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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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237/316

[行政不服審査法62条・再審査請求期間]現場編 「一度争ったんだから、もう急がなくていい」の罠。棄却裁決の次に走り出す三十日と、二度目の救済を閉ざす期限の壁

挿絵(By みてみん)

 負けたあとほど、人は少し休みたくなります。


 考えた。


 書類も出した。


 役所にも何度も通った。


 それでも駄目だった。


 だったら、せめて二、三日くらい。


 ――ところが法律というものは、人が落ち込んでいる間にも、平然と時計を進めます。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の午後、私は机の上に置かれた封筒を見ていました。


「先輩」


「何だ」


「これ、開けてもいいんですか」


「俺に聞くな。本人に聞け」


「ですよね」


 向かいの椅子に座っていた女性が、慌てて頷きました。


「お願いします」


 名前は、松井美津枝さん。


 五十四歳。


 駅前から少し離れた商店街で、小さな惣菜店を営んでいます。


 店の名前は「まつい屋」。


 コロッケ。


 煮豆。


 卵焼き。


 夕方になると、仕事帰りの人が寄っていく。


 そんな店でした。


 ただし。


 今日の相談はコロッケではありません。


 封筒の差出人は県庁。


 中から出てきたのは、


 ――審査請求に対する裁決書。


 でした。


「……棄却」


 私は小さく読みました。


 嫌な二文字です。


 見るだけで胃に悪い。


「はい」


 松井さんが俯きました。


「やっぱり駄目だったみたいで」


 発端は三か月ほど前。


 駅前再整備区域の周辺で、仮設販売施設の整理が始まりました。


 松井さんは本店とは別に、駅西口近くの古い共同売店へ惣菜を卸していました。


 朝に商品を運び、


 夕方に売れ残りを回収する。


 売店自体は複数の商店が共同で使っている。


 ところが再整備に伴う衛生管理の見直しで、


 松井さんだけが、


 一定期間、共同売店への食品搬入を停止する処分を受けた。


 理由は、


 ――施設外調理食品の衛生管理上必要があるため。


 だったそうです。


「でも」


 松井さんは言いました。


「同じ店で、お寿司を持ってきてるところは続けてるんです」


「同じ共同売店?」


「はい」


「お弁当屋さんは?」


「そこも普通に」


「松井さんだけ止められた?」


「そうなんです」


 しかも。


 市の担当窓口に聞けば、


 県の基準です。


 県に聞けば、


 保健所の判断です。


 保健所に聞けば、


 個別の衛生状況です。


 行政機関名だけが見事な三角形を描いています。


 責任のバミューダトライアングルです。


 松井さんは最初の処分に対して審査請求をしました。


 ところが。


 その結果が今日届いた。


 棄却。


「審査請求は、誰かに頼んだんですか」


「商店会の人に教えてもらって、自分で」


「理由には何を書きました?」


「うちだけ止めるのはおかしいって」


「なるほど」


「三十年、食中毒なんて一度も出してませんって」


「それも?」


「書きました」


「ほかには?」


「……それくらいです」


 相馬先輩が裁決書を取ります。


「処分の理由に対する反論は」


「え?」


「具体的に、どこが事実と違うかだ」


「そこまでは……」


「他の店との違いは」


「書かなかったです」


「衛生検査の記録は」


「もらってません」


 相馬先輩が私を見ました。


「朝比奈」


「はい」


「何が足りねえ」


「情報です」


「珍しく早いな」


「珍しくは余計です」


 でも。


 確かにそうでした。


 松井さんの言っていることが正しいかどうか。


 まだ分かりません。


 行政側に、本当に松井さんだけ止める理由があるのかもしれない。


 調理方法。


 保存温度。


 搬送容器。


 販売時間。


 食品の種類。


 違いはいくらでも考えられる。


 だから今は、


 かわいそう。


 長年やってきた。


 ほかもやっている。


 だけでは足りない。


「裁決書、最後まで見ろ」


 相馬先輩が言いました。


「最後?」


 私はページをめくりました。


 そこで。


 妙な一文に目が止まります。


 この裁決については、所定の要件の下で、さらに再審査請求をすることができる旨の記載。


「再審査請求……」


 声に出した瞬間。


 頭の中で現代の行政書士試験テキストが、ぱっと開きました。


 再審査請求。


 原裁決。


 知った日の翌日。


 一か月。


 さらに――


「一か月……」


 私が呟くと、


「何言ってんだ」


 相馬先輩が言いました。


「え?」


「三十日だろ」


「……あ」


 来ました。


 またです。


 未来人殺し。


 法改正という名の落とし穴。


 現代の私は知っています。


 現在の行政不服審査法なら、再審査請求について、


 原裁決があったことを知った日の翌日から一か月。


 そしてもう一つ、原裁決があった日の翌日から一年という期限も意識する。


 でも。


 今は昭和六十三年。


 目の前で使う法律は旧法。


 再審査請求期間は三十日。


 一か月と三十日。


 似ています。


 似ているから危険です。


 三十日しかない月なら仲良くできます。


 三十一日ある月になった瞬間、友情が壊れます。


「どうした」


 片桐所長が奥から出てきました。


「いえ。未来と現在が一日分だけ喧嘩しました」


「意味が分からん」


「私には分かります」


「なら仕事しろ」


「はい」


 所長は容赦がない。


「届いたのは今日ですか」


 私は松井さんに聞きました。


「いえ」


「いつです?」


「ええと……」


 松井さんは少し困った顔をしました。


「先週です」


「何日です?」


「たしか木曜日」


「たしか?」


 嫌な汗が背中を通りました。


 期限事件で一番怖い言葉。


 たしか。


 です。


「封筒あります?」


「これです」


「消印じゃなくて、実際に受け取った日を思い出せますか」


「うちの息子が受け取ったと思います」


「息子さんはいつ?」


「私が仕入れで出てた日だから……」


 松井さんが指を折ります。


「木曜……じゃない。水曜かしら」


 日付が後退しました。


 法律相談で日付が前後し始めると、私の心拍数まで前後します。


「松井さん」


 片桐所長が言いました。


「急いで確認しましょう」


「そんなに急ぐんですか」


「はい」


「でも、これ」


 松井さんは棄却裁決を見ました。


「一度ちゃんと申し立てて、それで返事が来たんですよね」


「そうです」


「だったら少しくらい考える時間があるものだと思ってました」


 その声に責める響きはありませんでした。


 本当に、


 そう思っていた。


 ただそれだけ。


 私は裁決書を見ました。


 分かります。


 一度、行政と争った。


 何週間も待った。


 やっと結果が来た。


 しかも負けた。


 普通の人なら、


 次の一手をその日のうちに考えろ、


 なんて無茶です。


 少し落ち込む。


 家族に相談する。


 もう諦めようかと思う。


 それから、


 やっぱり納得できない。


 となる。


 でも。


 制度には期限がある。


 救済の道を用意する代わりに、


 いつまでも争いを宙ぶらりんにはしない。


 法律はそこでも冷たい。


 冷たいから、


 確認しなければならない。


「まだ間に合います」


 私は言いました。


「少なくとも、今のお話では」


 松井さんが顔を上げました。


「本当ですか」


「ただし今日からは、のんびりできません」


 私は裁決書を指しました。


「次に争うなら、今度はこの『裁決』を起点に期限を見ないといけません」


「最初の処分じゃなくて?」


「そこが大事です」


 言ってから私は止まりました。


 危ない。


 ここで講義を始めるところでした。


 相馬先輩が横で睨んでいます。


「論点で喋るな」


「まだ二行です」


「顔が講義顔だ」


「どんな顔ですか」


「試験前の予備校講師みたいな顔」


「受けたことあるんですか」


「ない」


「じゃあ分からないでしょう」


「うるせえ。本人に必要なことだけ言え」


 はい。


 翻訳します。


「つまり」


 私は松井さんに向き直りました。


「前の処分から何日たったかだけ見て安心しちゃ駄目なんです」


「じゃあ何を見るんですか」


「今回の棄却裁決です」


「これ?」


「はい。これを知った日」


 松井さんが封筒を見ました。


「だから受け取った日が大事なんです」


「……なるほど」


 その瞬間。


 松井さんの顔つきが変わりました。


「あ」


「何か思い出しました?」


「受け取ったの、火曜日かもしれない」


「さらに早くなった!」


 思わず声が出ました。


「すみません」


「いえ」


「でも大事なので確認しましょう」


 松井さんが慌てて店へ電話を借りに立ちました。


 相馬先輩が低い声で言います。


「怖いか」


「何がです?」


「期限」


「怖いです」


 即答しました。


「内容で負けるなら、まだ分かるんですよ」


「うん」


「でも、言い分を見る前に『遅いから駄目』ってなるのは」


「それが却下だ」


「……はい」


 私はそれが嫌でした。


 もちろん。


 期間制限には意味がある。


 行政処分をいつまでも不安定なままにしない。


 行政側にも相手方にも、


 どこかで決着は必要です。


 それは分かる。


 でも。


 何を言いたかったか。


 どんな証拠があったか。


 処分が本当におかしかったか。


 そこに入る前に、


 入口で扉が閉まる。


 期限徒過というのは、そういう怖さがあります。


「朝比奈」


 所長が言いました。


「期限だけ見るな」


「え?」


「再審査請求できる案件か確認しろ」


「あ」


 そうでした。


 また一個飛ばしました。


 再審査請求は、


 審査請求で負けた人が誰でも当然にもう一回使える、


 という万能コンティニューボタンではありません。


「裁決書の教示」


「あります」


「根拠」


「確認します」


「再審査庁」


「確認します」


「処分と裁決、両方の記録」


「取ります」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「やっと現場の顔になったな」


「さっきは予備校講師だったそうです」


「知るか」


 十分後。


 松井さんが戻ってきました。


「分かりました」


「いつでした?」


「火曜日です」


「何で分かったんです?」


「息子が」


 松井さんは少し恥ずかしそうに笑いました。


「その日、野球中継を見たくて店を早く閉めたって」


「野球」


「それで私が怒った日でした」


 生活の記憶。


 強い。


 行政法の期限を救うのがプロ野球中継。


 教科書には載っていません。


「じゃあ、火曜日に受け取った」


「はい」


 私はカレンダーへ印をつけました。


「まだ動けます」


 松井さんが息を吐きました。


 その息の長さで、


 この人がどれだけ緊張していたか分かりました。


「でも」


 松井さんが言います。


「もう一度やって、意味がありますか」


 難しい質問でした。


 私は所長を見る。


 片桐所長は松井さんに聞きました。


「最初の審査請求のあと、何か新しいものは見つかりましたか」


「新しいもの?」


「市や県から書類をもらった。ほかの店の扱いを知った。検査記録が出てきた。何でもいい」


 松井さんはしばらく考えました。


「あ」


「ありますか」


「共同売店の人から、これを」


 鞄から一枚のコピーを出しました。


 施設利用者向けの通知。


 私は読みます。


 衛生管理基準の変更について。


 対象。


 加熱調理済み食品。


 搬入時の温度。


 容器。


 表示。


 適用開始日。


「……これ」


 私は日付を見ました。


「松井さんが処分を受けたあとに作られてません?」


「そうなんですか」


 相馬先輩が紙を取りました。


「基準の適用開始は」


「処分の二週間後です」


「じゃあ処分時点で、これを理由にしたわけじゃねえな」


「少なくとも、この文書そのものは」


 さらに。


 共同売店の配置図。


 食品搬入事業者の一覧。


 別の惣菜店も同じ時間帯に搬入している。


 寿司店もある。


 弁当店もある。


 松井さんだけが全面停止。


「裁決書には?」


 私は読み直しました。


 ――衛生確保のための統一的基準に照らし、原処分は相当である。


「統一的基準」


 私は通知を並べました。


「でも、この統一基準って……」


「作られた時期が後だな」


 相馬先輩が言いました。


 部屋の空気が少し変わりました。


 松井さんが私たちの顔を見比べます。


「何か、おかしいんですか」


「まだ断定できません」


 私は言いました。


「でも確認する価値があります」


「何を?」


「処分したとき、本当にどんな基準で松井さんだけ止めたのか」


 私は裁決書を指します。


「それと、審査請求の裁決が何を根拠に『相当』だとしたのか」


 相馬先輩が続けました。


「あとから作った基準で、前の処分を説明してるなら話は別だ」


「そんなことあるんですか」


「分からん」


 先輩は即答しました。


「だから調べる」


 片桐所長が立ちました。


「県へ行く」


「今からですか」


 私が時計を見る。


「今からだ」


「相馬」


「はい」


「処分記録と審査記録の閲覧関係を確認しろ」


「分かりました」


「こはる」


「はい」


「教示と期限」


「はい」


「一日も落とすな」


 その言い方だけで、


 背筋が伸びました。


 県庁の出先機関へ行き、


 そこから市役所にも回りました。


 最終的に辿り着いたのは、


 やっぱり。


 総務課。


「また来ましたね」


 沢渡課長は言いました。


「こっちの台詞です」


「私は勤務していますので」


「強い」


 いつ来てもいる。


 役所職員として完全に正しいのに、なぜかこちらが負けた気分になります。


 相馬先輩が裁決書を机に置きました。


「松井美津枝さんの件」


「ああ」


「知ってるのか」


「駅前再整備絡みで照会が来ていましたから」


 沢渡課長は裁決書に目を落とします。


「審査請求は棄却でしたね」


「だから次だ」


「再審査請求ですか」


 松井さんが小さく息を呑みました。


 沢渡課長は眼鏡を直しました。


「制度上可能な案件なら、手続を取ることはできます」


「その言い方」


 私が言いました。


「何です?」


「『できます』って言いながら、全然歓迎してない感じがします」


「歓迎する必要がありますか」


「ないですね」


「では問題ありません」


 強い。


 感情の入る隙間がない。


 鉄筋コンクリート会話です。


「課長」


 私はカレンダーの写しを出しました。


「裁決を知ったのはこの日です」


「それで?」


「再審査請求の期限を確認したいです」


「旧法ですよ」


「分かってます」


「本当に?」


「……三十日」


 沢渡課長の眼鏡が少し光りました。


「今日は間違えませんでしたね」


「前に何か見ました?」


「気のせいでしょう」


 この人、絶対楽しんでます。


「現代なら一か月なのに」


 私は小声で呟きました。


「何です?」


「何でもありません」


 危ない危ない。


 昭和の県庁で平成二十六年改正後の話をしても、疲れている人認定されるだけです。


「で」


 相馬先輩が資料を出しました。


「こっちが問題だ」


 衛生基準の通知。


 適用開始日。


 処分日。


 裁決理由。


 沢渡課長が順番に見ました。


 表情は変わりません。


 でも。


 紙をめくる速度だけが少し遅くなりました。


「この統一基準」


 相馬先輩が言いました。


「処分のあとに決まってる」


「正式通知の日付はそうですね」


「なのに裁決では、統一的基準に照らして原処分は相当だと書いてある」


「ええ」


「処分時点で使った基準は何だ」


「担当部局に確認が必要です」


「確認してくれ」


「それは県側の記録です」


「だから県にも行った」


「早いですね」


「期限があるんでな」


 その一言。


 少し気持ちよかった。


 期限は、


 住民を追い立てるだけじゃない。


 こちらも行政を急がせる理由にできる。


 いつか。


 あとで。


 検討します。


 そんな言葉で流されている暇はない。


「課長」


 私は言いました。


「三十日って、住民側だけの時計じゃありませんよね」


「と言いますと?」


「こっちは三十日以内に次の手続を判断しないといけない」


「そうですね」


「なら、その判断に必要な記録も、三十日が過ぎてから出されても困ります」


 沢渡課長が私を見ました。


 相馬先輩が横から、


「論点で喋るな」


 と小さく言いました。


「今のはかなり現場語です」


「まあな」


 合格らしいです。


「必要な照会は急いでもらえませんか」


 私は続けました。


「松井さんは、再審査請求するかどうか決めなきゃいけないんです」


 沢渡課長は少し考えました。


「分かりました」


「え?」


「何です」


「もっと抵抗されるかと」


「合理的な要求まで拒む理由はありません」


「……課長って」


「はい」


「敵として扱いにくいです」


「敵ではありません」


「壁ですか」


「知りません」


 翌日から、


 紙が動きました。


 市。


 県。


 保健所。


 共同売店。


 商店会。


 相馬先輩は足で集め、


 片桐所長は余計な部分を削り、


 私はひたすら日付を並べました。


 処分日。


 審査請求日。


 裁決日。


 裁決を知った日。


 基準決定日。


 基準通知日。


 適用開始日。


「行政法って」


 私は机いっぱいの紙を見ました。


「半分くらい日付でできてません?」


「期限物はそうなる」


「人間の話なのに、急にカレンダーが主役になる」


「遅れたら終わるからな」


「怖い」


「だから確認する」


 相馬先輩は平然と言いました。


 そして五日後。


 県側の記録が揃いました。


 問題の処分時。


 正式な統一基準は、まだなかった。


 担当者が内部打合せ中の案をもとに、


 松井さんの惣菜だけを、


 水分量が多い。


 傷みやすい。


 という理由で搬入停止にしていた。


 ところが。


 実際の商品一覧を見ると、


 他店にも同程度に管理を要する食品があった。


 さらに。


 後から正式決定された統一基準では、


 温度管理容器を使えば搬入可能となっている。


「つまり」


 私は言いました。


「停止しか方法がなかったわけじゃない」


「そうだ」


「容器改善とか条件付き搬入とか」


「検討の余地はあった」


「しかも裁決では、後からできた統一基準まで混ざってる」


「ああ」


 松井さんが小さな声で聞きました。


「だったら、今度こそ勝てますか」


 所長はすぐには答えませんでした。


 いつものことです。


 この人は、


 希望だけ先に売る商売をしません。


「分かりません」


 松井さんの顔が少し曇ります。


「ただ」


 所長は続けました。


「最初の審査請求のときより、争点は見えています」


「争点?」


「なぜ松井さんだけ全面停止だったのか」


「はい」


「その判断に使った基準は何だったのか」


「はい」


「裁決は、処分時に存在しなかった基準で判断を補っていないか」


「……はい」


「そこを整理して出します」


 松井さんはゆっくり頷きました。


「お願いします」


 再審査請求書をまとめたのは、


 裁決を知った日から二十一日目でした。


 余裕がある。


 とは思いません。


 二十一日。


 残り九日。


 書類の不足。


 押印忘れ。


 提出先の勘違い。


 交通機関の遅れ。


 何が起こるか分からない。


「今日出します」


 片桐所長が言いました。


「まだ直せますよ」


「出せ」


「はい」


 再審査請求書。


 私はその表題を見ました。


 一度争ったあと。


 さらにもう一度。


 行政内部で判断を見直してもらう道。


 でも、


 その道は誰にでも、いつまでも開いているわけではない。


 期間がある。


 要件がある。


 再審査請求が認められている場合に限られる。


 そして何より。


 最初の処分そのものだけを見るのではなく、


 その後の審査請求に対する裁決が、


 次の出発点になる。


 昨日までテキストで見たときは、


 原裁決。


 なんて言葉、


 眠気を誘う漢字三文字でした。


 原っぱで裁判でもするのかと思うくらい、頭に入りませんでした。


 でも今は違います。


 松井さんの前に置かれた、


 あの棄却裁決。


 あれが原裁決。


 次の時計を動かした紙。


 そう思うと忘れません。


 提出先の窓口。


 担当職員が書類を受け取ります。


「再審査請求ですね」


「はい」


 相馬先輩が答えました。


 職員が日付印を押す。


 ガチャン。


 私はその音を聞いて、


 肩から力が抜けました。


「受け付けました」


 それだけ。


 勝ったわけではありません。


 処分が取り消されたわけでもない。


 松井さんが明日から共同売店へ戻れるわけでもない。


 ただ。


 期限内に。


 入口を通った。


 それだけです。


 なのに。


 その「それだけ」が、今日はものすごく大きかった。


 庁舎を出たところで、


 松井さんが言いました。


「もし、あと十日遅く相談してたら」


 私は答えませんでした。


 相馬先輩も黙っています。


 代わりに片桐所長が言いました。


「だから今日出したんです」


 松井さんが少し笑いました。


「そうですね」


 帰り道。


 駅前再整備の工事看板が見えました。


 新しい歩道。


 観光案内所。


 広場。


 町は少しずつ変わっている。


 その変化の裏で、


 売店が整理され、


 場所を失う人がいて、


 新しい基準に追いつけない店も出る。


 悪意があるわけではない。


 でも。


 大きな計画というものは、


 小さな店一軒くらいなら、


 数字の端で簡単に押し流せてしまいます。


「先輩」


「何だ」


「期限って、冷たいですね」


「ああ」


「事情があっても、基本は待ってくれない」


「そうだな」


「でも」


 私は歩きながら言いました。


「期限が書いてあるから、役所の人の気分で『もう遅い』って言われなくて済むんですよね」


 相馬先輩が少しだけこちらを見ました。


「まあな」


 そう。


 三十日。


 短い。


 冷たい。


 でも。


 誰にでも同じ三十日だ。


 役所が嫌いだから二十日。


 声が大きいから四十日。


 そんなことにはならない。


 冷たい線だからこそ、


 その線の内側にいる人を守れる。


 最近。


 私はそういう法律の冷たさを、少し好きになり始めています。


 事務所へ戻ると。


 机の上に大きな紙袋がありました。


「何です、これ」


 松井さんが開きました。


「コロッケ」


「えっ」


「今日はお世話になったから」


 相馬先輩がすぐ寄ってきます。


「いくつある」


「十二個」


「よし」


「何が『よし』ですか」


「三人で四個ずつだな」


「所長入れて三人扱い?」


「お前は?」


「私を消さないでください!」


「じゃあ四人で三個」


「急に行政より公平」


 片桐所長が紙袋から一つ取ります。


「所長、早い!」


「冷める」


「まだいただきますも言ってませんよ」


「いただきます」


「後から!」


 松井さんが笑いました。


 数日前まで。


 棄却という二文字を見て、


 もう終わりだと思っていた人です。


 まだ結果は分からない。


 再審査請求だって、通る保証はない。


 共同売店に戻れるとも決まっていない。


 でも。


 少なくとも。


 もう一度、自分の言い分を整理して出す場所には立てた。


「朝比奈さん」


「はい」


「最初に私が来たとき」


「はい」


「あと何日あるか分からないって聞いて、すごく怖かったんです」


「私も怖かったです」


「先生側も?」


「期限は全員怖いです」


 相馬先輩が言いました。


「こいつは特にな」


「先輩」


「三十日と一か月で混乱してたし」


「それは特殊事情です!」


「何の特殊事情だ」


「時代です」


「意味分からん」


 松井さんがまた笑います。


「でも」


 私はコロッケを一つもらいました。


「今日のうちに出せてよかったです」


「はい」


「期限って、あとから事情を説明しても、取り返せないことがありますから」


「忘れません」


 松井さんは頷きました。


「役所の手紙は、届いた日を書く」


「それです」


「封筒も捨てない」


「完璧です」


「野球中継の日も覚えておく」


「そこは補助資料で」


 夕方。


 電話が鳴りました。


 私が取ります。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『沢渡です』


「課長」


『松井さんの件、再審査請求を出されたそうですね』


「早いですね」


『照会が来ましたので』


「何か問題が?」


『いえ』


 沢渡課長は淡々と言いました。


『市側の駅前再整備関係資料について、追加提出を求められました』


「追加?」


『共同売店の整理方針と、他の事業者の取扱いです』


 私は少し背筋を伸ばしました。


「つまり」


『再審査の中で、比較対象も含めて確認するのでしょう』


「……そうですか」


『朝比奈さん』


「はい」


『今回は期間を間違えませんでしたね』


「そこ掘り返します?」


『三十日です』


「分かってます」


『一か月ではありません』


「分かってますって!」


 相馬先輩が向こうで吹き出しました。


『では』


「ちょっと待ってください」


『何です?』


「課長」


『はい』


「もし期限を過ぎてたら、今日の追加照会もなかったんですよね」


 一拍。


『原則として、期間経過後の不適法な申立てなら、内容の審理まで進まないことはあります』


「……ですよね」


『だから期限がある案件では、まず日付を確認する』


「はい」


『内容はそのあとです』


 電話が切れました。


 受話器を置いて。


 私はノートの端に一行書きました。


 ――負けた日で止まるな。裁決を知った日から、次の時計が動く。


「何書いてんだ」


 相馬先輩が覗き込みます。


「今日の教訓です」


「長い」


「じゃあ短くします」


 私はその下に書きました。


 ――救済には、時計がついている。


「それはまあ、覚えやすいな」


「褒めました?」


「気のせいだ」


 片桐所長がコロッケの最後の一つへ手を伸ばしました。


「あっ」


 私も同時に手を伸ばします。


「所長」


「何だ」


「それ、最後です」


「知ってる」


「私まだ二個です」


「俺も二個だ」


「相馬先輩!」


「俺じゃねえ」


「じゃあ十二個の行方が合わない!」


 松井さんが笑いながら言いました。


「また持ってきますよ」


「本当ですか?」


「こはる」


 所長が最後のコロッケを取ります。


「はい」


「期限は」


「え?」


「次の差し入れ」


「そんな法定期間ありません!」


「早い方がいい」


「ただの希望じゃないですか!」


 法律には、


 守らなければ入口が閉まる期限があります。


 コロッケには、


 冷める前に食べた方がいい期限があります。


 どうやら片桐行政書士事務所では、


 後者のほうが厳格に運用されているようでした。


 私は空になった紙袋を見ながら思います。


 再審査請求は、


 一度負けた人に与えられた無限のやり直しではない。


 次へ進める人。


 次へ進める場合。


 そして、


 次へ進める時間。


 全部に条件がある。


 だから。


 怒る前に。


 諦める前に。


 まず日付を見る。


 法律は冷たい。


 人が落ち込んでいる間にも、時計を止めてはくれません。


 でも。


 その時計がまだ動いているうちなら。


 閉まりかけた扉に、


 もう一度だけ手をかけることができます。

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