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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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209/272

[行政不服審査法48条・不利益変更の禁止]現場編 「文句を言うなら、もっと重くなるかもしれませんよ」の嘘。七日の営業停止を人質にする役所と、不服申立てを安心して使うための一方通行

挿絵(By みてみん)

 役所に文句を言ったせいで、処分がもっと重くなる。


 そんなことを言われたら。


 たいていの人は、黙ります。


 七日なら七日で我慢しよう。


 一か月にされたら困る。


 店を潰されたらもっと困る。


 ――だから、不服申立てなんてしないほうがいい。


 もし本当にそんな制度なら。


 不服申立ては、救済手続ではありません。


 罰ゲームです。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の午後。


 私は、一枚の営業停止命令書と、一箱の焼き菓子を交互に見ていました。


「先輩」


「何だ」


「これ、食べてもいいんでしょうか」


「菓子か」


「はい」


「食えばいいだろ」


「でも持ってきた人、飲食店の営業停止くらってますよ」


「焼いたのは処分前だ」


「そういう問題?」


「腹壊したら労災だ」


「絶対違います」


 相談机の向こうで、


「はは……」


 と力なく笑ったのは、


 洋食店『キッチンあおば』の店主、


 三田村健二さん。


 五十二歳。


 駅前商店街で二十年以上、オムライスとハンバーグを作ってきた人でした。


 大きな体。


 太い指。


 でも今日は、その指がずっと膝の上で落ち着きません。


 机の上にあるのは、市から届いた処分通知。


 ――食品衛生上の管理不備を理由として、七日間の営業停止を命ずる。


 私はもう一度読みました。


「七日間……」


「はい」


 三田村さんが頷きます。


「冷蔵庫の温度記録が抜けていたのと、仕込み場の保管方法で指摘を受けまして」


「食中毒は?」


「出てません」


「健康被害は?」


「それもありません」


「以前に同じ違反は?」


「口頭注意は一度ありました。でも営業停止は初めてです」


 なるほど。


 処分が適法かどうか。


 七日という期間が妥当かどうか。


 そこは記録を見ないと分からない。


 ただ。


 三田村さんが今日ここへ来た理由は、別でした。


「本当は、異議を申し立てようと思ったんです」


 その言葉に、私は顔を上げました。


「思った?」


「昨日、市役所へ聞きに行きましてね」


「はい」


「そうしたら担当の人に――」


 三田村さんは一度、唇を湿らせました。


「『争うのは自由ですが、改めて審査すれば、七日より重くなる可能性もありますよ』って」


 私は止まりました。


 相馬先輩も止まりました。


 部屋の時計だけが、


 カチ。


 カチ。


 と進みます。


「……何て言われたんです?」


「だから」


 三田村さんが苦く笑います。


「一週間なら我慢したほうがいいのかなって」


 私は通知書へ視線を落としました。


 不服申立て。


 処分を受けた人が、


 その処分はおかしくないか。


 重すぎないか。


 事実認定は合っているか。


 手続に問題はないか。


 と、行政に見直しを求める制度。


 なのに。


 使ったら処分がもっと重くなるかもしれない。


 そう脅されたら。


 誰が使うんですか。


 自動販売機の「返却レバーを押すと追加料金が発生する場合があります」くらい意味が分かりません。


「その職員、名前は?」


 相馬先輩が聞きました。


「名札には野口さんと」


「部署は?」


「保健衛生課です」


「言い方は正確に覚えてるか」


「はい。『七日で済んでいるものが、見直しの結果もっと重くなる可能性も否定できません』と」


 相馬先輩が低く息を吐きました。


「済んでいる、ねえ」


 嫌な言葉です。


 まるで七日間の営業停止が、


 役所からの温情で七日“だけ”になっているみたいです。


「三田村さん」


 片桐所長が口を開きました。


「処分そのものについて、何が納得できない」


「七日が長すぎると思っています」


「理由は」


「うちだけなんです」


 また来ました。


 このシリーズで何度も聞く、


 嫌な四文字。


 ――うちだけ。


「近くに同じような指摘を受けた店があるんです」


「どこです?」


「駅南の中華屋と、商店街の惣菜屋です」


「処分は?」


「中華屋は文書注意。惣菜屋は三日だったそうです」


「違反内容は同じですか」


「全く同じかは分かりません。ただ、冷蔵庫の温度記録と食材の保管について指摘を受けたと聞きました」


 私はメモしました。


 もちろん。


 他店が軽いから三田村さんも軽くしろ。


 そんな単純な話ではありません。


 違反回数。


 改善状況。


 危険の程度。


 検査結果。


 個別事情はいくらでも違う。


 でも。


 比較対象として調べる価値はある。


「もう一つ」


 三田村さんが言いました。


「七日止められると、今週末の商店街の催しに出られないんです」


「売上、かなり違います?」


「うちはあの日が大きいです」


 三田村さんは笑おうとして、失敗しました。


「娘が来年、専門学校に行くんですよ」


 そういう話は、


 法律の答案には書けません。


 でも現場では消えません。


 七日。


 ただの数字。


 けれど店にとっては、


 土曜日も。


 日曜日も。


 仕入れも。


 従業員の給料も。


 全部その中に入っています。


「異議を申し立てたい。でも」


 三田村さんが通知書を見ました。


「一か月にされたら、さすがに持たない」


 私はペンを止めました。


 そこです。


 処分に納得できない。


 でも争うと悪化するかもしれない。


 だから諦める。


 そんな恐怖を残したら、


 救済制度は紙に書いてあるだけになります。


 昨夜までだったら、


『不利益変更禁止』


 なんて文字を見ても、


 ああ、はいはい。


 審査請求人に不利益な変更はダメね。


 くらいで終わっていました。


 四択問題なら一秒です。


 でも今。


 目の前に、


 七日間の営業停止を握りしめて、


「これ以上重くされたら困る」


 と言っている人がいる。


 急に条文が起きました。


「所長」


 私は言いました。


「これ――」


「ああ」


「申立てをしたことを理由に、もっと重い処分に変えることはできませんよね」


 相馬先輩がこちらを見ます。


「言葉を雑にするな」


「はい」


「『申立てたから報復できない』だけじゃ足りねえ」


 分かっています。


 問題は、


 不服申立てを審理した結果として、


 原処分より申立人に不利益な内容へ変更できるのか。


 七日の営業停止について、


 重すぎる。


 と争った人に、


 では一か月にします。


 と言えるのか。


 答えは。


「できない」


 片桐所長が短く言いました。


 三田村さんが顔を上げました。


「え?」


「少なくとも、あなたがこの処分について不服申立てをした結果、その手続の中で七日を十四日、三十日と、あなたに不利益な方向へ変更することはできません」


「……本当ですか」


「本当だ」


 三田村さんの肩から、


 目に見えない何かが少し落ちました。


 相馬先輩が煙草を取り出します。


「じゃあ市役所へ行くぞ」


「早い」


「今日中に確認する」


「焼き菓子は?」


「帰ってからだ」


「そこは持っていかないんですね」


「役所に賄賂渡してどうする」


「言い方!」


 市役所二階。


 総務課。


 最近、私はこの階段を見るだけで、


 行政法の条文が脳内で勝手にページを開くようになりました。


 あまり嬉しくない成長です。


「またですか」


 沢渡課長は、


 今日も灰色の背広でした。


 この人、もしかして同じ服を十二着くらい持っているのでしょうか。


「またです」


 相馬先輩が言いました。


「今日は保健衛生課の処分」


「総務へ持ってくるということは、不服申立て絡みですね」


「話が早い」


「あなた方が来る理由が最近そればかりですから」


 信用されているのか。


 面倒がられているのか。


 たぶん両方です。


 そこへ、


 三十代後半くらいの職員が一人呼ばれてきました。


「保健衛生課の野口です」


 眼鏡をかけた、真面目そうな人です。


 三田村さんが昨日話した職員。


 相馬先輩が通知書を机に置きました。


「三田村健二さん。七日間の営業停止」


「はい」


「昨日、あんたが相談受けたな」


「受けました」


「何て説明した」


 野口さんは一瞬、沢渡課長を見ました。


「不服申立てをすることはできます、と」


「そのあとだ」


「……審査の結果によっては、処分について改めて検討される場合があります、と」


「七日より重くなる可能性があるとも言ったな」


 野口さんの表情が少し固まりました。


「一般論としてです」


「一般論?」


「再度判断する以上、すべての事情を確認しますから」


 私は思わず口を挟みました。


「でも、それを聞いた三田村さんは、不服申立てを諦めかけています」


「それはご本人の判断です」


 うわ。


 出ました。


 行政会話の最終兵器。


 ――ご本人の判断です。


 もちろん本人の判断です。


 でも。


 間違った前提を渡しておいて、


 その上で本人が選んだんだから知りません、


 では困ります。


「野口さん」


 私は言いました。


「七日の営業停止が重すぎるとして不服申立てをした人に対して、その不服申立ての判断で、たとえば三十日に変更することはできるんですか」


「それは……」


 野口さんが言葉を止めます。


 沢渡課長が私を見ました。


 ほんの少し。


 目つきが変わりました。


「朝比奈さん」


「はい」


「今日はそこですか」


「そこです」


「なるほど」


 この人の『なるほど』は怖い。


 剣豪が刀の柄へ手を置いたときくらい、


 場の空気が変わります。


「野口君」


「はい」


「不利益変更禁止の規定を確認したか」


「……」


 沈黙。


 確認してない。


 顔に書いてあります。


 相馬先輩が椅子の背へもたれました。


「ほらな」


「先輩」


「何だ」


「嬉しそうにしない」


「してねえよ」


 しています。


 ものすごくしています。


 沢渡課長は淡々と続けました。


「不服申立ては、申立人の救済のための制度です。その審理の結果として、原処分より申立人に不利益な方向へ変更することはできません」


 野口さんが答えます。


「しかし、新たな事情が判明した場合は――」


「話を混ぜるな」


 相馬先輩が切りました。


 低い声でした。


「別の事実に基づいて別の処分をする話と、この不服申立ての結論として元の処分を重くする話は別だろ」


 私は心の中で、


 そこ!


 と叫びました。


 大事です。


 不利益変更禁止は、


 何があっても未来永劫、三田村さんに七日より重い処分ができない、


 という魔法ではありません。


 別の違反が新たに見つかった。


 別の法的根拠で処分が必要になった。


 そんな場合まで一切行政の手を縛る話ではない。


 でも。


 今回の七日間の営業停止を不服申立てで争った結果として、


 その処分を申立人に不利な方向へ重く変更する。


 それはできない。


 そこをごちゃ混ぜにして、


「争うともっと重くなるかもしれませんよ」


 と説明したら。


 制度を使わせない圧力になってしまう。


 沢渡課長は野口さんを見ました。


「昨日の説明は訂正してください」


「ですが、私は脅す意図では――」


「意図は聞いていません」


 ぴしゃり。


 沢渡課長は感情で怒らない。


 だから逆に重い。


「住民がどう受け取るか以前に、制度説明として不正確です」


「……はい」


「不服申立てをした結果、処分がより重くなる可能性があると一般化して説明すべきではありません」


「分かりました」


 私は思わず沢渡課長を見ました。


 敵側のボスが味方を叱っている。


 いや。


 この人は最初から味方でも敵でもないのかもしれません。


 法理と証拠。


 それだけ。


 だから強い。


「で」


 沢渡課長が今度はこちらを見ます。


「三田村さんは不服申立てをするんですか」


「そのつもりです」


「七日間の営業停止処分について?」


「はい」


「主張は」


 来た。


 ここからです。


 不利益変更禁止がある。


 だから何でも勝てる。


 ではありません。


 それは、


 安心して争うための床です。


 その上で、


 七日が重すぎる理由を示さなければならない。


「まず処分基準を確認したいです」


 私は言いました。


「過去の違反歴、衛生上の危険性、改善状況が、七日という期間にどう反映されたのか」


「ほう」


「それから、同時期に類似の指摘を受けた事業者との扱いに差があるなら、その差がどんな事情によるものか」


「他店の処分内容は個人情報に関わります」


「分かっています。具体的な店の内部事情を全部出せとは言いません」


 私は通知書を指しました。


「でも少なくとも、三田村さん自身について、なぜ七日なのかは説明できますよね」


「それは当然です」


「再発ですか」


「過去に口頭指導があります」


「口頭指導一回で、今回直ちに七日?」


「それだけではありません」


「では、何があります?」


 野口さんがファイルを開きます。


「冷蔵設備内の温度管理記録の一部欠落。生肉と調理済み食品の区分管理に不備。それと――」


 ページをめくる。


「改善指示に対する確認時、完全な是正ができていなかった」


 三田村さんが眉を寄せました。


「待ってください」


「何です?」


「二回目に来たときは直してましたよ」


「完全ではありませんでした」


「どこが」


「保存容器の表示です」


「あれは翌日に全部貼り直しました」


「確認日はその前日です」


 話が少し見えてきました。


 争点は、


 違反があったかどうかゼロか百かではない。


 三田村さんにも不備はあった。


 でも、


 七日間の営業停止まで必要だったのか。


 改善状況をどこまで評価したのか。


 そこです。


 片桐所長が初めて口を開きました。


「営業停止七日の根拠資料を確認したい」


「基準表があります」


「見せられる範囲でいい」


「確認します」


「それと」


 所長が続けます。


「不服申立ての教示は」


 通知書の裏面。


 私はそこを開きました。


 申立先。


 期間。


 手続。


 記載があります。


 そして。


 昭和六十三年。


 また私の頭の中に未来が侵入してきます。


 三か月。


 審理員。


 行政不服審査会。


 待て私。


 帰れ未来。


 今は旧法。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「期間」


「六十日」


 即答。


 今日は間違えません。


「よし」


「成長しました」


「そこ褒めるところじゃねえ」


「転生者には難所なんです!」


 沢渡課長が眼鏡の奥から私を見ます。


「朝比奈さんは、ときどき法改正前後をごちゃ混ぜにしますね」


「気のせいです」


「三か月と言いかける顔を何度か見ています」


「顔で条文読まないでください」


「便利なので」


 何なんですか、この人。


 片桐所長が軽く咳払いしました。


「本題」


「はい」


 戻ります。


 三田村さんの処分。


 処分庁。


 不服申立ての種類。


 申立期間。


 そして今回の核心。


 申し立てたことで、


 原処分より悪い位置へ落とされないこと。


「三田村さん」


 私は言いました。


「不服申立てをします」


「はい」


「ただし」


「はい」


「七日が必ず三日になるとは言えません」


 三田村さんは頷きました。


「分かっています」


「取消しになるとも限りません」


「はい」


「でも、『申し立てたら一か月にされるかもしれないから黙っておこう』と考える必要はありません」


 三田村さんの顔が、


 やっと少し上を向きました。


「それなら」


 彼は言いました。


「ちゃんと聞いてほしいです」


「何をです?」


「うちが悪かったところは認めます。でも、直したところも見てほしい」


 その言葉が、


 たぶん一番大事でした。


 処分を受けた人が全員、


 自分は何も悪くない。


 と叫んでいるわけではありません。


 悪かった。


 でも重すぎる。


 間違いは認める。


 でも事情も見てほしい。


 行政不服審査という制度は、


 そういう細い声も拾うためにあります。


 三日後。


 三田村さんの異議申立書が完成しました。


 片桐所長が余計な感情表現を削り、


 相馬先輩が保健衛生課から処分基準の説明を取り、


 私は日付を並べました。


 立入検査。


 指摘。


 改善。


 再確認。


 営業停止命令。


 そして、


 七日間という期間の相当性。


 主張したのは、


 違反が一切なかった、


 ではありません。


 改善措置の大部分が短期間に実施されていたこと。


 健康被害が発生していないこと。


 過去に営業停止処分歴がないこと。


 今回の不備の内容と七日間という期間の関係について、処分理由から十分に読み取れないこと。


 これらを踏まえて、


 処分期間が重すぎないか。


 再検討を求める。


 市役所へ提出すると、


 沢渡課長が受け取りました。


「受理します」


「お願いします」


 三田村さんが頭を下げます。


 すると沢渡課長は、


 横にいた野口さんを見ました。


「昨日の件を」


「はい」


 野口さんが三田村さんへ向き直りました。


「先日は、不服申立てについて不正確な説明をしました」


 三田村さんが目を瞬きます。


「不服申立てをした結果として、今回の営業停止処分が、あなたに不利益な方向へ変更されることはありません」


 野口さんは頭を下げました。


「申し訳ありませんでした」


 三田村さんは、しばらく黙っていました。


 それから。


「……それを先に聞きたかったです」


「はい」


 静かな一言でした。


 でも。


 ものすごく重かった。


 制度は、


 あるだけでは足りない。


 使っても報復されない。


 使ったせいで悪くならない。


 そこまで分かって初めて、


 人は安心して手を伸ばせます。


 それから十二日後。


 片桐行政書士事務所の電話が鳴りました。


「はい」


 相馬先輩が出ます。


「……ああ。……分かった」


 切る。


「どうでした?」


「変更」


「え」


 三田村さんも、その日は事務所に来ていました。


 相馬先輩がこちらを見る。


「営業停止、七日から三日」


 三田村さんが息を止めました。


「三日……?」


「改善状況を再評価したらしい」


「じゃあ」


「今週末の商店街の催しには間に合う」


 三田村さんは、


 何も言いませんでした。


 大きな手で顔を覆います。


「よかった……」


 それだけでした。


 私は胸の奥が少し熱くなりました。


 でも。


 片桐所長が言います。


「処分がなくなったわけではない」


 三田村さんは顔を上げました。


「はい」


「三日間は営業できない」


「はい」


「衛生管理も直せ」


「もちろんです」


「次は助けられんかもしれん」


「分かっています」


 三田村さんは深く頭を下げました。


「今度は、処分を争わなくていい店にします」


 いい言葉でした。


 勝った。


 負けた。


 だけではない。


 行政の処分にも理由がある。


 店側にも直すべきところがある。


 それでも。


 処分が重すぎれば、見直しを求められる。


 そして。


 その見直しを求めたこと自体を理由に、


 もっと悪い場所へ落とされることはない。


 申立ての出口で、


 申立人を待ち伏せしてはいけない。


 たぶん、


 不利益変更禁止って、


 そういう制度なのだと思います。


「これ」


 三田村さんが紙袋を持ち上げました。


「改めて持ってきました」


「焼き菓子!」


 私は思わず立ちました。


 相馬先輩が呆れます。


「お前、そこ今日一番反応いいな」


「違います。相談者さんの再出発を祝福しているんです」


「目が菓子見てるぞ」


「心は三田村さんを見ています」


「嘘つけ」


 三田村さんが笑いました。


「今日は営業停止中だから、うちで作ったものじゃないです」


「え?」


「駅前の和菓子屋さんで買ってきました」


 紙袋から出てきたのは、


 どら焼き。


「先輩」


「何だ」


「洋食屋さんから和菓子です」


「営業停止を守ってる証拠だろ」


「なるほど」


 法令遵守が差し入れにまで現れています。


「三日後には店を開けます」


 三田村さんが言いました。


「よかったら食べに来てください」


「行きます」


 私は即答しました。


「お前、今度は迷わねえな」


「オムライスですよ?」


「行政法より判断早えな」


「比較対象が悪いです」


 三田村さんが帰ったあと。


 私は机の上の処分通知を見ました。


 七日。


 それが三日になった。


 四日分。


 たった四日。


 でも。


 商店街の催しに間に合う。


 仕入れを無駄にせずに済む。


 客に店を開けられる。


 三田村さんにとっては、


 ただの数字ではありません。


「所長」


「何だ」


「不利益変更禁止って」


「ああ」


「申立人を勝たせる制度じゃないんですね」


「当然だ」


「でも、安心して争わせる制度なんですね」


 所長がこちらを見ました。


「そうだ」


「もっと悪くされるかもしれない、って怖がらなくていい」


「だから申立てができる」


 なるほど。


 法律は冷たい。


 七日。


 三日。


 変更。


 不利益。


 どれも人の顔をしていません。


 でも。


 冷たいルールだからこそ、


 行政側が、


 文句を言ったならもっと重くしてやる。


 とはできない。


 そこに感情を持ち込ませない。


 それが、


 人を守る。


「今日の教訓」


 私はノートの端に書きました。


 ――救済を求めた人を、救済手続のせいで悪い場所へ落としてはいけない。


「長い」


 相馬先輩が覗き込みます。


「じゃあ短くします」


 私は線を引いて、


 その下に書き直しました。


 ――不服を言ったら重くなる、では誰も不服を言えない。


「まあ、それなら分かる」


「珍しく褒めました?」


「気のせいだ」


「またそれ」


 そのとき。


 奥から片桐所長が言いました。


「こはる」


「はい」


「昨日出した帳簿、数字が一か所違う」


「え」


「やり直し」


「はい……」


「今日中」


「ええっ」


「不服か」


「あります」


「なら申し立てろ」


「申し立てたら仕事増えます?」


 所長が私を見る。


 一秒。


 二秒。


「増やさん」


 私は胸を張りました。


「不利益変更禁止ですね!」


「違う」


 即答。


 相馬先輩が吹き出しました。


「じゃあ何なんですか!」


「ただの業務指示だ」


「制度の保護範囲外!」


「当たり前だ」


 私は机に突っ伏しました。


 どうやら不利益変更禁止は、


 行政不服審査では頼もしい盾でも、


 片桐行政書士事務所の残業には、


 一ミリも効かないようです。


 それでも。


 机の隅には、


 三田村さんが置いていったどら焼きが三つ。


 私は一つを手に取りました。


「先輩」


「何だ」


「これ食べたら怒られます?」


「二個食ったら怒る」


「一個なら?」


「好きにしろ」


 私は包みを開きました。


 甘い匂いがします。


 七日が三日になる。


 その四日分だけ、


 一人の暮らしが元へ戻る。


 不服申立ては、


 行政に喧嘩を売る制度じゃない。


 おかしいと思った人が、


 怖がらずに、


 もう一度見てください、


 と言うための制度です。


 その声を上げたせいで、


 もっと重い処分を背負わされない。


 たったそれだけの決まりが、


 声を上げる勇気そのものを守っている。


 私はどら焼きを一口かじりました。


「……おいしい」


「帳簿」


「今やります」


「五分前も聞いた」


「今度こそです」


「信用ならんな」


「異議があります」


「棄却」


「また早い!」


「簡易迅速だ」


「公正もお願いします!」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 今日も不服申立ての理念だけは、


 実務より少し先を走っていました。

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