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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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227/274

[行政不服審査法57条・三月後の教示]現場編 「まだ役所で調べていますから、お待ちください」の罠。三か月で出口を教える未来の制度と、待たせるだけでは済まさない昭和の不服申立て

挿絵(By みてみん)

 待つことも手続の一部です。


 でも。


 いつまで待てばいいのか分からない「お待ちください」は、手続というより沼です。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の朝、私は机の上のカレンダーを三回見ました。


 五月。


 六月。


 七月。


 そして、八月。


「……三か月、超えてる」


「何がだ」


 向かいの机で新聞を畳んでいた相馬先輩が聞きました。


「これです」


 私は一枚の控えを持ち上げました。


 日付は五月二日。


 その紙を持ってきたのは、事務所の来客用椅子に座る女性でした。


 宮原澄江さん。


 五十八歳。


 駅前から少し離れた古い共同市場で、乾物屋を営んでいます。


 昆布。


 煮干し。


 削り節。


 干し椎茸。


 店先には昔ながらの木箱が並ぶ。


 派手さはありません。


 でも近所の人に言わせれば、


「味噌汁の味が決まらないときは宮原さんのところへ行け」


 という店だそうです。


 その宮原さんが持ってきたのは、市から受けた処分に対する異議申立書の控えでした。


 三か月前。


 市場の一部が駅前再整備に伴う道路拡幅予定地にかかるとして、市は宮原さんに対し、それまで認めていた通路部分への商品陳列を認めないという処分をした。


 宮原さんの店は狭い。


 店内だけでは商品を並べきれません。


 長年、決められた範囲で店先に木箱を置いてきた。


 それが駄目となれば、商売への影響は大きい。


 しかも。


 問題の道路工事は、まだ始まっていません。


「それで異議申立てを?」


「はい」


 宮原さんは頷きました。


「市役所で、納得できないなら書面を出してくださいって言われて」


「五月二日に提出」


「そうです」


「それから何か届きました?」


「何も」


「一度も?」


「はい」


「電話は?」


「私から何度か」


「市役所からは?」


「ありません」


 私はペンを止めました。


「電話すると、何て言われるんです?」


 宮原さんは困ったように笑いました。


「まだ調べていますから、お待ちくださいって」


「毎回?」


「毎回」


 便利だ。


 便利すぎる。


 役所の「お待ちください」は、場合によっては魔法の呪文です。


 唱えた瞬間、相談者だけ時間の流れが止まる。


 役所の時計は普通に進んでいるのに。


「それで昨日また市役所に行ったら」


「はい」


「もうすぐ市場の整理を始めるから、今月いっぱいで木箱をどけてくださいって」


「……え?」


 私は顔を上げました。


「異議申立ての結果は?」


「まだ出てません」


「でも木箱はどけろ?」


「はい」


「それ、おかしくないですか」


「こはる」


 奥から片桐所長の声がしました。


「感想じゃなく整理しろ」


「はい」


 そうでした。


 おかしい。


 ひどい。


 納得できない。


 それは入口です。


 でも、役所相手に扉を開ける鍵は、そこではない。


 私は机に紙を一枚置きました。


「宮原さん。最初の処分の通知もありますか」


「あります」


「異議申立てを出したときの受付印つきの控えは?」


「これです」


「昨日、木箱を撤去するよう言われたのは書面ですか」


「これを渡されました」


 出てくる。


 紙。


 紙。


 また紙。


 行政法というのは、紙をめくるたびに別の顔を出します。


 私は一枚ずつ並べました。


 最初の処分。


 五月二日の異議申立て。


 その受付印。


 その後、決定なし。


 そして昨日の通知。


 八月末までに店先の商品陳列をやめること。


 理由。


 駅前周辺整備の円滑な実施のため。


「三か月……」


 私はもう一度呟きました。


 その瞬間。


 頭の中で、現代の行政不服審査法が元気よく立ち上がりました。


 三か月。


 再調査の請求。


 三月後の教示。


 処分庁は――。


 私は勢いよく顔を上げました。


「これ、市役所は書面で教えなきゃいけないんじゃ――」


 言いながら。


 止まりました。


 相馬先輩が嫌な顔をしています。


「何をだ」


「……ええと」


「言ってみろ」


「三か月経ったから、直ちに審査請求できるって」


「誰が?」


「市が」


「何の話だ」


「再調査の請求が三か月――」


 そこまで言って。


 私は机に額をぶつけたくなりました。


 違う。


 時代が違う。


「……ない」


「何がだ」


「再調査の請求が、ない」


「最初からねえよ」


「ですよね!」


「何で嬉しそうなんだ」


 嬉しくありません。


 絶望しています。


 未来の条文が、また昭和の現場に乱入してきました。


 現代の行政不服審査法なら。


 法律に再調査の請求を認める定めがある処分について、処分庁に再調査を求める制度があります。


 そして。


 その再調査の請求が、請求した日の翌日から三か月たっても係属したままなら。


 処分庁は、


 もう直ちに審査請求できますよ。


 と、遅滞なく書面で請求人に教えなければならない。


 待たせっぱなしにしないための出口です。


 でも。


 今は昭和六十三年。


 目の前にあるのは、


 再調査の請求ではない。


 異議申立て。


 旧行政不服審査法。


 制度そのものが違う。


「朝比奈」


 相馬先輩が呆れたように言いました。


「お前、三か月って数字だけ見て何か別の法律引っ張ってきただろ」


「耳が痛いです」


「法律は数字合わせじゃねえぞ」


「ごもっともです」


「で?」


「はい?」


「今使える制度は何だ」


 そこです。


 私は息を吐きました。


 未来の制度がどれほど親切でも、昭和六十三年の宮原さんを救ってはくれません。


 平成二十六年全面改正後の条文を持って市役所へ行って、


「未来ではこうなってます!」


 と言っても。


 せいぜい保健所か精神科を案内されます。


 行政書士見習いとしては最悪の営業成績です。


「まず」


 私は紙を指しました。


「異議申立て自体は、まだ係属(しんりちゅう)している」


「ああ」


「でも、申立てをしただけで元の処分の効力が自動的に止まるわけじゃない」


「そうだ」


「だから市は、異議申立ての結論を出さないまま、元の処分を前提に木箱を撤去させようとしている」


 宮原さんの表情が曇ります。


「じゃあ、申し立てた意味はなかったんですか」


「いえ」


 私はすぐ答えました。


「そういう意味じゃありません」


 でも。


 その質問は痛い。


 不服を申し立てた。


 役所は受け取った。


 三か月待った。


 なのに結論は出ない。


 その間にも処分だけは進んでいく。


 相談者からすれば、


 何のための不服申立てなの。


 と思って当然です。


 片桐所長が机の前まで来ました。


「宮原さん」


「はい」


「異議申立てをしたからといって、それだけで元の処分が止まる制度ではありません」


「……はい」


「ですが」


 所長は撤去通知を指しました。


「だからこそ、別に考える」


「別に?」


「処分を見直せという話と、その結論が出るまで処分を進めてよいかという話は、別です」


 私は顔を上げました。


 それだ。


 ごちゃっとしていたものが、二つに割れました。


 一つ。


 異議申立ての本体。


 商品陳列を認めない処分が適切だったのか。


 もう一つ。


 その結論が出る前に、木箱を撤去させてしまってよいのか。


「執行停止」


 私は言いました。


 相馬先輩がこちらを見ます。


「ようやく戻ってきたな」


「はい」


 不服申立てをした。


 でも処分の効力や執行が当然に止まるわけではない。


 だから必要なら、


 争っている間に処分が進んで取り返しのつかないことにならないよう、執行停止を求める。


 昨日までテキストで読んでいたときは、


 執行不停止の原則。


 執行停止。


 はい次。


 そんな感じでした。


 でも今は。


 宮原さんの店先の木箱が見えます。


 煮干しの袋。


 昆布。


 削り節。


 八月末に全部引っ込めろと言われている。


 三か月待っている間に。


「所長」


 私は言いました。


「異議申立てについて早急に判断するよう求める。それと同時に、少なくとも結論が出るまで、執行停止も求める」


「理由は」


「このまま撤去させれば、異議申立てで後から宮原さんの主張が認められても、商売上の損失が先に出ます」


「それだけか」


 う。


 所長の「それだけか」は、試験会場の見直し五分前より怖い。


 私は資料を見ました。


 駅前再整備。


 道路拡幅。


 工事。


「……工事の予定」


「そうだ」


「本当に八月末までに撤去しないと支障が出るのか、確認が必要です」


「うん」


「行政側の都合も見る」


「そうだ」


 片方だけ見てはいけない。


 宮原さんが困る。


 だから止めろ。


 では弱い。


 止めた場合に、行政側にどんな支障があるのか。


 今すぐ執行する必要が本当にあるのか。


 そこまで並べて初めて、


 感情ではなく比較になる。


 相馬先輩が立ち上がりました。


「市役所行くぞ」


「今からですか」


「三か月待たされてる人の前で『今度行きます』って言えるか?」


「行きます」


 正論が今日も雑に刺さります。


 市役所二階。


 総務課。


 私はこの部屋に来るたび思います。


 役所の廊下というのは、どうしてあんなに「大声を出すと負け」みたいな空気があるのでしょう。


 声を荒らげた瞬間、


 はいはい住民対応案件ですね。


 という透明な箱に入れられてしまいそうです。


 だから。


 今日は紙で殴ります。


 比喩です。


 本当に殴ったら行政法ではなく刑法になります。


「宮原澄江さんの件です」


 相馬先輩が机の上に控えを置きました。


 沢渡課長は、それを見るなり眼鏡の奥の目を細めました。


「共同市場ですか」


「五月二日に異議申立て」


「ええ」


「今日で三か月を超えてる」


「確認しています」


 来た。


 魔法の言葉。


「何をです?」


 私が聞きました。


「関係課との調整です」


「何の調整ですか」


「駅前整備計画との整合です」


「いつ終わりますか」


「期限を申し上げるのは難しいですね」


 ぬるり。


 ウナギか。


 私はもう一歩行きます。


「では、八月末の撤去は?」


「予定どおりです」


「異議申立ての判断が終わってなくても?」


「不服申立てがされたからといって、処分の効力が当然に停止するわけではありません」


 正しい。


 だから厄介です。


 間違ったことを言ってくれれば簡単なのに。


 沢渡課長は、こういうところで絶対に雑な失点をしません。


「そこは分かっています」


 私は答えました。


「だったら問題はないでしょう」


「あります」


「何でしょう」


「三か月判断していないことと、八月末に処分だけ進めることです」


「それは別の問題です」


「はい」


 私は頷きました。


 沢渡課長の眉が少し動きました。


「別です」


 私は繰り返しました。


「だから分けて話します」


 相馬先輩が横で、ほんの少し口元を上げました。


 まず一つ。


 異議申立ての判断。


「五月二日に受理して、現在も判断が出ていません」


「先ほど申し上げたように、関係課と調整中です」


「三か月以上かかっている理由を記録で示せますか」


「内部の検討状況をすべて説明する義務があるとは――」


「全部とは言ってません」


 私は受付印を指しました。


「少なくとも、何を確認していて、なぜまだ判断できないのか。それくらい分からなければ、宮原さんにはいつまで待てばいいのか見当もつきません」


「手続には時間がかかることがあります」


「それも分かります」


「では」


「だから二つ目です」


 撤去通知を置く。


「その時間がかかっている間に、なぜ元の処分だけは先に進める必要があるんですか」


 沢渡課長が黙りました。


「八月末という期限の根拠は?」


「整備日程です」


「工事着手日は?」


「担当課で管理しています」


「何月何日ですか」


「確認します」


「工事範囲は?」


「確認します」


「宮原さんの店先は、最初の工事区域に入っていますか」


「確認します」


 三連続。


 確認します。


 相馬先輩が腕を組みました。


「確認してねえことだらけじゃねえか」


「担当課の詳細資料はここにはありません」


「だったら」


 先輩が低い声で言いました。


「その確認も終わってねえのに、撤去だけ八月末って決めた根拠は何だ」


 沢渡課長は黙りました。


 怒っているわけではありません。


 困ってもいない。


 ただ。


 頭の中で書類棚を高速検索している顔です。


「朝比奈さん」


「はい」


「何を求めますか」


 来た。


 ここで、


 かわいそうだから何とかしてください。


 では終わる。


 私は言いました。


「異議申立てについて、速やかに判断してください」


「検討します」


「それと」


 私はもう一枚の紙を出しました。


「執行停止を求めます」


 沢渡課長の目が紙へ落ちました。


「準備がいいですね」


「三か月待ってますから」


「あなたは今日知ったのでは?」


「そこは言わなくていいんです」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


 沢渡課長は申立書案を読みます。


「不服申立てをしているから当然止めろ、という話ではないんですね」


「違います」


「理由は?」


「工事の具体的着手時期がこちらには示されていない。一方で、宮原さんは店先の商品陳列を失えば、すぐ営業に影響が出る」


「行政側にも整備計画があります」


「だから確認してください」


「何を」


「今、止めることで本当に工事に支障が出るのか」


 私は沢渡課長を見ました。


「一か月待てない工事なのか。それとも、役所の判断が終わるまで現状を保てるのか」


 沢渡課長は答えません。


「そこを見ないで」


 私は続けました。


「『不服申立ては審理中です。でも処分は進めます』だけだと、宮原さんは何のために異議申立てをしたのか分からなくなります」


「制度上、不服申立てと処分の執行は別です」


「はい」


「なら矛盾はありません」


「制度上は」


 私は頷きました。


「でも、別だからこそ、両方きちんと判断してください」


 一瞬。


 空気が止まりました。


 所長が後ろで何も言いません。


 でも。


 止められない。


 ということは、たぶん外してはいない。


「異議申立ての判断には時間がかかる」


「はい」


「なら、その間の執行をどうするかを別に判断する」


「はい」


「そういう主張ですか」


「そうです」


 沢渡課長は書面をもう一度見ました。


「受け取ります」


 よし。


 まだ勝ってはいません。


 でも、


 待ってください。


 だけだった話が、


 何を待っているのか。


 その間、処分はどうするのか。


 二つの問題に分かれました。


 こうなると、役所側も「ただ待て」だけでは返しにくい。


 やっぱり法律は、不思議です。


 人の困りごとを、


 細かく分解する。


 冷たい。


 でも。


 分解した瞬間、どこを押せば動くのかが見えてくる。


「ところで」


 沢渡課長が言いました。


「朝比奈さん」


「はい」


「先ほどから、三か月という数字を妙に気にしていますね」


 ぎく。


「気のせいでは」


「何か根拠がありますか」


「……ありません」


「ありません?」


「昭和六十三年には」


 沢渡課長が眉を寄せます。


「妙な言い方ですね」


「気にしないでください」


「未来ではあるみたいな言い方ですが」


「気のせいです」


 相馬先輩が横から言いました。


「こいつは時々、頭の中だけ先に行くんだ」


「先輩!」


「戻ってくりゃ使える」


「褒められてる気がしない」


 沢渡課長は少しだけ笑いました。


「三か月待たせたこと自体は、こちらでも確認します」


「お願いします」


「ただし、三か月経ったから自動的に別の不服申立てへ移れる、という制度ではありませんよ」


「分かってます」


「本当に?」


「今日は分かってます!」


 危ない。


 やっぱりこの人、たまに教官みたいになります。


 事務所へ戻る途中。


 私は相馬先輩の隣を歩きながら、まだ三か月という数字を考えていました。


「先輩」


「何だ」


「未来の法律だとですね」


「また始まった」


「聞いてください」


「短くしろ」


「ある種の処分では、まず処分庁に再調査を求められる制度があるんです」


「異議申立てみたいなもんか」


「似てますけど同じじゃありません」


「面倒くせえな未来」


「法律はだいたい面倒くさいです」


「で?」


「その再調査が三か月たっても終わらなかったら」


 私は指を三本立てました。


「処分庁が、もう直ちに審査請求できますよって、書面で教えなきゃいけないんです」


 相馬先輩が歩きながら私を見ました。


「役所が?」


「はい」


「自分のところでまだ調べてんのに?」


「はい」


「もう上に行っていいぞって?」


「そうです」


「変な制度だな」


「でも」


 私は宮原さんを思い出しました。


 三か月。


 毎回、


 まだ調べています。


 お待ちください。


 そう言われた人。


「今日の宮原さんを見たら、必要な理由が分かります」


 相馬先輩は少し黙りました。


「待たせて囲い込むな、ってことか」


「たぶん」


「未来の法律は親切なんだな」


「昔の困りごとを食べて育ってるんですよ、法律って」


「何だその気持ち悪い生き物」


「私もちょっと言ってから後悔しました」


 でも。


 本当にそう思いました。


 再調査を求めた人が、


 処分庁でいつまでも待たされる。


 いつ結論が出るか分からない。


 次へ進んでよいのかも分からない。


 そんな問題があるから。


 現代法は、


 三か月。


 という線を引く。


 そして。


 その線を越えたら、


 あなたはもう審査請求へ進めます。


 と。


 しかも口頭ではなく、


 書面で教える。


 未来の私は、それをテキストで見て、


「三月後の教示。はい暗記」


 で終わっていました。


 ごめんなさい。


 条文。


 かなり人間のこと考えてました。


 それから四日後。


 市役所から事務所へ電話が入りました。


 相馬先輩が出ます。


「はい。……ああ。……で?」


 この人、役所からの電話でも愛想が変わりません。


「分かった」


 切る。


「宮原さんの件ですか」


「ああ」


「どうなりました?」


「八月末の撤去、いったん止める」


「え」


「異議申立ての判断が出るまで現状維持」


 私は立ち上がりました。


「執行停止?」


「そういう扱いで決まった」


「工事は?」


「まだ先だ」


「やっぱり?」


「第一期工事は十一月予定」


 私は口を開けました。


「十一月?」


「宮原さんの店先は、その工区の端だとよ」


「じゃあ八月末って何だったんですか」


「市場全体で一斉に整理しようとしたらしい」


「三か月も申立てを放置して?」


「放置と言うな」


 片桐所長が奥から言いました。


「まだ結論は出ていない」


「はい」


「だが、判断が遅れている間に実害を出す必要がないことは確認できた」


「はい」


 完全勝利ではありません。


 異議申立てが認められたわけでもない。


 元の処分が取り消されたわけでもない。


 十一月になれば、結局は木箱を引っ込めることになるかもしれません。


 でも。


 八月末。


 という突然の崖は消えた。


 そして何より。


「異議申立ての方は?」


「二週間以内を目途に判断するってよ」


「期限出た!」


「目途だ」


「でも昨日まで『お待ちください』だけだったのに」


 これは大きい。


 終わる日がある。


 次に何が起きるか分かる。


 それだけで、人はずいぶん立ちやすくなる。


 午後。


 宮原さんに来てもらいました。


「今月いっぱいで片付けなくてもいいんですか」


「はい」


 私が答えると、宮原さんは何度も頷きました。


「よかった……」


「ただ、異議申立てそのものの結論はまだです」


「はい」


「工事が始まれば、別の話も出てきます」


「分かってます」


「二週間を目途に判断するとのことです」


「二週間」


 宮原さんは、その数字を小さく繰り返しました。


 それから笑いました。


「日にちが分かるだけで、こんなに気持ちが違うんですね」


 私は何も言えませんでした。


 その一言。


 今日のテーマを全部言われた気がしたからです。


 三か月。


 二週間。


 六十日。


 三か月。


 法律はやたら数字を置きたがります。


 受験生だった私は、


 数字問題。


 嫌い。


 としか思っていませんでした。


 でも。


 期限というのは、


 人を急かすためだけにあるんじゃない。


 待っている人を、


 いつまでも待たせないためにもある。


「これ、皆さんで」


 宮原さんが紙袋を置きました。


「何です?」


「煮干しです」


 相馬先輩の顔が微妙になります。


「煮干しか」


「何ですかその反応」


「差し入れって普通、まんじゅうとかじゃねえのか」


「宮原さん乾物屋さんですよ」


「煮干しをそのまま食えって?」


 宮原さんが笑いました。


「いい煮干しですよ。頭と腹わた取って、そのまま炙ってもおいしいです」


「酒に合います?」


 相馬先輩が急に食いつきました。


「合います」


「いただきます」


「現金!」


「うるせえ」


 私は紙袋を覗きました。


 銀色の煮干しがぎっしり入っています。


 その横に小さな包み。


「こっちは?」


「昆布」


「所長、出汁取れますよ」


「お前が取るのか」


「なぜ私が」


「見習いだろ」


「行政書士見習いの職域に出汁取りは含まれません」


「異議があるなら書面で出せ」


「またそれですか!」


 宮原さんが声を立てて笑いました。


 そのとき。


 電話が鳴ります。


 私は受話器を取りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『沢渡です』


 噂をすれば行政庁。


「お世話になってます」


『宮原さんはいらっしゃいますか』


「今、こちらに」


『それなら伝えてください』


「はい」


『異議申立ての検討ですが、担当課から資料が上がりました』


「もう?」


『あなた方に三か月と言われましたからね』


「法律上の三か月ルールがあるって言ったわけじゃないですよ」


『分かっています』


 怖い。


 先回りされました。


『ただ』


「はい」


『長く係属している案件について、請求人への途中説明がほとんどなかった点は改善します』


 私は瞬きしました。


「途中説明?」


『少なくとも、何を確認しているのか、今後どう進むのか。何も伝えずに「審査中です」だけでは、不必要に不信を招きます』


「沢渡課長がそんな住民に優しいことを」


『切りますよ』


「すみません」


『合理性の問題です』


「はいはい」


『朝比奈さん』


「はい」


『待たせるなら、出口くらい見せろ。そういう話でしょう』


 私は少し黙りました。


「……そうですね」


『では』


 電話が切れました。


 相馬先輩が煮干しを一匹つまみながら聞きます。


「何だって?」


「待たせるなら、出口くらい見せろって」


「誰が?」


「沢渡課長」


「熱でもあるんじゃねえか」


「失礼ですよ」


「お前も似たようなこと言ってただろ」


「私はもうちょっと優しく驚きました」


 片桐所長が煮干しを一匹取ります。


 意外と食べるんだ。


「こはる」


「はい」


「さっき言っていた未来の制度」


「三か月後の教示ですか」


「なぜ書面なんだ」


 私は少し考えました。


 口で、


 もう審査請求できますよ。


 と聞いただけなら。


 聞いていない。


 言った。


 そんな話になるかもしれない。


 本人も正確な内容を後で確認できない。


 いつ。


 何ができるのか。


 権利を行使するための重要な案内だからこそ。


「残すため、ですかね」


「何を」


「出口を」


 所長が頷きました。


「そうだろうな」


 昭和六十三年のこの部屋に、


 未来の第五十七条はありません。


 再調査の請求もありません。


 現代のような、


 三か月たったら直ちに審査請求へ進める。


 そしてそのことを書面で教える。


 そんな仕組みもありません。


 だから今日。


 その条文を宮原さんの事件に直接使うことはできませんでした。


 未来の知識は、


 未来へ帰れ。


 です。


 でも。


 役に立たなかったわけではない。


 三か月という数字を見たから、


 私は、


 なぜ未来ではそんな制度が必要になったんだろう。


 と考えた。


 そして目の前を見ると、


 三か月待たされている人がいた。


 結論なし。


 説明なし。


 次へ進めるのかも分からない。


 なのに処分だけは動く。


 ああ。


 これか。


 と思いました。


 制度改正というのは、


 未来の偉い人が突然思いついた便利機能ではない。


 たぶん。


 こういう、


「まだ調べています」


「もう少し待ってください」


 の向こう側で。


 何人もの人が、


 いつまで。


 と困った結果なのです。


 現代法はそこで線を引いた。


 三か月。


 再調査の請求がまだ続いているなら。


 処分庁は黙って抱え込まず、


 直ちに審査請求できることを、


 書面で教える。


 請求人に、


 次の扉の場所を教える。


 条文は冷たい。


 三月。


 係属。


 遅滞なく。


 書面。


 教示。


 どれも、たいして優しそうな言葉ではありません。


 でも。


「まだです」


 の一言で人を無期限に椅子へ縛りつけないためには。


 たぶん、


「三か月」


 くらい冷たい数字のほうが強い。


 私は机のカレンダーを見ました。


 五月二日から。


 八月。


 三か月。


 受験生だったころなら、


 ただ丸暗記していた数字。


 今日は違います。


 三か月とは、


 待たせていい期間を覚えるための数字ではない。


 待ち続ける人に、


 次へ進める道があると知らせるための線なのです。


「朝比奈」


 相馬先輩が言いました。


「何ぼーっとしてんだ」


「今日の教訓を考えてました」


「またか」


「はい」


「言ってみろ」


 私は少し考えました。


「『審査中』は、出口を隠していい理由じゃない」


 相馬先輩が煮干しを噛みます。


「まあまあだな」


「まあまあ?」


「長い」


「じゃあ先輩なら?」


「待たせるなら次を教えろ」


「……短い」


「だろ」


「悔しい」


 片桐所長が昆布の包みを持ち上げました。


「こはる」


「はい」


「これで出汁を取れ」


「何でですか!」


「三十分水につけろ」


「具体的な期間まで教示された!」


「不服か」


「不服です!」


「なら申し立てろ」


「誰に!」


「俺に」


「処分庁本人じゃないですか!」


 相馬先輩が笑いました。


「三か月待たされるかもしれねえぞ」


「嫌ですよ!」


「安心しろ」


 片桐所長が言います。


「今すぐ判断する」


「本当ですか」


「ああ」


「じゃあ出汁取りしなくていい?」


「棄却」


「早い!」


「簡易迅速だ」


「公正がない!」


 宮原さんが、また笑いました。


 窓の外では、駅前へ向かう商店街に西日が差していました。


 十一月になれば、工事が始まるかもしれない。


 異議申立ての結論だって、まだ分からない。


 宮原さんの木箱が、ずっと今の場所に置ける保証もない。


 それでも。


 昨日まで。


 いつまで待てばいいのか分からなかった人に、


 二週間という目安ができた。


 八月末という崖も、いったん遠ざかった。


 ほんの少しだけ。


 先が見えた。


 人を救う法律というのは、


 いつも処分をひっくり返すわけではありません。


 ときには。


 ただ、


 次の扉がどこにあるかを教える。


 それだけのこともあります。


 でも。


 出口の見えない三か月を過ごした人にとって。


 扉の場所を教えてもらえることは、


 たぶん。


 決して小さな救済ではないのです。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
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