[行政不服審査法43条・行政不服審査会等への諮問]現場編 「役所の中でちゃんと見直しますから」の罠。自分で出した答えを自分で採点する旧法と、第三者の目を入れる未来の仕組み
自分で書いた答案を、自分で採点すると。
だいたい、ちょっと甘くなります。
人間ですから。
役所だって、人間の集まりです。
だから私は、その日。
「役所の中できちんと見直します」
という言葉を聞いて、
安心するより先に、
――誰が?
と思ってしまいました。
昭和六十三年。
地方都市。
片桐行政書士事務所。
朝から私は、一枚の許可証と、一枚の取消通知を机に並べていました。
「先輩」
「何だ」
「同じ役所が出してますね」
「当たり前だろ」
「出した許可を、出した役所が取り消して」
「そうだな」
「その取消しへの不服も、出した役所が見るんですよね」
相馬先輩が煙草に火をつけます。
「今日は朝から面倒くせえこと言うな」
「構造の話です」
「相談者の前で構造に感動するな」
「感動してません。若干ひいてます」
向かいの椅子で。
相談者の松井春江さんが、困ったように笑いました。
五十八歳。
駅前商店街の外れで、夫と二人、小さな惣菜店を営んでいます。
店の名前は、
まつい屋。
コロッケ。
煮豆。
卵焼き。
昼には弁当も出す。
そして春から。
店の前の市有地の一角を使って、昼時だけ折り畳み式の販売台を出していました。
駅前再整備で人の流れが変わり、
店の前を歩く人が減った。
そこで市役所に申請し、
道路脇の小さな空間について使用許可を取ったのです。
許可期間は一年。
ところが。
三か月ほど経ったある日。
突然、
――使用許可を取り消す。
という通知が来ました。
「理由は」
私は通知を読みます。
――駅前環境整備事業の実施に伴い、当該場所を公共的利用に供する必要が生じたため。
「公共的利用」
私は呟きました。
「便利ですね、この言葉」
「こはる」
片桐所長が奥から言います。
「嫌味は後にしろ」
「はい」
私は春江さんへ向き直りました。
「具体的に、何に使うって説明されました?」
「それがねえ」
春江さんは鞄から一枚のメモを取り出しました。
「担当の人に聞いたんです。そしたら、『駅前整備のためです』って」
「それだけ?」
「ええ」
「工事をする?」
「分からないって」
「歩道を広げる?」
「それもまだ決まってないって」
「イベントスペース?」
「聞いたら、『将来的にはそういうこともあるかもしれません』って」
私は相馬先輩を見ました。
「将来的にはそういうこともあるかもしれない」
「便利だな」
「便利ですよね」
「何にでも使える」
春江さんが、小さく息を吐きました。
「でもね、先生」
片桐所長が顔を上げます。
「はい」
「あそこが使えないと、昼のお弁当が売れないんです」
再開発工事で、駅から商店街へ抜ける通路が一部変更された。
以前は店の前を通っていた会社員や学生が、
一本向こうの仮設歩道へ流れている。
だから春江さんは、
その流れに近い市有地の一角で昼だけ販売台を出す許可を取った。
「許可をもらってから、少し戻ったんです」
「売上が?」
「はい」
「それが三か月で取消し」
「そうです」
春江さんの手が、膝の上で重なりました。
「取り消されたら、また元どおりです。店を閉めるほどじゃないけど……」
言葉が止まります。
「息子もまだ高校生で」
大事件ではありません。
生活が今日にも破綻するわけでもない。
でも。
こういう、
来月の支払いが少し怖くなる程度の傷が、
いちばん生活をじわじわ削ります。
「それで市役所に相談したら?」
相馬先輩が聞きました。
「不服があるなら、異議申立てができますって」
「ほう」
「それで私、『別のところで見てもらえるんですか』って聞いたんです」
春江さんは少し恥ずかしそうに笑いました。
「そしたら」
「はい」
「『市の処分ですので、市で見直します』って」
私は黙りました。
来ました。
旧法。
異議申立て。
処分した側へ、
その処分をもう一度見てください。
と申し立てる制度。
「……やっぱり、同じ人が見るんですか?」
春江さんが不安そうに聞きます。
「まったく同じ担当者が一人で決め直す、という意味ではありません」
私は言いました。
「ただ」
言葉を選ぶ。
「今の制度では、このケースは処分庁側に異議を申し立てて、見直しを求めることになります」
「役所が、自分で?」
「はい」
「自分で『間違ってました』って言うでしょうか」
そこなんですよね。
心の中で全力で頷きました。
この時代。
昭和六十三年。
旧行政不服審査法。
処分庁に上級行政庁がない場合などは、処分庁への異議申立てという仕組みが現役です。
未来。
私がいた時代なら。
頭に浮かぶのは、
審査請求。
審理員。
審理員意見書。
そして。
行政不服審査会などへの諮問。
――待った。
私は頭の中で急ブレーキを踏みました。
それは未来です。
平成二十六年全面改正後の世界。
今ここで、
「第三者機関に諮問されますから安心してください!」
などと言ったら、
私は行政書士見習いではなく、未来制度の押し売りです。
「こはる」
所長が言いました。
「今の法律で考えろ」
「……顔に出てました?」
「出てた」
相馬先輩が煙草の煙を吐きます。
「また未来の役人でも呼び出そうとしてたか」
「呼べるなら呼びたいです」
「やめろ。話が余計ややこしくなる」
ごもっともです。
私は通知書へ戻りました。
「春江さん」
「はい」
「まず、取消しの理由をもう少し確認しましょう」
「理由?」
「本当に今、その場所を空けなければならないのか」
「ああ」
「それと」
私は許可証を指しました。
「最初に許可したときと、三か月後に取り消したときで、何が変わったのか」
片桐所長が頷きました。
「そこだ」
「許可した時点でも駅前整備計画はありましたよね」
「ありました」
「では、三か月の間に新しい事情が出たのか」
「それは聞いてません」
「調べます」
相馬先輩が立ち上がりました。
「市役所行くぞ」
「早いですね」
「お前は紙と喧嘩してろ。俺は人に聞く」
「私も行きます」
「論点で役人を殴るなよ」
「口頭で殴りません」
「心では殴るのか」
「必要に応じて」
「やめろ」
市役所。
二階。
総務課。
駅前関係の案件で何度も来ているので、もはや廊下の床のきしむ場所まで覚えつつあります。
そして。
「また皆さんですか」
沢渡課長。
灰色の背広。
細い眼鏡。
今日も顔色ひとつ変わりません。
感情を役所の備品台帳に載せ忘れた男。
「松井春江さんの件です」
相馬先輩が通知を置きました。
「市有地使用許可の取消し」
「ええ」
「理由を聞きたい」
「通知書のとおりです」
「それじゃ足りねえから来てる」
沢渡課長は通知へ目を落としました。
「駅前環境整備事業の実施に伴い、公共的利用に供する必要が生じたためです」
文章を読み上げただけです。
役所版オウム返し。
私は一歩前へ出ました。
「何に使う予定なんですか」
「駅前整備です」
「具体的には」
「歩行空間、イベント時の利用、将来的な施設配置などを含めて検討しています」
「決まってるものは?」
「現段階では詳細な配置は確定していません」
はい。
来ました。
確定していない。
「じゃあ、取消しを急ぐ必要は?」
「整備事業を円滑に進めるためです」
「でも最初に許可したのは三か月前ですよね」
「そうですね」
「三か月前には、駅前整備計画はなかったんですか」
沢渡課長が少し黙ります。
「ありました」
「じゃあ何が変わったんです?」
沈黙。
相馬先輩が横で鼻を鳴らしました。
「そこ聞かれると思ってなかった顔だな」
「表情から勝手に事実認定しないでください」
沢渡課長は淡々と返します。
強い。
本当に強い。
「担当課からは、今後の工事や仮設施設配置を見据え、使用を整理する必要があるとの説明を受けています」
「その整理基準は?」
私が聞きました。
「基準?」
「誰の使用許可を取り消して、誰を残すのか」
「個別判断です」
「近くの新聞販売台は残ってます」
沢渡課長の目が止まりました。
これは相馬先輩が来る途中で拾った情報でした。
「駅東側の仮設案内所も残ってる」
相馬先輩が続けます。
「あれも市有地だろ」
「用途が違います」
「何がどう違う」
「公共性、設置目的、利用期間などを総合考慮しています」
「松井さんの台は昼二時間だけだ」
「それも考慮されています」
「どこに?」
相馬先輩の声が少し低くなります。
「記録に」
沢渡課長は答えました。
そこで。
片桐所長が初めて口を開きました。
「見せられる範囲でいい」
「何でしょう」
「取消しを判断した資料を確認したい」
「内部資料ですので、すべては出せません」
「全部とは言っていない」
「……」
「少なくとも」
所長は通知を指で軽く叩きました。
「三か月前に許可した事情と、今、取り消す事情の違いが分かるもの」
沢渡課長が眼鏡の奥から所長を見ます。
「不服申立てを予定されていますか」
「必要なら」
「この処分については異議申立てになります」
「分かっている」
「申立期間もあります」
「六十日だ」
「ええ」
私は心の中で、
よし。
と小さく拳を握りました。
危ない。
未来人の私は放っておくと、すぐ三か月と言いたがる。
昭和の行政法は、未来知識の抜き打ち試験をしてきます。
「ただ」
沢渡課長が続けました。
「異議申立てをされた場合、市として改めて判断します」
「そこなんです」
私は思わず言いました。
「何がです?」
「市が出した処分を、市が見直す」
「異議申立てですから」
「それは分かってます」
「では?」
「その見直しが、本当に外から見て公正だと、どう担保するんです?」
相馬先輩が小さく息を吐きました。
「こはる」
「はい」
「未来の制度を喋るな」
「まだ喋ってません」
「顔がもう喋ってる」
沢渡課長の目が細くなります。
「何か言いたいことがあるようですね」
「ありますけど、今ここにはない制度なので我慢してます」
「余計に気になりますね」
「未来ではですね」
「おい」
相馬先輩。
止めるのが一歩遅い。
「不服申立ての仕組みが大きく変わって」
「こはる」
「審査請求に原則一本化されて」
「朝比奈」
「処分に関与していない審理員が――」
「朝比奈こはる」
「はい!」
片桐所長の低い声で止まりました。
「今は昭和六十三年だ」
「……はい」
「制度改正案を出しに来たんじゃない」
「はい」
沢渡課長が、ほんの少し笑った気がしました。
「何です」
「いえ」
「笑いましたよね」
「気のせいでしょう」
この人まで。
「だが」
所長が続けます。
「こはるの疑問自体は間違っていない」
私は顔を上げました。
「行政が自分で自分の処分を見直す」
所長は言います。
「だからこそ、事実と理由を外から検証できる形にしなければならん」
なるほど。
制度がないなら。
制度をでっち上げるんじゃない。
今ある手続の中で、
役所が曖昧に逃げられないだけの材料を置く。
「松井さんの件は」
私は言いました。
「まず、取消しの必要性を具体化してもらう」
「うん」
「三か月前の許可後に何が変わったか」
「うん」
「なぜ他の使用者は残っているのか」
「うん」
「その比較が記録されているか」
「そこだ」
所長が言いました。
沢渡課長は腕を組みました。
「なるほど」
「何です?」
「感情論では来ないんですね」
「春江さんが困ってる、だけで取消しがひっくり返るとは思ってません」
「それは正しい」
「でも」
私は通知書を指しました。
「役所が一度出した処分だから正しい、とも思ってません」
少し。
空気が変わりました。
沢渡課長は通知を手に取りました。
「分かりました」
「何がです?」
「担当課の判断過程を確認します」
相馬先輩が眉を上げます。
「今?」
「今日中とは言っていません」
「逃げるな」
「事実を確認すると言っています」
この人。
本当に感情には一ミリも乗ってこない。
でも。
論点を置くと、そこからは逃げない。
「ただし」
沢渡課長が私を見ます。
「異議申立てをしたからといって、第三者が市の判断を採点してくれるわけではありません」
「分かってます」
「最終的には行政内部の見直しです」
「……そこが引っかかるんです」
「でしょうね」
沢渡課長は意外にも、あっさり認めました。
「処分を受けた側から見れば、自分たちで出した答えを自分たちで採点するように見える」
「はい」
「だからこそ」
沢渡課長が続けました。
「こちらも、理由を残さなければならない」
私は少し驚きました。
「課長がそれ言うんですね」
「私は役所に勤めていますが、役所を宗教だとは思っていません」
「名言みたいに言わないでください」
「事実です」
市役所を出たあと。
相馬先輩が言いました。
「で」
「はい」
「未来はどうなってんだ」
「気になります?」
「お前が途中で止めたからだろ」
「現代ではですね」
私は歩きながら、声を少し落としました。
「原則、異議申立てはなくなって、審査請求に一本化されます」
「ほう」
「しかも審理を担当する審理員が置かれて」
「処分した担当とは別のやつか」
「そうです」
「それで終わりか」
「まだです」
「まだあるのか」
「審理員が意見書を出したあと」
私はそこで、一度言葉を切りました。
未来の行政不服審査法。
第四十三条。
行政不服審査会等への諮問。
審査庁が裁決する前に。
原則として。
第三者機関へ、
この判断でいいか。
と意見を求める。
「外の目が入るんです」
「外?」
「行政不服審査会みたいな第三者機関です」
相馬先輩が少し考えました。
「じゃあ未来の役所は、自分のこと信用してねえのか」
「そういう言い方すると身も蓋もないです」
「違うのか」
「自分だけで判断しない仕組みを足した、ってことです」
「同じじゃねえか」
「似てますけど!」
でも。
私は少し笑いました。
たしかに。
今日の事件を見たあとだと、
なぜ未来の制度に、
処分に関わっていない審理員。
さらに第三者機関への諮問。
という仕組みが置かれたのか。
教科書よりずっと分かる。
人が悪いからじゃない。
役所が悪だからでもない。
同じ組織の中で、
自分たちの判断を、
自分たちだけで見直す。
その構造自体に、
本当に公平なのか。
という疑問が生まれやすい。
だから。
未来の制度は、
人の善意ではなく、
手続の形で公正さを足した。
たぶん。
そういうことなのです。
「でも今は」
相馬先輩が言いました。
「未来の審査会とやらはいねえ」
「はい」
「じゃあどうする」
「事実を並べます」
「それだけか」
「それが一番効きます」
相馬先輩が少し笑いました。
「分かってきたじゃねえか」
「褒めました?」
「気のせいだ」
「今日それ流行ってるんですか」
三日後。
片桐事務所へ、沢渡課長から電話が入りました。
相馬先輩が受話器を取ります。
「はい。……ああ。……何?」
声の調子が変わりました。
「分かった。本人にはこっちから伝える」
切る。
「どうでした?」
私が聞きます。
相馬先輩は机の上の通知を指で叩きました。
「取消し処分、いったん職権で撤回する方向だとよ」
「え?」
「本当ですか」
春江さんが立ち上がりました。
その日は、ちょうど追加資料を持って事務所に来ていたのです。
「ただし」
相馬先輩が手を上げます。
「ずっと使えるって話じゃねえ」
「はい」
「駅前整備の具体的な配置が決まるまで、当面使用を認める」
「じゃあ」
「しばらくは弁当台を出せる」
春江さんの肩から、目に見えるくらい力が抜けました。
「よかった……」
その声だけで。
どれだけ怖かったのか分かります。
「何があったんです?」
私は聞きました。
「担当課の記録を総務で洗ったらしい」
「はい」
「取消しの根拠にしてた『公共的利用の必要』」
「はい」
「具体的な利用計画、まだ決裁もされてなかった」
「……え?」
「それどころか」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「市有地の使用を一回整理しておけば、あとで計画変更しやすいだろう、って程度だったらしい」
私は数秒。
言葉が出ませんでした。
「つまり」
「今すぐ松井さんだけ外す必要性が、ちゃんと詰められてなかった」
「近くの新聞台は?」
「そっちは業者との調整が面倒で後回し」
「……それ、基準でも何でもないじゃないですか」
「そういうことだ」
春江さんが小さく口を開けたまま言いました。
「じゃあ、私だけ?」
「結果としては」
片桐所長が静かに言います。
「そうなっていた」
「どうして」
「簡単だったからだろう」
相馬先輩が言いました。
「小さい台だ。個人商店だ。許可を取り消しても大きな揉め事にならないと思った」
春江さんの顔が曇りました。
私は慌てて言います。
「でも」
全員がこちらを見る。
「だから戻せたんです」
「え?」
「怒鳴ったからじゃない」
私は言いました。
「かわいそうだからでもない」
「……」
「何が変わったのか。何に使うのか。なぜ春江さんだけなのか。そこを一個ずつ聞いたら」
通知の中身が、
空っぽだった。
いや。
完全に空っぽではありません。
駅前整備という目的はある。
将来の公共利用という方向もある。
でも。
将来そうなるかもしれない。
というだけで、
今日の許可を取り消していいのか。
そこが詰められていなかった。
「役所の処分って」
春江さんが言いました。
「出たら、もう決まりだと思ってました」
「私も昔はそう思ってました」
「朝比奈さんも?」
「はい」
行政法のテキストを読んでいたころ。
処分。
取消し。
不服申立て。
裁決。
全部、固い文字でできていました。
でも今は。
コロッケの匂いがします。
昼休みに売る弁当の数が浮かびます。
高校生の息子さんの学費まで見えてしまう。
眠かった用語に、
生活がくっつく。
すると、
不思議なくらい忘れません。
「異議申立ては」
片桐所長が言いました。
「出さなくて済みそうだ」
「市が先に処分を見直すからですか」
「そうだ」
「じゃあ、勝ったんでしょうか」
春江さんが聞きました。
所長は少し考えました。
「今日は」
「今日は?」
「弁当を売れる」
春江さんが笑いました。
「それで十分です」
完全勝利じゃない。
駅前整備は続く。
具体的な計画が固まれば、
本当にその場所を使えなくなるかもしれない。
でも。
まだ使う予定もない場所を、
将来のためという一言だけで急いで空けさせられる。
その雑さは止められた。
それだけでも。
生活には意味があります。
翌日。
春江さんが事務所へ大きな紙袋を持ってきました。
「これ、皆さんで」
「まさか」
私は中を覗きました。
コロッケ。
山盛り。
「売り物じゃないですか!」
「形が崩れたのだけ」
「十分きれいですよ」
「相馬さん、好きでしょう?」
「好きです」
即答。
「先輩」
「何だ」
「こういうときだけ処分が早いですね」
「コロッケに審査請求はいらん」
「意味分かりません」
相馬先輩が一個つまもうとします。
私は手を叩きました。
「まだ昼前です!」
「一個くらいいいだろ」
「駄目です」
「理由は」
「お昼用だからです」
「理由付記が抽象的だ」
「うるさいです!」
春江さんが笑いました。
片桐所長まで、ほんの少し口元を緩めています。
そこへ。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『沢渡です』
「課長」
『松井さんの件ですが』
「はい」
『駅前整備に関する市有地使用許可の整理基準を、改めて文書化することになりました』
私は受話器を握り直しました。
「文書化?」
『担当ごとに判断がばらついていましたので』
「それって」
『今回の件だけ直して終わり、では同じことが起きます』
少し間。
『面倒ですがね』
「課長」
『何でしょう』
「未来だったら、こういう不服申立ての審査に第三者機関が入る仕組みが――」
『朝比奈さん』
「はい」
『また未来の話ですか』
「何で分かったんです?」
『あなたは前置きが長い』
「ひどい」
『私は昭和六十三年の役人です』
「はい」
『昭和六十三年の制度で、できることをします』
「……そうですね」
『では』
電話が切れました。
私は少しだけ笑いました。
「何だって?」
相馬先輩がコロッケを狙いながら聞きます。
「駅前の使用許可の整理基準を、文書化するそうです」
「へえ」
「今回だけ直して終わりにしないって」
片桐所長が頷きました。
「それでいい」
私は受話器を置きました。
未来には。
審理員がいる。
第三者機関がいる。
審査庁が裁決する前に、
別の目で見てもらう仕組みがある。
今はない。
昭和六十三年には、
まだない。
だから今日、
行政不服審査会が春江さんを救ったわけではありません。
そんな制度は存在しないのです。
救ったのは。
理由を問い直すこと。
比較すること。
記録を確かめること。
そして。
役所自身に、
自分で出した答えを、
もう一度きちんと採点させること。
でも。
今日の沢渡課長とのやり取りを見て。
私は少しだけ、
未来の第四十三条が生まれる理由を、
教科書より先に理解した気がしました。
人間は、
自分の答えには甘くなる。
悪意がなくても。
真面目に仕事をしていても。
だから未来の法律は、
「ちゃんとやってください」
とは言わない。
もう一組、
目を置く。
意見を聞く。
手続そのものに、
自分だけで決めない仕組みを足す。
法律は冷たい。
誰を信用するかではなく、
誰が見ても同じように確認できる形を作ろうとする。
その冷たさが。
たぶん、
人間の弱さにはちょうどいい。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「コロッケ」
「食べたいんですか?」
「昼になったら一つもらう」
「珍しいですね」
「悪いか」
「いえ」
相馬先輩が紙袋へ手を伸ばします。
「じゃあ俺も」
「先輩はさっき一個食べたでしょう!」
「知らん」
「見ました!」
「第三者の確認は?」
「私が見てました!」
「お前は当事者だ」
「何の当事者ですか!」
片桐所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「行政不服審査会を呼べ」
「昭和六十三年にはいません!」
「じゃあ証拠不十分だ」
「所長まで!」
春江さんが声を上げて笑いました。
その笑い声の横で。
紙袋からは、
揚げたてのコロッケの匂いがしていました。
今日の教訓。
自分で出した答えを、自分だけで採点するとき。
必要なのは、
「信用してください」ではなく、
あとから確かめられる仕組みです。
そして。
未来の法律は、そのために。
もう一つの目を置くことになるのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




