[行政不服審査法48条・不利益変更の禁止]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、どら焼きの皮の匂いが残っていました。
正確には。
三田村さんが差し入れてくれたどら焼きを、相馬先輩が二個食べた痕跡が残っていました。
「先輩」
「何だ」
「一人一個じゃなかったんですか」
「誰が決めた」
「私です」
「無効だな」
「なぜ」
「権限がない」
「行政法でお菓子を奪わないでください」
相馬先輩は悪びれもせず、お茶をすすりました。
私は最後の一個を自分の机へ避難させます。
その横にはノート。
昨日の三田村さんの営業停止処分について、もう一度整理するためです。
表紙を開く。
最初の一行に、大きく書きました。
――不利益変更の禁止。
現代の行政不服審査法なら、第四十八条。
でも。
ここは昭和六十三年。
そのまま「第四十八条!」と叫ぶと事故ります。
私はその横に、さらに大きく書きました。
――時代を確認!
「何だそれ」
相馬先輩が覗き込みます。
「自戒です」
「何の」
「未来の条文番号を昭和に持ち込まないための」
「また訳の分からんこと言ってんな」
訳は分からなくても、
私には切実です。
現代法では。
不利益変更の禁止は第四十八条。
審査請求人に不利益になるように、処分を変更することはできない。
分かりやすい。
営業停止一か月を争った結果、
「じゃあ二か月にします」
とはできない。
ところが昭和六十三年の旧法は、制度の組み方自体が違います。
審査請求と異議申立てが併存。
三田村さんの場合は、
処分庁自身に見直しを求める異議申立てでした。
旧法では、その異議申立てについて、
処分庁が処分を変更するとき、
異議申立人に不利益な変更はできない。
そう定められています。
「つまり」
私は鉛筆を立てました。
「昨日、保健衛生課の野口さんが言った――」
争うなら、
七日の営業停止が、
もっと重くなるかもしれませんよ。
「これは、そのままでは駄目だった」
「そういうことだ」
片桐所長が帳簿をめくりながら答えました。
「不服申立てをためらわせる説明にもなる」
「はい」
私はノートに書きます。
七日間の営業停止。
↓
異議申立て。
↓
三日間に変更。
これはできる。
申立人に有利な変更だから。
反対に、
七日間。
↓
異議申立て。
↓
十四日間。
「これは?」
相馬先輩が聞きました。
「できません」
「三十日は?」
「もっと駄目です」
「半年」
「店が死にます!」
「そうじゃなくて法律上」
「駄目です!」
当たり前です。
でも。
試験では、こういう単純な形がよく狙われます。
不服申立てで処分を変更できる。
だから、
軽くも重くもできる。
――ではない。
変更できるとしても、
申立人に不利益な方向には変更できない。
ここが芯です。
「所長」
「何だ」
「そもそも、なんでこんな決まりが必要なんですか」
「考えろ」
ですよね。
聞けば答えが降ってくる。
そんな優しい事務所ではありません。
私は少し考えました。
三田村さんの顔を思い出します。
七日間の営業停止。
その期間が重すぎると思っている。
でも。
申し立てた結果、
一か月になるかもしれない。
そう言われた。
だから、
異議申立てを諦めようとした。
「……不服申立てを安心して使わせるため」
私は言いました。
片桐所長がこちらを見ます。
「続けろ」
「もし申立てた結果、元より重い処分になる可能性があるなら」
「うん」
「みんな怖くて申し立てなくなる」
「そうだ」
それです。
制度として、
不服がありますか。
なら申し立ててください。
と道を用意しておきながら。
ただし、
申し立てたらもっと悪くなるかもしれません。
と言われたら。
その道は誰も歩けません。
「要するに」
私はノートへ書きました。
――不利益変更の禁止は、不服申立てを使った者に対する“報復的不利益”を防ぐだけではない。
そこで相馬先輩が言いました。
「待て」
「はい」
「『報復』って書くと狭くならねえか」
私は止まりました。
「あ」
「役所に嫌がらせする気がなくても、結果として不利益に変更するのが駄目なんだろ」
「そうですね」
大事です。
行政庁が、
この野郎、逆らいやがって。
と怒ったときだけ禁止されるわけではありません。
悪意がなくても。
公平に全部見直したら、
実はもっと重い処分が妥当でした。
そう判断したとしても。
その不服申立ての中で、
申立人に不利益になるよう処分を変更することはできない。
「じゃあ書き直します」
私は線を引きました。
――申立てへの報復だから禁止なのではない。申立ての結果として、原処分より不利益な変更をすること自体が禁止される。
「それならいい」
相馬先輩が言います。
「珍しく受験指導が細かいですね」
「お前が雑だからだ」
「ぐっ」
反論できません。
私は次の見出しを書きました。
――そもそも『不利益』とは何か。
「営業停止七日が十四日になる」
「不利益だな」
「七日が三日になる」
「利益だな」
「営業停止七日を、営業停止七日プラス罰金みたいな別の負担に変える」
「少なくとも本人にとって重くなってるな」
「じゃあ」
私は鉛筆を回しました。
「営業停止七日を、営業停止三日だけど別の条件を付ける、とかは?」
相馬先輩が眉を上げました。
「簡単に日数だけ比べる話じゃなくなるな」
「ですよね」
ここで大事なのは、
形式ではなく、
申立人にとって実質的に不利益な変更かどうか。
処分名が変わった。
数字が変わった。
それだけで機械的に決まるわけではありません。
とはいえ。
行政書士試験で典型的に問われるのは、
もっと単純です。
営業停止一か月。
審査請求。
営業停止二か月へ変更。
これはできない。
昨日の三田村さんなら、
七日。
異議申立て。
十四日。
これはできない。
「試験問題だと」
私は言いました。
「ものすごく簡単なのに」
「現場だと怖いだろ」
相馬先輩が言いました。
「はい」
本当に。
四択なら一秒。
現場では、
一週間か一か月か。
店を開けられるか。
従業員に給料を払えるか。
そういう話になる。
数字の後ろに人の暮らしがつくと、
条文の意味が急に重くなります。
次。
私はノートに赤い線を引きました。
――重要。
不利益変更禁止は、
「何があっても原処分より重い処分を未来永劫できない」
という意味ではない。
「ここ、昨日も出ましたね」
「ああ」
三田村さんの事件で、
保健衛生課の野口さんは言いました。
新たな事情が判明した場合は――。
相馬先輩がすぐに、
話を混ぜるな。
と切った。
あれです。
「先輩」
「何だ」
「もう一回、整理していいですか」
「勝手にしろ」
「昨日の七日間の営業停止を、異議申立ての結果として十四日に変更する」
「駄目」
「じゃあ、その後まったく別の日に、新しい食中毒事故が起きた」
「それは別件だ」
「その新しい事実について、法令に基づいて別の処分をする」
「この禁止だけで全部止められる話じゃねえ」
「はい」
つまり。
不利益変更の禁止が守るのは、
不服申立てをしたことで、
その不服申立ての結論として、
原処分を申立人に不利益な方向へ変更されないこと。
新たな違反。
別個の事実。
別の法的根拠。
それに基づく新しい処分まで、
永久に封じる制度ではありません。
「ここを勘違いすると」
私は言いました。
「一回不服申立てをした人は、その後どんな違反をしても元より重くできない、みたいな無敵状態になりますね」
「ゲームじゃねえんだぞ」
「法律無双」
「やめろ」
もちろん、
そんな制度ではありません。
不利益変更禁止は、
申立人に永久の特権を与えるものではない。
あくまで、
不服申立てという救済手続を安心して利用するための保障です。
「じゃあ次」
私はノートに、
――棄却・却下との違い。
と書きました。
相馬先輩が嫌そうな顔をします。
「また増えたな」
「試験で混ざるんです」
「言ってみろ」
「まず却下」
不服申立て自体が、
法定期間を過ぎている。
申立適格を欠く。
その他、
不適法。
そういう場合。
中身に入らず、
門前払い。
「次、棄却」
手続としては適法。
でも審理した結果、
申立てに理由がない。
だから原処分を維持する。
「そして認容」
申立てに理由がある。
原処分を取り消す。
または、
制度上可能なら変更する。
「で」
相馬先輩が言いました。
「不利益変更禁止が問題になるのは?」
「処分を変更する場面」
「そうだ」
たとえば。
三田村さんの異議申立てを審理した。
結果。
七日は重すぎる。
なら、
三日に変更する。
これは申立人に有利。
できる。
一方。
審理してみたら、
むしろ七日では軽すぎた。
だから十四日にする。
これは申立人に不利益。
できない。
「じゃあ」
相馬先輩が言いました。
「七日のまま維持するのは?」
「棄却ならあり得ます」
「申立てした意味ねえじゃん」
「結果的には変わらないこともあります」
「それでも申し立てられる制度であることが大事ってことか」
「そうです」
不利益変更禁止とは、
必ず処分を軽くします、
という約束ではありません。
悪くはしません。
という保障です。
この差は大きい。
「なるほど」
私は自分で言ってから、
ノートへ書きました。
――勝たせる制度ではない。悪化させない制度。
「覚えやすいな」
「ですよね」
「珍しく」
「余計な一言!」
そこで片桐所長が、
帳簿から顔を上げました。
「こはる」
「はい」
「旧法ではどうなる」
来ました。
昭和六十三年問題。
私は姿勢を正します。
「旧行政不服審査法では、不服申立てに審査請求と異議申立てがありました」
「うん」
「処分庁に上級行政庁がある場合は、原則としてその上級行政庁への審査請求」
「うん」
「上級行政庁がない場合などには、処分庁自身への異議申立て」
「うん」
「三田村さんの件は、後者」
「そうだ」
そこで私はノートを左右に分けました。
左。
昭和六十三年・旧法。
右。
現代法。
左側には、
審査請求。
異議申立て。
再審査請求。
そして右側には、
原則として審査請求へ一本化。
「これですよ」
私は言いました。
「現代人の私が毎回こけるところ」
「勝手にこけてろ」
「冷たい!」
旧法では、
審査請求について、
審査庁が処分庁の上級行政庁である場合には、
一定の場合に処分を変更することができました。
ただし、
審査請求人に不利益な変更はできない。
そして異議申立てについても。
申立てに理由がある場合、
処分庁は処分を取り消したり変更したりできる。
ただし、
異議申立人に不利益な変更はできない。
「つまり」
私は言いました。
「旧法にも、不利益変更を防ぐ仕組みはちゃんとある」
「当たり前だ」
「でも条文の置き方が現代と違う」
「そこだな」
旧法では、
審査請求と異議申立てが別々に組み立てられています。
だから、
現代法第四十八条だけ暗記して、
昭和六十三年にそのまま持ってくると危ない。
「三田村さんの場合」
私は指で左側を叩きました。
「異議申立てなので、旧法の異議申立てについての決定の規定を見る」
「そうだ」
処分庁は、
異議申立てに理由があれば、
処分を全部または一部取り消し、
あるいは変更できる。
ただし、
異議申立人に不利益な変更はできない。
つまり。
三田村さんの七日間の営業停止を、
三日にすることはできる。
十四日にすることはできない。
「結論自体は現代と同じ方向ですね」
「ああ」
「でも、そこへ至る制度の道筋が違う」
「それを混ぜるな」
「はい」
私は大きく、
――結論が似ていても、条文構造は時代で違う。
と書きました。
◇
「じゃあ現代法」
私は右側へ移ります。
平成二十六年の全部改正後。
原則として、
不服申立ては審査請求へ一本化。
現代の行政不服審査法第四十八条は、
審査庁が、
審査請求人の不利益に処分を変更することを禁止しています。
「だから現代の試験なら」
私は言いました。
「営業停止一か月について審査請求した結果、二か月に変更した、という肢が出たら」
「誤り」
「即答ですね」
「お前が簡単だって言ったんだろ」
そうでした。
ただし。
現代法の話をするなら、
もう一つ忘れてはいけません。
審理員。
行政不服審査会等への諮問。
「出た」
相馬先輩が言います。
「未来の役人」
「審理員です」
「何が違う」
「現代では、原則として、処分に関与していない職員が審理員として審理手続を担当する仕組みがあります」
「昭和には?」
「ありません」
「じゃあ今は忘れろ」
「法理編なので比較します!」
旧法の異議申立て。
処分した行政庁自身が、
その処分を見直す。
三田村さんの事件でも、
まさにそうでした。
処分した側へ、
その処分は重すぎませんか。
と異議を申し立てる。
これは迅速に自己修正できる利点もあります。
でも。
申立人からすれば、
自分で決めた人に、
自分の決定を採点し直してください。
と言う構造です。
「昨日の野口さんみたいに」
私は言いました。
「『争うならもっと重くなるかも』って説明されたら、なおさら怖い」
「そうだな」
「だから不利益変更禁止は、旧法でもかなり大事ですね」
「処分庁自身に申し立てるなら、なおさらな」
相馬先輩のその一言に、
私は鉛筆を止めました。
そうか。
確かに。
旧法の異議申立ては、
処分庁そのものに見直しを求めます。
だからこそ。
申し立てたせいで処分を重くされない。
その保障がなければ、
申立人はとても使えません。
「現代法で制度が改められた理由が」
私は言いました。
「また少し見えました」
「どういう意味だ」
「旧法では、異議申立てと審査請求が併存していて分かりにくい。それに、処分庁自身が審査する構造もある」
「ああ」
「現代では原則として審査請求へ一本化して、審理員制度も導入した」
「手続の分かりやすさと公正さを高めたってことか」
「はい」
そして、
不利益変更禁止も残っている。
つまり。
制度の形が変わっても、
救済を求めた者を、
その救済手続によってさらに不利にしない。
そこは大事な原則として続いている。
「次」
私はさらにページをめくりました。
「まだあんのか」
「あります」
「どら焼き食わせろ」
「私のです」
「権利を主張するな」
「所有権です」
「行政法から民法に逃げやがった」
逃げてません。
守っているだけです。
私は見出しを書きます。
――不利益変更禁止と職権審理。
「これも混同しやすいです」
「何が」
「行政不服審査って、申立人が言ったことだけを見るわけじゃないですよね」
「ああ」
「必要な範囲で、行政側が資料を調べたり、事実関係を確認したりする」
「それが?」
「じゃあ調べた結果、申立人が気づいてなかった不利な事情まで出てきたら?」
相馬先輩が笑いました。
「さっきの話に戻ったな」
「そうです」
審理の中で、
行政が広く事情を調べること自体はあり得る。
でも。
その結果、
もっと重い処分が妥当だったと分かった。
だから、
この不服申立ての裁決や決定で、
原処分より重く変更します。
とはできない。
「つまり」
私は言いました。
「審理で不利な事情を見つけることと、不利益に変更できることは別」
「そうだ」
「調べるな、という規定じゃない」
「そういうことだ」
これも大事です。
不利益変更禁止は、
審査庁の目を塞ぐ規定ではありません。
事実を調べる。
法律関係を確認する。
処分が違法・不当かを見る。
その上で。
変更するなら、
申立人に不利益な方向へは行けない。
そこにガードレールがある。
私はここで、
三田村さんの事件をもう一度時系列にしました。
一。
保健衛生課が七日間の営業停止処分。
二。
三田村さんは七日は重いと考える。
三。
市役所へ相談。
四。
職員から、
不服申立てをするともっと重くなる可能性もある、
と説明される。
五。
怖くなって申立てを諦めかける。
六。
片桐事務所へ相談。
七。
不利益変更禁止を確認。
八。
安心して異議申立て。
九。
違反の有無そのものだけでなく、
改善状況、
健康被害の有無、
過去の処分歴、
七日という期間の相当性を整理。
十。
七日から三日に変更。
「こうして見ると」
私は言いました。
「不利益変更禁止だけで三日になったわけじゃないですね」
「当たり前だ」
片桐所長が言いました。
「禁止規定は、申立人を勝たせる根拠ではない」
「ですよね」
三田村さんの処分が三日になった理由は、
改善状況などを改めて評価した結果。
不利益変更禁止は、
七日を三日にするための直接の魔法ではありません。
そうではなく。
七日が十四日になるのを恐れず、
七日は重すぎないか。
と審査を求めることを可能にした。
「つまり」
私はノートに書きました。
――不利益変更禁止は“攻撃の剣”ではなく、“申立ての足場”。
「今日は比喩がまともだな」
「いつもまともです」
「昨日、自動販売機とか言ってたぞ」
「あれも分かりやすかったでしょう」
無視されました。
「試験で狙われるところ、まとめます」
私は姿勢を正しました。
相馬先輩が面倒そうにこちらを見る。
「一つ目」
処分を変更できる場合でも、
審査請求人の不利益になるような変更はできない。
「二つ目」
原処分より軽くする変更は可能。
三田村さんなら、
七日を三日に変更。
「三つ目」
不利益変更禁止は、
申立てをすれば必ず有利な結果になる、
という意味ではない。
申立てに理由がなければ、
原処分が維持されることもある。
「四つ目」
別の新しい違反や別個の法的根拠に基づく新たな処分まで、
一切禁止する規定ではない。
「五つ目」
旧法と現代法を混ぜない。
昭和六十三年には、
異議申立てと審査請求が併存。
現代は原則審査請求へ一本化。
「六つ目」
現代法では第四十八条。
でも昭和六十三年の事件で、
その条文番号をそのまま口に出さない。
「最後だけお前専用じゃねえか」
「転生受験生には最重要です!」
本当に。
過去へ転生すると、
憲法や民法以上に行政法が怖い。
制度改正が多い。
名前が変わる。
期間が変わる。
手続が変わる。
昨日までの正解が、
時代をまたいだ瞬間に誤答になる。
「ちなみに期間は?」
相馬先輩が不意打ちしてきました。
「旧法六十日!」
「現代は」
「原則三か月!」
「審理員は」
「現代!」
「昭和六十三年は」
「いない!」
「よし」
「口頭試験ですか!」
でも、
ちょっと嬉しい。
前なら混乱していたところが、
少しずつ一本につながってきています。
私はノートの中央に、
大きく二本の矢印を書きました。
原処分。
七日間営業停止。
そこから。
上向きの矢印。
三日。
取消し。
申立人に有利な方向。
そして。
下向きの矢印。
十四日。
三十日。
申立人に不利益な方向。
下向きの矢印には、
大きなバツ。
「分かりやすいだろ」
相馬先輩が言います。
「え?」
「不利益変更禁止」
「どうしてです?」
「不服申立ては、崖の上から飛び降りる手続じゃねえってことだ」
私は瞬きしました。
「先輩」
「何だ」
「今日、比喩いいですね」
「うるせえ」
でも確かに。
不服申立てをする。
その瞬間、
今より悪い場所へ落ちるかもしれない。
そんな制度ではない。
少なくとも、
その申立ての結果として、
原処分より不利益に変更されることはない。
だから、
安心して見直しを求められる。
制度の入口に、
手すりがついている。
そんな感じです。
そこで片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい」
「不利益変更禁止の理由を一言で言え」
来ました。
所長の最後の確認。
私は少し考えました。
「不服申立てをしたことで、かえって不利になる危険があると、救済制度を安心して使えないから」
「それでいい」
「では、効果は」
今度は相馬先輩。
「審査庁などが原処分を変更できる場合でも、申立人に不利益な方向への変更はできない」
「三田村さんなら」
「七日を三日にはできる。七日を十四日にはできない」
「絶対に将来十四日にできない?」
「違います」
私は即答しました。
「新たな別個の違反に基づく新しい処分まで禁止するわけじゃない」
「よし」
「旧法では?」
「異議申立てと審査請求が併存。三田村さんの件は処分庁自身に対する異議申立て」
「現代は?」
「原則として審査請求に一本化。不利益変更禁止は現行法第四十八条」
「期間」
「昭和六十三年の旧法は原則六十日。現代は原則三か月」
「審理員」
「現代にはある。昭和六十三年にはない!」
「お前、最後だけ声でけえな」
「ここ何回も間違えそうになるんですよ!」
片桐所長が、
ほんの少しだけ笑ったように見えました。
私はノートの最後のページを開きました。
――一行の覚え書き。
今日の一行。
少し考えます。
昨日、
三田村さんは言いました。
それなら、
ちゃんと聞いてほしいです。
うちが悪かったところは認めます。
でも、
直したところも見てほしい。
あの言葉が残っています。
不利益変更禁止は、
悪いことをした人を無条件で守る制度ではない。
行政処分を無力にする制度でもない。
違反があれば、
処分はあり得る。
不服申立てに理由がなければ、
処分はそのまま残る。
ただ。
処分を受けた人が、
これは重すぎないか。
事実が違っていないか。
手続がおかしくないか。
そう言ったとき。
「そんなこと言うなら、もっと重くするぞ」
という恐怖を、
制度の外へ追い出す。
それが不利益変更禁止。
私は書きました。
――不服を申し立てた者を、その不服申立てで今より悪い場所へ落としてはいけない。
「長い」
相馬先輩が言いました。
「またですか」
「一行にしては長い」
「じゃあ縮めます」
私は下にもう一度書きました。
――争ったせいで、重くしてはいけない。
「短すぎる」
「どっちなんですか!」
「試験用なら、もう少し正確にしろ」
「分かりましたよ!」
私は三度目を書きます。
――処分を見直しても、申立人の不利益には変更しない。
相馬先輩が腕を組みました。
「まあ、それだな」
「やっと通った」
私は鉛筆を置きました。
窓の外では、
駅前商店街の灯りが一つずつ点き始めています。
三田村さんの店も、
あと数日で営業を再開します。
三日間の営業停止。
処分そのものは消えませんでした。
店にも直すべきところがあった。
役所にも、
衛生を守る責任があります。
だから、
処分を受けた側が必ず正しい。
そんな単純な話ではない。
でも。
行政が正しいかもしれない。
それでも、
処分を受けた人には、
もう一度見てほしい、
と言う道が必要です。
その道を歩いたせいで、
元より重い荷物を背負わされるなら。
誰も歩かなくなる。
法律の言葉は冷たい。
不利益。
変更。
禁止。
たった三つの漢字の塊です。
でも。
その冷たさが、
役所の機嫌や感情を切り離してくれる。
不服を言ったから。
面倒をかけたから。
処分に逆らったから。
そんな理由で、
救済を求めた人を悪い場所へ落とさせない。
冷たい制度だからこそ、
人が安心して声を上げられることがある。
私はノートを閉じました。
「さて」
相馬先輩が立ち上がります。
「帰るぞ」
「待ってください」
「何だ」
私は机の上を見ました。
どら焼き。
ない。
「……先輩」
「何だ」
「私のどら焼きは?」
「食った」
「え?」
「食った」
「私の最後の一個ですよ!」
「ああ」
「返してください!」
「もう無理だ」
「じゃあ代わりを買ってください!」
「却下」
「不利益変更です!」
「行政処分じゃねえ」
「そこだけ急に法律へ戻るな!」
奥で片桐所長が帳簿を閉じました。
「相馬」
「はい」
「明日、買ってこい」
相馬先輩が止まります。
「所長」
「二個」
「増えてません?」
私は顔を上げました。
「二個!」
「喜ぶな」
「一個失って二個になる。利益変更ですね!」
「その言葉はない」
「でも利益です!」
相馬先輩が深いため息をつきます。
「じゃあ一個でいい」
「えっ」
「お前に有利すぎる」
「一回二個って言ったでしょう!」
「変更だ」
「不利益変更!」
「だから行政処分じゃねえ!」
片桐所長が、
珍しく声を出して笑いました。
どうやら。
不利益変更禁止という頼もしい盾も、
どら焼きの個数を守るところまでは、
まだ適用範囲を広げてくれないようです。
でも。
私はノートの最後をもう一度開きました。
そして、
今日の一行に丸をつけます。
――処分を見直しても、申立人の不利益には変更しない。
昨日までなら、
試験のための暗記でした。
今日なら分かります。
あれは、
不服を言う勇気を守るための一行です。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




