[行政不服審査法51条・裁決の効力発生]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、自転車のベルが三つ並んでいました。
理由は分かっています。
三浦澄江さんが置いていったからです。
問題は。
なぜ三つとも、私の机の上にあるのか。
「先輩」
「何だ」
「これ、一個でよくないですか」
「何が」
「ベルです」
「三個あるんだから三個置いとけ」
「理屈になってません」
私は一個つまみました。
チリン。
「こはる」
奥から片桐所長の声。
「はい」
「鳴らすな」
「まだ一回です」
「一回で十分だ」
「効力発生の確認です」
「昨日やった」
厳しい。
行政庁なら再考を求めたいところですが、うちの所長には上級行政庁がありません。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
昼間の来客が途切れた机の上に、私はノートを広げました。
今日の見出し。
――裁決の効力発生。
その下に、小さく書き足します。
――旧行政不服審査法第四十二条。
そしてさらに。
――現代法では第五十一条。
「また新旧ごちゃ混ぜになるなよ」
相馬先輩が煙草に火をつけながら言いました。
「先に言わないでください」
「お前、この前、三か月って答えかけただろ」
「旧法の不服申立期間は六十日です」
「今日はそこじゃねえ」
「分かってます」
これだから未来人は大変です。
現代の行政不服審査法では。
裁決の効力発生は第五十一条。
でも。
昭和六十三年。
今、私たちが使っている旧行政不服審査法では第四十二条。
条文番号からして違う。
しかも現代は審査請求へ原則一本化。
この時代は、
審査請求。
異議申立て。
二本立て。
頭の中で制度改正年表が勝手にページをめくります。
「今日は」
私はペンを構えました。
「三浦さんの事件を、そのまま条文に戻します」
「戻す?」
「現場で起きたことを、法律の言葉に翻訳するんです」
「最初から法律の事件だろ」
「気分の問題です」
「便利な言葉だな」
まず。
事実関係。
私はノートに順番を書きました。
三浦正一さん。
市道沿いの道路占用許可更新を不許可にされた。
上級行政庁への審査請求。
審査庁は裁決をした。
裁決書を発送した。
しかし旧住所宛て。
郵便は返送。
三浦さん本人には届いていない。
公示送達もまだしていなかった。
なのに市役所側は、
――もう裁決は出ています。
として、道路部分の片付けを進めようとした。
「ここで」
私は赤ペンを持ちました。
「裁決が『出た』ことと、裁決が『効力を生じた』ことを分けた」
「そうだ」
片桐所長が帳簿を見たまま答えます。
「じゃあ基本」
私は大きく書きました。
裁決は。
審査請求人に送達された時に、その効力を生ずる。
「これが今日の中心です」
相馬先輩が煙を吐きました。
「じゃあ問題」
「来ましたね」
「裁決書に八月十日と書いてある」
「はい」
「役所の決裁も八月十日に終わった」
「はい」
「発送は八月十一日」
「はい」
「本人に届いたのは八月十三日」
「はい」
「いつ効く」
「八月十三日」
「即答だな」
「そこはもうベルで覚えました」
チリン。
「鳴らすな」
「すみません」
裁決日。
発送日。
送達日。
全部違うことがある。
そして。
効力が生じるのは、
原則として送達された時。
「つまり」
私は言いました。
「審査庁の内部で結論が確定しただけでは、まだ審査請求人に対する効力は発生しない」
「そうだ」
「裁決書を書き終えただけでも駄目」
「そうだ」
「郵便局へ出しただけでも駄目」
「そうだ」
「相手に送達される」
「そこで効く」
私は二重線を引きました。
送達。
昨夜までの受験生なら。
送達=届くこと。
とだけ覚えれば終わりです。
でも。
三浦さんの事件を見た後だと。
この一語は重い。
「所長」
「何だ」
「どうして裁決をした時じゃ駄目なんでしょう」
「本人が知らないからだ」
短い。
でも核心です。
「処分や裁決って」
私は言いました。
「行政庁の頭の中だけで完結する話じゃない」
「うん」
「誰かの権利とか義務とか、生活に影響する」
「うん」
「だったら、相手に知らせる手続が必要」
「そうだ」
もし。
行政内部で裁決書を書いた瞬間に効力が出るなら。
本人が何も知らない間に、
不服申立ての結果だけが先に動いてしまう。
許可が戻ったのか。
処分が維持されたのか。
次に何ができるのか。
本人は知らない。
それなのに行政だけが先へ進む。
三浦さんの事件では。
まさにそれが起きかけていました。
「役所が『もう決まりました』って言っただけじゃ足りない」
私はノートに書きました。
「法が決めた方法で届いて初めて、効力が動く」
相馬先輩が言います。
「そこまで書くと少し綺麗すぎるな」
「じゃあ先輩なら?」
「役所の都合だけで時計を動かすな」
私は止まりました。
「……それ、いいですね」
「だろ」
「ノートに書きます」
「勝手にしろ」
役所の都合だけで時計を動かすな。
かなり覚えやすい。
次。
裁決の送達方法。
「原則は?」
相馬先輩。
「裁決書の謄本を送付する」
「誰に」
「送達を受けるべき人に」
「三浦さんなら」
「審査請求人である三浦さん」
「そうだ」
裁決の内容を、
電話で聞かせればいい。
ではない。
市役所の窓口で、
負けましたよ。
と口頭で言えばいい。
でもない。
原則として。
裁決書の謄本を送付する。
「謄本って」
私は言いました。
「また眠くなる単語ですね」
「何でだ」
「戸籍でも登記でも『謄本』が出ると、脳が受験モードに入ります」
「仕事だぞ」
「分かってます」
謄本。
内容全部を写したもの。
裁決の正文そのものを持ち出すのではなく、
その謄本を本人に送る。
「三浦さんの場合」
私は言いました。
「県は送った」
「そうだ」
「でも旧住所だった」
「そうだ」
「返送された」
「そうだ」
「じゃあ、発送した時点で送達済み?」
「違う」
「ですよね」
ここ。
地味ですが大事です。
送付した。
と。
送達された。
は。
同じではない。
行政が、
出しました。
だけでは足りない。
相手方へ法的に送達されたことが必要。
「だから」
私は言いました。
「裁決書を発送した日の翌日から効力発生、とかじゃない」
「違う」
「発送日基準でもない」
「違う」
「郵便局の消印基準でもない」
「違う」
「届いた時」
「そうだ」
受験問題なら。
ここは簡単です。
でも実務では。
送ったのに戻る。
住所が違う。
引っ越した。
入院した。
行方が分からない。
受け取れない。
そういう現実が入る。
そこで出てくるのが。
「公示送達」
私は次の見出しを書きました。
「はい。今日の第二の山場」
相馬先輩が嫌そうな顔をします。
「山場ってほど派手か?」
「行政法に派手さを求めないでください」
「お前が小説みたいに言うからだ」
公示送達。
原則。
裁決書の謄本を送る。
例外。
送達を受けるべき人の所在が分からないなど、
裁決書の謄本を送付することができない場合。
その時、
公示の方法による送達ができる。
「ここ」
私は線を引きました。
「一通戻ったら、即公示送達じゃない」
「そうだ」
「今回の三浦さんみたいに、本人の居場所が普通に調べられるなら」
「まずそこを確認する」
「ですよね」
三浦さんは。
夜逃げしたわけでもない。
行方不明でもない。
病院にいる。
妻もいる。
事務所へ依頼も来ている。
旧住所へ送った郵便が戻った。
ただそれだけで、
「所在不明だから公示」
と飛ぶ話ではありません。
私は書きました。
公示送達は、
通常送付できない場合の例外。
「受験生って」
私は言いました。
「『原則』『例外』だけ覚えて満足しがちですけど」
「お前の話か」
「全国の受験生の話です」
「逃げたな」
「でも現場だと、この順番が大事なんですよ」
三浦さんの所在が分かるなら。
まず本人にきちんと送る。
それが原則。
どうしても送れない。
その時、例外として公示。
「じゃあ公示送達の方法」
相馬先輩が言いました。
「言ってみろ」
「嫌な試験官ですね」
「言え」
私は指を折りました。
「まず審査庁が裁決書の謄本を保管する」
「うん」
「そして、いつでも送達を受けるべき人に交付する旨を、審査庁の掲示場に掲示する」
「うん」
「さらに、その旨を官報その他の公報、または新聞紙に少なくとも一回掲載する」
「うん」
「それから――」
ここ。
数字問題。
行政書士受験生の敵。
私は少し慎重になりました。
「掲示を始めた日の翌日から起算して、二週間」
「経過すると?」
「裁決書の謄本の送付があったものとみなす」
「そうだ」
私は大きく囲いました。
翌日から起算。
二週間。
みなし送達。
「即日じゃない」
「そうだ」
「掲示した瞬間でもない」
「そうだ」
「新聞に載った瞬間でもない」
「そうだ」
「翌日から二週間」
「そこ」
数字を覚えるだけなら、
二週間。
で終わります。
でも。
なぜ二週間あるのか。
現場を想像すると分かりやすい。
「本人が実際に見てなくても」
私は言いました。
「一定の手順と時間を経たら、法律上は届いた扱いにする」
「そういうことだ」
「かなり強いですよね」
「何が」
「本人が『見てません』って言っても、送達された扱いになる」
「だから要件がある」
片桐所長が言いました。
なるほど。
ここです。
公示送達は強い。
本人が現実には裁決書を手にしていなくても、
一定の手続と期間によって、
送付があったものとみなす。
だから。
役所が適当に、
掲示板に貼っときました。
で済ませることはできない。
定められた方法を踏む。
掲示。
掲載。
期間。
「制度の冷たさですね」
私は呟きました。
「またそれか」
相馬先輩が言います。
「でも本当にそうなんですよ」
本人が、
知らなかった。
と言っても。
要件を満たした公示送達なら、
法律上は送達された扱いになる。
冷たい。
ただし。
行政も、
送ったつもり。
知らせたつもり。
で済ませられない。
行政側にも同じくらい冷たい。
「だから」
私は言いました。
「この冷たさ、片側だけじゃない」
「どういう意味だ」
「本人にも厳しい。でも役所にも厳しい」
「そうだな」
「それが手続の公平さなのかも」
片桐所長が言いました。
「手続は、誰かの気分で変えないためにある」
私はそのままノートへ書きました。
――手続は、誰かの気分で変えない。
これは試験答案には書けません。
でも。
忘れない言葉です。
「じゃあ」
相馬先輩が言いました。
「公示送達で二週間経過した。その翌日に本人が『知らなかった』と来た」
「送達の効力は?」
「もう発生している」
「本人が実際に裁決書を読んだのはその後だぞ」
「それでも」
私は少し考えてから言いました。
「法律上の送達成立時点は変わらない」
「そうだ」
ここ。
実際に読む時。
現実に手渡される時。
法律上、送達が成立する時。
必ずしも一致しない。
原則は実際の送達。
でも公示送達では、
一定期間経過による「みなし」。
「みなす」
私は赤丸をつけました。
法律用語として怖いやつです。
「『推定する』じゃないんですよね」
「そうだ」
「みなす」
「そうだ」
「実際は違っても、法律上そう扱う」
「そこまで今日は広げるか?」
「受験生なので」
「便利だな、その立場」
みなす。
反証して、
実は届いてませんでした。
でひっくり返す種類の言葉ではない。
法律上、
そのように扱う。
ここも試験では引っかけられます。
「次」
私はページをめくりました。
「裁決書の送付先」
ここで。
相馬先輩が少し面倒そうな顔をしました。
「まだあるのか」
「教材は終わってません」
「誰に送る」
「まず審査請求人」
「うん」
「それから、参加人」
「うん」
「処分庁等。審査庁以外の処分庁等ですね」
「そこ区別しろよ」
「はい」
審査庁が裁決をする。
その結果は。
審査請求人だけが知れば終わりではない。
審理に参加した人。
そして。
審査庁とは別の処分庁などにも、
裁決書の謄本を送る必要がある。
「三浦さんの事件なら」
私は言いました。
「審査庁が県側」
「うん」
「元の処分庁は市側」
「うん」
「市も裁決の内容を知る必要がある」
「だから市は先に結果を知っていた」
「あ」
ここでつながりました。
三浦さん本人には届いていなかった。
でも市役所は裁決の内容を知っていた。
だから。
市は、
裁決済み。
と認識していた。
「つまり」
私は言いました。
「市役所が結果を知ってること自体は変じゃない」
「そうだ」
「問題は」
「本人への送達がまだなのに、その効力がもう出たように扱ったこと」
「そこだ」
きれいにつながりました。
私は思わずペンを置きます。
「なるほど」
「今さらか」
「いや、現場編では感覚で分かってたんですけど」
「法律の構造として?」
「はい」
三浦さん。
審査請求人。
裁決書未送達。
市。
処分庁。
裁決内容は知っていた。
だから情報の時間差が起きた。
行政側は結論を知っている。
本人は知らない。
でも。
裁決の効力発生は、
審査請求人への送達を基準に切る。
「これ」
私は言いました。
「かなり合理的ですね」
「何が」
「処分庁が知った時じゃない」
「うん」
「審査庁が決裁した時でもない」
「うん」
「本人に送達された時」
「そうだ」
権利救済の制度なのだから。
その中心にいる審査請求人を飛ばして、
効力発生の時計を動かさない。
そこに。
条文の思想が少し見える気がします。
「じゃあ今度は新旧比較」
私はノートのページを二つに割りました。
「来たな」
相馬先輩が言います。
「未来人の時間です」
「好きにしろ」
左。
昭和六十三年。
旧行政不服審査法。
右。
現代。
平成二十六年全部改正後の行政不服審査法。
「まず条文番号」
旧法。
裁決の効力発生は第四十二条。
現代法。
第五十一条。
「番号は変わりました」
「それだけか」
「そこだけじゃないです」
大きいのは制度全体。
旧法では。
異議申立てと審査請求が併存。
処分庁に上級行政庁がある場合などには審査請求。
上級行政庁がない場合などには処分庁への異議申立て。
現代法では。
原則として審査請求へ一本化。
「三浦さんは?」
相馬先輩。
「旧法でも審査請求」
「なぜ」
「上級行政庁への審査請求のルートがある案件だったから」
「そうだ」
「川瀬さんの事件は異議申立てでした」
「上級行政庁がなかった」
「はい」
同じ昭和六十三年でも。
不服申立ての種類が違う。
ここが旧法の面倒なところです。
処分を見たら、
まず。
誰が処分庁か。
上級行政庁があるか。
個別法の定めはどうか。
そこから申立先を判定する。
「現代なら?」
「原則として審査請求」
「分かりやすくなったな」
「かなり」
さらに。
現代法。
審理員制度。
「旧法には?」
「ありません」
「行政不服審査会」
「今のような一般的な諮問制度もありません」
ここ。
転生者には毎回つらい。
私は現代の行政書士試験受験生。
頭には、
審理員。
弁明書。
反論書。
行政不服審査会。
そんな現代法の手続が入っています。
でも。
昭和六十三年に、
「審理員は誰ですか」
などと役所で聞いたら。
たぶん全員に、
何の話だ。
という顔をされます。
「先輩」
「何だ」
「未来では、処分に関与してない職員が審理員として審理する仕組みができるんですよ」
「前にも聞いた」
「覚えてたんですか」
「何回も言うからな」
「行政不服審査会への諮問も――」
「それも聞いた」
「成長してますね」
「何でお前が上からなんだ」
でも。
今回の三浦さんの事件は。
裁決の効力発生という点だけを見れば。
新旧で基本的な考え方はかなり共通しています。
「現代法でも」
私は言いました。
「裁決は審査請求人に送達された時に効力を生じる」
「そこは同じ考え方か」
「はい」
「公示送達も?」
「制度があります」
「じゃあ試験では何に気をつける」
私は考えます。
「旧法の条文番号を現代試験で答えない」
「当たり前だ」
「旧法の異議申立てを現代法の一般制度みたいに答えない」
「うん」
「申立期間六十日を、現代の三か月と混同しない」
「うん」
「現代の審理員制度を昭和六十三年に持ち込まない」
「それはお前だけだ」
「この物語では重要なんです!」
相馬先輩が笑いました。
私は赤字で書きます。
昭和六十三年。
旧法。
現代。
現行法。
時点を必ず見る。
「行政法って」
私は言いました。
「過去問だけじゃなく、法律の施行時期も罠ですよね」
「改正されるからな」
「名前が同じ法律なのがまた嫌なんです」
「文句言うな」
行政不服審査法。
同じ名前。
でも。
平成二十六年全部改正前後で、
構造が大きく変わっている。
だから。
現代知識をそのまま昭和へ持ち込めない。
逆も同じ。
昭和の制度を現行試験へ持ち込んではいけない。
次。
試験で引っかかるポイント。
「まとめます」
私はノートに番号を振りました。
一。
裁決の効力発生日。
裁決をした日ではない。
裁決書を作成した日でもない。
発送した日でもない。
原則。
審査請求人に送達された時。
二。
送達の原則。
裁決書の謄本を送付。
三。
公示送達。
所在不明などで謄本を送付できない場合。
審査庁が謄本を保管。
いつでも交付する旨を掲示場に掲示。
さらに官報その他の公報又は新聞紙に少なくとも一回掲載。
四。
公示送達の効力。
掲示を始めた日の翌日から起算して二週間を経過した時。
裁決書の謄本の送付があったものとみなす。
五。
送付先。
審査請求人。
参加人。
審査庁とは別の処分庁等。
「ここで問題」
相馬先輩が言いました。
「またですか」
「公示送達の掲示を十月一日に始めた」
「はい」
「いつから数える」
「十月二日」
「そこから二週間」
「はい」
「十月一日を一日目に入れるなよ」
「翌日から起算、ですからね」
「そうだ」
行政書士試験。
こういうところを狙ってきます。
知識そのものは難しくない。
でも。
「翌日から起算」
「二週間」
「送付があったものとみなす」
この三つの組み合わせを、
微妙にずらして出してくる。
「例えば」
私は言いました。
「掲示した日に送達されたものとみなす」
「×」
「掲示の日から一週間」
「×」
「掲示を始めた日の翌日から二週間経過」
「○」
「新聞に二回掲載しなければならない」
「×」
「少なくとも一回」
「○」
「役所の掲示場だけでいい」
「×」
「掲載も必要」
「○」
相馬先輩が眉を上げました。
「お前、こういう時だけ生き生きするな」
「択一問題になると本能が」
「嫌な本能だ」
でも。
これを三浦さんの事件へ戻すと。
もっと分かりやすい。
県は、
旧住所に送った。
返送された。
でも。
まだ公示送達をしていなかった。
だから。
裁決書を本人へ通常送達するか。
または。
本当に通常送達できない事情があるなら、
公示送達の要件を踏む必要があった。
その前に。
市が、
もう裁決は効いています。
と先走ってはいけなかった。
「じゃあ」
私は言いました。
「もし県が公示送達をちゃんとして、二週間経ってたら?」
「三浦さんが実物を受け取ってなくても?」
「効力は生じる」
相馬先輩。
「その時、市が裁決前提で動くのは?」
「原則として、今回みたいな『まだ送達されてない』という反論はできない」
「そういうことだ」
ここは。
三浦さんが気の毒かどうかでは変わりません。
病気だった。
入院していた。
気づかなかった。
事情は大事です。
でも。
裁決の効力発生という一点では。
法定の送達手続が成立したか。
そこを見る。
「本当に冷たいですね」
私は言いました。
片桐所長が答えます。
「だから使える」
「え?」
「感情で効力発生日が変わったら、誰も基準にできん」
私は黙りました。
そうです。
三浦さんに有利だから、
まだ効いてないことにしましょう。
では駄目。
役所が急いでるから、
もう効いたことにしましょう。
でも駄目。
決められた条件を満たした時。
そこで線を引く。
法律の冷たさ。
でも。
その線があるから、
強い方が勝手に時計を進められない。
「三浦さんの時」
私は思い出しました。
「市役所は裁決の内容を先に知ってました」
「そうだ」
「だから、もう片付けろって言った」
「うん」
「でも本人には届いてない」
「うん」
「そこで条文が、市役所の時計を止めた」
所長が少し頷きました。
「そう考えてもいい」
ああ。
これです。
制度の冷たさが、人を救う。
三浦さんが可哀想だから。
ではない。
病院にいるから特別扱い。
でもない。
裁決の効力は、
送達された時。
まだ送達されていない。
だからまだ効力は生じない。
感情を入れず。
ただ要件だけを見る。
その冷たさが、
結果として三浦さんに、
自分で裁決を読む時間を返した。
「次」
相馬先輩が言いました。
「まだやるのか」
「先輩が言ったんでしょう」
「いや、お前が勝手に続けてる」
次は。
裁決の「成立」と「効力」の違い。
これも地味に混ざりやすい。
「裁決は」
私は言いました。
「審査庁が判断して成立する」
「うん」
「でも、それが審査請求人に対して効力を生じるのは送達時」
「そうだ」
「だから三浦さんの場合」
裁決そのものは存在していました。
県はすでに判断していた。
棄却。
だから。
「裁決なんてなかった」
ではない。
「まだ裁決されていない」
でもない。
正しくは。
裁決はされている。
ただし。
審査請求人への送達がまだ成立していないため、
その効力がまだ生じていない。
「現場で私、『まだ効いてない』って言って所長に直されました」
「雑だったからな」
「はい」
法律では。
似ている言葉の切り分けが大事です。
ない。
まだ効かない。
無効。
未成立。
全部違う。
「受験生って」
私は言いました。
「こういう言葉の違いで落とされますよね」
「実務でも間違えると困る」
所長。
「試験だけじゃない?」
「当然だ」
「ですよね」
試験問題なら一問。
実務なら。
人の店を閉める時期が変わる。
私はノートに書きました。
――「裁決がある」と「裁決が効いている」は別。
次。
処分庁が先に裁決書を受け取ったらどうか。
「これも」
私は言いました。
「三浦さんの事件のポイントですよね」
「言ってみろ」
「審査庁が処分庁に裁決書の謄本を送った」
「うん」
「処分庁が先に受け取った」
「うん」
「それで審査請求人に対する裁決の効力が発生する?」
「しない」
「ですよね」
基準は。
審査請求人への送達。
処分庁が知った。
参加人が知った。
新聞記者が知った。
近所の人が知った。
関係ない。
「極端に言えば」
私は言いました。
「町中みんな知ってて本人だけ知らない」
「嫌な状況だな」
「でも、原則として本人への送達が成立してなければ」
「まだ効力は生じない」
そこ。
三浦さんの事件そのものです。
市役所は知っていた。
奥さんも市から聞いた。
でも。
三浦さん本人に裁決書は届いていない。
しかも公示送達も未了。
だから。
情報が町を回っても、
法的な時計はまだ動いていなかった。
「変な感じですね」
「何が」
「法律って、情報が伝わったかじゃなくて、法定の送達があったかを見る」
「そうだ」
「奥さんから本人へ電話で『棄却らしいよ』って伝えても?」
「それだけで正式な送達になったとは言えん」
「ですよね」
知った。
と。
送達された。
も。
同じではない。
私はまた線を引きました。
――事実上知ったことと、法律上送達されたことを混同しない。
「今日は線だらけだな」
相馬先輩が言います。
「重要ポイントが多いんです」
「ノート真っ赤だぞ」
「受験生ノートとはそういうものです」
本当は。
赤線だらけのノートは全部重要になって、何も重要じゃなくなるのですが。
そこは黙っておきます。
窓の外が少し暗くなりました。
私は最後のページを開きます。
「一行の覚え書きです」
「今日は本当に一行にしろよ」
「努力します」
考える。
裁決は。
作った時じゃない。
発送した時でもない。
送達された時。
公示なら。
定められた方法と二週間。
そして。
三浦さん。
病院。
返送封筒。
市役所の先走り。
私は書きました。
――裁決は「決めた時」ではなく、「法が届いたと認めた時」から効く。
相馬先輩が覗き込みます。
「まあ、いいんじゃねえか」
「やった」
「ただ」
「何です?」
「試験なら普通に『審査請求人に送達された時』って覚えろ」
「情緒を全部消しましたね」
「試験だからな」
「じゃあ下に試験版も書きます」
私は追記しました。
――試験用:裁決の効力=審査請求人への送達時。
「それでいい」
片桐所長が言いました。
「公示送達は」
「謄本送付不能の場合の例外」
「方法」
「審査庁が謄本を保管。いつでも交付する旨を掲示。さらに公報または新聞紙等に少なくとも一回掲載」
「いつ効く」
「掲示を始めた日の翌日から起算して二週間経過」
「何が起こる」
「裁決書の謄本の送付があったものとみなされる」
「よし」
私は思わず拳を握りました。
「合格ですか」
「何にだ」
「今日の口頭試験」
「仕事しろ」
「はい」
その時。
事務所の扉が開きました。
「あのう」
澄江さんでした。
「三浦さん」
私は立ち上がります。
「どうしました?」
「主人から」
紙袋。
嫌な予感がしました。
「またベルですか?」
「違います」
ほっとしました。
開ける。
中には。
たい焼き。
「食い物だ」
相馬先輩が即座に立ちました。
「先輩、反応早すぎません?」
「差し入れだぞ」
「ベルの時と態度違いすぎる」
「ベルは食えねえ」
「当然です」
澄江さんが笑いました。
「主人、明後日退院なんです」
「本当ですか」
「ええ」
「お店は?」
「少しずつ片付けて、来週から開けるって」
私は笑いました。
「よかった」
「道路のところは使えないんでしょう?」
「裁決が棄却なら、その点は原則として処分は維持されています」
「ええ」
「でも、店の中を工夫するって」
「はい」
「主人がね」
澄江さんが笑います。
「負けたなら負けたで、次を考えるって」
負けた。
確かに。
審査請求は棄却。
処分は覆らなかった。
でも。
三浦さんは。
誰かから結果だけを聞いて終わらなかった。
自分の裁決書を受け取った。
理由を読んだ。
腹を立てた。
考えた。
その上で、
次へ進むことを決めた。
「結果は同じだったかもしれません」
澄江さんが言いました。
「はい」
「でも、ちゃんと本人に届くって大事なんですね」
私は。
少しだけ驚きました。
今日ずっと勉強していたことを。
相談者本人から言われた。
「はい」
私は答えました。
「たぶん、それが一番大事なんだと思います」
処分。
審査請求。
裁決。
送達。
効力発生。
公示送達。
全部。
冷たい言葉です。
感情がない。
でも。
本人を飛ばさない。
勝手に時間を進めない。
届かないなら、
届かないなりの手続を踏む。
どうしても届かないなら、
公示する。
一定期間待つ。
そこまでして初めて、
届いたものとして扱う。
面倒です。
行政から見ても。
本人から見ても。
かなり面倒。
でも。
面倒だからこそ。
強い側が、
もう決まったから。
の一言で、
人の生活を先へ押し流せない。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「茶」
「はい」
私は立ち上がります。
相馬先輩はすでにたい焼きを一個確保していました。
「あ」
「何だ」
「それ、あんこ多そうなやつ」
「早い者勝ちだ」
「不当です」
「違法じゃねえ」
「またそれ!」
私はたい焼きの袋を覗きました。
残り三個。
一個。
少し小さい。
「所長」
「何だ」
「差し入れの配分について異議申立てを――」
「却下」
「まだ全部言ってません!」
「結論は同じだ」
「その裁決、効力発生してませんから!」
相馬先輩が笑いました。
「本人に送達済みだろ」
「今、口頭ですよ!」
「口頭じゃ駄目なんだろ?」
「そうです!」
私は机の上のベルをつかみました。
チリン。
「何だそれ」
「裁決書送達の代わりです」
「ならねえよ」
片桐所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「今日、何を覚えた」
私はベルを置きました。
そして。
今度はちゃんと、一行で答えます。
「裁決は、審査請求人に送達された時に効力を生じる」
「公示なら」
「送れない場合に法定の手続を踏んで、掲示開始日の翌日から二週間経過で送付があったものとみなす」
「それでいい」
所長はたい焼きを一つ取ります。
一番小さいやつ。
私は少しだけ笑いました。
窓の外では。
駅前の工事灯が点き始めていました。
役所では今日も。
いくつもの処分が決まり。
いくつもの裁決が書かれているのでしょう。
けれど。
紙が役所の机の上にあるだけでは。
まだ人の生活とはつながっていない。
それが本人へ届く。
あるいは。
法律の定めた方法で届いたと扱われる。
その瞬間に。
ただの行政内部の結論が、
人の明日を動かす法的な答えになる。
だから。
送達は。
最後の事務処理ではない。
裁決を人の生活へ接続する、
最後の一本の線なのです。
私はノートを閉じました。
表紙の裏に。
最後にもう一度だけ書きます。
――裁決は「決めた」で効かない。「届いた」で効く。
その横へ。
小さく。
――公示送達は、例外。掲示+掲載+翌日から二週間。
完璧。
「こはる」
「はい」
「たい焼き冷めるぞ」
「あっ」
振り返る。
残り一個。
「先輩!」
「何だ」
「二個食べましたね!」
「証拠は?」
「口の端にあんこ付いてます!」
相馬先輩が口元を拭いました。
「送達されてないことにしろ」
「事実認定を捻じ曲げないでください!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
どうやら。
裁決の送達については理解できても。
差し入れの公平な配分については。
まだ別の救済制度が必要なようでした。
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