[行政不服審査法52条・裁決の拘束力]現場編 「取り消されたなら、同じ理由でもう一度不許可にします」の罠。裁決を紙切れにしない“拘束力”が、役所のやり直しを縛る
役所に勝ったはずなのに、同じ答えがもう一度返ってきたら。
それは勝ったことになるのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の朝。
私は、一枚の封筒を前にして、首をかしげていました。
「先輩」
「何だ」
「役所って、負けたあとに同じことしていいんですか」
「朝っぱらから喧嘩売るな」
「役所全体には売ってません。特定の一件について聞いてます」
「もっと悪いだろ」
相馬先輩が煙草に火をつける。
私は机の上に二枚の紙を並べました。
一枚目。
県から届いた裁決書。
二枚目。
市役所から届いた新しい通知書。
そして。
二枚の紙の間で、相談者の男性が困り果てた顔をしています。
坂井隆一さん。
五十二歳。
駅前から少し離れた商店街で、小さな食堂を営んでいる人でした。
店の名前は「食事処さか井」。
焼き魚。
煮物。
うどん。
カレー。
昼になると市役所の職員まで食べに来る、昔ながらの食堂です。
その坂井さんが半年前、市に申請したものがあります。
店先の空き地を使った、小さな屋外客席。
といっても洒落たテラスなんかではありません。
木の長椅子二つ。
丸椅子三脚。
夏の夕方だけ、客が座れる程度。
駅前再整備で商店街への人の流れが変わり、少しでも店を目立たせようと考えたそうです。
ところが。
市は申請を不許可にしました。
理由は、
――歩行者通行の安全確保上、支障があるため。
坂井さんは納得しなかった。
なぜなら。
「店の前、歩道じゃないんです」
坂井さんが言いました。
「ですよね」
私は現場写真を見る。
店の前には、建物と道路の間に細長い空地がある。
問題の長椅子を置く予定なのは、その空地の奥側。
人が通る部分からはかなり離れていました。
「市には説明したんですけどね」
「何て言われました?」
「駅前整備に合わせて、歩行者空間は広く確保したいと」
「でも、そこは通行部分じゃない」
「はい」
さらに。
隣の喫茶店には似たような屋外ベンチがある。
向かいの菓子店にも商品台が出ている。
それらは認められている。
坂井さんだけ不許可。
そこで片桐事務所が相談を受けた。
調べると、市の処分にはどうにも妙なところがあった。
現地確認が不十分。
図面上の境界も曖昧。
坂井さんが補足資料を出したのに、それを十分検討した形跡もない。
そして何より。
不許可判断の前提となっていた、
「椅子を置けば歩行者通路を狭める」
という認定自体が怪しかった。
処分庁には上級行政庁がある。
そこで坂井さんは審査請求をした。
そして先週。
県から裁決が届いた。
結果は。
原処分取消し。
坂井さんが勝った。
――はずでした。
「その日はね」
坂井さんが苦笑します。
「女房と赤飯炊いたんですよ」
「赤飯」
「そりゃ嬉しかったですよ。役所の判断がおかしかったって認めてもらえたんですから」
「ですよね」
「それで昨日、市役所からまた封筒が来ましてね」
坂井さんの顔から笑いが消えました。
「開けたら、これです」
私は二枚目を読む。
――申請を不許可とする。
「……また不許可」
「はい」
「理由は」
その下。
私は読み上げました。
「『歩行者通行の安全確保上、支障があるため』」
沈黙。
私はもう一度読みました。
「歩行者通行の安全確保上、支障があるため」
「そうなんです」
「前と同じ?」
「同じです」
「一字一句?」
「一字一句」
私は一枚目の取消裁決を見る。
二枚目の再不許可通知を見る。
また裁決書を見る。
通知を見る。
「先輩」
「何だ」
「これ、間違い探しですか」
「違う」
「難易度が高すぎて、間違いが見つかりません」
「同じなんだから当然だろ」
「ですよね!」
勝ったのに。
戻ってきた場所が、
同じ。
それでは何のために審査請求をしたのか分かりません。
裁決書が、
立派な紙質の「ご苦労さまでした証明書」になってしまいます。
私は裁決理由を追いました。
そこには、かなり具体的に書かれている。
坂井さんの申請場所について。
提出された図面。
現況写真。
現地の幅員。
隣接店舗の設置物。
それらを踏まえ、
市が歩行者通行への支障を認定した判断過程には問題がある。
だから原処分を取り消す。
ところが市は。
もう一度。
同じ申請に。
同じ理由で。
同じ結論を出した。
「……こんなのありなんですか」
私が呟くと。
奥で帳簿を見ていた片桐所長が顔を上げました。
「何がだ」
「裁決で不許可処分が取り消されたあと、市がもう一度、同じ理由で不許可にしてます」
「裁決書を読んだか」
「はい」
「主文だけか」
「理由も」
「何と書いてある」
私は要点を説明しました。
所長は最後まで聞いてから、一言だけ言いました。
「なら、駄目だ」
坂井さんが顔を上げました。
「駄目?」
「市のやり方がですか」
私が聞く。
「ああ」
「どうしてです?」
片桐所長は裁決書を指しました。
「裁決には、後ろがある」
「後ろ?」
「取り消して終わりじゃない」
そこで。
頭の隅に、昨夜まで読んでいた行政法の言葉が浮かびました。
拘束力。
私は固まりました。
「あ」
「何だ」
相馬先輩がこちらを見る。
「……裁決の拘束力」
「やっと起きたか」
「起きてましたよ!」
「顔が寝てたぞ」
失礼な。
でも。
そうか。
そういうことか。
行政不服審査で裁決が出る。
その裁決が、
ただ「前の処分を消しました」で終わるなら。
処分庁が翌日、
同じ理由で同じ処分を出せばいい。
不服申立て。
取消し。
再処分。
また不服申立て。
また取消し。
再処分。
永久機関です。
行政法版の賽の河原です。
「裁決って」
私は言いました。
「関係する行政庁を拘束するんですよね」
片桐所長が頷きます。
「そうだ」
「じゃあ市は、県の裁決を無視できない」
「無視はできん」
「前と同じ理由で、そのまま出し直すのも」
「裁決の趣旨に反するならな」
そこです。
私は裁決書を握り直しました。
坂井さんが不安そうに聞きます。
「つまり、どういうことでしょう」
「取消しの裁決が出たからって」
私は言葉を選びました。
「必ず許可しなきゃいけない、とは限らないんです」
坂井さんの顔が曇ります。
「そうなんですか」
「はい」
そこは誤魔化せない。
行政に判断の余地が残っているなら。
もう一度きちんと審査した結果、
別の問題が見つかることだってある。
適法な別理由によって、不許可になる可能性まで消えるわけではない。
取消裁決は、
申請者に何でも望んだ答えを与える魔法じゃない。
「でも」
私は二枚の紙を並べました。
「取り消した理由まで無視して、同じ判断をそのまま繰り返していいわけでもありません」
「じゃあ」
「市は少なくとも、裁決で示された判断に従って、もう一度きちんと申請を審査し直す必要があります」
坂井さんはしばらく紙を見ていました。
「赤飯」
「はい?」
「早かったかなあ」
「いえ」
私は首を振りました。
「まだ冷蔵庫に残ってます?」
「あります」
「じゃあ捨てないでください」
相馬先輩が呆れます。
「お前は何の助言してんだ」
「生活に寄り添う行政書士見習いです」
「食い物に寄り添ってるだけだろ」
その一時間後。
私たちは市役所にいました。
二階。
総務課。
このところ見慣れすぎて、もはや第二事務所みたいになってきた廊下です。
「また来ましたね」
沢渡課長。
灰色の背広。
細い眼鏡。
今日も表情は、
「行政庁に感情という様式は備え付けておりません」
みたいな顔です。
「ええ」
相馬先輩が机に二枚の紙を置きました。
「坂井隆一さんの件だ」
「ああ」
「県で原処分が取り消された」
「承知しています」
「で、市がもう一度不許可にした」
「ええ」
「理由も同じだ」
「担当課の判断です」
来た。
行政会話の必殺技。
担当課の判断です。
責任の所在を隣の机へ三十センチずらす魔法の言葉。
「課長」
私は言いました。
「これ、県の裁決を読んだ上で出したんですか」
「当然でしょう」
「本当に?」
「朝比奈さん」
「はい」
「役所でも文書は読みます」
「そこは疑ってません」
「今かなり疑っていましたよね」
「裁決の中身を判断に反映したかを聞いてます」
沢渡課長は眼鏡の奥で私を見る。
「どういう意味でしょう」
私は裁決書を開きました。
「県は、市が歩行者通行への支障を認定した判断過程に問題があるとして、原処分を取り消していますよね」
「ええ」
「それなのに今回の理由は、また『歩行者通行の安全確保上、支障があるため』」
「結果として同じ判断になったということです」
「結果だけじゃありません」
「何がです?」
「理由も同じです」
「同じ理由で再度不許可にしてはいけないという規定が?」
う。
言い方が嫌らしい。
さすが沢渡課長。
感情で来た相手を一瞬で干物にする人です。
「こはる」
相馬先輩が横で言いました。
「論点」
「はい」
感情じゃない。
整理する。
県が何を取り消したのか。
裁決理由で何を判断したのか。
市がその後、何をしたのか。
私は紙を指しました。
「裁決には拘束力がありますよね」
沢渡課長の視線がわずかに変わりました。
「あります」
「関係行政庁は、裁決に拘束される」
「ええ」
「そして今回みたいに、申請を拒否した処分が取り消されたなら、市は裁決の趣旨に従って、改めて申請に対する処分をする必要がある」
沢渡課長は黙って聞いています。
「だから」
私は続けました。
「形式だけもう一度審査すればいいんじゃない」
机の上の二枚を並べる。
「県が駄目だと判断した部分を何も直さず、そのまま同じ答えを出したら、裁決の趣旨に従ったことにならないんじゃないですか」
部屋が静かになりました。
沢渡課長が裁決書を手に取ります。
「担当課では、再度検討したと聞いています」
「何をです?」
「安全性を」
「現地確認は?」
「……確認します」
「坂井さんが出した補足図面は?」
「確認します」
「隣接店舗との比較は?」
「それも確認します」
相馬先輩が腕を組みました。
「全部確認じゃねえか」
「必要なら確認します」
「再処分する前にやれよ」
「相馬さん」
「何だ」
「声が大きい」
「聞こえるように言ってんだ」
「十分聞こえています」
いつも通りです。
この二人、相性が悪いようで妙に会話が成立します。
片桐所長が静かに口を開きました。
「沢渡課長」
「はい」
「今回、県が認定した事実関係と同じ事実を前提に、市が同じ理由で再び不許可にしたなら、問題になる」
「……そうですね」
「新しい事情があるのか」
「私は現時点では把握していません」
「処分日から裁決後までに、道路状況が変わったか」
「聞いていません」
「整備計画が変更されたか」
「少なくとも総務には上がっていません」
「なら」
所長は再通知を指で押さえました。
「何を根拠に、同じ理由で出した」
沢渡課長が黙りました。
おお。
空気が変わった。
怒鳴っていない。
脅していない。
ただ、
何を根拠に。
それだけ。
なのに。
さっきまで壁だった役所の机に、一筋ひびが入った感じがします。
これです。
法律で殴るんじゃない。
事実と手続を並べる。
すると、
曖昧だった「仕方ありません」が、
急に説明を要求される側へ回る。
「少し待っていただけますか」
沢渡課長が立ち上がりました。
「担当課に確認します」
十五分後。
戻ってきた沢渡課長の手には、一冊の決裁簿がありました。
「確認しました」
「はい」
「担当課は、再申請として処理しています」
「再申請?」
「裁決によって原処分が取り消されたため、新たに申請を審査するものとして――」
「待ってください」
私は思わず遮りました。
「新しい申請じゃありませんよね」
沢渡課長が止まります。
「坂井さんがもう一度申請書を出したわけじゃない」
「ええ」
「最初の申請に対する不許可処分が取り消された」
「そうです」
「だったら」
頭の中で何かがつながりました。
「最初の申請が、役所の机の上に戻ってきたんじゃないですか」
相馬先輩がこちらを見る。
片桐所長は何も言わない。
沢渡課長だけが、私をじっと見ました。
私は続けます。
「県の裁決で不許可処分が取り消された。でも、申請そのものが消えたわけじゃない」
「……」
「だから市は、裁決の趣旨に従って、その申請について改めて処分する」
そうだ。
取消裁決というのは、
書類をゴミ箱に捨てて最初から全部リセットすることじゃない。
申請者を、
振り出しに戻すことでもない。
行政側に、
ここが間違っていた。
ここを直して、もう一度判断しろ。
そう命じる仕組みなんだ。
「担当課は」
沢渡課長が低く言いました。
「原処分が取り消されたことで、一件が終了したと整理したようです」
「終了?」
「その上で、同じ申請書を改めて新規案件として処理した」
私は額を押さえました。
「……それ、ものすごく嫌なリセットですね」
「表現はともかく」
「課長」
「はい」
「リセットボタン押したら、裁決まで消えるんですか」
沢渡課長が眼鏡を直しました。
「消えません」
「ですよね」
「そこは認めます」
相馬先輩が机を軽く叩きました。
「じゃあ話は早え」
「早くはありません」
「何でだ」
「手続を確認します」
「また確認かよ」
「確認せずに処分した結果がこれでしょう」
「……」
相馬先輩が黙りました。
強い。
沢渡課長、相手の正論を使って殴り返してきます。
私はちょっと好きになりそうです。
いや、やっぱり嫌です。
「ただし」
沢渡課長は続けました。
「片桐先生の指摘どおりです」
そして。
再不許可通知を手に取った。
「この処理はまずい」
あっさり。
その一言でした。
「え?」
思わず声が出ます。
「何ですか」
「いや」
「何でしょう」
「もっと抵抗するかと」
「朝比奈さん」
「はい」
「私が守るのは、市役所の面子ではありません」
「……」
「行政処分です」
沢渡課長は決裁簿を閉じました。
「守れない処分なら、守りません」
なんだろう。
腹が立つくらい格好いい。
「担当課に再検討させます」
「処分は?」
相馬先輩が聞く。
「現時点で確約はできません。ただし、少なくとも今回の通知をそのまま維持するのは難しいでしょう」
「また不許可になる可能性は」
「あります」
沢渡課長は即答しました。
「裁決は許可処分を義務付けたものではありません。別の適法な理由があり、裁決の趣旨に反しない形で再審査した結果、不許可となる可能性までは否定できません」
「ですよね」
私は頷きました。
ここは大事です。
坂井さんが勝った。
だから絶対許可。
そんな単純な話ではない。
でも。
前に否定された理由を、そのままコピーして使うのも違う。
「今回については」
沢渡課長が続けました。
「裁決で問題とされた判断過程を踏まえ、現地確認からやり直させます」
「いつ?」
相馬先輩。
「急がせます」
「いつだ」
「一週間以内に担当課から連絡させます」
「最初からそう言え」
「最初から聞かれていません」
「お前な」
「先輩」
私は袖を引きました。
「勝ってますから」
「勝ってねえ」
「前進してます」
「まだ許可じゃねえぞ」
「それでもです」
行政の事件って。
判子一個で悪を倒して終わることは、たぶん少ない。
それでも、
止まっていた手続を動かす。
閉じた机の引き出しを、もう一度開かせる。
それだけで意味があることがあります。
三日後。
坂井さんの店の前で、市職員による現地確認が行われました。
私と相馬先輩も立ち会います。
「ここからここまでです」
坂井さんが紐を張りました。
担当職員が巻尺を伸ばす。
「通行部分は?」
「こちらです」
測る。
図面を見る。
また測る。
隣の喫茶店のベンチ位置も確認する。
向かいの菓子店の商品台も見る。
担当職員の顔がだんだん微妙になっていきました。
「……前回の図面と」
「はい」
「現況が合ってませんね」
私は聞きました。
「どう違うんです?」
「空地全部を歩行者通路として計算しています」
「実際は?」
「通路部分はもっと道路側です」
相馬先輩が私を見る。
私は見る。
お互い何も言わない。
でも目だけで会話できます。
――そこかよ。
そこでした。
前回の担当者は、
駅前整備用の大まかな図面をもとに、
店前の空地まで通行空間として扱っていた。
そのため、
椅子を置けば歩行者通路が狭くなる。
と判断した。
けれど現場を見ると違う。
実際の通路は道路側。
椅子の予定位置は建物寄り。
しかも隣の店舗の設備より小さい。
「これ」
担当職員が言いました。
「持ち帰って再度検討します」
「お願いします」
坂井さんは深く頭を下げました。
そこから四日。
片桐事務所に電話が入りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『市役所総務課、沢渡です』
「また課長」
『またとは何です』
「いえ。どうでした?」
『坂井さんの件です』
「はい」
『条件付きで許可することになりました』
私は椅子から立ち上がりました。
「本当ですか!」
『声が大きい』
「相馬先輩と同じこと言わないでください」
『何の話ですか』
「こちらの話です」
条件。
椅子を置ける範囲を図面で指定する。
営業時間外は撤去する。
緊急時や工事時には一時的に移動する。
その三点。
当初の計画より少し狭くはなった。
それでも。
木の長椅子二つ。
丸椅子三脚。
十分置ける。
「じゃあ」
私は言いました。
「今回は、裁決の趣旨に従ってやり直した結果、許可になった」
『そういうことです』
「最初の再不許可通知は?」
『撤回の手続を取ります』
「……課長」
『何です』
「担当課、怒られました?」
少し沈黙。
『行政内部の人事管理については回答を控えます』
「怒られたんですね」
『回答を控えます』
「かなり怒られたんですね」
『朝比奈さん』
「はい」
『余計なところだけ勘が良くなりましたね』
電話が切れました。
褒められた。
たぶん。
午後。
坂井さんが事務所へ飛び込んできました。
「許可、出ました!」
「聞きました」
「これで夏に間に合います」
満面の笑みです。
その手には、
大きな重箱。
相馬先輩の目が光りました。
「何です?」
「赤飯」
「おお」
「先輩、反応が露骨です」
「祝い事だろ」
「この前の残りじゃないですよね」
「今朝、女房が炊き直しました」
「二回目の赤飯」
「今度こそ本番です」
坂井さんは笑いました。
私は重箱の蓋を開ける。
湯気。
小豆。
ごま塩。
行政法には絶対に似合わない、温かい匂いです。
「しかし」
坂井さんが箸を配りながら言いました。
「不思議ですね」
「何がです?」
「県が取り消したんだから、それで終わりだと思ってました」
「私も昔はそう思ってました」
「違うんですか」
「取消しって、ゴールじゃないことがあるんです」
申請拒否を取り消す。
それだけなら。
役所の返事が消えるだけ。
でも申請者が欲しいのは、
「不許可の紙がなくなること」
じゃない。
申請について、
ちゃんと判断してもらうことです。
「だから」
私は言いました。
「裁決には、そのあと役所を動かす力が必要なんですよ」
「動かす力」
「はい」
「じゃないと、役所が同じことを繰り返せちゃいますから」
坂井さんが笑いました。
「それは困りますね」
「ものすごく困ります」
相馬先輩が赤飯を頬張りながら言いました。
「だから拘束する」
「食べながら急に法律用語出さないでください」
「お前が話してんだろ」
「そうでした」
片桐所長が箸を置きました。
「こはる」
「はい」
「勘違いするな」
「何をです?」
「拘束力があるのは、何でもかんでも申立人の望みどおりにしろという意味じゃない」
「はい」
「裁決の趣旨に従え、ということだ」
「分かってます」
「本当か」
「……七割くらい」
「帰って勉強しろ」
「今ここ職場です!」
でも。
そこは重要でした。
裁決が原処分を取り消した。
なら、処分庁は何も考えず許可。
ではない。
逆に、
どうせもう一度同じ不許可。
でもない。
取り消した理由を受け止めて。
指摘された誤りを踏まえて。
もう一度。
ちゃんと判断する。
それが必要になる。
「そういえば」
私は気づきました。
「今回、異議申立てじゃなくて審査請求でしたね」
「今さらか」
相馬先輩が呆れます。
「処分庁に上級行政庁がありましたから」
「ああ」
「昭和六十三年だから、審査請求と異議申立てが両方ある」
「また始まった」
「現代だったら原則審査請求に一本化されて――」
「未来講義は飯のあとにしろ」
「しかも今なら審理員が――」
「赤飯が冷める」
「行政法より赤飯優先!?」
「当たり前だ」
強い。
法律でも勝てない価値観があります。
その日の夕方。
坂井さんが帰ったあと。
私は机に残った二枚の紙を見ました。
最初の不許可通知。
県の裁決書。
そして。
今日届いた許可通知。
三枚。
同じ申請から生まれた紙です。
最初は、
不許可。
次は、
その不許可を取り消す。
最後は、
条件付き許可。
書類だけ見れば、
役所が紙を増やしただけに見えます。
でも。
その間に、
一つ大きなものが動いている。
判断です。
行政が一度決めた。
それを上の行政庁が見直した。
間違いを指摘した。
そして。
処分庁は、その指摘を無視できない。
私はノートの端に書きました。
――裁決は、「取り消しました」で終わらない。
その横。
もう一つ。
――やり直すなら、裁決の趣旨から逃げるな。
「何書いてる」
相馬先輩が覗き込みます。
「今日の教訓です」
「長い」
「じゃあ短くします」
少し考えて。
書き直しました。
――負けた処分を、コピーして出し直すな。
「急に雑になったな」
「でも分かりやすいでしょう」
「試験で書いたら落ちるぞ」
「覚えるためです!」
窓の外。
商店街に夕方の灯りがつき始めています。
坂井さんの店では。
たぶんもう、
長椅子をどこに置こうか。
丸椅子を何色に塗ろうか。
そんな話をしている頃でしょう。
行政不服審査の裁決は、
人の願いを全部かなえる魔法ではありません。
許可を約束するものでもない。
生活を保証するものでもない。
ただ。
一度、
その判断はおかしい。
と正式に決まったなら。
行政が、
何事もなかったように同じ判断へ戻ることを許さない。
その冷たい仕組みがある。
拘束力。
昨夜までなら、
漢字三文字を見ただけで眠くなっていました。
でも今は違います。
あれは、
裁決を紙切れにしないための力です。
一度開いた扉を、
同じ鍵でもう一度閉めさせないための力です。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「残りは」
「何のです?」
「赤飯」
「冷蔵庫に入れました」
「持って帰る」
「所長も食べるんですか」
「悪いか」
「いえ。意外で」
「半分寄越せ」
相馬先輩が立ち上がります。
「待ってください」
「何だ」
「それ、坂井さんが事務所のみんなにくれたんですよ」
「だから俺も事務所の人間だ」
「三分の二くらい先輩が食べましたよね」
「事実認定に誤りがある」
「ありません」
「不服を申し立てる」
「棄却します」
「まだ審査してねえだろ!」
「赤飯の残量という客観的証拠があります!」
片桐所長が冷蔵庫を開けました。
「もうない」
「え?」
私と相馬先輩が同時に振り向く。
「所長?」
「食べた」
「いつ!?」
「さっきだ」
相馬先輩が絶句しました。
「全部?」
「ああ」
「異議がある」
「棄却」
「理由は!」
「もうないからだ」
「理由になってねえ!」
私は思わず吹き出しました。
「先輩」
「何だ!」
「裁決が出ても、赤飯は戻りませんね」
「笑ってる場合か!」
「こういう場合、原状回復は――」
「うるせえ!」
片桐所長は湯飲みを持ったまま、何食わぬ顔で奥へ戻っていきました。
どうやら。
裁決が関係行政庁を拘束する仕組みはあっても。
片桐所長を拘束する仕組みについては。
昭和六十三年現在、
まだ立法上の重大な不備が残されているようです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




