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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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231/281

[行政不服審査法59条・再調査の請求の認容の決定]現場編 「文句を言うなら、もっと重くなるかもしれませんよ」の嘘。二十日の営業停止を握る役所と、不服申立てで処分そのものを軽くする逆転

挿絵(By みてみん)

 役所の処分に逆らったら、もっとひどい目に遭う。


 そう思わせた時点で、不服申立てという制度は半分死んでしまいます。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 朝から雨でした。


 十月の細い雨が窓を叩き、古い木枠の隙間から冷たい空気が入り込んできます。


 私は湯飲みを両手で包みながら、机の上の通知書を見ていました。


 ――営業停止処分。


 期間、二十日間。


「二十日……」


 思わず声が漏れます。


「長いか」


 相馬先輩が新聞から目だけ上げました。


「商売によります」


「模範解答みてえなこと言うな」


「じゃあ聞かないでください」


 通知書の名宛人は、


 西村正吉。


 五十八歳。


 駅から少し離れた商店街で、妻の澄子さんと小さな食堂を営んでいます。


 店の名前は、


 御食事処みなと。


 海なんて見えないのに、みなと。


 理由を聞いたら、


「若い頃、港町で働いてたから」


 だそうです。


 そういう店名、私は嫌いじゃありません。


 問題は。


 その「みなと」が二十日間、営業できなくなったことでした。


「もう一度、最初から聞かせてください」


 私は正吉さんに言いました。


 向かいの椅子では、正吉さんが濡れた帽子を膝の上で握っています。


「保健所の検査が入ったのが、先週の火曜です」


「ああ」


「そのとき、冷蔵庫の温度管理と、仕込み場の衛生状態を指摘された」


「そこは事実ですか」


「温度の記録を書き忘れた日はあった」


 正吉さんは認めました。


「ただ、冷蔵庫が壊れてたわけじゃねえ。温度計も正常だった」


「仕込み場は?」


「床が濡れていた」


「なぜです?」


「検査の十分前に掃除したからだ」


 私は鉛筆を止めました。


「掃除?」


「魚をさばいたあとだったから、洗ったんだよ」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「それを不衛生扱いされた?」


「いや」


 正吉さんは首を振ります。


「そこだけなら注意で済むと思ってた」


「じゃあ、営業停止になった理由は別?」


「ああ」


 正吉さんは通知書を指さしました。


「過去にも同様の衛生上の注意を受けている。改善が不十分。だから悪質だって」


 私は通知書を読み返しました。


 確かにあります。


 ――過去の改善指導にもかかわらず、衛生管理状況の改善が十分に認められないことから、営業停止二十日間とする。


「過去の改善指導って?」


 正吉さんの顔が曇りました。


「去年の三月だ」


「何を指摘されたんです?」


「ゴミ箱に蓋をしろって」


「……それだけ?」


「あとは、手洗い場に石鹸を置けって」


「直したんですよね」


「翌日に」


 相馬先輩が鼻を鳴らしました。


「今回と種類が違うな」


「ですよね」


 私は通知書の「過去の改善指導」という文字に丸をつけました。


 同じ店に以前、衛生関係の注意があった。


 だから今回も、


 繰り返し。


 改善不足。


 悪質。


 そう評価したらしい。


 でも。


 ゴミ箱の蓋と石鹸。


 今回の冷蔵庫の記録。


 全部まとめて、


 またやった。


 でいいんでしょうか。


「二十日止まると、どれくらい影響があります?」


 私が聞くと。


 正吉さんは帽子の縁を見つめました。


「今月末に、駅前の土地区画整理の説明会があるだろ」


「ああ」


「夜、自治会の連中がうちで飯を食う予定だった」


「何人くらい」


「三十人」


「大きいですね」


「それだけじゃねえ」


 正吉さんが苦笑します。


「秋は工事関係の客も来る。近くの旅館に泊まってる連中が、夜うちで食うんだ」


 二十日。


 たった三週間弱。


 でも小さな食堂には、長い。


 仕入先への支払い。


 光熱費。


 家賃。


 生活費。


 店は休んでも、全部が一緒に休んでくれるわけではありません。


「それで」


 片桐所長が奥から言いました。


「なぜうちへ来た」


 正吉さんはしばらく黙っていました。


 そして。


「保健所で言われたんだ」


 低い声でした。


「何をです?」


「納得いかないなら、不服申立てしてもいいって」


「普通ですね」


「そのあとだ」


 正吉さんが顔を上げました。


「ただし、改めて全部調べ直すことになるから、二十日で済むとは限らないって」


 私は止まりました。


「……何ですって?」


「俺が、『もっと長くなるってことか』って聞いた」


「はい」


「担当の人は、そうなる可能性もありますって」


 相馬先輩の顔から、新聞を読んでいたときの気だるさが消えました。


「誰が言った」


「衛生課の人だ。若い職員」


「名前は」


「覚えてる」


 正吉さんが名刺を出しました。


 相馬先輩が受け取る。


 私は通知書を見たまま、頭の中で何かが引っかかりました。


 二十日。


 不服を申し立てる。


 もう一度調べる。


 その結果。


 三十日。


 四十日。


 もっと重く。


 ――あれ?


 私は眉を寄せます。


「こはる」


 所長が言いました。


「何が気になる」


「不服申立てをした人を、申立て前より不利にすることって……」


 言いながら、現代の条文が頭の中を駆け回りました。


 審査請求。


 裁決。


 不利益変更禁止。


 再調査の請求。


 決定。


 理由があれば取消し、変更。


 事実上の行為なら撤廃――。


 待て。


 待て待て。


 ここは昭和六十三年。


 再調査の請求なんて言い出したら、私は未来人ですと自白するようなものです。


 私は口を閉じました。


「どうした」


 相馬先輩が怪訝そうに見ます。


「頭の中で平成二十六年が暴れました」


「また病気か」


「法改正です」


「似たようなもんだ」


 ひどい。


 片桐所長が通知書を取りました。


「処分庁は」


「市の保健所長名義です」


「上級行政庁は」


 私は確認します。


 組織関係。


 処分根拠。


 不服申立先。


 この時代は、


 何でも審査請求。


 ではありません。


 旧法。


 審査請求と異議申立ての二本立て。


 現代知識で突っ込むと、制度の穴に頭から落ちます。


 片桐所長が簡単に関係書類を確認しました。


「この件は、まず処分庁に異議申立てだ」


「はい」


 私は頷きます。


 出た。


 異議申立て。


 現代では一般制度として消えた言葉。


 でも、この昭和六十三年では現役です。


 処分した側に、


「その処分、もう一度見直してください」


 と言う。


 いまだに、この構造には少し不思議さを感じます。


 答案を書いた先生に、


 採点がおかしいので採点し直してください。


 と出し直すようなものです。


 ただ。


 だからといって。


 採点し直したらもっと点を下げるぞ。


 と言われたら。


 誰も出し直せません。


「あの」


 正吉さんが不安そうに言いました。


「やっぱり、やらない方がいいんですか」


「何をです?」


「その、異議申立てってやつ」


「どうしてです?」


「二十日で済んでるのに、三十日になったら困る」


 その言葉を聞いた瞬間。


 私の中で、眠かった条文が起きました。


 不利益変更の禁止。


 そうだ。


 制度が、


 不服を申し立てた人を脅すような結果を許してしまったら。


 不服申立制度そのものが使えなくなる。


「所長」


 私は言いました。


「異議申立てしたことを理由に、元の処分より重くすることはできませんよね」


 片桐所長が私を見ました。


「そうだ」


 正吉さんが目を瞬きます。


「できない?」


「はい」


 私はそこで、一度言葉を選びました。


 講義を始めちゃいけない。


 今、必要なのは。


 正吉さんが申立てをするのを怖がらなくていい。


 その一点です。


「少なくとも」


 私は言いました。


「二十日の営業停止に不服を申し立てたせいで、『じゃあ三十日にしてやる』ということはできません」


「本当か?」


「はい」


 正吉さんの肩が、ほんの少し下がりました。


 相馬先輩が立ち上がります。


「市役所行くぞ」


「また早い」


「脅し文句が本当に出たなら、先に潰す」


「先輩、今日は好戦的ですね」


「店止められてる奴に、『争ったらもっと重くなるかも』なんて言ったら、制度があっても使えねえだろ」


 その言葉に。


 私は少し黙りました。


 そうなんです。


 不利益変更禁止。


 テキストでは、


 請求人の不利益に変更してはならない。


 丸をつけるだけ。


 それだけでした。


 でも現場では。


 人が権利を使うための、


 怖さ止め。


 なんだ。


 市役所別館。


 保健衛生課。


 湿った傘の匂いと消毒液の匂いが混ざっていました。


「営業停止二十日の件ですね」


 係長の男性が言いました。


「担当から聞いております」


 向かいには、


 例の若い職員もいます。


 榊原という人でした。


 二十代後半。


 机には検査票が何枚も積まれています。


「確認したい」


 相馬先輩が言いました。


「西村さんに、不服申立てしたら処分が重くなる可能性がある、と言ったか」


 榊原さんが固まりました。


「……調査の結果によっては、と説明しました」


「同じだろ」


「いえ、その」


 係長が割って入ります。


「処分内容を再検討する以上、新しい事情が判明する可能性はありますから」


 相馬先輩の眉が上がりました。


「だから、申立てした結果三十日になるかもしれん、と?」


「一般論として」


 便利な言葉です。


 一般論。


 行政の会話で出てくると、だいたい個別論から逃げたいときに使われます。


「沢渡課長はいらっしゃいますか」


 片桐所長が言いました。


「総務ですか?」


「この処分の不服申立てについて確認したい」


 数分後。


 見慣れた灰色の背広が現れました。


「またですか」


 沢渡課長。


 相変わらず、


 住民から怒鳴られても血圧が一ミリも上がらなさそうな顔です。


「今日は食堂です」


 私が言いました。


「前は花屋でしたね」


「職業別スタンプラリーじゃないんです」


「知っています」


 絶対ちょっと楽しんでる。


 片桐所長が説明しました。


 営業停止二十日。


 異議申立てを検討。


 担当者から、


 申立てをすれば処分が重くなる可能性もある、


 との説明。


 沢渡課長は途中で榊原さんを見ました。


「そう説明したんですか」


「調査をやり直す以上、別の事情が分かるかもしれないと……」


「西村さんに?」


「はい」


「処分が三十日になる可能性もある、と?」


「聞かれたので、否定はしませんでした」


 沢渡課長は数秒黙りました。


 怒鳴りません。


 ため息もつきません。


 ただ。


「それはまずいですね」


 あっさり言いました。


 榊原さんが目を見開きます。


「ですが課長、新たな事情が判明すれば――」


「別問題です」


 沢渡課長が遮りました。


「少なくとも、この異議申立てを審理した結果として、申立人に不利益となるよう処分を変更することはできません」


 来た。


 私の中で、線が一本通りました。


 これです。


 不利益変更禁止。


「つまり」


 私は正吉さんの代わりに確認しました。


「二十日の営業停止に異議申立てして、内容を見直した結果、三十日停止へ変更することはできない」


「そのとおりです」


「申立てしたことが原因で不利にはならない」


「ええ」


 沢渡課長は榊原さんを見る。


「説明を訂正してください」


「……はい」


 あっさり。


 実にあっさり。


 感情論には鉄壁なのに、


 法理で足場を抜くと急に早い。


 沢渡課長という人は、


 城壁というより自動ドアなのかもしれません。


 押す場所が合っていれば開く。


 合っていないと永遠に開かない。


「ただし」


 沢渡課長が私を見ました。


「朝比奈さん」


「はい」


「不利益変更が禁止されるからといって、異議申立てをすれば必ず処分が軽くなるわけではありませんよ」


「分かっています」


「棄却されることもある」


「はい」


「理由があるなら」


 沢渡課長は処分書を指しました。


「全部または一部を取り消すこともある。変更することもある」


 そこ。


 私は目を細めました。


 今度こそ。


 現代の条文が頭の中に顔を出します。


 再調査の請求が理由があるときは、


 処分庁は決定で、


 全部若しくは一部を取消し、


 又は変更する――。


 形は違う。


 名称も違う。


 時代も違う。


 でも。


 処分庁自身が見直し、


 理由があるなら、


 自分がした処分を取り消したり変更したりできる。


 制度の芯は、ここにつながっている。


「こはる」


 相馬先輩が言います。


「未来に行くな」


「顔に出てました?」


「思い切り」


「戻ってきました」


「昭和六十三年へようこそ」


「ただいまです」


 沢渡課長が怪訝そうにこちらを見ています。


「何の話ですか」


「何でもありません」


 次に確認したのは。


 本当に二十日が妥当なのか。


 そこでした。


「検査記録を見せてもらえますか」


 片桐所長が言います。


「本人案件の範囲であれば」


 係長が出した書類を、


 相馬先輩と所長が順に見ます。


 私は横から覗きました。


 今回の指摘。


 一、冷蔵設備の温度記録に三日分の記載欠落。


 二、調理場床面の湿潤。


 三、食品保管容器の一部に表示不足。


「食中毒は?」


 相馬先輩。


「発生していません」


「腐敗食品」


「確認されていません」


「冷蔵庫の実測温度は」


 係長が紙をめくりました。


「四度です」


「基準内?」


「はい」


 私は首をかしげました。


「じゃあ冷蔵庫そのものが機能してなかったわけではない」


「記録義務の履行に問題があったということです」


「床面の湿潤は」


「衛生管理上、問題と判断しました」


「清掃直後だという説明は記録に?」


 係長の指が止まりました。


「……書いてありませんね」


「西村さんは検査時に言ったそうです」


 私が言うと。


 榊原さんが小さく答えました。


「聞きました」


「記録しなかった?」


「重要性が低いと思って」


 相馬先輩がゆっくり息を吐きました。


「じゃあ表示不足は」


「仕込み日の札が、一つ外れていました」


「中身は」


「当日仕込みの煮物です」


「危険な状態?」


「そこまでは」


 そして。


 処分を重くした最大の理由。


 過去の改善指導。


 去年三月。


 ゴミ箱。


 石鹸。


「改善確認は」


 片桐所長が聞きました。


「翌日に確認済みです」


「是正されていた?」


「はい」


 所長が書類を置きました。


「なら」


 短い声でした。


「『過去の指導にもかかわらず改善不十分』という評価は、どの事実を指す」


 静かになりました。


 誰も怒鳴っていません。


 でも。


 この人が一番怖い。


 係長が処分理由書を見ます。


「衛生指導歴があることを総合考慮して――」


「指導歴があることと」


 片桐所長が言います。


「改善していないことは違う」


 その一言でした。


 空気が変わったのは。


 はい。


 そこです。


 私は心の中で膝を叩きました。


 過去に注意された。


 これは事実。


 でも。


 その注意に従って是正した。


 これも事実。


 なのに。


 「過去にも注意されている」


 だけを拾って、


 改善していない。


 繰り返している。


 悪質。


 そう積み上げてしまった。


 それは論理の階段じゃない。


 途中の段が抜けています。


「課長」


 私は沢渡課長を見ました。


「これ、二十日停止の重さを決めるときに、去年の指導歴をかなり重く見てますよね」


「書類上はそうですね」


「でも去年の指摘事項は、翌日に改善済み」


「ええ」


「今回とは内容も違う」


「そう見えます」


「なのに『改善不十分』として処分を重くした」


 沢渡課長は黙っています。


「そこ、異議申立てで見直す余地ありますよね」


「あります」


 即答でした。


 榊原さんが横を向きます。


「課長」


「事実は事実です」


 沢渡課長は淡々と言いました。


「指導歴を考慮すること自体と、その指導に従わなかったと評価することは同じではありません」


 敵側から法理で殴られると、


 なんだかこちらまで背筋が伸びます。


「西村さん」


 相馬先輩が言いました。


「異議申立て、やるぞ」


 正吉さんは、


 しばらく通知書を見ていました。


 そして。


「……二十日より重くならねえんだな」


「この異議申立ての結果として、お前に不利益な変更はできねえ」


「だったら」


 帽子をぎゅっと握ります。


「やってくれ」


 その一言は。


 役所への宣戦布告なんかじゃありませんでした。


 自分の店を、


 自分の生活を、


 もう一度ちゃんと見てもらうための言葉でした。


     ◇


 事務所へ戻ると。


 私は机に紙を広げました。


「まず何を書く」


 相馬先輩が言います。


「二十日は長すぎる」


「感想」


「去年の指導は改善済み」


「事実」


「今回の違反内容と過去の指導内容が違う」


「事実」


「床面が濡れていたのは、清掃直後だったのに記録されていない」


「事実」


「冷蔵庫の実測温度は基準内」


「事実」


「食中毒なし」


「事実」


「危険食品なし」


「事実」


「よし」


 相馬先輩が言いました。


「じゃあ書け」


「先輩」


「何だ」


「私、完全に訓練されてません?」


「何に」


「感情を事実へ変換する作業に」


「行政相手に『ひどい』って百回書いても、処分日数は減らねえからな」


 その通りです。


 正吉さんが悔しい。


 店が潰れそう。


 奥さんも困っている。


 常連客もいる。


 全部、大切。


 でも。


 処分を動かすなら、


 何を根拠に二十日なのか。


 その判断材料は正確だったのか。


 重く評価された事情は、本当に存在したのか。


 そこを切り分ける。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「申立ての目的は何だ」


「処分をなくすこと」


「本当に全部か」


 私は止まりました。


 今回。


 記録漏れは事実。


 表示不足も事実。


 完全な無実ではありません。


「……全部取消しだけじゃない」


「そうだ」


「処分が重すぎるなら、軽い内容への変更も求められる」


「そういうことだ」


 あ。


 そこでまた。


 現代の教材が頭の中から出てきます。


 理由がある場合。


 処分庁は。


 全部若しくは一部を取り消し。


 又は変更する。


 全部かゼロか。


 じゃない。


 役所の処分って。


 一度出たら、


 完全取消し。


 それが無理なら維持。


 その二択だと思いがちです。


 でも違う。


 重すぎたなら。


 軽くする。


 範囲を削る。


 日数を変える。


 それも、


 見直しの結論になり得る。


「所長」


「何だ」


「営業停止二十日を、例えば数日に変更することも?」


「法的に許される範囲ならな」


「なるほど」


「ただし」


「はい」


「こちらが日数を決めるな」


「あ」


「処分基準と事実関係を見て、処分庁が判断する」


「はい」


 危ない。


 勢いで、


 三日でお願いします。


 とか書くところでした。


 値切り交渉じゃありません。


 不服申立てです。


 私たちがするのは、


 元の処分のどこがおかしいかを示すこと。


 その上で、


 取消し又は相当な内容への変更を求める。


「それと」


 所長が言いました。


「期間」


「六十日」


「即答したな」


「今日は勝ちました」


「何にだ」


「現代の三か月に」


 相馬先輩が笑いました。


「未来人が昭和に適応してきたな」


「褒めてます?」


「気のせいだ」


 またそれです。


 異議申立書を提出したのは翌日でした。


 沢渡課長は書類を受け取り、


 最初のページから順に目を通します。


「ずいぶん整理しましたね」


「怒りは削りました」


「それがいいでしょう」


「正吉さん、かなり怒ってましたけど」


「怒っていることと、処分が不当であることは別です」


「分かってます」


 私は少し悔しい。


 こっちが昨日たどり着いた答えを、


 この人は普通に言います。


 でも。


 そのとき。


 奥から係長が出てきました。


「沢渡課長」


「何でしょう」


「この件ですが、過去の指導歴の扱いについて、衛生課内でも見解が分かれていまして」


「どういう意味です」


「以前は、一度でも指導歴があれば累積的に重く見ていました。ただ、是正確認済みの事項まで未改善として扱うのは適切でないのではないかと」


 沢渡課長が私たちを見る。


「もう効いてますね」


 私が小声で言いました。


「まだ結果は出てない」


 相馬先輩に即座に釘を刺されます。


「浮かれるな」


「はい」


 異議申立ては魔法じゃない。


 出せば勝つ。


 そんなものではありません。


 でも。


 出さなければ、


 二十日。


 という数字は、そのまま固まっていたでしょう。


 八日後。


 午後三時。


 電話が鳴りました。


 私が取りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課、沢渡です』


 声だけで背筋が伸びるようになってきました。


「西村さんの件ですか」


『そうです』


「どうなりました?」


『異議申立てについて、理由があると判断されました』


 私は立ち上がりました。


「取消しですか?」


『全部取消しではありません』


 その言葉で。


 私の中の期待が一度止まります。


 でも。


『営業停止二十日を、三日へ変更します』


「……三日?」


 相馬先輩がこちらを見ます。


 私は受話器を押さえました。


「二十日が三日です」


「ほう」


 片桐所長も顔を上げました。


『記録管理等に不備があったこと自体は認められるため、処分自体をなくす判断にはなりませんでした』


「はい」


『一方、過去の改善指導については既に是正済みであり、今回の処分を重くする事情として扱うのは妥当でないと判断しました』


「床の件は?」


『清掃直後だったことが確認できました。評価から外しています』


「冷蔵庫は?」


『実測温度は適正でしたので、記録不備として評価し直しました』


 つまり。


 二十日という処分を支えていた柱を、


 一つずつ確認した。


 その結果。


 悪質。


 繰り返し。


 改善なし。


 そこまで言える事実はなかった。


 だから。


 処分そのものをゼロにはしない。


 でも。


 重さは変える。


 二十日から三日。


「西村さんに直接通知が行きますか」


『ええ』


「ありがとうございます」


『朝比奈さん』


「はい」


『一つだけ』


「何でしょう」


『不服を申し立てれば処分が重くなる可能性がある、と受け取られる説明については、課内で改めることになりました』


 私は少し黙りました。


「榊原さん、怒られました?」


『職員個人を叱れば済む話ではありません』


 沢渡課長らしい答えでした。


『不服申立て制度を案内しておきながら、利用をためらわせる説明をしては意味がありませんから』


「……そうですね」


『では』


 電話が切れました。


 私は受話器を置きます。


「どうだった」


 相馬先輩。


「二十日を三日に変更」


「全部取消しじゃなかったな」


「はい」


「不満か?」


 私は少し考えました。


「いいえ」


 今回。


 正吉さんに全く問題がなかったわけではない。


 記録漏れはあった。


 表示も不十分だった。


 だから三日。


 でも。


 間違って重く見られていた部分は外された。


「全部勝つか、全部負けるかじゃないんですね」


 私が言うと。


 片桐所長が頷きました。


「処分は数字じゃない」


「え?」


「中身だ」


 短い。


 でも。


 分かりました。


 取消し。


 一部取消し。


 変更。


 処分を見直す結論は、


 白か黒だけじゃない。


 間違っている部分だけを削る。


 重すぎる部分だけを軽くする。


 制度というものは、


 案外そういう細かいところで人を救うのかもしれません。


 その日の夕方。


 正吉さんと澄子さんが事務所へ来ました。


「三日?」


 澄子さんが何度も聞きました。


「本当に三日でいいんですか」


「はい」


「二十日じゃなくて?」


「三日です」


「三日なら……」


 澄子さんが口元を押さえます。


「仕込みをやり直せば、説明会の日には間に合う」


「間に合いますね」


 正吉さんは黙っていました。


 そして。


 深く頭を下げました。


「ありがとう」


「いえ」


「俺な」


 正吉さんが顔を上げます。


「あのとき、役所で『もっと重くなるかもしれない』って言われて、もう黙ろうと思ったんだ」


「……はい」


「二十日で済むなら、それで我慢した方がいいって」


 分かります。


 人は。


 悪い結果そのものより、


 もっと悪くなるかもしれない。


 という怖さに弱い。


 二十日。


 納得できない。


 でも三十日になるかもしれない。


 だったら黙る。


 それでは。


 不服申立ての制度が紙の上にあるだけになってしまう。


「でも」


 正吉さんが笑いました。


「申立てしたからって、もっと重くはできねえって聞いたから」


「はい」


「じゃあ、一回ちゃんと見てもらおうって思えた」


 その言葉を聞いて。


 私はようやく。


 不利益変更禁止。


 という四角四面の言葉が、


 人間の形に見えた気がしました。


 法律は、


 勇気を出せ。


 なんて言いません。


 頑張れ。


 とも言わない。


 ただ。


 不服を言ったせいで、もっと重くはしません。


 と線を引く。


 それだけ。


 でも。


 その線があるから、


 怖くても一歩出せる人がいる。


 冷たい仕組みが。


 人の背中を、


 ほんの少しだけ押す。


「これ」


 澄子さんが包みを机へ置きました。


「また差し入れですか」


「うちのコロッケ」


 相馬先輩が反応しました。


「何個です?」


「十二個」


「素晴らしい」


「先輩」


「何だ」


「花のときと態度違いすぎません?」


「食える」


「花だって目で楽しめます」


「腹は膨れん」


「文化を敵に回す発言ですよ」


 正吉さんが笑います。


「揚げたてじゃないけどね」


「温めれば問題ありません」


 相馬先輩が包みを開けようとします。


「待て」


 片桐所長。


 先輩の手が止まりました。


「何です?」


「客が帰ってからだ」


「……はい」


 この事務所で一番強い行政庁は、やっぱり所長かもしれません。


 正吉さんたちが帰ったあと。


 相馬先輩はようやくコロッケを一つ取りました。


「うまい」


「早い」


「お前も食え」


 私も一つ取ります。


 少し冷めていました。


 でも。


 じゃがいもは甘く、


 衣にはまだ油の香りが残っています。


「二十日だったら」


 私は言いました。


「このコロッケ、三週間作れなかったんですね」


「そうだな」


「三日なら」


「四日目からまた揚げられる」


 私はコロッケを見ました。


 大げさな勝利じゃない。


 処分は残った。


 三日間は店を閉める。


 正吉さん側にも直すべきところがある。


 でも。


 二十日。


 から。


 三日。


 十七日分の商売が戻った。


 十七日分の生活が戻った。


 それは、


 ただの数字ではありません。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『沢渡です』


「今日はよく電話しますね」


『一つ伝え忘れました』


「何です?」


『駅前整備区域の飲食店について、来月から衛生管理の一斉確認をすることになりました』


「一斉確認?」


『今回の件で、過去の指導歴の扱いが担当ごとにばらついていることが分かりましたので』


 まただ。


 一件の不服申立て。


 そこから、


 別の運用のゆがみが見つかる。


「駅前再整備に合わせてですか」


『ええ。飲食店の営業環境も変わりますから』


「……駅前、いろいろ動いてますね」


 一瞬。


 電話の向こうが静かになりました。


『そうですね』


 それだけ。


 でも。


 妙に引っかかりました。


 花売り台。


 露店。


 飲食店。


 駅前再整備。


 ばらばらに見える処分が、


 少しずつ同じ方向へ集まり始めている。


『では』


「はい」


 電話が切れました。


「沢渡課長?」


 相馬先輩。


「はい。今度、駅前の飲食店を一斉確認するそうです」


「また仕事増えそうだな」


「嬉しくない予言やめてください」


 片桐所長が一言。


「記録しておけ」


「何をです?」


「駅前関係だ」


「はい」


 私はノートを開きます。


 ページの端に書きました。


 ――御食事処みなと。


 ――営業停止二十日。


 ――異議申立て。


 ――三日に変更。


 その下に。


 小さく一行。


 ――不服を言った人を、不服を言ったことのせいで不利にしてはいけない。


 今日の教訓。


 たぶん、それで十分です。


 法律は、


 黙って我慢した人だけが損をしないためにある。


 そう言うと少し綺麗すぎるけれど。


 少なくとも。


 声を上げた人に、


「じゃあもっと重くしてやる」


 と言わせない仕組みはある。


 その線一本が。


 思っていたよりずっと大事でした。


「こはる」


 相馬先輩が言います。


「最後の一個食うか」


 皿にはコロッケが一つ。


「半分こしましょう」


「嫌だ」


「なぜ」


「俺が先に取った」


「まだ取ってません」


「心では取った」


「占有の主張が雑すぎます」


「不服があるのか」


「あります」


「申し立てろ」


「誰にです?」


 相馬先輩が片桐所長を指します。


「処分庁」


 私は所長を見ました。


「所長。コロッケの配分について異議申立てを――」


「半分にしろ」


 即決。


 相馬先輩が固まりました。


「所長」


「何だ」


「申立人の方が得してません?」


「変更した」


「俺に不利益です」


「お前は申立人じゃない」


「……」


 私は吹き出しました。


「先輩」


「何だ」


「制度って冷たいですね」


「うるせえ」


 結局。


 コロッケは綺麗に半分になりました。


 外では雨が上がり始めています。


 商店街の向こう。


 御食事処みなとの看板には、まだ三日間灯りがつきません。


 でも四日目には。


 また油がはねる音がして。


 味噌汁の湯気が立って。


 正吉さんが、


「今日は何にする」


 と客に聞くのでしょう。


 一度出された処分は、


 石に刻まれた文字じゃない。


 理由があれば。


 取り消せる。


 軽くできる。


 変えられる。


 そして。


 それを求めた人を、


 求めたことそのもので罰してはいけない。


 行政不服審査。


 眠かったはずの制度が。


 今日は少しだけ、


 揚げたてのコロッケみたいに、


 生活の匂いをしていました。

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