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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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198/284

[行政不服審査法42条・審理員意見書]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 夕方の片桐行政書士事務所は、檜の匂いがしました。


 法律事務所として正しい匂いかどうかは知りません。


 少なくとも。


 昨日までの煙草と古紙だけの空気よりは、だいぶ健康的です。


「……先輩」


「何だ」


「檜、減ってません?」


「気のせいだ」


「昨日、榊原さんからもらった板、五枚ありましたよね」


「そうだったか」


「今、三枚しかありません」


 相馬先輩は煙草をくわえたまま、書類から目を上げません。


「所長が持って帰った」


「一枚でした」


「細けえな」


「残り一枚は?」


「知らん」


「先輩」


「何だ」


「昨日お風呂に浮かべましたね」


「……証拠は」


「白状するときだけ行政法っぽく抵抗しないでください」


 相馬先輩が露骨に目を逸らしました。


 有罪。


 いや。


 行政法で有罪は違います。


 頭の中まで法律に侵食されています。


 私はため息をつきながら、自分の机へ戻りました。


 目の前にはノート。


 上には大きく、


 ――行政不服審査法第四十二条。


 その下に、


 ――審理員意見書。


 と書いてあります。


 そして。


 その文字の横に、さらに大きく。


 ――ただし、昭和六十三年には存在しない。


 と赤ペンで囲みました。


「お前、それ毎回書いてんな」


 相馬先輩が言います。


「重要なんです」


「何が」


「私は未来の制度を知ってるせいで、現場で未来法を使いそうになるんです」


「使えねえ法律はただの知識だ」


「刺さるなあ」


 でも。


 今回は本当に危なかった。


 榊原源一さん。


 県道沿いの製材所を営む六十二歳。


 二十年以上使ってきた資材搬入口について、


 歩道拡幅と駅前再整備を理由に、


 継続使用を認めない処分を受けた。


 榊原さんは審査請求。


 処分庁には上級行政庁がある。


 だから旧法では、


 処分庁自身への異議申立てではなく、


 上級行政庁への審査請求。


 そこまでは昭和六十三年の制度。


 問題はその先です。


 処分庁から、


 安全確保。


 歩道拡幅。


 公共性。


 駅前再整備との整合。


 そんな言葉が並んだ立派な説明書が出てきた。


 榊原さんはそれを読んで、


 もう負けたと思った。


 でも。


 あれは最終判断ではない。


 処分した側の言い分。


 こちらにも反論する余地がある。


 さらに調べてみると、


 問題の場所は再整備計画の第二期区域。


 歩道拡幅の着工は早くても再来年度以降。


 具体的な工事時期も未定。


 それなのに、


 来月から搬入口を使わせない。


 その時間的なつながりが、はっきりしなかった。


 追加資料を出した結果、


 審査する側から処分庁へ、


 さらに説明を求めることになった。


 まだ裁決は出ていません。


 でも。


 処分庁が、


 安全のためです。


 公共のためです。


 と書いた紙が、


 そのまま結論になるわけではない。


 そこが見えた事件でした。


「で」


 相馬先輩が言いました。


「今日の未来話は何だ」


「審理員意見書です」


「昨日言ってたやつか」


「はい」


「処分した役所とは別の人間が、最後に意見を書くっていう」


「だいたい合ってます」


「じゃあ説明しろ」


「急ですね」


「仕事しながら聞く」


「勉強会への参加態度が雑すぎる」


「参加すると言った覚えはねえ」


 そこへ。


 奥の机から片桐所長の声。


「聞け」


「……はい」


 強い。


 今日も所長決裁は一瞬です。


 私はノートを開きました。


「まず、現代の行政不服審査法で審査請求がされた場合」


 ペンを走らせます。


 審査請求人。


 審査庁。


 処分庁。


 そして、


 審理員。


「ここで最初の大事なところです」


「何だ」


「審理員は、審査庁そのものじゃありません」


「ほう」


「審査請求について最終的に裁決するのは審査庁です」


「じゃあ審理員は何する」


「審理手続を担当します」


 ここ。


 受験生の私は、何度も混同しました。


 審理員。


 名前が強い。


 なんだか、


 この人が全部決めそうです。


 審理して。


 証拠見て。


 意見聞いて。


 最後に、


 はい取消し。


 はい棄却。


 と言いそう。


 でも違う。


「審理員は裁決しません」


 私は二重線を引きました。


「ここ試験に出そうだな」


 相馬先輩が言います。


「ものすごく出そうです」


「お前の世界じゃ?」


「はい。『審理員が裁決する』って書かれたら、基本的にはバツ」


「じゃあ何のために最後まで調べる」


「調べた結果を、審査庁に渡すためです」


 私は新しい見出しを書きました。


 ――審理員意見書。


「現代法では、審理手続が終わったら」


 私はゆっくり言いました。


「審理員は、審査庁がどんな裁決をすべきかについて、自分の意見を文書にまとめます」


「それが意見書」


「はい」


「結論だけか?」


「そういうイメージじゃありません」


 処分を維持すべきなのか。


 取り消すべきなのか。


 却下すべきなのか。


 そうした裁決の方向について、


 審理を担当した者として意見をまとめる。


「榊原さんの事件でたとえると」


 私は昨日の資料を引き寄せました。


「仮に現代だったとして」


「仮に、な」


「はい。ここ昭和なので仮定です」


 何度でも確認します。


 未来法を昭和へ持ち込むと事故ります。


「まず榊原さんが審査請求する」


「うん」


「審査庁が手続を進めるための審理員を指名する」


「うん」


「処分庁が、自分たちの処分はこういう理由で適法・妥当です、と説明する」


「昨日の分厚い紙だな」


「そうです」


「榊原さん側は」


「それに反論する」


「工事が再来年度以降だとか」


「はい。二十年以上使って事故がないことや、安全対策もしてきたこと、代替搬入口が難しいことも出す」


 審理員は。


 その両方を見る。


 必要な資料も確認する。


 主張を整理する。


 事実を整理する。


 審理を終える。


 そして。


「ここで四十二条です」


 私はノートを指しました。


「審理手続を終結したときは、審理員は遅滞なく、審理員意見書を作成する」


「遅滞なく」


「はい」


 相馬先輩がこちらを見る。


「すぐ作れ、ってことか」


「大ざっぱに言えばそうなんですけど」


「違うのか」


「法律用語としての『遅滞なく』は、単純に『今すぐ一秒でも早く』って意味ではないです」


「じゃあいつだ」


「正当な理由なく遅らせるな、という感じです」


「相当急げ」


「そういう理解でいいです」


 私はノートに書きました。


 審理手続終了。


 ↓


 遅滞なく。


 ↓


 審理員意見書を作成。


「で」


 相馬先輩が言います。


「作ったらどうする」


「審査庁へ提出します」


「いつ」


「速やかに」


「また似た言葉出てきたな」


「出ました」


 ここです。


 行政法受験生が、


 机に額をぶつけたくなるところ。


 直ちに。


 速やかに。


 遅滞なく。


 似ています。


 全部、


 早くやれ。


 みたいな顔をしている。


 でも。


 同じではない。


「今日は深入りしませんけど」


「逃げたな」


「範囲管理です」


「便利な言葉覚えたな」


「重要なのは順番です」


 私は書きます。


 審理手続が終わる。


 ↓


 遅滞なく、意見書を作成。


 ↓


 作成したら、速やかに審査庁へ提出。


「二段階ですね」


「作るのと出すのは別」


「そうです」


「一枚作ったまま机に寝かせるなってことか」


「すごく雑ですけど、覚え方としてはいいです」


 さらに。


「提出するのは、意見書だけじゃありません」


「何も一緒に出す」


「事件記録」


 私はそこに丸をつけました。


 審理員意見書。


 そして。


 事件記録。


 この二つを、


 審査庁へ提出する。


「ここも大事です」


「なぜだ」


「審査庁が最終的に裁決するからです」


 考えてみれば当然。


 審理員が、


 私はこう思います。


 取消しがいいと思います。


 と一枚だけ書いて、


 はいどうぞ。


 では困ります。


 審査庁は、


 どういう資料があったのか。


 処分庁は何を言ったのか。


 審査請求人は何を反論したのか。


 どんな証拠が出たのか。


 その記録も踏まえて最終判断する。


「つまり」


 私は言いました。


「審理員意見書は、審査庁を縛る裁決書じゃありません」


「意見だからな」


「はい」


「なら審査庁は、意見と違う裁決をしてもいいのか」


 来ました。


 受験生が絶対気になるやつ。


「最終的に裁決するのは審査庁です」


「つまり」


「審理員の意見そのものが裁決ではありません」


「分かった」


 相馬先輩は煙草の灰を落としました。


「審理員は裁判官じゃねえ」


「そういうことです」


「調査して、整理して、最終決定者に意見を出す」


「はい」


 私はノートの横に、


 大きく書きました。


 ――審理員=裁決者ではない。


 これ。


 試験前日に見たい一行です。


「でも」


 私はペンを止めました。


「所長」


「何だ」


「そもそも、なんでこんな仕組みにしたんでしょう」


 所長がこちらを見る。


「お前はどう思う」


「昨日の事件を見て、ちょっと分かりました」


 榊原さんが最初に見たのは、


 処分庁の説明でした。


 安全確保。


 歩道拡幅。


 再整備計画。


 公共性。


 それだけ読めば、


 処分は正しいように見えた。


 でも。


 処分庁は、


 自分たちの処分を説明する立場です。


 悪い意味ではありません。


 当然です。


 自分たちは、


 どういう事実を見て。


 どういう理由で。


 どう判断したか。


 それを説明する。


 ただし。


 その説明だけで審査全体を終わらせたら、


 不服申立ての意味が薄くなってしまう。


「だから」


 私は言いました。


「処分した側の説明と、審理を担当する側の整理を分ける」


「うん」


「最後に裁決する人とも分ける」


「うん」


「役割を分けることで、公正さを高める」


 所長が頷きました。


「そう考えると分かりやすい」


 ここで。


 私は赤ペンに持ち替えます。


 ――昭和六十三年。


 旧法。


「さて」


 相馬先輩が言いました。


「お前の地雷原だな」


「はい」


「今の話、そのまま榊原の事件に使えるか」


「使えません」


「なぜ」


「審理員がいないから」


「意見書は」


「ありません」


「行政不服審査会は」


「ありません」


「よし」


「なんで先輩が試験官みたいになってるんですか」


 でも。


 ここは本当に重要です。


 昭和六十三年当時の旧行政不服審査法。


 現代のような審理員制度はない。


 だから、


 現代法第四十二条の審理員意見書も存在しない。


 榊原さんの事件で、


 私が、


 審理員は誰ですか。


 意見書はいつですか。


 なんて聞いたら。


 完全に未来人です。


 いや、未来人なんですけど。


 社会的にはただの変な見習いです。


「じゃあ」


 相馬先輩が言いました。


「旧法の何が問題だった」


「そこです」


 私はノートに二本の線を引きました。


 旧法。


 異議申立て。


 審査請求。


「まず申立ての種類が分かりにくかった」


「この前やったな」


「はい」


 処分庁に上級行政庁があるか。


 ないか。


 個別法はどうなっているか。


 それによって、


 審査請求なのか。


 異議申立てなのか。


 入口から分かりにくい。


「榊原さんの場合は?」


「処分庁の上級行政庁に審査請求」


「川瀬さんは?」


「市長名義の処分で上級行政庁がないので、旧法では処分庁自身への異議申立て」


「よし」


「何で本当に試験官になってるんですか」


 次。


 旧法では、


 処分を行った行政の側と、


 不服申立ての審理との距離が、


 現代ほど制度的にはっきり分けられていない。


「特に異議申立ては」


 私は言いました。


「処分庁自身に見直しを求める仕組みですよね」


「自分の処分を自分で見直す」


「はい」


「便利な面もあるだろ」


「あります」


 処分した役所が、


 自分で、


 あ、これは間違っていた。


 と気づけば早い。


 資料も手元にある。


 現場も知っている。


 迅速に修正できる。


 でも。


 申立人側から見れば、


「本当に公正に見てもらえるんですか、って不安が残る」


「そうだな」


「処分した側が、自分の処分を守りたい気持ちになることもある」


「人間だからな」


 そこで。


 現代法では、


 制度を大きく作り直した。


 原則として、


 審査請求へ一本化。


 そして。


 審理員制度。


「処分に関与した人がそのまま審理を仕切るんじゃなく」


 私は言いました。


「審理を担当する人を置く」


「昨日の榊原の事件なら」


「処分庁の説明を、そのまま最終結論にしない」


「請求人の反論も見る」


「はい」


「それを整理する人がいる」


「そうです」


 そして。


 審理を終えたら。


 その人が、


 審査庁はこういう裁決をすべきだ。


 と意見をまとめる。


 それが、


 審理員意見書。


「なるほどな」


 相馬先輩が言いました。


「意見書だけ覚えると、ただの紙だ」


「そうなんですよ」


 私は勢いよく頷きました。


「でも、なんでその紙を別の人が書くのかまで考えると、制度改正の意味が見える」


 処分庁。


 自分の処分を説明する。


 審査請求人。


 それに反論する。


 審理員。


 双方を見て審理する。


 審理員意見書。


 審理した結果を審査庁へ渡す。


 審査庁。


 最終的に裁決する。


「役割分担なんですね」


 私は言いました。


「そうだ」


 片桐所長が答えます。


「昨日、榊原さんに説明したのと同じだ」


 誰が書いた紙か。


 誰の立場の紙か。


 その紙は、


 説明なのか。


 反論なのか。


 意見なのか。


 裁決なのか。


 全部違う。


「行政法の紙って」


 私は言いました。


「似た顔して机に並ぶから厄介なんですよね」


「紙に顔はねえ」


「比喩です」


「お前の比喩はたまに迷子になる」


 私は無視して、次へ進みます。


 審理員意見書のタイミング。


 ここは試験向けにきっちり整理。


「審理員は、いつでも意見書を書いていいわけではありません」


「いつだ」


「審理手続を終結したとき」


「終わる前は?」


「まだ作りません」


「なぜ」


「聞くべき主張や資料が残ってるかもしれないから」


「当然だな」


 私は矢印を書きます。


 審査請求。


 ↓


 審理。


 ↓


 処分庁の主張。


 ↓


 審査請求人側の反論。


 ↓


 必要な資料・意見の確認。


 ↓


 審理手続終結。


 ↓


 審理員意見書。


「つまり意見書は」


 私は言いました。


「審理の出口にある紙です」


「出口」


「はい。入口じゃない」


「当たり前だ」


「でも試験だと順番入れ替えて出してくるんです」


「性格悪いな」


「試験問題に喧嘩売らないでください」


 次。


 作成義務。


「審理手続を終結したとき」


 私は指を立てました。


「審理員は、意見書を作成しなければならない」


「作ってもいい、じゃない」


「はい」


「義務」


「そうです」


 そして。


 遅滞なく。


 作成。


 作成したら。


 速やかに。


 審査庁へ提出。


 その際、


 事件記録と一緒。


「ここ、語呂合わせ作れねえのか」


 相馬先輩が言います。


「先輩から語呂合わせ要求するの珍しいですね」


「お前が毎回うるせえから覚えた」


 私は少し考えました。


「終わったら、遅れず書く。書いたら、すぐ記録と出す」


「長い」


「じゃあ」


 もう一度。


「終結、遅滞なく作成。作成、速やかに記録と提出」


「教科書みてえだな」


「法律ですから!」


 片桐所長が口を挟みます。


「余計な語呂で文言を崩すな」


「はい」


 ぐう。


 正論。


 試験直前、


 語呂だけ覚えて条文の主語を忘れる。


 あるあるです。


 私は素直に書きました。


 ――審理手続終結 → 遅滞なく意見書作成。


 ――意見書作成 → 速やかに事件記録とともに審査庁へ提出。


「これでいいです」


「最初からそうしろ」


「勉強には寄り道も必要なんです」


「落ちる奴の言い訳だな」


「刺すなあ」


 私は次に、


 少し大きな丸を書きました。


 ――審理員意見書は誰宛てか。


「審査請求人?」


 相馬先輩がわざと言います。


「違います」


「処分庁?」


「違います」


「裁判所?」


「もっと違います」


「じゃあ」


「審査庁です」


 審理員は、


 自分の意見書を審査庁へ提出する。


 なぜなら。


 裁決するのは審査庁だから。


「ここは役割を覚えれば間違いません」


「審理員は整理して意見する」


「はい」


「審査庁は決める」


「はい」


「処分庁は説明する」


「はい」


「請求人は争う」


「ざっくり言えば」


「昨日お前が榊原に説明した三つより、一個増えたな」


「現代法だからです」


 私はそこで手を止めました。


「先輩」


「何だ」


「これ、審理員制度ができたからって、完全に行政から独立した第三者が裁判みたいに判断するわけじゃないんですよね」


「そうなのか」


「はい」


 ここも勘違いしやすい。


 審理員は、


 裁判所の裁判官ではない。


 行政不服審査そのものが、


 行政内部の救済制度であることは変わらない。


 だから。


「審理員制度があるから、行政不服審査が司法手続になるわけではありません」


「行政の中でやる」


「はい」


「でも役割を分けて、公正性を高める」


「そういうことです」


 制度の冷たさ。


 ここにあります。


 人柄が良いから公平です。


 上司が立派だから大丈夫です。


 担当者を信用してください。


 そういう話ではない。


 最初から役割を分ける。


 処分した者と。


 審理する者と。


 最終判断する者を。


 制度として切り分ける。


「人を信じない仕組みみたいですね」


 私が言うと。


 片桐所長が首を振りました。


「逆だ」


「逆?」


「人間だから、仕組みで支える」


 私は黙りました。


「誰でも自分の判断は正しいと思う」


「はい」


「間違いを認めにくいこともある」


「はい」


「だから、別の目を入れる」


 なるほど。


 制度は、


 役所の人を悪人だと決めつけているわけではない。


 むしろ。


 普通の人間が仕事をする以上、


 思い込みも。


 見落としも。


 自分の判断への執着も。


 起こりうる。


 だから。


 人の善意ではなく、


 役割分担で公正さを支える。


「法律の冷たさって」


 私は言いました。


「人間を信用してないんじゃなくて、人間が人間だって分かってる感じですね」


 片桐所長は答えませんでした。


 でも。


 少しだけ頷きました。


 私はもう一度、


 榊原さんの事件記録を開きます。


 処分庁の主張。


 歩行者安全。


 再整備。


 歩道拡幅。


 こちらの反論。


 具体的な工事時期は未定。


 第二期工事。


 安全対策実施済み。


 重大事故なし。


 代替搬入口困難。


「もしこれが現代だったら」


 私は言いました。


「審理員は、両方を見て」


 例えば。


 将来の歩道拡幅そのものには合理性がある。


 しかし。


 工事着手まで相当期間がある。


 現在の安全対策によって一定の危険回避が可能。


 にもかかわらず、


 直ちに継続使用を認めない必要性が十分説明されていない。


 なら。


 処分をそのまま維持すべきか。


 見直すべきか。


 そういう判断材料を整理して、


 審査庁へ意見を出す。


「もちろん」


 私は言いました。


「実際にどういう意見になるかは事案次第です」


「お前が今決める話じゃねえ」


「はい」


 大事なのは。


 榊原さんに有利な結論になることではない。


 双方の資料が、


 役割の違う人の目を通ること。


 それこそが制度の意味です。


「じゃあ」


 相馬先輩が椅子にもたれました。


「受験生が間違えそうなの、まとめろ」


「急に講師みたいになりましたね」


「早くしろ」


「はいはい」


 私はノートに番号を書きます。


 一。


 審理員意見書を作成するのは、


 審査庁ではない。


 審理員。


 二。


 審理員意見書が作られるのは、


 審理手続終結後。


 三。


 終結したら、


 遅滞なく作成。


 四。


 作成したら、


 速やかに審査庁へ提出。


 五。


 そのとき、


 事件記録も一緒。


 六。


 審理員意見書は、


 裁決そのものではない。


 最終的に裁決するのは審査庁。


 七。


 昭和六十三年の旧法には、


 現代の審理員制度も審理員意見書もない。


「最後が一番大事じゃねえか」


「この物語では特に」


「試験では?」


「現代の試験なら現行法を答えます」


「当たり前だ」


「でも、旧法との比較で制度趣旨が分かるんです」


 私はさらに書きました。


 旧法。


 処分庁自身への異議申立てが存在。


 審査請求と二本立て。


 ↓


 分かりにくさ。


 公正性への疑念。


 ↓


 現代法。


 原則として審査請求に一本化。


 審理員制度。


 ↓


 処分した側と審理する側の役割を分ける。


 ↓


 審理員が審理結果を意見書にして審査庁へ提出。


「こうすると」


 私は言いました。


「第四十二条だけ孤立して見えません」


「改正の流れの最後に出てくる紙だな」


「そうです」


 単なる提出書類ではない。


 処分庁だけの目で事件を終わらせない。


 審査請求人だけの言い分でも決めない。


 審理を担当した者が、


 双方を見たうえで、


 最終判断をする審査庁へ、


 私はこう考えます。


 と渡す。


 だから。


 審理員意見書。


「もっとも」


 片桐所長が言いました。


「意見書があるだけで公正になると思うな」


「あ」


「制度は使われ方次第だ」


「はい」


「資料が足りなければ、整理も間違う」


「はい」


「申立人が事実を出さなければ、見えない事情もある」


 榊原さんが、


 古い安全対策の資料を捨てていたら。


 市の再整備計画の工区を確認しなかったら。


 着工時期を調べなかったら。


 処分庁の説明だけが目立ったかもしれない。


「だから」


 所長が言います。


「制度に任せるな。材料を出せ」


「はい」


 制度が公平でも。


 机の上に材料がなければ、


 判断できない。


 そこは実務です。


 私はノートに小さく書き足しました。


 ――公正な仕組み+正確な材料。


「先輩」


「何だ」


「これ、試験には出ませんけど結構大事ですね」


「実務は試験範囲だけで動いてねえ」


「ですよね」


 そのとき。


 電話が鳴りました。


 相馬先輩が取ります。


「はい、片桐行政書士事務所。……ああ。……はい。……分かりました」


 切る。


 私はすぐ立ち上がりました。


「榊原さんの件ですか」


「ああ」


「どうでした?」


「県から」


「はい」


「処分庁が追加説明を出した」


「それで?」


「歩道拡幅の具体的工程が未確定なことは認めた」


 私は息を止めます。


「じゃあ」


「まだだ」


 また先回りを止められました。


「そのうえで、使用継続について再検討するってよ」


「再検討」


「少なくとも、来月から一律に使用不可って扱いは見直す方向らしい」


 私は椅子に座り直しました。


「……よかった」


「裁決はまだだ」


「分かってます」


「全面的に認められるとも限らん」


「分かってますって」


「じゃあ浮かれるな」


「少しくらいいいじゃないですか」


 でも。


 嬉しかった。


 榊原さんが最初に来た日。


 処分庁の分厚い説明書を見て、


 もう駄目だと思った。


 それが。


 こちらの反論を出し。


 再整備計画の事実を確認し。


 処分庁に追加説明が求められ。


 今。


 行政自身が、


 もう一度考え直している。


 これが不服審査。


 そして。


 未来では。


 その見直しの途中に、


 処分庁とは違う立場で審理する人を置く。


 その人が、


 審理の結果を意見書として残す。


「所長」


「何だ」


「制度改正って」


「うん」


「昨日まで分からなかった不便を、一個ずつ形にしたものなんですね」


「だいたいそうだ」


「審理員意見書も」


「紙だけ見るな」


「はい」


 誰が書く。


 いつ書く。


 何を書く。


 誰に出す。


 何と一緒に出す。


 そして。


 なぜ、その役割を分けたのか。


 そこまで分かれば。


 条文は急に忘れにくくなります。


 私はノートの最後に、


 大きな枠を書きました。


 ――一行の覚え書き。


 しばらく考えます。


「できたか」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


 私は読み上げました。


「審理員は、審理を終えたら意見をまとめ、決める人に記録ごと渡す」


「長い」


「じゃあ短くします」


 消して。


 もう一度。


 ――審理員は「決める人」ではなく、「調べて意見を渡す人」。


「それなら覚えやすい」


「でしょう」


 さらに小さく、


 その下に書きました。


 ――終結後、遅滞なく作成。作成後、速やかに記録と提出。


「結局二行じゃねえか」


「条文知識と意味は分けたいんです」


「一行の覚え書きって何だ」


「概念です」


「便利な逃げ方覚えたな」


 私はノートを閉じました。


 窓の外。


 駅前の向こうに、


 榊原さんの製材所がある。


 明日も。


 トラックが入るかもしれない。


 材木を運べるかもしれない。


 来月以降は、まだ分からない。


 でも。


 一度下された処分が、


 処分した側の説明だけで固定されず。


 不服を申し立てた側の声も机に載り。


 別の目で整理され。


 最後にもう一度判断される。


 現代の行政不服審査法は、


 その役割を、


 昔より細かく分けています。


 審理員。


 審理員意見書。


 事件記録。


 審査庁。


 文字だけ見れば、


 どれも冷たい。


 人の暮らしなんて見えません。


 でも。


 役割を冷たく切り分けるからこそ、


 「処分した人がそう言っているから」


 だけで終わらなくなる。


 人間が完璧ではないから、


 制度が別の目を置く。


 人間が自分の判断に引っ張られるから、


 別の人が整理する。


 そして。


 最後に決める人へ、


 記録ごと渡す。


 制度の冷たさは。


 ときどき、


 誰かの思い込みより、


 ずっと優しい。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「帰るぞ」


「はい」


「檜」


「え?」


「残りをしまえ」


「三枚あります」


「二枚だ」


「え?」


 見る。


 本当に二枚。


 私はゆっくり相馬先輩を見ました。


「先輩」


「知らん」


「まだ何も聞いてません」


「知らん」


「一枚どこです?」


「事件記録とともに所長へ提出したんじゃねえか」


「そんなわけあるか!」


 片桐所長が鞄を持ち上げました。


 中から。


 檜の板が二枚見えます。


「所長!」


「何だ」


「一枚って言ってたじゃないですか!」


「事情が変わった」


「何の事情ですか!」


「風呂が広い」


「裁量が広すぎます!」


 相馬先輩が腹を抱えて笑います。


「異議申立てするか?」


「します!」


「誰に」


「所長本人!」


「結論は?」


 片桐所長が即答しました。


「棄却」


「審理してないでしょう!」


「昭和だからな」


「旧法を都合よく使わないでください!」


 どうやら。


 審理する人と。


 決める人を。


 きちんと分けるという未来の知恵は。


 片桐行政書士事務所にも、


 できれば少し早めに導入してほしいところです。

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