[行政不服審査法55条・誤った教示をした場合の救済]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、いなり寿司が一個だけ残っていました。
正確には。
残されていました。
「先輩」
「何だ」
「これ、昨日のですよね」
「ああ」
「所長が『明日の朝用』って確保してたやつですよね」
「ああ」
「まだあるんですね」
「ああ」
「食べないんですか」
「お前、さっきから何を期待してる」
「別に」
期待していません。
ただ。
朝から机の端に置かれた包みが、夕方になっても残っている。
それだけです。
「こはる」
奥から片桐所長の声。
「食うな」
「何もしてません!」
「目が食ってる」
「目では食べられません!」
危ない。
危うく勉強の内容が、
行政不服審査法ではなく、
いなり寿司一個をめぐる所有権紛争になるところでした。
私は視線を強制的にノートへ戻しました。
表紙を開く。
大きく書きます。
――誤った教示をした場合の救済。
その下。
――北村澄江さん事件。
県保健所長から、祭りの臨時食品販売を不許可にされた北村さん。
通知書には、
不服がある場合は、
保健所長に異議申立てができる。
そう書かれていた。
北村さんはそれを信じた。
五十六日目。
通知どおりに異議申立書を出した。
ところが。
本来は県知事への審査請求だった。
役所は自分の教示ミスを認めたうえで、
今度は、
審査請求書として出し直してください。
と言った。
しかも、翌日が六十日目。
もし、そのまま出し直し扱いになれば。
下手をすると、
期間を過ぎる。
「昨日の話で」
私はペンを持ったまま言いました。
「一番怖かったところ、分かりました」
相馬先輩が帳簿から顔を上げます。
「何だ」
「処分が正しいか間違ってるか以前に、入口で終わる可能性があったことです」
「そうだな」
「北村さんの不許可が違法か、不当か。それを議論する前に」
「不服申立て自体が期間切れだと言われたら、中身に入れねえ」
「はい」
行政法。
受験生のころ。
私はよく、
処分性。
原告適格。
期間。
教示。
そんなものを全部、
「本題の前の手続問題」
みたいに扱っていました。
でも違う。
本題へ入れるかどうかを決めるのが、その手続問題です。
入口が閉まれば、
中にどれだけ立派な主張を持っていても意味がない。
「つまり」
私はノートに書きました。
――教示は、単なる親切ではない。
「そこからか」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「説明してみろ」
「教示っていうのは」
私は少し考えました。
「処分を受けた人に、不服があるなら、どんな不服申立てができるのか、どこへ申し立てるのか、いつまでなのかを知らせる仕組み」
「何で要る」
「普通の人は、行政不服審査法なんて知らないからです」
「北村さんみたいにな」
「そうです」
北村さんは惣菜屋さんです。
いなり寿司を作る人です。
異議申立てと審査請求の振り分けをする人ではありません。
県保健所長に上級行政庁があるか。
審査庁は誰か。
旧法上の不服申立てがどちらなのか。
そんなことを瞬時に判断できなくても、何もおかしくない。
「だから役所が教える」
「そうだ」
「なのに、その教え方を間違えた」
「昨日はそこだった」
私はノートに線を引きました。
――誤った教示。
「ここで普通に考えると」
私は言いました。
「間違った申立てをしたんだから、やり直してください、になりそうです」
「普通じゃねえな」
「え?」
「役所が間違えて教えてる」
「はい」
「その通りやった奴に、最初からやり直せってのが普通か?」
「……普通じゃないですね」
「だから救済規定がある」
なるほど。
昨日は現場で必死だったから、
そこまで言葉にできませんでした。
誤教示救済の芯。
それは。
申立人が法律を知らなかったことを責めない。
というだけではない。
行政が誤った道を示したことで生じた不利益を、
そのまま申立人へ押しつけない。
ということです。
私は次の見出しを書きました。
――昭和六十三年・旧行政不服審査法十八条。
「昨日の北村さん」
相馬先輩が言いました。
「何をすべき処分だった」
「県知事への審査請求です」
「ところが?」
「県保健所長が、誤って『保健所長へ異議申立てができる』と教示した」
「北村さんは?」
「その教示を信じて、保健所長へ異議申立てをした」
「旧法はどうする」
私は昨日の条文を思い出しました。
「処分庁が、その異議申立書を速やかに審査庁へ送ります」
「つまり?」
「北村さんに、『審査請求書を書き直して最初から出してください』とはしない」
「うん」
「処分庁側で、正しい審査庁へ回す」
「それから」
「審査庁へ送付されたら――」
私はノートに大きく書きました。
――はじめから審査庁に審査請求がされたものとみなす。
そこで一度、ペンを止めました。
「これ」
「何だ」
「昨日も思いましたけど、『みなす』が強いですね」
「法律じゃよく出るだろ」
「試験では出ます」
「じゃあ何が珍しい」
「現場で見ると、効き方が違います」
北村さんが出したのは。
形式上は、
異議申立書。
提出先も、
県保健所長。
でも。
法律が条件を満たした救済を働かせる。
すると。
正しい審査庁へ審査請求がされたものとして扱う。
しかも。
後から正しいところへ出し直した日ではない。
最初の不服申立てを生かす。
「だから五十六日目が消えなかった」
私は言いました。
「そうだ」
「六十日目に慌てて一から出し直す話じゃなかった」
「そうだ」
「役所の誤教示で、北村さんの四日分が蒸発しない」
「妙な言い方すんな」
「でもそうでしょう?」
期間というのは冷たい。
一日遅れただけでも問題になる。
六十日なら六十日。
六十一日目に、
忙しかったんです。
知らなかったんです。
と言っても、簡単には戻せない。
だからこそ。
行政が間違った説明をした場面では、
どの日に何をしたことにするのか。
そこが命になります。
「試験で大事なのは」
私はノートに四角を書きました。
誤教示。
誤った手続へ進む。
正しい行政庁へ送付。
最初から正しい不服申立てがされたものとみなす。
「この流れですね」
「それだけか」
片桐所長の声が飛んできます。
「え?」
「誰が間違えた」
「処分庁です」
「誰が教示を信じた」
「北村さん」
「誰が直す」
「……行政側」
「そこを忘れるな」
所長は帳簿を閉じました。
「誤教示救済は、申立人のために制度を曲げる規定じゃない」
「はい」
「行政が自分で作った手続上の不利益を、行政側で修正する規定だ」
私はそのままノートに書きました。
「所長」
「何だ」
「今日、長く喋りますね」
「消すぞ」
「残します」
危ない。
貴重な長台詞です。
私は次のページを開きました。
ここからが。
転生者にとって一番危険なところです。
「では」
私は深呼吸しました。
「現代法との比較に行きます」
「また未来か」
相馬先輩が嫌そうな顔をします。
「必要なんです」
「俺には必要ない」
「読者には必要なんです」
「誰だよ」
「気にしないでください」
現代。
つまり私が行政書士受験生だった時代。
行政不服審査法は全面改正されています。
ここで。
昨日、私の脳内に真っ先に出てきたもの。
行政不服審査法第五十五条。
誤った教示をした場合の救済。
「じゃあ昨日と同じですね」
相馬先輩が言いました。
「それが」
私は人差し指を立てました。
「同じじゃないんです」
「面倒くせえな」
「行政法ですから」
「行政法を悪口みたいに使うな」
でも本当に。
ここは試験で混ぜたら危ない。
現行法第五十五条。
教材で出てくる典型例はこうです。
本当は、
再調査の請求ができる処分だった。
ところが処分庁が、
再調査の請求ができることを教示しなかった。
そのため処分を受けた人が、
審査請求をした。
「ここまでは?」
相馬先輩が言います。
「はい」
「で、その人がどうする」
「『審査請求じゃなくて、再調査の請求として扱ってください』と申し立てることができます」
「本人の申立てが要るのか」
「そこ大事です」
私は赤線を引きました。
――審査請求人から申立てがあったとき。
「勝手に切り替えるわけじゃない」
「はい」
「そのあとは」
「審査庁が、審査請求書などを処分庁へ送る」
「方向は?」
「審査庁から処分庁」
「昨日は?」
私は昨日の図を見ます。
処分庁。
県保健所長。
そこから。
審査庁。
県知事。
「逆ですね」
「何が」
「書類が動く向きです」
私はノートに二本の矢印を書きました。
旧法十八条・北村さん型。
処分庁 → 審査庁。
現行法五十五条・典型例。
審査庁 → 処分庁。
「なるほど」
相馬先輩が少しだけ身を乗り出しました。
「それなら覚えやすい」
「ですよね!」
「うるさい」
「だって今、教材が立体になりました」
旧法の北村さん。
本来は審査請求。
なのに、
異議申立てと誤って教示された。
だから。
間違って処分庁に来た書類を、
正しい審査庁へ送る。
一方。
現行法五十五条の典型例。
本来は再調査の請求も選べる。
なのに、
そのことを教えてもらえず審査請求へ進んでしまった。
本人が、
再調査の請求へ戻したい。
と申し立てる。
だから。
審査庁にある書類を、
再調査を行う処分庁へ戻す。
「で」
相馬先輩が言います。
「戻したらどうなる」
「審査請求書などが処分庁へ送付されたときは」
私は書きます。
――初めから処分庁に再調査の請求がされたものとみなす。
「また『みなす』か」
「また『みなす』です」
「好きだな、行政法」
「行政法が好きなんです」
「お前、昔は嫌いだったんじゃなかったのか」
「今ちょっと好きになってるのが悔しいんです」
本当に。
受験生のころ。
旧法。
現行法。
異議申立て。
再調査の請求。
審査請求。
全部が似た箱に入っていました。
だから混ざる。
でも。
北村さんがあの机の前で、
「私が間違えたんでしょうか」
と聞いた顔を思い出すと。
一つ一つの制度が違う理由が見えてきます。
「ここで重要」
私は大きく書きました。
――旧法の「異議申立て」と、現行法の「再調査の請求」は同じものではない。
「名前変えただけじゃないのか」
相馬先輩が、わざとらしく聞きます。
「違います」
「即答だな」
「そこを混ぜると危ないので」
旧法では。
異議申立てと審査請求が、
基本的な不服申立てとして併存していました。
処分庁に上級行政庁があるかどうかなどによって、
どちらを使うのかを振り分ける。
これが。
分かりにくい。
とにかく分かりにくい。
「北村さんが証明しました」
「北村さんのせいにすんな」
「役所自身も間違えたんですから」
「それはそうだな」
そう。
今回。
一般の人が間違えたのではない。
行政庁自身が、
異議申立てなのか審査請求なのかを誤って教えた。
「ここ、旧法の弱点が見えますよね」
私は言いました。
「制度が二本立て」
「うん」
「どっちへ行くか分かりにくい」
「うん」
「間違えると申立先まで変わる」
「うん」
「だから誤教示救済まで要る」
「今でも誤教示救済はあるんだろ」
「あります」
「じゃあ改正しても間違いはなくならねえじゃねえか」
「そこです」
私はペンを回しました。
「現代では、原則として審査請求に一本化された」
「異議申立ては?」
「一般的な制度としては廃止です」
「じゃあ処分した役所にもう一回言う制度は全部なくなったのか」
「そこまで単純じゃありません」
「また来た」
「行政法ですから」
「便利な逃げ口上だな」
現代には。
法律に特別の定めがある場合、
再調査の請求という仕組みがあります。
処分庁自身に、
もう一度調べ直してもらう。
その意味では。
旧法の異議申立てを思い出したくなる。
でも。
「同一視は禁止」
私は強調しました。
「現代では審査請求が基本ルート」
「うん」
「再調査の請求は、法律に定めがある場合に使える特別な仕組み」
「うん」
「旧法みたいに、一般的に『上級行政庁がないから異議申立て』という振り分けをする話じゃない」
「そこが違うと」
「はい」
私は大きく囲いました。
――旧法:異議申立て+審査請求の二本立て。
――現行法:原則、審査請求へ一本化。例外的に法律の定めがある場合、再調査の請求。
「これ」
私は言いました。
「転生してなかったら丸暗記してました」
「今は?」
「北村さんの通知を思い出せます」
誤った教示。
期限ぎりぎり。
異議申立書。
県知事へ送付。
あれを一度見たあとなら。
なぜ一本化したくなったのか。
嫌でも分かります。
制度が複雑なら。
困るのは受験生だけではない。
住民も困る。
役所も間違える。
それが一番大きい。
私は次に書きました。
――現行法五十五条の例外。
「例外?」
相馬先輩が言います。
「はい。ここ試験で狙われそうです」
「未来の試験だろ」
「私には重要なんです」
現行法第五十五条では。
再調査の請求ができることを教示されず、
審査請求をした。
そのあと。
審査請求人が、
再調査の請求として扱ってほしい。
と申し立てれば。
原則として書類を処分庁へ送る。
ただし。
「いつまでも変更できるわけじゃありません」
「どこで切れる」
「弁明書です」
「弁明書?」
「審査請求人に弁明書が送付された後は、再調査の請求へ切り替えることはできない」
「何でだ」
私は少し考えました。
「もう審査請求の手続が実質的に進み始めてるから、でしょうね」
「最初のうちなら戻せる」
「はい」
「進んだあとで、やっぱり処分庁からやり直します、とはしない」
「そういう整理です」
ここ。
試験なら。
かなりいやらしい問題にできます。
再調査の請求ができることを教示されなかった。
審査請求をした。
本人が希望すれば、
いつでも再調査の請求へ変更できる。
――×。
「弁明書送付後は駄目」
「そうです」
「細けえな」
「合否がこういうところで分かれるんですよ」
「未来の受験生、気の毒だな」
「本当に」
でも。
今なら少し理解できます。
ただの意地悪暗記ではない。
手続をどこまで巻き戻せるか。
その境目を決めている。
「そう考えると」
私は言いました。
「『みなす』って、無制限のタイムマシンじゃないんですね」
「当たり前だ」
「法律が必要な範囲だけ時間を戻す」
「戻してねえよ」
「扱いとしてです」
「また変な例えを」
でも私は、この例えが気に入りました。
誤った教示をした場合の救済。
時間そのものは戻らない。
北村さんが五十六日目に不安なまま保健所へ行った事実は消えない。
でも。
法律は、
その日を無駄にしない。
間違った名称の申立てを、
正しい救済手続へつなぎ直す。
私は次のページに、
左右二列の表を書きました。
左。
昭和六十三年。
右。
現代。
「まとめます」
「勝手にやれ」
「先輩も聞いてください」
「嫌だ」
「所長」
「聞け」
「……はい」
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。
強制参加。
公権力の行使を感じます。
「昭和六十三年、北村さん型」
「うん」
「本来は審査請求」
「うん」
「処分庁が誤って異議申立てができると教示」
「うん」
「本人がその教示どおり処分庁へ異議申立て」
「うん」
「処分庁が審査庁へ送付」
「うん」
「送付されたら、初めから審査庁に審査請求がされたものとみなす」
「それで昨日助かった」
「はい」
右側。
「現行法五十五条の教材型」
「うん」
「本当は再調査の請求ができる処分」
「うん」
「処分庁が、その旨を教示しなかった」
「うん」
「本人が審査請求をしてしまった」
「うん」
「本人が再調査の請求にしてほしいと申し立てる」
「うん」
「弁明書が送付される前なら、審査庁が書類を処分庁へ送付」
「うん」
「処分庁に届いたら、初めから再調査の請求がされたものとみなす」
相馬先輩が表を覗きました。
「左右で矢印が逆だな」
「そうなんです」
「旧法の北村さんは、処分庁から上へ」
「はい」
「現代の五十五条は、審査庁から処分庁へ戻る」
「教材の典型例なら、そう覚えると整理しやすいです」
「最初からそう言え」
「今言いました!」
私はさらに追記します。
ただし。
旧法十八条には、
誤った教示についてほかのパターンもあります。
たとえば。
本当は審査請求をすべきなのに、
審査庁そのものを間違えて教示された場合。
そういうときにも、
誤って教えられた行政庁から、
正しいルートへ書類を送る仕組みがある。
「要するに」
相馬先輩が言いました。
「役所の道案内が間違ってたら、役所同士で正しい道へ回せってことか」
「かなり雑ですけど」
「合ってるのか」
「本質は合ってます」
「じゃあそれで覚えろ」
私はノートの端に書きました。
――役所が間違えて案内したなら、住民に走り直させず、役所側で正しい道へ回す。
「いいですね」
「俺の言葉だぞ」
「使用料は?」
「いなり寿司半分」
「物納なんですか」
そこで。
片桐所長が口を開きました。
「逆もある」
「逆?」
「昨日の十八条と反対だ」
私は首を傾げました。
「本来は異議申立てなのに、審査請求ができると誤って教示した場合」
「あ」
旧法。
逆方向の誤教示。
「そっちにも救済がある」
「はい」
「試験なら混ぜてくる」
「絶対混ぜますね」
旧法では。
本来は異議申立てができる処分なのに、
誤って審査請求ができると教示され。
その教示された行政庁へ審査請求がされた。
そういう場合にも。
正しい処分庁へ書類を送り。
最初から異議申立てがされたものとして扱う救済がある。
「つまり」
私は頭を抱えました。
「旧法、行ったり来たりですね」
「だから制度を見ろ」
「はい」
「条文番号だけで覚えるな」
「はい」
「誰が、何を、本来どこへ出すべきだったか」
「はい」
「誰の誤教示で、どこへ出したか」
「はい」
「そのあと書類がどっちへ動くか」
「はい」
「最後に何をしたものとみなすか」
私は顔を上げました。
「これで全部整理できますね」
「そういうことだ」
なるほど。
試験問題で文章が長くなると、
私はすぐ、
異議。
審査。
再調査。
の単語だけを拾って混乱していました。
でも。
矢印で見る。
誰が。
どこへ。
何を出した。
なぜ間違えた。
どこへ送り直す。
最終的に何をした扱いになる。
それだけです。
「行政法って」
私は呟きました。
「意外と物流ですね」
「は?」
「書類がどこからどこへ移動するか」
「宅配便みたいに言うな」
「でも結構大事ですよ」
本当に。
行政法の手続問題。
登場人物を、
処分庁。
審査庁。
審査請求人。
とだけ見ると眠くなります。
でも。
机を三つ置いて。
書類を一枚動かす。
そう考えると分かりやすい。
北村さんが、
保健所の机に置いた紙。
それを。
県知事側の机へ運ぶ。
ただし。
北村さん自身に、
もう一度走らせない。
そこが救済です。
「もう一つ」
片桐所長が言いました。
「何です?」
「誤教示があれば、処分そのものが当然に取り消されるのか」
「……なりません」
「なぜだ」
「教示の誤りと、処分本体の違法性は別だから」
「そうだ」
これは大事です。
昨日。
保健所が間違った教示をした。
それは確か。
でも。
だからといって。
北村さんの食品販売不許可が、
それだけで当然に取り消されるわけではない。
不許可の適法・不当については。
設備基準。
運用。
去年との違い。
判断過程。
そういう本案を別に争う必要がある。
「誤教示救済は」
私は書きました。
――処分を勝たせる制度ではない。
――争う権利を失わせない制度。
「これですね」
「そうだ」
昨日。
北村さんに返ったのは、
祭りへの出店許可ではありません。
審査請求で争える地位。
中身を見てもらう機会。
入口です。
それだけ。
でも。
入口がなければ、
何も始まらない。
「条文って」
私は言いました。
「時々、ものすごく地味なところを守りますね」
「地味で悪いか」
「悪くないです」
「昨日も言っただろ」
相馬先輩が言います。
「法律なんざ、地味なくらいでちょうどいい」
「それ、今日の締めに使おうと思ってたんですけど」
「使用料払え」
「いなり寿司ですか」
「半分」
私は机の端を見ました。
一個。
まだある。
所長も見る。
私も見る。
相馬先輩も見る。
三人。
一個。
非常に危険な行政資源配分です。
「その前に」
私は急いでノートをまとめました。
今日の試験ポイント。
一。
教示は、国民が不服申立制度を知らないことを前提に、救済手続への道を示す仕組み。
二。
行政が誤った教示をした場合、その誤りによって申立人が不利益を受けないよう救済規定がある。
三。
昭和六十三年の旧法では、異議申立てと審査請求が併存しているため、誤った振り分けについて書類送付と「みなし」で救済する。
四。
北村さんのように、本来審査請求なのに異議申立てと誤教示された場合は、正しい審査庁へ送付し、初めから審査請求がされたものとして扱う。
五。
現行法では、異議申立ては原則的な不服申立制度としてはなくなり、審査請求へ一本化。
六。
現行法五十五条では、再調査の請求ができることを教示されず審査請求をした場合、審査請求人の申立てにより、一定の段階までなら再調査の請求へつなぎ直すことができる。
七。
ただし、弁明書送付後はその切替えはできない。
八。
旧法の異議申立てと、現行法の再調査の請求を同じ制度だと思わない。
九。
誤教示があったからといって、原処分そのものが当然に取り消されるわけではない。
「九個」
相馬先輩が言いました。
「多いですか」
「一行の覚え書きはどうした」
「今からです」
私はノートの一番下に線を引きました。
昨日の北村さん。
五十六日目。
間違った教示。
間違った名称の申立書。
六十日の期限。
それでも。
法律はその紙を捨てなかった。
私は書きました。
――行政が道を間違えて教えたなら、住民を入口から追い返さず、正しい道へつなぎ直す。
「長い」
「じゃあ短くします」
もう一度。
――誤教示のツケを、住民に払わせない。
相馬先輩が少し黙りました。
「それでいい」
「お」
「何だ」
「褒めました?」
「気のせいだ」
いつものやつです。
私はノートを閉じました。
外はもう暗くなっています。
駅前では。
北村さんの店にも灯りがついているころでしょう。
審査請求の結果はまだ出ていない。
秋祭りに出られるかも分からない。
不許可の中身については、
これから調べる。
これから争う。
だから。
昨日の救済は、
何かを勝ち取ったわけではない。
ただ。
間違った道を教えられた人を、
スタート地点から失格にしなかった。
それだけです。
でも。
制度というものは、
案外そういうところで人を救います。
派手な判決ではない。
大逆転でもない。
書類を送る。
通知する。
最初から申し立てたものとみなす。
冷たい言葉ばかりです。
けれど。
その冷たい言葉があるから。
役所は、
「こちらも間違えましたが、あなたも間違えたので終わりです」
とは言えない。
誰がどこで間違えたのかを切り分ける。
行政の間違いまで、
住民の責任に混ぜない。
法律が冷たいのは、
人に冷たいからではない。
責任の境目を、
感情でぼかさないためなのかもしれません。
「こはる」
所長が言いました。
「はい」
「終わったか」
「終わりました」
「なら」
所長の手が。
いなり寿司へ伸びる。
「あっ」
相馬先輩の手も伸びる。
「ちょっと!」
私も伸びる。
三本。
一個。
「待ってください!」
「何だ」
「これは手続を決めるべきです」
「何の」
「最後のいなり寿司を誰が取得するか」
「早い者勝ちだろ」
「そんな裁量行政は認めません!」
「食い物に行政法持ち込むな」
私は紙袋を押さえました。
「まず教示してください」
「何を」
「不服がある場合の申立先と期間を」
「ねえよ」
「教示なし!」
「処分でもねえ!」
「じゃあ所長に異議申立てします!」
「旧法でも何でもありじゃねえんだぞ!」
片桐所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「そのいなりを半分に切れ」
「え」
「相馬と分けろ」
「所長は?」
「俺はいらん」
私と相馬先輩が止まりました。
「……昨日から取っておいたのに?」
「ああ」
「何のために?」
「お前らが揉めると思った」
「予見されてた!」
相馬先輩が吹き出しました。
「所長」
「何だ」
「最初から分けろって教えてくれればよかったじゃないですか」
「教示義務はない」
「こんなところだけ法律家!」
結局。
いなり寿司は半分になりました。
少し乾いていました。
でも。
昨日と同じ、甘い味がしました。
私は半分を食べながら、もう一度ノートの最後を見ます。
――誤教示のツケを、住民に払わせない。
昭和六十三年には、
異議申立てと審査請求がある。
現代では、
原則として審査請求に一本化され、
別の仕組みとして再調査の請求がある。
制度は変わる。
名前も変わる。
申立期間も変わる。
救済の形も変わる。
それでも。
行政が道を示し、
人がその道を信じて歩いたなら。
道しるべの間違いで、その人の救済まで失わせない。
そこだけは。
昭和から未来まで、
ちゃんと一本の線でつながっていました。
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