[行政不服審査法55条・誤った教示をした場合の救済]現場編 「窓口を間違えたので、もう期限切れです」の嘘。役所が教えた間違いを住民に背負わせない、“最初から正しく出したことにする”救済
道を間違えた人に、
「そっちですよ」
と教えたのが自分なら。
その人が迷子になったあとで、
「道を間違えたあなたが悪い」
とは、普通は言えません。
普通は。
――行政手続になると、その普通が急に難しい言葉になります。
昭和六十三年。
地方都市の片桐行政書士事務所。
その日の朝。
私は一枚の封筒を見ながら、首をひねっていました。
「先輩」
「何だ」
「役所って、自分で間違った道を教えておいて、その人が間違えたら怒ります?」
「質問が雑すぎる」
「じゃあ具体的に言います」
「最初からそうしろ」
私は机の上の紙を一枚持ち上げました。
「役所が『ここに不服申立てしてください』って書いたから、そこに出したんです」
「ああ」
「そしたら今度は、『そこじゃありません』って言われたそうです」
「……何?」
「しかも」
私は次の紙を持ち上げました。
「もう六十日近いから、正しいところへ出し直すころには期間切れだと」
相馬先輩の煙草が止まりました。
「誰の話だ」
「今から来る人です」
「先に言え」
「所長から資料だけ渡されたんです」
「所長」
相馬先輩が奥を見る。
片桐所長は新聞から顔も上げません。
「読めば分かる」
「説明を放棄してません?」
「見習いの仕事だ」
便利ですね、その言葉。
行政書士見習い。
書類整理。
お茶。
電話。
法律調査。
花瓶の水替え。
最近はついに、所長の説明不足を自力で補完する職務まで追加されました。
私は改めて紙を読みました。
処分通知。
差出人は、県保健所長。
名宛人は、
北村澄江。
五十九歳。
駅前商店街で小さな惣菜屋を営んでいる女性です。
問題になったのは、秋祭りの期間だけ駅前広場で出す予定だった臨時の食品販売。
毎年。
焼きおにぎり。
煮物。
いなり寿司。
商店街の催しで売っていたそうです。
ところが今年。
保健所へ申請したところ、不許可。
理由は、
――設備が衛生上必要な基準を満たさないため。
そこまでは、まあ分かる。
気になるのは、その下でした。
不服申立てについて。
通知書には、はっきりこう書かれています。
――この処分に不服がある場合は、処分を知った日の翌日から六十日以内に、当保健所長に対して異議申立てをすることができます。
「……異議申立て」
私は呟きました。
そして処分庁を見る。
県保健所長。
その上には。
「県知事……」
背中が、少しぞくっとしました。
この時代。
処分庁に上級行政庁があるなら、基本はそちらへの審査請求。
処分庁自身への異議申立てではない。
「これ」
私は顔を上げました。
「教示、間違ってません?」
「やっとそこまで来たか」
相馬先輩が言いました。
「知ってたんですか」
「所長が朝から条文集出してたからな」
「それ、ほぼ答え見てるじゃないですか」
「現場じゃカンニングも何もねえんだよ」
ごもっともです。
試験会場で六法を開いたら退場ですが、実務で六法を開かない人のほうが怖い。
そのとき。
事務所の引き戸が開きました。
「すみません」
小柄な女性が入ってきました。
白いブラウス。
紺色のカーディガン。
両手で古い手提げ鞄を抱えています。
「北村澄江です」
片桐所長が立ち上がりました。
「どうぞ」
北村さんは椅子に座ると、まず深く頭を下げました。
「変なことをお願いしてるんじゃないかと思って」
「変かどうかは、聞いてから決めます」
所長。
安心させているのか突き放しているのか、相変わらず紙一重です。
私がお茶を置くと、北村さんは小さく礼を言いました。
「これ、私が悪いんでしょうか」
最初の言葉が、それでした。
「何がです?」
「出すところを間違えたことです」
私は少しだけ黙りました。
「最初から聞かせてください」
「はい」
北村さんは鞄から、控えの紙を出しました。
異議申立書。
提出日は。
処分を知った日の翌日から数えて、五十六日目。
期限ぎりぎりです。
「どうして五十六日目になったんです?」
相馬先輩が聞きました。
「迷ってたんです」
「申立てるかどうか?」
「はい」
北村さんは俯きました。
「保健所に逆らって、この先、お店に何か言われたら嫌だなって」
「逆らう、ですか」
「私らには、そう見えるんです」
その言葉は重かった。
法律の教科書では、
不服申立権。
権利救済。
そんな立派な言葉になります。
でも。
町の小さな惣菜屋さんから見たら、
保健所に不服を言う。
それだけで、
睨まれるんじゃないか。
次の許可で困るんじゃないか。
そう思ってしまう。
「それで、ぎりぎりまで悩んで」
「はい」
「でも今年の秋祭りで売れないと困る?」
「困ります」
北村さんは、そこで初めて顔を上げました。
「うちはね、駅前の店だけじゃ、そんなに売れないんです」
夫を亡くして七年。
一人で惣菜屋を続けている。
秋祭りは、一年でいちばん売れる三日間。
その売上で冬場の仕入れを支えている。
毎年楽しみにしてくれる客もいる。
「去年までは、同じ場所で出してたんです」
「今年だけ設備が駄目になった?」
「流し台を二つにしろって言われまして」
「去年は?」
「一つでいいと言われました」
「基準が変わったんですか」
「それを聞いても、担当の人が『今年から厳しく見ています』って」
なるほど。
不許可自体にも、何やら論点がありそうです。
ただ。
今、一番まずいのはそこではない。
「それで」
私は異議申立書を指しました。
「通知書に書いてあった通り、保健所長へ異議申立てをした」
「はい」
「いつです?」
「一昨日です」
「受け取ってはくれました?」
「はい」
北村さんは唇を噛みました。
「でも昨日、電話がかかってきて」
『これは異議申立てではありません』
そう言われたそうです。
『県知事への審査請求になります』
北村さんは驚いた。
当然です。
通知には、
保健所長へ異議申立て。
と書いてある。
「それで私、紙を見ながら言ったんです。ここにそう書いてありますって」
「相手は?」
「『教示に誤りがあったようです』って」
「認めた?」
「はい」
相馬先輩の眉が動きます。
「そのあと何て言った」
「県庁へ審査請求書を出し直してくださいって」
「ほう」
「それで……」
北村さんの手が少し震えました。
「今日で、六十日目なんです」
事務所が静かになりました。
今日。
六十日目。
郵便。
書類。
県庁。
間に合うかどうか。
そんな言葉が頭の中を走ります。
「電話した人に、それを言いました」
「六十日になるって?」
「はい」
「何て?」
北村さんは少し迷ってから答えました。
「『今日中に出せるなら出してください』って」
相馬先輩が椅子から立ちました。
「ふざけんな」
「先輩」
「何だ」
「相談者の前です」
「悪い」
悪いと言いつつ、全然悪いと思っていない顔です。
でも。
私も同じ気分でした。
役所が教えた。
その通りに出した。
役所が間違いを認めた。
なのに。
急いで正しいところへ出し直してください。
間に合わなければ残念でした。
そんな話が通るなら。
教示なんて、
道案内の看板じゃない。
落とし穴です。
「北村さん」
片桐所長が聞きました。
「昨日の電話で、異議申立書は返されたんですか」
「いいえ」
「保健所にある?」
「はい」
所長が頷きました。
「なら、まだいい」
「え?」
北村さんが顔を上げました。
私も上げました。
「所長」
「条文を見ろ」
「はい」
机の上には、昭和六十三年の行政不服審査法。
私が頭の中でページをめくろうとした、その瞬間。
未来の知識が先に飛び出しました。
誤った教示。
行政不服審査法五十五条。
再調査の請求ができるのに、できないと教示されて。
審査請求をして。
審査請求人から申立てがあれば。
審査庁が審査請求書を処分庁へ送って。
最初から再調査の請求がされたものとみなす。
ただし。
弁明書が送付されたあとでは――
「……違う」
「何がだ」
相馬先輩が言いました。
「五十五条じゃない」
「何の話だ」
「再調査の請求もない」
「だから何の話だ」
「未来です」
「帰ってこい」
「はい」
危ない。
またやった。
ここは昭和六十三年。
現行法の五十五条を探しても、今回の答えは出てきません。
しかも。
現代の「再調査の請求」と、
旧法の「異議申立て」は、
似て見えても同じ制度ではない。
時代をまたいで勝手に貼り替えたら事故ります。
私は旧法の条文を追いました。
審査請求。
処分庁経由。
そして。
「あった」
指が止まります。
「十八条」
相馬先輩が言いました。
「読め」
「はい」
誤った教示をした場合の救済。
審査請求をすることができる処分について。
処分庁が誤って異議申立てをすることができる旨を教示した。
そして。
その処分庁に異議申立てがされた。
「これ……」
私は顔を上げました。
「北村さん、そのままじゃないですか」
「続き」
所長が言います。
私は目で条文を追います。
その場合。
処分庁は、
異議申立書を、
速やかに審査庁へ送付する。
そして。
その旨を異議申立人へ通知する。
さらに。
「……送付されたときは」
声が少し大きくなりました。
「初めから審査庁に審査請求がされたものとみなす」
北村さんが、ぽかんとしました。
「どういう意味です?」
私は一瞬だけ言葉を探しました。
条文のまま読んでも伝わらない。
相馬先輩がこちらを見ます。
論点で喋るな。
目だけで言われました。
「つまり」
私は北村さんの異議申立書の控えを机に置きました。
「北村さんは、出し直して最初からやり直す必要はありません」
「え?」
「役所が間違って『異議申立てをしてください』と教えたんですよね」
「はい」
「北村さんは、その通りに期限内に出した」
「はい」
「だったら、その書類を保健所が正しい審査庁へ送る仕組みがあります」
「県庁へ?」
「はい」
「私が持っていかなくても?」
「はい」
そして。
一番大事なところ。
「その書類が県の審査庁へ送られれば、最初から審査請求をしていたものとして扱われます」
北村さんは黙りました。
「最初から?」
「そうです」
「一昨日に?」
「そうです」
「じゃあ」
北村さんの声が少し揺れました。
「六十日に間に合ってるんですか」
「間に合っています」
その瞬間。
北村さんの肩が、ほんの少し落ちました。
緊張が抜けたのだと分かりました。
派手な逆転ではありません。
不許可が取り消されたわけでもない。
祭りへの出店が決まったわけでもない。
ただ。
期限に間に合わなかったことにされずに済んだ。
争う入口が閉じなかった。
それだけ。
でも。
入口を閉められかけた人にとって、
その「だけ」は大きい。
「じゃあ」
北村さんが言いました。
「私が間違えたんじゃなかったんですね」
片桐所長が答えました。
「あなたは、書かれた通りにしただけです」
「でも、異議申立てっていう紙を書いたのは私です」
「それを教えたのは役所です」
「……はい」
「役所の誤りで、あなたの不服申立ての機会まで失わせない」
所長は条文集を閉じました。
「そのための規定です」
私は、その横顔を見ました。
法律の救済って。
もっと大げさなものだと思っていました。
処分取消し。
権利回復。
賠償。
そういう結果。
でも。
今日は違います。
誰のミスだったのかを整理する。
正しい窓口へ書類を移す。
最初の日付を守る。
たったそれだけで。
一人の人が、
「もう遅い」
と追い返されずに済む。
制度の冷たさが、
今日は妙に優しく見えました。
「行くぞ」
相馬先輩が言いました。
「どこへです?」
「保健所」
「今から?」
「今日が六十日目なんだろ」
「でも条文上は――」
「分かってる」
相馬先輩は上着を取りました。
「分かってても、書類が役所の机の上で寝てたら面倒だ」
「現場的」
「法律は自分で歩かねえんだよ」
はい。
名言いただきました。
条文は書類を県庁まで運んでくれません。
人が運ぶんです。
県保健所。
古い庁舎の一階。
窓口で事情を伝えると。
奥から係長らしい男性が出てきました。
「北村さんの件ですね」
「異議申立書はありますか」
相馬先輩が言います。
「ございます」
「返却するつもりだった?」
「いえ、その……」
歯切れが悪い。
「昨日の電話では、審査請求として出し直すよう話したそうだな」
「担当者が制度を確認しまして」
「確認して間違えたのか」
「相馬さん」
私は袖を引きました。
「何だ」
「言い方」
「間違えてるだろ」
「そうですけど」
そこへ。
廊下の奥から、別の声がしました。
「その件、私が引き取ります」
見る。
沢渡課長でした。
「……何でいるんですか」
「県との駅前事業の打合せです」
「どこにでもいますね」
「あなた方ほどではありません」
それは否定できません。
沢渡課長は係長から通知書と異議申立書を受け取りました。
教示欄を見る。
申立書を見る。
そして。
「これは駄目ですね」
あっさり言いました。
係長が困った顔になります。
「沢渡課長」
「教示が誤っています」
「それは確認しております」
「なら、なおさら北村さんに出し直させる話ではないでしょう」
「しかし、形式上は異議申立書でして」
「だから救済規定がある」
沢渡課長がこちらを見ました。
「朝比奈さん」
「はい」
「何条です?」
「試験ですか」
「確認です」
「旧行政不服審査法十八条」
「内容は」
来た。
市役所の廊下で口頭試問。
嫌な学校です。
「審査請求をすることができる処分について、誤って異議申立てができる旨を教示して、その処分庁に異議申立てがされた場合は――」
「はい」
「処分庁は、その異議申立書などを速やかに審査庁へ送付する」
「それから?」
「審査庁へ送付されたときは、初めから審査庁に審査請求がされたものとみなす」
「結構です」
沢渡課長は係長へ書類を返しました。
「県の担当へ送ってください」
「ですが」
「『ですが』は何です?」
「書式が異議申立書です」
「法律が、それを送れと言っています」
「……はい」
強い。
沢渡課長。
敵に回すとコンクリート壁ですが、
法理がこちらにあると突然ブルドーザーになります。
係長はまだ何か気になる様子でした。
「昨日、審査請求として改めて提出いただくよう案内してしまっています」
「訂正してください」
「今日が期間の最終日で」
「関係ありません」
沢渡課長が言いました。
「期限内に、行政庁自身の誤った教示に従って申立てがされています」
声は淡々としていました。
怒ってはいない。
北村さんをかばって感情的になっているわけでもない。
「国民に正しい手続を教える責任はこちら側にある。それを誤った以上、その誤りで不利益を受けさせないための規定を使えばいい」
係長が黙りました。
「それとも」
沢渡課長が眼鏡を直します。
「役所が間違えて教えた結果を、北村さんの手続ミスとして処理しますか」
「……いえ」
「では決まりです」
相馬先輩が横で、小さく笑いました。
「課長」
「何でしょう」
「今日は話が早えな」
「法律が明確ですから」
「いつもそうなら助かるんだが」
「いつも、あなた方の言い分が正しいとは限りません」
「かわいくねえな」
「相馬先輩」
「何だ」
「役所の課長にかわいさを求めないでください」
「お前はどっちの味方だ」
「法理の味方です」
一度言ってみたかった。
ちょっと格好いい。
沢渡課長が私を見る。
「朝比奈さん」
「はい」
「今、自分でいいことを言ったと思いましたね」
「思ってません」
「顔に出ています」
この人、本当に嫌です。
北村さんはというと。
会話についていけず、異議申立書をじっと見ていました。
「本当に」
ぽつりと聞きます。
「これ、このままでいいんですか」
沢渡課長が答えました。
「このまま県の審査庁へ送らせます」
「書き直さなくて?」
「必要な手続はこちらでします」
「昨日は、私が間違えたみたいに言われて」
係長が頭を下げました。
「申し訳ありませんでした」
北村さんは慌てて手を振りました。
「いえ、そんな。私も法律なんて分からないから」
「分からなくて当然です」
私は思わず言いました。
みんながこちらを見る。
「だって」
少し恥ずかしくなりましたが、続けました。
「みんなが行政不服審査法を知ってたら、教示なんていらないじゃないですか」
沢渡課長の目が少し細くなります。
「その通りです」
「だから書いてあるんですよね。不服があるなら、どこへ、いつまでに出せるって」
「ええ」
「それを信じて出した人が、役所の間違いで期限切れになるなら」
私は北村さんの書類を見ました。
「教示制度の意味がありません」
沢渡課長は頷きました。
「珍しく綺麗にまとまりましたね」
「珍しくは余計です」
「朝比奈」
相馬先輩が言いました。
「帰るぞ」
「はい」
「まだ本案がある」
「本案?」
「不許可そのものだよ」
そうでした。
今日は入口を守っただけ。
ここから。
なぜ今年だけ設備基準の扱いが変わったのか。
本当に基準を満たしていないのか。
去年までとの違いは何か。
不許可は妥当だったのか。
審査請求で争う中身が残っています。
北村さんにも伝えました。
「今日、勝ったわけじゃありません」
「はい」
「不許可が取り消されたわけでもないです」
「分かってます」
「でも」
私は少し笑いました。
「ちゃんと、中身を争えるところまで戻れました」
北村さんも笑いました。
「それだけで十分です」
また。
この言葉。
十分。
本当は十分ではない。
祭りに出られるかはまだ分からない。
審査請求が認められる保証もない。
でも。
昨日まで北村さんは、
役所の指示通りに動いたのに、
「窓口を間違えました」
と言われていた。
今日。
それが違うと分かった。
道を間違えたのは、
北村さんではない。
道しるべのほうだった。
そして法律は、
道しるべが間違ったときに、
歩いた人を崖から落とさない仕組みを持っていた。
事務所へ戻ったころには、夕方になっていました。
「疲れた」
私は机に突っ伏しました。
「お前、ほとんど喋ってただけだろ」
「法律を喋るのは疲れるんですよ」
「普段から余計なことばっか喋ってるだろ」
「余計なことは省エネなんです」
「便利な体だな」
そこへ。
引き戸が開きました。
「すみません」
北村さんでした。
「どうしました?」
「これ」
手には大きな紙袋。
相馬先輩が素早く起き上がります。
「食い物か」
「反応が野生動物なんですよ」
北村さんは笑いました。
「売り物にならない、形の崩れたいなり寿司です」
「最高じゃねえか」
「先輩にとって商品価値の基準どうなってるんです?」
紙袋を開ける。
少し形の不揃いないなり寿司。
甘い油揚げの匂い。
朝から役所の乾いた紙ばかり見ていたので、急に人間の世界へ帰ってきた気がしました。
「まだ出店できるか分からないんですけどね」
北村さんが言いました。
「はい」
「でも今日、久しぶりに仕込みする気になりました」
「どうしてです?」
「まだ終わってないって分かったから」
それだけ言って。
北村さんは帰っていきました。
私は一個、いなり寿司を取ります。
「あ」
相馬先輩が言いました。
「何です?」
「それ俺が狙ってた」
「全部同じでしょう」
「それが一番でかい」
「小学生ですか」
所長も一個取った。
「所長まで」
「悪いか」
「いえ」
私はいなり寿司を齧りました。
甘い。
ちょっと酢が強い。
でもおいしい。
「今日の教訓」
私は言いました。
「何だ」
相馬先輩が二個目を確保しながら聞きます。
「役所が間違った道を教えたなら、その間違いまで住民に背負わせない」
「長い」
「じゃあ」
少し考えました。
「誤教示で、救済の入口を閉じさせない」
「まあ、そんなもんだ」
片桐所長が湯呑みを置きました。
「教示は飾りじゃない」
「はい」
「権利を使うための道案内だ」
私は頷きました。
条文は冷たい。
送付する。
通知する。
みなす。
そんな言葉ばかりです。
そこには、
北村さんが昨夜眠れなかったことも。
六十日目の朝に、
もう間に合わないのではと震えていたことも。
一文字も書いてありません。
でも。
だからこそ。
誰が泣いたかではなく、
誰が間違ったか。
何を信じて行動したか。
いつ申し立てたか。
そこだけを静かに拾う。
そして、
役所の間違いで失いかけた一日を、
法律がそっと元の場所へ戻してくれる。
私は、旧行政不服審査法の条文をもう一度見ました。
――はじめから審査庁に審査請求がされたものとみなす。
不思議な言葉です。
時間は巻き戻りません。
昨日は昨日のまま。
今日が六十日目であることも変わらない。
それでも法律は、
必要なところだけ、
時間を巻き戻したことにする。
「先輩」
「何だ」
「『みなす』って、ちょっと魔法っぽいですね」
「法律で一番魔法から遠そうな言葉だけどな」
「でも、現実が違ってもそう扱うんですよ」
「それがどうした」
「北村さんは異議申立てをした。でも、審査請求を最初からしたものと扱う」
「うん」
「期限ぎりぎりだった。でも、出し直した今日じゃなくて、最初に出した日を守れる」
「うん」
「地味ですけど、すごくないです?」
相馬先輩は三個目のいなり寿司を取りました。
「法律なんざ、地味なくらいでちょうどいい」
「どういう意味です?」
「派手な法律が必要になるころには、大抵もう揉めてる」
なるほど。
また教科書よりいいことを言う。
悔しい。
「それ、ノートに書いていいです?」
「使用料取るぞ」
「著作権主張するほどの名言じゃないですよ」
「じゃあ返せ」
「言葉を?」
「いなり寿司を」
「そっちですか!」
片桐所長が新聞をめくりました。
「こはる」
「はい」
「一つ残せ」
「誰の分です?」
「明日の朝」
「所長のじゃないですか」
「保存だ」
「それを所長の分って言うんです」
私は紙袋を見る。
残り一個。
相馬先輩も見る。
「先輩」
「何だ」
「それ、取ったら異議申立てしますよ」
「誰に」
「所長に」
「処分庁本人じゃねえか」
「昭和ですから」
片桐所長がこちらを見ました。
「却下する」
「まだ申し立ててません!」
「結果は同じだ」
「それ誤った教示よりひどいです!」
相馬先輩が笑った。
私は最後のいなり寿司を守りながら思います。
昭和六十三年。
異議申立て。
審査請求。
六十日。
現代の私の頭には、
審査請求への一本化。
三か月。
再調査の請求。
そして、誤った教示を救う現行法の仕組みまで入っている。
似た言葉。
違う制度。
違う条文。
違う時代。
油断すると全部混ざる。
でも。
時代が変わっても、一つだけ変わらないものがある。
制度を知らない人に、
行政が道を教える。
その道案内を信じた人を、
行政自身の間違いで切り捨てない。
法律が守っているのは、
手続の形だけじゃない。
人が制度を信じて一歩踏み出した、その一歩です。
そして今日。
北村さんの一歩は、
ちゃんと期限の内側に残りました。
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