[行政不服審査法50条・裁決の方式]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所では、時計の音がやけに大きく聞こえます。
かち。
かち。
かち。
窓際には、長谷川さんが置いていった銀色の目覚まし時計。
あれから誰もベルには触れていません。
正確には。
「先輩」
「何だ」
「その時計に手を伸ばすの、やめてもらえます?」
「触ってねえ」
「今、触ろうとしてましたよね」
「時刻を確認しただけだ」
「壁時計があります」
「細けえな」
「昨日、耳元で鳴らされた人間は細かくなります」
私は目覚まし時計を机の端から遠ざけました。
再発防止措置です。
行政法的に言えば。
たぶん。
「で」
相馬先輩が煙草をくわえました。
「今日は何だ」
「裁決の方式です」
「地味だな」
「言わないでください」
まったく同感なのです。
私はノートの一番上に、
――裁決の方式。
と書きました。
昨夜までの私なら。
書面。
理由。
記名押印。
はい暗記。
次。
で終わらせていた単元です。
でも。
長谷川さんの審査請求で、
その地味な単語が全部、急に人間の顔を持ちました。
県は、
「棄却です」
と電話で伝えた。
さらに、
「従前の判断を変更しません」
という葉書まで送った。
けれど。
正式な裁決書は、まだ作られていなかった。
そして理由も、口頭説明だけ。
結果として。
長谷川さんは、
自分の審査請求がなぜ退けられたのか。
何を見ても分からない状態になっていました。
「先輩」
「何だ」
「裁決って、結論さえ伝わればいいと思います?」
「駄目なんだろ」
「勉強会を一瞬で終わらせないでください」
「答え知ってるなら聞くな」
「会話形式なんです」
「誰向けだ」
「私向けです」
自習に他人を巻き込む。
我ながら迷惑な学習法です。
私はノートに線を引きました。
まず大前提。
審査請求に対する終局的な判断。
それが裁決。
そして。
少なくとも、
「認めます」
「認めません」
と電話一本で終わるものではない。
「昨日の長谷川さんの件」
私は言いました。
「県庁の中では、もう棄却するって決まってました」
「ああ」
「内部決裁も済んでた」
「ああ」
「でも所長は、『裁決はまだだ』って言いました」
「言ったな」
「なぜか」
私はペンを置きます。
「行政庁の内側で結論が決まったことと、法律上の裁決がされたことは別だから」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「そこは混同するな」
「はい」
ここ。
昨日の事件で一番気持ちよかったところです。
役所の中では、
終わった。
担当者の中でも、
終わった。
電話もした。
葉書も出した。
だから終わった。
でも。
法律が、
いや。
まだ終わっていない。
と止める。
行政手続の形式というのは、
単なる飾りではありません。
誰が。
何について。
どう判断して。
なぜそうしたのか。
それを外へ示すための形です。
「現代法だと」
私はノートの右側に、
現行法。
と書きました。
「行政不服審査法五十条ですね」
「未来の法律か」
「はい」
「俺には関係ねえな」
「比較すると分かりやすいんです」
「また未来の試験を始めやがった」
私は構わず続けます。
現行の行政不服審査法では、
裁決は裁決書という書面によって行います。
しかも。
何を書けばいいかまで具体的です。
主文。
事案の概要。
審理関係人の主張の要旨。
理由。
そして。
審査庁が記名押印する。
「多いな」
相馬先輩が言いました。
「そうなんです」
「昭和の制度より細かいのか」
「かなり整理されています」
現行法では。
単に、
棄却。
で終わらない。
どんな事件だったか。
当事者が何を主張したか。
どういう判断に至ったのか。
それを裁決書の中に残す。
「長谷川さんの裁決書だったら」
私は指を折りました。
「主文は、審査請求を棄却する」
「うん」
「事案の概要は、長谷川時計店の立て看板について、市が撤去を求めた経緯」
「うん」
「主張の要旨は、近くの靴屋や薬局との扱いが違うじゃないか、という長谷川さんの主張」
「うん」
「理由は、県が何を比較して、どうして市の処分を維持したのか」
「その四つか」
「現代法なら、そういう形です」
私は丸で囲みました。
主文。
事案。
主張。
理由。
この四つを並べると。
長谷川さんが欲しかったものが、ほとんど全部入っています。
何が決まったか。
何の事件だったか。
自分の言い分はどう扱われたか。
なぜその結論になったか。
「なるほどな」
相馬先輩が言いました。
「結論だけじゃなく、考えた道筋まで残すわけか」
「そうです」
「じゃあ昨日の葉書」
「ほぼ結論しかありません」
「しかも主文ですら曖昧だったな」
「そうなんですよ」
――従前の判断を変更しないこととしました。
これ。
なんとなく意味は分かります。
でも裁決書として見るなら。
「審査請求を棄却する」
なのか。
「請求を却下する」
なのか。
あるいは別の判断なのか。
正式に整理されていない。
「棄却と却下も違うからな」
相馬先輩が言いました。
「そこ!」
私はペンで机を叩きそうになって止めました。
「試験でよく引っかかるところです」
「今やるのか」
「ちょっとだけです」
却下。
中身に入る前に、
要件を満たさないなどの理由で退ける。
棄却。
中身を審査したうえで、
申立てに理由がないとして退ける。
「長谷川さんの場合は?」
「県は中身を見ています」
「写真も見た」
「市の説明も見た」
「長谷川さんの反論も見た」
「だから棄却」
「そういうことです」
単語一つ。
でも、
何が起きたのかが違う。
だから主文は必要になる。
私はノートに書きました。
――結論は、ぼかさない。
「次」
理由。
ここが長谷川さんの事件の中心です。
「理由って、そんなに大事か?」
相馬先輩がわざとらしく聞きます。
「大事です」
「結果変わらねえぞ」
「長谷川さんも最初、それ言ってました」
正式な裁決書が来ても。
結果は棄却。
看板撤去の処分は維持。
それだけ見れば。
葉書でも裁決書でも同じだった。
でも。
実際には違いました。
裁決理由には、
靴屋のワゴンと。
薬局ののぼりと。
長谷川さんの看板について。
設置位置。
張り出し幅。
道路構造。
通行への影響。
その違いが書かれていた。
だから長谷川さんは、
初めて、
「なぜ自分だけ駄目なのか」
を読めた。
「理由を書く意味って」
私は言いました。
「処分された人を納得させるためだけじゃないんですよね」
「ほかに何がある」
「行政自身を縛る」
相馬先輩がこちらを見ました。
「縛る?」
「理由を書かなきゃいけないとなると」
私はノートに矢印を書きます。
「なんとなく駄目」
では済まない。
「前からそうしてるから」
でも済まない。
「担当者がそう思ったから」
でも駄目。
紙に書ける形で、
判断理由を組み立てなければならない。
「要するに」
相馬先輩が言いました。
「後付けの言い訳防止にもなる」
「そういう意味もあります」
理由を残せば。
あとで、
本当にその理由で判断したのか。
別の事案と整合しているか。
法律に照らしておかしくないか。
検証できる。
「それに」
私は続けました。
「不服を申し立てた人が、その次を考えられます」
「長谷川みたいに?」
「はい」
裁決理由を読んで。
看板そのものが絶対に駄目なわけではない。
道路側への張り出し方が問題だった。
なら。
配置を変えればいい。
新しい案を出せる。
「負けた理由が分かれば、負け方を変えられる」
私は言ってから。
「……変な日本語ですね」
「意味は分かる」
片桐所長が言いました。
「次の手を選べる、ということだ」
「はい」
理由がなければ。
争うべきか。
直すべきか。
諦めるべきか。
それすら分からない。
理由は。
行政の説明責任であると同時に、
国民が次の行動を選ぶための地図でもある。
そんな感じです。
私はノートに書きました。
――理由は、次の一手を選ぶためにある。
「ちょっと格好つけたな」
「ノートくらい格好つけさせてください」
「試験でそのまま書くなよ」
「書きません」
次。
書面。
「昨日」
私は言いました。
「県の人は、電話で理由を説明したから大丈夫だと思ってました」
「ああ」
「でも駄目」
「なぜだ」
「電話は消えるから」
「雑だな」
「でも本質です」
誰が何を言ったか。
あとで争いになる。
聞き間違い。
言った。
言わない。
説明した。
していない。
電話では残りにくい。
一方。
裁決書なら。
その時点の判断を固定できる。
「行政って」
私は言いました。
「記録を残すことで公平になる部分がありますよね」
「人間の記憶を信用しねえってことか」
「そうとも言えます」
行政制度は、
人間が忘れること。
人間が都合よく記憶すること。
人間が後から説明を変えること。
そういう弱さを前提にしている。
だから。
書け。
残せ。
名前を付けろ。
印を押せ。
「冷たいですね」
私が言うと。
所長が短く返しました。
「冷たいから残る」
私は少し止まりました。
それ。
好きです。
ノートに書こう。
「勝手に名言扱いするな」
所長が言いました。
「顔に出てました?」
「出てた」
私は仕方なく話を進めます。
次。
記名押印。
「これも昔の受験生の私なら」
私は言いました。
「ただの形式だと思ってました」
「実際形式だろ」
「形式なんですけど、意味があるんです」
誰の判断なのか。
どの行政庁が責任を負うのか。
正式な裁決なのか。
そこを明らかにする。
昨日の葉書には。
担当課。
担当者。
電話番号。
それだけでした。
「担当者からのお知らせと、審査庁の裁決は違う」
「そうだな」
「役所って、個人じゃなく行政庁が処分したり裁決したりしますから」
そこを曖昧にすると、
これは正式な判断なのか。
ただの事務連絡なのか。
分からなくなる。
だから。
名前と印。
地味ですが。
責任の所在を紙の上に置く役目がある。
私は一度ノートを見返しました。
主文。
事案の概要。
主張の要旨。
理由。
記名押印。
「さて」
私は言いました。
「ここから転生者殺しです」
「またか」
「旧法と現代法」
「好きだなお前」
「好きじゃありません。必要なんです」
ここは昭和六十三年。
現代の行政不服審査法五十条を、そのまま適用するわけにはいきません。
今の法律には、
審理員。
行政不服審査会等。
という仕組みがあります。
でも。
昭和六十三年にはありません。
「昨日、私うっかり」
私は言いました。
「審理員意見書って言いそうになりました」
「言ってたぞ」
「忘れてください」
「記録に残ってる」
「書面ですか?」
「俺の記憶」
「一番信用できないやつです」
「何だと」
現代法では。
審査請求の審理を行うため、
原処分に関与していない職員などから審理員を指名する仕組みが設けられています。
さらに一定の場合には、
行政不服審査会など第三者機関への諮問が行われる。
そして。
諮問を要しない場合には、
裁決書に審理員意見書を添付する仕組みがあります。
「昭和には?」
「ありません」
「審理員も?」
「ありません」
「審査会も?」
「今の形ではありません」
「じゃあ昨日それを県庁で言ったら」
「未来人確定です」
「捕まるな」
「何罪ですか」
「知らん」
旧法には旧法の仕組みがあります。
異議申立て。
審査請求。
この二つが並んでいた。
そして、
処分庁自身が見直す異議申立てという仕組みがあった。
「ここが現代改正につながるんですよね」
私は言いました。
「自分で出した処分を、自分で見直す」
「ああ」
「もちろん早く直せる利点はある」
「現場も知ってるしな」
「でも申立人からしたら」
私は腕を組みます。
「本当に公正に見てもらえるの?」
という問題が出る。
昨日の長谷川さんの件は審査請求でしたが。
シリーズで何度も出てきた異議申立てなら、
まさに処分した行政庁自身へ、
「その処分、見直してください」
と申し立てる。
「答案返した先生に採点し直してもらう話な」
相馬先輩が言いました。
「覚えてたんですね」
「何回も聞かされた」
「学習効果」
「被害だ」
だから現代法では。
原則として不服申立てを審査請求へ一本化。
そして審理員制度などを導入し、
公正性や透明性を高める方向へ大きく改められた。
「つまり」
私はノートに書きました。
旧法。
処分庁自身が判断する場面がある。
制度も複線的。
現代法。
原則審査請求へ一本化。
審理員制度。
第三者機関への諮問制度。
「裁決書の書き方が細かくなったのも」
私は言いました。
「その流れの一つに見えます」
「どういうことだ」
「行政内部で判断する制度だからこそ」
誰が。
何を主張し。
どう審理し。
どういう理由で結論を出したのか。
外から確認できる形にする。
公正さ。
透明性。
そのために。
裁決書の中身まで明確にする。
「制度って」
私は呟きました。
「不信感を減らすために細かくなるんですね」
「お前みたいな面倒な奴が突っ込むからだろ」
「国民代表みたいに言わないでください」
次。
再審査請求の教示。
「これも現代法五十条にあります」
私はノートに見出しを書きました。
再審査請求ができる裁決。
その場合。
裁決書に、
再審査請求ができる旨。
再審査請求をすべき行政庁。
再審査請求期間。
これらを記載して教示する。
「要するに」
相馬先輩が言いました。
「まだ争えるなら、次の行き先を書いとけってことか」
「はい」
「役所が自分から?」
「はい」
「親切だな」
「親切というより、制度です」
そこ大事です。
「行政って」
私は言いました。
「住民に『法律知ってるなら自分で調べて来い』では済ませない場面があるんです」
次に争えるのか。
どこへ出すのか。
いつまでなのか。
それを教える。
不服申立てという権利があっても。
行き先も期限も分からなければ。
使えない。
「権利って」
私は言いました。
「使い方が分からなければ、かなり弱いですね」
所長が頷きます。
「だから教示がある」
「はい」
教示。
この言葉も。
受験生だったころは、
妙に古臭く見えました。
でも意味は単純。
あなたには次の道があります。
行き先はここです。
期限はここまでです。
と教える。
制度が国民へ道路標識を立てるようなものです。
「ただし」
相馬先輩が言います。
「何でも再審査請求できるわけじゃねえんだろ」
「そうです」
再審査請求は。
すべての裁決について当然にできるわけではありません。
法律にその仕組みがある場合に問題になる。
「だから試験で」
私は大きく書きました。
――裁決が出たら必ず再審査請求できる、は誤り。
「出そうだな」
「めちゃくちゃ出そうです」
「現代の試験でか」
「はい」
「昭和の俺には関係ねえ」
「でも聞いてください」
「何でだよ」
「一人で勉強すると眠くなるからです」
「知らねえよ」
私は次のページへ進みました。
そして。
一番危ないところ。
裁決と決定。
「昨日」
私は言いました。
「最後に所長にやられました」
「目覚まし時計の件か」
「はい」
私は所長へ異議申立てをする。
だから正式な裁決を書いてください。
と言った。
でも。
旧法では。
審査請求に対する判断。
――裁決。
異議申立てに対する判断。
――決定。
「違いました」
「違ったな」
「めちゃくちゃ恥ずかしかったです」
「声でかかったからな」
「思い出させないでください」
旧法。
審査請求。
裁決。
異議申立て。
決定。
私は二本の線で結びました。
「これ」
私は言いました。
「今の試験だけやってると、感覚が狂います」
現行法では。
異議申立てという一般制度自体が廃止されている。
だから、
不服申立ての終局判断といえば基本的に裁決。
でも昭和六十三年では。
二本立て。
だから用語も違う。
「転生したら間違えるな」
相馬先輩が言います。
「普通の受験生は転生しません」
「じゃあ問題ねえな」
「この小説の根幹を壊さないでください」
私はノートの端へ、
旧法注意。
と赤線を引きました。
それから。
申立期間。
「また六十日と三か月か?」
相馬先輩が嫌そうな顔をします。
「今日は深入りしません」
「助かった」
「でも一行だけ」
昭和六十三年の旧法では、
原則六十日。
現代法では、
原則三か月。
「裁決書の教示で期間が出てきたら」
私は言いました。
「そこでも新旧を混ぜない」
「分かった分かった」
「大事なんです!」
行政法の転生もの。
時代考証の半分が期限問題です。
私はここまでの内容を一度まとめました。
「所長」
「何だ」
「裁決書って、形式の話だと思ってました」
「今は?」
「内容を見える形にする仕組み」
所長が黙ってこちらを見ます。
「結論を見えるようにする」
「うん」
「事案を見えるようにする」
「うん」
「当事者の主張を見えるようにする」
「うん」
「理由を見えるようにする」
「うん」
「そして、誰が正式に判断したのかも見えるようにする」
「そうだ」
私は続けます。
「さらに次の不服申立てができるなら、道も見えるようにする」
「それが教示だ」
「はい」
見える。
そうか。
結局そこなんだ。
行政の中で何が起きたか。
国民には見えません。
会議室。
稟議。
決裁。
担当者の検討。
上司との相談。
それ全部を覗くことはできない。
だから。
最後に裁決書という形で、
行政が外へ向けて、
「私たちはこう判断しました」
と出す。
「裁決書って」
私は言いました。
「行政判断の窓みたいなものですね」
「また格好つけた」
「今のはかなり気に入ってます」
「試験答案には書くな」
「書きませんってば」
私はノートの下半分に、
試験注意。
と書きました。
ここは整理しておきたい。
まず。
裁決は書面。
口頭では駄目。
次。
現代法の裁決書。
主文。
事案の概要。
審理関係人の主張の要旨。
理由。
審査庁の記名押印。
次。
審理員意見書。
「ここ、条件を間違えやすいですね」
「何がだ」
「何でも添付じゃない」
行政不服審査会等への諮問を要しない場合に、
裁決書へ審理員意見書を添付する。
「逆に覚えそうだな」
「そうなんです」
諮問したら添付。
と、なんとなく思いそう。
でもそこは注意。
「それから」
再審査請求できる裁決なら、
できる旨。
申立先。
期間。
を教示。
「三つだな」
「はい」
できる。
どこへ。
いつまで。
「これは覚えやすい」
「ですよね」
「次の道がある。行き先と締切」
「それです!」
私はそこを四角で囲みました。
そして。
「一番の罠」
「まだあるのか」
「旧法と新法を混ぜない」
昭和六十三年。
審理員はいない。
現代型の行政不服審査会への諮問制度もない。
異議申立てと審査請求が併存。
申立期間は原則六十日。
審査請求への判断は裁決。
異議申立てへの判断は決定。
現代。
原則審査請求へ一本化。
申立期間は原則三か月。
審理員制度あり。
行政不服審査会等への諮問制度あり。
「これ」
相馬先輩がノートを見ます。
「未来と今を一冊に書いて大丈夫なのか」
「色分けします」
「余計混乱しそうだな」
「やめてください。今ちょうど不安になってました」
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
私が取ります。
『総務課の沢渡です』
「あ」
『何ですか、その反応は』
「最近よく登場するなと思いまして」
『仕事ですから』
「今日は何でしょう」
『長谷川さんの看板について、担当課から回答が出ました』
私は姿勢を正しました。
「はい」
『修正案であれば、設置可能です』
「本当ですか!」
相馬先輩と所長がこちらを見る。
『道路側への張り出しがなく、店内側へ寄せること。営業時間外は収納すること。以上の条件です』
「分かりました」
『長谷川さんへ伝えてください』
「はい」
一瞬。
私は裁決書を思い出しました。
「課長」
『何です』
「結局、裁決では長谷川さん負けましたけど」
『そうですね』
「理由が書いてあったから、次の案が作れました」
少し沈黙。
『それが何か』
「いえ」
この人に感動を共有しようとした私が間違っていました。
『朝比奈さん』
「はい」
『行政の理由というのは、国民を納得させるためだけにあるものではありません』
私は止まりました。
『我々自身が、前の判断との整合性を確認するためにも使います』
「……あ」
『今回も、前の裁決理由と矛盾する処理はできません』
「だから修正案なら認めた?」
『一つの理由です』
「課長」
『はい』
「それ、かなり良いこと言ってます」
『そうですか』
「ノートに書いていいです?」
『ご自由に』
「名前付きで」
『やめてください』
電話が切れました。
私は受話器を置きます。
「何だって?」
相馬先輩。
「新しい看板、いけます」
「お」
「条件付きですけど」
私は笑いました。
「それと」
「何だ」
「理由は、役所自身も縛る」
片桐所長が小さく頷きました。
「そうだ」
一度、
この事情を重視しました。
この違いがあるから結論を変えました。
と書けば。
次の似た事案で。
何の説明もなく逆のことはしにくくなる。
理由を書く。
記録する。
それは。
国民のためだけじゃない。
行政の判断を積み重ねるためにも必要なのです。
私はノートの最後のページを開きました。
「一行の覚え書き」
相馬先輩が言います。
「今日はちゃんと一行にしろよ」
「分かってます」
少し考えます。
裁決は。
結論だけではない。
書面にする。
理由を残す。
責任を示す。
次の道があるなら教える。
全部まとめると。
私は書きました。
――裁決は、「決めた」で終わらせず、結論と理由を紙に残して次の道を見せる。
「長い」
「一行です!」
「物理的にはな」
「じゃあ短縮版」
その下に書きます。
――結論だけでは裁決にならない。理由を、紙に残せ。
相馬先輩が黙りました。
「どうです?」
「まあ」
「まあ?」
「覚えやすいんじゃねえか」
「褒めましたね」
「気のせいだ」
私はノートを閉じました。
その瞬間。
じりりりりりりりりりりりりりっ!
「ぎゃあっ!」
椅子から半分飛び上がりました。
銀色の目覚まし時計。
またです。
「誰ですか!」
相馬先輩を見る。
「俺じゃねえ」
片桐所長を見る。
「私でもない」
「じゃあ何で!」
所長が時計を見ます。
「昨日、時刻を合わせた」
「目覚まし設定まで残ってたんですか!」
「そうらしい」
「これだから形式確認は大事なんですよ!」
私は慌ててベルを止めました。
静寂。
耳鳴り。
相馬先輩が笑いを堪えています。
「先輩」
「何だ」
「笑いましたね」
「理由を紙に書いてやろうか」
「要りません!」
「書面が大事なんだろ」
「そういう時だけ法理を悪用しないでください!」
私は目覚まし時計をひっくり返し、
設定つまみを確認しました。
そして大きくため息をつきます。
「今日の追加教訓」
「まだあるのか」
「形式は、最後まで確認する」
「それは行政法じゃねえだろ」
「実務です」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「長谷川さんへ電話しろ」
「看板の件ですね」
「そうだ」
「口頭で?」
「まずはな」
「正式な書面は?」
所長がこちらを見ます。
「市から出る」
「……はい」
そうでした。
電話は。
連絡には使える。
説明にも使える。
でも。
法律が、
これは正式な判断として残せ。
と決めたところでは。
紙が要る。
理由が要る。
誰の判断かを示す必要がある。
制度は面倒です。
書類は増える。
印鑑も要る。
役所の机には紙が積み上がる。
でも。
その面倒さのおかげで、
「言ったつもりでした」
「説明したはずです」
「内部では決まっています」
そんな曖昧さだけで。
人の権利や生活が閉じられることを防げる。
長谷川さんの審査請求は、
棄却でした。
それでも。
理由が紙に残ったから。
何が駄目だったかが分かった。
直せるところが分かった。
そして。
新しい看板を出せるところまで来た。
勝ったわけではありません。
裁決が覆ったわけでもありません。
でも。
負けた理由が、
次の一歩を作った。
法律の言葉は冷たい。
主文。
理由。
書面。
記名押印。
どれも人情とは遠い言葉に見えます。
けれど。
冷たいからこそ。
誰にでも同じように、
「ちゃんと書け」
「ちゃんと理由を示せ」
と行政に要求できる。
その冷たさが。
長谷川さんの店先に、
もう一度、小さな看板を立てようとしていました。
「先輩」
「何だ」
「明日、長谷川さんの店、見に行きません?」
「何でだ」
「新しい看板」
「仕事か?」
「半分」
「残り半分は」
「時計の電池買いたいです」
「お前、昨日あれだけベルに怒ってたのに時計屋へ行くのか」
「時計に罪はありません」
「行政判断みたいなこと言うな」
「物と処分を混同しないでください」
「はいはい」
窓際では。
銀色の目覚まし時計が。
今度こそ静かに。
かち。
かち。
と。
理由のいらない正確さで、時を刻んでいました。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




