[行政不服審査法47条・事実上の行為についての認容裁決]現場編 「もう運びましたから」の罠。紙の処分では終わらない、市役所が握り続ける屋台を取り戻す“撤廃”という救済
役所の仕事は、紙だけでするとは限りません。
許可する。
不許可にする。
取り消す。
命令する。
そういうものなら、まだ分かりやすい。
紙があります。
日付があります。
処分名があります。
不服申立ての教示まで付いていることがあります。
でも。
役所が人の物を運んで、
倉庫へ入れて、
そのまま返さなかったら。
――それは、何を争えばいいのでしょう。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の朝、私は一台のリヤカーについて悩んでいました。
「先輩」
「何だ」
「行政法の教材に、リヤカーって出てきましたっけ」
「知らん」
「ですよね」
「何で朝からリヤカーの話してんだ」
「相談者が持ってきた写真に写ってるからです」
机の上。
白黒写真。
駅前通り。
古いアーケード。
その端に停められた、小さな木製の屋台。
二輪のリヤカーに箱を載せ、
横には赤い布の日よけ。
正面には、
――たいやき 七十円。
と手書きの札。
「七十円……」
私は呟きました。
「何だ」
「安いなあと」
「そこじゃねえだろ」
分かっています。
でも未来から来た人間としては、物価にいちいち心を揺さぶられるのです。
向かいの椅子には、一人の男性が座っていました。
森川辰夫さん。
五十八歳。
駅前で二十年以上、たいやきの屋台を引いてきた人です。
丸い顔。
太い指。
右手の人差し指には、火傷の跡。
見るからに、
鉄板と餡子で人生を作ってきた手でした。
「それで」
片桐所長が言いました。
「市が持っていったのは、いつです」
「一昨日です」
森川さんは答えました。
「朝、いつもの場所へ出したんです。そしたら市役所の人が来て」
「何人?」
「三人です。それとトラックが一台」
「何か書面は?」
「これを」
森川さんが、折り畳んだ紙を出しました。
私は受け取ります。
駅前環境整備事業に伴う物件撤去について。
駅前広場周辺の通行環境改善のため、道路上その他公共空間に置かれた物件について整理を実施する。
期限までに自主撤去されない物件は、市において移動することがある。
そんな内容でした。
対象物。
屋台一台。
「これ、いつ届きました?」
「十日前です」
「その後、市役所に相談は?」
「行きました」
「何て?」
「駅前整備だから仕方ないって」
「代わりの場所は?」
「探してる最中だって」
「それで一昨日?」
「はい」
森川さんは膝の上で拳を握りました。
「朝九時ごろです。市の人が来て、今日からここでは商売できませんって」
「それで屋台を?」
「持っていきました」
「抵抗は?」
「しましたよ」
森川さんの声が少しだけ強くなりました。
「商売道具なんです。鉄板も型も、餡子を入れる箱も、全部あれに載ってる」
「今、屋台はどこに?」
「市の資材置場だそうです」
「返してくれって言いました?」
「昨日、行きました」
「何て?」
森川さんは顔をしかめました。
「駅前へまた持ってくるおそれがあるから、当面返せないって」
私はペンを止めました。
「……返さない?」
「はい」
「いつまで?」
「整備方針が決まるまで、って」
「それ、いつです?」
「分からないって」
はい。
来ました。
行政法で一番困る言葉。
当面。
いつまでですか。
当面です。
何日ですか。
当面です。
条件は何ですか。
当面です。
行政用語界の巨大な霧です。
「屋台がないと仕事は?」
「できません」
「別の鉄板とかは」
「ありません」
「借りられませんか」
「屋台って、箱一つあればいいってもんじゃないんです」
森川さんは写真を指しました。
「高さも、自分で直したんです。鉄板の位置も、炭の入れ方も。二十年使ってますから」
「……そうですよね」
「場所を変えろっていうなら、まだ分かるんです」
森川さんは言いました。
「駅前は工事する。ここでは商売するな。それなら、腹は立つけど話は分かる」
そして。
「でも何で、商売道具まで返してくれないんです?」
その一言で。
私の中に引っかかっていたものが、少し形になりました。
屋台を駅前からどかす。
それと。
屋台そのものを市が持ち続ける。
同じ話でしょうか。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「何を考えてる」
「紙に書いてあることと、今続いてることを分けたいです」
「言ってみろ」
「撤去したこと」
「うん」
「それから、屋台を今も市が保管して、森川さんへ返していないこと」
相馬先輩が煙草を止めました。
「続いてるな」
「はい」
そこです。
昨夜までだったら。
事実上の行為。
という四文字を見ただけで、
私はたぶんページをめくっていました。
名前が地味すぎます。
事実上の行為。
何ですか、それ。
法律上じゃない行為みたいに見えます。
でも違う。
役所が実際に人を収容する。
物を留め置く。
そんな、公権力の行使として現実に行われる行為。
しかも。
今も続いているもの。
「先輩」
「何だ」
「これ、紙の処分だけ見てたら駄目ですよね」
「だろうな」
「屋台の留置そのものも見る」
「論点で喋るな」
「まだ一言しか言ってません」
「顔がもう論点だ」
どんな顔ですか。
私は頬を押さえました。
片桐所長が書面を畳みます。
「市へ行くぞ」
「はい」
森川さんが不安そうに顔を上げました。
「返してもらえますか」
所長は少しだけ考えました。
「まだ分かりません」
「そうですか」
「ただ」
所長は森川さんの屋台の写真を指で叩きました。
「撤去が終わったから、全部終わったとは限りません」
市役所二階。
総務課。
私たちが入ると、沢渡課長は書類から目だけ上げました。
「今日は何を運んできました」
相馬先輩が答えます。
「こっちが聞きてえよ」
「何でしょう」
「森川辰夫さんの屋台だ」
「ああ」
沢渡課長はすぐ分かりました。
「駅前のたいやき屋ですね」
「屋台、返せ」
「総務課に言われましても」
「じゃあ担当呼べ」
「駅前整備課の判断です」
「その判断を確認してんだよ」
沢渡課長は眼鏡を押し上げました。
「駅前広場では現在、物件整理を進めています。森川さんにも自主撤去をお願いしました」
「そこは聞いた」
「従っていただけなかったため、市側で移動した」
「それも聞いた」
「では?」
相馬先輩が机を指で叩きました。
「何で返さねえ」
「再び駅前へ設置される可能性がありますから」
「置いたら、そのとき対応すりゃいいだろ」
「同じことの繰り返しになります」
乾いています。
やっぱりこの人との会話は、湿度が二十パーセントくらいしかありません。
私は口を挟みました。
「屋台そのものを市が持ち続ける根拠は何ですか」
沢渡課長がこちらを見ました。
「朝比奈さん」
「はい」
「今日は静かですね」
「普段うるさいみたいに言わないでください」
「違いましたか」
「本題行きましょう」
完全に遊ばれています。
「森川さんが駅前で営業することと、森川さんの屋台を返さないことは別ですよね」
「関連しています」
「関連はしています」
「では問題ないでしょう」
「関連していれば、何でも一緒にしていいわけじゃありません」
沢渡課長の眉が少し動きました。
「屋台を駅前から移動する必要があったとしても」
私は続けました。
「駅前以外で使うことまでできなくする必要がありますか」
「再設置のおそれがあります」
「森川さんは代替場所を探しています」
「本人の申立てですね」
「そうです」
「確実ですか」
「確実じゃありません」
私は答えました。
「でも、市が返さない理由も『戻ってくるかもしれない』ですよね」
「予防的措置です」
「いつまで?」
「当面」
出た。
巨大な霧。
「当面って何日です?」
「整備方針が固まるまでです」
「いつ固まります?」
「未定です」
「それ、屋台をいつまで留め置くのか決まってないってことですよね」
一瞬。
沢渡課長が黙りました。
相馬先輩が横から言います。
「一週間かもしれねえ。一か月かもしれねえ。半年かもしれねえ」
「事業の進捗によります」
「その間、あの人は商売できねえぞ」
「それは承知しています」
「承知してんのか」
「行政上必要な措置であれば、一定の不利益が生じることはあります」
うわ。
強い。
悪人ではない。
でも、こういう人は強い。
かわいそう。
生活がかかっている。
二十年使った屋台なんです。
そういう言葉だけでは、一歩も動きません。
だから。
こちらも感情ではなく、
切り分ける。
「課長」
「何でしょう」
「確認します」
私は指を一本立てました。
「市が問題にしているのは、駅前で屋台営業を続けることですよね」
「そうです」
「屋台の所有そのものじゃない」
「当然です」
「市が屋台を取得したわけでもない」
「ええ」
「廃棄する予定でもない」
「現時点では」
「だったら」
私は写真を机へ置きました。
「駅前で使わせないために、屋台そのものを無期限に返さない必要が本当にありますか」
沢渡課長の目が、写真へ落ちました。
「必要性の判断です」
「誰が?」
「担当課が」
「記録は?」
「あります」
「返還しない期間は?」
「先ほど申し上げた通りです」
「未定」
「……そうなります」
「森川さんが駅前以外で使いたいと言った場合の検討は?」
少し間。
「確認が必要ですね」
来た。
小さな穴。
でも行政相手では、その小さな穴が大事です。
片桐所長がようやく口を開きました。
「沢渡さん」
「はい」
「撤去の適否とは別に、現在の留置を検討しているか」
「留置?」
「持ち続けていることだ」
「一連の措置として――」
「分けろ」
短い。
でも空気が変わりました。
片桐所長は続けます。
「運んだことが適法でも、その後いつまでも返さなくていいことにはならない」
沢渡課長は答えません。
「撤去時点の必要性と、今日なお留め置く必要性は別だ」
私は心の中で大きく頷きました。
そう。
そこです。
過去に行った一回の行為だけなら、
時間は戻せません。
でも。
今も続いているなら。
止められる。
「……不服申立てですか」
沢渡課長が言いました。
「必要ならな」
相馬先輩が答えます。
「この件、上級行政庁は?」
沢渡課長が少し椅子へもたれました。
「市長名義の措置として整理されている部分についてはありません」
「なら?」
私の頭が反射しました。
審査請求。
いや待て。
違う。
昭和六十三年。
審査請求一本化前。
審理員なんていません。
行政不服審査会もありません。
現代の私の頭の中で、
三か月。
審査請求。
審理員。
という未来組が一斉に立ち上がります。
座れ。
全員まだ生まれてない。
「……異議申立て」
私が言いました。
沢渡課長が頷きます。
「そうなりますね」
よし。
未来人、生還。
「朝比奈」
相馬先輩が言いました。
「今、また三か月って考えただろ」
「考えてません」
「顔に三か月って書いてあったぞ」
「どんな顔ですか、それ」
「未来面」
「悪口の種類が雑すぎます」
でも。
笑っている場合じゃない。
旧法では、
事実行為についても不服申立ての対象となるものがある。
そして。
理由があるなら。
単に、
「あれは間違っていました」
と宣言して終わりではない。
今も続いているものなら、
撤廃する。
変える。
現実の状態そのものに手を入れる。
そこが重要です。
「課長」
私は言いました。
「もし、この屋台の留置について不服申立てが認められたら」
「はい」
「『市の対応は不当でした』で終わりじゃないですよね」
沢渡課長が私を見ました。
「何が言いたいんです」
「屋台を返すところまで問題になりますよね」
沈黙。
私は続けました。
「今も続いている事実行為なら、その状態をやめる」
撤廃。
頭の中に、その二文字が浮かびました。
撤廃。
法律用語として読むと、大げさです。
制度を廃止するとか。
何か巨大なものを壊すように聞こえる。
でも。
森川さんの場合なら。
市の倉庫から屋台を出して、
本人に返す。
それだけです。
その「それだけ」が、
森川さんには商売を再開できるかどうかの境目です。
「撤去した事実を消すことはできません」
私は言いました。
「一昨日に戻ることもできない」
「当然です」
「でも、返さずに持っている状態は今も続いてる」
沢渡課長は黙っています。
「なら、そこは今からやめられます」
相馬先輩が小さく鼻を鳴らしました。
「珍しく分かりやすいじゃねえか」
「珍しくは余計です」
片桐所長が言いました。
「沢渡さん。申立ての前にひとつ確認してくれ」
「何でしょう」
「屋台を返還した上で、駅前への再設置は禁止する。それでは行政目的を達成できないのか」
沢渡課長の視線が止まりました。
それです。
ゼロか百かではない。
持ち続ける。
全部返す。
その二択じゃない。
駅前には戻させない。
でも道具そのものは返す。
目的は守る。
不必要な不利益は減らす。
「……担当課と確認します」
沢渡課長が言いました。
「今日中に?」
相馬先輩。
「急ですね」
「たいやきは腐らねえけど、商売は腐る」
「意味が分かりません」
「一日休めば一日売上が消えるってことだ」
沢渡課長は少しだけ息を吐きました。
「午後に回答します」
「お願いします」
帰り際。
沢渡課長が私を呼び止めました。
「朝比奈さん」
「はい?」
「一つ」
「何でしょう」
「撤廃と取消しを混同しないように」
私は止まりました。
「……今、それ言います?」
「試験では間違えそうなので」
「課長は私の何なんですか」
「市役所の職員です」
「知ってます!」
相馬先輩が廊下で笑っています。
腹立つ。
でも。
撤廃。
取消し。
違う。
紙の法律効果を消す話と、
現実に続いている状態をやめる話。
似ているようで違う。
昨夜までの私なら、
「どっちもなくすって意味でしょ」
と雑に赤線を引いていました。
今は。
市の倉庫の中にある一台の屋台が、
その違いをものすごく分かりやすく教えてくれています。
事務所へ戻ると、
森川さんが待っていました。
「どうでした?」
「市に確認してもらっています」
「返ってきそうですか」
「まだ分かりません」
私は答えました。
「でも、話を二つに分けました」
「二つ?」
「駅前で商売できるかどうか」
「はい」
「屋台そのものを返してもらえるかどうか」
森川さんは瞬きをしました。
「別なんですか」
「少なくとも、別々に考える必要があります」
「私は……」
森川さんが少し戸惑ったように言います。
「屋台が戻れば、駅裏でもいいんです」
「駅裏?」
「知り合いの米屋が、店先を夕方だけ使っていいって」
「それ、昨日言いました?」
「市役所には」
「何て?」
「駅前から移るなら好きにしてくださいって」
私は黙りました。
「……え?」
「ただ、屋台は返せないって」
相馬先輩の眉が動きました。
「待て」
「はい」
「駅前から移るなら勝手にしろ」
「そう言われました」
「でも屋台は返さねえ」
「はい」
沈黙。
相馬先輩が立ち上がりました。
「電話貸せ」
「どこへ?」
「市役所」
電話。
ダイヤル。
ぐるぐる。
昭和の電話は、怒っている人ほどダイヤルを回す時間が長く感じます。
「総務課、沢渡」
相馬先輩が名乗ります。
「さっきの件。追加だ」
少し話す。
切る。
「何て?」
「担当に伝えるってよ」
「先輩」
「何だ」
「情報は増えましたね」
「ああ」
「紙見て唸ってても増えないって、前言ってました」
「覚えてんのかよ」
「いいこと言ったときだけ覚えてます」
「普段もいいこと言ってる」
「それは審査が必要です」
午後三時。
市役所から電話がかかってきました。
私が取ります。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『沢渡です』
「はい」
『森川さんの屋台の件ですが』
「はい」
私は受話器を握り直しました。
『返還します』
「……え?」
早い。
『本日午後五時までに、資材置場で引き渡します』
「本当ですか」
『ただし、駅前広場周辺への再設置は認めません。その点は本人にも確認書を書いていただきます』
「理由は?」
『担当課で再検討しました』
沢渡課長の声は、いつも通り平坦でした。
『駅前からの撤去までは、現在の整備方針上必要と判断しています』
「はい」
『ですが、物件そのものを継続して留め置くことについては、必要性を説明できません』
私は黙りました。
『特に、森川さんが別の場所で営業する意向を既に示していたことが確認できました』
「じゃあ」
『不服申立てを待つまでもないでしょう』
「いいんですか」
『何がです』
「一度やったことを、そんなにあっさり変えて」
電話の向こうで。
ほんの少し。
沢渡課長が笑った気がしました。
『説明できないものを維持するほうが面倒です』
「合理的ですね」
『私はそういう人間です』
「知ってます」
『それと』
「はい」
『朝比奈さん』
「何です?」
『今回は申立て前に返しますが、覚えておくといい』
「何をです」
『行政が現実に何かをしている場合、不服申立ては紙の結論だけを変える制度ではありません』
私は受話器を持ったまま黙りました。
『では』
切れました。
「何だって?」
相馬先輩が聞きます。
「返すそうです」
森川さんが立ち上がりました。
「本当に?」
「今日の五時」
「今日?」
「はい」
「屋台、戻るんですか」
「戻ります」
森川さんは、しばらく立ったままでした。
そして。
「……よかった」
それだけ言いました。
大声ではありません。
泣きもしません。
でも肩が少しだけ落ちました。
力が抜けたのでしょう。
「ただし」
私は言いました。
「駅前へ戻すのは駄目です」
「戻しません」
即答でした。
「米屋さんのところ?」
「はい」
「営業できそうですか」
「明日からでも」
今度は笑いました。
「駅裏なら、工場帰りの人が通るんです」
「じゃあ客層変わりますね」
「酒飲んだ人には、甘いものが売れるんですよ」
「商売人ですねえ」
「二十年やってますから」
その日の夕方。
森川さんは市の資材置場へ屋台を取りに行きました。
翌朝。
事務所の戸が開きます。
「おはようございます」
「森川さん?」
大きな紙袋。
嫌な予感がします。
いや。
いい意味で。
「持ってきました」
「何を?」
「たいやき」
相馬先輩が新聞を下ろしました。
「何個」
「二十」
「多い!」
「売れ残りじゃありませんよ。焼いてきました」
袋を開ける。
まだ温かい。
甘い匂い。
事務所が一瞬で法律事務所から縁日になりました。
「先輩」
「何だ」
「一人何個までですか」
「早い者勝ち」
「行政の公平原則どこ行ったんですか」
「たいやきに行政法持ち込むな」
森川さんが笑います。
「駅裏、どうでした?」
「売れましたよ」
「本当に?」
「昨日より売れた」
「ええ?」
「工場の人が買ってくれましてね」
それは。
なんとも。
「駅前よりいい場所だったりして」
私が言うと、森川さんは苦笑しました。
「それはまだ分かりません」
「ですよね」
「でも」
森川さんは、たいやきを一つ私へ渡しました。
「仕事ができるってのは、ありがたいです」
温かい。
餡子が端まで入っています。
「うわ、おいしい」
「だろ」
なぜ相馬先輩が得意げなんですか。
片桐所長も一つ取ります。
「所長、甘いもの食べるんですね」
「悪いか」
「いえ。何となく塩味だけで生きてそうなので」
「どういう意味だ」
「雰囲気です」
怒られました。
私はたいやきの尻尾をかじりながら、昨日のことを思い返しました。
屋台を動かした。
過去の出来事。
屋台を返さない。
現在も続いている状態。
行政が紙で何かを決めるだけじゃない。
現実の世界で、
人を止める。
物を持つ。
動かす。
留め置く。
そういう公権力の使い方もある。
そして。
現実に続いている行為なら、
救済も現実に届かなければ意味がない。
間違っていました。
不当でした。
そう言うだけでは、
森川さんは明日たいやきを焼けません。
屋台を返す。
留め置くことをやめる。
つまり。
撤廃する。
法律の言葉は、相変わらず固い。
撤廃。
たいやき屋のおじさんの日常には、びっくりするほど似合わない単語です。
でも。
その固い言葉が、
一台の屋台を倉庫から外へ出す。
人の仕事を、
現実に戻す。
たぶん行政法は、
紙の上だけを相手にしている法律じゃない。
私はそんなことを考えました。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「何個食べた」
「二個です」
「三個だろ」
「……二個半です」
「尻尾だけ残して半分扱いするな」
「細かい!」
相馬先輩が袋を抱え込みます。
「残りは俺が保管する」
「待ってください」
「何だ」
「それ、私の分まで入ってますよね」
「知らん」
「返してください」
「当面、保管する」
私は止まりました。
「……先輩」
「何だ」
「今の、昨日と同じことしてますよ」
「何が」
「理由なく人の物を留め置いてます」
「これは俺の管理だ」
「違います!」
「異議があるなら申し立てろ」
「あります!」
「却下」
「まだ申し立ててない!」
片桐所長が茶をすすります。
「こはる」
「はい!」
「論点は」
「このたいやきの継続的な留置です!」
「なら」
所長が袋から一つ取りました。
「撤廃を求めろ」
「所長まで取らないでください!」
森川さんが腹を抱えて笑っています。
行政法は冷たい。
事実行為。
審査請求。
異議申立て。
撤廃。
どれも、人の暮らしから遠そうな顔をしています。
でも。
市の倉庫に眠っていた一台の屋台が戻った朝。
私は少しだけ分かりました。
法律が現実の行為を問題にするのなら、
救済も、
現実の世界まで届かなければならない。
「間違っていました」で終わらせず、
握っているものを、実際に離させる。
今日の教訓は、たぶんそれです。
私は最後のたいやきを相馬先輩の手から奪いました。
「おい」
「これは救済です」
「強奪だろ」
「違います」
「何が違う」
私は胸を張りました。
「不当な留置の撤廃です」
「都合よく法律使うな!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
本日の救済対象は、
一台の屋台と、
一匹のたいやきでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




