↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
219/274

[行政不服審査法53条・証拠書類等の返還]現場編 「一度提出した書類は、役所の記録ですから返せません」の嘘。裁決で終わった手続と、役所のファイルに閉じ込められた一枚の原本

挿絵(By みてみん)

 役所へ紙を出したからといって、その紙まで役所のものになるわけではありません。


 当たり前です。


 ものすごく当たり前です。


 でも。


 分厚いファイルに綴じられ、


 受付印を押され、


 「記録ですから」


 と言われると。


 自分の紙なのに、なぜか取り返してはいけないような気がしてきます。


 役所のファイルには、そういう妙な威圧感があります。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の午後。


 私は一枚の裁決書と、一枚のコピーを見比べていました。


「先輩」


「何だ」


「これ、コピーですよね」


「見りゃ分かる」


「私、眼鏡屋さんじゃないので、そこを聞いてるんじゃありません」


「じゃあ何だ」


「原本は?」


 相馬先輩が煙草をくわえたまま、向かいの相談者を見ました。


 相談者は、


 駅前市場で三十五年、靴の修理店を営んできた男性です。


 名前は、


 水野源一さん。


 六十二歳。


 駅前市場といっても、立派な建物ではありません。


 駅の北口。


 古いアーケードの端。


 八軒ほどの小さな店が肩を寄せ合うように並んでいる。


 八百屋。


 時計屋。


 乾物屋。


 靴修理。


 昭和の町にはよくある、


 大きな建物より先に、人の生活が詰まっている場所です。


 ところが。


 駅前再整備計画。


 最近、この言葉がやたらと私たちの事務所へやってきます。


 駅前市場も再整備区域に入った。


 市は順次、使用許可や営業区画の整理を進めている。


 その過程で、水野さんの店舗について、


 市場管理事務所長名義で使用許可の更新を認めない処分が出されました。


 水野さんは納得できず。


 市長に審査請求。


 処分庁の上に市長がいる。


 だから、この件は異議申立てではなく、


 審査請求。


 昭和六十三年では、この使い分けがまだ生きています。


 そして先週。


 裁決が出た。


 更新不許可処分の一部を取り消し、


 移転先が確保されるまでの六か月間について、改めて判断するよう求める内容。


 完全勝利ではない。


 でも。


 明日から即座に店を閉めろ、という状況からは抜け出した。


 ここまではよかったのです。


 問題は。


 審査請求のときに水野さんが提出した証拠でした。


「これです」


 水野さんが机の上のコピーを指しました。


 表題。


 ――駅前市場店舗使用承認書。


 昭和四十八年四月。


 古い。


 紙の色からして、もう昭和を煮詰めています。


 市場管理事務所が、水野さんの父親に対して店舗区画の使用を認めたときのもの。


 その後。


 父親から水野さんへ営業が引き継がれた際の追記。


 市側担当者の確認印。


 市場組合長の署名。


 当時の区画図まで添付されている。


「これを審査請求の証拠に出した?」


「はい」


「コピーじゃなくて?」


「役所から、できれば原本を見せてくださいって言われまして」


「で、提出した」


「はい」


「預かり証は?」


「これです」


 もう一枚。


 確かにあります。


 証拠書類として受領。


 原本一通。


 添付図面一枚。


 提出者、水野源一。


 日付もある。


「じゃあ返してもらえばいいじゃねえか」


 相馬先輩が言いました。


「それが」


 水野さんが困ったように笑います。


「返してもらえないんです」


「は?」


「昨日、市役所へ行ったんです。裁決も出たから、あの書類を返してくださいって」


「何て?」


「もう審査請求の記録に綴じてありますから、返せませんって」


 私は瞬きをしました。


 一回。


 二回。


「綴じたから?」


「はい」


「穴、開けたんですか」


「そこ?」


 相馬先輩が突っ込みます。


「いや大事ですよ。原本ですよ」


 私はコピーを持ち上げました。


 古い紙。


 手書き。


 印影。


 追記。


 当時の区画図。


 これ、普通に考えて、


 パンチで二穴開けられていたら悲しい。


「水野さん」


 片桐所長が聞きました。


「なぜ今、原本が必要なんです」


 水野さんの表情が少し変わりました。


「駅前の移転補償の話が始まるんです」


「補償?」


「はい」


 市の再整備担当から、


 市場の各店舗について、


 これまでどういう経緯で使ってきたのか。


 誰から誰へ営業を引き継いだのか。


 どういう区画だったのか。


 資料を出してほしいと言われた。


「それで、その書類が」


「一番古いんです」


 水野さんが言いました。


「父の代から、うちがあそこを使っていたって分かる紙は」


 なるほど。


 審査請求では、


 長年継続して使用してきた事実を証明するための証拠。


 今度は、


 移転補償や代替区画の協議で、


 これまでの使用関係を説明する資料。


 同じ一枚の紙が、


 次の手続でも必要になる。


「コピーじゃ駄目なんですか」


 私が聞くと、水野さんは少し迷ってから言いました。


「市の人は、原本があるなら持ってきてくださいって」


 私は止まりました。


「市が?」


「はい」


「原本を持ってるのも市ですよね」


「はい」


「なのに市が、水野さんに原本を持ってこいと?」


「そうなんです」


 私は相馬先輩を見ました。


「先輩」


「言うな」


「右手が左手に、物を持ってこいって言ってます」


「言うなって言っただろ」


「行政組織が壮大な一人芝居を始めています」


「こはる」


 所長。


「はい」


「茶化すな」


「すみません」


 でも。


 水野さんは少しだけ笑いました。


 そのあと。


 笑顔が消えます。


「実は」


 水野さんはコピーの端を指でなぞりました。


「この書類、父がずっと持ってたんです」


 昭和四十八年。


 水野さんはまだ二十代。


 父親の店を手伝い始めたばかりだった。


「親父、書類なんて何でも捨てる人だったんですよ」


「珍しいですね」


「でも、これだけは」


 小さく笑う。


「店の権利書みたいなもんだって。絶対なくすなって」


 正式な意味での権利書ではない。


 もちろん。


 でも。


 生活してきた人にとっては、


 そういう一枚なのです。


 店を開けた日。


 父親がいた日。


 初めて自分の名前が追記された日。


 行政法の教材なら、


 証拠書類。


 七文字。


 でも。


 水野さんにとっては、三十五年です。


「返してほしいだけなんです」


 水野さんが言いました。


「裁決には文句ありません」


「はい」


「市と喧嘩したいわけでもない」


「はい」


「ただ、終わったなら返してほしい」


 その言い方が、


 妙に胸に残りました。


 審査請求は終わった。


 裁決も出た。


 だから。


 自分の物を返してほしい。


 ものすごく小さな話です。


 でも小さいからこそ、


 「まあいいじゃないですか」


 で潰されやすい。


 私は机の端に置いてあった行政不服審査法を引き寄せました。


 ページをめくる。


 現代の私の頭が、勝手に動き始めます。


 証拠書類等の返還。


 第五十三条。


 審査庁は裁決をしたときは速やかに――


「……あ」


 私は止まりました。


「何だ」


 相馬先輩が言います。


「五十三条」


「何が」


「いや違う」


「どっちだ」


「未来では五十三条なんです」


「また始まった」


 そうでした。


 ここは昭和六十三年。


 平成二十六年全部改正後の行政不服審査法ではありません。


 現代なら。


 審理員。


 証拠書類等の提出。


 物件提出要求。


 そして五十三条の返還。


 でも。


 審理員制度なんて、この時代には影も形もない。


 しかも条文番号まで違う。


 私は旧法をめくりました。


 第二十六条。


 証拠書類又は証拠物の提出。


 第二十八条。


 提出要求。


 そして。


「……第四十四条」


 声に出しました。


 見つけた。


 証拠書類等の返還。


「所長」


「読め」


「はい」


 私は条文を目で追いました。


 審査庁は、


 裁決をしたときは、


 すみやかに、


 提出された証拠書類又は証拠物などを、


 その提出人に返還しなければならない。


 私は顔を上げました。


「返さなきゃ駄目じゃないですか」


「そうだな」


「『返してもいい』じゃない」


「ああ」


「『必要なら返す』でもない」


「ああ」


「返還しなければならない」


「そこまで読めば十分だ」


 所長が立ち上がりました。


「市役所へ行くぞ」


 相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。


「またか」


「嫌なんですか」


「今日は三回目だ」


「役所に顔パスできますね」


「嬉しくねえ」


「沢渡課長には喜ばれそうです」


「もっと嬉しくねえ」


 市役所二階。


 総務課。


 沢渡課長は私たちを見るなり、


 眼鏡の奥で一度だけ瞬きをしました。


「今日は何でしょう」


「水野源一さんの審査請求」


 片桐所長が言いました。


「ああ。先週、裁決が出た件ですね」


「証拠書類を返してほしい」


「証拠書類?」


「昭和四十八年の市場店舗使用承認書。原本」


 沢渡課長は少し考えます。


「審査請求記録に編綴してあるものですね」


 出た。


 編綴。


 綴じるを難しく言うだけで、


 突然、紙が国家機密みたいになる言葉です。


「返却を断られたそうだ」


 相馬先輩が言います。


「担当が?」


「『記録だから返せない』と」


 沢渡課長が眉を寄せました。


「それは誰が言いました」


「市場整備担当」


「審査請求の記録を保管しているのは総務課です」


「だから来た」


 沢渡課長は椅子から立ちました。


「確認します」


「課長」


 私は声をかけました。


「何でしょう」


「その前に一個だけ」


「はい」


「市としての考え方を確認したいんです」


 沢渡課長が座り直します。


「どうぞ」


「審査請求のときに提出された原本って、裁決後も市が保管し続けるんですか」


「場合によります」


 来た。


 役所用語ランキング上位。


 場合によります。


「どんな場合です?」


「公文書として保管すべき記録との関係があります」


「でも」


 私はコピーを机に置きました。


「審査請求書とか、市が作った処理記録とか、裁決書の控えとか。それを保存するのは分かります」


「ええ」


「でもこれは水野さんが提出した証拠ですよね」


「そうですね」


「しかも原本」


「はい」


「それまで市の物じゃなかった」


「もちろんです」


「提出したことで、市の所有物になるんですか」


「なりません」


 即答。


 なら話が早い。


「じゃあ、審査が終わったあとも持ち続ける根拠は何です?」


 沢渡課長が黙りました。


 相馬先輩が横から言います。


「しかも裁決はもう出てる」


「承知しています」


「審査のために預かった」


「ああ」


「審査は終わった」


「ああ」


「じゃあ返せ」


「先輩」


「何だ」


「圧が雑です」


「論点が合ってりゃいい」


「よくありません」


 沢渡課長が眼鏡を外しました。


 布でゆっくり拭く。


 この人がこれをやるときは、


 だいたい頭の中で条文を引いています。


「朝比奈さん」


「はい」


「何条です」


 来た。


 抜き打ち試験。


 私は反射的に答えかけます。


「第五十三――」


 危ない!


 止まれ未来人!


「……第四十四条です」


 沢渡課長の口元が少し動きました。


「今、一瞬何を言いかけました?」


「何も」


「五十何条とか」


「空耳です」


「そうですか」


 絶対聞かれてた。


「行政不服審査法第四十四条」


 私は言い直しました。


「審査庁は、裁決をしたときは、速やかに、提出された証拠書類や証拠物を提出人に返還しなければならない」


「そうですね」


「裁決、出てます」


「出ています」


「水野さんが提出人です」


「そうです」


「原本、市にあります」


「あります」


「じゃあ」


 私は一度、言葉を切りました。


「『記録だから返さない』という選択肢、なくないですか」


 静かになりました。


 沢渡課長は怒りません。


 こういうとき。


 感情をぶつけると、この人はびくともしない。


 けれど。


 要件を一個ずつ並べると。


 逃げ道が消えていく。


 裁決した。


 証拠書類だ。


 提出人がいる。


 返還義務がある。


 ものすごく地味です。


 地味すぎて、


 テレビドラマなら視聴率が心配になるくらい地味です。


 でも。


 法律の気持ちよさって、たぶんこういうところにあります。


 大声じゃない。


 脅しでもない。


 条件を一個ずつ置いて、


 曖昧な「できません」の場所をなくしていく。


「確認してきます」


 沢渡課長が立ちました。


 今度は止めませんでした。


 十分ほどして。


 戻ってきます。


 手には、


 灰色の厚いファイル。


「ありました」


「原本?」


「はい」


 沢渡課長がファイルを開きました。


 透明な袋に入れられた、


 黄色くなった紙。


 昭和四十八年。


 駅前市場店舗使用承認書。


 よかった。


 二穴は開いてない。


 そこ重要です。


「保存用の複写を取ったうえで、返還します」


 沢渡課長が言いました。


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「最初からそうしろ」


「担当が保存記録との区別を誤ったようです」


「記録との区別?」


「審査請求事件の記録として何を保存し、提出された原本をどう扱うか、整理が徹底されていませんでした」


 私は聞きました。


「ほかにもあります?」


 一瞬。


 沢渡課長が止まりました。


「何がです」


「返してない証拠書類」


「……確認が必要ですね」


「課長」


「はい」


「一件だけじゃない顔してます」


「朝比奈さん」


「はい」


「人の顔から行政情報を読み取らないでください」


「行政情報だったんだ」


 相馬先輩が言いました。


「先輩、今のは上手いです」


「うるせえ」


 沢渡課長は小さく息を吐きました。


「過去半年分を確認します」


「半年?」


「それ以前も必要なら」


「全部で」


 片桐所長が言いました。


 短い。


 沢渡課長が所長を見る。


「必要ですか」


「条文は一件だけ返せとは書いてない」


 その一言で。


 また空気が変わりました。


 一人の水野さんが困っている。


 だから一枚返す。


 それで終わり。


 ではない。


 同じ扱いをされている人がほかにいるなら。


 同じように直す。


 沢渡課長はしばらく黙ってから、


 頷きました。


「分かりました」


「素直ですね」


 私が言うと、


 沢渡課長は眼鏡をかけ直しました。


「条文が明確ですから」


「役所の面子とか」


「面子で条文は変わりません」


 うわ。


 この人、こういうときだけ妙に格好いい。


「それに」


 沢渡課長が続けました。


「間違った運用を守り続けるほうが、後で面倒です」


「あ、そっち」


「私は合理的ですから」


「知ってました」


 水野さんには、


 その日のうちに連絡しました。


 翌朝。


 片桐行政書士事務所。


 入口の戸が開きました。


「おはようございます」


 水野さんです。


 手には灰色の封筒。


「返ってきました」


 それだけ言って。


 少し笑いました。


 私は立ち上がります。


「本物?」


「はい」


 封筒から、


 ゆっくり紙を取り出す。


 昭和四十八年。


 駅前市場店舗使用承認書。


 古い印。


 手書きの住所。


 父親の名前。


 裏面には、


 水野さんへ営業を引き継いだときの追記。


「折れてないですか」


「大丈夫です」


「穴は?」


「開いてません」


「よかった」


「お前、そこ気にしすぎだろ」


 相馬先輩が呆れます。


「原本ですよ!」


 水野さんが笑いました。


「市役所の人も、『複写を保存しますので原本をお返しします』って」


「それでいいんです」


「これで再整備の担当にも見せられます」


「はい」


 水野さんは、


 紙をしばらく見ていました。


「親父に怒られずに済む」


 ぽつり。


 その一言だけでした。


 行政法の条文には、


 父親は出てきません。


 三十五年も出てきません。


 靴の匂いも。


 駅前市場のアーケードも。


 水野さんがこの一枚を大事にしている理由も。


 何ひとつ書いていません。


 書いてあるのは、


 ただ。


 裁決をしたときは、


 速やかに、


 提出人に返還しなければならない。


 それだけ。


 冷たい文章です。


 でも。


 その冷たさがあるから。


 役所側が、


 これは思い出の品だから返そう。


 これは大した紙じゃないから返さなくていい。


 なんて勝手に選ばなくて済む。


 誰の思い入れが強いかなんて、


 役所には測れません。


 だから。


 裁決が終わった。


 預かった証拠だ。


 提出人に返す。


 それでいい。


 法律が感情を量らないからこそ、


 結果として感情まで守られることがある。


「これ」


 水野さんが別の紙袋を机に置きました。


「何です?」


「お礼」


「いや、そんな」


「店の近くのパン屋のです」


 相馬先輩が顔を上げました。


「パン?」


「はい。あんパン」


「いただきます」


「早い!」


「食い物は迅速に受け取れ」


「行政不服審査法にそんな原則ありません!」


 水野さんが笑います。


 袋の中には、


 あんパンが六個。


 私は一個取ろうとして。


 ふと止まりました。


「先輩」


「何だ」


「これ、あとで返してくださいね」


「は?」


「証拠物として提出したことにします」


「食ったら返せねえだろ」


「じゃあ返還不能ですね」


「最初から俺に出すな」


 片桐所長が奥から言いました。


「こはる」


「はい」


「食い物で第四十四条を覚えるな」


「もう覚えちゃいました」


「忘れろ」


「無理です」


 そこへ。


 電話が鳴りました。


 私が取ります。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課の沢渡です』


 また来た。


「はい」


『昨日の件ですが』


「水野さんの書類なら返ってきました」


『それとは別です』


「別?」


『過去の審査請求記録を確認しました』


 私は受話器を持ち直しました。


「何件ありました?」


 少し沈黙。


『十一件』


「十一?」


『裁決後も、提出原本が記録と一緒に保存されていました』


「そんなに」


『古い図面、契約書、営業許可関係の書類などです』


「返すんですか」


『提出人を確認して、順次返還します』


「……そうですか」


『それから』


「はい」


『今後は、原本を受け取った時点で返還対象であることが分かるよう、記録票を付けることにしました』


 私は少し笑いました。


「一枚の紙から、運用まで変わりましたね」


『一枚ではありません』


「え?」


『十二枚です』


 沢渡課長が淡々と言いました。


『水野さんの一枚を含めて』


 なるほど。


「課長」


『何でしょう』


「そういう数え方、嫌いじゃないです」


『感想は結構です』


「ですよね」


『では』


 電話が切れました。


「何だって?」


 相馬先輩が、もう二個目のあんパンに手を伸ばしながら聞きます。


「返してなかった原本、ほかに十一件あったそうです」


「へえ」


「全部返すって」


「そりゃそうだ」


「今後は原本を預かったら、返還対象だって分かるように記録するそうです」


 片桐所長が新聞から目を上げました。


「それでいい」


 十二枚。


 行政全体から見れば、


 本当に小さな話です。


 予算が変わるわけじゃない。


 駅前再整備が止まるわけでもない。


 大きな処分が取り消されたわけでもない。


 でも。


 誰かが預けた大事なものを、


 手続が終わったら返す。


 そんな当たり前すら。


 制度として書いておかなければ、


 いつの間にか、


 「昔からこうしています」


 に負けてしまうことがあります。


 私は机の上の旧行政不服審査法を見ました。


 第四十四条。


 現代の頭なら、


 第五十三条。


 条文番号は変わる。


 手続も変わる。


 異議申立ては原則として消え、


 審査請求へ一本化され、


 未来には審理員という制度までできる。


 でも。


 審査のために預かった証拠を、


 終わったあとまで抱え込まない。


 その考え方は残る。


 行政不服審査という制度は、


 処分をひっくり返す場面だけが主役じゃない。


 証拠を出せること。


 調べてもらえること。


 そして。


 役目を終えた証拠が、


 ちゃんと持ち主の手へ戻ること。


 入口だけでなく、


 出口にもルールがある。


 今日の教訓は、


 たぶんそれです。


「先輩」


「何だ」


「私のあんパンありませんけど」


「知らん」


「六個ありましたよね」


「ああ」


「所長一個。水野さん一個。私一個。先輩一個なら、まだ二個余るはずです」


「計算が細けえな」


「まさか」


 相馬先輩の手元。


 紙袋。


 空。


「提出した者に返還してください」


「もうない」


「食べた!?」


「速やかにな」


「そこだけ条文に寄せるな!」


 片桐所長が新聞を畳みました。


「こはる」


「はい」


「証拠はあるか」


「空の袋があります!」


「それは証拠物だな」


「所長!」


「提出するか」


「します!」


 相馬先輩が立ち上がります。


「待て。誰が審査する」


 私は所長を指しました。


「所長です」


「処分庁本人じゃねえか」


「あ」


 昭和六十三年。


 旧法。


 処分した側が自分で見直す場面もある時代です。


 相馬先輩がにやりとしました。


「こりゃ俺の勝ちだな」


「制度の弱点をあんパンに悪用しないでください!」


 窓の外では、


 古い駅前市場のアーケードが夕日に照らされていました。


 そのどこかで。


 返ってきた一枚の紙を、


 水野さんはまた大事にしまっているはずです。


 今度はきっと。


 役所へ出す前に、


 コピーを三枚くらい取ってから。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜
宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
動画生成AIが作成したイメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。