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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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195/278

[行政不服審査法41条・審理手続の終結]現場編 「もう十分調べましたから」の罠。終わらせたい役所と、まだ終わっていない反論を切り分ける最後の期限

挿絵(By みてみん)

 役所の手続には、始まりより怖い「終わり」があります。


 申立てを受け付けました。


 資料も見ました。


 言い分も聞きました。


 だから、これで審理は終わりです。


 ――そう言われたあとで、


「まだ出したい証拠があります」


 と言っても、時間は巻き戻ってくれません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の朝、私は封筒と睨み合っていました。


「先輩」


「何だ」


「役所の封筒って、なんで開ける前から嫌な予感がするんでしょう」


「税金か処分か催促だからだろ」


「夢がないですね」


「役所から福引の当選通知が来ると思ってんのか」


「一等温泉旅行とか」


「仕事しろ」


 はい。


 現実は温泉よりだいぶ冷たい。


 私の机に置かれていたのは、県庁から届いた一通の通知でした。


 差出人は県の審査担当部署。


 宛名は、


 ――三好健一。


 四十六歳。


 駅裏で小さな印刷所を営む男性です。


 そして通知には、こう書かれていました。


 審査請求事件について、必要な調査を終え、裁決に向けた手続を進める。


「……終わるんですか」


 私は呟きました。


 向かいに座る三好さんが、両手で帽子を握りしめました。


「終わるらしいんです」


「でも、昨日お電話では、追加の資料があるって」


「あります」


 三好さんは鞄から一冊の帳面を出しました。


 古い売上台帳。


 その下から、写真。


 さらに取引先からの手紙。


「これを出したいんです」


 写真には、印刷機と紙束。


 奥には、茶色い染み。


 雨漏りの跡でした。


 三好印刷所は、駅前再整備地区の外れにあります。


 市が道路拡幅と区画整理に絡んで周辺建物への措置を進めている。


 三好さんのところでは、その過程で営業上必要な搬入口の使用について市の許可を受けていました。


 ところが半年前。


 市から更新を認めない処分を受けた。


 理由は、


 ――道路整備事業の進捗及び交通安全確保のため。


 いつものやつです。


 言葉だけ読むと立派。


 でも、具体的に何が危ないのかが見えない。


 三好さんは異議申立てではなく、法令上の関係から県側への審査請求を行っていました。


 昭和六十三年。


 旧行政不服審査法。


 異議申立てと審査請求が、まだ同じ町に同居している時代です。


 私の頭の中では現代法が、


 審理員。


 弁明書。


 反論書。


 口頭意見陳述。


 審理手続終結。


 行政不服審査会。


 と、最新型の機械みたいに順番に点灯します。


 でも。


 その機械。


 この時代にはまだ納品されていません。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「今、何を考えてる」


「審理員が終結通知を――」


「誰だ、それは」


「ですよね!」


 危ない。


 また未来人が飛び出した。


 私は両手で顔を覆いました。


「昭和六十三年に審理員制度はない……昭和六十三年に審理員制度はない……」


「呪文みたいに言うな」


 相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。


「で、何が問題なんだ」


「三好さんが、追加資料を出したいんです」


「出せばいいだろ」


「ところが」


 三好さんが通知を差し出しました。


「県の人に電話したら、『もう必要な調査は終わっています』って」


 私は顔を上げました。


「出すな、と言われたんですか」


「はっきりそうとは言われませんでした。でも」


「何て?」


「『裁決の準備に入っていますから、今さら出されても』って」


 今さら。


 法律の現場で、この言葉は怖い。


 締切を過ぎた。


 もう判断した。


 もう調べ終えた。


 もう動かせない。


 そういう言葉の前半を全部省略して、


 相手に諦めてもらう魔法の四文字です。


「資料は、いつ手に入ったんです?」


「昨日です」


「昨日?」


「はい」


 三好さんは古い帳面を開きました。


「倉庫を片付けてたら、昔の帳簿の間から出てきたんです」


 挟まっていたのは一枚の手紙。


 三年前、市の道路担当者から取引先に宛てた照会への回答の写しでした。


 そこには、


 ――三好印刷所前の搬入口については、第二期工事開始までは従前どおり使用可能とする予定。


 そう書かれていました。


「第二期工事って、いつです?」


「来年以降だそうです」


「今は?」


「第一期です」


 私は手紙をもう一度読みました。


 今の工事ではない。


 来年以降。


 なのに半年前に使用不許可。


「市の処分理由は、道路整備事業の進捗」


「そうです」


「でも市自身が三年前には、第二期までは使える予定だと」


「はい」


 相馬先輩が手紙を取りました。


「これ、市の文書か?」


「正確には、市から取引先に来た回答の写しです」


「原本は?」


「取引先にあります」


「まだ会社あるのか」


「あります」


「よし」


 相馬先輩が立ち上がりかけました。


「取りに行くぞ」


「先輩、まだ朝九時です」


「だから何だ」


「相手先に電話くらいしましょうよ」


「電話してから行く」


「行くのは確定なんですね」


 相変わらず行動が早い。


 でも。


 私にはもう一つ気になることがありました。


「三好さん」


「はい」


「どうしてこの資料、これまで探さなかったんです?」


 三好さんの顔が曇りました。


「父が倒れまして」


「あ……」


「去年からずっと入院してるんです。印刷所も私一人で回していて」


 言葉が詰まります。


「審査請求の書類も、夜に書いてました」


「……はい」


「本当は昔の書類を全部見れば何かあると思ってたんです。でも倉庫まで手が回らなくて」


 それなら。


 怠けて放っておいたわけではない。


 事情がある。


 もっとも。


 事情があるから必ず待ってもらえる、というほど法律は甘くありません。


 ここを混ぜると危険です。


 気の毒。


 だから期限なし。


 にはならない。


 でも。


 逆も違う。


 役所が終わらせたい。


 だから新しい重要資料も見ない。


 それも困る。


 私は通知の日付を見ました。


「これ、昨日付けです」


「はい」


「裁決は?」


「まだです」


「まだ出てない?」


「出てません」


 つまり。


 扉は閉まりかけている。


 でも鍵が完全に掛かったかは、まだ分からない。


「所長」


「何だ」


「県に確認したいです」


「何をだ」


「本当にもう資料を受けないのか。それと、いつの時点で何をもって調査を終えた扱いにしたのか」


 所長が私を見る。


「それだけか」


 む。


 何か足りない。


 私は通知。


 手紙。


 帳簿。


 三好さん。


 順番に見ました。


「……追加資料の内容も伝えます」


「なぜ」


「『まだ出したいです』だけじゃ、引き延ばしに見えるから」


「そうだ」


「今まで出していない資料が、判断に影響する可能性がある。しかも昨日初めて見つかった。そこまで説明します」


 片桐所長は一度だけ頷きました。


「行け」


 相馬先輩が立ち上がります。


「県庁か」


「先輩」


「何だ」


「朝九時十六分です」


「知ってる」


「取引先は?」


「途中だ」


「全部行く気だ」


「紙は歩いて来ねえからな」


 その言葉。


 前にも聞いた気がします。


 たぶん先輩の人生訓です。


 県庁の不服申立て担当室は、市役所より少しだけ静かでした。


 机が大きい。


 ファイルも分厚い。


 そして。


 出てきた担当者の名刺には、


 ――行政課 主幹 長谷川。


 とあります。


 私は一瞬ほっとしました。


 審理員。


 とは書いてない。


 当たり前です。


「三好健一さんの審査請求の件ですね」


 長谷川主幹は落ち着いた声でした。


「ええ」


 相馬先輩が答えます。


「追加資料を出したい」


「先ほど電話でも申し上げましたが、必要な調査は概ね終えています」


「概ね」


 相馬先輩がその言葉だけ拾いました。


 嫌な拾い方をします。


「はい」


「全部じゃないんだな」


「言葉尻を捉えないでください」


「役所の文書屋が言葉尻を軽く扱うなよ」


 早い。


 開始三十秒で空気が固まった。


 私は慌てて前へ出ました。


「すみません。資料の内容をまず見てもらえますか」


「資料?」


「市が三年前に出した回答の写しです」


 長谷川主幹の表情が少し変わりました。


 私はコピーを置きます。


「第二期工事開始までは、搬入口を従前どおり使用可能とする予定と書かれています」


「……これは」


「原本は取引先にあります。今日、先方にも確認しました」


 相馬先輩が続けます。


「原本を保管してる。必要なら証明も取れる」


「いつ入手しました?」


「昨日です」


 私が答えました。


「倉庫の古い帳簿から写しが出てきました」


「これまで提出できなかった理由は」


「本人のお父様の入院と、印刷所を一人で回していた事情があります」


「事情があるから、いつまでも提出を待てということですか」


 来た。


 役所側の正論。


 私は首を振りました。


「違います」


 長谷川主幹が私を見る。


「期限も手続の区切りも必要だと思います」


「では」


「でも、今出そうとしているのは、同じ主張を繰り返す紙じゃありません」


 私は手紙を指しました。


「処分理由の前提に関わる資料です」


 長谷川主幹が黙ります。


「市は『道路整備事業の進捗』を理由に、搬入口の更新を認めなかった。でも市自身が以前、第二期工事まで使用可能とする予定を示していた」


「予定は予定です」


「はい」


「行政計画は変更されることもある」


「はい」


「この一枚だけで処分がおかしいとは言えません」


「それも分かっています」


 私は頷きました。


「だから、見てほしいんです」


 長谷川主幹の眉が少し動きました。


「結論を決めてくださいと言ってるんじゃありません」


 自分でも、頭の中が整理されていくのが分かりました。


「この資料を見たうえで、今の処分理由と整合するのか確認してほしい。もし方針変更があったなら、いつ、どう変更されたのか。その資料も見てほしい」


 相馬先輩がちらりと私を見る。


「手続を終わらせるな、じゃないんです」


 私は続けました。


「必要なところまで調べてから、終わらせてください」


 部屋が静かになりました。


 長谷川主幹は椅子に深く座り直しました。


「朝比奈さん」


「はい」


「あなた、今の法律と別の何かを頭の中で混ぜていませんか」


「え」


 ばれた?


「妙に『終結』という言葉にこだわるので」


「あー……」


 未来が漏れている。


 私は曖昧に笑いました。


「ちょっと、勉強の癖で」


「試験ですか」


「そんなところです」


 行政書士試験。


 ただし三十年以上先の。


 とは言えない。


「この時代の手続で考えろ」


 相馬先輩が横から言いました。


「はい」


 助かったのか怒られたのか微妙です。


 長谷川主幹は手紙の写しをもう一度見ました。


「提出自体を拒むつもりはありません」


「では」


「ただし、いつまでも新しい資料が出続ければ、裁決できません」


「そこは分かります」


「今回のものは、内容を確認します」


 三好さんが小さく息を吐きました。


 でも。


 長谷川主幹は続けます。


「その代わり」


「はい」


「原本の所在。作成時期。市のどの部署が出した文書か。現在の道路整備計画との関係。そこまで揃えてください」


 相馬先輩が即答しました。


「いつまでだ」


「一週間」


 三好さんが息をのみました。


「一週間……」


「短いですか」


 長谷川主幹が聞きます。


 三好さんは口を開きかけ、閉じました。


 私は横顔を見ます。


 印刷所。


 入院中の父。


 取引先。


 市の昔の文書。


 一週間。


 簡単ではない。


 でも。


 不可能でもない。


「三好さん」


「はい」


「取引先の原本は、今日確認できます」


「はい」


「市への照会は、こちらで文案を作ります」


「……はい」


「やりましょう」


 三好さんは、しばらく私を見ていました。


 そして。


「お願いします」


 と頭を下げました。


「では一週間」


 長谷川主幹が言います。


「その時点で提出された資料を踏まえて、必要な調査を判断します」


 相馬先輩が腕を組みました。


「期限を切るのは構わん」


「ええ」


「でも、先に結論だけ閉じるな」


「閉じません」


 長谷川主幹は淡々と答えました。


「必要なものがあるなら見ます。ただし、必要な審理が終われば終えます」


 その言葉に。


 私の頭の中で、未来の条文が一瞬だけ光りました。


 必要な審理を終えたと認めるとき。


 審理手続を終結する。


 現代なら。


 審理員が。


 終結した旨を。


 審理関係人に。


 速やかに通知して――


「こはる」


「はいっ」


「戻るぞ」


「はい」


 危ない。


 危うく令和を口から吐くところでした。


 一週間は、短いです。


 でも。


 期限というのは、不思議なもので。


 曖昧な「そのうち」より、


 具体的な七日のほうが、人を動かします。


 一日目。


 取引先から文書原本のコピーと、保管経緯について確認書。


 二日目。


 市へ文書の作成部署と当時の担当課を照会。


 三日目。


 回答なし。


 四日目。


 相馬先輩が市役所へ。


「先輩」


「何だ」


「穏便にお願いしますね」


「俺はいつも穏便だ」


「その自己評価、行政処分なら取消訴訟したいです」


「不適法却下だ」


「何がですか!」


 五日目。


 市から回答。


 三年前の文書は道路整備課が作成した真正な文書。


 そして。


 方針変更は、その一年後に行われていました。


「変更されてるじゃないですか」


 私は資料を見ました。


 相馬先輩が煙草をくわえます。


「問題は理由だ」


 変更理由。


 そこには、


 ――第一期工事区域の交通処理計画変更により、一部搬入口を段階的に制限する。


 とあります。


「一部」


 私は指で叩きました。


「三好さんのところが、その『一部』に入ってるか」


「別紙だ」


 別紙。


 図面。


 対象箇所には赤線。


 三好印刷所。


「……ない」


「ああ」


「赤線、三好さんの手前までです」


「そうだな」


 私は椅子から立ち上がりました。


「じゃあ、市は方針変更したけど、その変更でも三好さんの搬入口は対象外?」


「少なくとも、この資料じゃな」


 六日目。


 市に追加確認。


 回答。


 ――三好印刷所前については、その後の現場判断により使用制限が必要と判断した。


「その後の現場判断」


 私は眉を寄せました。


「記録は?」


 片桐所長が聞きます。


「ありません」


「誰が判断した」


「担当係からの回答では、当時の係内協議」


「議事録」


「なし」


「現場写真」


「なし」


「交通量調査」


「なし」


 所長が黙りました。


 相馬先輩が言います。


「ずいぶん軽い『現場判断』だな」


 私は資料を並べました。


 市の最初の方針。


 第二期まで使用可能。


 その後の計画変更。


 一部を制限。


 でも三好印刷所は対象図から外れている。


 さらに後になって、


 記録の残っていない「現場判断」。


 そして現在の不許可理由は、


 道路整備事業の進捗及び交通安全。


 点と点が。


 つながるどころか。


 途中で一本、線が消えています。


「所長」


「何だ」


「これなら出せます」


「何をだ」


「単に昔は使える予定でした、じゃない」


 私は順番に指します。


「当初は第二期まで使用可能」


「うん」


「計画変更でも三好さんの箇所は制限対象外」


「うん」


「それを覆したとされる現場判断には、客観的記録がない」


「うん」


「なのに処分では交通安全を理由に不許可」


「それで?」


 所長は最後まで言わせる人です。


 厳しい。


 でも。


 だから整理できます。


「処分の前提となる判断過程が、本当に存在したのか確認が必要です」


 片桐所長が頷きました。


「書け」


「はい」


 七日目。


 県庁へ提出。


 長谷川主幹は、資料を一枚ずつめくりました。


 市の回答。


 図面。


 原本の写し。


 確認書。


「……分かりました」


 やがて言いました。


「処分庁に追加で照会します」


 三好さんの肩が動きました。


「じゃあ」


「裁決は少し延びます」


「ありがとうございます」


「礼を言われることではありません」


 長谷川主幹は事務的でした。


「判断に必要なら調べる。それだけです」


 それだけ。


 でも。


 私は、その言葉が好きでした。


 かわいそうだから。


 困っているから。


 大変だから。


 ではない。


 判断に必要だから調べる。


 冷たい。


 けれど。


 冷たいからこそ、人によって扱いを変えない。


「主幹」


 私は聞きました。


「もし、資料を出さないままだったら」


「予定どおり裁決に向けて進めていました」


「ですよね」


「何か?」


「いえ」


 やっぱり。


 手続には終わりがある。


 終わりは必要です。


 そうでなければ、永遠に事件が片づかない。


 でも。


 終わらせること。


 と。


 終わったことにすること。


 は違う。


 そこを混ぜると。


 制度の効率が、人の反論まで飲み込んでしまう。


 それから十二日後。


 三好さんが事務所へ飛び込んできました。


「先生!」


「どうしました」


「市から電話が!」


 私も立ち上がります。


「何て?」


「県から照会が来て、処分の理由をもう一度整理することになったって」


「それで?」


「当面、搬入口の使用を認める方向で手続をやり直すって」


「え」


 完全取消し。


 ではありません。


 審査請求の裁決も、まだです。


 市が処分の判断過程を見直し、


 自分たちで再処理を検討する。


 そんな段階。


 でも。


「印刷所、続けられるんですね」


「はい」


 三好さんの顔がくしゃっとなりました。


「紙を運び込めます」


 その一言でした。


 駅裏の小さな印刷所にとって。


 搬入口はただの道路の一部分ではありません。


 大きな紙束。


 インク。


 版。


 機械部品。


 全部そこから入る。


 そこを閉じられたら。


 仕事そのものが細くなる。


「まだ最終決着じゃありません」


 私は念を押しました。


「分かってます」


「県の審査請求も続いてます」


「はい」


「市のやり直しも、内容を確認しないと」


「はい」


 三好さんは何度も頷きました。


「でも」


「はい」


「今日、紙を五百枚入れられるんです」


 私は黙りました。


 ああ。


 そういうことか。


 法律の成果って。


 ときどき、とても地味です。


 営業再開。


 名誉回復。


 大逆転。


 そんな言葉じゃなく。


 紙を五百枚、店に入れられる。


 それだけ。


 でも。


 その五百枚で、


 明日の注文を刷れる。


「これ」


 三好さんが紙袋を置きました。


「差し入れです」


 相馬先輩が即座に反応します。


「食い物か」


「先輩」


「確認しただけだ」


 三好さんが笑いました。


「どら焼きです」


「よし」


「何が『よし』ですか」


「差し入れとして正しい」


「誰が規格を決めたんです」


「俺だ」


「私的基準を外部化しないでください」


 三好さんがさらに笑います。


 この前まで、


 役所の封筒を握りしめていた人です。


 それが。


 今日はどら焼きの袋を抱えて笑っている。


 大勝利ではありません。


 でも。


 一つ前へ進んだ。


 それで十分な日もあります。


 その午後。


 県庁の長谷川主幹から電話がありました。


「片桐行政書士事務所です」


『行政課の長谷川です』


「はい」


『三好さんの件ですが、市から追加回答が来ました』


「どうでした」


『処分時の交通安全上の具体的検討資料が、確認できませんでした』


「……そうですか」


『そのため、市側で処分を見直すとのことです』


「はい」


『審査請求の扱いについては、その結果を見て整理します』


「分かりました」


 そこで。


 長谷川主幹が少し間を置きました。


『朝比奈さん』


「はい」


『この前、あなたが言ったでしょう』


「何をです?」


『終わらせるなと言っているんじゃない。必要なところまで調べてから終わらせてくれ、と』


「ああ」


『あれは正しいです』


「え」


 ちょっと驚きました。


 この人。


 褒めるんだ。


『手続は、どこかで終えなければなりません』


「はい」


『資料を出す機会も無限ではない』


「はい」


『ただし、判断の前提を揺らす資料が出てきたなら、それを見ないで終われば、早いだけの手続になります』


 早いだけの手続。


 私はその言葉を頭の中で繰り返しました。


「……はい」


『では』


「あ、主幹」


『何です?』


「一つだけ」


『はい』


「いつか法律が改正されて、審理を担当する人を別に置いたり、審理手続を終えたら関係者に通知したりする制度になったら、どう思います?」


 沈黙。


『何の話ですか』


「未来の話です」


『疲れてます?』


「たぶん」


『休んでください』


 切られました。


 ひどい。


「何だって?」


 相馬先輩がどら焼きを食べながら聞きます。


「未来の制度の話をしたら休めと言われました」


「正しい」


「先輩まで」


「今の仕事を今の法律でやれ」


「それ、この前も言いましたよね」


「何回でも言う」


 片桐所長が奥から出てきました。


「こはる」


「はい」


「今日、何が分かった」


 来た。


 所長の抜き打ちまとめ問題。


 私は少し考えました。


 資料をいつまでも出せるわけではない。


 役所にも終わらせる必要がある。


 期限を切ることもある。


 必要な調査を終えれば、次へ進む。


 でも。


 必要なことが残っているのに、


「もう十分です」


 の一言で閉じるのは違う。


「手続の終わりって」


 私は言いました。


「役所が疲れたところじゃないんですね」


 相馬先輩が吹き出しました。


「当たり前だ」


「必要なところまで審理したところです」


 片桐所長が頷きました。


「それでいい」


 私は自分の机に戻りました。


 現代なら。


 審理員が必要な審理を終えたと認めれば、審理手続を終結する。


 一定の書類が出されない。


 さらに期限を示しても出されない。


 正当な理由なく口頭意見陳述に出てこない。


 そんな場合にも、いつまでも事件を止めておくわけにはいかない。


 だから終わらせる仕組みがある。


 そして。


 終結したことも。


 その先、審理員意見書や事件記録をいつ審査庁へ出す予定なのかも。


 関係者に知らせる。


 今の私は。


 その制度を知っています。


 でもここは昭和六十三年。


 そのまま使える条文ではない。


 それでも。


 制度が後から変わった理由は、少し分かる気がしました。


 いつ終わるのか。


 誰が終わりを決めるのか。


 まだ何か出せるのか。


 次に何が起きるのか。


 そこが曖昧だと。


 申立人には、


 突然シャッターを下ろされたように見える。


 旧制度の中で感じるその不安が。


 未来では、


 審理を担当する者を明確にし。


 終結という節目を置き。


 その後の予定まで通知する。


 そんな形に整理されていく。


 私はまだ。


 昭和の条文で仕事をしなければなりません。


 でも。


 未来の制度を知っているからこそ、


 なぜ変わったのか。


 その痛みの輪郭だけは見える。


「先輩」


「何だ」


「どら焼き、私の分あります?」


 相馬先輩が紙袋を覗きました。


「ない」


「え?」


「最後の一個だ」


「今持ってるじゃないですか!」


「そうだ」


「半分ください」


「嫌だ」


「提出期限を設定します」


「何の」


「三十秒以内に半分提出してください」


「拒否する」


「さらに一定期間を示します。十秒」


「短えよ」


「出されなかった場合、手続を終結します」


「何の手続だ」


「先輩を人として信頼する手続です」


「勝手に終結しろ」


「正当な理由なく提出しない!」


「俺のどら焼きだからだ!」


 片桐所長が新聞から顔を上げました。


「こはる」


「はい」


「机の上」


「え?」


 見る。


 小皿。


 どら焼き。


 一個。


「……所長」


「三好さんが別に置いていった」


「あるじゃないですか!」


 相馬先輩が笑っています。


「お前、必要な調査を終える前に結論出したな」


「ぐっ」


 言い返せない。


「確認不足だ」


 片桐所長が言いました。


「はい……」


 今日の教訓。


 終わらせる前に。


 本当に、見るべきものを全部見たか。


 手続でも。


 どら焼きでも。


 そこを飛ばすと、だいたいろくな結論になりません。


 私は小皿のどら焼きを取りました。


 窓の外では、駅前の工事現場から夕方の音が聞こえています。


 町は変わります。


 制度も変わります。


 法律も変わる。


 けれど。


「もう終わりです」


 と言われる側にとって、


 その一言が重いことだけは、


 たぶん昭和でも令和でも変わりません。


 だからこそ。


 終わりには、理由がいる。


 区切りがいる。


 そして。


 まだ聞くべきことが残っているなら、


 きちんと聞き終えてから閉じる。


 法律の手続は冷たい。


 期限を切る。


 提出を求める。


 来なければ先へ進む。


 いつまでも待ってはくれません。


 でも。


 その冷たさは、


 誰か一人の気分で突然扉を閉めさせないための冷たさでもある。


 三好さんの印刷所では、今日も紙が五百枚運び込まれているはずです。


 明日は、その紙に何かが印刷される。


 チラシか。


 名刺か。


 町内会のお知らせか。


 そんな小さな仕事が続いていく。


 一枚の追加資料で。


 たった一週間で。


 閉まりかけた扉が、少しだけ開いた。


 それで今日は十分です。


「先輩」


「今度は何だ」


「このどら焼き、栗入りです」


「そうか」


「半分あげましょうか」


「いらん」


「え」


「俺のは粒あんだった」


「……交換しません?」


「手続は終結した」


「そこだけ覚えるの早い!」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 どうやら今日も、


 必要な審理より先に終わってほしいのは、


 私と相馬先輩のくだらない言い争いのほうらしいです。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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