[行政不服審査法63条・裁決書の送付]現場編 「県でもう一度審査しましたから」の罠。二度目の不服申立てを“白紙のやり直し”にしない、前の裁決を引きずり出す一通の要求
一度負けた理由を知らないまま、もう一度戦えと言われても困ります。
何を主張したのか。
何を退けられたのか。
役所は何を根拠に「駄目」と言ったのか。
そこが見えなければ、二度目の審査はただの仕切り直しです。
――そして法律は、ときどき。
「前の答案、ちゃんと持ってきてください」
というところまで決めています。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の朝。
私は机の上に置かれた分厚い封筒を見ながら、嫌な予感を覚えていました。
「先輩」
「何だ」
「これ、厚くないですか」
「見りゃ分かる」
「役所の封筒って、厚いだけで圧がありますよね」
「お前は紙にまでびびるのか」
「だって薄い通知なら一回傷つくだけですけど、厚いと何ページにもわたって傷つけに来るじゃないですか」
「被害妄想だ」
相馬先輩が煙草に火をつけました。
私は封筒の表を見ます。
県庁。
行政管理課。
中に入っていたのは、裁決書。
その一番上には大きく、
――主文。
審査請求を棄却する。
とありました。
「棄却……」
口に出すと、向かいに座っていた男性の肩がわずかに落ちました。
名前は、浜田正吉さん。
五十八歳。
駅から少し離れた湖畔で、小さな貸し舟屋を営んでいます。
手漕ぎ舟が十二艘。
古い木造の受付小屋。
夏は釣り客。
春と秋は観光客。
冬場は、ほぼ開店休業。
大儲けする商売ではありません。
けれど、浜田さんにとっては父親の代から続く仕事でした。
「これで……終わりなんでしょうか」
浜田さんが言いました。
声が小さい。
怒っているというより、疲れている。
その感じがいちばんつらい。
「最初から確認していいですか」
「はい」
「市から処分を受けたのが」
「六月です」
「理由は?」
「湖畔整備の計画に支障があると」
浜田さんの貸し舟屋は、市が管理する湖岸施設の一部を使用していました。
毎年、必要な許可を更新してきた。
ところが今年。
市は更新を認めなかった。
理由は、
湖畔観光整備事業の実施に伴い、当該場所の継続使用を認めることが適当でない。
というもの。
また出ました。
行政文書が大好きな言葉。
適当でない。
何が。
どのくらい。
なぜ。
そこはふわっとさせたまま、結論だけ硬い。
豆腐の上に鉄板を載せたみたいな文章です。
「それで審査請求をした」
「はい」
今回の処分については、個別法の特則と権限関係から、県の行政庁に審査請求する仕組みになっていました。
片桐事務所は、その審査請求を手伝った。
私はそのとき別件で走り回っていたため、中心になったのは相馬先輩です。
「主張したのは」
私が聞くと、相馬先輩が答えました。
「主に三つだ」
「はい」
「一つ。整備工事の実施区域と浜田さんの小屋が重なってるのか」
「はい」
「二つ。撤去が今必要なのか」
「はい」
「三つ。同じ湖岸にある別の売店やボート置場が継続使用を認められてる理由は何か」
なるほど。
最近うちの事務所。
行政に向かって、
――なぜこの人だけ?
と聞く案件が増えています。
駅前整備。
湖畔整備。
観光振興。
都市開発。
市役所の書類の中では、全部きれいな言葉です。
でも現場では、そのきれいな言葉の端っこに、
小さな店。
古い小屋。
生活。
そういうものが引っかかっている。
「写真も出しましたよね?」
「ああ」
相馬先輩が机の端に置かれたファイルを叩きます。
「工事予定区域を示す図面もな」
「結果が、この裁決書」
「そうだ」
私はページをめくりました。
理由。
処分庁には施設管理上の裁量が認められる。
湖畔観光整備事業には公共上の必要性がある。
浜田さんの施設について継続使用を認めない判断に、裁量権の逸脱又は濫用があるとは認められない。
よって審査請求は棄却。
「……先輩」
「何だ」
「写真の話、どこです?」
「探してみろ」
めくる。
ない。
「図面は?」
「探せ」
ない。
「ほかの売店との比較は?」
「まだ探すか?」
「ないですね」
「そういうことだ」
私は裁決書を机へ戻しました。
全部の主張に一言ずつ答えなければ裁決が直ちに無効、などと単純な話ではありません。
そこは慎重に見なければならない。
でも。
審査請求でこちらが何を問題にしたか。
それに対して行政庁がどう考えたのか。
裁決書からほとんど見えない。
「県庁に聞いたんです」
浜田さんが言いました。
「何をです?」
「図面をちゃんと見てくれたんですかって」
「返事は?」
「総合的に判断しました、と」
便利。
総合的。
行政文書界の全部入り定食です。
何を入れても「総合的」で蓋ができる。
「それで」
浜田さんが続けます。
「市役所にも行ったんです。そうしたら……」
言いにくそうに口を止める。
「何て?」
「県でもう一度審査したんだから、市としてはもう何も言うことはありませんって」
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。
「誰だ」
「え?」
「市役所で言った奴」
「総務課の……」
私は察しました。
「まさか」
「沢渡さんという方でした」
出た。
壁。
しかも顔なじみの壁。
「よし」
相馬先輩が立ち上がりました。
「行くぞ」
「どこへです?」
「壁見に」
「市役所って言ってください」
市役所二階。
総務課。
午前十時二十分。
沢渡課長は今日も見事なくらい沢渡課長でした。
灰色の背広。
細い眼鏡。
机の上には書類の山。
そして、
住民がどれだけ感情的になっても一ミリも削れなさそうな表情。
「またですか」
私たちを見るなり、沢渡課長が言いました。
「その言い方、歓迎されてないのがすごく伝わりますね」
「歓迎する理由がありますか」
「ないですね」
「では」
合理的。
今日も元気です。
相馬先輩が浜田さんの裁決書を机へ置きました。
「浜田正吉さん」
「ああ」
「覚えてるな」
「もちろんです」
「県の裁決、出た」
「存じています」
「棄却だ」
「そうですね」
「それで終わりか?」
沢渡課長は私たちを順番に見ました。
「市としては、処分について必要な説明はしています」
「聞いてねえ」
相馬先輩が言います。
「手続として終わりかって聞いてる」
一瞬。
沢渡課長の目が細くなりました。
「……個別法の規定をご覧になったんでしょう」
あ。
空気が変わった。
「やっぱりあるんですね」
私が言います。
「何がです?」
「その先」
沢渡課長は答えません。
代わりに、
「朝比奈さん。行政法は宝探しではありませんよ」
「最近そう思えなくなってきました」
まず処分通知。
裏を見る。
教示を見る。
個別法を見る。
上級行政庁を見る。
特則を見る。
旧法を見る。
そして最後に期限で爆発する。
かなり宝探しです。
ただし宝箱の中身がだいたい手続。
「この案件」
片桐所長が言いました。
「再審査請求ができる」
浜田さんが顔を上げます。
沢渡課長は黙ったままです。
「再……審査?」
浜田さんが聞きました。
「はい」
私は答えました。
「一度目が審査請求。その裁決について、さらに再審査を求められる場合があります」
「もう一回?」
「そうです」
「役所って何回あるんですか」
その感想。
すごく正しいと思います。
「ただし」
片桐所長が言いました。
「何でも再審査請求できるわけではない」
そこです。
再審査請求は、当然に誰でも使える二回戦ではありません。
使える場合が限られている。
今回の案件では、個別法上の特則と権限関係によって、その道が残っている。
だから。
県の裁決で終わりではない。
「課長」
私は言いました。
「浜田さんに『県でもう一度審査したから終わり』って言いました?」
「市としては、という意味です」
「うわ」
「何です」
「言葉の防波堤が高い」
「正確に申し上げています」
「確かに市の内部でやり直す話ではない。でも浜田さんから見たら、救済手続そのものが終わったみたいに聞こえます」
「再審査請求については、県の裁決書に教示があります」
私は裁決書の最後を見ました。
ありました。
小さい字で。
再審査請求についての記載。
「……本当だ」
「朝比奈」
相馬先輩が言います。
「先に読め」
「はい」
ぐう。
もっともです。
行政法で裏面と末尾を読まない者に明日はない。
私はもう一度教示欄を読みました。
そして。
止まりました。
「先輩」
「今度は何だ」
「期限」
「言ってみろ」
私は反射的に答えかけました。
「六十――」
止まる。
危ない。
ものすごく危ない。
頭の中で現代と昭和が衝突事故を起こしかけました。
まず現代の私は、
三か月。
という数字を持っています。
でも今は昭和六十三年。
通常の審査請求や異議申立てなら、旧法の六十日という知識が出てくる。
しかし。
今やろうとしているのは。
再審査請求。
私は裁決書の教示を見直しました。
「……三十日」
相馬先輩が頷く。
「そうだ」
「うわあ」
「何だ」
「行政法が数字で殺しに来てます」
「殺される前に確認しろ」
旧行政不服審査法。
再審査請求期間。
原則として、審査請求についての裁決があったことを知った日の翌日から起算して三十日。
六十日じゃない。
三か月でもない。
三十日。
転生者泣かせにもほどがあります。
「裁決書を受け取ったのは?」
相馬先輩が浜田さんに聞きます。
「六日前です」
「間に合う」
その一言で。
浜田さんの顔から、ほんの少しだけ力が抜けました。
期限。
行政法では無機質な数字です。
でも現場では、
まだ間に合う。
という言葉に変わる。
それだけで、人の顔が変わることがあります。
「再審査請求をするなら」
沢渡課長が言いました。
「市ではありません」
「分かってます」
「再審査庁に出すことになります」
「はい」
「そして」
沢渡課長が裁決書を指で軽く叩きました。
「もう市の説明だけを相手にする段階ではない」
私はその言葉に引っかかりました。
「どういう意味です?」
「再審査する側が見るのは、原処分だけではありません」
沢渡課長が言います。
「その後、審査請求についてどう裁決されたのかも見る」
あ。
頭の中で何かがつながりました。
審査請求。
裁決。
さらに再審査請求。
なら。
二回目の行政庁は、
一回目の審査庁が何を判断したのか。
そこを知らなければならない。
「裁決書」
私は呟きました。
「そういうことか」
現代の行政不服審査法。
第六十三条。
再審査請求の場面で、再審査庁側が原裁決をした行政庁に対し、原裁決に係る裁決書の送付を求める。
私の頭に、その条文がふっと浮かびました。
「なるほど。じゃあ六十三条で――」
「何の話だ」
相馬先輩。
「行政不服審査法六十三条です」
「違う」
「え?」
「今の条文を見ろ」
私は固まりました。
あ。
またやった。
未来法。
「朝比奈さん」
沢渡課長が妙に楽しそうです。
「今日は平成の法律でも持ってきたんですか」
「持ってません!」
「では何条です?」
「ちょっと待ってください」
頭の中の法改正年表をひっくり返す。
昭和六十三年。
旧法。
再審査請求。
裁決書。
確か――。
片桐所長が短く言いました。
「五十四条」
「そう!」
思わず声が大きくなりました。
「旧法五十四条!」
「役所で喜ぶな」
「すみません」
旧行政不服審査法第五十四条。
裁決書の送付要求。
再審査庁は、再審査請求を受理したときは、
審査庁に対し、
審査請求についての裁決書の送付を求めることができる。
そこまで頭の中で復元したところで。
私はもう一度止まりました。
「……あれ?」
「今度は何だ」
「言い方が違う」
未来の知識では、
送付を求めるものとする。
だったはず。
つまり、現行法では制度上、裁決書の送付を求める構造になっている。
でも昭和六十三年。
旧法五十四条は。
「求めることができる」
私は言いました。
片桐所長が頷きます。
「そうだ」
「義務じゃない?」
「少なくとも条文の文言は違う」
「うわあ……」
またです。
名前は似ている。
目的も似ている。
でも細部が違う。
行政不服審査法。
未来人に優しさがありません。
「何を一人で感心してる」
相馬先輩が言いました。
「制度改正って、細かいところでも変わってるんだなって」
「今は昭和だ」
「はい」
「平成の行政庁を召喚するな」
「召喚できたら便利なんですけどね」
「帰れなくなるぞ」
もう十分帰れてません。
それより。
大事なのは、今使える仕組みです。
再審査請求を受ける行政庁が、
一回目の審査庁に、
裁決書を送ってくれ。
と求めることができる。
なぜか。
答えは単純です。
何を審査したのか知るため。
何を認定したのか。
どの主張を退けたのか。
どんな理由で棄却したのか。
それを見ずに二回目を審査したら、
同じ説明を最初から繰り返すだけになる。
「浜田さん」
私は言いました。
「再審査請求では、この裁決そのものも問題になります」
「これが?」
「はい」
「市役所が出した不許可だけじゃなくて?」
「そこも見ます。でも一回目の審査で、県がどう判断したのかも見てもらう」
浜田さんが裁決書を見ます。
「じゃあ」
「はい」
「私が出した写真や図面のことを、県が本当に見たのかも?」
「少なくとも、こちらはそこを問題として出せます」
断言はしない。
再審査請求したから勝てるわけではない。
裁決書が送られたから処分がひっくり返るわけでもない。
でも。
何を審査すべきかは、前よりはっきりする。
そこが大きい。
事務所へ戻るなり。
相馬先輩が机に三つの山を作りました。
「浜田さん。これ、分けます」
「何ですか?」
「一つ目」
左。
「最初の処分関係」
市からの不許可通知。
申請書。
湖畔整備計画。
位置図。
「二つ目」
中央。
「審査請求で出したもの」
写真。
測量図。
意見書。
近隣施設の状況。
「三つ目」
右。
「裁決」
県の裁決書。
私は三つの山を眺めました。
すごい。
さっきまで分厚い紙の束だったものが、
それだけで少し意味を持ち始める。
「こはる」
「はい」
「再審査請求で何を見る」
私は答えます。
「原処分だけじゃない」
「うん」
「審査請求で何を主張したか」
「うん」
「それを原裁決がどう扱ったか」
「それから?」
「再審査庁が、その判断を踏まえてもう一度見る」
「そうだ」
なるほど。
裁決書の送付って。
郵便の話じゃない。
情報をつなぐ話なんだ。
前の審査をなかったことにせず、
二回目の審査へ持っていく。
だから裁決書が必要になる。
「所長」
私は言いました。
「申立書、どう組みます?」
「三段だ」
「三段?」
「原処分」
「はい」
「原裁決」
「はい」
「再審査で見直してほしい点」
「なるほど」
片桐所長はそれ以上言いません。
短い。
でも分かりやすい。
私は紙を一枚出しました。
まず。
市の更新不許可。
なぜ浜田さんの貸し舟屋だけ、継続使用を認めなかったのか。
次。
県の裁決。
こちらが示した工事区域図と写真について、どのように評価したのかが裁決理由から判然としない。
近接施設との取扱いの差についても、具体的な判断が見えない。
そして。
再審査。
原処分と原裁決の双方を踏まえ、
本当に継続使用を拒む必要があるのか。
県の裁決が、こちらの主張と資料を十分に踏まえたものだったのか。
そこをもう一度見てもらう。
「朝比奈」
「はい」
「怒りを書くな」
「書いてません」
「『総合的に判断しただけでは分からない』は?」
「書きたいです」
「言い換えろ」
「はい」
相馬先輩。
私の文章から感情を抜く作業だけは異様に速い。
「『提出した位置図及び現況写真について、裁決理由上、どのような評価がされたか明らかでない』」
「それでいい」
うう。
悔しいけど格好いい。
「『他の湖岸施設との取扱いの差異についても、具体的な合理性が示されていない』」
「そこも入れろ」
「はい」
浜田さんは黙って私たちのやり取りを見ていました。
しばらくして。
「変な話ですね」
と言いました。
「何がです?」
「最初は腹が立ってたんですよ」
「はい」
「何十年もやってきたのに。なんで俺だけだって」
「当然だと思います」
「でもこうして紙を分けていくと」
浜田さんが三つの山を見る。
「腹が立ってるって話じゃなくなるんですね」
私は少しだけ手を止めました。
「はい」
「ここを見てないじゃないか、とか」
「はい」
「この人と扱いが違うじゃないか、とか」
「そうです」
「役所に言うことが、ちゃんと形になる」
それ。
この仕事のいちばん好きな瞬間かもしれません。
怒っている。
悔しい。
納得できない。
そのままでは、役所の分厚い机に弾かれる。
でも。
事実に分ける。
手続に分ける。
判断に分ける。
すると。
ただの不満だったものが、
審査すべき問題に変わる。
法律は冷たい。
でも冷たいからこそ、
怒りの温度に左右されず、
残るものがあります。
三日後。
再審査請求書を提出しました。
再審査庁の受付担当者は、書面を一枚ずつ確認しました。
「原裁決の写しはありますね」
「はい」
私が答えます。
「こちらでも必要な手続を取ります」
「原裁決をした行政庁から、裁決書を?」
つい聞いてしまいました。
担当者が顔を上げます。
「必要に応じて求めます」
ですよね。
昭和六十三年。
旧法五十四条。
求めることができる。
未来の六十三条と混ぜない。
よし。
今日は事故ってません。
「朝比奈」
相馬先輩が小声で言いました。
「嬉しそうな顔するな」
「してました?」
「してる」
「制度がつながると嬉しいんです」
「変な趣味だな」
行政書士受験生という生き物は、
条文と現場が一致すると、ちょっと嬉しいのです。
たぶん。
数日後。
事務所の電話が鳴りました。
相馬先輩が取ります。
「片桐行政書士事務所です。……はい。……浜田正吉さんの件」
私は顔を上げました。
相馬先輩がメモを取ります。
「はい。……分かりました」
電話を切る。
「どうでした?」
「再審査庁から」
「はい」
「県に裁決書の送付要求を出した」
私は思わず、
「おお」
と言ってしまいました。
「それだけだぞ」
「分かってます」
「勝ったわけじゃない」
「分かってますって」
「処分が止まったわけでもない」
「分かってます!」
「なら座れ」
立ってました。
いつの間に。
でも。
小さい。
本当に小さい前進です。
ただ書類が一枚、別の役所へ送られるだけ。
それだけ。
なのに。
昨日まで浜田さんは、
県が棄却した。
だから終わり。
と思っていた。
今は違う。
その裁決自体が、
次の行政庁の机に載る。
前の役所がどう判断したか。
理由は何だったか。
そこから見直される。
裁決書の送付。
地味です。
ものすごく地味です。
行政法の教科書で見たら、
「はいはい、書類送るんですね」
で終わりそうです。
でも。
現場では。
前の審査を闇の中へ置き去りにしない。
という意味になる。
さらに数日後。
県から送られた裁決書関係の確認を踏まえ、再審査庁から照会が入りました。
浜田さんの提出した湖岸工事区域図について、
原審査でどのように確認されたのか。
近接する別施設との取扱いについて、
どのような事情の差があるのか。
市にも追加説明を求める。
そういう内容でした。
「来ましたね」
私は言いました。
「ああ」
相馬先輩が資料を揃えます。
「今度は『総合的に判断しました』だけじゃ足りねえ」
翌日。
市役所。
沢渡課長の机には、照会文書が置かれていました。
「こんにちは」
私が言う。
「今日はずいぶん嬉しそうですね」
「気のせいです」
「そうですか」
「追加説明、来ましたね」
「来ました」
「写真も」
「確認します」
「図面も」
「確認します」
「ほかの施設との比較も」
「確認します」
私は思わずにやけそうになりました。
沢渡課長が眼鏡越しに見てきます。
「何です?」
「いえ」
「勝ったと思っているなら早いですよ」
「思ってません」
「再審査庁が照会しただけです」
「はい」
「処分が違法又は不当と決まったわけではない」
「分かってます」
「では、なぜそんな顔を」
私は答えました。
「前は、もう県で審査済みだからって終わってたでしょう」
「市としては、です」
「はいはい」
「正確にお願いします」
「でも今は」
机の照会文書を指します。
「その県が何を判断したのかも含めて、もう一回机に戻ってる」
沢渡課長は少しだけ黙りました。
「そうですね」
「前の裁決書があるから」
「それだけではありません」
「分かってます」
「再審査請求書も、関係資料も見る」
「はい」
「ただ」
沢渡課長が裁決書を手に取りました。
「前の審査がどういう結論と理由だったのか。それを確認しない再審査は、効率が悪い」
「課長らしい言い方」
「合理性は重要です」
「人を救うって言ってくださいよ」
「結果として救われることはあるでしょう」
「絶対そっちから言わないですよね」
「私の担当は総務です」
筋金入りです。
でも。
嫌いではありません。
「朝比奈さん」
「はい」
「一つだけ」
「何でしょう」
「浜田さんの工事区域図」
「はい」
「市の観光整備課が県へ送った資料の中に、古い版が混じっていた可能性があります」
私は止まりました。
「……古い版?」
「最新の整備計画図では、第一期の工事区域が変更されています」
「浜田さんの小屋は?」
「境界外です」
部屋が静かになりました。
相馬先輩の声が低くなります。
「いつ変わった」
「処分の約一か月前です」
「市は知ってたのか」
「観光整備課には通知されています」
「県へ送ったのは?」
「変更前の図面だった可能性があります」
「可能性じゃなく調べろ」
「調べています」
沢渡課長は動じません。
ただ。
いつもより返事が少しだけ速かった。
片桐所長が聞きます。
「原処分時に、最新図面を前提に判断した記録は」
「現時点では確認できていません」
「なら」
所長は短く言いました。
「そこからだ」
「はい」
沢渡課長も、それだけ答えました。
帰り道。
浜田さんに事情を説明しました。
「じゃあ」
浜田さんが言います。
「県は古い地図を見てたかもしれないんですか」
「まだ断定できません」
「市も?」
「そこも確認中です」
「ひどいなあ」
小さな声でした。
怒鳴りません。
ただ、湖の方を見ます。
「たった地図一枚で」
私は何も言えませんでした。
本当に。
たった一枚です。
でも行政処分というのは、
そういう「たった一枚」の上に乗っていることがある。
位置図。
申請書。
写真。
裁決書。
ひとつ古ければ、
人の仕事が消えることもある。
「でも」
浜田さんが言いました。
「今度は、その地図のことまで聞いてくれてるんですよね」
「はい」
「前は聞いてくれなかった」
「少なくとも裁決書からは、どう判断したか分かりませんでした」
「じゃあ」
浜田さんが少し笑いました。
「もう一回やった意味はあったんですね」
「まだ結果は出てませんよ」
「分かってます」
今度は浜田さんの方が言いました。
「でも、前よりは何を見てもらってるか分かる」
その言葉が。
妙に残りました。
二週間後。
市から連絡が入りました。
最新の整備計画図を前提に、浜田さんの使用場所について再確認する。
再審査手続中であることも踏まえ、
少なくとも直ちに施設撤去を求める扱いは保留する。
まだ処分取消しではありません。
再審査の裁決も出ていません。
完全勝利には遠い。
でも。
浜田さんの小屋が、
明日いきなりなくなることは避けられた。
事務所へ結果を伝えに来た浜田さんは、大きな紙袋を持っていました。
「これ、どうぞ」
「何です?」
「饅頭です」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「饅頭?」
「湖畔の売店で売ってる栗饅頭」
「いただきます」
「先輩、反応早すぎません?」
「花より食い物だ」
「前にも聞いた気がします、その思想」
浜田さんが笑います。
「貸し舟屋なのに饅頭売ってるんですか?」
私が聞くと、
「隣の売店のですよ」
「隣?」
「使用許可が続いてる方」
「あ」
「昔から仲悪くないんです」
浜田さんは肩をすくめました。
「役所が違う扱いしたからって、こっちまで喧嘩することないでしょう」
私はちょっと恥ずかしくなりました。
比較対象。
他の施設。
合理的な差異。
書類の中ではそう書く。
でも現場では。
隣のおじさんです。
栗饅頭を仕入れてくれる知り合いです。
行政法って、
ときどき人間関係を単語にしすぎる。
「朝比奈さん」
浜田さんが言いました。
「はい」
「最初、裁決書が来たときはね」
「はい」
「負けた紙だと思ったんです」
机の上に、県の裁決書があります。
「でも今見ると」
浜田さんがそれを指します。
「次に持っていく紙でもあるんですね」
私は少し考えました。
「そうですね」
棄却。
その文字は消えません。
一度目の審査で負けた。
それも事実です。
でも。
再審査請求が認められている場合。
裁決書は、
終わりを告げる紙であると同時に。
次の行政庁が、
前の行政庁は何を考えたのか。
と確認するための紙にもなる。
一度目の判断を、
二度目の机へ運ぶ。
それが、
裁決書の送付要求という地味な条文の仕事です。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「今日のところをまとめろ」
「はい」
私は少し考えました。
「再審査は、一回目を忘れて最初からやる手続じゃない」
「うん」
「前の裁決をちゃんと引き継いで、その判断も含めてもう一度見る」
「そうだ」
「だから裁決書を送らせる仕組みがある」
所長が頷きました。
「それでいい」
相馬先輩が栗饅頭の包みを開けながら言います。
「お前、今日は珍しく短いな」
「所長に鍛えられてますから」
「まだ長い」
「厳しい!」
浜田さんが笑いました。
私も笑いました。
窓の外では、午後の光が少し傾いています。
駅前では再整備。
湖畔では観光整備。
町は少しずつ変わっていく。
たぶん。
役所は町を悪くしようとして計画を作っているわけではありません。
観光客を増やしたい。
安全にしたい。
きれいにしたい。
それ自体は間違っていない。
けれど。
大きな計画の図面には、
小さな貸し舟屋の暮らしまで細かく描かれてはいない。
だから。
処分が出る。
不服を申し立てる。
裁決が出る。
それでもなおおかしいなら、
法律が許す範囲で、さらに見直しを求める。
そしてそのとき。
前の判断をなかったことにはしない。
裁決書を持ってこさせる。
何を考えた。
何を見た。
なぜ退けた。
そこから始める。
法律の言葉は冷たい。
裁決書。
送付要求。
再審査庁。
原裁決。
どれも、人の暮らしからは遠く見えます。
でも。
冷たい制度だからこそ、
「もう一回お願いします」
だけでは終わらない。
前に何を判断したのか。
そこまで紙にして、次へ渡させる。
感情ではなく、
記録でつなぐ。
その冷たさが。
浜田さんの小屋に、もう少しだけ時間を残しました。
「朝比奈」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「食わないならもらうぞ」
「何をです?」
「栗饅頭」
「食べます!」
「もう二個食っただろ」
「先輩は三個目です!」
「証拠は?」
「包み紙!」
私は机の上を指しました。
三枚。
「物証があります」
「総合的に判断した結果、俺のものとは断定できない」
「出た!」
「何がだ」
「便利な言葉で逃げないでください!」
片桐所長が新聞から目も上げずに言いました。
「こはる」
「はい」
「再審査請求するか」
「栗饅頭についてですか?」
「相馬に」
「します」
「再審査庁は?」
私は少し考えました。
そして。
「所長」
「裁決は棄却」
「まだ申立ててません!」
「迅速だ」
「速ければいいってもんじゃないです!」
相馬先輩が笑います。
「じゃあ裁決書もらっとけ」
「何でです?」
「次に争うんだろ」
「どこまで持っていく気ですか!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
どうやらここでは。
一個の栗饅頭をめぐる争いですら、
原裁決を確認しないと終わらないようです。
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