さん』
「はい」
『行政庁は、認めるべきときは認めます』
「沢渡課長が言うと、妙に重いですね」
『褒め言葉として受け取っておきます』
電話が切れました。
私は受話器を握ったまま、相馬先輩を見ました。
「返すって」
「何を」
「車」
「へえ」
「へえ、じゃないですよ!」
森下さんへ連絡すると、
電話の向こうでしばらく声がしませんでした。
『本当ですか』
「はい」
『また取り上げられません?』
「道路上へ置くことについては、別にルールを守らないといけません」
『はい』
「でも今回のように、期限も決めずに持ち続ける扱いは見直されます」
『……そうですか』
「森下さん?」
『すみません』
鼻をすする音。
『あの人が作った物だから』
「はい」
『もう帰ってこないかと思ってました』
法律で救えるのは、
財産権です。
営業上の利益です。
手続的利益です。
たぶん答案には、そう書く。
でも。
現場では、
返ってくるのは青い手押し車です。
布の巻かれた取っ手です。
亡くなった夫が削った木の跡です。
法律は、そういうものを「物」と呼びます。
冷たい言葉です。
でも。
物と呼んでくれるからこそ、
誰のものか。
なぜ行政が持っているのか。
いつまで持てるのか。
ちゃんと理由を聞ける。
その日の夕方。
市役所の資材置場。
森下さんは返された手押し車の取っ手を、両手で撫でました。
「傷、増えてない」
「そこ確認するんですね」
「当たり前ですよ」
沢渡課長も来ていました。
「森下さん」
「はい」
「今後、道路上へ置く場合は、通行の妨げにならないようお願いします」
「もう置きません」
「店の敷地内なら問題ありません」
「分かりました」
「こちらも」
沢渡課長が少し間を置きました。
「留置を継続する場合の判断基準を整理します」
森下さんが目を丸くします。
「私のことで?」
「あなたの件だけではありません」
沢渡課長は淡々と言いました。
「同じことが起きたとき、担当者ごとに判断が変わると困りますので」
なるほど。
この人は最後まで、
反省しました。
申し訳ありません。
とは言いません。
でも、
次は同じ間違いをしない仕組みに変える。
それがこの人なりの謝り方なのかもしれない。
「課長」
私は言いました。
「二回負けても、終わりじゃないんですね」
「何の話です?」
「処分されて、審査請求も棄却されて。それでも再審査請求で戻ることがある」
「制度上、道が開かれているなら」
「はい」
「ただし」
沢渡課長が私を見る。
「再審査請求は、単なる三回戦ではありませんよ」
「分かってます」
「本当に?」
「……たぶん」
「朝比奈」
相馬先輩。
「はい」
「自信なくすな」
「だって課長が試験官みたいな顔するから」
「私は採点していません」
「顔がしてるんです」
沢渡課長がわずかに笑いました。
「なら一問だけ」
「嫌です」
「再審査請求が認められたら、何でも好きな内容に変更できる?」
う。
未来法。
現代の行政不服審査法第六十五条が頭の中で光りました。
「今の法律の話なら――」
「今は昭和六十三年です」
「先回りされた!」
相馬先輩が吹き出しました。
「お前、役人に転生バレるぞ」
「それだけは困ります」
「何の話です?」
「こちらの話です!」
片桐所長が手押し車を見ながら言いました。
「帰るぞ」
「はい」
森下さんが車を押し始めます。
カラカラ。
少しだけ車輪が鳴りました。
「この音」
森下さんが笑いました。
「うるさかったんですけどね」
「直さないんですか」
「主人も何度か直そうとしたんです。でも結局、最後までこの音で」
カラカラ。
カラカラ。
夕方の市役所裏を、古い車輪の音が進んでいきます。
ほんの二か月前まで、
歩道の邪魔だ。
危険だ。
持っていく。
返さない。
そういう行政の論理だけで止まっていた物が、
今は持ち主の手に戻っている。
行政が間違えることはあります。
最初の処分で間違えることもある。
審査請求の裁決で、論点を拾い損ねることもある。
だから。
一定の場合には、
その裁決そのものを、さらに見直す道がある。
再審査請求。
名前だけ見ると、
審査したものを、もう一回審査する。
やたらしつこい制度に見えます。
でも。
人を救うとき、
法律のしつこさは、
案外悪くありません。
翌朝。
森下さんが事務所へやって来ました。
「これ、皆さんで」
机に置かれたのは、大きな包み。
開ける。
おにぎり。
卵焼き。
里芋の煮物。
唐揚げ。
そして妙に大きな梅干し。
「お弁当だ」
相馬先輩の声が明らかに明るくなりました。
「先輩、花のときと反応違いすぎません?」
「食えるからな」
「花だって大事です」
「腹には入らん」
「原始人」
森下さんが笑いました。
「今日から、また配達できるんです」
「手押し車で?」
「はい。ただし道路には置きません」
「そこ大事です」
「ちゃんと覚えました」
片桐所長が包みから卵焼きを一つ取りました。
「所長」
「何だ」
「まだ昼前ですよ」
「悪いか」
「いえ」
「朝比奈さんもどうぞ」
森下さんが弁当箱を差し出します。
私は里芋を一つ取りました。
甘い。
少し濃いめ。
働く人向けの味です。
「おいしいです」
「主人が好きだった味なんです」
森下さんが言いました。
「車も戻ったし、また作れます」
私は箸を止めました。
再審査請求で戻ったもの。
裁決。
手押し車。
営業。
でも。
たぶん、それだけじゃありません。
いつもの朝。
いつもの配達。
いつもの音。
そういう小さな日常が戻った。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「今日の教訓は」
「え、今ですか」
「今だ」
私は少し考えました。
「一回棄却されたからって、その裁決まで正しいとは限らない」
「うん」
「だから、法律が再審査の道を開けているなら、何が間違っていたのかを切り分けて、もう一度問える」
相馬先輩が卵焼きを食べながら言います。
「長い」
「じゃあ短くします」
私は言いました。
「『二回負けた』と『もう争えない』は、同じじゃない」
片桐所長が頷きました。
「それでいい」
窓の外から、
カラカラ、
と音がしました。
「あ」
私は立ち上がりました。
通りの向こう。
森下さんが青い手押し車を押していきます。
車は歩道の真ん中ではなく、きちんと店側へ寄せられている。
その上には弁当箱。
白い布。
湯気の残る鍋。
ありふれた景色です。
たぶん誰も、
その車が一度役所に留置され、
審査請求でも負け、
さらにその先の手続まで使って戻ってきたなんて知りません。
新聞にも載らない。
表彰もされない。
それでいい。
法律がちゃんと働いた日の景色は、
案外、
何事もなかったように普通です。
「朝比奈」
「はい?」
相馬先輩が空になった弁当箱を持ち上げました。
「唐揚げ、もうないぞ」
「え?」
「お前、遅いから」
「一個も食べてない!」
「不服か」
「不服です!」
「じゃあ申し立てろ」
「誰にですか!」
相馬先輩が片桐所長を指しました。
「上級行政庁」
「所長を行政庁にしないでください!」
所長は最後の唐揚げを箸でつまみました。
「あ」
「所長!」
「何だ」
「それ私のです!」
「根拠は」
「今から食べようと思ってました!」
「主観だ」
「ひどい!」
「再審査請求するか?」
「します!」
「期限は?」
私は反射的に答えました。
「六十日!」
相馬先輩が机を叩いて笑いました。
しまった。
また間違えた。
「こはる」
所長が唐揚げを食べながら言いました。
「やり直し」
「……三十日」
「よし」
「唐揚げ返してください」
「もうない」
「認容されたのに原状回復不能!」
事務所に笑い声が広がりました。
法律は、
一度出た答えを何でも魔法のように元へ戻してくれるわけではありません。
だからこそ。
戻せるうちに。
期間が残っているうちに。
何を争うのかを見失わないうちに。
もう一度、きちんと問う。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日も法律は、
しつこいくらい冷静に、
誰かの日常を元の場所へ押し戻していました。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




