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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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203/284

[行政不服審査法45条・審査請求の却下又は棄却]現場編 「却下でも棄却でも、負けは負けでしょう」の罠。門前払いと中身の敗北を切り分け、公の利益という最後の壁まで見抜く

挿絵(By みてみん)

 役所から「駄目です」と言われたとき。


 いちばん怖いのは、駄目だった理由まで同じだと思ってしまうことです。


 入口に立てなかったのか。


 中まで入って、負けたのか。


 それとも。


 こちらの言い分は正しいのに、それでも別の理由で退けられたのか。


 同じ「駄目」でも。


 法律は、そこをしつこいくらい分けます。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の朝、私は赤鉛筆を一本、机から落としました。


 拾う。


 また落とす。


 拾う。


 また落とす。


「こはる」


 片桐所長が帳簿から顔も上げずに言いました。


「遊ぶなら外でやれ」


「遊んでません!」


「三回落としたぞ」


「机が悪いんです」


「机は昨日から同じだ」


「では重力が」


「朝比奈」


 相馬先輩が煙草をくわえました。


「行政法で頭やられたなら帰れ」


「受験生に一番言っちゃいけないやつです」


 私は赤鉛筆をペン立てへ突っ込みました。


 昨夜読んでいたのは、不服申立ての結論。


 却下。


 棄却。


 認容。


 そして、事情裁決。


 文字面だけなら。


 却下も棄却も、


 ――はい、あなたの負け。


 に見えます。


 正直、受験生時代の私はそう思っていました。


 違い?


 どっちも負けでしょう。


 そんな雑な理解をしていた過去の私を、


 今なら答案用紙ごと丸めて遠くへ投げたい。


 そんなことを考えていたところへ。


 事務所の引き戸が開きました。


「あの……」


 入ってきたのは、五十代半ばくらいの男性でした。


 茶色い作業着。


 両手に紙袋。


 そして脇には、折り目だらけの封筒。


「片桐先生はこちらでしょうか」


 片桐所長が顔を上げます。


「そうです」


「私、駅北で文房具屋をやってる三浦と申します」


 駅北。


 その言葉に、私は少しだけ姿勢を正しました。


 また駅前です。


 最近この町は、何をしても駅前再整備につながる気がします。


 道路。


 露店。


 看板。


 広場。


 商店。


 行政法の論点が、駅を中心に繁殖している。


 法律の教材としてはありがたい。


 住んでいる人には、たまったものじゃありません。


 三浦さんは封筒から紙を取り出しました。


「これを……県からもらいまして」


 差し出された書面。


 私は所長の横から覗き込みます。


 県土木事務所長名。


 道路占用許可の取消し。


 対象は、駅北側の県道に張り出して設置されている商品陳列棚。


「道路占用……」


 相馬先輩が紙を取ります。


 三浦さんの文房具店は、駅北の古い商店街の角にあるそうです。


 店自体は自分の土地。


 ただ。


 昔から店先に置いている細長い陳列台の一部が、県道側にはみ出している。


 ノート。


 鉛筆。


 画用紙。


 学校用品。


 毎年きちんと占用許可を取ってきた。


 それが駅前再整備を理由に、


 今年途中で許可を取り消された。


「撤去期限が来週なんです」


 三浦さんが言いました。


「陳列棚だけなら、どければいいんですが」


「ほかに何か?」


「店の庇も一緒なんです」


「庇?」


「はい」


 写真を見せてもらいました。


 古い木造店舗。


 入口の上にある大きな庇。


 長い年月の補修を重ねたらしく、柱と陳列棚が一体になっています。


 棚だけを外すと、


 庇まで作り直さなければならない。


「大工さんに見てもらったら、かなりかかるって」


「いくらくらいですか」


「七十万から百万円は見てくれって」


 昭和六十三年の百万円。


 笑える額ではありません。


「それで、不服申立てを?」


 片桐所長が聞きました。


「はい」


 三浦さんは、もう一枚の紙を出しました。


「知り合いに、役所の処分なら審査請求ってのができるって聞いて」


 相馬先輩が日付を見る。


「出したのか」


「昨日、県庁へ持っていきました」


「で?」


「受け付けの人に言われました」


 三浦さんが、少し唇を噛みました。


「もう六十日過ぎてるから、却下になるかもしれませんって」


 私は反射的に書面の日付を見ました。


 処分の日。


 五月二日。


 今日は七月六日。


「六十日……」


 確かに。


 処分日から数えれば、六十日を超えている。


 相馬先輩が聞きます。


「この処分を知ったのはいつだ」


「え?」


「通知を受け取った日」


 三浦さんが首をかしげました。


「六月の頭です」


 私は顔を上げました。


「六月?」


「はい。五月は、妻の母親が倒れて鹿児島へ行ってまして。店も十日くらい閉めてたんです」


「郵便は?」


「不在票が入ってたみたいです。戻ってきてから受け取りました」


「いつです?」


 三浦さんは手帳を出しました。


 商売人らしい、小さな黒い手帳。


 ページをめくる。


「六月四日です。ここに書いてあります」


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩もこちらを見る。


「先輩」


「言うな」


「でも」


「まず証拠だ」


 ですよね。


 未来人、すぐ条文に飛びつく。


 現場の人、まず証拠を見る。


 この差が地味に刺さります。


「封筒あります?」


 私は聞きました。


「あります」


 取り出した封筒には、郵便局の印。


 不在時の記録。


 再配達の控えも残っていました。


「六月四日……」


 私は指で数えます。


「なら」


「待て」


 相馬先輩が止めました。


「何です」


「お前、三か月とか言うなよ」


「言いません!」


「顔が言いそうだった」


「今回は大丈夫です!」


 昭和六十三年。


 旧法。


 頭の中で大きく赤字を出します。


 現代。


 三か月。


 昭和。


 六十日。


 私はもう、転生してから何度この二つに追いかけられているのでしょう。


「少なくとも」


 私は言いました。


「六月四日に処分を知ったなら、昨日の申立てが六十日を過ぎたとは考えにくいです」


 三浦さんの目が開きました。


「じゃあ、却下されないんですか」


「まだ断言はできません」


 片桐所長が私より先に答えました。


「でも、処分の日付だけ見て期間経過と決めるのは早い」


「そうなんですか」


「いつ処分を知ったかを確認する」


 三浦さんは、ほっとしたような、それでもまだ不安そうな顔をしました。


「でも」


「はい」


「却下っていうのは、要するに私の言い分が間違ってるってことですよね」


「違います」


 思わず即答していました。


 三浦さんが驚きます。


 相馬先輩が煙草を外しました。


「おい。説明しろ」


「はい」


 私は一度息を吸いました。


「却下と、棄却は違います」


「きゃっかと……ききゃく?」


「はい」


 漢字にすると似ています。


 音でも似ています。


 役所語、初心者を振り落とす気満々です。


「却下は」


 私は机の上に手を置きました。


「そもそも、その申立てを中身まで判断するための条件を満たしていない場合です」


「条件?」


「たとえば期間を過ぎているとか。申立てとして不適法だとか」


「じゃあ、中身を見てもらえない?」


「そうです」


「棄却は?」


「申立て自体はちゃんと成立している。中身も調べた。その上で」


 少し言葉を選びます。


「あなたの申立てには理由がありません、と退けられる場合です」


 三浦さんは数秒黙りました。


「つまり」


「はい」


「却下は入口で帰される」


「はい」


「棄却は中に入ったけど負ける」


「ものすごく乱暴に言えば」


「分かりやすい」


 隣で相馬先輩が笑いました。


「お前より説明うまいな」


「私が説明したんですけど!」


 でも。


 自分で口にすると、急にはっきりします。


 却下。


 棄却。


 試験問題では二文字違い。


 現場では大違いです。


 なぜなら。


 却下されたら、


 処分の中身がおかしい。


 比較がおかしい。


 裁量が行き過ぎている。


 そんな話にすら入れない。


「所長」


 私は聞きました。


「この件、まず期間を固めますよね」


「そうだ」


「処分を知った日を証拠で出す」


「うん」


「六月四日受領なら、昨日の審査請求は――」


「期間内だと主張する」


「はい」


 片桐所長が三浦さんを見る。


「県庁へ行きます」


「今日ですか」


「今日です」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「駅前が絡んでるなら、市にも寄るぞ」


「市?」


 三浦さんが不安そうに聞きます。


「今回の道路整理、駅前再整備と連動してるんだろ」


「はい。市からも何度か説明が」


「なら、誰が何を決めたのか分ける」


 相馬先輩は私を見ます。


「朝比奈」


「はい」


「論点」


「処分庁は県土木事務所長」


「うん」


「申立ては上級行政庁への審査請求」


「うん」


「申立期間は旧法だから六十日」


「うん」


「起算点確認」


「うん」


「適法なら却下じゃなく、本案を見てもらう」


「そこまで」


「はい」


 所長が短く言いました。


「まず入口を開ける」


 その一言が、妙に残りました。


 まず入口を開ける。


 勝つ話は、そのあと。


 県庁へ向かう前に。


 私たちは市役所へ寄りました。


 総務課。


 沢渡課長。


 相変わらず灰色の背広。


 相変わらず、こちらが何人で来ても驚かない顔。


「今度は文房具屋さんですか」


「駅北の三浦文具店」


 相馬先輩が言いました。


「県道の占用許可取消し。市の駅前整備と関係あるな」


「あります」


 沢渡課長はあっさり認めました。


「市から県へ、歩道空間の整理を要請しています」


「全部の張り出しを撤去?」


「段階的です」


「また段階的」


 私が言うと、沢渡課長が眼鏡越しにこちらを見ます。


「朝比奈さん。その言葉が嫌いになりましたか」


「最近、便利に使われすぎてる気がして」


「行政計画は一日で完成しませんから」


「三浦さんの店だけ、もう撤去期限が来てます」


「県の処分です」


 来ました。


 役割分担という名のキャッチボール。


 市。


 県。


 担当課。


 土木事務所。


 みんな自分の持っている部分だけ説明する。


 住民には、全体が見えない。


「市は」


 片桐所長が聞きました。


「三浦文具店の庇まで撤去が必要だと把握していたか」


「庇?」


「商品棚と一体だ」


 沢渡課長の指が止まりました。


「そこまでは聞いていません」


「現地確認は」


「県が行っています」


「市は?」


「要請時に、商店街全体の現況写真は見ています」


「個々の構造までは?」


「確認していません」


 なるほど。


 またです。


 行政目的は分かる。


 歩道を広くする。


 駅前を整える。


 安全にする。


 そこ自体は悪くない。


 でも。


 計画の言葉が大きくなるほど、


 一軒一軒の事情が小さく見えることがあります。


「課長」


 私は聞きました。


「三浦さんの場所、いつ工事するんですか」


「第一期ではありません」


「いつです?」


「第二期以降です」


「具体的には」


「現時点では未定です」


 相馬先輩が天井を見ました。


「またか」


「何でしょう」


「工事日は未定。でも撤去は来週」


「歩道空間の整理は工事だけを目的としていません」


 沢渡課長は静かです。


「安全確保、景観整理、将来工事への準備。複数目的があります」


「なるほど」


 片桐所長が言いました。


「なら、それを県が処分理由としてどこまで検討したかだな」


 沢渡課長が、こちらを見ました。


「審査請求するんですか」


「もうした」


「早いですね」


「ただし」


 相馬先輩が紙を出します。


「昨日、期間経過で却下の可能性を言われた」


 沢渡課長は日付を確認します。


「処分日は五月二日」


「本人が知ったのは六月四日」


「証拠は?」


「ある」


 沢渡課長が封筒を見ます。


「なら、その点は県に出すべきでしょうね」


「市は関係ない、と?」


「期間判断は審査庁の仕事です」


「でしょうね」


 私は少しだけ拍子抜けしました。


 ここで沢渡課長が壁になると思ったのに。


「でも」


 彼は続けました。


「本案に入れば、市の駅前整備計画は無関係ではありません」


「ですよね」


「三浦さんの処分が取り消されると、市として困るんですか」


 私が聞くと。


 沢渡課長はすぐには答えませんでした。


「程度によります」


「程度?」


「一件だけなら大きな影響はないかもしれません」


「じゃあ取り消してもいい?」


「話を飛ばさないでください」


「すみません」


「ただし」


 沢渡課長は書類を机へ置きました。


「もし同様の占用許可取消しが多数見直されるなら、駅前整備全体への影響はあります」


 私は、その言葉に引っかかりました。


 多数。


 全体。


 影響。


 昨夜のテキスト。


 頭の隅にあった言葉が、起き上がります。


 事情裁決。


 処分が違法又は不当でも。


 取消しによって公の利益に著しい障害が生じる。


 諸事情を考慮して、


 それでも取り消すことが公共の福祉に適合しない。


 そんな例外的な場合。


 処分を取り消さず、


 審査請求を棄却することがある。


 ただし。


 そのときは、


 処分が違法又は不当であることを宣言する。


 私は沢渡課長を見ました。


「課長」


「何でしょう」


「今の、『全体への影響』って」


「はい」


「だから、一件の処分に問題があっても、そのままにする場合があるってことですか」


 沢渡課長の目が少し細くなりました。


「ずいぶん先まで考えますね」


「違うんですか」


「制度上、そういう考え方が全くないわけではありません」


 相馬先輩が横から言います。


「朝比奈」


「はい」


「飛びすぎだ」


「ですよね」


「今は却下されるかどうかだ」


「はい」


「事情裁決まで行く前に、入口で転んでたら笑い話にもならん」


「はい……」


 正しい。


 現代知識どころか、未来の争点まで先回りしていました。


 でも。


 ひとつだけ分かりました。


 棄却。


 という言葉も。


 単純に、


 お前の言い分は間違い。


 だけではない。


 場合によっては。


 言い分は正しい。


 処分もおかしい。


 それでも公の利益との関係で取り消さない。


 そんな棄却まであり得る。


 ややこしい。


 でも。


 ややこしいからこそ、


 結論だけ見てはいけない。


「所長」


 私は小声で言いました。


「棄却って、一種類の負けじゃないんですね」


「そうだ」


「却下なんて、もっと違う」


「そうだ」


「結果の文字だけ読んだら危ない」


「やっと気づいたか」


「昨夜までは二文字の違いでした」


 片桐所長が歩き出しました。


「今日は人の店がかかっている」


 はい。


 その通りです。


 県庁。


 不服申立て担当の窓口。


 三浦さんの審査請求書の控えと、


 六月四日の受領を示す資料。


 不在票。


 再配達記録。


 営業日誌。


 鹿児島へ行っていた期間を示す切符の控え。


 相馬先輩が机へ並べます。


「昨日、期間経過の可能性を言われたそうだが」


 担当職員が資料を確認しました。


「処分日は五月二日ですので」


「処分日から数えるのか?」


「いえ」


 職員が言葉を止めました。


「処分があったことを知った日の確認が必要です」


 来た。


 私は思わず背筋を伸ばしました。


「本人が通知を受け取ったのは六月四日です」


「その資料がこちらですね」


「はい」


 職員が一枚ずつ見ます。


 数分。


 ただの数分なのに。


 三浦さんは膝の上で手を握ったまま動きません。


 私は横で思いました。


 法律の期間って。


 試験問題では、


 六月四日から六十日。


 正しいものを選べ。


 それだけです。


 でも現場では。


 六十日をどう数えるかで、


 百万円の工事費をかける店が、


 そもそも中身を聞いてもらえるかどうかが決まる。


 数字が、急に重い。


「現時点で」


 職員が言いました。


「期間徒過を理由に直ちに不適法と扱う状況ではありません」


 三浦さんが顔を上げました。


「それは」


「審査請求の内容について、所定の手続で確認します」


「じゃあ」


 三浦さんの声が震えました。


「中身を見てもらえるんですか」


「はい」


 その一言で。


 三浦さんの肩が少し下がりました。


 勝ったわけではありません。


 処分はまだ生きています。


 撤去期限も迫っている。


 審査請求をしたからといって、当然に処分の効力が止まるわけでもない。


 別の対応も急がなければならない。


 でも。


 門前払い。


 そこだけは、一歩押し返した。


「さらに」


 片桐所長が言いました。


「本案について資料を追加したい」


「どうぞ」


「市の駅前整備計画では、三浦文具店前の具体的工事時期は未定だ」


「はい」


「庇と陳列棚が一体で、撤去には相当の費用がかかる」


「確認します」


「近隣店舗で、同様の占用物件が残っている場所もある」


 職員のペンが止まります。


「ありますか」


「写真を付ける」


「分かりました」


「その差を合理的に説明できるのか。駅前整備の目的との関係で、今すぐこの処分が必要なのか。そこを審査してほしい」


「承知しました」


 相馬先輩が小声で言います。


「これで入口」


「はい」


「ここから中身」


「はい」


 私は頷きました。


 却下と棄却。


 昨日まで、


 似た単語。


 今日から、


 立っている場所がまるで違います。


 県庁から出ると。


 三浦さんが空を見上げました。


「先生」


「はい」


 私は返事をしました。


「これで勝てるんでしょうか」


 すぐには答えられません。


 だから。


 片桐所長を見る。


 所長は三浦さんに言いました。


「分かりません」


 三浦さんの顔が少し曇ります。


「でも」


 所長は続けました。


「少なくとも、理由を聞かずに帰される段階ではなくなった」


「……そうですか」


「次は中身です」


 相馬先輩が言いました。


「県が、あんたの店を今すぐどかす必要が本当にあるのか」


「はい」


「他の店と扱いが違うなら、その理由は何か」


「はい」


「市の計画と処分が、本当にそこまで結びついてるのか」


「はい」


「そこを紙で殴る」


「先輩」


「何だ」


「表現が怖いです」


「比喩だ」


「分かってます」


 三浦さんが初めて笑いました。


「紙なら、うちに山ほどありますよ」


「文房具屋ですもんね」


「上質紙も模造紙もあります」


「申立書は模造紙に書きません」


「冗談ですよ」


 笑える余裕が戻った。


 それだけでも。


 朝の三浦さんとは少し違います。


 事務所へ戻ったのは夕方でした。


 三浦さんは帰り際。


 最初に持ってきた紙袋を机へ置きました。


「これ、よかったら」


「何ですか?」


「売り物にならない鉛筆です」


「鉛筆?」


 袋を開けます。


 大量の鉛筆。


 ただし。


 印字が少しずれている。


 軸の塗装に傷がある。


 短い。


 箱が潰れている。


 商品としては半端。


 でも使うには何の問題もない。


「もらっていいんですか」


「どうせ処分するやつです」


 相馬先輩が一本取ります。


「食えねえな」


「先輩、差し入れを見る基準が胃袋しかないんですか」


「鉛筆で腹は膨れねえ」


「仕事はできます」


「仕事したら腹減るだろ」


「永久機関みたいな理屈やめてください」


 三浦さんが笑いました。


「今度は煎餅持ってきます」


「お願いします」


「即答!」


 そのとき。


 相馬先輩が一本の鉛筆を私へ投げました。


「ほら」


「危ない!」


 受け取る。


 赤鉛筆でした。


 朝、三回落としたのと同じ色。


「却下と棄却、書いとけ」


「もう覚えましたよ」


「怪しいな」


「覚えました!」


 私はメモ用紙に書きました。


 却下。


 入口で止まる。


 棄却。


 入口を通ったあと、中身を見て退けられる。


 そして。


 少し下に、


 事情裁決。


 とだけ書きました。


 相馬先輩が覗き込みます。


「そこはまだ早え」


「分かってます」


「三浦さんの処分が違法だとも不当だとも、まだ決まってねえ」


「はい」


「公の利益に著しい障害が出るとも決まってねえ」


「はい」


「駅前整備って言葉だけで、事情裁決まで飛ぶな」


「……はい」


 耳が痛い。


 法律を覚えたての受験生。


 新しい武器を手にすると、何でもそれで斬りたくなる。


 行政法あるあるです。


 片桐所長が、私のメモを見ました。


「ただ」


「はい?」


「忘れるな」


「何をです?」


「事情裁決で棄却されたからといって、処分が正しかったとは限らん」


 私は手を止めました。


「……はい」


「違法又は不当だと認めても、公の利益との関係で取り消さない。そういう棄却もある」


「はい」


「だから結論だけ見るな」


 所長が言いました。


「理由を読め」


 それでした。


 今日一日。


 ずっと引っかかっていたもの。


 却下。


 棄却。


 棄却。


 同じように見える言葉。


 でも。


 却下なら、


 中身に入れていない。


 普通の棄却なら、


 中身を見たうえで、請求に理由がない。


 事情裁決なら、


 処分がおかしいことを認めながら、


 なお別の公益上の理由で取り消さない。


 結論だけを見れば、


 全部、


 負け。


 でも。


 法律は。


 どこで。


 なぜ。


 どう負けたのかを、


 容赦なく分ける。


 そして。


 分けるからこそ、


 次に何をすればいいかが見えてくる。


 今日の三浦さんなら。


 まだ負けてすらいません。


 入口で帰されそうになった。


 でも。


 処分を知った日を示した。


 六十日の期間を確認した。


 審査請求は、本案へ進む。


 今度は。


 処分に理由があるのか。


 合理性があるのか。


 市の駅前整備計画との関係はどうか。


 そこを争う。


「却下と棄却って」


 私は呟きました。


「似てるから嫌いでした」


 相馬先輩が言います。


「試験でか」


「はい」


「今は?」


「似てるからこそ、分けないと怖いです」


 先輩は少しだけ笑いました。


「やっと現場の顔になってきたな」


「褒めました?」


「気のせいだ」


「またそれです」


 窓の外。


 駅のほうでは、工事用の測量杭が増えていました。


 駅前再整備。


 大きな計画。


 公共の利益。


 町全体の便利さ。


 たぶん。


 これから何度も、


 その言葉と誰か一人の生活がぶつかる。


 公共の利益だから。


 大勢のためだから。


 そう言われれば。


 一軒の文房具店は、小さく見えます。


 でも。


 事情裁決という仕組みが、


 公共の利益を理由に何でも許していい制度なら。


 わざわざ、


 処分が違法又は不当であることを宣言しろ、


 なんて仕組みにはならないはずです。


 そこまで考えて。


 私は首を振りました。


「朝比奈」


「はい」


「また先走ってるだろ」


「ばれました?」


「顔に出てる」


「次の論点を少し」


「三浦さんの本案が先だ」


「はい」


「目の前の一件をやれ」


「はい」


 相馬先輩の言う通りです。


 未来の制度。


 制度改正の理由。


 事情裁決。


 頭にはいくらでも論点が浮かびます。


 でも。


 今助ける相手は、


 駅北の文房具屋さん一軒。


 期限を越えていない審査請求を、


 期限切れ扱いさせない。


 まず、それ。


 法律は冷たい。


 六十日。


 不適法。


 却下。


 理由なし。


 棄却。


 公共の福祉。


 事情裁決。


 どれも、人の顔をしていません。


 でも。


 人の顔を見ない言葉だからこそ、


 役所にも、


 相談者にも、


 同じ線を引ける。


 処分の日付が古いから駄目。


 そんな雑な一言を止めて、


 いつ知った。


 証拠は。


 期間は。


 適法か。


 中身まで審査したのか。


 処分は本当に妥当か。


 公益への障害は、本当に「著しい」のか。


 ひとつずつ切り分けられる。


 感情では突破できない壁に。


 冷たい定規を当てる。


 それが法律なのかもしれません。


 私は赤鉛筆で、


 今日のメモの最後を囲みました。


 ――「負けた」で終わるな。どこで、なぜ退けられたのかを分けろ。


「長え」


 相馬先輩が言いました。


「今日の教訓です」


「もっと短くしろ」


「じゃあ」


 少し考えます。


 ――却下は入口。棄却は中身。


「それでいい」


「事情裁決は?」


「今日は欲張るな」


「はい」


 片桐所長が帳簿を閉じます。


「こはる」


「はい」


「その赤鉛筆」


「何です?」


「事務所のだ」


「え?」


「三浦さんの袋から取ったのは俺の机に置け」


「一本くらいいいじゃないですか」


「駄目だ」


「不服です」


「却下」


「待ってください!」


 私は赤鉛筆を握りました。


「今の却下、理由は何ですか!」


「事務所の備品だからだ」


「それ、中身を判断してますよね!」


 相馬先輩が吹き出します。


「所長」


 私は指を突きつけました。


「今のは却下じゃなくて棄却です!」


 片桐所長が一秒だけ黙りました。


「……そうだな」


「認めた!」


「一本だけ持って帰れ」


「やった!」


「おい」


 相馬先輩が言いました。


「それ、認容じゃねえか」


 三人で黙りました。


 それから。


 なぜか全員、笑いました。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 どうやら今日のところは、


 却下と棄却の違いだけは、


 誰よりよく分かる事務所になったようです。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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