[行政不服審査法64条・再審査請求の却下又は棄却の裁決]現場編 「最初の裁決が間違っていたなら、今度こそ勝ちです」の罠。門前払いの瑕疵と元の処分の正しさを切り分ける、二段階審査の冷たい結論
役所の間違いが一つ見つかったからといって、欲しかった結論まで全部ひっくり返るとは限りません。
これは、かなり腹の立つ話です。
でも。
間違えた場所と、正しかった場所を切り分ける。
それも法律の仕事でした。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、朝から一枚の裁決書とにらめっこしていました。
「……却下」
声に出す。
「却下」
もう一度。
「何だ朝比奈」
相馬先輩が新聞をめくりながら言いました。
「呪文か」
「違います」
「じゃあ何だ」
「嫌いな言葉です」
「役所関係の仕事してて、今さら何言ってんだ」
もっともです。
行政法には、人を元気にする響きの言葉が少ない。
許可。
認可。
裁決。
却下。
棄却。
取消し。
執行停止。
花屋さんの店先に並べたら、一鉢も売れなさそうです。
「でも先輩」
「何だ」
「却下と棄却、文字面が似すぎじゃないですか」
「知らん」
「受験生に対する配慮が足りません」
「法律は受験生に配慮して作ってねえ」
正論が痛い。
私が握っているのは、県の機関が出した裁決書でした。
相談者は、その向かいに座っています。
四十代半ばくらいの男性。
油の染みた作業着。
指の節が太い。
名前は――
大庭正吉さん。
駅から少し離れた場所で、小さな自転車修理店を営んでいました。
祖父の代から続く店だそうです。
問題は店そのものではありません。
店の裏手。
幅二メートルほどの細い通路でした。
「この道が使えないと」
大庭さんが、机に広げた手描きの地図を指します。
「修理した自転車を裏から出せんのです」
表は県道。
車の往来が多く、荷下ろしもしにくい。
昔から裏の細道を使って、自転車を搬出していた。
ところが。
駅周辺の再整備に関連した道路工事で、その細道沿いに県の管理施設が設けられることになった。
大庭さんは施設脇の通路部分について、一時的な使用許可を求めました。
結果。
不許可。
「理由は?」
私は聞きました。
「工事車両が通るから危ないと」
「実際、通ってるんですか」
「今はほとんど通っとらんです」
「ほとんど?」
「朝一台来るか来んか」
大庭さんは唇を曲げました。
「それなのに、一日中駄目だって」
そこで大庭さんは、役所の窓口で教えられたとおり、不服申立てをしました。
ところが。
その申立てに対して返ってきたのが、
この紙です。
――却下。
「中身を見てもらえなかったんですか」
「そうです」
大庭さんが悔しそうに言いました。
「期限が過ぎとるって」
「処分を知った日は?」
私は聞きました。
「七月十五日」
「申立てを出したのは」
「九月十日」
私は指を折りかけて止まりました。
昭和六十三年。
旧法。
六十日。
現代の「三か月」が脳の奥から元気よく飛び出してきましたが、即座に首根っこをつかんで引っ込めます。
未来の制度。
座っていなさい。
「それなら」
私は顔を上げました。
「日数だけ見ると、期間内じゃありません?」
「俺もそう思った」
大庭さんの声が強くなる。
「でも県は、六月二十五日に役所の掲示板へ出したから、そこから数えるって」
「掲示板?」
「書留が届いたんは七月十五日ですよ」
私は裁決書をもう一度読みます。
却下理由。
処分の告示日から起算し、申立期間を経過したものと判断した。
「所長」
片桐所長が奥の机から顔を上げました。
「何だ」
「処分通知、大庭さん本人には七月十五日到達です」
「うん」
「なのに六月二十五日の掲示を基準にして却下しています」
「うん」
「これ、前提を確認したほうがいいですよね」
「しろ」
短い。
でも許可は出ました。
「通知書、封筒も残ってます?」
「あります」
大庭さんが鞄から茶封筒を出しました。
消印。
配達証明。
七月十五日。
相馬先輩が横から奪うように見ます。
「こりゃ揉めるな」
「ですよね」
「喜ぶな」
「喜んでません」
「顔が受験問題見つけた顔になってるぞ」
失礼な。
でも否定できません。
昨夜までなら、
却下。
不適法。
門前払い。
この三語を赤ペンで結んで終わっていました。
今は違う。
大庭さんは、中身を一度も見てもらっていない。
自転車屋の営業が苦しくなる理由も。
本当に一日中通路を閉ざす必要があるのかも。
何も見てもらわないまま。
入口で追い返されている。
却下という言葉が、急に重く見えました。
午後。
私たちは県の出先機関へ向かいました。
市役所ではありません。
だからいつもの沢渡課長はいない――
と思っていました。
「何でいるんですか」
会議室へ入った瞬間、私は言ってしまいました。
沢渡課長がいました。
灰色の背広。
細い眼鏡。
いつもの無表情。
「失礼ですね」
「市役所の人ですよね」
「駅前整備の連絡調整会議です」
「ああ」
便利ですね。
縦軸の開発計画。
こういうときだけ、世界が狭い。
県側の担当者は、道路管理課の三好課長という男性でした。
沢渡課長より少し若い。
机には関係書類。
大庭さんも同席しています。
三好課長が言いました。
「本件の不服申立てについては、既に却下裁決が出ています」
「その却下の前提を確認したい」
片桐所長が言いました。
「処分を大庭さんが知った日は七月十五日です」
「処分そのものは六月二十五日付です」
三好課長が答えます。
「掲示も行われています」
「本人への通知は?」
「後日郵送です」
「後日じゃない」
相馬先輩が封筒を置きました。
「七月十五日だ」
三好課長の視線が封筒へ落ちます。
「配達証明付きです」
私も言いました。
「大庭さんの申立ては九月十日。少なくとも、『六月二十五日から期間が進んだから遅い』という判断で門前払いしたのは、おかしくないですか」
「朝比奈」
相馬先輩が言います。
「論点で喋るな」
「またですか」
「本人に分かるように言え」
「はい」
私は大庭さんを見る。
「つまりですね」
「はい」
「県は、大庭さんの申立てを『遅すぎるから中身を見ません』と追い返した」
「そうです」
「でも、その『遅すぎる』の計算自体が間違っている可能性が高いです」
大庭さんの目が少し見開きました。
「じゃあ」
「はい」
「勝てるんですか」
私は口を開きかけました。
その瞬間。
片桐所長が先に言いました。
「まだ分かりません」
大庭さんが止まります。
「え?」
「却下がおかしいことと」
所長が裁決書を指します。
「元の不許可処分がおかしいことは、別だ」
その場の空気が一段、冷えました。
私は思わず所長を見ました。
そう。
そうなんです。
そこ。
ここで私の頭の中に、未来の条文が光りました。
再審査請求。
原裁決が違法または不当。
でも。
元の処分自体が違法でも不当でもなかったら――
私は一瞬、
行政不服審査法六十四条。
と考えました。
次の瞬間。
頭の中で非常ベル。
待って。
それは現行法。
ここ昭和六十三年。
危ない。
危ない危ない。
私は口をつぐみました。
「朝比奈さん」
沢渡課長がこちらを見ました。
「今、何か言いかけましたね」
「未来の条文番号を口走るところでした」
「意味が分かりません」
「私にも説明が難しいです」
相馬先輩が額を押さえました。
「放っといてください」
「はい」
ひどい。
でも助かりました。
ここで必要なのは未来の条文番号じゃない。
今、この事件の何がおかしいかです。
「つまり」
私は紙に線を一本引きました。
「二段階に分けるんですよね」
所長が頷きます。
「言ってみろ」
「第一段階」
裁決書を指す。
「大庭さんの不服申立てを、期間徒過だとして却下した判断が正しかったか」
「うん」
「第二段階」
元の不許可通知を指す。
「そもそも県が通路使用を認めなかった処分自体が正しかったか」
「そうだ」
線を引く。
たった一本。
でも。
それだけで、さっきまで一塊だった「役所の判断」が二つに割れました。
相馬先輩が言いました。
「県が一個目でミスしたからって、二個目まで自動的に負けになるわけじゃねえ」
大庭さんの顔が曇ります。
「じゃあ、役所が間違ってたのに」
「そこは争えます」
私は言いました。
「ただし」
一度、息を吸う。
「『却下が間違っていた』だけで、『通路を使わせろ』まで当然に決まるわけじゃありません」
「……そんな」
その気持ちは分かります。
役所の間違いが見つかった。
普通なら。
じゃあこちらの勝ちだ。
そう思います。
でも法律は、その勢いを止める。
どこが間違っていたのか。
その間違いは、結論まで変えるものなのか。
冷たく切り分けます。
そして。
たぶん、この冷たさが必要なんです。
三好課長が腕を組みました。
「仮に却下判断に問題があったとしても、通路の使用不許可には安全管理上の理由があります」
「そこです」
私は言いました。
「そこを見てもらいたかったんです」
「何です?」
「今までそこまで行ってないでしょう」
三好課長が黙る。
「却下したから」
私は続けました。
「大庭さんの申立ての中身を審査していない」
「……」
「工事車両が本当に一日中通るのか」
「……」
「時間帯を限定して使用させる方法はないのか」
「……」
「柵を設置するとか、誘導員をつけるとか、他の方法は検討したのか」
相馬先輩が地図を指で叩きます。
「現地も見たが、朝の資材搬入以外はかなり空いてる」
三好課長が沢渡課長を見ました。
「市側では?」
「工事工程表上」
沢渡課長が資料をめくります。
「次の三週間、大型車両の進入は午前七時半から八時半に集中しています」
「それ以外は?」
「作業員の小型車両が数台ですね」
「なら」
相馬先輩が言います。
「朝だけ止めりゃいいんじゃねえのか」
三好課長の眉間に皺が寄ります。
「事故が起きた場合の責任があります」
「ゼロにしろとは言ってねえ」
「安全確保は必要です」
「だから」
私は割って入りました。
「一日全面禁止しか方法がないのか、そこを見てくださいって話です」
三好課長が私を見ます。
「不許可そのものも不当だ、と?」
「まだ断定してません」
「では」
「検討してほしいんです」
私は、大庭さんの店の写真を出しました。
表側。
すぐ県道。
歩道は狭い。
修理済みの自転車が三台。
「表から出すと、歩道を塞ぐことがあります」
「……」
「裏から出せれば安全です」
「……」
「行政が安全のために不許可にした結果、別の場所で危険が増えてるなら」
私は写真を指します。
「一回、ちゃんと比べるべきじゃないですか」
沢渡課長が眼鏡の奥で少し目を細めました。
「朝比奈さん」
「はい」
「今日は珍しく、感情論ではありませんね」
「いつもみたいに言わないでください」
「褒めています」
「その褒め方、損しますよ」
沢渡課長は三好課長の資料を覗き込みました。
「県の判断理由は、安全確保」
「そうです」
「しかし大庭さん側の通行方法について、時間制限などの代替措置は検討していない」
「申請は常時使用を前提としていましたので」
「なら」
沢渡課長が淡々と言いました。
「却下の問題を別としても、変更申請や条件付きの運用余地はありそうですね」
相馬先輩が小さく鼻を鳴らしました。
「役所側から言うと早いな」
「私は市役所です」
「同じ穴だろ」
「行政組織を一括りにしないでください」
「役所同士で縄張り意識出すなよ」
会議室がほんの少しだけ緩みました。
しかし。
大庭さんは笑っていません。
「先生」
片桐所長に向かって言いました。
「再審査をしたら、どうなるんです」
所長は少し考えてから答えました。
「原裁決の問題は争う」
「はい」
「ただ」
「はい」
「目的は、役所に一個負けを認めさせることじゃない」
大庭さんが黙ります。
「あなたが必要なのは」
所長が地図を見る。
「店を続けられる通路だ」
その一言で。
私の中でも何かが整理されました。
そうだ。
勝ち負けじゃない。
却下が違法でした。
県の裁決が間違っていました。
その一文を取りに行くだけなら、それでいい。
でも大庭さんが欲しいのは、
正しい裁決書じゃない。
明日も自転車を運べる道です。
その日の帰り。
私たちは大庭さんの店へ寄りました。
現場確認です。
「狭いですね」
「だから困っとるんですよ」
表側。
県道の車がびゅんびゅん通る。
歩道には学生。
買い物帰りのおばあさん。
修理した自転車を一台出すだけでも、確かに神経を使います。
裏側へ回る。
細い通路。
その先に工事用の柵。
でも午後四時現在。
工事車両はいません。
相馬先輩が腕時計を見ました。
「空いてるな」
「毎日こんなです」
大庭さんが言います。
「朝だけなんです。大きい車が来るのは」
「だったら」
私は言いました。
「朝だけ使わない約束なら?」
「それでいいです」
即答でした。
「八時半まで裏を使うなと言われたら?」
「守ります」
「工事車両が来たら優先する」
「当然です」
「許可期間も工事工程に合わせて短くする」
「それでもいい」
大庭さんは笑いました。
「一日全部塞がれるより、なんぼでもいい」
なるほど。
行政法の教科書には、
条件付きで折り合う。
という人間くさい文字は、あまり大きく書いてありません。
でも現場では。
白か黒かより、
朝だけ駄目。
工事車両優先。
三週間だけ。
みたいな答えのほうが、人を救うことがあります。
翌日。
片桐事務所。
私たちは再び書類を広げました。
「まず」
相馬先輩が言います。
「最初の裁決」
「却下」
「理由は期間徒過」
「でも、その計算がおかしい可能性がある」
「そうだ」
「だから再度争う」
「うん」
私はペンを走らせます。
でも。
そこで止まる。
「先輩」
「何だ」
「却下と棄却って、本当に全然違いますね」
「昨日から何回言ってんだ」
「いや、今分かりました」
却下。
そもそも適法な入口を通れていないとして、中身を見ない。
棄却。
入口は通る。
中身まで見る。
でも理由がないから認めない。
似た漢字二文字。
でも。
片方は玄関で帰される。
もう片方は応接室まで通されたうえで帰される。
帰される点だけ見れば同じ。
でも、全然違う。
「昨日の県の裁決は」
私は言いました。
「大庭さんを玄関で帰した」
「そうだ」
「その玄関の鍵がおかしかった」
「そうかもしれん」
「だからもう一回、中まで見ろと言う」
「そうだ」
ただし。
中まで見た結果。
元の不許可が妥当なら。
結局、大庭さんの請求が認められないこともある。
そこまで理解した瞬間。
少し悔しい。
でも。
筋は通っています。
「法律って」
私は呟きました。
「一個間違い見つけたくらいじゃ、全部ひっくり返してくれないんですね」
片桐所長が言いました。
「当たり前だ」
「夢がない」
「夢で処分を取り消すな」
「はい」
「間違ったところだけ直せ」
う。
短い。
でも核心です。
三日後。
県から連絡が入りました。
大庭さんの件。
先の却下裁決については、期間計算の前提となる事実関係に疑義があるとして、上級機関で再検討することになった。
そして。
それとは別に。
通路使用について、県と市の工事担当者、大庭さんとの三者協議が行われました。
結果。
午前七時から九時まで使用禁止。
工事車両が進入する場合は工事側を優先。
通路上に自転車を置きっぱなしにしない。
まず一か月。
その条件で、使用を認める方向で調整する。
「……通れるんですか」
電話口で大庭さんが言いました。
「はい」
「裏から?」
「条件付きですけど」
「朝だけ駄目?」
「はい」
しばらく沈黙。
そして。
『それで十分です』
あ。
この言葉。
前にも聞いたことがあります。
十分じゃないかもしれないのに。
困っている人は、
明日が少し楽になるだけで、
十分です、
と言うことがある。
電話を切る。
「再審査のほうは?」
相馬先輩が聞きました。
「まだです」
「そうか」
「でも通路は先に動きました」
「ならいい」
「いいんですか」
「大庭さんの目的は何だ」
昨日、所長に言われた言葉を思い出します。
「店を続けること」
「そういうことだ」
なるほど。
役所に、
お前たちは間違った。
と認めさせることが目的じゃない。
もちろん。
間違った却下は、間違った却下として正す必要がある。
でも。
救済は、紙の上だけじゃない。
現場が動くことも大事です。
一週間後。
大庭さんが事務所へ来ました。
両手に妙なものを持っています。
「これ」
「何ですか?」
「直したやつ」
「何を?」
机に置かれたのは。
古い自転車のベルでした。
ぴかぴかです。
「……ベル?」
「事務所の入口に付けたらどうです」
「付けませんよ」
「客が来たら鳴らす」
「電話あるでしょう」
大庭さんが笑います。
「じゃあ朝比奈さんに」
「私に?」
「自転車乗るでしょう」
「乗りますけど」
「これ、ええ音しますよ」
チリン。
鳴らす。
思ったより澄んだ音がしました。
「いいですね」
「でしょう」
相馬先輩が奥から出てきます。
「食い物じゃねえのか」
「またですか」
「差し入れって言ったら食い物だろ」
「今日は修理代も取ってませんから」
大庭さんが笑いました。
「今度、饅頭持ってきますわ」
「お願いします」
「先輩!」
「何だ」
「食への執着が行政の継続性より強い」
「意味分からん」
片桐所長がベルを手に取ります。
チリン。
一度だけ鳴らす。
「所長も鳴らすんですね」
「悪いか」
「いえ」
大庭さんは少し黙ってから言いました。
「先生」
「何です」
「最初はね」
「はい」
「県の裁決が間違っとるって分かったら、全部こっちの勝ちだと思っとったんです」
「普通そう思います」
私が言いました。
「でも違った」
「はい」
「間違っとるところと、まだ分からんところを分けるんですね」
私は頷きました。
「たぶん、それが一番大事です」
「面倒ですなあ」
「すごく面倒です」
即答すると、相馬先輩に頭を小突かれました。
「専門家が言うな」
「だって面倒なのは本当でしょう」
「それを仕事にしてんだよ」
「はい」
大庭さんがまた笑いました。
そして帰り際。
「朝九時までは裏を使えんけど」
「はい」
「九時になったら、柵の向こうから自転車出せるんですよ」
「はい」
「それだけで、ずいぶん違う」
扉が閉まります。
チリン。
机の上のベルが、振動でかすかに鳴りました。
夕方。
市役所の沢渡課長から電話がありました。
『朝比奈さん』
「はい」
『大庭さんの件ですが』
「はい」
『県の上級機関で、先の却下裁決の扱いを正式に見直すそうです』
「やっぱりですか」
『期間計算について、処分を知った時期の認定に問題があった可能性が高いとのことです』
「じゃあ、原裁決は」
『そこは正式な手続を待ってください』
「堅いなあ」
『役人ですので』
「知ってます」
少し間。
『ただし』
「はい」
『朝比奈さん』
「何でしょう」
『最初の裁決がおかしいからといって、元の処分まで当然におかしいわけではありません』
「……それ」
『何です?』
「昨日、所長にも言われました」
『そうですか』
「耳が痛いです」
『良い先生ですね』
「課長が言うと何か腹立つな」
『聞こえています』
「しまった」
沢渡課長の声が、ほんの少しだけ笑った気がしました。
『逆もあります』
「逆?」
『手続は正しくても、中身がおかしいこともある』
「あ」
『だから分けて見るんです』
却下。
棄却。
原裁決。
原処分。
手続。
中身。
一見すると、全部ひとつの「役所に負けた」に見える。
でも。
違う。
入口で止められたのか。
中身まで見てもらって負けたのか。
最初の裁決が間違っているのか。
元の処分そのものが間違っているのか。
そこを分ける。
分ければ。
次に何を争うべきかが見える。
「沢渡課長」
『はい』
「法律って、不親切ですね」
『急に何です』
「役所が一個間違えたら、全部住民勝ちにしてくれれば分かりやすいのに」
『それでは行政も困ります』
「ですよね」
『それに』
「はい」
『朝比奈さんも困るでしょう』
「私が?」
『逆の立場の人が出てきたら』
私は黙りました。
そうか。
一個の手続ミスだけで、正しい処分まで全部消える。
それが常に正義とは限らない。
安全のために本当に必要な処分なら。
他の住民の利益がかかっているなら。
そこは残さなければならないこともある。
間違ったところだけ直す。
正しいところは残す。
冷たい。
でも。
その冷たさが、公平なのかもしれません。
『では』
「はい」
『また面倒な申立てを持ってこないでください』
「それ、振りですか」
『違います』
「次はもっと面倒なの持っていきます」
『やめてください』
電話が切れました。
相馬先輩が聞きます。
「何だって?」
「面倒なの持ってくるなって」
「じゃあ明日持ってくか」
「先輩も振りだと思ってるじゃないですか」
奥で片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今日の教訓は」
来ました。
突然の口頭試問。
私は少し考えます。
「役所の間違いを見つけても、浮かれて全部勝ちだと思わない」
「長い」
「じゃあ」
もう一度。
「却下の間違いと、処分の間違いは別」
「うん」
「そして」
私は机の上のベルを指で鳴らしました。
チリン。
「入口が間違ってたら入口を直す。中身が正しいなら、中身まで壊さない」
所長が頷きました。
「それでいい」
相馬先輩がベルを取ります。
「これ、事務所の入口に付けるか」
「本当に付けるんですか」
「客来たら鳴るだろ」
「昭和六十三年にもドアベルくらいありますよ」
「金かかる」
「そこ節約するんですか」
相馬先輩がベルを鳴らします。
チリン。
「朝比奈」
「はい」
「却下」
「何がです?」
「ドアベル購入申請」
「申請してません!」
「じゃあ棄却」
「だから何の請求ですか!」
片桐所長が静かに言いました。
「二人とも却下だ」
「所長、それ人間に使う言葉じゃないです!」
大庭さんのベルが、また一度鳴りました。
入口で返されるのか。
中まで見てもらって、それでも退けられるのか。
同じ「駄目」でも、意味は違う。
そして。
最初の判断が間違っていたとしても、
元の処分まで間違っているとは限らない。
法律は、一気に全部を味方にはしてくれません。
その代わり。
どこがおかしくて、
どこまでは正しいのか。
一つずつ切り分けてくれる。
今日、大庭さんに返ってきたのは、
全面勝訴でも、
役所の全面降伏でもありません。
朝九時を過ぎれば、自転車を一台ずつ裏から出せる。
たった、それだけ。
でも。
店を畳むしかないと思っていた人にとって。
一本の細い通路は、
立派な救済でした。
条文は冷たい。
却下も棄却も、響きは冷たい。
けれど。
冷たいからこそ、
怒った勢いで全部をひっくり返さず、
間違ったところだけを直せる。
そして時々。
その冷たい整理の先に、
自転車一台が通れるくらいの道が残るのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




