[行政不服審査法50条・裁決の方式]現場編 「口頭で結論は伝えましたから」の嘘。役所の“終わった話”を、理由のある一枚の書面へ引き戻す裁決のルール
役所から「結論はもう出ています」と言われても。
その結論が、まだ法律上きちんとした形になっているとは限りません。
人間なら、
「駄目です」
の一言で会話を終えられます。
でも行政は。
駄目なら駄目で、
なぜ駄目なのかを残さなければならないことがあります。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
朝から私は、一枚の葉書を見つめていました。
「先輩」
「何だ」
「これ、裁決ですか?」
「知らん」
「見てから言ってください」
「見ても知らん」
「仕事をしてください」
相馬先輩は煙草をくわえたまま、ようやく私の手から葉書を取りました。
市役所から届いた、官製葉書。
表には宛名。
裏にはタイプ文字が六行ほど。
内容は簡単でした。
――先般申し立てのありました件については、検討の結果、従前の判断を変更しないこととしましたので通知します。
以上。
「短いですね」
「ああ」
「潔いというか」
「手抜きというか」
「そっちですよね」
葉書の向かい側。
応接椅子には、一人の男性が座っています。
長谷川辰雄さん。
五十九歳。
駅前商店街で、小さな時計店を営んでいました。
壁掛け時計。
腕時計。
目覚まし時計。
電池交換。
ベルト交換。
古い柱時計の修理まで。
いかにも昭和の商店街に一軒はありそうな店です。
ただし。
今回の相談は時計ではありません。
「これが、役所から届いた全部ですか?」
私は葉書を指しました。
「はい」
「封筒は?」
「ありません」
「ほかに書類は?」
「ありません」
「電話は?」
「昨日、市役所からありました」
「何て?」
長谷川さんが少し困った顔をしました。
「『棄却になりました』と」
私は瞬きをしました。
「……棄却?」
「はい」
「その言葉を使ったんですか?」
「たしかに」
「誰から?」
「総務課の人です」
私は葉書をもう一度見ました。
棄却。
その文字はどこにもありません。
「そもそもの話から聞いていいですか」
「はい」
長谷川さんの時計店は、駅前再整備区域の端にありました。
店の前には幅一メートルほどの小さな庇があります。
その庇の下に、
修理受付。
電池交換。
と書かれた小さな立て看板を出していた。
二十年以上。
ところが半年前。
駅前整備に伴う道路使用関係の見直しで、市から撤去を求められました。
看板が歩行者の通行を妨げる。
景観整備の支障になる。
そういう理由でした。
「でも、うちの看板だけなんです」
長谷川さんが言いました。
「だけ?」
「三軒隣の靴屋は、ワゴンを出してる」
「はい」
「向かいの薬局は、のぼりを二本出してる」
「はい」
「でも役所は、うちの看板だけ片付けろって」
なるほど。
また駅前です。
この町、駅前を綺麗にするたびに、法律相談が増えています。
都市整備とは。
舗装を綺麗にしながら片桐事務所を繁盛させる事業なのかもしれません。
「それで、不服申立てを?」
「はい」
長谷川さんは鞄から控えを出しました。
「県に出しました」
「県?」
「市の処分について、県へ審査請求しました」
相馬先輩が横から書類を取ります。
申立日。
処分日。
到達日。
内容。
ざっと見ていく。
「期間内だな」
「はい」
「申立先も、おかしくねえ」
「はい」
私は答えながら、少し安心しました。
昭和六十三年。
旧行政不服審査法。
この時代は、
異議申立て。
審査請求。
二本立て。
処分庁に上級行政庁があるかないか。
個別法にどう定められているか。
そのあたりを見ながら申立先を確認しなければならない。
現代の頭で、
はい審査請求一本化。
と走ると事故ります。
行政法転生者に必要なのは未来知識よりブレーキです。
「で」
相馬先輩が葉書を持ち上げました。
「県に審査請求して、これが来た」
「そうなんです」
「市じゃなく?」
「県です」
葉書の差出人を見る。
県庁。
担当課名。
たしかに県でした。
私は眉を寄せます。
「長谷川さん。審査請求の途中で、県から何か聞き取りはありました?」
「一度だけ」
「市の説明とかは?」
「書面が来ました」
「それに反論は?」
「出しました」
「証拠は?」
「写真も」
三軒隣の靴屋。
向かいの薬局。
長谷川時計店。
それぞれの店先の状態を撮った写真。
どうやら、そこそこ真面目に審理は進んでいたようです。
なのに。
最後だけ葉書六行。
「変ですね」
私が言うと、相馬先輩が鼻を鳴らしました。
「変で済ませるな」
「じゃあ、かなり変です」
「形容詞増やしてどうする」
「じゃあ先輩は何が気になります?」
「理由」
即答でした。
私は頷きます。
「ですよね」
この葉書。
結論らしきものはあります。
従前の判断を変更しない。
つまり、
長谷川さんの審査請求を認めない。
そう読める。
でも。
なぜ認めないのか。
理由がありません。
「電話では」
長谷川さんが言いました。
「県の人が説明してくれました」
「何て?」
「『市の判断に裁量の範囲を超えるところは認められなかった』と」
「ほかには?」
「『駅前整備には必要な措置だと判断した』と」
「それ、書いてあります?」
「いいえ」
私は葉書を裏返しました。
もちろんありません。
「電話で説明したからいい、ってことなんでしょうか」
長谷川さんが不安そうに言いました。
私は答えかけて。
止まりました。
頭の中に、現代の行政不服審査法が顔を出します。
裁決書。
主文。
事案の概要。
審理関係人の主張の要旨。
理由。
審査庁の記名押印。
さらに場合によっては――
審理員意見書。
行政不服審査会。
「……あ」
「何だ」
相馬先輩が私を見る。
「審理員意見書が――」
「何だそれ」
「あ」
やりました。
未来人、またやりました。
「行政不服審査会への諮問は」
「何の話だ」
「……忘れてください」
「お前、最近たまに二十年か三十年先の役所みたいなこと言うな」
「気のせいです」
危ない。
危険すぎる。
昭和六十三年に審理員制度はありません。
行政不服審査会への諮問制度もありません。
現代法の裁決書の記載事項を、そのまま昭和へタイムスリップさせてはいけない。
法律の条文まで転生させてどうする。
「こはる」
奥から片桐所長の声。
「今の法律を捨てろ」
「はい」
「昭和六十三年だ」
「はい」
「この時代の条文を見ろ」
「はい」
机の横。
六法を開きます。
旧行政不服審査法。
裁決。
方式。
文字を追って。
私は、そこで手を止めました。
「……あ」
「今度は何だ」
相馬先輩が聞きます。
「やっぱり、駄目です」
「何が」
「電話だけじゃ」
私は葉書を指しました。
「裁決って、ちゃんと書面でしなきゃいけない」
相馬先輩が頷きました。
「それから?」
「理由を付ける」
「それから?」
「審査庁が記名押印」
「これは?」
葉書を見る。
担当課名。
担当者名。
電話番号。
以上。
県知事名もない。
審査庁の記名押印もない。
「……ただの通知?」
私は呟きました。
片桐所長が立ち上がります。
「県へ行くぞ」
「今からですか?」
「今だからだ」
「昼ご飯」
「県庁の食堂で食え」
「そういう問題じゃ」
「こはる」
「はい」
「結論が出たというなら、その結論の形を確認する」
「はい」
格好いい。
昼食が犠牲にならなければ、もっと格好いい。
県庁。
不服申立てを扱う担当課。
応接室へ通されて十分。
現れた男性職員は、書類を抱えていました。
「片桐先生ですね」
「ええ」
「長谷川さんの件と伺いました」
四十代半ば。
真面目そうな人です。
名札には、
河合。
とあります。
相馬先輩が葉書を机へ置きました。
「これ、何です」
河合さんが一瞬だけ目を伏せました。
「審査結果の通知です」
「裁決書ですか」
「……結果通知です」
「裁決は?」
「内部では結論が出ています」
出た。
行政法で警報が鳴る言葉。
――内部では。
内部でどう決めたかと、
外に対して法律上どう処理したかは、
同じではありません。
「長谷川さんには電話でも説明しています」
河合さんが続けました。
「棄却であることも、理由も」
相馬先輩が腕を組みます。
「口頭で?」
「ええ」
「で?」
「で、とは」
「裁決は?」
河合さんの眉が少し動きました。
「ですから、実質的には――」
「実質の話をしてねえ」
相馬先輩。
低い。
ちょっと怖い。
私は横から口を挟みました。
「確認なんですが」
「はい」
「審査請求に対する裁決そのものは、書面でされていますか」
「決裁は取っています」
「決裁じゃなくて」
一度言葉を選びます。
感情で押してはいけない。
論点を分ける。
「内部で誰が何を決めたかじゃなくて、長谷川さんに対する裁決です」
河合さんが黙ります。
「裁決書は作成されていますか」
「……まだです」
相馬先輩の指が机を一度叩きました。
「まだ?」
「事務処理上、先に結果だけ通知した形です」
「じゃあ終わってねえじゃねえか」
「結論は決まっています」
「だから」
相馬先輩が葉書を指します。
「役所の中で決まったのと、裁決したのは同じかって聞いてんだよ」
河合さんの表情が硬くなりました。
「実質的には結果に変更はありません」
私は、そこでやっと見えました。
この人は、
長谷川さんの審査請求を軽く扱っているわけではない。
むしろ逆です。
内部では審査した。
資料も見た。
市の弁明も読んだ。
判断も固まった。
だから、
もう終わった案件。
そう思っている。
ただ。
行政手続というのは。
中身さえ合っていれば、形はどうでもいい。
とは言ってくれません。
「河合さん」
私は言いました。
「長谷川さんは、何を読めばいいんでしょう」
「何を、とは?」
「なぜ負けたかです」
「電話で――」
「電話じゃなくて」
声を少しだけ強めます。
「三か月後に見ても、半年後に見ても、長谷川さんが自分の審査請求について、何を主張して、県が何を判断して、なぜ棄却されたか確認できるものです」
「……」
「今あるのは、この葉書だけです」
私は机の上の葉書を見ました。
――従前の判断を変更しない。
たったそれだけ。
「これだと」
私は続けました。
「写真を出したことも」
「……」
「他店との扱いの違いを主張したことも」
「……」
「市が何を説明したのかも」
「……」
「県が何を理由に市の判断を妥当としたのかも、何も残らない」
そこで。
河合さんの視線が、ほんの少し変わりました。
「朝比奈さん」
「はい」
「裁決の内容そのものにも争いがあるんですか」
「あります」
私は即答しました。
「でも今は、そこを混ぜません」
「と言うと?」
「中身が正しいかどうかと、裁決の方式が正しいかどうかは別です」
空気が止まりました。
自分で言ってから。
あ。
今ちょっと行政法っぽかった。
と内心で思いました。
昨夜までテキストなら眠くなっていたところです。
方式。
書面。
理由。
記名押印。
地味。
恐ろしく地味。
必殺技名にしたら三秒で打ち切られそうです。
でも。
目の前には長谷川さんがいる。
この人は、
なぜ自分の主張が退けられたのか知りたい。
それだけなのです。
なら。
その「地味」が急に大事になる。
「たとえば」
私は続けました。
「県の結論が最終的に同じでもいいんです」
「認めるんですか」
「そこはまだ別問題です」
「……」
「でも棄却なら棄却で、どうして棄却したのか、正式な裁決として残してください」
河合さんが息を吐きました。
「電話説明では不足だと」
「少なくとも、それで裁決書の代わりにはならないでしょう」
そこで。
応接室の扉が開きました。
「ずいぶん賑やかですね」
私は振り向きました。
眼鏡。
灰色の背広。
感情の起伏が国有地くらい平らな顔。
「沢渡課長」
「朝比奈さん」
「どうして県庁に?」
「今日は駅前整備関係の協議です」
「市役所の人が一番来てほしくない場面で来ましたね」
「そうですか?」
絶対分かってます。
沢渡課長は机の葉書を見ました。
「長谷川時計店ですか」
長谷川さんが少し身を固くしました。
元の処分庁側。
つまり市役所側の人間です。
「県の裁決が出たそうですが」
沢渡課長が言います。
「出てません」
私が答えました。
「結果は出たそうです」
「だから出てません」
「細かいですね」
「課長がそれ言います?」
沢渡課長は葉書を手に取ります。
三秒。
五秒。
そして河合さんを見る。
「これだけですか」
「……先に結果通知を」
「理由は?」
「口頭で」
「記名押印は?」
「裁決書自体は、これから――」
沢渡課長が葉書を戻しました。
「では裁決はまだですね」
「課長!」
思わず声が出ました。
「何です」
「今日はこっち側なんですか?」
「こっちもそっちもありません」
沢渡課長は淡々と言います。
「処分庁としては、棄却していただけるならありがたいですが」
「本音」
「しかし、後で手続を突かれて話が蒸し返されるほうが面倒です」
「もっと本音」
「行政は、勝てばいいというものではありません」
沢渡課長が眼鏡を押し上げました。
「勝つなら、ちゃんと勝つべきです」
何だろう。
腹が立つのに、正しい。
「河合さん」
沢渡課長が言いました。
「市としても、正式な裁決書をお願いします」
「市が?」
「こちらの処分を維持するなら、なおさら理由を明確にしていただきたい」
「……分かりました」
河合さんの声が少し小さくなりました。
でも。
顔には怒りより、
しまった。
が出ていました。
つまり。
誤魔化そうとした悪人ではない。
単に、
内部決裁が済んだ。
電話した。
葉書も送った。
だから終わった。
そう処理してしまった。
行政の雑さは、悪意よりこういうところから生まれるのかもしれません。
片桐所長が初めて口を開きました。
「裁決書には」
短い声。
「理由をきちんと書いてください」
「はい」
「長谷川さんの主張に触れて」
「はい」
「何を認め、何を認めなかったのか」
「分かりました」
「それを読んでから、次を考えます」
河合さんが頷きました。
「正式な裁決書を作成し、送達します」
長谷川さんが、そこで初めて口を開きました。
「あの」
「はい」
「結果は、変わらないんですよね」
河合さんは答えに詰まりました。
私も黙りました。
代わりに。
片桐所長が言います。
「まだ分かりません」
「でも県は棄却すると」
「判断を変えない可能性は高いでしょう」
「じゃあ、書面をもらっても……」
長谷川さんが葉書を見ました。
「同じじゃないですか」
その言葉。
当然です。
白が黒になるわけじゃない。
棄却が認容になると決まったわけでもない。
むしろ。
今日の段階では、
正式な紙が増えるだけかもしれない。
でも。
「違います」
私は言いました。
「何がです?」
「負けるにしても」
少し言葉を探します。
「理由が分からないまま負けるのと、何を判断されたのか分かって負けるのは違います」
「……」
「理由が分かれば」
私は続けました。
「県が見落とした事実があるのか」
「はい」
「法律の考え方に問題があるのか」
「はい」
「次に争えるのか」
「……はい」
「それとも、もう争わないほうがいいのか」
そこまで言って。
私は自分でも少し驚きました。
理由。
というのは。
行政を責めるためだけにあるんじゃない。
納得するためにも。
諦めるためにも。
次へ進むためにも必要なんだ。
長谷川さんはしばらく黙っていました。
やがて。
「分かりました」
小さく頷きました。
「理由を、読んでみたいです」
事務所へ戻ったのは夕方でした。
「腹減った」
相馬先輩が言います。
「私なんて昼食抜きです」
「県庁で食えばよかっただろ」
「話が長引いたんでしょう!」
「お前が喋るからだ」
「先輩も喋ってました!」
そんなことを言いながら扉を開けると。
机の上に紙袋がありました。
「何です、これ」
「長谷川さんが置いてった」
片桐所長が言います。
「いつの間に」
「さっき」
開ける。
中には丸い缶。
クッキーでした。
「時計じゃないんですね」
「時計もらってどうする」
「行政書士事務所なら掛け時計は何個あっても」
「要らん」
相馬先輩がクッキーを一枚取ります。
「早い!」
「昼飯食ってねえ」
「先輩もですか」
「お前に付き合わされた」
「同罪です」
その三日後。
県から封筒が届きました。
厚い。
今度は葉書ではありません。
長谷川さんを呼び、
皆で開きました。
裁決書。
最初のページ。
正式な書面。
理由。
審査庁の名。
印。
長谷川さんがじっと読みます。
私は横から覗き込みたいのを我慢しました。
覗き込み行政書士。
字面がかなり怪しい。
数分後。
長谷川さんが顔を上げました。
「やっぱり」
声が落ちました。
「棄却です」
「はい」
私は答えました。
結果は変わらなかった。
県は、
駅前整備計画の目的。
歩行者動線。
看板の設置位置。
他店との違い。
市の裁量判断。
それらを検討した上で、市の処分を維持しました。
ただ。
「ここ」
相馬先輩が途中を指しました。
「何です?」
「靴屋と薬局」
長谷川さんが顔を寄せます。
裁決理由には、
近隣店舗との比較について書かれていました。
靴屋のワゴン。
薬局ののぼり。
長谷川時計店の立て看板。
県は、
設置位置。
歩道への張り出し幅。
撤去可能性。
道路構造。
それらに違いがある。
だから、直ちに不合理な差別的取扱いとはいえない。
そう判断していました。
「……そういう理由だったのか」
長谷川さんが呟きました。
「納得しました?」
私は聞きました。
「全部はしません」
「ですよね」
「でも」
長谷川さんは裁決書を指で撫でました。
「少なくとも、うちだけ嫌われたわけじゃないんですね」
その言葉が。
妙に胸に残りました。
長谷川さんが一番苦しかったのは。
看板を撤去させられたことだけじゃない。
なぜ自分だけなのか分からなかったこと。
もしかして、
店が小さいから。
文句を言わなそうだから。
昔からいる店だから雑に扱われたのか。
そんな疑念が積もっていた。
裁決書は、
その疑念を全部消したわけじゃない。
県の判断が絶対に正しいと証明したわけでもない。
でも。
少なくとも。
何を比べたのか。
どこを違うと見たのか。
なぜ市の処分を維持したのか。
書面に残った。
「これなら」
長谷川さんが言いました。
「店の前を少し変えれば、また看板を置けるかもしれませんね」
「え?」
「張り出し方が問題なんでしょう?」
裁決書をもう一度見る。
「道路側に出さず」
私は言いました。
「店の壁面寄りに設置する」
「それなら市と相談できませんか」
相馬先輩がにやりとしました。
「やってみる価値はあるな」
「処分取消しじゃなく?」
私が聞くと。
長谷川さんは笑いました。
「私は、役所に勝ちたいわけじゃないですよ」
あ。
「店が分かればいいんです」
そうでした。
この人は。
行政法の判例を作りたいわけじゃない。
時計店を続けたいだけ。
「じゃあ」
私は立ち上がりました。
「新しい看板案、作りましょう」
「お前がか?」
相馬先輩。
「私は絵が上手です」
「行政書士の業務範囲どうなってんだ」
「見習いですから」
「便利な言葉だな」
翌週。
長谷川さんは市役所へ新しい看板案を持っていきました。
道路側には張り出さない。
店の敷地内。
壁面寄り。
営業時間中のみ設置。
通行幅を確保。
その場で許可が出たわけではありません。
でも。
沢渡課長は図面を見て言いました。
「これなら担当課と協議できます」
「本当ですか」
「少なくとも、前と同じ理由で一律に駄目とは言いません」
長谷川さんの顔が少し明るくなりました。
私は横で。
あの裁決書を思い出していました。
棄却。
長谷川さんは、不服申立てでは負けました。
新聞風に見出しをつけるなら、
――時計店主の審査請求、棄却。
終わりです。
でも。
現実は。
その裁決理由を読んだからこそ。
何が駄目だったのかが見えた。
何を変えればいいのかが見えた。
負けた裁決書が、
次の申請の設計図になった。
法律というのは。
たまに変な救い方をします。
その日の夕方。
長谷川さんが事務所へ寄りました。
「これ」
「またクッキーですか?」
「違います」
箱を開く。
小さな目覚まし時計。
「おお」
私は声を上げました。
「店でずっと残ってたやつです」
「売れ残りなんですか」
「言い方」
「すみません」
丸い文字盤。
銀色のベル。
いかにも昭和です。
相馬先輩が持ち上げます。
「これ鳴るのか」
「すごい音しますよ」
「朝比奈にちょうどいい」
「何で私ですか」
「遅刻するから」
「二回だけです」
「二回してるじゃねえか」
長谷川さんが笑いました。
「事務所で使ってください」
片桐所長が時計を受け取ります。
「ありがとうございます」
「先生」
「はい」
「結局、審査請求は負けましたけど」
「ええ」
「やってよかったです」
片桐所長は少しだけ頷きました。
「理由が残ったからですか」
私が聞くと。
「それもあります」
長谷川さんは言いました。
「一番はね」
少し考えて。
「ちゃんと私の言い分を読んだって分かったからです」
私は黙りました。
裁決書。
書面。
理由。
記名押印。
昨夜までなら、
試験対策ノートの端に四角で囲って。
はい暗記。
と済ませていた単語たち。
でも。
書面にするということは、
記録を残すということ。
理由を書くということは、
行政が何を考えたのか示すということ。
名前と印を置くということは、
これは正式な行政の判断です。
と責任の所在を明らかにすること。
形式。
そう呼ばれるものには、
ちゃんと意味がある。
制度の冷たさは。
「ちゃんと紙にしろ」
「理由を書け」
「誰が決めたか示せ」
と。
役所にも容赦なく要求します。
だからこそ。
人が、
なんとなく負けた。
で終わらずに済む。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「今日の教訓は」
「はい」
私は少し考えました。
「結論だけじゃ、裁決にならない」
「ほう」
「負けるなら、せめて理由を残してもらう」
相馬先輩がクッキーをかじりながら言います。
「暗い教訓だな」
「じゃあ先輩は?」
「裁決は口約束じゃねえ」
「あ」
「それ、分かりやすい」
「だろ」
「珍しく」
「余計だ」
窓際。
長谷川さんにもらった目覚まし時計が、
かち。
かち。
と音を刻んでいました。
数日後には。
新しい看板の相談結果が出る。
許されるかもしれない。
また修正を求められるかもしれない。
でも。
少なくとも今度は。
何が駄目なのかを聞ける。
何を直せばいいのか考えられる。
その道筋がある。
私は思いました。
裁決書というのは。
勝った人へ渡す賞状ではありません。
負けた人へ突きつける終了通知でもない。
行政が、
「私たちは、こう考えて、こう決めました」
と。
自分の判断を紙の上に固定するものなのかもしれない。
固定されれば。
読める。
検討できる。
反論できる。
次へ進める。
曖昧なまま逃げられない。
制度は冷たい。
電話口で、
「申し訳ありませんねえ」
とは言ってくれないかもしれません。
でも。
冷たいからこそ。
「電話で説明しましたから」
では済ませない。
その冷たさが、
長谷川さんに次の看板を描く余白をくれた。
そのとき。
じりりりりりりりりりりりりりっ!
「うわあっ!」
私は飛び上がりました。
長谷川さんの目覚まし時計。
とんでもない音です。
「誰ですか、鳴らしたの!」
相馬先輩が腹を抱えて笑っています。
「先輩!」
「俺じゃねえ」
「じゃあ誰です!」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「私だ」
「所長!?」
「音を確認した」
「確認方法が乱暴すぎます!」
「時計は鳴らすものだ」
「今じゃないでしょう!」
私は時計を止めました。
耳がきーんとしています。
「所長」
「何だ」
「今の行為に異議があります」
「却下」
「また口頭!」
「理由は、うるさいからだ」
「理由つければいいってもんじゃないです!」
相馬先輩が笑います。
「書面でもらえ」
「そうします!」
私はメモ用紙を一枚取り出しました。
大きく、
――目覚まし時計鳴動事件について。
と書きます。
「こはる」
所長が言いました。
「何だ、それは」
「正式な裁決を求めます」
「棄却」
「だから書面で!」
「お前の申立ては異議申立てだろ」
「あ」
一瞬止まる。
相馬先輩が吹き出しました。
「裁決じゃなくて決定だな」
「……」
昭和六十三年。
旧法。
審査請求なら裁決。
異議申立てなら決定。
現代知識と旧法知識と時計のベル。
三方向から殴られました。
「ややこしい!」
私が叫ぶと。
片桐所長が淡々と言いました。
「だから勉強しろ」
かち。
かち。
目覚まし時計は。
今度は何事もなかったように、静かに時を刻んでいました。
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