[行政不服審査法56条・再調査請求後の審査請求]現場編 「先の決定が出るまで、次へは行けません」の罠。止まった不服申立てと、待たされ続ける人を動かす“次の扉”
役所に書類を出したあとの「お待ちください」は、期限が見えないとだんだん怖くなります。
一週間。
二週間。
一か月。
そして二か月。
待っている側の生活は止まってくれないのに、書類だけが役所の机の上で冬眠する。
そんなことがあります。
昭和六十三年。
地方都市。
片桐行政書士事務所。
その日の朝、私はカレンダーに赤い丸をつけていました。
「先輩」
「何だ」
「六十一日です」
「何が」
「昨日で六十日。今日で六十一日」
「だから何がだ」
「だから――」
私は机の向かいに座っている女性を見ました。
三十四歳。
宮下早苗さん。
駅南口の古い商店街で、小さな弁当屋をやっています。
娘さんが一人。
小学五年生。
三年前に離婚。
朝四時半に起きて米を炊き、煮物を作り、昼前には工場や商店へ弁当を配る。
午後は店を閉めて、娘さんが帰ってくるころには家にいる。
派手な暮らしではありません。
むしろ、毎月ぎりぎり。
そんな宮下さんの生活を支えていた一つが、児童扶養手当でした。
ところが。
二か月前。
県から一通の通知が来た。
――児童扶養手当の支給を停止する。
理由。
離婚した元夫から継続的な援助を受け、事実上、生計維持に関与していると判断したため。
「援助って」
私は聞きました。
「実際、受けてるんですか」
「月に一度もらってるのは、娘の給食費と学用品代くらいです」
「あなたの生活費は?」
「もらってません」
「家賃は?」
「私です」
「店の仕入れも?」
「私です」
「元ご主人は一緒に住んでる?」
「まさか」
宮下さんが苦笑しました。
「車で十分くらいのところに住んでます」
「役所は何を見たんでしょう」
「通帳と、近所の人の話だそうです」
「近所の人?」
「娘の父親が、ときどき店に来ているって」
なるほど。
来る。
会う。
子どもの費用を一部負担する。
その事実をつなげて、
――実質的には生活を支えているのではないか。
と判断したらしい。
「でも」
宮下さんは膝の上で両手を握りました。
「あの人が来るのは、娘に会うためです」
「はい」
「学校の靴を買ってくれたこともあります。遠足代を出してくれたこともあります。でも、それって……」
言葉が止まる。
私は待ちました。
「それで、夫婦に戻ったことになるんですか」
小さな声でした。
この手の相談で、一番重いのは。
法律用語より。
相談者が自分の生活を、自分で疑い始めてしまう瞬間だったりします。
元夫から娘のためのお金を受け取った。
だから不正だったのか。
会わせた。
だから手当をもらってはいけなかったのか。
自分が悪かったのか。
役所から一枚通知が届くだけで、人はそこまで考えてしまう。
「宮下さん」
片桐所長が言いました。
「その話は、今は分けましょう」
「え?」
「支給停止が正しかったかどうか」
「はい」
「あなたが悪い人間かどうか」
所長は少し間を置きました。
「それは別の話です」
宮下さんは、しばらく所長を見ました。
それから。
「……はい」
小さく頷きました。
こういうときの所長は強い。
慰めるわけじゃない。
でも、ごちゃ混ぜになったものを分ける。
それだけで人は少し息ができる。
法律の冷たさには、たまにこういう使い道があります。
「で」
相馬先輩が通知をめくりました。
「異議は出したんだな」
「はい」
宮下さんは鞄から控えを出しました。
「通知が来てすぐ、市役所で相談して」
私は受け取ります。
都道府県知事に対する異議申立て。
提出日は――。
「ちょうど六十一日前」
「はい」
「その後、連絡は?」
「ありません」
「補正は?」
「ほせい?」
「書類に足りないところがあるから直してください、とか」
「ありません」
「追加資料を出してくれとは?」
「一度だけ。元夫の住所が分かるものを」
「それは出した?」
「すぐ出しました」
私は日付を確認しました。
それも五十日以上前。
「電話は?」
「何度もしました」
「何て?」
「審査中です」
はい。
出ました。
役所界の万能呪文。
審査中です。
検討中です。
確認中です。
この三兄弟、だいたい何も教えてくれません。
「昨日、県にも電話したんです」
宮下さんが続けました。
「それで、いつ決まるんですかって」
「はい」
「そしたら……」
少し言いにくそうにしてから。
「『異議申立てについて決定が出るまでは、次の手続には進めませんから、お待ちください』って」
私は止まりました。
「そう言ったんですか」
「はい」
「決定が出るまで?」
「はい」
「ずっと?」
「そういう意味だと思います」
相馬先輩が私を見る。
私は相馬先輩を見る。
片桐所長は何も言いません。
私の頭の中で。
何かが。
カチッ。
と音を立てました。
待て。
待って。
これ。
知ってる。
私は机の端に置いてあった鉛筆を握りました。
再調査の請求。
その後の審査請求。
原則。
再調査の請求について決定を経たあとでなければ、審査請求できない。
でも例外。
一定期間、決定がない場合。
正当な理由がある場合。
そのときは、決定を待たず審査請求へ行ける。
そして。
先にしていた再調査の請求は、原則として取り下げたものとみなされ――。
「……あ」
「何だ」
相馬先輩が言いました。
「今、分かりました」
「何が」
「これ、五十六条です」
「何の」
「行政不服審査法」
「何条だ」
「五十六条」
「そんな条文だったか?」
私は固まりました。
嫌な予感。
ものすごく嫌な予感。
「再調査の請求についての決定を経ずに審査請求がされた場合の――」
「再調査?」
相馬先輩が眉を寄せます。
私は。
ゆっくり。
顔を上げました。
壁のカレンダー。
昭和六十三年。
はい。
終了。
「あああ……」
「何だ急に」
「違う」
「何が」
「時代が違う」
「またか」
またです。
現代行政法受験生、昭和へ転生。
最大の敵。
行政庁でも裁量でもない。
法改正。
「先輩」
「何だ」
「今の話、忘れてください」
「もう聞いた」
「では脳内から削除してください」
「無理だ」
私は両手で顔を覆いました。
危ない。
とんでもなく危ない。
現代の行政不服審査法にある「再調査の請求」。
その制度を昭和六十三年へそのまま持ち込むところでした。
この時代の基本形は。
審査請求。
異議申立て。
そして場合によっては再審査請求。
現代みたいに、
原則として審査請求へ一本化。
ではありません。
審理員もいない。
行政不服審査会への諮問もない。
そして何より。
今、宮下さんがしているのは。
再調査の請求ではない。
異議申立てです。
「朝比奈」
片桐所長が言いました。
「未来の法律で仕事をするな」
「はい……」
「今ある条文を見ろ」
「はい」
言われていることは百パーセント正しい。
ぐうの音どころか、行政法の音も出ません。
「ただ」
所長が続けました。
「発想は捨てるな」
「え?」
「待たなければ次へ行けないのか」
私は顔を上げました。
「そこを調べろ」
――あ。
私はすぐ、宮下さんの通知と異議申立書を並べました。
処分の根拠。
不服申立ての教示。
個別法。
一般法。
どちらが優先する。
どこへ次の不服申立てができる。
いつからできる。
昨夜までなら、こういう条文探しは眠気との戦いでした。
でも。
今は違う。
宮下さんが待っています。
弁当屋の仕入れ代。
娘さんの学用品。
来月の家賃。
役所の決定を待っている間にも、全部期限が来る。
すると不思議なもので。
六法の小さな文字が、急に全員こちらを向きます。
「ありました」
私は言いました。
「先輩」
「何だ」
「この手当の不服申立て、行政不服審査法だけ見ちゃ駄目です」
「特則か」
「はい」
個別法に、不服申立てについて特別の定めがある。
都道府県知事の処分に対し、まず異議申立て。
その決定になお不服があれば、さらに審査請求。
そして。
「ここです」
私は指で追いました。
「異議申立てをしてから一定期間、決定がない場合」
「うん」
「ずっと待たなくていい」
宮下さんが顔を上げました。
「え?」
「次へ行けます」
「でも昨日、県の人は……」
「決定が出るまで待てと言った」
「はい」
「それ、少なくとも今の状況では言い切れません」
相馬先輩が私から六法を取りました。
「何日だ」
「六十日」
「今日は?」
「六十一日目」
先輩の口元が少し動きました。
「だからさっきから六十一日って騒いでたのか」
「私も今つながりました」
「遅え」
「未来法が邪魔したんです!」
「知らねえよ」
でも。
確かに。
六十一日。
ただの数字ではなくなりました。
昨日と今日で。
扉が一枚増えている。
「宮下さん」
私は言いました。
「今までの異議申立てについて、決定が出ていない」
「はい」
「でも、一定期間決定がない場合は、棄却されたものとみなして、その先の審査請求へ進める仕組みがあります」
「棄却……」
宮下さんの顔が曇ります。
「負けたってことですか」
「あ、いえ」
私は慌てました。
そこ、大事。
「本当に県が『あなたの申立ては理由がありません』と判断した、という意味じゃありません」
「違うんですか」
「待たされ続けて先へ行けなくならないように、手続上、次へ進むための扱いができる、ということです」
「……わざと負けたことにする?」
「ものすごく雑に言えば」
「朝比奈」
所長。
「すみません」
私は言い直しました。
「決定がないことを理由に、ずっと足止めされないための仕組みです」
宮下さんは黙りました。
それから。
「そんなの、あるんですね」
「あります」
「昨日は、待ってくださいって」
「だから確認しに行きます」
相馬先輩が立ち上がりました。
早い。
「県ですか」
「先に市役所だ」
「何で?」
「宮下さんが最初に相談した窓口が市役所なんだろ」
「はい」
宮下さんが頷きます。
「教示と経過を確認する。それから県」
なるほど。
情報。
手続。
誰が何を言ったか。
先輩は「論点で喋るな」と言うくせに、やっていることはいつも論点整理そのものです。
市役所二階。
総務課。
そして。
「またですか」
沢渡課長がいました。
今日も灰色の背広。
今日も細い眼鏡。
今日も「住民の怒鳴り声では血圧が一ミリも動きません」という顔です。
「宮下早苗さん」
相馬先輩が言いました。
「児童扶養手当の支給停止」
「福祉課の案件ですね」
「県処分だ」
「ええ」
「異議申立てから六十日過ぎた」
沢渡課長の指が止まりました。
「……なるほど」
反応した。
私は横から言います。
「昨日、県に確認したら、『異議申立ての決定が出るまで次へは行けない』と言われたそうです」
「誰が言ったんです」
「担当者名までは聞いてません」
「それでは確認できませんね」
「でも制度としてどうです?」
沢渡課長は少し考えました。
「この件は行政不服審査法の一般ルールだけでは判断できません」
「個別法の特則」
「分かっているじゃないですか」
ぐ。
この人。
たまに教師みたいな顔をする。
「異議申立てを経た後に、さらに上の段階の審査を求められる仕組みがあります」
「はい」
「そして、異議申立てが放置された場合についても規定がある」
「六十日」
「ええ」
沢渡課長が私を見る。
「よく気づきましたね」
「七割くらい未来の法律のおかげです」
「何の話です?」
「こちらの話です」
危ない。
「じゃあ」
私は言いました。
「宮下さんは、決定が出るまで無期限に待つ必要はない」
「その理解でよいでしょう」
「昨日の説明は?」
「県の担当者に聞いてください」
「逃げましたね」
「所管が違います」
「役所用語で逃げましたね」
「正確な区分です」
強い。
この人、本当に感情では崩れません。
相馬先輩が机に手を置きました。
「市で受けた相談記録は残ってるか」
「福祉課に照会します」
「異議申立書を出した日も」
「確認できます」
「提出後、補正命令は?」
「正式な補正命令があったかどうかは県でしょう」
私はその言葉に引っかかりました。
「補正」
「何です?」
「いえ」
現代法の教材がまた頭をよぎります。
再調査請求書に不備があって補正を命じられた場合。
一定期間の起算を、補正後から考える。
でも。
また危ない。
今は現代法の五十六条ではない。
「……今日は黙っておきます」
「急にどうした」
相馬先輩が言います。
「未来法を喋る前に自主規制しています」
「成長したな」
「褒め方が腹立つ」
沢渡課長が眼鏡を上げました。
「朝比奈さん」
「はい」
「制度が違っても、似た問題意識を持つ規定はあります」
「え?」
「役所に一度見直しを求めた。それを理由に、いつまでも次の救済へ進めないのでは困る」
私は黙りました。
「だから」
沢渡課長は言います。
「一定期間、決定がない場合に次の手続へ進ませる仕組みが置かれることがある」
やっぱり。
同じだ。
名前は違う。
制度も違う。
効果も完全に同じではない。
でも。
根っこにある困りごとは同じ。
最初の見直しを役所に頼んだ。
だから次へ行けません。
決定はまだです。
いつになるか分かりません。
待ってください。
それでは。
救済制度そのものが、足止め装置になってしまう。
「課長」
私は言いました。
「待たせる側には一日でも」
「ええ」
「待つ側には生活なんですよね」
沢渡課長は少しだけ黙りました。
「それは法律論ではありません」
「分かってます」
「ですが」
また少し間。
「期間を定める理由の一つではあるでしょうね」
よし。
沢渡課長から人間味、一ミリ回収。
市役所を出たあと。
私たちは、その足で県の出先機関へ向かいました。
古い県合同庁舎。
蛍光灯。
灰色の廊下。
役所というのは、なぜ建物まで法令集みたいな色をしているのでしょう。
担当窓口へ通される。
出てきたのは四十代くらいの男性職員でした。
「宮下早苗さんの異議申立てですね」
「はい」
相馬先輩が控えを出します。
「六十日を経過している」
「現在、事実確認中です」
「いつ決定する」
「それは申し上げられません」
「なぜ」
「元配偶者側への確認もありますので」
「じゃあ半年かかるかもしれない?」
「そうは申しませんが」
「三か月?」
「期間は確約できません」
「一年?」
「ですから――」
担当者の声に少し苛立ちが混じりました。
「審査が終わり次第、決定します」
私は。
宮下さんの顔を思い出しました。
来月の家賃。
娘さんの靴。
毎朝四時半。
炊飯器。
役所の机の上では「一件」。
でも。
待っている本人には、毎日です。
「すみません」
私は口を開きました。
「一点だけ確認させてください」
「何でしょう」
「異議申立てから六十日を過ぎています」
「ええ」
「個別法の規定上、決定がない場合、申立人は棄却されたものとみなして次の審査請求に進めますよね」
担当者が止まりました。
ほんの一瞬。
でも。
明らかに止まった。
「……規定上は」
「ありますよね」
「あります」
「では昨日、『決定が出るまで次へは行けない』と説明されたそうですが」
「私はその電話を受けていません」
「誰が言ったかは今問題にしてません」
相馬先輩が入ります。
「確認してえのは一つだ」
「はい」
「待たなくていいんだな」
担当者は、少し口を閉じました。
「所定の要件を満たすなら、次の不服申立てをすることは可能です」
空気が変わりました。
たったそれだけ。
役所が処分を撤回したわけでもない。
宮下さんの支給停止が間違いだと認めたわけでもない。
それでも。
昨日まで。
――待つしかありません。
だったものが。
――次へ進めます。
になった。
この違いは大きい。
「では」
片桐所長が言いました。
「審査請求を準備します」
担当者の眉が少し動きました。
「異議申立ての決定を待たずに?」
「待つ法的義務があるのか」
「……この場合はありません」
「なら進める」
短い。
でも、強い。
相馬先輩も続きます。
「それと」
「はい」
「処分の根拠になった事実を整理してくれ」
「申立てに関する記録という意味ですか」
「元夫が店へ来た回数」
「はい」
「金銭の額」
「はい」
「何をもって『生計維持に関与している』と判断したか」
「その辺りは審査の中で――」
「じゃなくて」
先輩の声が低くなりました。
「今、本人は何を理由に手当を止められたのか、具体的に分かってねえ」
担当者が黙る。
「『援助を受けているから』じゃ足りねえんだよ。娘の靴代一回なのか、毎月生活費十万なのかで話が違うだろ」
私は心の中で頷きました。
そう。
感情じゃない。
事実を割る。
いくら。
何回。
誰のため。
どこまで生活を支えている。
その事実から本当に支給停止まで行くのか。
論点にすると、
急に「なんとなく怪しい」が消えていきます。
担当者が書類を見ました。
「分かりました。記録を確認します」
「お願いします」
所長が立ち上がります。
「行くぞ」
「はい」
廊下に出たところで。
私は小声で聞きました。
「所長」
「何だ」
「審査請求、すぐ出すんですか」
「作る」
「異議申立てはどうなるんです?」
「今回の制度では、先へ進むための扱いを確認してからだ」
「ですよね」
ここも。
現代法と似ているようで違う。
私の頭の中では、
現代の行政不服審査法五十六条がちらちらこちらを見ています。
再調査の請求。
決定前に例外的に審査請求。
その場合、原則として再調査の請求は取り下げたものとみなされる。
でも。
昭和六十三年の今。
宮下さんが使っているのは別制度。
異議申立て。
個別法による次の審査。
期間も効果も違う。
「似てるから危ないですね」
私は呟きました。
「何がだ」
相馬先輩。
「未来と今です」
「またそれか」
「仕組みの目的は似てる。でも条文は違う」
「だから条文を見ろって言われたろ」
「はい」
「法律は雰囲気で使うな」
「耳が痛い」
相馬先輩は歩きながら言いました。
「ただな」
「はい」
「制度が変わっても、人間が役所に待たされて困るのは同じなんだろ」
私は少し驚きました。
「……先輩、今すごくいいこと言いましたよ」
「忘れろ」
「ノートに書きます」
「書くな」
三日後。
片桐行政書士事務所。
机の上には、宮下さんの資料が並んでいました。
支給停止通知。
異議申立書。
通帳。
元夫から振り込まれた金額の一覧。
娘さんの学校関係費。
家賃。
弁当屋の売上帳。
「こうして見ると」
私は言いました。
「かなり違いますね」
「何が」
「『元夫から援助を受けている』って一言で聞いた印象と」
実際の記録。
月によって五千円。
一万円。
ゼロの月もある。
用途欄には、
給食費。
修学旅行積立。
上履き。
医療費。
ほとんど娘さん関係でした。
「本人の家賃を払った形跡はない」
相馬先輩。
「店の仕入れもない」
「光熱費も」
「なし」
「元夫の住所も別」
「住民票だけじゃなく、実際も別居」
「店に来るのは?」
「娘に会う日と、荷物を届けるとき」
私は鉛筆を置きました。
「これで支給停止が必ずおかしい、とまではまだ言えません」
「そうだ」
「でも」
目的。
金額。
頻度。
生活の実態。
全部を見る必要がある。
単に、
元夫から入金あり。
店への出入りあり。
だから生計を支えている。
では雑すぎる。
「そこを書け」
所長。
「はい」
「かわいそうは要らない」
「はい」
「娘を一人で育てている苦労も、主張の中心にはするな」
「はい」
「処分の前提事実が正しいか」
「はい」
「その事実から結論が出るか」
「はい」
「そこだ」
私は頷きました。
審査請求書の下書き。
一行目から感情を抜く。
冷たい。
でも。
冷たくしないと見えないものがある。
宮下さんが毎朝四時半に起きていることは、支給要件そのものではない。
娘さんを大切にしていることも、それだけで法的結論を決めない。
だからこそ。
役所側も、
「あの父親、よく店に来てるらしい」
みたいな空気で決めてはいけない。
両方から感情を抜く。
残った事実で見る。
条文は冷たい。
でも冷たいから。
雑な決めつけを同じ温度まで冷やせる。
さらに四日後。
審査請求書を提出する準備が整った朝。
県から電話が来ました。
相馬先輩が出ます。
「はい。……宮下? ああ。……何?」
顔が変わる。
「……分かった。本人にも伝える」
切る。
「どうしました?」
「異議申立ての決定が出る」
「え?」
「支給停止処分、取り消すってよ」
私は立ち上がりました。
「全部ですか?」
「全部」
「理由は?」
「記録を見直した」
先輩がメモを見ます。
「元夫からの金銭は、主として子ども自身に関する費用負担。本人の生活費を継続的に負担している事実までは確認できない」
「じゃあ」
「ああ」
「最初の判断の前提が弱かった」
「そういうことだ」
私は椅子に座り直しました。
力が抜けました。
「審査請求、出さなくて済みましたね」
「そうだな」
「六十一日目で動いた」
「正確には」
片桐所長が言いました。
「六十一日目で、待つのをやめた」
私は所長を見ました。
その言葉が。
妙に残りました。
異議申立てをしていた。
正しい手続を踏んでいた。
だから。
決定が出るまで待つ。
普通ならそう思います。
でも。
救済制度には。
待つこと自体が救済を潰さないための出口がある。
何もしない役所に、
いつまでも時間を預けなくていい場合がある。
その出口を使おうとした瞬間。
止まっていた机が動いた。
もちろん。
審査請求を準備したから取り消した、と決めつけることはできません。
内部確認の結果かもしれない。
たまたま決定時期が重なっただけかもしれない。
でも。
少なくとも一つだけ確かなことがあります。
宮下さんは、
「待つしかない人」
ではなくなった。
午後。
宮下さんが事務所へ来ました。
「取り消し?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「手当は?」
「支給停止処分を取り消すとのことです。具体的な支払時期は確認が必要ですけど」
宮下さんは。
しばらく何も言いませんでした。
泣くのかと思いました。
でも。
最初に出たのは。
「靴」
でした。
「え?」
「娘の靴、買える」
私は黙りました。
「この前から、つま先がきついって言ってたんです」
「……はい」
「でも、もうちょっと待ってって」
「はい」
「今日、買って帰ります」
宮下さんが笑いました。
それだけ。
本当にそれだけです。
何十万円の損害賠償でもない。
大企業との訴訟でもない。
小学五年生の靴。
でも。
生活というのは。
たぶん、そういうものの集合です。
「それで」
宮下さんが紙袋を出しました。
「これ、皆さんで」
「何です?」
「今日の残り」
嫌な予感。
いや。
良い予感。
開ける。
弁当。
四つ。
「おお」
相馬先輩の反応が露骨でした。
「先輩、花のときと態度が違いすぎません?」
「弁当は食える」
「花に謝ってください」
「何弁当です?」
「鯖の味噌煮と、卵焼き」
「最高じゃないですか」
「お前も同類だろ」
言われて気づきました。
否定できません。
片桐所長が紙袋の中を見る。
「四つあるな」
「はい」
「一つ余る」
「所長、私たち三人ですよ」
「宮下さんが食べろ」
「あら」
宮下さんが笑いました。
「私は店でいくらでも食べられますよ」
「なら相馬が二つ食う」
「所長!?」
「妥当な判断ですね」
「こはる、お前さっきまで法律で人を救う顔してたよな?」
「食料配分も行政です」
「違う」
事務所に。
久しぶりに宮下さんの笑い声が響きました。
帰り際。
宮下さんが玄関で振り返ります。
「朝比奈さん」
「はい」
「昨日まで、決まるのを待つしかないと思ってました」
「はい」
「でも、待たなくていいこともあるんですね」
「あります」
「法律って」
少し考えて。
「待ちなさいって言うものばかりだと思ってました」
私は笑いました。
「私もです」
本当に。
受験生だった頃。
不服申立ての前置。
決定。
裁決。
期間。
順序。
条文を読めば読むほど。
法律は、
こっちを先にやれ。
これが終わるまで待て。
期間を守れ。
順番を守れ。
そう言っているように見えました。
でも違う。
順番を決めるなら。
その順番のせいで人が閉じ込められないための出口も要る。
現代の私が知っていた行政不服審査法五十六条も。
きっと同じ問題を扱っている。
再調査の請求をした。
原則、その決定を待ってから審査請求。
でも。
決定がいつまでも出ない。
あるいは、決定を待てない正当な理由がある。
そんなときまで。
「先に出したから、ずっと待て」
とはしない。
一定の場合には、決定前でも次の審査請求へ進める。
そして現代法では。
その場合。
先にしていた再調査の請求をどう扱うのかまで、きちんと整理している。
原則として。
取り下げたものとみなす。
手続を二本、同時に走らせて混線させないために。
――ただし。
私は自分の頭を軽く叩きました。
今は昭和六十三年。
その五十六条はまだありません。
危ない。
また未来法で昭和を殴るところでした。
「何してる」
相馬先輩が弁当を開けながら聞きます。
「未来の自分を戒めてます」
「意味分からん」
「先輩」
「何だ」
「今日の教訓、分かりました」
「聞いてねえ」
「言います」
「言うのかよ」
私は割り箸を割りました。
「先の手続を選んだからって、無期限に待たされるとは限らない」
「うん」
「役所が決めないなら、次へ進む道が用意されてることがある」
「うん」
「だから」
私は鯖の味噌煮を見ながら言いました。
「『まだ決定が出てません』で思考停止しない」
「最後だけ雑だな」
「現場向けです」
片桐所長が弁当の蓋を開けました。
「もう一つだ」
「何です?」
「一般法だけ見るな」
「あ」
「個別法を見ろ」
「……はい」
「同じ名前の手続でも、時代で中身が違う」
「はい」
「似た制度でも、効果まで同じと思うな」
「はい」
三連撃。
全部痛い。
「所長」
「何だ」
「今日、私ちょっと成長したと思いません?」
「未来の条文を使おうとした」
「そこは忘れてください」
「六十日を三か月と間違えかけた」
「言ってません!」
「顔に出てた」
何なんですか。
この事務所。
私の脳内が情報公開制度の対象になっていませんか。
相馬先輩が鯖を一口食べました。
「うまい」
「話を逸らしましたね」
「弁当は冷める」
「異議申立てより迅速ですね」
「食事は簡易迅速が基本だ」
「公正は?」
「俺が二個」
「最悪だ!」
その瞬間。
電話が鳴りました。
私が取ります。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『市役所総務課、沢渡です』
「課長?」
『宮下さんの件、決定が出たそうですね』
「早いですね」
『県から連絡がありました』
「役所ネットワーク怖い」
『何ですか、それは』
「こちらの話です」
『一つだけ』
「はい」
『福祉課の窓口対応を確認しました』
声が少し低くなる。
『「決定が出るまで待ってください」という説明をした記録がありました』
「……はい」
『正確ではありません』
「ですよね」
『今後、一定期間決定がない場合に次の手続へ進める場合があることも含め、案内を整理します』
私は少し驚きました。
「市の処分じゃないのに?」
『窓口で相談を受けた以上、誤解を生む案内は放置できません』
沢渡課長。
こういうところは。
嫌いになれない。
『朝比奈さん』
「はい」
『一つ覚えておくといいですよ』
「何です?」
『行政は、期限を国民に守らせるだけではありません』
「……はい」
『行政側がいつまでも決めないことで、国民の救済を止めないための期限もある』
私は受話器を少し握り直しました。
「課長」
『何でしょう』
「それ、今度ノートに書いていいですか」
『勝手にしてください』
「沢渡課長語録として」
『やめてください』
「売れますよ」
『切ります』
切れました。
速い。
「何だって?」
相馬先輩。
「市役所でも案内を見直すそうです」
「へえ」
「決定が出るまで待て、だけじゃなくて。一定期間たっても決まらない場合の次の手続も説明するって」
片桐所長が卵焼きを一口食べました。
「それでいい」
短い。
いつも通り。
でも。
本当にそれでいいのだと思います。
一人の支給停止が取り消された。
娘さんの靴が買える。
それだけでも十分。
そのうえ。
次に同じ窓口へ来た人が、
「まだ決定が出ていませんから」
の一言だけで帰されなくなるかもしれない。
制度の冷たさは。
ときどき。
人を待たせます。
順番を守れ。
期間を守れ。
まずここへ申し立てろ。
決定を経てから次へ行け。
面倒です。
ものすごく面倒です。
でも。
その冷たい制度の中には。
役所自身が止まったときのための出口も置かれている。
永遠に待てとは書いていない。
救済へ進むための道まで。
ちゃんと数字で切ってある。
それが。
今日の私には少し頼もしく見えました。
「こはる」
「はい」
「食わないならもらうぞ」
相馬先輩が私の弁当に手を伸ばします。
「駄目です!」
「三十分経った」
「だから何ですか!」
「相当の期間だ」
「勝手に決めないでください!」
「決定がないなら次へ進む」
「それとこれは違います!」
私は弁当を抱え込みました。
相馬先輩が笑います。
「不服があるなら申し立てろ」
「しますよ!」
「誰に」
「所長!」
片桐所長が顔も上げずに言いました。
「棄却」
「まだ申し立ててません!」
「迅速だ」
「だから公正が抜けてるんですって!」
事務所の窓の向こう。
駅南口の商店街には、夕方の灯りがつき始めていました。
そのどこかで。
宮下さんはきっと。
娘さんの新しい靴を選んでいます。
役所の六十日は。
ただの六十日。
でも。
待っていた人にとっては。
六十回の朝で。
六十回の夕方でした。
だから。
六十一日目に扉がある。
それを知っているだけで。
人は少しだけ。
「待つしかない」から自由になれるのです。
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