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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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201/282

[行政不服審査法44条・裁決の時期]現場編 「もう審理は終わっていますから、お待ちください」の罠。終わった審査を棚に寝かせる役所と、“次は裁決だ”と時間を動かす一枚の照会書

挿絵(By みてみん)

 役所の「もう少しお待ちください」は、期限を書かなければ、たいてい強いです。


 一週間。


 一か月。


 三か月。


 待つ側だけが、毎朝カレンダーを見ます。


 そして役所の棚の中では、書類は一日も歳を取りません。


 ――でも。


 手続が終わったのなら。


 次にやることは、待たせることではありません。


 昭和六十三年。


 地方都市。


 片桐行政書士事務所。


 その日の朝、私は壁掛けカレンダーに赤鉛筆で丸をつけていました。


「先輩」


「何だ」


「今日で四十七日です」


「何が」


「駅前商店街の歳末福引きまで」


「知らん」


「夢がない」


「当たりゃ米だろ」


「一等は温泉旅行です」


「じゃあ当てろ」


「その助言で当たったら福引き業界が崩壊します」


 相馬先輩は新聞をめくりました。


 私は赤鉛筆を置きます。


 机の上には、昨日までなかった封筒。


 茶色。


 角がすり減っている。


 表には、几帳面な字で、


 ――片桐行政書士事務所御中。


 相談者が持ってきたものです。


 その人は、私の向かい側に座っていました。


 名前は、柴崎源一さん。


 五十八歳。


 駅から少し離れた県道沿いで、小さな仕出し屋を営んでいます。


 柴崎商店。


 仕出し弁当。


 折詰。


 法事の料理。


 町内会の集まり。


 工場の残業食。


 派手ではないけれど、町にずっとある店です。


 そして今。


 柴崎さんの前には、一枚の紙がありました。


 県の保健関係の出先機関から出された、


 営業に関する不利益な処分。


 その処分を不服として、


 柴崎さんはすでに審査請求をしていました。


「もう、出すものは全部出したんです」


 柴崎さんが言いました。


「はい」


「向こうから聞かれたことにも答えました」


「はい」


「追加の書類も持っていきました」


「はい」


「なのに、それから何にも来んのです」


 私は手元の記録を見ました。


 審査請求。


 提出済み。


 補正。


 済み。


 処分庁側からの説明。


 こちら側からの主張。


 追加資料。


 提出済み。


 最後に県の担当者から、


 ――必要な審理は概ね終了しました。


 そう言われたのが、


 一か月以上前。


「その後、電話しました?」


「三回」


「何て?」


「一回目は、『現在検討中です』」


「はい」


「二回目は、『関係課と調整しています』」


「はい」


「三回目は――」


 柴崎さんが苦笑しました。


「『審理は終わっていますので、あとは裁決をお待ちください』」


 私は止まりました。


「……終わってるんですよね」


「そう言われました」


「なのに、待つだけ?」


「はい」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「困るのは何だ」


 柴崎さんがそちらを向きます。


「十二月なんです」


「十二月?」


「うちは仕出し屋ですから」


 あ。


 私は壁のカレンダーを見ました。


 十一月。


 年末まで、もうそれほどありません。


「忘年会?」


「それもあります。それに歳末の弁当、仕事納めの折詰、お寺さんの集まり」


「年末が稼ぎ時なんですね」


「一年で一番です」


 柴崎さんは指を組みました。


「処分がこのままなら、大口の注文を受けていいのか分からん。先方にも説明できん。取消しになるかもしれんし、ならんかもしれん」


 そうか。


 結果が悪いなら悪いで、


 次の手を考えられる。


 設備を直す。


 営業形態を変える。


 別の場所を借りる。


 裁判を考える。


 でも。


 結論がない。


 これは、一番動きにくい。


「注文はもう来てるんですか」


「工場から百二十食」


「百二十」


「去年から頼まれてる得意先です」


「返事は?」


「待ってもらっとる」


「いつまで?」


「明後日です」


 うわ。


 生活の期限と、役所の期限が、まったく噛み合っていません。


 役所は、


 検討中。


 商売は、


 明後日まで。


 行政法のテキストには、たぶん「百二十食の弁当」は出てきません。


 でも今。


 柴崎さんの百二十食が、


 妙に重い。


「審査請求したのは、いつです?」


 私は聞きました。


「夏です」


「かなり経ってますね」


「最初は、ちゃんと調べてもらえるならと思ってました」


「はい」


「でも今は」


 柴崎さんが紙を見ました。


「調べ終わったなら、何で決めてくれんのかと思って」


 それです。


 私は椅子の背にもたれました。


 審査請求。


 裁決。


 裁決の時期。


 頭の奥で、


 現代の行政不服審査法が立ち上がります。


 審理員意見書。


 行政不服審査会への諮問。


 答申。


 そのあと――


 遅滞なく、裁決。


「……遅滞なく」


 思わず口にしました。


 相馬先輩がこちらを見る。


「何だ?」


「あ」


 まずい。


 またです。


 未来法が勝手に出勤してきました。


 ここは昭和六十三年。


 現代の行政不服審査法第四十四条を、そのまま机に置いてはいけません。


 この時代には、


 審理員制度もない。


 行政不服審査会への諮問もない。


 そもそも不服申立ての仕組み自体、


 現代とは違う。


「どうした」


「頭の中で平成が侵入してきました」


「病院行け」


「行政法の話です!」


「もっと悪い」


 ひどい。


 でも否定しづらい。


 片桐所長が奥の机から顔を上げました。


「こはる」


「はい」


「今、何を考えた」


「現代なら――」


「今の話をしろ」


「……はい」


 一刀両断。


 未来知識の持ち込み、却下。


 私は一度、柴崎さんの書類に目を戻しました。


 今使える制度。


 今の記録。


 今の手続。


 そこを見る。


「先輩」


「何だ」


「審理、本当に終わってるか確認しましょう」


「やっとそこか」


「やっとって」


「『遅い』と言う前に、何が終わってるか確かめる」


 あ。


「そうですね」


「途中なら、途中の理由がある」


「でも終わってるなら?」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「待たせてる理由を聞く」


 片桐所長も帳簿を閉じました。


「県へ行くぞ」


「はい」


 柴崎さんが驚いて顔を上げました。


「今日ですか」


「今日です」


 相馬先輩が言います。


「明後日までに弁当の返事するんだろ」


「はい」


「なら、こっちにも時間がねえ」


 県の合同庁舎。


 古い廊下。


 灰色の床。


 壁に貼られた標語。


 節電。


 火の用心。


 交通安全。


 そして。


 こういう建物では、なぜか時計の音だけがよく聞こえます。


 案内された会議室には、


 県の担当職員が二人。


 そして。


「またいらっしゃいましたね」


 もう一人。


 沢渡課長。


 私は目を瞬きました。


「何で市役所の沢渡課長が県庁にいるんですか」


「今日は市の駅前整備関係の協議です」


「ああ」


「そのついでに顔を出せと言われまして」


 相馬先輩が嫌そうな顔をします。


「お前、どこにでもいるな」


「相馬さんほどではありません」


 県の担当者が咳払いしました。


「柴崎さんの審査請求についてですね」


 片桐所長が頷きます。


「審理の状況を確認したい」


「必要な資料は概ね揃っております」


「審理は終わったのか」


「実質的には」


 相馬先輩の眉が動きました。


 私は心の中で警報を鳴らします。


 出た。


 行政用語。


 実質的には。


 だいたい終わった。


 概ね済んだ。


 ほぼ問題ない。


 この辺りの言葉は、役所の廊下で繁殖する生き物です。


「実質的には、って何です?」


 私は聞きました。


「必要な主張や資料は揃っているということです」


「じゃあ、柴崎さんから追加で何か出す予定は?」


「現時点ではありません」


「処分庁から追加資料は?」


「予定していません」


「口頭で話を聞く予定は?」


「ありません」


「ほかに調べることは?」


 担当者が少し黙ります。


「現時点では、特段」


 私はノートに一つずつ書きました。


 追加主張。


 なし。


 追加資料。


 なし。


 追加聴取。


 なし。


 調査。


 特段なし。


 つまり。


「審査としてやること、残ってないですよね」


「裁決に向けた内部調整があります」


 来ました。


「内部調整」


「はい」


「何を調整してるんです?」


「関係課との確認です」


「何の確認?」


「処分を取り消した場合の影響などもありますから」


 なるほど。


 そこは分からなくもありません。


 裁決は紙に判子を押すだけではない。


 結論によって行政実務も動く。


 でも。


 私は柴崎さんの顔を思い浮かべました。


 百二十食。


 明後日。


「いつまでに終わります?」


「それは、何とも」


 あ。


 そこです。


 私はペンを止めました。


「一週間ですか」


「申し上げられません」


「一か月?」


「時期については――」


「二か月?」


「朝比奈さん」


 担当者が困った顔をしました。


「慎重に検討しておりますので」


 慎重。


 便利です。


 すごく便利です。


 慎重に検討しています。


 そう言われると、


 急かす側が雑に見える。


 でも。


 慎重であることと、


 期限を失うことは同じではありません。


「柴崎さん」


 片桐所長が言いました。


「年末の仕事の話を」


 柴崎さんは少し緊張した顔で話しました。


 工場から百二十食。


 返答期限は明後日。


 ほかにも年末の予約がある。


 結果が分からないため受けられない。


 仕入れの予約も止まっている。


 従業員の勤務も決められない。


「審査を急げと言っているわけじゃありません」


 柴崎さんは言いました。


「もう調べ終わったと言われたんです」


 部屋が静かになりました。


「だから」


 柴崎さんは続けました。


「駄目なら駄目で、早く言ってほしいんです」


 その言葉。


 痛い。


 人は必ずしも、


 良い答えだけを待っているわけではありません。


 次へ進むために、


 答えそのものを待っている。


 私は県の担当者を見ました。


「慎重に審理する時間は必要だと思います」


「はい」


「でも、審理が終わったあとまで、無期限に慎重でいる必要はありますか」


「無期限というわけでは」


「じゃあ、いつです?」


「それは――」


 詰まります。


 相馬先輩が低い声で言いました。


「お前らがまだ調べてるなら、こっちも待つ」


 担当者を見る。


「追加資料がいるなら出す」


 さらに一歩。


「聞きたいことがあるなら答える」


 もう一歩。


「でも何もねえんだろ」


「……はい」


「だったら今やってるのは審理じゃねえ」


 相馬先輩が机を指先で叩きました。


「結論を置いてるだけだ」


 空気が変わりました。


 ああ。


 これです。


 怒鳴っていない。


 脅していない。


 ただ。


 段階を切り分けた。


 審理中なのか。


 審理終了後なのか。


 そこを分けただけ。


 でも、それだけで、


 「検討中です」


 という大きな霧が、


 少し薄くなりました。


 沢渡課長が眼鏡を上げます。


「県としては、裁決時期の見通しを示したほうがよろしいでしょうね」


 担当者が沢渡課長を見ます。


「沢渡さん」


「私は市の人間ですから、本件に口を出す立場ではありません」


「じゃあ黙っててください」


「ですが」


 まったく黙る気がない。


「申立人側から見れば、審理が終了しているのか、まだ何か手続が残っているのか分からない状態が一番困るでしょう」


「……」


「残っているなら示す。残っていないなら結論へ進む」


 沢渡課長は淡々と言いました。


「それだけの話です」


 私は思わず見ました。


 この人。


 今日は敵側なのに、完全に交通整理係です。


 県の担当者が書類をめくりました。


「少し確認させてください」


 席を立つ。


 もう一人も出ていきます。


 扉が閉まりました。


「課長」


 私は小声で言いました。


「さっきちょっと味方でした?」


「違います」


「早い」


「役所の仕事が止まっているのが嫌いなだけです」


「合理主義者」


「褒め言葉として受け取ります」


 相馬先輩が鼻で笑います。


「お前、こいつと仲良くなってんじゃねえぞ」


「なってません」


「私も困ります」


「そっちから拒絶しないでください」


 十分ほどして。


 担当者が戻りました。


「確認しました」


 片桐所長が顔を上げます。


「結論は」


「審理として予定している手続は、終了しています」


 はっきり言いました。


 私はノートに、


 ――審理終了。


 と書きます。


「現在は裁決書案について、内部決裁を進めている段階です」


「いつ」


 相馬先輩。


 短い。


「今週中を目途に」


「目途じゃなく」


 相馬先輩が言いかける。


 片桐所長が手で止めました。


「いい」


「所長?」


「今日確認したことを書面にする」


 所長が私を見ます。


「こはる」


「はい」


「作れ」


「何をです?」


「照会書」


 私は一瞬考えました。


 そして分かりました。


 言った。


 言わない。


 ではなく。


 今日、県が確認した内容。


 審理手続が終了していること。


 追加資料等を予定していないこと。


 裁決に向けた内部手続に入っていること。


 今週中を目途としていること。


 それを紙にする。


「分かりました」


「感情は入れるな」


「はい」


「『早くしてください』だけでもない」


「はい」


「今どの段階にあるかを固定しろ」


「はい」


 なるほど。


 またです。


 論点が見えると、


 霧だったものが紙に変わる。


 私はバッグから便箋を出しました。


 その場で骨子を書く。


 柴崎源一氏に係る審査請求について。


 本日確認したところ、


 審理上予定されていた資料提出その他の手続は終了しているとのことであった。


 現在は裁決に向けた内部手続の段階にあるとのことであった。


 申立人には年末営業に関する現実の判断期限が迫っている。


 したがって、裁決時期について可能な限り具体的な見通しを示されたい。


 ここまで書いて。


 私はペンを止めました。


 頭の中に。


 また未来法が顔を出します。


 行政不服審査法第四十四条。


 行政不服審査会等から答申を受けたとき。


 諮問が不要なら、一定の場合を除き審理員意見書が提出されたとき。


 ――遅滞なく、裁決。


「……先輩」


「今度は何だ」


「未来だと、ここ、もっと分かりやすくなってるんですよ」


「また始まった」


「審理員が意見書を出して、それから行政不服審査会に諮問して、答申を受けたら――」


「待て」


「はい」


「審理員って誰だ」


「まだ生まれてない制度です」


「帰れ」


「人にじゃなくて制度に言ってください!」


 沢渡課長が少しだけ笑いました。


「何です?」


「いえ」


「絶対笑いましたよね」


「未来の法律を現在の県庁で説明する人は初めて見ました」


「好きでやってるわけじゃありません!」


 片桐所長が私の便箋を取ります。


「未来の条文は書くな」


「書きません」


「今の事実だけ書け」


「はい」


 そう。


 ここが大事です。


 昭和六十三年に、


 現代の第四十四条はありません。


 審理員もいない。


 行政不服審査会への諮問もない。


 だから、


 未来の法律を根拠に県を殴ることはできない。


 でも。


 未来の制度を知っているからこそ、


 私は逆に気づけた。


 現代法は、


 どこまで審理が終われば、


 次に何をすべきかを、


 ずいぶん細かく見える形にしている。


 審理員意見書。


 諮問。


 答申。


 裁決。


 そして最後に、


 遅滞なく。


 たぶん。


 手続が止まる場所を減らすためです。


 誰の机で止まっているのか。


 何待ちなのか。


 次は何なのか。


 それを分ける。


 旧法の現場に立つと、


 後の改正が急に、


 受験生いじめではなくなって見えます。


 夕方。


 事務所へ戻ると。


 私はすぐ照会書を清書しました。


 片桐所長が赤鉛筆を入れます。


 文章を三行削る。


「削りすぎじゃないです?」


「長い」


「事情が」


「必要な事情だけ残せ」


 相馬先輩が横から覗きます。


「ここもいらねえ」


「そこは私の力作です」


「だからいらねえ」


「ひどい」


 結果。


 二枚だった照会書は、


 一枚半になりました。


 法律実務。


 私の文章力と相性が悪い。


 翌朝。


 県へ提出。


 そして。


 三日後。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『県の不服審査担当です』


 私は背筋を伸ばしました。


「はい」


『柴崎源一さんの件ですが』


「はい」


『裁決が出ました』


 早。


「え?」


『本日付です』


「……本日?」


『はい』


 私は受話器を押さえます。


「先輩」


「何だ」


「出ました」


「何が」


「裁決」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「結論は」


 私は電話へ戻ります。


「内容を伺えますか」


『一部取消しです』


 心臓が一つ大きく鳴りました。


『処分について、事実認定と判断過程に再検討を要する部分があるとして、一部を取り消し、改めて処分庁に判断させる内容です』


「全部取消しではない?」


『はい』


「営業がすぐ全面的に元通りということでも?」


『そこまでは』


「分かりました」


 電話を切ります。


 柴崎さんへ連絡。


 一時間後。


 柴崎さんが事務所に飛び込んできました。


「どうでした!」


 息を切らしています。


「全部勝ったわけじゃありません」


 私はまず言いました。


「はい」


「でも、一部は取り消されました」


「……取り消し?」


「もう一度、処分庁で判断し直す部分が出ました」


 柴崎さんは何秒か黙りました。


「じゃあ」


「はい」


「店は?」


「その点も含めて、今日中に処分庁と具体的に確認します」


「年末の注文は?」


「そこです」


 相馬先輩が電話を取ります。


「今から詰める」


 夕方。


 話はさらに動きました。


 処分庁側は、


 裁決を受け、


 再判断までの間の営業について、


 必要な条件を付した上で対応を整理することになりました。


 柴崎さんの百二十食。


 受けられる見通しが立った。


「本当ですか」


「はい」


「百二十、作っていい?」


「条件は守ってくださいね」


「守ります!」


 柴崎さんの顔が、


 初めて相談に来たときと全然違いました。


 まだ。


 完全解決ではありません。


 再処分もある。


 設備について直す部分もある。


 県の裁決が出たから、


 何もかも柴崎さんの主張どおりになったわけではない。


 でも。


 止まっていた時計が動いた。


 それだけで、


 明後日の返事ができる。


 仕入れができる。


 従業員に仕事を頼める。


 百二十個の弁当箱を用意できる。


 法律が人を助けるときって、


 いつも大逆転じゃないんだな。


 私は思いました。


 決めるべき段階で、


 ちゃんと決めてもらう。


 ただそれだけでも。


 生活は動き出す。


「朝比奈さん」


 柴崎さんが言いました。


「はい」


「裁決って、もっと大げさなものだと思っとりました」


「私もです」


「何かこう、偉い人が」


「木槌を?」


「そうそう」


「それ裁判のイメージです」


「違うの?」


「だいぶ違います」


 柴崎さんは笑いました。


 そして。


「これ」


 大きな包みを机に置きます。


 相馬先輩の目が光りました。


「何だ」


「試作品」


 開ける。


 折詰弁当。


 煮物。


 玉子焼き。


 焼き魚。


 鶏の照り焼き。


 漬物。


 そして栗ご飯。


「うわ」


 思わず声が出ました。


「年末用です」


「これ売り物ですよね」


「味見して」


 相馬先輩がすでに箸を取ります。


「先輩!」


「味見だ」


「まだ所長が」


「冷める」


「弁当は最初から冷めてます!」


 片桐所長が奥から出てきました。


「柴崎さん」


「はい」


「まだ終わりじゃない」


 柴崎さんが頷きます。


「分かってます」


「再処分を見ろ」


「はい」


「条件も確認する」


「はい」


「それからだ」


「お願いします」


 所長はそこで一度だけ、


 弁当を見ました。


「玉子焼き」


「はい?」


「一つもらう」


 私は目を見開きました。


「所長が先に取った!」


「悪いか」


「相馬先輩と同じ側の人だったんですね」


「何の側だ」


「差し入れ即時執行派」


「意味が分からん」


 柴崎さんが声を上げて笑いました。


 その日の夕方。


 県から届いた裁決書の写しを前に、


 私は自分のノートを開きました。


 そして端に、


 小さく書きます。


 ――審理が終わったら、次は結論。


 少し考えて。


 もう一つ。


 ――「待ってください」の前に、今どの段階かを聞く。


「何書いてんだ」


 相馬先輩が覗き込みます。


「今日の教訓です」


「二つあるぞ」


「どっちも大事なので」


「一つにしろ」


「じゃあ」


 私は線を引いて、書き直しました。


 ――手続が終わったなら、役所の時間も止めさせない。


 相馬先輩が黙ります。


「どうです?」


「まあ」


「まあ?」


「悪くねえ」


「褒めましたね」


「気のせいだ」


 そこへ電話。


 私が取ります。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『沢渡です』


「今日はもう県庁にいませんよね?」


『市役所です』


「安心しました」


『何を心配しているんですか』


「出現範囲です」


『ところで、柴崎さんの裁決、出たそうですね』


「はい」


『早かったですね』


「早かったというか」


 私は少し考えます。


「審理が終わってから、止まってたんですよ」


『そうでしょうね』


「分かってたんですか」


『役所の仕事は、途中より最後の一枚で止まることがあります』


「怖いこと言いますね」


『調査中なら、調査している人がいます』


「はい」


『審理中なら、審理している人がいます』


「はい」


『ですが、判断待ちになると』


 一拍。


『全員が、自分以外の誰かが決めると思い始めることがある』


 嫌なほど分かりやすい。


「だから、段階を区切るんですね」


『そうです』


「審理は終わった」


『ええ』


「次は裁決」


『ええ』


「そこを曖昧にさせない」


『朝比奈さん』


「はい」


『役所を動かすとき、怒鳴る必要はありません』


「……はい」


『今、どの手続ですか』


「はい」


『次に誰が何をしますか』


「はい」


『いつまで止まる理由がありますか』


 私はノートを見ました。


 まるで。


 見えない役所の中に、


 一本ずつ線を引くみたいです。


「課長」


『何でしょう』


「現代の行政不服審査法だと――」


『切りますよ』


「まだ何も言ってません!」


『審理員でしょう』


「何で知ってるんですか!」


『前にも聞きました』


 そうでした。


『未来の制度は未来で使ってください』


「正論なのが腹立つ」


『では』


「あ、待ってください」


『何でしょう』


「今回、県が三日で裁決したじゃないですか」


『はい』


「最初から三日でできたのでは?」


 少し沈黙。


『そういう質問は』


「はい」


『役所の人間が一番嫌う質問です』


「でしょうね」


 電話が切れました。


 私は受話器を置きました。


「何だって?」


 相馬先輩。


「役所の人が嫌う質問をしたら切られました」


「何聞いた」


「最初から三日でできたんじゃないですかって」


「お前、嫌な奴になってきたな」


「成長したって言ってください」


「嫌な成長だ」


 窓の外では。


 日が落ちるのが、ずいぶん早くなっていました。


 十一月。


 これから町は年末へ向かいます。


 商店街は忙しくなる。


 工場も。


 仕出し屋も。


 役所だって忙しいでしょう。


 でも。


 忙しいからこそ、


 手続には順番がある。


 調べる。


 聞く。


 考える。


 そして。


 決める。


 どこまで来ているのかを曖昧にしない。


 それだけで、


 「検討中です」という言葉はずいぶん弱くなる。


 私は未来の第四十四条を思い出しました。


 審理員。


 意見書。


 諮問。


 答申。


 そして、


 遅滞なく裁決。


 昭和六十三年のこの机では、


 まだ使えない仕組みです。


 でも。


 未来の法律が、


 なぜそんなふうに段階を細かく区切ったのか。


 少しだけ分かった気がしました。


 行政に考える時間は必要です。


 けれど。


 考え終わったあとまで、


 人の生活を棚の上に置いておくための時間は、


 たぶん別物です。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「弁当」


「はい?」


「残ってるか」


 見る。


 空。


「……ありません」


 所長が相馬先輩を見る。


 相馬先輩は新聞で顔を隠しました。


「先輩」


「何だ」


「食べましたね」


「知らん」


「玉子焼きも?」


「知らん」


「鶏の照り焼きも?」


「記憶にない」


「栗ご飯は?」


「審理中だ」


「胃袋に入った時点で審理終わってます!」


「慎重に検討してる」


「何をですか!」


 片桐所長が短く言いました。


「こはる」


「はい」


「裁決」


「有罪です」


「早い!」


 相馬先輩が抗議します。


「弁明の機会をくれ!」


「現物が消えてます!」


「証拠不十分だ!」


「口の横に栗ついてますよ!」


 相馬先輩が無言で口元を拭いました。


 私は机を叩きました。


「はい、審理終了!」


「待て!」


「遅滞なく裁決します!」


「お前、未来法を持ち込むな!」


 それを言われると弱い。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 どうやら今日いちばん迅速だった裁決は、


 柴崎さんの事件ではなく、


 栗ご飯窃盗事件のほうだったようです。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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