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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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205/282

[行政不服審査法46条・審査請求の認容裁決]現場編 「不服申立てが通れば、全部なかったことになります」の罠。処分を消す取消しと、重すぎる処分を削る変更という二つの出口

挿絵(By みてみん)

 役所に負けるか、役所に勝つか。


 不服申立てという言葉を聞くと、ついそんな二択で考えてしまいます。


 処分がそのまま残れば負け。


 処分が消えれば勝ち。


 白か黒か。


 ゼロか百か。


 ――でも。


 人の暮らしというのは、そんなに二色で塗れるものではありません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の朝、私は机の上に置かれた一枚の通知書を見ながら、盛大に首をかしげていました。


「先輩」


「何だ」


「六か月って長くないですか」


「何が」


「営業停止」


 相馬先輩が煙草をくわえたまま、私の手元を覗き込みます。


 通知書には、大きくこう書かれていました。


 ――県営河川敷仮設売店使用許可に係る営業停止処分。


 停止期間。


 六か月。


「長いな」


「ですよね」


「で?」


「終わりですか」


「何がだ」


「もうちょっとこう、行政法的な感想を」


「朝から行政法的な感想を求めるな。胃がもたれる」


 分かります。


 私も受験生だったころは、朝一番の行政法なんて罰ゲームだと思っていました。


 でも。


 今は通知書の向こうに、人がいます。


 向かいの椅子に座っていたのは、


 大沢源治さん。


 五十八歳。


 県が管理する川沿いの遊歩道脇で、小さな売店を営んでいる人でした。


 店といっても、立派な建物ではありません。


 木造の小さな小屋。


 夏はラムネ。


 秋は焼き芋。


 春は団子。


 冬は甘酒。


 川沿いを散歩する人や、近くの運動公園へ行く親子が寄る。


 そんな店です。


「六か月止められると」


 大沢さんが言いました。


「冬どころか、春まで終わっちまいます」


「原因は何だったんです?」


 私が聞くと、大沢さんは肩を落としました。


「店の横に、勝手に台を出したんです」


「台?」


「縁台みたいなもんです。三つ」


「許可区域の外に?」


「……ほんの少し」


 相馬先輩が眉を上げます。


「ほんの少しって言うやつは、大体ほんの少しじゃねえ」


「先輩」


「経験則だ」


 大沢さんが申し訳なさそうに続けます。


「夏祭りのとき、客が増えましてね。小屋の前じゃ狭かったもんだから」


「県には?」


「言ってません」


「注意は?」


「一回、受けました」


 なるほど。


 そこは大沢さんにも落ち度がある。


 無断で許可区域を広げた。


 しかも一度注意を受けている。


 私は通知書をもう一度見ます。


「それで六か月の営業停止……」


「はい」


「許可そのものの取消しじゃないんですね」


「そこまではされませんでした」


 大沢さんは苦笑しました。


「役所の人にも、『取消しじゃないだけましだ』と言われまして」


 その言葉。


 何となく引っかかりました。


 取消しじゃないだけまし。


 確かにそうかもしれない。


 でも。


 許可が残っていても、六か月営業できなければ。


 この小さな店にとっては、ほとんど息の根を止められるようなものです。


「この売店だけで生活を?」


「女房と二人で」


「ほかに収入は?」


「年金にはまだ早いしねえ」


 大沢さんは笑おうとしました。


 でも、うまく笑えませんでした。


「春になったら、孫が手伝うって言ってたんですよ」


「お孫さんが?」


「高校を出るんです。土日だけでも店やりたいって」


 その春まで営業停止。


 私は通知書の日付を確認しました。


 届いたのは十二日前。


 まだ時間はある。


 ただし。


 頭の中で反射的に、


 三か月。


 という数字が浮かんで。


 私は即座に握り潰しました。


 違う。


 ここは昭和六十三年。


 現代法じゃない。


 申立期間は六十日。


 審理員もいない。


 行政不服審査会への諮問なんて制度もない。


 未来の教科書を持って昭和の役所へ殴り込んだら、ただの変な人です。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「何が気になる」


「処分の重さです」


「違法だと思うか」


「そこはまだ」


 無断で区域外使用。


 しかも注意後。


 何らかの処分が出ること自体は不思議ではない。


 問題は、


 六か月。


 なぜ六か月なのか。


「大沢さん」


「はい」


「同じような違反をした人、ほかに知ってます?」


 大沢さんが少し考えました。


「上流の貸しボート屋」


「何かあったんです?」


「桟橋を勝手に伸ばして、一か月止められたって」


 私は顔を上げました。


「一か月?」


「去年だったかな」


「ほかには?」


「河原の茶店。物置をはみ出して置いて、注意と三十日だったと思います」


 相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。


「六か月だけ妙に重いな」


「そうなんです」


 私の中で、眠かった単語が起き始めます。


 裁量。


 比例。


 平等。


 処分基準。


 過去事例。


 そして。


 認容。


 取消し。


 変更。


 昨夜までテキストの中で、


 全部取消し。


 一部取消し。


 変更。


 と並んでいた文字。


 あれ。


 もしかして今回。


 処分そのものをゼロにする話じゃないのでは。


「所長」


「何だ」


「この人、何も悪くないわけじゃないですよね」


「ああ」


「だったら、処分全部を取り消せって言うより」


 私は通知書の『六か月』を指しました。


「六か月は重すぎる、という争い方もありますよね」


 片桐所長が私を見ました。


「続けろ」


「営業停止自体に理由があったとしても、期間が長すぎるなら……処分の内容を軽くする」


 相馬先輩が腕を組みます。


「つまり?」


「変更です」


 言ってから。


 少しだけ背筋が伸びました。


 取消し。


 だけじゃない。


 処分を変更する。


 行政不服審査の出口は、白紙撤回だけではない。


「誰が変更できる」


 片桐所長が聞きました。


「え」


「そこまで言ったなら、次だ」


 来た。


 所長の抜き打ち口頭試問。


 私は頭の中を探ります。


 現代法。


 行政不服審査法四十六条。


 理由がある場合。


 全部または一部の取消し。


 あるいは変更。


 ただし変更できるのは――


「処分庁自身か、その上級行政庁」


「そうだ」


「第三者の審査機関みたいなところは、勝手に別の処分へ変更できない」


「今回は」


 私は通知書を見ます。


 処分を出したのは、


 浜松土木事務所長。


 県の出先機関。


「上級行政庁は県知事」


「なら?」


「審査請求」


「そうだ」


 昭和六十三年。


 旧法。


 この場面では、


 処分庁である土木事務所長に上級行政庁がある。


 だから、その上級行政庁へ審査請求をする。


 異議申立てではない。


 ややこしい。


 本当にややこしい。


 未来では原則として審査請求に一本化されるので、


 この辺りの分岐はかなり整理されます。


 昔の受験生。


 よくこれを毎回振り分けてましたね。


 尊敬します。


「行くぞ」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「どこへ?」


「土木事務所」


「早いですね」


「六か月がどっから出てきた数字か聞く」


 正しい。


 法律論の前に事実。


 相馬先輩は口が悪いですが、


 現場で一番大事なことを外しません。


 浜松土木事務所。


 二階の河川管理課。


 担当係長は、最初から少し困った顔をしていました。


「大沢さんの件ですか」


「そうです」


 相馬先輩が通知書を机に置きます。


「六か月の根拠を聞きたい」


「無断使用ですから」


「それは分かってる」


「しかも一度指導しています」


「それも分かってる」


「では何が?」


「なぜ一か月でも三か月でもなく六か月なんだ」


 係長が黙りました。


 私は横から聞きます。


「処分基準はありますか」


「内部の取扱基準はあります」


「見せてもらえますか」


「内部資料ですので」


 出た。


 役所の奥義。


 内部資料ですので。


 これを唱えると、何でも霧の向こうへ隠せる便利な呪文です。


「じゃあ」


 私は言いました。


「基準そのものを見せられないとしても、大沢さんの違反が基準上どの程度に当たるのかは説明できますよね」


「それは……」


「初回ですか、再違反ですか」


「指導後ですので、再度の違反として扱っています」


「無断使用面積は?」


「約九平方メートル」


「危険物は?」


「ありません」


「通行妨害は?」


「大きなものはありません」


「事故は?」


「ありません」


「原状回復は?」


「すでにされています」


 私は一つずつメモします。


 違反はある。


 でも被害は大きくない。


 事故もない。


 原状回復済み。


 そして六か月。


「過去の同種案件は」


 相馬先輩が聞きました。


「個別案件については答えられません」


「名前はいらねえ。処分期間の幅を聞いてる」


 係長は少し迷ったあと、


「一か月から三か月程度が多いです」


 と答えました。


 はい。


 出ました。


「では」


 私は通知書を指しました。


「なぜこの件だけ六か月なんです?」


 係長の視線が、一瞬だけ書類へ落ちます。


「……祭りの時期に無断で拡張しているので、悪質性が高いと判断しました」


「お客さんが多い時期だから?」


「収益目的ですから」


「売店って、基本的に収益目的ですよね」


 言ってから。


 ちょっと嫌味だったかなと思いました。


 でも相馬先輩が鼻で笑ったので、たぶん大丈夫です。


「朝比奈」


「はい」


「論点で詰めすぎるな」


「すみません」


 私は少し言い直しました。


「危険が増えたとか、通行を塞いだとか、事故があったとか。六か月にする事情は、ほかにありますか」


「特には」


「なら、違反があることと、六か月止めることは分けて考える必要がありますよね」


 係長は答えませんでした。


 そこへ。


「随分、賑やかですね」


 背後から声がしました。


 振り向く。


 灰色の背広。


 細い眼鏡。


「沢渡課長?」


「どうも」


「市役所の人ですよね?」


「今日は県庁との調整会議です」


「出張先でも出会うんですか」


「朝比奈さんのほうが、役所に出没しすぎなのでは」


 それは否定できない。


 沢渡課長は通知書を見ました。


「六か月停止ですか」


「重いと思いません?」


「私は処分庁ではありません」


「逃げましたね」


「権限のないことを断言しないだけです」


 この人。


 いつも通りです。


 相馬先輩が聞きました。


「沢渡さん。仮に審査請求で理由ありとなったら、県知事はどうする」


 沢渡課長が私を見ました。


「朝比奈さん、答えられますか」


「なんでここでも試験になるんですか」


「好きでしょう、論点整理」


「好きになった覚えはありません」


 でも。


 私は答えました。


「処分の全部か一部を取り消す」


「それから?」


「変更する」


「誰でも?」


「いいえ。変更できるのは、処分庁か、その上級行政庁」


 沢渡課長が頷きます。


「今回は知事が上級行政庁ですから、変更という出口もあり得ますね」


 係長が少し顔を上げました。


「つまり、六か月を短くしろと?」


「それを求めるかどうかは、これからです」


 片桐所長が初めて口を開きました。


「先に事実を確認する」


「何をでしょう」


「六か月という処分を選んだ判断過程だ」


 所長は淡々としていました。


「違反があったことは争わない」


「……はい」


「原状回復済みも確認する」


「はい」


「事故なし。重大な通行障害なし」


「はい」


「過去の同種案件は一か月から三か月が多い」


 係長が少し黙ります。


「そのうえで、六か月とした理由を審査庁に説明してもらう」


 静かでした。


 でも。


 一番効いていました。


 悪くない。


 とは言わない。


 処分を全部消せ。


 とも言わない。


 ただ。


 六か月という重さを選んだなら、


 なぜ六か月なのか。


 そこを説明してください。


 行政法の気持ちよさは、


 時々ここにあります。


 声の大きさを競わなくていい。


 怒鳴らなくていい。


 相手を悪人にしなくていい。


 ただ論点を切り分ける。


 違反があった。


 それはそれ。


 六か月が妥当か。


 それは別。


 帰り道。


 私は相馬先輩に言いました。


「なんか今日、すっきりしました」


「何が」


「行政処分って、全部取り消すか、そのまま残すかだけじゃないんですね」


「当たり前だ」


「受験生のときは、取消しのイメージが強かったんです」


「試験問題ばっか見てるからだ」


「変更って、文字で読むと地味なんですよ」


「営業停止六か月が一か月になったら?」


「めちゃくちゃ派手です」


「だろ」


 その一言で。


 変更。


 という眠そうな法律用語が、


 急に大沢さんの店のシャッターと結びつきました。


 半年閉まる店。


 一か月だけ閉まる店。


 文字では『変更』。


 生活では、まるで違う。


 事務所へ戻ると、大沢さんが待っていました。


「どうでした」


「審査請求をしましょう」


 私が言うと、大沢さんは不安そうに聞きました。


「処分を全部、取り消してもらえるんですか」


「そこは約束できません」


「じゃあ……」


「でも」


 私は通知書の六か月を指しました。


「全部消すことだけが、不服申立ての結果じゃないんです」


「どういうことで?」


「違反があったことは認める。でも、六か月は重すぎる。その部分を見直してもらう方法もあります」


「短くなることがある?」


「あります」


 大沢さんは少し黙りました。


「それでいいです」


「いいんですか」


「俺も悪かったんです」


 静かな声でした。


「勝手に台を出した。注意されたのに、祭りだからってまたやった。それは悪かった」


「はい」


「だから、一か月休めって言われるなら休みます」


 大沢さんは通知書を見ました。


「でも六か月だと、店が死ぬ」


 その言葉が残りました。


 行政処分は、


 罰ではない。


 少なくとも何でも刑罰のように考えてはいけない。


 行政目的のために必要な措置。


 なら。


 必要な範囲を超えていないか。


 そこは問える。


「所長」


「何だ」


「作りましょう」


「何を」


「審査請求書」


「お前がな」


「はい」


 いつものことです。


 その日から三日。


 私たちは資料を集めました。


 許可書。


 図面。


 注意書。


 無断で置いた縁台の寸法。


 撤去日。


 写真。


 事故がなかったこと。


 通路幅が確保されていたこと。


 過去の処分例について大沢さんが知る範囲の情報。


 そして。


 処分そのものを全面否定しないことも、はっきり書きました。


「ここ、大事ですね」


 私は言いました。


「何が」


 相馬先輩が聞きます。


「『俺は何も悪くない』って書かない」


「事実と違うからな」


「はい」


「感情で盛るな」


「はい」


「六か月が重すぎる理由だけ積め」


「はい」


 相馬先輩。


 だんだん家庭教師みたいになってきました。


 本人は絶対認めないでしょうけど。


 審査請求書には、


 無断使用の事実は争わないこと。


 ただし使用範囲は限定的だったこと。


 既に原状回復済みであること。


 事故や重大な通行障害がなかったこと。


 同種事案との比較でも六か月は著しく長いこと。


 行政目的達成のために六か月の停止が必要なのか疑問があること。


 これらを整理しました。


 そして最後。


 営業停止処分の取消し。


 または、


 相当な期間への変更。


 を求める。


「両方書くんですね」


「審査庁に選択肢を残せ」


 片桐所長が言いました。


「全部消すしかない書き方をするな」


「なるほど」


「違反はある」


「はい」


「なら、適正な処分に直せば足りる場合もある」


 そこです。


 行政不服審査。


 役所を倒す制度ではない。


 処分を正しい位置に戻す制度。


 そう考えると、


 変更という仕組みがものすごく自然に思えました。


 審査請求書を県へ提出してから、三週間。


 大沢さんから電話がありました。


「朝比奈さん」


「はい」


「県から紙が来た」


 声が震えていました。


「どう書いてあります?」


「分かんねえ。難しくて」


「持ってきてください」


「今から行く」


 十分後。


 早い。


 本当に走ってきたらしく、大沢さんは息を切らしていました。


 封筒から裁決書を取り出す。


 私は最初のページを開きました。


 結論。


 営業停止処分を変更する。


 停止期間六か月。


 これを。


「……四十五日」


「え?」


「四十五日に変更です」


 大沢さんが固まりました。


「取り消しじゃない?」


「はい」


「俺、勝ったんですか。負けたんですか」


 私は一瞬、答えに詰まりました。


 その質問。


 今日のテーマそのものです。


 相馬先輩が横から言います。


「勝ち負けで考えるな」


「でも」


「違反は認められた」


「はい」


「だから処分自体は残った」


「はい」


「ただし六か月は重すぎると判断された」


「……はい」


「だから四十五日に直された」


 大沢さんは、裁決書を見ました。


「じゃあ」


 指で数えます。


「もう二十日止まってるから」


「残り二十五日です」


 大沢さんの顔が、ゆっくり変わりました。


「春どころか」


「ええ」


「秋が終わる前に開けられる?」


「はい」


 大沢さんは、


 その場で何も言わなくなりました。


 俯いて。


 裁決書を握って。


 しばらくしてから、


「よかった」


 とだけ言いました。


 大声じゃありませんでした。


 でも。


 六か月と四十五日の差。


 法律上は、


 処分の変更。


 たった四文字。


 大沢さんにとっては、


 店を畳むかもしれなかった半年と、


 もう一度シャッターを開けられる二十五日後との差です。


「理由も読みます?」


 私が聞くと、大沢さんが頷きます。


 裁決書には、


 無断使用が繰り返された点から一定期間の営業停止処分には理由がある。


 一方で、


 使用範囲。


 原状回復。


 危険の程度。


 過去の同種事案との均衡。


 これらを考慮すると六か月は重きに失する。


 そんな趣旨が書かれていました。


「重きに失する」


 大沢さんが聞きます。


「重すぎる、です」


「役所って、普通に重すぎるって書かねえんだな」


「普通に書いたら行政法じゃなくなるんでしょうか」


「知らん」


 相馬先輩が言いました。


 その日の夕方。


 沢渡課長から事務所に電話がありました。


『結果、聞きましたか』


「はい。四十五日になりました」


『そうですか』


「驚かないんですね」


『審査庁が判断したことですから』


「課長なら六か月にしました?」


『仮定の話には答えません』


「鉄壁だなあ」


『ただ』


「はい」


『取消しだけが認容ではない、ということは覚えておくといいでしょう』


 私は少し笑いました。


「変更ですね」


『ええ』


「全部消す必要がなければ、処分を適正な内容に直す」


『そういうことです』


「でも、それができる審査庁には制限がある」


『よく勉強していますね』


「最近、現場で強制的に」


『いい勉強法です』


「人の生活が教材なんですよ。重いです」


 一瞬。


 沢渡課長が黙りました。


『だから、雑に扱えないのでしょう』


 珍しく。


 少しだけ柔らかい声でした。


『では』


 電話が切れます。


 私は受話器を置きました。


「沢渡さん?」


 相馬先輩が聞きます。


「はい」


「何だって?」


「取消しだけが認容じゃないって」


「そりゃそうだ」


「知ってる人は簡単に言いますよね」


「知らなかったのか」


「知識としては知ってました!」


「じゃあ同じだ」


「違います」


 全然違います。


 テキストの中では、


 取消し。


 変更。


 ただの二択でした。


 でも今日からは違う。


 取消しは、


 処分そのものを消す。


 変更は、


 処分の骨格を残しながら、重すぎる部分や内容を適正な形へ直す。


 もちろん。


 何でも好き勝手に変更できるわけではない。


 誰が審査庁なのか。


 処分庁なのか。


 上級行政庁なのか。


 第三者的な機関なのか。


 そこまで見なければならない。


 行政法。


 やっぱり面倒です。


 でも。


 面倒だからこそ。


 役所も、


 国民も、


 好き勝手に結論を動かせない。


 その冷たさが、


 大沢さんの六か月を四十五日に削った。


 三週間後。


 大沢さんがまた事務所へ来ました。


 今度は通知書でも裁決書でもありません。


 大きな紙袋。


「差し入れですか」


「開けてみな」


 開きます。


 焼き芋。


 大量。


「多っ」


「営業再開したからな」


「今日ですか?」


「昨日」


「売れ残り?」


「失礼だな。わざわざ焼いたんだよ」


 相馬先輩がすぐに一つ取ります。


「熱っ」


「先輩、まだ誰も食べていいって言ってません」


「差し入れは食うもんだろ」


「花のときも言ってましたよね、それ」


 大沢さんが笑いました。


「春まで閉めてたら、もう店やめてたかもしれん」


「……そうですか」


「四十五日なら、頭も冷えた」


「頭?」


「ああ」


 大沢さんは苦笑しました。


「もう勝手に台出さねえ」


「そこはお願いします」


「今度増やすときは、ちゃんと聞く」


「ぜひ」


「役所にも?」


「まず役所にです」


「面倒だな」


「法律って、大体そこからです」


 片桐所長が焼き芋を一つ取りました。


「大沢さん」


「はい」


「今回、処分が消えたわけじゃない」


「分かってます」


「違反も残る」


「はい」


「それでも納得できるか」


 大沢さんは少し考えました。


「できます」


「なぜ」


「俺も悪かったから」


 それから。


 笑いました。


「でも六か月はやりすぎだった。それを四十五日にしてもらった。俺には、そのくらいがちょうどいい」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 勝った。


 負けた。


 そんな言葉より。


 ちょうどいい。


 その言葉のほうが、


 今日の行政不服審査には似合う気がしました。


 私は焼き芋を半分に割りました。


 湯気が上がります。


「先輩」


「何だ」


「今日の教訓、分かりました」


「聞いてねえ」


「不服申立てが認められたからって、必ず全部取消しになるわけじゃない」


「うん」


「処分に理由はある。でも重すぎる。そんなときは変更って出口がある」


「うん」


「ただし、誰が変更できるかまで見る」


「そこ忘れるな」


「はい」


 私は焼き芋を一口かじりました。


 熱い。


 でも甘い。


「法律って」


「何だ」


「ゼロか百じゃないんですね」


「今さらか」


「今さらです」


 行政の処分には、


 取消すべきものもある。


 一部だけ消すべきものもある。


 内容を変えれば足りるものもある。


 人の生活に合わせて好き勝手に曲げるのではなく。


 事実と法理に沿って、


 必要なところだけ直す。


 法律の言葉は冷たい。


 取消し。


 変更。


 認容。


 裁決。


 焼き芋とは正反対の温度です。


 でも。


 その冷たい言葉が、


 半年閉ざされるはずだった小さな売店のシャッターを、


 五か月近く早く開けた。


 私は窓の外を見ました。


 秋の風が吹いています。


 川沿いでは今ごろ、


 大沢さんの店から焼き芋の煙が上がっているはずです。


「こはる」


「はい」


 片桐所長が言いました。


「それ、もう一本取れ」


「え?」


「焼き芋」


「いいんですか」


「帳簿の上に灰を落とすな」


「食べる場所の指定ですか!」


 相馬先輩が二本目へ手を伸ばします。


「先輩!」


「何だ」


「一人一本です」


「誰が決めた」


「私です」


「権限は?」


「……ありません」


「なら変更する」


「何をですか」


「一人二本」


「勝手に処分を変更しないでください!」


「俺は処分庁だ」


「何の!?」


 大沢さんが腹を抱えて笑います。


 片桐所長は黙って焼き芋を割りました。


「相馬」


「はい」


「一本戻せ」


「何でです」


「変更だ」


「不利益変更じゃないですか」


「そもそも二本取る権利がない」


「……はい」


 相馬先輩が素直に一本戻しました。


 私は吹き出しました。


 どうやら。


 処分を変更するにも、


 まず元の権利関係を確認する必要があるらしい。


 行政法。


 焼き芋一つ食べるにも、


 油断なりません。

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