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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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[行政不服審査法42条・審理員意見書]現場編 「最後は中立な人がまとめるんでしょう」の罠。処分した側の説明と、判断する側の整理を分ける意味

挿絵(By みてみん)

 役所の書類は、誰が書いたのかで意味が変わることがあります。


 同じ「問題ありません」でも。


 処分した本人が言うのと。


 事情を調べた別の人が言うのと。


 最後に決める人が言うのとでは。


 重さが、まるで違う。


 ――そして。


 それを全部ひとまとめにすると、たいてい話が見えなくなります。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の朝。


 私は封筒を前に、猛烈に嫌な予感を覚えていました。


「先輩」


「何だ」


「県庁から来てます」


「見りゃ分かる」


「分厚いです」


「それも見りゃ分かる」


「役所の封筒って、厚いほど怖くないですか」


「お前は役所を妖怪か何かだと思ってんのか」


「薄ければ通知。厚ければ資料。もっと厚ければ人生が詰まってます」


「朝から縁起でもねえこと言うな」


 相馬先輩は煙草をくわえたまま、封筒を顎で指しました。


「開けろ」


「私が?」


「見習いだろ」


 見習いという言葉。


 この事務所では、


 雑用、


 電話番、


 お茶出し、


 書類整理、


 そして未知の封筒を開ける係、


 くらいまで意味が広がっています。


 私は封を切りました。


 中から出てきたのは、


 審査請求関係の書類。


 依頼人は、


 榊原源一さん。


 駅裏で小さな製材所を営む六十二歳の男性です。


 問題になっているのは、


 県道沿いに設けた資材搬入口。


 長い材木をトラックで出し入れするため、道路側の一部を使用していました。


 もちろん勝手にではありません。


 以前から必要な許可を受けて使っていた。


 ところが。


 駅前再整備計画に合わせて県道の歩道拡幅案が持ち上がり、


 県の土木事務所から、


 使用を継続させない旨の処分が出た。


 簡単に言えば。


 来月から、そこから材木を出し入れするな。


 という話です。


 製材所の正面には住宅。


 横には細い水路。


 大型トラックが入れるのは、ほぼその一か所。


 塞がれれば。


 商売が、かなり苦しくなる。


 榊原さんは先週、


 審査請求をしました。


 相手は処分をした土木事務所ではなく、


 その上級庁。


 そして今日。


 処分庁側から出された説明資料の写しが届いた。


 私は一枚目を読みます。


 道路交通の安全確保。


 歩道拡幅計画。


 駅前再整備事業との整合。


 将来的な公共性。


「……きれいですね」


「何がだ」


「文章が」


「役所の文章なんだから当たり前だろ」


「そうじゃなくて」


 私は紙を机に置きました。


「すごく筋が通ってるように見えるんです」


「見えるな」


「榊原さん、これ読んだら負けた気になると思います」


「だから呼んだ」


 ちょうどそのとき。


 玄関の引き戸が開きました。


「ごめんください」


 榊原さんです。


 日に焼けた顔。


 大きな手。


 作業着の胸に木屑が残っています。


「来たぞ」


 相馬先輩が言いました。


「早かったですね」


「仕事、昼からにした」


 榊原さんは椅子に座るなり、封筒を見ました。


「県から来たかね」


「はい」


「どう書いてある」


 私は一瞬迷いました。


「まず、一緒に確認しましょう」


 机の上へ資料を広げます。


 榊原さんは老眼鏡をかけました。


 数分後。


 眉間の皺が深くなっていきます。


「……こりゃ」


「はい」


「もう駄目ってことか」


「まだです」


 私はすぐ言いました。


 でも。


 榊原さんは資料を指で叩きました。


「だって、こんだけ書いてあるじゃないか」


 道路の安全。


 歩行者保護。


 駅前整備。


 公共の利益。


「向こうは専門家だろ」


「そうですね」


「こっちは材木屋だ」


「はい」


「向こうがこれだけ理由並べたら、審査するほうも『そうですか』ってなるんじゃないのか」


 その言葉。


 ちょっと刺さりました。


 たしかに。


 処分した役所が、


 自分の処分は正しかったです。


 と立派な文章で説明する。


 それを上級庁が読む。


 その構造だけ見ると、


 普通の人にはかなり不利に見えます。


「でも」


 私は紙を一枚持ち上げました。


「これは、結論じゃありません」


「違うのか」


「処分した側の言い分です」


 榊原さんが瞬きしました。


「言い分?」


「はい」


「県の書類だぞ」


「県の書類でも、誰が何の立場で書いたかは分けないと駄目です」


 言ってから。


 自分でも、


 あ。


 と思いました。


 これだ。


 昨夜まで。


 行政不服審査法の手続なんて、


 審査請求書。


 弁明書。


 反論書。


 意見書。


 裁決。


 ひたすら紙が順番に出てくる、


 行政法版わんこそばにしか見えていませんでした。


 でも。


 紙には全部、


 役割がある。


「こはる」


 片桐所長が奥から出てきました。


「続けろ」


「はい」


 私は資料を三つに分けるように手を置きました。


「まず、処分した側」


 右。


「次に、不服を申し立てた榊原さん側」


 左。


「そして」


 真ん中。


「最終的に、申立てについて判断する側」


 榊原さんが私の手元を見ます。


「三つ?」


「はい」


「同じ県じゃないのか」


「同じ県の中でも、立場は同じじゃありません」


 相馬先輩が横から言いました。


「だから榊原さんは、こいつを読んで落ち込む必要はねえ」


 処分庁の資料を指します。


「これは判決文でも裁決書でもない」


「向こうの説明か」


「そうだ」


「じゃあ」


 榊原さんが少し身を乗り出しました。


「こっちも言っていいのか」


「そのために呼んだ」


 相馬先輩が言いました。


 私は頷きます。


「榊原さん。前にお聞きしたことを、もう一度確認します」


「ああ」


「この搬入口、いつから使ってます?」


「二十年以上」


「事故は」


「ない」


「歩行者との接触は」


「ない」


「県から安全対策を求められたことは」


「去年、一度あった」


「何をしました?」


「ミラー付けた。出入りの時間も、通学時間を避けるようにした」


「その資料あります?」


「ある」


 榊原さんが鞄から一冊の古いファイルを出しました。


 領収書。


 写真。


 土木事務所とのやり取り。


「……取ってあったんですか」


「捨てるなって婆さんが」


「奥さん偉い」


「俺は捨てようとした」


「危ない」


 相馬先輩が笑いました。


「家じゃ奥さんのほうが行政書士向きだな」


「言うな」


 少しだけ空気が和らぎます。


 でも。


 問題はここからでした。


 処分庁側の資料には、


 こう書いてあります。


 ――当該搬入口は、歩道拡幅後の安全な歩行者動線の形成を妨げるおそれがある。


 なるほど。


 将来の安全。


 それ自体は分かる。


 ただ。


 私は地図を広げました。


「歩道拡幅って、いつ工事なんです?」


 榊原さんが首を振ります。


「知らん」


「聞いてない?」


「来年度以降とは聞いた」


「具体的な時期は?」


「決まってないと言っとった」


 私は手を止めました。


「先輩」


「ああ」


「またですね」


「まただな」


 駅前再整備。


 この町では最近、


 この言葉が万能調味料になっています。


 露店を動かす。


 資材置場を整理する。


 道路使用を見直す。


 看板を撤去させる。


 理由を聞くと、


 駅前再整備。


 もちろん計画そのものが悪いわけではありません。


 でも。


 計画がある。


 と。


 今すぐこの人をどかす必要がある。


 は別です。


「所長」


 私は言いました。


「市役所にも確認したいです」


「何をだ」


「駅前再整備計画の工事時期と、榊原さんの場所がどの工区に入ってるか」


「行くぞ」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「早い」


「また紙見て唸る気か」


「情報を増やすんですよね」


「覚えてんじゃねえか」


 市役所。


 総務課。


 そして。


「また来ましたね」


 沢渡課長。


 今日も見事なくらい表情がありません。


 役所の備品一覧に、


 机。


 椅子。


 書庫。


 沢渡課長。


 と載っていても違和感がない。


「榊原源一さんの件です」


 私が言いました。


「ああ。県道沿いの製材所ですね」


「市の駅前再整備計画について確認したいです」


「県の処分でしょう」


「理由に市の再整備事業との整合が入ってます」


 沢渡課長が眼鏡の奥からこちらを見ました。


「なるほど」


「榊原さんの前の歩道拡幅、いつ着工ですか」


「現時点では未定です」


「未定」


「基本計画では第二期です」


「第一期は?」


「駅西広場とバス乗降場周辺です」


 私は地図を出しました。


「榊原さんのところは?」


「第二期対象区域です」


「開始予定は?」


「早くても再来年度以降でしょう」


 相馬先輩の眉が上がります。


「おい」


「私に怒られても困ります」


「怒ってねえ」


「その顔は怒っています」


「地顔だ」


「便利ですね、それ」


 私は横から地図を覗き込みました。


 再来年度以降。


 しかも。


 まだ具体的な工事日程は確定していない。


 一方。


 処分は来月から。


「課長」


「何でしょう」


「市から県へ、榊原さんの搬入口について個別に『今すぐ使用をやめさせてほしい』って要請しました?」


「いいえ」


「では?」


「駅前再整備計画の資料を県へ提供しました」


「個別判断は県?」


「そうです」


 私は資料に書き込みました。


 ここ、大事。


 行政法は、


 誰が、


 どの権限で、


 どの資料をもとに、


 何を決めたか。


 これを一個ずつ切り分けないと、


 すぐに全部が、


 「役所が決めた」


 という巨大な一文になります。


 巨大すぎる一文は、たいてい役に立ちません。


「もう一つ」


 片桐所長が言いました。


「市は、代替搬入口を確保できると考えているか」


 沢渡課長が資料をめくりました。


「簡単ではないでしょうね」


「製材所を続けられなくなる可能性は?」


「あります」


「その事情は県に伝えたか」


 沢渡課長の手が止まりました。


「……再整備計画の資料には、個別事業者の営業継続性までは入っていません」


 相馬先輩が低く言いました。


「つまり」


「市が県へ出したのは都市計画側の資料です」


「製材所側の事情は?」


「県が別途把握するべき事項でしょう」


 責任逃れ。


 と言えば簡単です。


 でも。


 少し違います。


 市には市の資料。


 県には県の判断。


 そして榊原さんには榊原さんの事情。


 問題は。


 その三つがちゃんと一つの審査の机に載っているかどうかです。


「沢渡課長」


 私は言いました。


「市の資料だけ見ると、歩道拡幅がもうすぐ始まるみたいに見えません?」


「そう読めなくもありません」


「実際は第二期で、早くても再来年度以降」


「現時点の予定では」


「その違い、かなり大きいですよね」


 沢渡課長は否定しませんでした。


「審査庁には、その点を出したほうがいいでしょう」


「課長が言うんですか」


「事実ですから」


「処分庁側に不利かもしれませんよ」


「だから何です」


 さらっと返されました。


「不服審査は、県の面子を守るためにするものではないでしょう」


 私は黙りました。


 この人。


 たまに突然、


 行政法の教科書みたいなことを言います。


「もっとも」


 沢渡課長が続けました。


「それで処分が変わるかどうかは、審査庁が判断することです」


 そこ。


 また。


 私は頭の中で、


 誰が何をするか。


 と整理しました。


 処分庁。


 処分をした側。


 審査請求人。


 処分に不服を申し立てた側。


 審査庁。


 審査請求について最終判断する側。


 現代なら。


 その途中に――。


「審理員」


 思わず口に出ました。


 沢渡課長が首を傾げます。


「何です?」


「あ」


 やった。


 未来人事故。


「いえ、その……審理を担当する人が」


「担当者はいますが」


「審理員として指名されて、処分に関与してない職員が手続を進めて、最後に意見書を――」


 相馬先輩が私の肩を掴みました。


「こはる」


「はい」


「また未来へ行ったな」


「……行きました」


「戻ってこい」


「はい」


 昭和六十三年。


 現在地確認。


 現代の行政不服審査法なら。


 審査請求がされる。


 審理員が指名される。


 処分庁から弁明書。


 審査請求人から反論書。


 審理手続を進める。


 そして審理手続が終われば、


 審理員は、


 審査庁がどんな裁決をすべきかという意見をまとめる。


 審理員意見書。


 作成したら、


 事件記録とともに審査庁へ提出する。


 受験生だった私は、


 これを、


 手続の終盤で出てくる紙その七。


 くらいにしか思っていませんでした。


 でも。


 今。


 処分庁の立派な説明書を見て。


 榊原さんが、


 これでもう負けだ。


 と思った瞬間。


 なぜ、


 処分庁の言い分と、


 手続を審理した者の整理と、


 最終的な裁決を、


 分ける必要があるのか。


 少し分かった気がしました。


 ただし。


 ここは昭和。


 そんな審理員制度は、まだありません。


「便利そうだな、その未来の制度」


 相馬先輩が言いました。


「便利というか、公正さを意識した仕組みですよ」


「今はねえ」


「はい」


「だったら」


 相馬先輩が榊原さんの資料を指しました。


「今ある制度で、同じことをやれ」


「同じこと?」


「処分庁が言ってることを、そのまま最終結論みたいに扱わせるな」


 私は目を瞬きました。


「事実を分けろ」


「……はい」


「こっちの言い分も出せ」


「はい」


「市の再整備資料と、実際の工程の違いも出せ」


「はい」


「審査する側に、両方見せろ」


 なるほど。


 制度が違っても。


 必要なことは変わらない。


 処分庁の説明。


 申立人の反論。


 客観資料。


 それを審査する側に揃える。


「帰るぞ」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


 沢渡課長が私を見ます。


「朝比奈さん」


「何でしょう」


「その未来の『審理員』という人は、最後に何をするんです?」


「審理手続が終わったら、審査庁がどういう裁決をすべきか、意見書を作るんです」


「自分で裁決する?」


「しません」


「では、意見を出すだけ?」


「はい」


「なるほど」


 沢渡課長は少しだけ考えました。


「判断する人と、整理する人を分けるんですね」


「そうです」


「悪くない」


「でしょう?」


「ただし」


「はい」


「昭和六十三年にはありません」


「分かってます!」


 相馬先輩が吹き出しました。


 事務所へ戻って。


 私たちは反論の材料を並べました。


 感情ではなく。


 事実。


 一つ。


 搬入口は二十年以上使用されている。


 一つ。


 過去に重大事故は確認されていない。


 一つ。


 県から求められた安全対策について、ミラー設置、通学時間帯を避けた車両出入りなど、改善措置を実施している。


 一つ。


 市の駅前再整備計画上、当該地点は第二期区域。


 一つ。


 歩道拡幅の具体的着工時期は未定。


 一つ。


 早くても再来年度以降と見込まれている。


 一つ。


 来月から直ちに使用を認めない必要性と、将来の歩道拡幅との時間的な関係が明らかでない。


 一つ。


 代替搬入口の確保は困難。


 一つ。


 使用継続が認められない場合、営業継続に重大な影響が生じる。


 私は最後にペンを置きました。


「こうして並べると」


 榊原さんが言いました。


「向こうの紙も、絶対じゃないな」


「はい」


「安全のためって言われたら、何も言えんと思っとった」


「安全が大事なのは本当です」


「うん」


「だからこそ」


 私は言いました。


「本当に来月から止める必要があるのかを、ちゃんと分けて考えてもらいます」


 安全か。


 営業か。


 そんな二択にしてしまえば、


 営業側は必ず悪者になります。


 でも法律は、


 そんな雑な二択で考えなくていい。


 目的は何か。


 時期はいつか。


 危険はどの程度か。


 安全対策は可能か。


 営業への影響はどれほどか。


 その判断材料を一つずつ机に載せる。


 条文は冷たい。


 でも。


 冷たいからこそ、


 「安全のためなんだから我慢してください」


 という温度の高い正論を、


 一回ばらばらにして確認できる。


 三日後。


 追加の反論資料を提出しました。


 その一週間後。


 県から連絡。


 処分庁側に対し、


 さらに説明を求めることになった。


 特に。


 処分の効力を発生させる時期と、


 歩道拡幅計画の具体的日程との関係。


 従前の安全対策を踏まえてもなお、


 直ちに継続使用を認められない理由。


 この二点。


「やった!」


 私は思わず言いました。


「まだ勝ってねえ」


 相馬先輩が即座に刺します。


「分かってますよ」


「裁決も出てねえ」


「分かってます」


「処分が取り消されるとも限らん」


「だから分かってますってば」


 でも。


 前進です。


 少なくとも。


 処分庁が出した、


 安全のため。


 再整備のため。


 公共のため。


 という一枚の説明だけで、


 そのまま終わらなかった。


 審査する側が、


 もう一度、


 なぜ。


 と聞いた。


 それだけで。


 榊原さんの顔が少し変わりました。


「ちゃんと読んでもらえてるんだな」


「はい」


「俺のほうの話も」


「はい」


 そこへ。


 片桐所長が静かに言いました。


「不服審査は、紙の枚数を競うものじゃない」


「はい」


「誰が書いた紙かを見ろ」


 私は頷きました。


 処分した側の紙。


 不服を申し立てた側の紙。


 判断するために整理される紙。


 そして最後の裁決。


 今の私は昭和六十三年にいる。


 現代にある審理員意見書は、


 まだ存在しない。


 でも。


 未来の制度が、


 なぜわざわざ、


 処分庁とは別に審理を担当する者を置き、


 その人に、


 審査庁がどんな裁決をすべきか意見をまとめさせるのか。


 その理由が。


 ほんの少しだけ、


 榊原さんの事件から見えた気がしました。


 夕方。


 榊原さんが帰り際に、


 大きな紙袋を置きました。


「これ」


「何です?」


「うちの端材」


「木?」


「檜」


 開ける。


 小さな板が何枚も入っています。


「いい匂い……」


「風呂に浮かべりゃいい」


「檜風呂!」


「板三枚で檜風呂名乗るな」


 相馬先輩が言いました。


「気分ですよ、気分」


「お前んちの風呂に入るのは湯だ。制度じゃねえ」


「夢を壊さないでください」


 榊原さんが笑いました。


「所長さんも使ってくれ」


「いただきます」


 片桐所長は一枚取って匂いを嗅ぎました。


「いい木だ」


 榊原さんの顔が少し緩みます。


「まだ仕事、続けたいんだ」


「はい」


「六十二だで、いつまでやれるか分からんけど」


「はい」


「役所に、ずっと使わせろとは言わん」


 その言葉に。


 私は顔を上げました。


「ただ」


 榊原さんが言いました。


「来月から終わりだって言われるのと、ちゃんと理由を聞いて、それから決めてもらうのは違うな」


「違います」


「それだけでも、来た甲斐があった」


 完全勝利ではありません。


 処分はまだ生きています。


 裁決も出ていない。


 製材所がその場所を使い続けられる保証もない。


 でも。


 処分庁の説明が、


 最終回答ではない。


 榊原さんの反論も、


 審査の机に載る。


 そして、


 判断する側が、


 両方を見て考える。


 その道が確保された。


 今日の教訓。


 私は机の端のメモに書きました。


 ――役所の紙は、内容だけでなく「誰の立場の紙か」を見る。


「何書いてる」


 相馬先輩が覗き込みます。


「今日の覚え書きです」


「へえ」


「処分した側の説明を、最終判断と勘違いしない」


「当たり前だ」


「受験生には意外とごちゃごちゃになるんですよ」


「お前だけじゃねえのか」


「全国の行政書士受験生を敵に回しますよ」


 私は紙袋から檜の板を一枚取り出しました。


「これ、事務所に置きません?」


「何に使う」


「書類の重し」


「罰当たりだな」


 片桐所長が言いました。


「こはる」


「はい」


「それは使うな」


「え?」


「俺が持って帰る」


「所長、檜風呂やる気ですね?」


「違う」


「何に使うんです?」


「風呂だ」


「同じじゃないですか!」


 相馬先輩が笑います。


 私は檜の板を一枚持ち上げました。


 ただの木片。


 でも。


 どこで切られ、


 誰が削り、


 何に使うかで、


 意味は変わる。


 書類も似ています。


 同じ役所から出た紙でも。


 処分庁の説明なのか。


 申立人の反論なのか。


 審査のための整理なのか。


 最終判断なのか。


 そこを見誤らない。


 そして未来では。


 その役割の違いを、


 もっとはっきり制度として分ける仕組みができる。


 審理する者が、


 審理を終えたあと、


 自分の整理した結論を意見として書く。


 それを、


 最終的に裁決する者へ渡す。


 今の私は、


 その制度のない昭和にいます。


 だからこそ。


 なぜ未来でそんな紙が必要になったのか。


 少しだけ分かる。


「先輩」


「何だ」


「未来の制度って、昔より面倒になってるんじゃなくて」


「うん」


「昔ごちゃっとしてた役割を、分けてるんですね」


 相馬先輩は煙草に火をつけました。


「知らん」


「そこは乗ってくださいよ」


「俺は昭和の人間だ」


「便利な逃げ方!」


 片桐所長が檜の板を鞄に入れます。


「帰るぞ」


「はい」


「こはる」


「何です?」


「その書類」


「はい」


「机に出しっぱなしだ」


「あ」


「誰の書類だ」


「榊原さんの事件記録です」


「誰が片付ける」


「……私です」


「そうだ」


 私はため息をつきながら資料をまとめました。


 誰が。


 何を。


 どの立場で。


 今日一日、


 散々それをやったのに。


 最後の最後で、


 自分の仕事の立場だけは、


 確認するまでもありませんでした。

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