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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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223/586

[行政不服審査法55条・誤った教示をした場合の救済]現場編 「窓口を間違えたので、もう期限切れです」の嘘。役所が教えた間違いを住民に背負わせない、“最初から正しく出したことにする”救済

挿絵(By みてみん)

 道を間違えた人に、


 「そっちですよ」


 と教えたのが自分なら。


 その人が迷子になったあとで、


 「道を間違えたあなたが悪い」


 とは、普通は言えません。


 普通は。


 ――行政手続になると、その普通が急に難しい言葉になります。


 昭和六十三年。


 地方都市の片桐行政書士事務所。


 その日の朝。


 私は一枚の封筒を見ながら、首をひねっていました。


「先輩」


「何だ」


「役所って、自分で間違った道を教えておいて、その人が間違えたら怒ります?」


「質問が雑すぎる」


「じゃあ具体的に言います」


「最初からそうしろ」


 私は机の上の紙を一枚持ち上げました。


「役所が『ここに不服申立てしてください』って書いたから、そこに出したんです」


「ああ」


「そしたら今度は、『そこじゃありません』って言われたそうです」


「……何?」


「しかも」


 私は次の紙を持ち上げました。


「もう六十日近いから、正しいところへ出し直すころには期間切れだと」


 相馬先輩の煙草が止まりました。


「誰の話だ」


「今から来る人です」


「先に言え」


「所長から資料だけ渡されたんです」


「所長」


 相馬先輩が奥を見る。


 片桐所長は新聞から顔も上げません。


「読めば分かる」


「説明を放棄してません?」


「見習いの仕事だ」


 便利ですね、その言葉。


 行政書士見習い。


 書類整理。


 お茶。


 電話。


 法律調査。


 花瓶の水替え。


 最近はついに、所長の説明不足を自力で補完する職務まで追加されました。


 私は改めて紙を読みました。


 処分通知。


 差出人は、県保健所長。


 名宛人は、


 北村澄江。


 五十九歳。


 駅前商店街で小さな惣菜屋を営んでいる女性です。


 問題になったのは、秋祭りの期間だけ駅前広場で出す予定だった臨時の食品販売。


 毎年。


 焼きおにぎり。


 煮物。


 いなり寿司。


 商店街の催しで売っていたそうです。


 ところが今年。


 保健所へ申請したところ、不許可。


 理由は、


 ――設備が衛生上必要な基準を満たさないため。


 そこまでは、まあ分かる。


 気になるのは、その下でした。


 不服申立てについて。


 通知書には、はっきりこう書かれています。


 ――この処分に不服がある場合は、処分を知った日の翌日から六十日以内に、当保健所長に対して異議申立てをすることができます。


「……異議申立て」


 私は呟きました。


 そして処分庁を見る。


 県保健所長。


 その上には。


「県知事……」


 背中が、少しぞくっとしました。


 この時代。


 処分庁に上級行政庁があるなら、基本はそちらへの審査請求。


 処分庁自身への異議申立てではない。


「これ」


 私は顔を上げました。


「教示、間違ってません?」


「やっとそこまで来たか」


 相馬先輩が言いました。


「知ってたんですか」


「所長が朝から条文集出してたからな」


「それ、ほぼ答え見てるじゃないですか」


「現場じゃカンニングも何もねえんだよ」


 ごもっともです。


 試験会場で六法を開いたら退場ですが、実務で六法を開かない人のほうが怖い。


 そのとき。


 事務所の引き戸が開きました。


「すみません」


 小柄な女性が入ってきました。


 白いブラウス。


 紺色のカーディガン。


 両手で古い手提げ鞄を抱えています。


「北村澄江です」


 片桐所長が立ち上がりました。


「どうぞ」


 北村さんは椅子に座ると、まず深く頭を下げました。


「変なことをお願いしてるんじゃないかと思って」


「変かどうかは、聞いてから決めます」


 所長。


 安心させているのか突き放しているのか、相変わらず紙一重です。


 私がお茶を置くと、北村さんは小さく礼を言いました。


「これ、私が悪いんでしょうか」


 最初の言葉が、それでした。


「何がです?」


「出すところを間違えたことです」


 私は少しだけ黙りました。


「最初から聞かせてください」


「はい」


 北村さんは鞄から、控えの紙を出しました。


 異議申立書。


 提出日は。


 処分を知った日の翌日から数えて、五十六日目。


 期限ぎりぎりです。


「どうして五十六日目になったんです?」


 相馬先輩が聞きました。


「迷ってたんです」


「申立てるかどうか?」


「はい」


 北村さんは俯きました。


「保健所に逆らって、この先、お店に何か言われたら嫌だなって」


「逆らう、ですか」


「私らには、そう見えるんです」


 その言葉は重かった。


 法律の教科書では、


 不服申立権。


 権利救済。


 そんな立派な言葉になります。


 でも。


 町の小さな惣菜屋さんから見たら、


 保健所に不服を言う。


 それだけで、


 睨まれるんじゃないか。


 次の許可で困るんじゃないか。


 そう思ってしまう。


「それで、ぎりぎりまで悩んで」


「はい」


「でも今年の秋祭りで売れないと困る?」


「困ります」


 北村さんは、そこで初めて顔を上げました。


「うちはね、駅前の店だけじゃ、そんなに売れないんです」


 夫を亡くして七年。


 一人で惣菜屋を続けている。


 秋祭りは、一年でいちばん売れる三日間。


 その売上で冬場の仕入れを支えている。


 毎年楽しみにしてくれる客もいる。


「去年までは、同じ場所で出してたんです」


「今年だけ設備が駄目になった?」


「流し台を二つにしろって言われまして」


「去年は?」


「一つでいいと言われました」


「基準が変わったんですか」


「それを聞いても、担当の人が『今年から厳しく見ています』って」


 なるほど。


 不許可自体にも、何やら論点がありそうです。


 ただ。


 今、一番まずいのはそこではない。


「それで」


 私は異議申立書を指しました。


「通知書に書いてあった通り、保健所長へ異議申立てをした」


「はい」


「いつです?」


「一昨日です」


「受け取ってはくれました?」


「はい」


 北村さんは唇を噛みました。


「でも昨日、電話がかかってきて」


『これは異議申立てではありません』


 そう言われたそうです。


『県知事への審査請求になります』


 北村さんは驚いた。


 当然です。


 通知には、


 保健所長へ異議申立て。


 と書いてある。


「それで私、紙を見ながら言ったんです。ここにそう書いてありますって」


「相手は?」


「『教示に誤りがあったようです』って」


「認めた?」


「はい」


 相馬先輩の眉が動きます。


「そのあと何て言った」


「県庁へ審査請求書を出し直してくださいって」


「ほう」


「それで……」


 北村さんの手が少し震えました。


「今日で、六十日目なんです」


 事務所が静かになりました。


 今日。


 六十日目。


 郵便。


 書類。


 県庁。


 間に合うかどうか。


 そんな言葉が頭の中を走ります。


「電話した人に、それを言いました」


「六十日になるって?」


「はい」


「何て?」


 北村さんは少し迷ってから答えました。


「『今日中に出せるなら出してください』って」


 相馬先輩が椅子から立ちました。


「ふざけんな」


「先輩」


「何だ」


「相談者の前です」


「悪い」


 悪いと言いつつ、全然悪いと思っていない顔です。


 でも。


 私も同じ気分でした。


 役所が教えた。


 その通りに出した。


 役所が間違いを認めた。


 なのに。


 急いで正しいところへ出し直してください。


 間に合わなければ残念でした。


 そんな話が通るなら。


 教示なんて、


 道案内の看板じゃない。


 落とし穴です。


「北村さん」


 片桐所長が聞きました。


「昨日の電話で、異議申立書は返されたんですか」


「いいえ」


「保健所にある?」


「はい」


 所長が頷きました。


「なら、まだいい」


「え?」


 北村さんが顔を上げました。


 私も上げました。


「所長」


「条文を見ろ」


「はい」


 机の上には、昭和六十三年の行政不服審査法。


 私が頭の中でページをめくろうとした、その瞬間。


 未来の知識が先に飛び出しました。


 誤った教示。


 行政不服審査法五十五条。


 再調査の請求ができるのに、できないと教示されて。


 審査請求をして。


 審査請求人から申立てがあれば。


 審査庁が審査請求書を処分庁へ送って。


 最初から再調査の請求がされたものとみなす。


 ただし。


 弁明書が送付されたあとでは――


「……違う」


「何がだ」


 相馬先輩が言いました。


「五十五条じゃない」


「何の話だ」


「再調査の請求もない」


「だから何の話だ」


「未来です」


「帰ってこい」


「はい」


 危ない。


 またやった。


 ここは昭和六十三年。


 現行法の五十五条を探しても、今回の答えは出てきません。


 しかも。


 現代の「再調査の請求」と、


 旧法の「異議申立て」は、


 似て見えても同じ制度ではない。


 時代をまたいで勝手に貼り替えたら事故ります。


 私は旧法の条文を追いました。


 審査請求。


 処分庁経由。


 そして。


「あった」


 指が止まります。


「十八条」


 相馬先輩が言いました。


「読め」


「はい」


 誤った教示をした場合の救済。


 審査請求をすることができる処分について。


 処分庁が誤って異議申立てをすることができる旨を教示した。


 そして。


 その処分庁に異議申立てがされた。


「これ……」


 私は顔を上げました。


「北村さん、そのままじゃないですか」


「続き」


 所長が言います。


 私は目で条文を追います。


 その場合。


 処分庁は、


 異議申立書を、


 速やかに審査庁へ送付する。


 そして。


 その旨を異議申立人へ通知する。


 さらに。


「……送付されたときは」


 声が少し大きくなりました。


「初めから審査庁に審査請求がされたものとみなす」


 北村さんが、ぽかんとしました。


「どういう意味です?」


 私は一瞬だけ言葉を探しました。


 条文のまま読んでも伝わらない。


 相馬先輩がこちらを見ます。


 論点で喋るな。


 目だけで言われました。


「つまり」


 私は北村さんの異議申立書の控えを机に置きました。


「北村さんは、出し直して最初からやり直す必要はありません」


「え?」


「役所が間違って『異議申立てをしてください』と教えたんですよね」


「はい」


「北村さんは、その通りに期限内に出した」


「はい」


「だったら、その書類を保健所が正しい審査庁へ送る仕組みがあります」


「県庁へ?」


「はい」


「私が持っていかなくても?」


「はい」


 そして。


 一番大事なところ。


「その書類が県の審査庁へ送られれば、最初から審査請求をしていたものとして扱われます」


 北村さんは黙りました。


「最初から?」


「そうです」


「一昨日に?」


「そうです」


「じゃあ」


 北村さんの声が少し揺れました。


「六十日に間に合ってるんですか」


「間に合っています」


 その瞬間。


 北村さんの肩が、ほんの少し落ちました。


 緊張が抜けたのだと分かりました。


 派手な逆転ではありません。


 不許可が取り消されたわけでもない。


 祭りへの出店が決まったわけでもない。


 ただ。


 期限に間に合わなかったことにされずに済んだ。


 争う入口が閉じなかった。


 それだけ。


 でも。


 入口を閉められかけた人にとって、


 その「だけ」は大きい。


「じゃあ」


 北村さんが言いました。


「私が間違えたんじゃなかったんですね」


 片桐所長が答えました。


「あなたは、書かれた通りにしただけです」


「でも、異議申立てっていう紙を書いたのは私です」


「それを教えたのは役所です」


「……はい」


「役所の誤りで、あなたの不服申立ての機会まで失わせない」


 所長は条文集を閉じました。


「そのための規定です」


 私は、その横顔を見ました。


 法律の救済って。


 もっと大げさなものだと思っていました。


 処分取消し。


 権利回復。


 賠償。


 そういう結果。


 でも。


 今日は違います。


 誰のミスだったのかを整理する。


 正しい窓口へ書類を移す。


 最初の日付を守る。


 たったそれだけで。


 一人の人が、


 「もう遅い」


 と追い返されずに済む。


 制度の冷たさが、


 今日は妙に優しく見えました。


「行くぞ」


 相馬先輩が言いました。


「どこへです?」


「保健所」


「今から?」


「今日が六十日目なんだろ」


「でも条文上は――」


「分かってる」


 相馬先輩は上着を取りました。


「分かってても、書類が役所の机の上で寝てたら面倒だ」


「現場的」


「法律は自分で歩かねえんだよ」


 はい。


 名言いただきました。


 条文は書類を県庁まで運んでくれません。


 人が運ぶんです。


 県保健所。


 古い庁舎の一階。


 窓口で事情を伝えると。


 奥から係長らしい男性が出てきました。


「北村さんの件ですね」


「異議申立書はありますか」


 相馬先輩が言います。


「ございます」


「返却するつもりだった?」


「いえ、その……」


 歯切れが悪い。


「昨日の電話では、審査請求として出し直すよう話したそうだな」


「担当者が制度を確認しまして」


「確認して間違えたのか」


「相馬さん」


 私は袖を引きました。


「何だ」


「言い方」


「間違えてるだろ」


「そうですけど」


 そこへ。


 廊下の奥から、別の声がしました。


「その件、私が引き取ります」


 見る。


 沢渡課長でした。


「……何でいるんですか」


「県との駅前事業の打合せです」


「どこにでもいますね」


「あなた方ほどではありません」


 それは否定できません。


 沢渡課長は係長から通知書と異議申立書を受け取りました。


 教示欄を見る。


 申立書を見る。


 そして。


「これは駄目ですね」


 あっさり言いました。


 係長が困った顔になります。


「沢渡課長」


「教示が誤っています」


「それは確認しております」


「なら、なおさら北村さんに出し直させる話ではないでしょう」


「しかし、形式上は異議申立書でして」


「だから救済規定がある」


 沢渡課長がこちらを見ました。


「朝比奈さん」


「はい」


「何条です?」


「試験ですか」


「確認です」


「旧行政不服審査法十八条」


「内容は」


 来た。


 市役所の廊下で口頭試問。


 嫌な学校です。


「審査請求をすることができる処分について、誤って異議申立てができる旨を教示して、その処分庁に異議申立てがされた場合は――」


「はい」


「処分庁は、その異議申立書などを速やかに審査庁へ送付する」


「それから?」


「審査庁へ送付されたときは、初めから審査庁に審査請求がされたものとみなす」


「結構です」


 沢渡課長は係長へ書類を返しました。


「県の担当へ送ってください」


「ですが」


「『ですが』は何です?」


「書式が異議申立書です」


「法律が、それを送れと言っています」


「……はい」


 強い。


 沢渡課長。


 敵に回すとコンクリート壁ですが、


 法理がこちらにあると突然ブルドーザーになります。


 係長はまだ何か気になる様子でした。


「昨日、審査請求として改めて提出いただくよう案内してしまっています」


「訂正してください」


「今日が期間の最終日で」


「関係ありません」


 沢渡課長が言いました。


「期限内に、行政庁自身の誤った教示に従って申立てがされています」


 声は淡々としていました。


 怒ってはいない。


 北村さんをかばって感情的になっているわけでもない。


「国民に正しい手続を教える責任はこちら側にある。それを誤った以上、その誤りで不利益を受けさせないための規定を使えばいい」


 係長が黙りました。


「それとも」


 沢渡課長が眼鏡を直します。


「役所が間違えて教えた結果を、北村さんの手続ミスとして処理しますか」


「……いえ」


「では決まりです」


 相馬先輩が横で、小さく笑いました。


「課長」


「何でしょう」


「今日は話が早えな」


「法律が明確ですから」


「いつもそうなら助かるんだが」


「いつも、あなた方の言い分が正しいとは限りません」


「かわいくねえな」


「相馬先輩」


「何だ」


「役所の課長にかわいさを求めないでください」


「お前はどっちの味方だ」


「法理の味方です」


 一度言ってみたかった。


 ちょっと格好いい。


 沢渡課長が私を見る。


「朝比奈さん」


「はい」


「今、自分でいいことを言ったと思いましたね」


「思ってません」


「顔に出ています」


 この人、本当に嫌です。


 北村さんはというと。


 会話についていけず、異議申立書をじっと見ていました。


「本当に」


 ぽつりと聞きます。


「これ、このままでいいんですか」


 沢渡課長が答えました。


「このまま県の審査庁へ送らせます」


「書き直さなくて?」


「必要な手続はこちらでします」


「昨日は、私が間違えたみたいに言われて」


 係長が頭を下げました。


「申し訳ありませんでした」


 北村さんは慌てて手を振りました。


「いえ、そんな。私も法律なんて分からないから」


「分からなくて当然です」


 私は思わず言いました。


 みんながこちらを見る。


「だって」


 少し恥ずかしくなりましたが、続けました。


「みんなが行政不服審査法を知ってたら、教示なんていらないじゃないですか」


 沢渡課長の目が少し細くなります。


「その通りです」


「だから書いてあるんですよね。不服があるなら、どこへ、いつまでに出せるって」


「ええ」


「それを信じて出した人が、役所の間違いで期限切れになるなら」


 私は北村さんの書類を見ました。


「教示制度の意味がありません」


 沢渡課長は頷きました。


「珍しく綺麗にまとまりましたね」


「珍しくは余計です」


「朝比奈」


 相馬先輩が言いました。


「帰るぞ」


「はい」


「まだ本案がある」


「本案?」


「不許可そのものだよ」


 そうでした。


 今日は入口を守っただけ。


 ここから。


 なぜ今年だけ設備基準の扱いが変わったのか。


 本当に基準を満たしていないのか。


 去年までとの違いは何か。


 不許可は妥当だったのか。


 審査請求で争う中身が残っています。


 北村さんにも伝えました。


「今日、勝ったわけじゃありません」


「はい」


「不許可が取り消されたわけでもないです」


「分かってます」


「でも」


 私は少し笑いました。


「ちゃんと、中身を争えるところまで戻れました」


 北村さんも笑いました。


「それだけで十分です」


 また。


 この言葉。


 十分。


 本当は十分ではない。


 祭りに出られるかはまだ分からない。


 審査請求が認められる保証もない。


 でも。


 昨日まで北村さんは、


 役所の指示通りに動いたのに、


 「窓口を間違えました」


 と言われていた。


 今日。


 それが違うと分かった。


 道を間違えたのは、


 北村さんではない。


 道しるべのほうだった。


 そして法律は、


 道しるべが間違ったときに、


 歩いた人を崖から落とさない仕組みを持っていた。


 事務所へ戻ったころには、夕方になっていました。


「疲れた」


 私は机に突っ伏しました。


「お前、ほとんど喋ってただけだろ」


「法律を喋るのは疲れるんですよ」


「普段から余計なことばっか喋ってるだろ」


「余計なことは省エネなんです」


「便利な体だな」


 そこへ。


 引き戸が開きました。


「すみません」


 北村さんでした。


「どうしました?」


「これ」


 手には大きな紙袋。


 相馬先輩が素早く起き上がります。


「食い物か」


「反応が野生動物なんですよ」


 北村さんは笑いました。


「売り物にならない、形の崩れたいなり寿司です」


「最高じゃねえか」


「先輩にとって商品価値の基準どうなってるんです?」


 紙袋を開ける。


 少し形の不揃いないなり寿司。


 甘い油揚げの匂い。


 朝から役所の乾いた紙ばかり見ていたので、急に人間の世界へ帰ってきた気がしました。


「まだ出店できるか分からないんですけどね」


 北村さんが言いました。


「はい」


「でも今日、久しぶりに仕込みする気になりました」


「どうしてです?」


「まだ終わってないって分かったから」


 それだけ言って。


 北村さんは帰っていきました。


 私は一個、いなり寿司を取ります。


「あ」


 相馬先輩が言いました。


「何です?」


「それ俺が狙ってた」


「全部同じでしょう」


「それが一番でかい」


「小学生ですか」


 所長も一個取った。


「所長まで」


「悪いか」


「いえ」


 私はいなり寿司を齧りました。


 甘い。


 ちょっと酢が強い。


 でもおいしい。


「今日の教訓」


 私は言いました。


「何だ」


 相馬先輩が二個目を確保しながら聞きます。


「役所が間違った道を教えたなら、その間違いまで住民に背負わせない」


「長い」


「じゃあ」


 少し考えました。


「誤教示で、救済の入口を閉じさせない」


「まあ、そんなもんだ」


 片桐所長が湯呑みを置きました。


「教示は飾りじゃない」


「はい」


「権利を使うための道案内だ」


 私は頷きました。


 条文は冷たい。


 送付する。


 通知する。


 みなす。


 そんな言葉ばかりです。


 そこには、


 北村さんが昨夜眠れなかったことも。


 六十日目の朝に、


 もう間に合わないのではと震えていたことも。


 一文字も書いてありません。


 でも。


 だからこそ。


 誰が泣いたかではなく、


 誰が間違ったか。


 何を信じて行動したか。


 いつ申し立てたか。


 そこだけを静かに拾う。


 そして、


 役所の間違いで失いかけた一日を、


 法律がそっと元の場所へ戻してくれる。


 私は、旧行政不服審査法の条文をもう一度見ました。


 ――はじめから審査庁に審査請求がされたものとみなす。


 不思議な言葉です。


 時間は巻き戻りません。


 昨日は昨日のまま。


 今日が六十日目であることも変わらない。


 それでも法律は、


 必要なところだけ、


 時間を巻き戻したことにする。


「先輩」


「何だ」


「『みなす』って、ちょっと魔法っぽいですね」


「法律で一番魔法から遠そうな言葉だけどな」


「でも、現実が違ってもそう扱うんですよ」


「それがどうした」


「北村さんは異議申立てをした。でも、審査請求を最初からしたものと扱う」


「うん」


「期限ぎりぎりだった。でも、出し直した今日じゃなくて、最初に出した日を守れる」


「うん」


「地味ですけど、すごくないです?」


 相馬先輩は三個目のいなり寿司を取りました。


「法律なんざ、地味なくらいでちょうどいい」


「どういう意味です?」


「派手な法律が必要になるころには、大抵もう揉めてる」


 なるほど。


 また教科書よりいいことを言う。


 悔しい。


「それ、ノートに書いていいです?」


「使用料取るぞ」


「著作権主張するほどの名言じゃないですよ」


「じゃあ返せ」


「言葉を?」


「いなり寿司を」


「そっちですか!」


 片桐所長が新聞をめくりました。


「こはる」


「はい」


「一つ残せ」


「誰の分です?」


「明日の朝」


「所長のじゃないですか」


「保存だ」


「それを所長の分って言うんです」


 私は紙袋を見る。


 残り一個。


 相馬先輩も見る。


「先輩」


「何だ」


「それ、取ったら異議申立てしますよ」


「誰に」


「所長に」


「処分庁本人じゃねえか」


「昭和ですから」


 片桐所長がこちらを見ました。


「却下する」


「まだ申し立ててません!」


「結果は同じだ」


「それ誤った教示よりひどいです!」


 相馬先輩が笑った。


 私は最後のいなり寿司を守りながら思います。


 昭和六十三年。


 異議申立て。


 審査請求。


 六十日。


 現代の私の頭には、


 審査請求への一本化。


 三か月。


 再調査の請求。


 そして、誤った教示を救う現行法の仕組みまで入っている。


 似た言葉。


 違う制度。


 違う条文。


 違う時代。


 油断すると全部混ざる。


 でも。


 時代が変わっても、一つだけ変わらないものがある。


 制度を知らない人に、


 行政が道を教える。


 その道案内を信じた人を、


 行政自身の間違いで切り捨てない。


 法律が守っているのは、


 手続の形だけじゃない。


 人が制度を信じて一歩踏み出した、その一歩です。


 そして今日。


 北村さんの一歩は、


 ちゃんと期限の内側に残りました。

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