[行政不服審査法57条・三月後の教示]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、昆布の匂いがしていました。
法律事務所として、それでいいのか。
たぶん、よくありません。
「……所長」
「何だ」
「本当に出汁を取ったんですね」
「もらったからな」
湯呑みの横。
小さな鍋。
宮原さんが差し入れてくれた昆布が、水の中で妙に堂々としています。
行政書士事務所の机の上で、六法と昆布が並んでいる。
法律と乾物。
人類史上、あまり融合しなくていい二分野です。
私はその横でノートを開きました。
今日の見出し。
――行政不服審査法第五十七条。
その下に、
――三月後の教示。
と書く。
「三か月」
私は呟きました。
相馬先輩が新聞から顔を上げます。
「またそれか」
「今日こそ整理するんです」
「昨日、市役所で散々恥かいただろ」
「だからです!」
昨日。
宮原澄江さん。
共同市場の乾物屋。
市の処分に対して五月二日に異議申立てをした。
ところが。
三か月たっても結論が出ない。
市役所へ問い合わせても、
まだ調べています。
お待ちください。
その繰り返し。
なのに八月末には店先の商品を撤去しろと言われた。
そこで私たちは、
異議申立てそのものの審理と、
その間に処分を進めるかどうか。
二つに分けて整理しました。
その結果。
少なくとも異議申立ての判断が出るまで、宮原さんへの撤去はいったん止める。
そして異議申立てについても、二週間を目途に判断する。
そこまで進んだ。
ただし。
昨日、私の頭の中で最初に光った、
三か月たったら、書面で「直ちに審査請求できます」と教えなければならない。
という制度。
あれは。
昭和六十三年にはありません。
「相馬先輩」
「何だ」
「昨日の私の間違い、復習します」
「自分から傷口を開くのか」
「受験生は間違えたところほど伸びるんです」
「便利な思想だな」
私はノートに二本の線を引きました。
左。
昭和六十三年。
右。
現代。
「まず、昨日の宮原さんがしたのは?」
「異議申立て」
「はい」
「処分庁自身に見直しを求めた」
「はい」
「今は?」
「その制度は原則としてありません」
私は右側に書きます。
現代。
原則、審査請求に一本化。
「旧法では、異議申立てと審査請求が並んでいた」
「ああ」
「現代では、異議申立てという一般的な制度は廃止」
「ああ」
「その代わり、一定の場合に『再調査の請求』という仕組みがあります」
「昨日言ってたやつか」
「そうです」
ここ。
名前が似ているようで、似ていない。
いや。
制度の役割が一部似ているから余計に危険です。
異議申立て。
再調査の請求。
どちらも処分庁側で見直す場面がある。
だから、
昔の異議申立てが名前だけ再調査の請求になったんでしょ。
と雑に覚えたくなる。
でも。
「同じ制度が名前を変えただけ、ではありません」
私は言いました。
「そこ大事か?」
「かなり大事です」
「じゃあ説明しろ」
「現代の再調査の請求は、法律にその旨の定めがある場合に使える制度です」
「いつでも使えるわけじゃない」
「はい」
ここがまず大事。
現代法の基本は審査請求。
再調査の請求は、
法律が特に認めている場合に、
処分庁にもう一度調べてもらう道。
つまり。
現代法では、
まず全部を二本立てにして、
異議申立てか審査請求か選べ。
という形ではない。
基本線は審査請求。
特別に再調査の請求が用意されている処分についてだけ、
そちらを使える。
「じゃあ」
相馬先輩が言いました。
「再調査を選んだら、ずっとそこで待つのか」
「そこです」
私はノートの真ん中に、
三か月。
と大きく書きました。
「第五十七条」
処分庁は。
再調査の請求がされた日の翌日から起算して三か月を経過しても、
その再調査の請求がまだ係属しているとき。
「係属?」
相馬先輩が聞きます。
「まだ終わってないってことです」
「最初からそう言え」
「法律はそういう言い方するんですよ」
「だから嫌われる」
「それは否定しません」
まだ再調査が終わっていない。
三か月たった。
そこで。
処分庁は、
遅滞なく。
その処分について、
直ちに審査請求をすることができる旨を。
書面で。
再調査の請求人に教示しなければならない。
私は一語ずつ囲みました。
三か月。
遅滞なく。
直ちに審査請求。
書面。
教示。
「昨日の宮原さんみたいな人に」
私は言いました。
「もう次へ進めますよって教える」
「ただし宮原さんの異議申立てには使えねえ」
「はい」
ここが今回いちばん重要です。
昨日の事実は、
第五十七条の具体例そのものではありません。
なぜなら時代が違う。
制度が違う。
宮原さんは再調査の請求をしていない。
旧法上の異議申立てをしている。
だから。
三か月たった。
イコール。
第五十七条で直ちに審査請求。
ではない。
「ここ、試験でやったら?」
相馬先輩が聞きました。
「即死です」
「死ぬな」
「比喩です」
「お前はよく試験で死ぬな」
受験生は選択肢一つで三回くらい死ねます。
私はノートに赤線を引きました。
――数字が同じでも、制度が違えば条文は使えない。
「昨日の私、まさにこれでした」
「三か月って聞いて飛びついたな」
「はい」
「犬か」
「否定したい」
でも。
数字だけ覚えていると、本当にやります。
三か月。
聞いたことある。
第五十七条。
はい正解。
ではない。
誰が。
何をした。
どの制度が係属している。
どの時代の法律か。
そこまで確認しないといけない。
「じゃあ第五十七条の三か月は」
相馬先輩が言いました。
「審査請求の期間が三か月って話とは別か」
「別です」
私は即答しました。
ここ。
受験生がごちゃっとしやすい。
現代の行政不服審査法では、
審査請求期間も原則三か月。
そして第五十七条にも三か月。
数字が同じ。
ものすごく紛らわしい。
「同じ三か月でも役割が違います」
「言ってみろ」
「審査請求期間の三か月は、原則として処分があったことを知った日の翌日から数える、審査請求をするための期間」
「うん」
「第五十七条の三か月は、再調査の請求がされた日の翌日から数える、処分庁が再調査を続けている期間」
「つまり?」
「前者は、請求人がいつまでに審査請求するか」
「うん」
「後者は、再調査を三か月待っても終わらないとき、次の審査請求へ進めることを教えるための基準」
「同じ数字で違う時計か」
私はペンを止めました。
「……先輩」
「何だ」
「今日、例えが上手い」
「失礼だな」
でも本当に。
同じ三か月。
でも。
時計が違う。
一つは、
審査請求をする期間の時計。
もう一つは、
再調査がいつまでも終わらないときの時計。
私はそのままノートに書きました。
――三か月は一つじゃない。何の時計かを見る。
「これ、覚えやすい」
「使え」
「いただきます」
「著作権料取るぞ」
「口頭の一言に?」
「行政書士志望なら契約書作れ」
「嫌です」
次。
起算点。
ここも地味に怖い。
「第五十七条は」
私は読み上げるように言いました。
「再調査の請求がされた日の翌日から起算して三か月」
「翌日」
「はい」
「昨日の宮原さんなら五月二日に出した」
「はい。ただし宮原さんには第五十七条を適用しません」
「例として日付だけ使え」
「じゃあ、もし現代の再調査の請求だったら、五月三日から数えるイメージ」
「そういうことだな」
そして。
条文にはさらに注意点があります。
「補正」
「何だそれ」
「再調査の請求書に不備があって、補正を命じられた場合です」
「ほう」
「その場合は、請求した日じゃなくて、不備が補正された日の翌日から三か月を数える」
相馬先輩が顔をしかめました。
「細けえ」
「試験はこういうところ好きなんですよ」
「性格悪いな」
「試験に人格を与えないでください」
でも。
理由は分かります。
不備だらけの請求書を出した。
処分庁が、
これでは審理できないから直してください。
と補正を命じた。
そして補正されるまで時間がかかった。
そこまで役所側の審理遅延として三か月に入れてしまうのは変です。
だから、
必要な補正が終わった日を基準にする。
「つまり」
私はまとめました。
「普通は再調査の請求日の翌日」
「うん」
「補正命令があった場合は、補正された日の翌日」
「そこから三か月」
「はい」
数字だけ暗記すると見落とす。
三か月。
ではなく。
いつから三か月。
までセットです。
次。
教示。
「教示って何だ」
相馬先輩が聞きます。
「教えること」
「終わり?」
「終わりです」
「珍しく簡単だな」
「でも何を教えるかが重要です」
第五十七条で教えるのは。
再調査の請求が三か月たっても係属している。
だから。
「その処分について、直ちに審査請求をすることができる」
そのこと。
「『もう少し待てますよ』じゃないんですね」
「当たり前だろ」
「『現在鋭意検討中です』でもない」
「役所っぽいな」
「『担当課へ確認しております』でもない」
「昨日聞いた」
そう。
現代法は、
処分庁に対して、
自分のところで再調査が終わっていなくても、
三か月過ぎたら、
もう審査請求へ進めますよ。
と教えさせる。
「これ、ちょっと面白いですよね」
「何が」
「普通なら役所って、自分のところで最後まで処理したいじゃないですか」
「まあな」
「でも第五十七条は、いつまでも抱え込むなって言ってる」
「次へ出せ、と」
「そうです」
私は昨日の沢渡課長の言葉を思い出しました。
待たせるなら、出口くらい見せろ。
あれです。
第五十七条は。
まさに。
再調査という待合室に座らせたまま、
ドアを隠すな。
という条文です。
「じゃあ」
相馬先輩が言いました。
「三か月たったら、再調査は自動で終わるのか」
「終わりません」
「審査請求へ自動で移る?」
「移りません」
「じゃあ何が起きる」
「選べるようになる」
そこが大事。
三か月経過。
イコール。
自動的に審査請求へ移行。
ではない。
処分庁が教示する。
請求人は、
再調査を待ち続けてもいい。
あるいは。
直ちに審査請求へ進むこともできる。
「本人が決めるのか」
「はい」
法律が勝手に手続を乗り換えるのではない。
請求人に、
次へ進める権利がありますよ。
と知らせる。
選択肢を渡す。
ここが重要です。
「で」
相馬先輩が言いました。
「審査請求したら、再調査の方はどうなる」
「そこも重要です」
私はノートに矢印を書きました。
再調査の請求。
↓
三か月経過。
↓
審査請求。
そしてその横。
――再調査の請求は、取り下げられたものとみなされる。
「二本同時に走らねえのか」
「はい」
「なるほど」
同じ処分について。
再調査も続けます。
審査請求も進めます。
二重でお願いします。
とはならない。
審査請求へ進んだなら。
再調査の請求は、
取り下げたものと扱われる。
「ここ、試験で言葉を変えられそうですね」
「どういうふうに」
「『審査請求がされた場合、再調査の請求について処分庁は引き続き決定しなければならない』」
「誤り」
「はい」
「『自動的に棄却される』」
「それも違う」
「『取り下げたものとみなされる』」
「正解」
こういうの。
本当に出そうです。
私は赤丸をつけました。
――審査請求すると、再調査の請求は取下げ擬制。
「取下げ擬制」
相馬先輩が嫌そうな顔をしました。
「急に受験用語にするな」
「便利なんですよ」
「人間の言葉で言え」
「審査請求へ進んだら、前の再調査は終わった扱い」
「最初からそう言え」
でも。
私はこの仕組みが少し好きになりました。
待つ道。
次へ進む道。
選べる。
ただし次へ進んだら、
前の手続は整理して一本にする。
制度として筋が通っている。
次。
書面。
「ここ、昨日所長が聞きましたね」
「何で書面なのか」
「はい」
口頭では駄目。
電話で、
もう審査請求できますよ。
と言うだけでも駄目。
第五十七条は、
書面で教示しなければならない。
「なぜだと思う」
片桐所長が鍋を見ながら聞きました。
「重要な権利行使の案内だから」
「それだけか」
「後で確認できる」
「うん」
「言った、言わないを防げる」
「うん」
「誰に、何を教えたか記録にも残る」
「そうだな」
法律が書面を要求するとき。
面倒を増やすためではありません。
もちろん現場では面倒です。
紙。
紙。
紙。
また紙。
でも。
人生の次の手続へ進めるという重要な案内を、
窓口で一言、
「そういえば審査請求できますよ」
で終わらせない。
それは大事です。
私は宮原さんの言葉を思い出しました。
日にちが分かるだけで、こんなに気持ちが違う。
だったら。
次へ進めると分かることは、もっと大きい。
「所長」
「何だ」
「法律の書面主義って、冷たいけど優しいですね」
「どっちだ」
「両方です」
口で言えば柔らかい。
でも消える。
紙は冷たい。
でも残る。
法律というのは、
案外そこを分かっているのかもしれない。
次。
遅滞なく。
「これって」
私は首をかしげました。
「三か月経過したその日に絶対送れ、って意味ではないですよね」
「そうだな」
「でも、好きなだけ遅らせていいわけでもない」
「当然だ」
三か月経った。
そこから一か月放置。
来月教えます。
では。
三月後の教示という制度の意味が薄くなる。
だから。
遅滞なく。
不必要に遅らせず。
教示しなければならない。
「期限って面白いですね」
「また始まった」
「三か月までは具体的な数字」
「うん」
「その後の教示は『遅滞なく』」
「うん」
「全部を何日以内って数字で固めてるわけじゃない」
法令には、
○日以内。
○月以内。
という硬い期限と。
遅滞なく。
速やかに。
直ちに。
みたいな言葉が混ざっています。
「今回、一つの条文に『遅滞なく』と『直ちに』が両方あるんですよ」
私は指をさしました。
「ややこしいな」
「はい」
処分庁は、
遅滞なく教示する。
そして教示する内容は、
請求人が直ちに審査請求できる。
「主語が違うのか」
「そうです」
遅滞なく。
処分庁の義務。
直ちに。
請求人が審査請求できること。
「これ、択一で入れ替えられたら嫌ですね」
「お前、問題作る側の性格を疑いすぎだ」
「行政書士試験を受けてるとそうなります」
私は書きました。
――処分庁は遅滞なく教示。
――請求人は直ちに審査請求できる。
ここ。
同じ文の中にあるので危険。
「じゃあ」
相馬先輩が言いました。
「第五十七条の目的を一言で言え」
「再調査が長引いたときに、請求人が次の審査請求へ進めるようにする」
「もう少し」
「処分庁でいつまでも待たされるのを防ぐ」
「もう少し」
「……救済の停滞を防ぐ」
片桐所長がこちらを見ました。
「それでいい」
救済の停滞。
まさにそれです。
再調査の請求は。
処分庁自身が、
もう一度事実や判断を見直す。
身近で、場合によっては早く解決できる。
それは便利です。
でも。
同じ役所の中にいる。
ということは。
処理が長引けば、
その人はずっとそこで待つことになる。
だから現代法は。
三か月という区切りを置いた。
「旧法の異議申立ての問題点ともつながりますね」
私は言いました。
「どういうことだ」
「処分庁自身に見直してもらう仕組みには、近いから早く直せる利点があります」
「うん」
「でも、同じところでずっと抱えられる危険もある」
「昨日みたいにな」
「はい」
昨日の宮原さんの異議申立ては、
現代法の第五十七条の適用場面ではありません。
でも。
旧法時代の、
処分した側に見直しを求める。
その手続が長引く。
本人は次が見えない。
という構造。
そこを見ると。
なぜ現代法が、
異議申立てを原則廃止し、
審査請求中心へ整理したのか。
なぜ、
処分庁側で再調査を続ける場合にも、
三か月後の出口を用意したのか。
少し見えてきます。
「ただし」
片桐所長が言いました。
「制度改正の理由を単純化するな」
「はい」
「昨日の一件だけを見て、だから全部変わった、とは言えん」
「もちろんです」
そこは大切。
一つの事件がそのまま法改正理由ではない。
制度には制度全体の歴史があります。
でも。
具体的な困り方を見ると、
制度が何を防ごうとしているのかは分かりやすくなる。
私はノートを横にして、
旧法。
現代法。
と比較しました。
旧法。
異議申立てと審査請求が併存。
処分庁自身に異議申立てをする場面がある。
申立期間は原則六十日。
現代。
原則として審査請求に一本化。
審査請求期間は原則三か月。
一定の場合に再調査の請求。
さらに。
再調査が三か月を超えて係属すれば、
第五十七条の教示。
「審理員も現代ですね」
「ああ、それ昨日も言ってたな」
「昭和六十三年にはいません」
「何度言うんだ」
「私が混乱するからです」
現代では。
審査請求の審理において、
原処分に関与していない職員を審理員として指名する仕組みがある。
旧法時代には存在しない。
ここも。
行政内部での救済に対し、
公正さをどう確保するか。
という問題とつながっています。
「整理すると」
私は言いました。
「旧法は、処分庁自身への異議申立てが一般的な仕組みとして存在した」
「うん」
「現代法では原則審査請求に一本化」
「うん」
「ただし一定の場合に再調査の請求が残る」
「うん」
「でもそれが長引いたら、三か月で審査請求への出口を教える」
「なるほどな」
なんだか。
制度改正が一本の線に見えてきます。
同じ行政内部の救済でも。
ただ、
もう一度見直してください。
では終わらない。
誰が審理するのか。
どれくらい待つのか。
次へ進めるのはいつか。
そのことを誰が教えるのか。
手続は、
細かくなるほど人間味がなくなるように見える。
でも逆なのかもしれません。
細かく決めないと。
人は、
お待ちください。
の一言でいくらでも待たされる。
私は次の見出しを書きました。
――第五十七条のひっかけポイント。
「来たな」
相馬先輩が言います。
「試験モードです」
「やれ」
「第一問」
「勝手に始めるな」
「再調査の請求が三か月係属していれば、処分庁は請求人に対し、口頭で審査請求できる旨を教示すればよい」
「誤り。書面」
「正解」
「次」
「再調査の請求が三か月係属している場合、当然に審査請求へ移行する」
「誤り。本人が審査請求する」
「正解」
「次」
「三か月経過後に審査請求がされた場合も、再調査の請求はそのまま並行して続く」
「誤り」
「どうなる?」
「取り下げた扱い」
「正解」
相馬先輩が少し得意そうです。
腹立つ。
「次」
「三か月の起算点は、処分を知った日の翌日である」
「それ、審査請求期間と混ぜてんだろ」
「正解です」
「再調査をした日の次の日から」
「正確には、再調査の請求がされた日の翌日から」
「細けえ」
「そこを取る試験です」
「嫌な世界だな」
「ようこそ」
さらに。
補正命令があったとき。
起算点は補正された日の翌日。
「これも忘れんな」
相馬先輩が言いました。
「先輩が受験生みたいになってきましたね」
「お前が毎日やるからだ」
「じゃあ受けます?」
「絶対嫌だ」
私は笑いました。
次。
第五十七条と教示制度。
「ここ、条文の位置だけ見ると分かりにくいんですが」
「何だ」
「行政不服審査法って、手続を用意するだけじゃなく、本人にその手続を知らせる仕組みも結構大事なんですよ」
「知らなきゃ使えねえからな」
「そうです」
救済制度があります。
でも本人は知りません。
では。
制度がないのと大差ない。
だから。
処分時の教示。
誤った教示がされた場合の救済。
そして。
三月後の教示。
「法律って」
私は言いました。
「入口だけじゃなく、乗り換え案内まで用意するんですね」
「駅みたいに言うな」
「でも似てません?」
処分。
不服があります。
まずこの手続へ。
まだ終わりません。
三か月たちました。
では次の審査請求へ進めます。
こちらです。
まるで。
役所駅。
再調査線。
三か月遅延のため審査請求線へお乗り換えください。
「お前の頭は平和だな」
「覚えやすいんです」
でも。
乗り換え案内は大事です。
駅で出口が分からないだけでも不安になる。
まして。
自分の商売。
許可。
生活。
それがかかった手続で、
次へどう進むか分からない。
その不安は大きい。
「宮原さんが言ってました」
私はノートを見ながら言いました。
「日にちが分かるだけで気持ちが違うって」
「ああ」
「第五十七条は、日にちだけじゃなくて、次の手続まで教える」
「そうだな」
「かなり大きいですね」
昨日までは、
三月後の教示。
その七文字を見ても、
眠い。
としか思わなかった。
ひどい話です。
今なら。
その後ろに、
三か月待っている人が見える。
電話をする。
まだです。
また電話する。
まだです。
役所へ行く。
まだです。
では私はどうすればいいんですか。
そこで。
法律が答える。
もう審査請求へ進めます。
しかも。
そのことを役所の側から、
書面で教えなさい。
「冷たいですね」
私は言いました。
「何が」
「条文」
「いつも言うな」
「だって冷たいですよ。三月、係属、遅滞なく、教示」
「うん」
「でも」
私は少し考えました。
「昨日の『まだ調べています』より、ずっと優しい」
相馬先輩が黙りました。
片桐所長が鍋の火を止めます。
「そういうことだ」
短い。
でも。
たぶん今日の答えでした。
曖昧な優しさは、
人を待たせることがあります。
もう少しです。
ちゃんと調べています。
心配しないでください。
言葉は柔らかい。
でも。
いつまで。
その答えがない。
一方。
三か月。
書面。
直ちに審査請求。
冷たい。
固い。
逃げ道がない。
だからこそ。
三か月を超えたら、
役所も、
もう少し待ってください。
だけでは済まない。
次へ進む道を教えなければならない。
条文の冷たさが、
役所の曖昧さを止める。
私はノートの最後に四角を書きました。
「今日の一行です」
「長くすんなよ」
「分かってます」
少し考える。
そして書きました。
――三か月待たせたら、次の扉を紙で示せ。
相馬先輩が覗き込みます。
「まあまあ」
「またまあまあ」
「もう少し法律っぽくしろ」
「じゃあ」
その下に。
――再調査が三か月続けば、書面で審査請求への出口を教える。
「長い」
「先輩なら?」
「三か月で出口を教えろ」
「短すぎます」
「一行だろ」
「試験に必要な『書面』が消えました」
「じゃあ『三か月、書面で出口』」
「標語!」
片桐所長が湯呑みを置きました。
「それで覚えろ」
「所長まで!」
私は結局、ノートの一番下に書きました。
――三か月・書面・直ちに審査請求。待たせたら出口を教える。
「結局長え」
「情報量がありますから」
「試験前に見返せるのか」
「未来の私を信じます」
「未来人のくせに未来頼みか」
「ややこしいこと言わないでください」
窓の外。
共同市場の方向には、夕方の空が広がっています。
宮原さんの店では。
たぶん今日も、
昆布。
煮干し。
削り節。
干し椎茸。
木箱が店先に並んでいる。
その木箱が十一月以降も残るかは分かりません。
異議申立てが認められるかも分からない。
現場編でできたのは、
今すぐ撤去されることをいったん止め、
結論の時期を見えるようにしただけ。
それでも。
その事件を見たから。
私は初めて第五十七条が分かりました。
三か月という数字は。
役所に、
三か月以内に必ず全部終わらせろ。
と単純に命じる数字ではない。
再調査が終わらなかったときに、
請求人をその場へ縛り続けないための線。
その線を越えたら。
次へ行ける。
そのことを、
処分庁自身が。
書面で。
教える。
そして本人が審査請求へ進めば。
再調査の請求は取り下げたものとみなされる。
救済を、
同じ場所で腐らせないための仕組みです。
「こはる」
所長が呼びました。
「はい」
「味を見ろ」
「何の」
「出汁だ」
「何で私が」
「見習いだ」
「だから職域が広すぎるんです!」
湯呑みに少し注がれる。
飲む。
「……おいしい」
悔しい。
「宮原さんの昆布だからな」
所長が言いました。
相馬先輩が煮干しを一つ放り込みます。
「これも入れろ」
「そのまま?」
「出汁だろ」
「先輩、雑!」
「細けえこと言うな」
「出汁は行政裁量じゃないんですよ!」
相馬先輩が笑います。
「不服申立てするか?」
「します」
「何について」
「煮干し投入処分」
「処分性がねえ」
「そこからですか!」
片桐所長が鍋の蓋を閉めました。
「こはる」
「はい」
「三か月待つか」
「何をです?」
「出汁」
「腐ります!」
「なら早くしろ」
「今度は迅速すぎる!」
私は鍋を睨みました。
法律には。
三か月待ってから次へ進む手続もあれば。
三十分で昆布を上げる手続もある。
共通しているのは。
たぶん。
いつまでも入れっぱなしにしてはいけない。
ということです。
「先輩」
「何だ」
「今日の最終教訓、できました」
「まだ増やすのか」
「はい」
私はノートの余白に書きました。
――手続も昆布も、入れっぱなしにするな。
「消せ」
「覚えやすいですよ!」
「試験で書くなよ」
「書きません!」
片桐所長が、ほんの少し笑いました。
窓の外では。
商店街の灯りが一つずつ点いていました。
三か月。
ただの数字だったものが、
今日は一つの境界線に見えます。
ここまでは待つ。
ここを越えたら。
次へ進む道を知らせる。
法律は、
人に代わって怒鳴ってはくれません。
役所を急かすために机を叩いてもくれません。
ただ。
静かに線を引く。
そして言う。
ここから先は、
もう待つだけでなくていい。
その冷たい一本線が。
出口の見えない人にとっては。
案外。
いちばん頼れる道しるべなのかもしれません。
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