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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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194/284

[行政不服審査法40条・審理員による執行停止の意見書]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 夕方の片桐行政書士事務所は、昼間より少しだけ静かでした。


 電話も鳴らない。


 来客もいない。


 机の上には、昨日の肉じゃがの名残もない。


 正確には。


「先輩」


「何だ」


「鍋、空ですね」


「食ったからな」


「全部?」


「食えるものは食う」


「行政法より一貫してますね」


「褒めてんのか」


「半分くらいは」


 相馬先輩が煙草をくわえます。


 私は自分の机へ戻りました。


 ノートを開く。


 上に大きく書きます。


 ――行政不服審査法第四十条。


 その下。


 ――審理員による執行停止の意見書の提出。


 そして。


 私はしばらく、その文字を見つめました。


 昨日までは、


 ただの条文番号でした。


 審理員。


 執行停止。


 意見書。


 審査庁。


 受験生だったころの私は、


「はいはい、審理員が意見書出せるんでしょ」


 くらいの気持ちで赤線を引いていました。


 でも今は。


 森下さんの惣菜店のシャッターが浮かびます。


 明日閉まる。


 異議申立てをしても、すぐには結果が出ない。


 その間に店が潰れるかもしれない。


 だから。


 最終判断とは別に、


 いったん止める。


 昨日は、その意味がものすごく生々しかった。


「相馬先輩」


「何だ」


「今日は第四十条です」


「知らん」


「未来の条文です」


「じゃあもっと知らん」


「付き合ってください」


「嫌だ」


 私は奥を見ました。


「所長」


「付き合え」


 片桐所長が帳簿から顔も上げずに言いました。


 相馬先輩が黙りました。


 昨日に引き続き。


 この事務所では所長の一言に対する不服申立て制度がまだ整備されていません。


 私はノートに一本線を引きました。


「まず、大前提です」


「何だ」


「この第四十条は、現代の行政不服審査法の話です」


「ああ」


「昭和六十三年には、そもそも審理員制度がありません」


「昨日も言ってたな」


「なので、森下さんの事件では第四十条をそのまま使ったわけじゃありません」


 ここ。


 絶対に混ぜてはいけないところです。


 昭和六十三年。


 旧行政不服審査法。


 基本的な不服申立ては、


 異議申立て。


 審査請求。


 この二本立て。


 一方。


 現代法では、


 原則として審査請求に一本化。


 さらに。


 審査請求の審理を担当する者として、


 審理員という仕組みがある。


「つまり昨日の現場は旧法」


「そうです」


「今日の勉強は現代法」


「はい」


「混ぜたら?」


「事故ります」


「具体的には」


「昭和六十三年の市役所で『審理員に意見書を書いてもらいましょう』とか言って、完全に変な人になります」


「昨日なりかけてたな」


「はい」


 転生者。


 知識が多いほど安全とは限らない。


 制度改正をまたぐと、知識がそのまま地雷になります。


 私はノートに書きました。


 旧法。


 審理員制度なし。


 現行法。


 審理員制度あり。


 そしてその下に、


 第四十条。


 と囲みます。


「じゃあ本題です」


 私は言いました。


「審理員は、何ができるか」


 相馬先輩が煙草を灰皿へ置きました。


「昨日のお前の話だと、執行停止しろって言える」


「言えます」


「命令できる」


「できません」


「早えな」


「そこが今日の核心です」


 私はノートに大きく書きました。


 ――意見はできる。


 ――命令はできない。


「これです」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「違い、そんな大事か」


「試験だとものすごく大事です」


「実務では?」


「もっと大事です」


 審理員は、


 審査請求について審理する。


 双方の主張や証拠を見る。


 処分が妥当か。


 手続に問題がないか。


 いろいろ整理する。


 そして。


 必要があると認めたとき、


 審査庁に対して、


 執行停止をすべき旨の意見書を提出できる。


「じゃあ審理員が言うわけですね」


 私は続けました。


「この処分、審査中はいったん止めたほうがいいですよ、と」


「でも決めるのは審理員じゃない」


「はい」


「誰だ」


「審査庁です」


 片桐所長が短く言いました。


「そこを外すな」


「はい」


 私は二重線を引きます。


 審理員。


 意見を提出。


 審査庁。


 執行停止をするか判断。


「この役割分担を、昨日の森下さんの事件に置き換えると分かりやすいです」


「どう置き換える」


「昨日、私たちは市役所に対して、今すぐ取消処分の効力を発生させる必要があるのか、と突きました」


「ああ」


「森下さんの本案での勝ち負けとは別に、審理中に店を閉める必要性を見てほしい、と」


「そうだったな」


「現代法で、もし審査請求の審理中に審理員がいて、その人が『これは止めたほうがいい』と思ったら」


 私はノートを指しました。


「審査庁に意見書を出せる」


「で、その紙を受け取った審査庁が決める」


「そうです」


「審理員が直接止めるわけじゃねえ」


「そうです」


 私は少し笑いました。


「受験生って、ここで動詞を雑に覚えると落ちるんですよ」


「動詞?」


「はい」


 審理員が、


 執行停止をする。


 ではない。


 執行停止を命ずる。


 でもない。


 執行停止をすべき旨の、


 意見書を提出することができる。


「長いな」


「行政法ですから」


「便利な逃げ文句にするな」


 でも。


 この長さには意味があります。


 誰が。


 誰に。


 何を。


 どこまでできるのか。


 行政法は、


 そこをきっちり分けます。


「昨日、森下さんの件で私、ちょっと思ったんです」


「何を」


「もし審理する人が『これは止めた方がいい』と思っても、その人がそのまま決定までできたら」


「楽じゃねえか」


「楽です」


「じゃあそれでいいだろ」


「でも権限が集中します」


 私は言いました。


「審理する人が、自分で調べて、自分で意見をまとめて、自分で処分の効力まで止める」


「うん」


「全部同じ人に寄せると、役割の区切りがなくなる」


「だから審理員は審理員」


「はい」


「審査庁は審査庁」


「そういうことです」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「審理員は補助者ではない」


「はい」


「だが、裁決権者でもない」


「はい」


「そこを混同すると全部崩れる」


 短い。


 でも刺さります。


 私はその言葉をノートの端に書きました。


 審理員は審理する。


 審査庁は裁決する。


「じゃあ意見書って、どのくらい強いんです?」


 相馬先輩が聞きます。


「強い弱いで考えると危ないです」


「またか」


「意見書だから、法的に命令ではありません」


「審査庁が従わないこともある?」


「あり得ます」


「じゃあ意味あるのか」


「あります」


 私は少し身を乗り出しました。


「審理員は、処分に直接関与していない立場から審理を進める人です」


「うん」


「その人が資料を見て、双方の言い分を見て、それでも『これは止めた方がいい』と判断した」


「うん」


「その意見は、ただの外野の感想じゃない」


 そこで私はペンを置きました。


「審査庁が最終判断するときの重要な材料です」


「なるほどな」


「でも最後に決める権限までは渡していない」


「だから意見書」


「はい」


 ここ。


 試験で引っかけられます。


 審理員は、


 執行停止を命じることができる。


 ――誤り。


 審理員は、


 審査庁に対し、


 執行停止をすべき旨の意見書を提出することができる。


 ――正しい。


「一文字二文字の違いじゃねえな」


 相馬先輩が言いました。


「そうなんですよ」


「権限そのものが違う」


「はい」


 私はノートに丸をつけました。


 この条文、


 思ったより気持ちいい。


 審理員は中立性を意識して審理する。


 でも裁決権までは持たせない。


 必要なら意見を出せる。


 最終判断は審査庁。


 役割を切り分けている。


 面倒。


 でも筋が通っています。


「次」


 私は見出しを書きました。


 ――いつ意見書を出せるか。


「必要があると認める場合」


「誰が?」


「審理員が」


「審査請求人が頼まないと駄目か」


 私は少し止まりました。


「第四十条の条文上は、審理員が必要があると認める場合です」


「つまり?」


「審理員自身の判断で意見書を提出できる」


「申立て待ちじゃねえ」


「そこも大事です」


 審理員は、


 審理の中で事情を見る。


 処分が動き続けることで大きな不利益が出る。


 救済が後手に回る。


 そう判断すれば。


 審査庁に、


 執行停止すべきです、


 と意見を出すことができる。


「森下さんの店みたいな場合なら」


 私は言いました。


「翌日から営業不能。審査請求の結論まで待っていたら、店が持たないかもしれない」


「ああ」


「そういう事情を審理員が把握して、必要と判断する場面があり得る」


「でも止めるかは審査庁」


「はい」


「何回確認するんだ」


「ここで落とす受験生が多そうなので」


 私はさらに書きました。


 ――第四十条は、執行停止そのものの要件を定めた中心条文ではない。


「ここも注意です」


「何でだ」


「第四十条だけ見ると、『審理員が止める条文』みたいに錯覚しやすいからです」


 実際の執行停止の制度全体は、


 別の条文とセットで考える。


 第四十条は、


 審理員が審査庁に、


 執行停止をすべき旨の意見書を提出できる、


 という役割についての条文。


「つまり第四十条だけで全部説明しようとするな」


「その通りです」


 行政法。


 一条だけ読んで世界を理解しようとすると、


 だいたい次の条文から殴られます。


 私はノートに、


 第四十条=審理員の意見提出権。


 と書きました。


「じゃあこの意見書、いつ作るんです?」


 相馬先輩が聞きました。


「そこ、教材で混乱しやすいところです」


「何が」


「意見書という言葉が、第四十二条の審理員意見書とつながって見えるから」


 私はページをめくります。


「審理手続が終結したとき、審理員は最終的に、審査庁がどんな裁決をすべきかという意見をまとめます」


「ああ」


「でも第四十条の執行停止についての意見書は、その最終意見とは役割が違う」


「途中で出すこともある?」


「そう考えないと意味がないですよね」


 森下さんの店が、


 明日閉まる。


 なのに審理が全部終わってから、


 執行停止すべきでした。


 と意見を出しても。


 遅い。


「執行停止は、今止める必要があるかの話です」


「だから審理の途中でも問題になる」


「そういうことです」


 私は書きました。


 最終の裁決意見。


 審理終結後。


 執行停止意見。


 必要があると認める場合。


「名前が似てるから危ないですね」


「行政法、名前似てるの多すぎるだろ」


「ほんとに」


 審査請求。


 審理員。


 審査庁。


 審理手続。


 審理員意見書。


 執行停止意見書。


 行政法は、


 似た言葉を並べて受験生の視界を曇らせる競技でもしているのでしょうか。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「昨日の事件に戻れ」


「はい」


「なぜ執行停止が必要だった」


「本案の判断まで待つと、森下さんの営業が事実上壊れるおそれがあったから」


「なぜ取消処分そのものを直ちに取り消さなかった」


「そこはまだ審理が必要だったから」


「なぜ停止だけ先に考えられた」


「本案の勝ち負けと、審理中の暫定措置は別だから」


「そこだ」


 私は頷きました。


 ここ。


 本当に大事です。


 執行停止というと、


 何となく、


 処分が怪しいから止める。


 という感じがします。


 でも。


 必ずしも、


 最終的に処分が取り消されると決まったから止めるわけではない。


 本案はまだ審理中。


 ただ。


 その間に処分を動かし続けることで、


 救済の意味がなくなるような不利益が出る。


 だから暫定的に止める。


「森下さんの取消処分も」


 私は言いました。


「結局、取消し自体が正しかった可能性は残ってます」


「棚を何度も出してたからな」


「はい」


「でも明日閉める必要があるかは別だった」


「そうです」


 私は二つ並べて書きました。


 本案。


 処分を維持するか、取り消すか。


 執行停止。


 審理中、処分の効力を止めるか。


「似ているけど別問題」


「そうだ」


 所長が言いました。


 そして私は、


 もう一つ大きく囲みました。


 ――不服申立てをしただけでは、原則として処分は自動停止しない。


「これ、昨日の事件の入り口でしたね」


「そうだな」


「もし自動停止するなら、執行停止の制度自体がかなり違う意味になります」


「申し立てりゃ全部止まるからな」


「でもそれだと行政が動かない」


 たとえば。


 危険な建物に対する措置。


 営業停止。


 公衆衛生上の処分。


 何でも、


 不服申立てしました。


 はい停止。


 では困る。


「だから基本は処分を動かす」


「うん」


「でも動かしたままだと救済が間に合わない場合がある」


「そこで執行停止」


「はい」


 原則。


 止まらない。


 例外。


 必要に応じて止める。


 行政の実効性と、


 救済の実効性。


 両方を考えている。


「制度として、かなり現実的ですね」


 私が言うと、相馬先輩が笑いました。


「お前、行政法褒める日が来るとはな」


「私も驚いてます」


 受験生時代の私は、


 執行停止。


 要件。


 申立て。


 職権。


 審査庁。


 と並ぶだけで目が滑っていました。


 でも。


 森下さんの店を知ったあとでは。


 原則停止しない。


 でも例外的に止める。


 という仕組みが、


 ただの理屈ではなくなります。


「次。旧法との違いです」


 私は言いました。


「来たな」


「来ます」


 昭和六十三年。


 旧法には審理員制度がない。


 だから。


 現代のように、


 処分に関与していない審理員が審理し、


 必要なら執行停止について審査庁へ意見を出す。


 という構造ではない。


「昨日、私たちは処分した側の市役所に行きました」


「ああ」


「取消処分を出した行政に対して」


「うん」


「その処分を争います」


「うん」


「さらにその処分の効力も止めてください」


「確かに、近いな」


「近すぎるんですよ」


 ここが旧法の課題の一つ。


 もちろん。


 処分庁自身が見直すことで、


 早く修正できることもある。


 現場事情も分かっている。


 沢渡課長みたいに、


 理屈が通れば動く人なら、


 むしろ早い。


 でも。


 申立人から見れば。


「あなたが出した処分、おかしいです」


「ついでに今すぐ止めてください」


 これを同じ行政組織に求める。


「公平に見てもらえるのかって不安はありますよね」


「あるだろうな」


「だから現代法では審理員制度が入る」


「処分に関わってねえ職員が見る」


「はい」


「その審理員が、止めるべきだと思えば意見書を出せる」


「はい」


「でも最後に止めるのは審査庁」


「完璧です」


「誰が受験生だ」


 私は笑いました。


 でも。


 この流れは本当に分かりやすい。


 旧法。


 処分側と見直し側の距離が近い。


 現代法。


 審理員を置いて審理の公正性を高める。


 ただし。


 審理員に最終決定権まで持たせるわけではない。


 だから。


 第四十条では、


 意見書。


 となる。


「制度改正の筋が見えますね」


「単なる名前変更じゃねえ」


「そうです」


 そして。


 この条文は、


 現代法が審理員をどう位置づけているかをよく表しています。


 ただの書記役ではない。


 必要があれば、


 執行停止について自ら審査庁に働きかけられる。


 でも。


 裁決権者ではない。


 だから命令できない。


「絶妙ですね」


「何が」


「権限の置き方です」


「お前、完全に行政法側に取り込まれてるぞ」


「やめてください」


 少し怖い。


 私は気を取り直して、


 試験用の見出しを書きました。


 ――引っかけポイント。


「来たな」


「来ます」


 一つ目。


 審理員は執行停止を命ずることができる。


 ――誤り。


 二つ目。


 審理員は審査庁に対し、執行停止をすべき旨の意見書を提出できる。


 ――正しい。


 三つ目。


 審理員は必ず意見書を提出しなければならない。


 ――誤り。


「なんで」


「条文は『必要があると認める場合には』、『提出することができる』です」


「義務じゃねえ」


「はい」


 できる。


 であって、


 しなければならない。


 ではない。


「行政法、助動詞も油断できねえな」


「そうなんです」


 できる。


 しなければならない。


 努めなければならない。


 するものとする。


 してはならない。


 受験生の敵は、


 巨大な理論だけではありません。


 語尾です。


 第四十条もまさにそれ。


「四つ目」


 私は続けます。


「審理員が執行停止すべき旨の意見書を提出した場合、審査庁は必ず執行停止しなければならない」


「違う」


 相馬先輩が即答しました。


「理由は」


「命令じゃねえから」


「正解」


「簡単じゃねえか」


「今ので覚えたからですよ」


「昨日の肉じゃが効果だな」


「関係ないです」


 でも。


 この一問でだいぶ定着します。


 意見書は、


 審査庁を法的に拘束する命令ではない。


 審査庁は、


 意見を踏まえて自ら判断する。


「五つ目」


 私は書きます。


「昭和六十三年の異議申立てで、審理員が執行停止意見書を提出できる」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「未来人しか出てこねえ」


「正解です」


「誤りだろ」


「はい」


 ここも新旧混同。


 現代法の制度を、


 旧法時代に持ち込まない。


 このシリーズでは特に重要です。


 私は赤線を引きました。


 昭和六十三年。


 審理員なし。


 現代。


 審理員あり。


「期間もそうでしたね」


「ああ」


「旧法は六十日」


「現代は三か月」


「そこもセット」


 相馬先輩が少し得意そうです。


 人は肉じゃがを食べると行政法に強くなるのでしょうか。


 たぶん違います。


「所長」


 私は聞きました。


「第四十条の一番大事なところ、一言でいうと何ですか」


 片桐所長は少し考えました。


「審理員は、止める人ではない」


 短い。


「続きは?」


「止めるべきだと、言える人だ」


 私は思わずペンを止めました。


「それ、使います」


「勝手にしろ」


 ノートに大きく書きます。


 ――審理員は「止める人」ではなく、「止めるべきだと言える人」。


 相馬先輩が覗き込みます。


「分かりやすいな」


「ですよね」


「でも一行の覚え書きにしちゃ長くねえか」


「あとで縮めます」


「またか」


 私はその下に、


 昨日の事件との対応を書いていきました。


 森下さん。


 翌日から仮設店舗使用承認取消しの効力。


 異議申立ては可能。


 ただし自動停止しない。


 だから執行停止を求めた。


 取消しそのものの妥当性。


 まだ未決着。


 でも。


 審理中に店を閉める必要があるかは別問題。


 現代法なら。


 審理員が必要と判断した場合、


 審査庁に執行停止すべき旨の意見書を提出できる。


 ただし。


 決めるのは審査庁。


「こうやって事件に当てると」


 私は言いました。


「条文の主語が見えますね」


「主語?」


「誰が何をするか」


「審理員が」


「はい」


「審査庁に」


「はい」


「意見書を出す」


「はい」


「止めるのは審査庁」


「そうです」


「これだけ?」


「試験では、これだけを正確に言えることが大事です」


 行政法は、


 知っているつもりが一番危ない。


 大体の意味が分かっていても、


 主語を入れ替えられる。


 権限を少し強く書かれる。


 任意を義務にされる。


 それだけで正誤がひっくり返る。


「たとえば」


 私は言いました。


「審理員は必要があると認める場合、審査庁に執行停止を命じることができる」


「誤り」


「審理員は必要があると認める場合、審査庁に執行停止すべき旨の意見書を提出しなければならない」


「誤り」


「審理員は必要があると認める場合、審査庁に執行停止すべき旨の意見書を提出することができる」


「正しい」


「完璧」


「試験受けるか」


「先輩が?」


「嫌だ」


「ですよね」


 片桐所長が言いました。


「もう一つ」


「はい」


「なぜ意見書なのか」


 私は少し考えます。


 さっきまでの整理を頭の中で並べる。


「審理員は、処分から距離を置いて審理する立場だから」


「うん」


「審理の中で、執行停止の必要性に気づくことがある」


「うん」


「でも裁決権者ではない」


「うん」


「だから自分で停止を決めるのではなく、審査庁に意見を出す」


 所長が頷きました。


「そこまで分かれば忘れん」


 たぶん。


 本当に忘れません。


 条文の構造が、


 制度の役割分担そのものだからです。


 私はノートの最後の欄を開きました。


 ――一行の覚え書き。


「来ました」


「何が」


「締めです」


 相馬先輩が面倒そうな顔をしました。


「短くしろよ」


「考えます」


 少し考える。


 そして書きました。


 ――審理員は止めない。止めるべきだと審査庁に言える。


「どうです?」


「まあ分かりやすい」


「所長案ほぼそのままです」


「盗作だな」


「法律知識に著作権の話を持ち込まないでください」


 もう一案。


 ――第四十条は「命令」ではなく「意見」。


「こっちの方が試験向きだな」


「ですよね」


 私は二つとも残しました。


 一行じゃありません。


 でも。


 行政法受験生のノートなんて、


 だいたい最後には書き込みが増殖します。


 仕方ありません。


 窓の外を見ると、


 駅前に灯りがつき始めていました。


 森下さんの仮設店舗も、


 今ごろ夕方の客が来ているはずです。


 今日もシャッターを開けられた。


 でも。


 取消処分そのものの問題はまだ終わっていません。


 棚を繰り返し出したこと。


 消防通路の安全。


 市の警告。


 全部見なければならない。


 最終的に、


 取消しが維持される可能性だってある。


 執行停止は、


 勝利宣言ではありません。


 ただ。


 判断が出るまでの時間を確保する制度です。


 だからこそ価値がある。


 本案で争う権利があっても。


 その結論が出る前に生活が壊れたら、


 救済は紙の上だけになります。


 法律は、


 時間までは巻き戻せません。


 だから。


 巻き戻せなくなる前に、


 いったん止める。


 その必要性を、


 審理員が見つけることがある。


 そして。


 見つけたからといって、


 自分で全部決めない。


 審査庁に意見を出す。


 決める人と、


 意見を言う人を分ける。


 面倒です。


 とても。


 でも。


 その面倒さが、


 制度の公正さを支えている。


 昨日。


 森下さんが言いました。


「今日も店を開けられました」


 行政法第四十条は、


 その言葉を直接生む条文ではありません。


 まして昭和六十三年のこの町では、


 まだ存在すらしていない。


 でも。


 未来でこの制度が作られた理由は、


 昨日の店先を見れば、


 少し分かる気がします。


 処分をした人。


 審理する人。


 意見を出す人。


 最後に決める人。


 全部を同じにしない。


 それぞれに役割を持たせる。


 法律は冷たい。


 でも。


 冷たく役割を切り分けることで、


 一人の判断に全部を預けないようにしている。


 私はノートを閉じました。


「終わったか」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


「じゃあ帰るぞ」


「待ってください」


「何だ」


 私は机の端に置かれた最後の焼き芋を指しました。


「それ、私のですよね」


「知らん」


「朝から一本残してたんです」


「証拠は?」


「置いた位置」


「弱い」


「先輩が食べようとしてますよね」


「まだ食ってねえ」


「執行停止を求めます」


「誰に」


 私は片桐所長を見ました。


「審査庁に」


「俺か」


「はい。相馬先輩が焼き芋を口に入れる前に、執行停止してください」


 所長が焼き芋を見る。


 相馬先輩を見る。


 私を見る。


「こはる」


「はい」


「意見は聞いた」


「では」


「停止しない」


「なぜです!?」


「半分にしろ」


 相馬先輩が笑いました。


「裁決出たぞ」


「和解みたいになってるじゃないですか!」


「不服か」


「不服です」


「審理員意見は?」


「全部私です!」


 所長が焼き芋を半分に割りました。


 湯気はもうありません。


 でも。


 中はまだ少しだけ温かかった。


 私はそれを受け取りながら、


 今日の一行を、頭の中でもう一度繰り返しました。


 ――審理員は止めない。止めるべきだと審査庁に言える。


 行政法は。


 誰が言うのか。


 誰が決めるのか。


 そこまで分けて覚えて、


 やっと一行です。

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