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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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211/274

[行政不服審査法49条・不作為についての審査請求の裁決]現場編 「まだ決めていませんから、不服はないでしょう」の罠。処分しない役所を、沈黙のまま逃がさない不服申立て

挿絵(By みてみん)

 役所から「駄目です」と言われれば、まだ争えます。


 困るのは。


 何も言われないことです。


 許可もしない。


 不許可にもしない。


 ただ、


 ――審査中です。


 それだけで時間が過ぎていく。


 紙一枚の処分より、何も書かれていない机の上のほうが、人を追い詰めることがあります。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その朝、私は一枚の受付票を眺めていました。


「先輩」


「何だ」


「これ、通知書じゃないですよね」


「見りゃ分かる」


「受付票ですよね」


「だから見りゃ分かる」


「じゃあ、処分は?」


「出てねえ」


 相馬先輩は煙草をくわえたまま答えました。


 私の目の前にあるのは、


 ――駅前仮設店舗営業施設設置承認申請 受付。


 という紙。


 申請日。


 六月十七日。


 今日は九月十二日。


 もうすぐ三か月です。


「……三か月?」


 私は思わず口にしました。


 まずい。


 その数字に反応する癖がついている。


 現代の行政不服審査法。


 審査請求期間。


 原則三か月。


 ――違う。


 今回、問題なのは処分が出たあとの期間ではありません。


 そもそも。


 処分が出ていない。


「こはる」


 片桐所長が帳簿から顔を上げました。


「相談者を待たせるな」


「あ、はい」


 慌てて向かいを見る。


 椅子に座っているのは、四十代半ばくらいの女性でした。


 名は、


 北村美代子さん。


 駅前で惣菜屋を営んでいます。


 正確には。


 営んでいました。


「もともとの店は、もう壊しちゃったんです」


 北村さんは言いました。


「駅前の再整備で」


 また駅前です。


 最近この町、


 駅前という言葉の後ろには、たいてい何か面倒な行政法が隠れています。


 北村さんの店は、


 北村惣菜店。


 コロッケ。


 煮豆。


 卵焼き。


 鯖の味噌煮。


 夕方になると工場帰りの人が立ち寄る、昔ながらの店だったそうです。


 ところが。


 駅前再整備事業のため、古い店舗は取り壊し。


 市から説明されたのは、


 工事期間中、駅裏の市有地に仮設店舗を設けられる。


 必要な申請を出せば順次審査する。


 という話でした。


「六月に出したんですよね」


「はい」


「書類は全部?」


「言われたものは」


「補正は?」


「二回しました」


「最後の補正はいつです?」


「七月八日です」


 私はメモしました。


 七月八日。


 それ以降、追加資料の要求なし。


「で、今は?」


「ずっと『審査中です』です」


「営業は?」


「できません」


「ほかの場所を借りるのは?」


 北村さんは少し困ったように笑いました。


「半年か一年のためだけに、普通のお店を借りるお金なんてありませんよ」


 ですよね。


 駅前再整備の工事が終われば、本設店舗へ戻る予定。


 だから仮設店舗が必要なのです。


 ところが、その仮設店舗の承認が出ない。


「八月のお盆前が一番きつかったです」


 北村さんが言いました。


「お客さんに『お盆の煮物、今年も頼める?』って聞かれて」


「……」


「できますって言えませんでした」


 声は穏やかでした。


 でも。


 穏やかな声ほど、困っている人はいます。


「市役所には何回くらい?」


「六回」


「六回」


「最初は担当の人が、『もう少しです』って」


「はい」


「次は『課内で確認しています』」


「はい」


「その次は『関係部署と調整中です』」


「はい」


「先週は、『まだ処分をしていないので、不服と言われても困ります』って」


 私はペンを止めました。


「それ、誰が言いました?」


「名前までは……」


「何課です?」


「駅前整備課です」


 相馬先輩が鼻で息を吐きました。


「うまいこと言いやがる」


「何がです?」


「処分を出せば、不許可でも争われる」


「はい」


「出さなきゃ?」


 私は受付票を見ました。


「争う対象がないように見える」


「そういうことだ」


 なるほど。


 嫌なほどなるほどです。


 不許可なら、


 不許可処分がおかしい。


 と争える。


 でも、


 「まだ決めていません」


 と言われ続けると、


 申請者は宙ぶらりんになる。


 許可もないから営業できない。


 不許可でもないから、次の手を打ちにくい。


 行政による、


 保留。


 それは便利な言葉です。


 便利すぎて、人の生活を凍らせる。


「申請書を見せてください」


 私は言いました。


 北村さんが封筒から控えを出します。


 営業施設。


 配置図。


 排水設備。


 火気設備。


 道路からの出入口。


 かなり細かい。


「先輩」


「何だ」


「これ、単なるお願いじゃないですよね」


「当たり前だ」


「市に対して、正式に承認を求める申請」


「そうだ」


「で、市は何らかの判断をする必要がある」


 相馬先輩が煙草を指で弾きました。


「そこまで分かってんなら、論点で喋るな」


「まだ喋ってません!」


「顔がもう論点だ」


 どういう顔ですか。


 でも。


 頭の中で、一つの言葉が起き上がっていました。


 不作為。


 現代の行政不服審査法なら。


 法令に基づいて申請した。


 相当の期間が経過した。


 それなのに行政庁が何らの処分もしない。


 そういう不作為について、審査請求ができる。


 さらに、理由があれば。


 現代法では審査庁が不作為の違法・不当を宣言し、


 場合によっては処分すべき旨を命じたり、


 不作為庁自身が審査庁なら自ら処分したりする。


 ――待て。


 私は頭を振りました。


「また未来か」


 相馬先輩が言います。


「まだ何も言ってません」


「顔が未来だ」


「先輩、私の顔から情報取りすぎじゃないですか」


 ここは昭和六十三年。


 今使うのは、


 旧行政不服審査法。


 条文番号も仕組みも違う。


 現代の第四十九条を持ってきて、


 「処分しなさいと命じてください!」


 などとやったら、


 昭和の役所に未来の法律を投げつける怪人になります。


「所長」


 私は聞きました。


「これ、不作為ですよね」


「そう見る余地はある」


「余地?」


「まず確認しろ」


「何をです?」


「市が本当に何もしていないのか」


 片桐所長が言いました。


「処分をしない理由があるのか。申請に不足が残っているのか。別の手続を待っているのか」


 あ。


 そうか。


 ただ遅い。


 イコール、


 直ちに違法な不作為。


 ではありません。


 行政側に合理的な事情があるかもしれない。


 専門機関への照会が必要かもしれない。


 申請者側の補正が終わっていないかもしれない。


「市役所、行きますか」


「行く」


 相馬先輩が立ちました。


「早い」


「三か月近く待ってんのは北村さんだ。こっちまで待つ必要はねえ」


 たまに。


 本当にたまにですが。


 相馬先輩は妙に格好いいことを言います。


 本人には絶対言いません。


 市役所二階。


 駅前整備課。


 そこで事情を聞いたあと、


 なぜか私たちは総務課へ回されました。


 そして。


「またですか」


 灰色の背広。


 細い眼鏡。


 書類を人間より信頼していそうな顔。


 沢渡課長です。


「こちらの台詞です」


 私は言いました。


「朝比奈さんは最近よく来ますね」


「私も来たくて来てるわけじゃありません」


「それはお互い様です」


 相変わらず。


 会話に一滴の水分もありません。


 相馬先輩が北村さんの申請書控えを机へ置きました。


「六月十七日申請」


「ええ」


「七月八日に補正完了」


「聞いています」


「今日は九月十二日」


「暦は私も持っています」


「じゃあ話が早い。何でまだ処分してねえ」


 沢渡課長は申請書を見ました。


「駅前再整備全体との調整です」


「具体的に」


「仮設店舗区画について、防災面と歩行者動線の再確認をしています」


「北村さんの区画だけ?」


「いえ」


「何件」


「五件です」


「その五件、全部止まってる?」


 一瞬。


 沢渡課長が黙りました。


 私は見逃しませんでした。


「全部じゃないんですね」


「三件は承認済みです」


「残り二件」


「北村さんと、鮮魚店です」


「違いは?」


「火気、水道、排水などを含む業種です」


 なるほど。


 少し筋が見えました。


 惣菜店。


 鮮魚店。


 水回りや衛生、防災の確認が重い。


 ただの気分で止めているわけではなさそうです。


「じゃあ」


 私は聞きました。


「北村さんの申請について、今どの確認が残ってるんです?」


「関係部署との調整です」


「どの部署です?」


「建築、防災、環境衛生など」


「照会はいつ出しました?」


「……」


 沢渡課長が黙りました。


 相馬先輩が私を見る。


 これは、


 行け。


 の顔です。


「いつです?」


 もう一度聞きました。


「正式な照会文書は、まだです」


「まだ?」


「担当者間で協議しています」


「七月八日から?」


「そうですね」


「二か月以上?」


「関係する事業ですから」


「で、その間、北村さんには」


「審査中と」


「それだけ?」


「現段階では」


 来ました。


 行政法で嫌なやつ。


 仕事をしているようで、


 手続が前へ進んでいないやつ。


 私は机の上の申請書を見ました。


 違法かどうか。


 今ここで断定する必要はありません。


 でも。


 二か月以上。


 補正要求なし。


 正式照会すら未了。


 その間に申請者は営業できない。


「課長」


 私は言いました。


「これ、いつ処分する予定ですか」


「調整が整い次第です」


「一週間?」


「分かりません」


「一か月?」


「約束はできません」


「年内?」


「それも」


「じゃあ」


 私は息を吸いました。


「いつまで待てば、『待たせすぎ』になるんです?」


 沢渡課長の眼鏡が少し光りました。


「朝比奈さん」


「はい」


「処分には必要な調査があります」


「それは分かります」


「早ければいいというものではありません」


「それも分かります」


 私は頷きました。


「でも、時間をかければ何もしなくていい、でもないですよね」


 沈黙。


 相馬先輩が口元だけ少し笑いました。


 私は続けます。


「市は許可しろって言われてるんじゃありません」


「……」


「不許可でもいい、とは言いませんけど」


「そこは言わないんですか」


「言いません」


「正直ですね」


「でも」


 私は申請書を指しました。


「申請した人には、答えを出してもらう必要があります」


 許可。


 不許可。


 少なくとも、


 何らかの行政上の答え。


 沈黙は、


 答えではない。


「まだ処分していないから争えない、という話ではありませんよね」


 沢渡課長の目が、少し変わりました。


 そこです。


「不作為についての不服申立てがあります」


 私は言いました。


 今度は、


 言葉がちゃんと現場につながりました。


 不作為。


 昨夜までなら、


 文字通り、


 何もしないこと。


 と覚えるだけだった。


 でも今は違う。


 北村さんの店が閉まったまま。


 お盆の煮物を断った。


 常連客が離れていく。


 仕入れ先にも待ってもらっている。


 行政が答えを出さないということは、


 生活の側だけが毎日損失を払い続けるということです。


「不服申立て?」


 沢渡課長が聞き返しました。


「この件で?」


「はい」


「まだ処分は出していませんが」


「だからです」


 私は言いました。


「処分が出てないこと自体を問題にします」


 初めて。


 ほんの少しだけ。


 空気が変わりました。


 相馬先輩が机に手をつきます。


「で」


 低い声でした。


「この申請の行政庁は誰だ」


「市長です」


「上級行政庁は」


「ありません」


 私は一瞬、


 現代法の審査請求。


 という言葉を思い浮かべました。


 違う。


 旧法。


 昭和六十三年。


 不作為についても、


 異議申立てと審査請求の構造がある。


「なら」


 片桐所長が短く言いました。


「不作為についての異議申立てだ」


 出ました。


 昭和。


 また異議申立て。


 現代の私の頭の中では、


 何でも審査請求にまとめたくなるのに。


 昭和は容赦なく枝分かれしてきます。


 私は脳内で制度表をひっくり返しました。


 現代。


 不作為についての審査請求。


 昭和六十三年。


 この件は、


 不作為庁である市長に対する異議申立て。


「朝比奈さん」


 沢渡課長が言いました。


「今、頭の中で何か間違えかけましたね」


「なぜ分かるんですか」


「顔に出ます」


 この町の公務員と先輩は、私の顔を行政資料か何かだと思っているのでしょうか。


「異議申立てをする、と?」


 沢渡課長が聞きます。


「必要なら」


「申立てをすれば、承認されると思っていますか」


「いいえ」


 そこは大事です。


「承認しろ、と決めつけるつもりはありません」


「では何を求めるんです」


「止まったままにしないことです」


 沢渡課長が黙ります。


「許可するのか」


 私は指を一本立てました。


「不許可にするのか」


 二本目。


「それとも、今なぜ処分できないのかをちゃんと説明するのか」


 三本目。


「少なくとも、『審査中です』だけで北村さんをいつまでも待たせる状態は終わらせる」


 相馬先輩が言いました。


「旧法の不作為についての異議申立てが出れば?」


 沢渡課長は眼鏡を押し上げました。


「不適法でなければ、不作為庁は、申立ての翌日から起算して二十日以内に、申請に対する何らかの行為をするか、書面で不作為の理由を示すことになります」


 私は止まりました。


 二十日。


 強い。


 今まで、


 「調整中です」


 「検討しています」


 「もう少しです」


 で漂っていた時間に。


 突然、


 二十日。


 という輪郭が入る。


「それです」


 私は言いました。


「北村さんに必要なの、それです」


「二十日で承認されるとは限りませんよ」


「分かってます」


「不作為の理由を書面で示すだけの場合もある」


「それでもです」


 私は北村さんを見ました。


 黙って待つしかない状態と、


 役所が期限の中で何かを返さなければならない状態。


 同じではありません。


 片桐所長が沢渡課長に聞きました。


「正式照会をまだしていない理由は」


「担当課同士の整理で足りると考えていたためです」


「結果として二か月止まった」


「否定はしません」


「申立てが出れば」


 沢渡課長はしばらく黙ってから、


 ため息とも呼べないくらい小さく息を吐きました。


「総務としても、今のまま放置するのは説明しにくいですね」


 相馬先輩がにやりとしました。


「役所語で?」


「望ましくない、と言っているんです」


「最初からそう言え」


「役所なので」


 沢渡課長。


 そこ開き直るんですね。


 事務所へ戻る途中。


 私は歩きながら呟きました。


「二十日以内……」


「何だ」


 相馬先輩が聞きます。


「いや。現代の制度だと、また違うんですよ」


「始まった」


「現代なら不作為について審査請求して、理由があれば、不作為が違法とか不当だって宣言して――」


「今は?」


「昭和です」


「じゃあ昭和で仕事しろ」


「はい」


「未来の条文じゃ北村さんの店は開かねえ」


 痛い。


 正論が痛い。


 私は唇を尖らせました。


「でも、ちょっと面白いんですよ」


「何が」


「今の制度って、昔より踏み込めるようになってるんです」


「へえ」


「上級行政庁が審査庁なら、不作為庁に処分すべき旨を命じられる場合があるし、不作為庁自身が審査庁なら、自分で処分する仕組みもある」


「未来の話だろ」


「そうですけど」


 私は振り返って市役所を見ました。


「昔の制度を実際に使うと、なんで後で変えたのか、ちょっと分かる気がします」


 今の旧法では。


 不作為庁自身への異議申立てなら、


 二十日以内に何らかの行為をするか、


 書面で不作為の理由を示す。


 つまり。


 役所を沈黙から引っ張り出す力はある。


 でも、


 そこで必ず具体的な処分までさせる仕組みとは限らない。


 理由を書いて、


 まだ待ってください。


 となることもある。


 一方、上級行政庁への審査請求なら、


 理由があれば、


 不作為庁に速やかに何らかの行為をすべきことを命ずる。


 そして未来では。


 制度が整理され、


 原則として審査請求に一本化され、


 さらに一定の場合には、


 より具体的に処分を促す仕組みへ進んでいく。


「法律って」


 私は呟きました。


「昔の使いにくさの上に、新しい制度ができてるんですね」


「感心してる暇あったら書け」


「何をです?」


「異議申立書」


「ですよね」


 事務所に戻ると、


 北村さんが不安そうに聞きました。


「あの」


「はい」


「役所に逆らうことになるんでしょうか」


 私は少し考えました。


「逆らう、とは違うと思います」


「違う?」


「承認しなさい、って怒鳴るわけじゃありません」


「はい」


「ちゃんと決めてください、って言うんです」


 北村さんは黙りました。


「申請した以上」


 私は続けました。


「北村さんには、待つだけじゃなくて、答えを求める道があります」


「……そんなこと、してもいいんですか」


「制度として用意されています」


 その言葉を口にして。


 私は少しだけ分かった気がしました。


 法律の制度は冷たい。


 異議申立て。


 不作為。


 二十日。


 どれも、人の気持ちには寄り添わない。


 でも。


 役所に、


 この人かわいそうでしょう。


 早くしてください。


 とお願いするだけでは、


 また「調整中」で終わるかもしれない。


 冷たい制度は、


 感情ではなく、


 時間と手続で役所を縛る。


 そのほうが強いときがあります。


 三日後。


 不作為についての異議申立書を提出しました。


 書いたのは、


 北村さんがどれだけ困っているか。


 だけではありません。


 六月十七日に申請したこと。


 七月八日に求められた補正をすべて終えていること。


 以後、追加補正を求められていないこと。


 約二か月以上、承認・不承認のいずれの判断もされていないこと。


 担当課が必要と説明する関係部署への正式照会も、現時点で行われていないこと。


 仮設店舗は駅前再整備期間中の営業継続を目的としているため、


 判断の遅延そのものが申請目的を失わせかねないこと。


 そして。


 申請に対して、


 相当の期間を経過してなお何らの行為もなされていない。


 その状態を放置しないでほしい。


「受理します」


 沢渡課長は言いました。


「お願いします」


「二十日以内です」


「覚えてます」


「朝比奈さんが忘れそうなので」


「そこまで忘れません!」


「三か月と六十日はよく混乱しているようですが」


「なぜ知ってるんですか!」


「相馬さんが」


 私は横を見ました。


 相馬先輩が煙草をくわえたまま天井を見ています。


「先輩」


「何だ」


「個人情報」


「未来人情報だ」


「もっと駄目でしょう!」


 沢渡課長が、ほんの少し笑いました。


 提出から八日後。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『北村です』


「あっ」


 声が違いました。


 前より少し明るい。


『市役所から連絡がありました』


「処分、出ました?」


『はい』


 私は立ち上がりました。


「どうでした?」


 一秒。


 長く感じました。


『条件付きですけど、承認です』


「……よし」


 思わず小さく拳を握りました。


 相馬先輩がこちらを見る。


『排水の位置を少し変えるのと、消火器を追加することになりました』


「それで営業できるんですね」


『はい』


『来週から』


 来週。


 三か月近く止まっていた店が。


 来週。


 動き出す。


「よかった……」


 それしか出ませんでした。


『それと』


「はい」


『市役所の方が謝ってくれました』


「え?」


『確認に時間をかけすぎましたって』


 電話を切ったあと。


「承認?」


 相馬先輩が聞きます。


「条件付きで」


「そうか」


「八日でした」


「何が」


「異議申立て出してから」


「急に仕事したな」


「先輩」


「何だ」


「言い方」


「事実だろ」


 そこへ片桐所長が奥から出てきました。


「理由は」


「関係部署への正式照会をすぐ回したら、三日で回答が揃ったそうです」


 相馬先輩が目を細めました。


「二か月止めて、三日か」


「……はい」


「行政ってのは怖えな」


「何がです?」


「締切がねえ仕事だ」


 なるほど。


 それは確かに怖い。


 急がなくてもいい仕事は、


 誰かが急がせない限り、


 ずっと急がれないことがあります。


 片桐所長が言いました。


「異議申立てで許可になったわけじゃない」


「はい」


「そこを間違えるな」


 私は頷きました。


 不作為について異議申立てをしたから、


 自動的に承認になったわけではない。


 市は審査した。


 必要な条件をつけた。


 そのうえで承認した。


 不服申立てがしたのは、


 結論を決めたことではなく。


 止まっていた行政を、


 動かしたこと。


「……なるほど」


 私は呟きました。


「不作為を争うって」


「何だ」


「『許可しろ』っていうより」


 少し考えます。


「『答えを出せ』なんですね」


 所長が頷きました。


「まずはな」


 まずは。


 その言葉が引っかかりました。


 未来の法律なら、


 そこからもう一段。


 審査庁の立場によっては、


 処分すべき旨を命じたり、


 不作為庁自身が処分したりできる。


 昭和の制度より、


 救済を一歩前へ進めた仕組み。


 私は未来の第四十九条を思い出しました。


 昔の制度の不便さ。


 救済の弱さ。


 複雑さ。


 そういう積み重ねの先に、


 法律は少しずつ形を変える。


 転生前。


 改正前。


 改正後。


 覚えることが増えて最悪。


 としか思っていませんでした。


 すみません。


 法改正。


 ちゃんと理由がありました。


 その日の夕方。


 事務所の戸が開きました。


「こんにちは」


 北村さんです。


 両手に大きな紙袋を持っています。


「どうしたんです?」


「試作品」


「試作品?」


「仮設店舗で売るもの」


 紙袋を開く。


 コロッケ。


 唐揚げ。


 卵焼き。


 煮豆。


 相馬先輩が立ちました。


「北村さん」


「はい」


「異議申立てという制度は素晴らしいと思う」


「先輩、食べ物で法評価を変えないでください」


「変えてねえ」


「今ものすごく変わりましたよ」


 北村さんが笑いました。


「これ、駅前でまた売れるんですね」


「はい」


「来週から」


「はい」


 北村さんは少しだけ目を伏せました。


「三か月、長かったなあ」


 その言葉には。


 喜びと一緒に、


 戻ってこない時間も入っていました。


 お盆の注文。


 失った売上。


 常連客。


 三か月は、


 承認が出たから消えるわけではない。


 でも。


 これ以上、


 増えずに済む。


「朝比奈さん」


「はい」


「私ね」


 北村さんは言いました。


「役所から断られたら困るって思ってたんです」


「はい」


「でも、何も言われないほうが、もっと困るんですね」


 私は頷きました。


「そうかもしれません」


 断られれば。


 理由を聞ける。


 争える。


 次を考えられる。


 でも。


 沈黙は、


 人を待たせる。


 だから法律は、


 沈黙にも名前をつけた。


 不作為。


 そして。


 名前がつけば、


 争える。


「こはる」


 所長が言いました。


「今日の教訓は」


 また来た。


 突然始まる片桐口頭試験。


 私は少し考えました。


「役所は、不許可だけが人を困らせるんじゃない」


「うん」


「決めないことも、人を困らせる」


「それで?」


「だから」


 私は受付票を見ました。


「『まだ何も決めていません』は、役所が何もしなくていい理由にはならない」


 所長が頷きます。


「それでいい」


 その横で。


 相馬先輩がコロッケを二個取っていました。


「先輩」


「何だ」


「一人一個じゃないですか」


「そんな処分は聞いてねえ」


「今決めます」


「俺は不服だ」


「却下」


「理由は」


「人数に対して個数が足りません」


「書面で示せ」


「面倒くさい!」


 北村さんが吹き出しました。


 片桐所長まで、


 コロッケを一個取りながら言います。


「こはる」


「はい」


「相馬の申立てに対して、何らかの行為をしろ」


「じゃあ返してください」


「嫌だ」


「先輩!」


「処分した」


「ただ食べただけでしょう!」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 不作為についての異議申立て。


 その日の私の理解は、


 たぶんこれで十分でした。


 行政が答えないなら。


 いつまでも、


 黙ったままにはさせない。


 法律は、


 役所に正しい答えを強制する魔法ではありません。


 けれど。


 少なくとも、


 答えを出さずに人の時間だけを使い続けることを、


 当たり前にはしない。


 制度の言葉は冷たい。


 不作為。


 異議申立て。


 二十日。


 でも。


 人情に訴えて、


 「早くお願いします」


 と言い続けるより。


 冷たい数字を一本置くほうが、


 人の暮らしを動かすことがあります。


 北村惣菜店は、


 来週また開きます。


 その事実だけで。


 今日の「二十日」という数字は、


 私には少しだけ、


 温かく見えました。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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