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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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221/287

[行政不服審査法54条・再調査の請求期間]現場編 「話し合っている間は、期限も待ってくれる」の罠。中身の正しさより先に扉を閉める申立期間と、残り一日を拾う不服申立て

挿絵(By みてみん)

 役所と話し合っている間も、期限は止まりません。


 担当者が、


「検討します」


 と言っていても。


 課長が、


「また連絡します」


 と言っていても。


 商店会長が、


「まあ、穏便にいこう」


 と言っていても。


 時計だけは、びっくりするほど穏便ではありません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 九月二日の朝。


 私は、一枚の通知書の日付を見て固まっていました。


「先輩」


「何だ」


「これ、いつ届いたって言いました?」


「本人に聞け」


「聞きました」


「じゃあ何で俺に聞く」


「聞き間違いであってほしいからです」


「現実逃避を俺に委託するな」


 相馬先輩は煙草をくわえたまま新聞を畳みました。


 私は向かいの女性を見ます。


「もう一度だけお願いします。これ、本当に七月五日に受け取ったんですよね」


「ええ」


 三枝美津子さん、六十四歳。


 駅西口の古い待合所脇で、小さな手荷物預かり所を営んでいる女性です。


 木造の小屋。


 窓口一つ。


 棚が三段。


 旅行鞄。


 風呂敷包み。


 買い物袋。


 駅前へ来た人から荷物を預かって、一個五十円。


 大きな商売ではありません。


 でも三枝さんにとっては、二十年以上続けてきた仕事でした。


 その小屋があるのは市有地。


 毎年、市から使用許可を受けている。


 ところが今年。


 駅前再整備を理由に、市は許可を途中で取り消しました。


 通知書には、こうあります。


 ――駅前環境整備事業に伴い、昭和六十三年八月一日をもって使用許可を取り消す。


 その下。


 小さな字で、不服申立てについての教示。


 私はそこを指で押さえました。


「三枝さん。この下のところ、読みました?」


「読みましたよ」


「異議申立てについて書いてあります」


「ええ。でもね」


 三枝さんは困ったように笑いました。


「市役所の人が、話し合いましょうって言ってくれたものだから」


 嫌な予感がしました。


 こういう嫌な予感だけは、行政法を勉強してから妙に性能がいい。


「誰がです?」


「駅前整備課の若い人です。小屋をいきなりどかすのは大変でしょうから、代わりの場所も含めて相談しましょうって」


「それ、いつです?」


「通知をもらった次の日」


「その後は?」


「二週間くらいして、市役所へ行きました」


「はい」


「まだ決まってませんって」


「その次は?」


「八月の初め」


「はい」


「もう少し待ってくださいって」


「その次は」


「お盆明け」


「何て?」


「課長さんと相談しているところですって」


 私は額を押さえました。


 待って。


 また待って。


 さらに待って。


 行政手続で一番怖い言葉の一つです。


「待ってください」。


 何を待つのか。


 いつまで待つのか。


 そして。


 待っている間に何が進むのか。


 そこを確認しないと。


 たいてい何かが静かに死にます。


 今回は。


 期間です。


「でも」


 三枝さんが言いました。


「まだ返事をもらってないんですよ」


「はい」


「だったら、まだ大丈夫じゃないんですか」


「何がです?」


「不服を言うのは」


 来た。


 私は通知書を見ます。


 三枝さんは悪くありません。


 普通なら、そう思います。


 役所が、


 話し合いましょう。


 検討しています。


 待ってください。


 と言っている。


 だったら。


 その結論を待ってから、不服を申し立てればいい。


 人間の感覚なら、それが自然です。


 でも。


 制度の時計は、人間関係を見ません。


「三枝さん」


 私はゆっくり言いました。


「役所との話し合いと、不服申立ての期間は、別に考えた方がいいです」


「別?」


「はい」


「だって市役所と話してるのに?」


「話していてもです」


 三枝さんの顔から、笑みが消えました。


「じゃあ……もう遅いんですか」


 私は答えかけて。


 止まりました。


 頭の中に。


 現代の行政不服審査法が、ものすごい勢いで飛び出してきたからです。


 処分を知った日の翌日から三か月。


 処分の日の翌日から一年。


 正当な理由。


 再調査の請求。


 行政不服審査法第五十四条。


 よし。


 七月五日に知ったなら九月二日。


 まだ三か月経ってない。


「まだ――」


「こはる」


 片桐所長の声が飛んできました。


「はい」


「何月だ」


「九月です」


「年は」


「昭和六十三年です」


「もう一度考えろ」


 はい。


 そうでした。


 ここ、昭和。


 平成二十六年改正後ではありません。


「危なっ」


「何がだ」


 相馬先輩が新聞の向こうから言いました。


「未来の法律で依頼人を救った気になるところでした」


「朝から意味分からんこと言うな」


「私の中ではかなり重大事故です」


 再調査の請求。


 三か月。


 一年。


 それは現代の制度。


 今は昭和六十三年。


 旧行政不服審査法です。


 異議申立てと審査請求が並んで存在している時代。


 そして。


 期間も。


 三か月ではない。


「六十日……」


 私が呟くと。


 三枝さんが目を瞬きました。


「六十日?」


 相馬先輩が椅子から立ちました。


「通知を見ろ」


 私は教示部分を読みます。


 ――この処分に不服があるときは、処分があったことを知った日の翌日から起算して六十日以内に、市長に対して異議申立てをすることができます。


「六十日」


 間違いありません。


「七月五日に届いた」


 相馬先輩が言います。


「はい」


「翌日から数える」


「はい」


 私は卓上カレンダーを引き寄せました。


 七月。


 八月。


 九月。


 一日ずつ数える。


 こういうとき。


 行政法の問題集なら、


 甲は七月五日に処分を知った。


 異議申立期間の末日はいつか。


 なんて無機質に出てきます。


 受験生だった私は、


 面倒くさいなあ。


 カレンダー問題かあ。


 くらいに思っていました。


 今。


 向かいには三枝さんが座っています。


 その六十日の向こう側には。


 二十年続けた仕事があります。


 一日間違えたら。


 論点の正しさも。


 処分理由の薄さも。


 代替場所がないことも。


 全部。


 入口で止められる。


「七月六日から数えて……」


 七月末まで。


 八月。


 そして九月。


 指を止める。


「……明日」


 三枝さんが聞き返しました。


「え?」


「六十日目」


 私は顔を上げました。


「明日です」


 事務所が静まり返りました。


 三枝さんが、小さく息をのみます。


「じゃあ」


「間に合います」


「でも」


「まだ間に合います」


 今度は、はっきり言いました。


 相馬先輩が新聞を机へ放りました。


「所長」


「ああ」


「市役所行ってくる」


「待て」


「何だ」


「先に事実を取れ」


 片桐所長はいつもの低い声でした。


「期間だけ間に合わせても、中身が空なら意味がない」


「はい」


 私はノートを開きました。


「三枝さん。最初から確認します」


「はい」


「通知を受け取った日」


「七月五日」


「自分で受け取りました?」


「はい」


「その日のうちに内容も見た?」


「見ました」


「分かりました。次。市役所との話し合いは、取消処分そのものを撤回するための話でしたか。それとも、代わりの場所を探す話でしたか」


 三枝さんは考えました。


「最初は……両方だと思ってました」


「市役所は何て?」


「『取消し自体は決まってます。ただ移転先は相談できます』って」


 相馬先輩が舌打ちしました。


「そこだな」


「はい」


 三枝さんにとっては、


 話し合いが続いている。


 だから処分も確定していない。


 そんな感覚だった。


 でも市役所側は、


 取消処分はすでに出した。


 話しているのは、その後の措置だけ。


 同じ机で話しているのに。


 話の土台がずれていたのです。


「小屋は今どうなってます?」


「まだ置いてあります」


「八月一日で取消しなのに?」


「撤去業者が決まってないとかで」


「営業は?」


「してません」


「一か月?」


「はい」


 声が沈みました。


「八月から、窓口を閉めてます」


「収入は」


「ありません」


「生活は」


「年金と、少し貯金を崩して」


 私はペンを止めました。


 小さな商売。


 荷物一個五十円。


 数字だけなら、行政の大きな計画の前では本当に小さい。


 でも。


 その五十円を何十個か積み上げて。


 一日を作る人がいる。


 一か月を作る人がいる。


 生活を作る人がいる。


「どうしてもっと早く来なかった」


 相馬先輩が聞きました。


 少しぶっきらぼうでした。


 三枝さんは肩をすくめます。


「役所と喧嘩したくなかったんです」


 その答えに。


 相馬先輩は何も言えなくなりました。


「駅前で商売してるでしょう」


 三枝さんは続けます。


「これからも市役所には世話になるし。商店会長さんも、『まず話し合いなさい、いきなり不服申立てなんかしたら角が立つ』って」


「……なるほど」


「だから待ったんです」


 私は胸の奥が、少し重くなりました。


 分かる。


 すごく分かる。


 普通の人にとって。


 不服申立て。


 という言葉は強い。


 喧嘩。


 対立。


 役所に楯突く。


 そんな印象がある。


 だからまず穏便に。


 まず相談。


 まずお願い。


 そして。


 お願いしているうちに。


 法定期間だけが減っていく。


 制度には感情がない。


 角が立つかどうかなんて知りません。


「三枝さん」


 片桐所長が言いました。


「不服申立ては喧嘩じゃありません」


 三枝さんが顔を上げます。


「処分を見直してもらうための、決められた手続です」


「でも……役所は嫌がりませんか」


「嫌がるかどうかで、使える制度が変わるわけではありません」


 短い。


 でも。


 その言葉は妙に強かった。


 相馬先輩が私を見る。


「こはる。論点」


「はい」


「感情抜きで」


「はい」


 私はノートを見ました。


「まず、処分性。今回は使用許可の取消しが書面で出ています」


「次」


「不服申立ての種類。処分庁は市長名義。上級行政庁がないので、この時代なら異議申立て」


「次」


「期間。七月五日に処分を知った。翌日から六十日。明日が期限」


「次」


「本案です。駅前整備を理由に取消しているけど、三枝さんの場所が具体的にいつ工事区域になるのか確認が必要」


「ほかは」


「他の使用者の扱い。近くの売店や新聞販売台が残ってるか」


「そうだ」


「それと……」


 私は通知書をもう一度見ました。


「取消し理由が、かなり薄い」


 ――駅前環境整備事業の円滑な実施のため。


 またこれです。


 駅前環境整備事業。


 最近。


 この言葉を見すぎている。


 花売り台。


 露店。


 使用許可。


 そして今度は手荷物預かり所。


 バラバラの小さな処分。


 でも全部。


 駅前再整備。


 その大きな言葉の下に入っている。


「先輩」


「何だ」


「また駅前です」


「ああ」


「多くないですか」


「多いな」


 片桐所長がこちらを見ます。


「今は三枝さんの件をやれ」


「はい」


 そうです。


 縦軸の謎に浸るのはあと。


 明日までに扉が閉まる。


 まず。


 目の前の一件です。


 市役所二階。


 総務課。


 私たちが入ると。


 沢渡課長は、机の上の書類から顔を上げました。


「また駅前ですか」


「そっちが駅前を量産してるんでしょう」


 私が言うと。


 相馬先輩に頭を軽く叩かれました。


「痛い」


「喧嘩売りに来たんじゃねえ」


「分かってます」


 沢渡課長は眼鏡を直します。


「三枝美津子さんですね」


「知ってるんですか」


「相談記録が上がっています」


「じゃあ話が早い」


 相馬先輩が通知書の写しを置きました。


「使用許可取消し。異議申立てを検討してる」


「そうですか」


 相変わらず。


 動じません。


 不服申立てという単語を聞いても。


 顔色一つ変わらない。


 この人の心臓、役所の耐震基準で造られているんじゃないでしょうか。


「ただ」


 沢渡課長が言いました。


「ずいぶん遅いですね」


「分かってる」


「処分は七月でしょう」


「七月五日に知った」


 沢渡課長の視線が、わずかに動きます。


「今日、九月二日ですね」


「ええ」


「……なるほど」


 理解した。


 さすが早い。


「明日まで」


 私が言いました。


「そうなりますね」


 三枝さんが不安そうに聞きます。


「課長さん」


「はい」


「市役所とずっと話してましたよね」


「ええ」


「それでも、六十日は進んでたんですか」


「進みます」


 即答。


 冷たい。


 でも。


 嘘をつかない。


「じゃあ、私が待ってたのは……」


「移転先についての協議です」


「処分そのものの話じゃなかった?」


「取消処分はすでに出ています」


 三枝さんの顔が曇りました。


 私は思わず沢渡課長を見ます。


「それ、三枝さんにちゃんと伝わってました?」


「通知はしています」


「紙の話じゃなくて」


「朝比奈さん」


「はい」


「行政処分について、どこまで説明すれば相手が完全に理解するかという問題は、簡単ではありません」


「だから六十日過ぎたら終わり?」


「原則として、法定期間経過後の申立ては不適法になります」


 却下。


 その言葉が頭に浮かびました。


 本案を見る前に。


 門前払い。


「中身がどれだけおかしくても?」


 三枝さんが聞きました。


 沢渡課長は少しだけ間を置きました。


「期間を過ぎれば、手続上そうなることがあります」


 きつい。


 本当にきつい。


 でもこれが制度です。


 期限を決めなければ。


 処分はいつまでも不安定になる。


 行政も次の仕事に進めない。


 いつまでも昔の処分が争われ続ける。


 だから線を引く。


 六十日。


 現代なら制度によって三か月。


 さらに客観的な期間。


 事情によって例外。


 でも。


 線そのものは必要です。


 制度の冷たさは。


 人を切るためだけにあるわけじゃない。


 社会を動かすためにもある。


 だけど。


 だからこそ。


 使う側は、その線を知らなければならない。


「課長」


 相馬先輩が言いました。


「三枝さんの小屋。具体的な撤去予定日は」


「まだ確定していません」


「工事区域に入るのは」


「第二期です」


「第二期はいつだ」


「年度末以降を予定しています」


 私は顔を上げました。


「年度末?」


「現時点の予定です」


「八月一日で取り消す必要あったんですか」


「駅前空間を順次整理する方針です」


「第一期じゃないのに?」


「全体計画として判断しています」


 まただ。


 全体計画。


 順次整理。


 円滑な実施。


 行政用語は便利です。


 大きな毛布みたいに。


 細かい事情を全部隠せる。


「近くの新聞販売台は?」


 私は聞きました。


「残っています」


「売店は?」


「残っています」


「どうして三枝さんだけ先に?」


「用途、位置、契約関係、利用状況等を総合考慮しています」


「具体的には?」


「担当課の判断です」


 相馬先輩がため息をつきました。


「その『総合考慮』って言葉、便利だな」


「実際、複数の事情を考慮していますので」


「だったら書けよ」


 空気が変わりました。


「何をですか」


「何を考慮して、なぜ三枝さんだけ八月一日で切るのか」


 相馬先輩が通知を指で叩きます。


「この紙じゃ分からねえ」


 沢渡課長が黙ります。


「第二期工事まで時間がある」


 私は続けました。


「小屋もまだ撤去されていない」


「はい」


「近くの施設は残っている」


「はい」


「なのに三枝さんだけ営業を止めて、一か月収入がない」


「それは結果としてそうなっています」


「その結果を出すほどの理由が、この一行から分からない」


 沢渡課長が私を見ました。


「異議申立書に書けばよいでしょう」


「書きます」


 言ってから。


 私は時計を見ました。


 午前十一時二十分。


 明日まで。


「今日、出します」


 三枝さんが驚きました。


「今日?」


「はい」


「まだ書いてないでしょう」


「書きます」


「そんな急に」


「急がないと、明日はもっと急になります」


 相馬先輩が鼻で笑います。


「珍しくまともなこと言ったな」


「いつもまともです」


「自覚ねえのか」


 沢渡課長が言いました。


「一つだけ」


「何です?」


「焦って、事実と違うことは書かないでください」


「分かってます」


「期間ぎりぎりの申立てでよくあるのは、慌てて余計な主張を盛ることです」


 私は少し黙りました。


 そして。


「ありがとうございます」


「礼を言われることではありません」


「敵に塩を送ってません?」


「私は敵ではありません」


「壁です」


「朝比奈」


 相馬先輩が低い声を出します。


「はい」


「帰るぞ」


「はい」


 事務所に戻ったのは正午前。


 そこから。


 戦争でした。


 ただし。


 紙との。


「処分を知った日」


「七月五日」


「証拠」


「封筒あります」


「出せ」


 三枝さんが鞄から封筒を出す。


 消印。


 通知。


 日付。


 確認。


「駅前整備課との相談記録」


「手帳に書いてあります」


「見せてください」


 七月六日。


 七月二十一日。


 八月三日。


 八月十九日。


 役所へ行った日。


 担当者の名前。


 言われたこと。


 三枝さん。


 かなり几帳面です。


「これ助かります」


「何となく書いてたの」


「何となくが人を救うことあります」


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「書面」


「はい」


 私は異議申立書を打ち始めます。


 もちろん。


 ワープロではありません。


 タイプライターでもありません。


 手書きと和文タイプの世界です。


 現代なら修正なんて一瞬なのに。


 昭和は誤字一つにも精神力を要求してきます。


「うわ、間違えた」


「書き直せ」


「一文字ですよ」


「書き直せ」


「修正液は」


「正式書面だ」


「昭和、厳しい」


「時代のせいにするな」


 相馬先輩が現場へ走る。


 三枝さんの小屋。


 周辺施設。


 距離。


 写真。


 新聞販売台。


 売店。


 私は事実を並べる。


 許可取消処分。


 処分日。


 通知到達日。


 処分を知った日。


 申立ての日。


 駅前整備事業。


 第二期工事予定。


 現時点で撤去時期未定。


 周辺施設との扱い。


 営業停止による影響。


 そして。


 取消処分の再検討を求める。


 感情は書かない。


 二十年続けたからかわいそう。


 年金だけではつらい。


 市役所は冷たい。


 それは胸の中に置く。


 紙に載せるのは。


 日付。


 事実。


 比較。


 理由。


 処分とのつながり。


 制度の壁を破るのは。


 怒鳴り声ではありません。


 整理です。


 午後三時。


 相馬先輩が帰ってきました。


「撮ってきた」


 写真を机に置く。


「小屋から第一期工事区域まで結構ある」


「どれくらい?」


「歩いて二分」


「新聞台は?」


「小屋より工事区域に近い」


「……それで残ってる?」


「ああ」


 私は申立書に一行追加しました。


 片桐所長が読みます。


 赤鉛筆。


 一か所削る。


 二か所直す。


「ここ」


「はい」


「『著しく不公平』は要らん」


「でも」


「評価を書く前に、違いを書け」


「はい」


「近接施設は継続使用。三枝さんのみ取消し。それで十分だ」


「なるほど」


「読む側に考えさせろ」


 削る。


 直す。


 また読む。


 午後四時十二分。


 完成。


 三枝さんが震える手で署名しました。


「これで……喧嘩になるんでしょうか」


 私は首を振りました。


「処分を見直してくださいって、正式に言うだけです」


「嫌われない?」


「嫌われても期間は延びません」


 言ってから。


 もう少し優しい言い方があったなと思いました。


 でも。


 三枝さんは笑いました。


「朝比奈さん、怖いこと言うねえ」


「今日それを痛感したので」


 片桐所長が立ち上がります。


「行くぞ」


 市役所へ戻ったのは。


 午後四時四十分。


 閉庁時刻前。


 総務課。


 沢渡課長が顔を上げます。


 私が書面を差し出しました。


「三枝美津子さんの異議申立書です」


 沢渡課長は受け取る。


 最初のページを見る。


 処分を知った日。


 申立日。


 そこを確認。


「間に合いましたね」


「はい」


「明日でも間に合いましたが」


「今日出したかったので」


「なぜです?」


「明日、電車が止まるかもしれない」


「はい」


「三枝さんが熱を出すかもしれない」


「はい」


「私が寝坊するかもしれない」


「最後のは自己管理してください」


 正論。


「期限ぎりぎりで余裕があると思うの、もう嫌なんです」


「それはよい教訓です」


 沢渡課長が受付印を押しました。


 ばん。


 紙の上に。


 日付。


 九月二日。


 たったそれだけなのに。


 私はものすごく安心しました。


 今日。


 この紙が受理された。


 これで。


 少なくとも。


 期間を過ぎたから入口で終わり。


 にはならない。


「本案については、これから確認します」


 沢渡課長が言います。


「はい」


「処分が取り消されるとは限りません」


「分かってます」


「駅前整備そのものが止まるわけでもありません」


「それも」


「ですが」


 一枚めくる。


 二枚めくる。


 周辺施設の写真を見る。


「第二期区域との関係は、確認が必要ですね」


 私と相馬先輩が同時に顔を上げました。


「それから」


 沢渡課長が続けます。


「近接施設との差についても、担当課に説明を求めます」


 三枝さんが聞きました。


「じゃあ、小屋を戻してもらえます?」


「そこまでは、まだ言えません」


「そうですか」


「ただ」


 沢渡課長は書類を揃えました。


「『もう決まったことです』だけで終わる段階ではなくなりました」


 その言葉。


 私はたぶん。


 今日一日で一番好きでした。


 三枝さんは何度も頷きました。


「それでいいです」


「よろしいんですか」


「だって昨日までは、待ってくださいしか言われなかったから」


「……そうですね」


「今度はちゃんと、見てもらえるんでしょう?」


「異議申立てがされた以上、審理します」


「じゃあ、それで」


 三枝さんは少し笑いました。


 完全勝利ではありません。


 処分はまだ残っている。


 営業も止まったまま。


 小屋だって、いずれ撤去されるかもしれない。


 でも。


 あと一日遅かったら。


 その「見てもらう」ことさえ、ずっと難しくなっていた。


 そう思うと。


 六十日という数字が急に重い。


 受験生の頃。


 私は申立期間を。


 数字として覚えていました。


 旧法。


 六十日。


 現行法。


 三か月。


 客観的期間。


 一年。


 正当な理由。


 暗記表。


 語呂合わせ。


 過去問。


 でも今日。


 六十日目の向こう側に。


 一人の人の仕事がありました。


 翌朝。


 片桐行政書士事務所。


 机の上には。


 三枝さんが置いていった大きな包み。


「何です、これ」


「開けろ」


 相馬先輩が言います。


「先輩宛てじゃないですよ」


「いいから」


 開く。


 おにぎり。


 十個。


「多い!」


「昨日、夕飯食わずにやってたからだろ」


「見てたんですね」


「お前が腹鳴らしてたからな」


「それは忘れてください」


 包みの横には手紙。


 短く。


 ――昨日はありがとうございました。まだ何も決まっていませんが、間に合っただけで少し眠れました。


 私はその一文を二回読みました。


 間に合っただけ。


 それだけです。


 処分はまだ覆っていない。


 小屋も開いていない。


 売上も戻っていない。


 それでも。


 眠れた。


 人は。


 道が残っているだけで。


 少し眠れることがあります。


「先輩」


「何だ」


「期間って、残酷ですね」


「ああ」


「一日過ぎたら、中身を見てもらえないこともある」


「ああ」


「でも期限がないと、処分もいつまでも固まらない」


「そうだな」


「冷たいけど、必要なんですね」


 相馬先輩はおにぎりを一つ取りました。


「だから、知ってる奴が先に日付を見るんだろ」


 私は黙りました。


 うまいこと言う。


 たまに。


 本当にたまに。


「今、ちょっと格好いいこと言いました?」


「気のせいだ」


「照れてます?」


「食うぞ」


「それ三枝さんが私たちにくれた――」


「俺も働いただろ」


「写真撮っただけじゃないですか」


「重要証拠だ」


 二個目まで取ろうとしたので。


 私は包みを引き寄せました。


「一人一個です」


「十個あるだろ」


「所長もいます」


「三人だろ」


「沢渡課長にも」


「何で敵にやるんだよ」


「敵じゃないそうです」


「じゃあ何だ」


「壁です」


 奥から片桐所長の声がしました。


「こはる」


「はい」


「昨日の件」


「はい」


「何を覚えた」


 来た。


 突然の口頭試問。


 私は少し考えました。


「不服申立ては、中身を見る前に日付を見る」


「それだけか」


「話し合いをしていても、原則として申立期間が勝手に止まるわけじゃない」


「うん」


「そして」


 私は昨日の通知書を思い出しました。


 七月五日。


 翌日から起算。


 六十日。


 九月三日。


 あと一日。


「正しい主張でも、期限を過ぎれば入口に立てないことがある」


 所長が頷きました。


「忘れるな」


「はい」


 その瞬間。


 また私の頭に。


 現代の行政不服審査法が浮かびました。


 再調査の請求。


 知った日の翌日から三か月。


 処分の日の翌日から一年。


 そして。


 正当な理由がある場合の例外。


「……あ」


「何だ」


 相馬先輩が聞きます。


「未来では、また期間が違うんですよね」


「また始まった」


「再調査の請求って制度があって」


「知らん」


「三か月と一年で」


「今は何年だ」


「昭和六十三年です」


「じゃあ六十日見とけ」


「はい」


 ぐうの音も出ない。


 でも。


 不思議でした。


 現代の「三か月」という数字と。


 昭和の「六十日」という数字。


 昨日までなら。


 単なる新旧比較でした。


 今は違う。


 なぜ期間を確認するのか。


 なぜ「知った日」が大事なのか。


 なぜ「翌日から起算」という言葉を雑に読んではいけないのか。


 その向こうに。


 三枝さんの顔がある。


 たぶん。


 もう忘れません。


 そこへ電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課の沢渡です』


「おはようございます」


『三枝さんの件です』


「もう何か?」


『担当課の記録を確認しました』


 私は背筋を伸ばしました。


「はい」


『取消し対象の選定基準について、一部整理が不十分でした』


「……え?」


『第二期工事区域の使用者まで一律に前倒しで処理した案件と、従前どおり更新した案件が混在しています』


「つまり」


『三枝さんだけではありません』


 また。


 胸の奥で。


 何かが繋がりました。


 駅前。


 使用許可。


 再整備。


 ばらばらに見える処分。


 でも。


 判断基準が揃っていない。


「見直すんですか」


『まず対象案件を洗います』


「三枝さんの処分は?」


『それも含めます』


 まだ。


 取消しではない。


 でも。


 一歩進んだ。


「課長」


『何でしょう』


「昨日、間に合わなかったら」


 少し沈黙。


『少なくとも、異議申立てとしては非常に厳しかったでしょうね』


「一日で」


『期間とはそういうものです』


「怖いですね」


『だから教示があります』


 ぐう。


 正論。


「ただし」


 沢渡課長が続けました。


『教示を書けば、全員が意味を理解するとは限りません』


「……はい」


『そこはこちらも考える必要がある』


「課長がそんなこと言うんですね」


『私は合理的なだけです』


「知ってます」


 電話が切れました。


 私は受話器を置きました。


「何だって?」


 相馬先輩が聞きます。


「駅前の取消し、ほかにも基準が揃ってないみたいです」


「またか」


「見直すそうです」


 片桐所長が窓の外を見ました。


 駅の方向。


 再整備の看板。


 新しい道路予定。


 古い商店。


 残るもの。


 消えるもの。


 その境目で。


 役所の紙が何枚も動いている。


「こはる」


「はい」


「おにぎり」


「え?」


「食わないならもらう」


「食べます!」


 私は慌てて一つ確保しました。


 梅干し。


 塩が少し強い。


 昨日一日走り回った体には、ちょうどいい。


 法律の期間は冷たい。


 六十日を一日過ぎた人に、


 かわいそうだから六十一日でも同じですよ。


 とは簡単に言ってくれない。


 現代なら現代で。


 三か月。


 一年。


 そこにまた別の線が引かれている。


 でも。


 線があるからこそ。


 私たちは今日確認する。


 いつ処分があったのか。


 いつ知ったのか。


 明日までなのか。


 まだ間に合うのか。


 冷たい数字は。


 知っている人の手にかかれば。


 人を切る刃だけではなく。


 閉まりかけた扉に差し込む、薄い楔にもなる。


「先輩」


「何だ」


「今日の教訓です」


「勝手に言え」


「『役所が待ってと言っても、期限まで待つとは限らない』」


「長い」


「じゃあ」


 私はおにぎりを持ったまま考えました。


「『相談中でも、時計は止まらない』」


 相馬先輩が頷きます。


「それでいい」


「褒めました?」


「気のせいだ」


 片桐所長がおにぎりを一つ取りました。


「所長」


「何だ」


「一人一個ですからね」


「誰が決めた」


「私です」


「不服がある」


「申立期間は六十日です」


「今言う」


「制度を乱用しないでください!」


 相馬先輩が笑いました。


 窓の外。


 駅前へ向かうバスが一台、ゆっくり通り過ぎます。


 昨日。


 閉まりかけていた扉は。


 まだ開いています。


 たった一日。


 されど一日。


 行政法では。


 その一日が。


 人の明日を残すことがあります。

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