[行政不服審査法38条・審査請求人等による提出書類等の閲覧等]現場編 「内部資料ですから見せられません」の嘘。役所だけが知る処分理由と、反論するために取り戻す“見る権利”
相手が何を根拠に自分を不利にしたのか。
それが見えないまま、
「反論してください」
と言われても。
それは反論ではありません。
目隠しをして、的に矢を射ろと言っているようなものです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の午後、私はコピー機の前で腕を組んでいました。
「先輩」
「何だ」
「このコピー機、私を嫌ってません?」
「機械に好かれようとするな」
「紙が三枚連続で斜めになります」
「お前の入れ方が斜めなんだろ」
「人格まで斜めみたいに言わないでください」
がこん。
コピー機が嫌な音を立てました。
私は黙って蓋を開けました。
紙が詰まっています。
「……先輩」
「今度は何だ」
「紙が行政処分を受けました」
「廃棄処分しろ」
「不服申立ての機会をください」
「却下」
「教示もなしですか!」
そんな平和な攻防をしていたとき。
事務所の引き戸が開きました。
「すみません」
女性の声でした。
私はコピー機との行政紛争を中断して振り返ります。
五十代くらい。
紺色のエプロン。
両手には、大きな茶封筒。
そして。
封筒の端から、白い紙が何枚も飛び出しています。
見るからに、
役所と揉めています。
という紙の束でした。
「片桐先生はいらっしゃいますか」
「はい。どうぞ」
女性は、
西野澄江さん。
駅前商店街で、小さなお惣菜屋を営んでいる人でした。
店の名前は、
おかずの西野。
そのままです。
でも。
名前とは逆に、相談内容は少しややこしかった。
「これなんです」
西野さんが一枚の通知を机へ置きました。
――道路占用許可更新申請について、不許可とする。
処分庁。
湖西市建設部長。
理由。
――駅前再整備事業に伴う歩行者の安全及び通行空間確保のため。
「道路占用?」
私は聞きました。
「店の前に、小さい台を出してるんです」
「台?」
「夕方だけ、お惣菜を並べるんです。コロッケとか、煮物とか」
西野さんは両手で、大きさを示しました。
幅一メートルくらい。
奥行き四十センチほど。
店そのものは商店街の建物の中にあります。
ただし店先が狭い。
そこで十年以上、市から許可を受けて、道路側へ少しだけ販売台を出していた。
「毎年、更新してたんですか」
「はい。今年も同じように出したんです」
「それが不許可」
「そうです」
「駅前再整備が始まるから?」
「最初は、仕方ないと思ったんです」
西野さんは言いました。
「道が狭くなるなら、人に迷惑かけちゃいけませんから」
その声には、
役所への怒りより、
諦めのほうが多く混じっていました。
「でもね」
「はい」
「向かいの店は出してるんです」
「何をです?」
「八百屋さんの箱」
「ああ」
「果物とか野菜とか、うちの台よりずっと大きいの」
私は通知へ視線を戻します。
歩行者の安全。
通行空間確保。
そこまでは分かる。
でも。
同じ通りで。
片方だけ駄目。
「八百屋さんは許可を受けてるんですか」
「受けたって」
「今年?」
「今年です」
「場所は?」
「道を挟んで斜め向かい」
近い。
かなり近い。
「市役所には聞きました?」
「聞きました」
「何て?」
西野さんの表情が曇りました。
「調査した結果ですって」
「調査?」
「人の通る数とか、道の混み具合を調べたんだそうです」
「その結果、西野さんのところは駄目?」
「そう言われました」
「その調査、見せてもらいました?」
西野さんは首を横に振りました。
「見せてくださいって言ったんです」
「はい」
「そしたら――」
西野さんは、役所の担当者の口調を思い出すように言いました。
「『内部資料ですので、お見せできません』って」
私は止まりました。
内部資料。
便利な言葉です。
冷蔵庫の奥にある謎のタッパーくらい便利です。
中身を聞かれたくないとき、
とりあえず蓋をしておける。
「でも、その資料を使って不許可にしたんですよね?」
「そうみたいです」
「見せない?」
「はい」
「そのうえで、納得してください?」
「……はい」
それは。
なかなか豪快です。
相手だけ答案を持っている。
採点理由も持っている。
こちらには点数だけ知らせる。
それで、
「間違っていると思うなら反論どうぞ」
と言われる。
いや。
何に反論すればいいんですか。
「不服申立ては?」
相馬先輩が聞きました。
「しました」
西野さんが茶封筒から別の紙を出しました。
「商店会の人に、こういうのがあるって聞いて」
審査請求書。
処分庁は市建設部長。
審査庁は、その上級行政庁である市長。
なるほど。
今回は異議申立てではなく、審査請求。
昭和六十三年。
旧行政不服審査法。
処分庁に上級行政庁がある。
だから、その上へ審査請求。
ここまではいい。
問題は。
「審査請求したあと、市から返事が来たんです」
西野さんがさらに紙を出しました。
処分庁から弁明書が提出されたこと。
審査が進められていること。
そんな通知です。
「弁明書は?」
「これです」
私は受け取りました。
そこには、
不許可処分は適法かつ妥当である。
駅前再整備区域における歩行者交通量、道路幅員、時間帯別混雑状況等を総合考慮した。
そう書かれています。
「総合考慮」
私は呟きました。
「また便利な言葉出てきたな」
相馬先輩が言います。
「何をどう考慮したんでしょう」
「だから資料があるんだろ」
「その資料を見せてもらえない」
「そういうことだ」
西野さんが、小さな声で言いました。
「反論書を出せって言われてるんです」
「期限は?」
「来週です」
「何を書けばいいか分からない?」
「はい」
当然です。
歩行者が多いから駄目です。
と言われた。
でも何人だったのか分からない。
どの時間に調べたのか分からない。
どこを測ったのか分からない。
向かいの八百屋と何が違うのかも分からない。
なのに、
さあ反論してください。
無茶です。
私は弁明書を読み直しました。
そこに小さく、
――別添資料一ないし四参照。
とあります。
「別添?」
「何だ」
「先輩、これ」
私は指しました。
「弁明書だけじゃない。処分庁、資料も審査庁へ出してます」
相馬先輩が覗き込みます。
「交通量調査表、現況写真、道路幅員図、駅前整備区域図」
「これです」
西野さんの顔を見る。
「西野さんが市役所で『見せてください』って言った資料、この中にあるかもしれません」
「でも、内部資料だから駄目だって……」
その瞬間。
私の頭の奥で。
一つの条文が勢いよく起き上がりました。
提出書類等の閲覧。
行政不服審査法。
三十八条。
審査請求人又は参加人は、
審理手続が終結するまでの間、
審理員に対し――
「見られます」
私は言いました。
相馬先輩が私を見る。
「何を」
「提出資料です」
私は少し前のめりになりました。
「審査請求人は、審理手続が終結するまで、審理員に提出書類等の閲覧や写しの交付を――」
「待て」
相馬先輩が止めました。
「はい」
「誰に?」
「審理員に」
「誰だ、それ」
「……え」
「この役所にそんな奴いるのか」
私は固まりました。
あ。
ああ。
あああ。
またやった。
未来法です。
脳内で。
平成二十六年全部改正後の行政不服審査法が、
昭和六十三年の事務所へ土足で上がり込んできました。
「……いません」
「何が」
「審理員」
「だろうな」
「まだ生まれてません」
「人みたいに言うな」
危ない。
非常に危ない。
現代なら。
審理員。
提出書類等。
閲覧。
写しの交付。
三十八条。
そんな言葉がセットで出てくる。
でも。
ここは昭和六十三年。
旧行政不服審査法です。
現代法の三十八条を、そのまま持ってきてはいけない。
条文番号も制度も違う。
「すみません」
私は額を押さえました。
「頭の中で三十年くらい先走りました」
「いつもの病気か」
「転生者には切実な病気なんです」
「知らん」
片桐所長が、弁明書を手に取りました。
静かに読む。
そして。
「こはる」
「はい」
「発想まで捨てるな」
「え?」
「今の法律を使うな。それだけだ」
私は瞬きをしました。
所長が弁明書の、
別添資料一ないし四参照。
を指します。
「この時代にも、見る道はある」
「……旧法」
「調べろ」
「はい」
棚へ行く。
行政法令集を引き抜く。
重い。
昭和の法令集は、本気で人を殴れそうなくらい重い。
もちろん殴りません。
行政法で解決します。
ページをめくる。
審査請求。
審理手続。
弁明書。
証拠書類。
物件の提出。
そして。
「あった」
私は指で止めました。
旧行政不服審査法。
第三十三条。
処分庁から提出された書類その他の物件。
審査請求人や参加人は、
審査庁に対して、
その閲覧を求めることができる。
そして。
第三者の利益を害するおそれがある場合など、
正当な理由がなければ、
審査庁は閲覧を拒めない。
「これだ」
声が出ました。
「何だ」
「市役所の窓口で『内部資料を見せろ』って言ってた段階とは、もう違います」
相馬先輩が笑いました。
「やっと気づいたか」
「はい」
不服申立ての審理が始まっている。
しかも。
処分庁がその資料を、
自分たちの処分を正当化する材料として審査庁へ提出している。
なら。
単なる、
役所の内部資料を一般人として見せてください。
という話ではない。
「審査請求人として」
私は言いました。
「審査庁に閲覧を求める」
西野さんが目を丸くしました。
「見せてもらえるんですか」
「少なくとも」
私は言葉を選びました。
「『内部資料だから』という一言だけで終わる話じゃありません」
もちろん。
何でも絶対に見られるわけではない。
第三者の利益。
正当な理由。
そういう制限はある。
でも。
役所が処分を正しいと主張するために審査庁へ出した資料なのに、
審査請求人には、
「内部資料なので秘密です」
で済ませる。
そんな一方通行ではない。
「行くぞ」
相馬先輩が立ち上がりました。
「どこへです?」
「市役所」
「今から?」
「反論書、来週なんだろ」
「そうでした」
実務は待ってくれない。
条文を見つけて感動している暇があったら、
使え。
相馬先輩の背中がそう言っています。
口は悪い。
でも。
歩くのも早い。
市役所。
三階。
総務課。
不服申立て関係の書類を扱う部屋。
そこで待っていたのは、
やっぱり。
「片桐先生」
沢渡課長でした。
灰色の背広。
細い眼鏡。
そして今日も、
住民感情をすべて弾く顔。
「今度は何でしょう」
「西野澄江さんの審査請求」
相馬先輩が言いました。
「ああ。道路占用の件ですか」
「処分庁から資料、出てるな」
「出ています」
「交通量調査も?」
「あります」
「現況写真」
「あります」
「幅員図」
「ありますね」
あっさり認めます。
「見せてくれ」
相馬先輩が言いました。
沢渡課長は眼鏡の奥からこちらを見ました。
「どなたに」
「西野さんにだ」
「先日、担当課で説明したと聞いていますが」
「説明じゃねえ」
「では?」
「閲覧だ」
沢渡課長の視線が、
少しだけ変わりました。
私は鞄から紙を出します。
旧法第三十三条に基づく閲覧請求。
「審査請求人として請求します」
沢渡課長が紙を受け取りました。
数秒。
読む。
「なるほど」
出ました。
沢渡課長の、
感情ではなく条文が出てきたときだけ少し機嫌がよくなる声です。
「担当課で断られた、と」
「はい」
「何と言われました?」
「内部資料だから見せられないと」
「それは建設部での話でしょう」
「はい」
「今は審査請求の審理資料として、処分庁からこちらへ提出されています」
「だから閲覧を求めています」
「筋は分かりました」
あっさり。
私は一瞬、拍子抜けしました。
「……いいんですか」
「何がです?」
「もっとこう」
「こう?」
「『内部資料ですので』とか」
「朝比奈さん」
「はい」
「私は、条文にない拒絶理由を創作するほど暇ではありません」
強い。
この人。
敵に回すと分厚いけれど、
法理がこちらにあると本当に早い。
「ただし」
沢渡課長が続けました。
「全部そのまま閲覧できるとは、今ここでは答えません」
「第三者の利益ですか」
「それもあります」
資料の中には、
近隣店舗の事情。
個人の情報。
別の事業者についての記録。
そうしたものが含まれている可能性がある。
「正当な理由がある範囲については、閲覧を制限することがあります」
「分かっています」
「日時はこちらで指定します」
「はい」
私は頷きました。
そして。
未来の知識が、また一歩前へ出ました。
「では写しも交付していただいて――」
相馬先輩が肘で私をつつきました。
「痛っ」
「また未来行ってるぞ」
「え?」
「写し」
「……あ」
私は止まりました。
そうだ。
現代法なら。
提出書類等について、
閲覧だけではなく、
写しなどの交付まで請求できる。
手数料。
経済的困難があれば減免。
閲覧・交付前に提出人の意見を聴く仕組み。
そんな制度まで整備されている。
でも。
昭和六十三年の旧法第三十三条。
ここで保障されている中心は、
処分庁から提出された書類その他の物件の閲覧。
現代法は、この旧制度より対象や交付請求の仕組みを広げている。
「……閲覧でお願いします」
私が言い直すと、
沢渡課長の口元が少しだけ動きました。
「今、何か変なこと言いました?」
「いえ」
「笑いました?」
「気のせいでしょう」
またそれです。
「課長」
私は言いました。
「ひとつ確認していいですか」
「どうぞ」
「西野さんが建設部へ行ったときは、同じ資料を見せてもらえなかった」
「そう聞いています」
「でも今は、審査請求の中で閲覧を求められる」
「要件を満たすなら、そうです」
「同じ人が、同じ紙を見たいと言ってるのに」
「立場が違います」
沢渡課長が言いました。
「立場?」
「単に役所の資料を見たい住民として求めるのと、不服申立ての当事者として、審査の資料になっているものを見るのは別の話です」
私は黙りました。
それです。
行政法の嫌なところであり。
行政法の面白いところ。
気持ちは同じでも、
法的な立場が変わると、
使える制度が変わる。
「だから」
沢渡課長が続けます。
「論点を間違えると、同じ『見せてください』でも入口で止まります」
先輩が横で鼻を鳴らしました。
「役所の人間に勉強教わってどうすんだ」
「今ちょっと悔しいところです」
「悔しがるな」
沢渡課長は書類をまとめました。
「明後日の午後二時」
「閲覧ですか」
「場所はここです」
「西野さん本人と?」
「代理関係を確認したうえで対応します」
「分かりました」
「それと」
沢渡課長が私を見る。
「閲覧したからといって、審査請求が認められるわけではありませんよ」
「もちろんです」
「資料を見て、市の判断が正しいと分かる可能性もある」
「はい」
「むしろ西野さんに不利な事実が見つかるかもしれない」
「それでも」
私は言いました。
「見えないまま負けるよりいいです」
沢渡課長が少し黙りました。
「そうですね」
たったそれだけ。
でも。
それが不服審査の審理なんだと思いました。
勝たせてもらう制度じゃない。
自分に都合のいい紙だけ見せてもらう制度でもない。
役所が何を根拠にしたのかを見る。
そのうえで。
違うなら反論する。
正しければ受け止める。
そのための土台を、
まず同じ机の上に置く。
明後日。
午後二時。
総務課の小会議室。
机の上には、
四つのファイルが並びました。
沢渡課長。
担当職員。
西野さん。
片桐所長。
相馬先輩。
そして私。
「こちらが、処分庁から提出された資料です」
沢渡課長が言いました。
「一部、他の事業者に関する情報については閲覧対象から外しています」
相馬先輩が確認します。
「理由は」
「第三者の利益に関わる部分です」
「西野さんの処分理由に使った部分は?」
「閲覧できます」
「ならいい」
私は最初の紙を見ました。
歩行者通行量調査表。
日付。
時間帯。
調査地点。
人数。
「……あれ?」
私は声を出しました。
「どうした」
相馬先輩が覗きます。
「これ」
調査地点。
駅前商店街。
A地点。
B地点。
C地点。
図面を見る。
西野さんの店は――
「C地点ですね」
「そうだな」
調査表へ戻る。
A地点。
午前七時から九時。
B地点。
正午から午後二時。
C地点。
「……午後四時から六時」
西野さんの販売台が出る時間です。
一見すると正しい。
でも。
日付。
「六月三日」
「はい」
西野さんが答えました。
「この日、何曜日です?」
相馬先輩が机上の卓上カレンダーの古いページをめくる。
「金曜」
「金曜……」
西野さんが紙を覗き込みました。
そして。
「あ」
「何です?」
「この日」
西野さんが顔を上げました。
「うち、休みです」
部屋が静かになりました。
「休み?」
「はい」
「定休日?」
「違います」
「では?」
「娘の結婚式で」
私は瞬きをしました。
「お店、閉めてた?」
「一日中」
「販売台も?」
「出してません」
私は調査表を見る。
六月三日。
C地点。
午後四時から六時。
歩行者通行量。
そして備考欄。
――路上陳列物により有効幅員が狭小。
私は指を止めました。
「先輩」
「ああ」
「おかしい」
相馬先輩の声が低くなります。
「この日、西野さんの台はねえ」
「はい」
「なのに」
「路上陳列物で狭くなってる」
西野さんが、不安そうに言いました。
「別のお店の物じゃないですか?」
「その可能性あります」
図面を見る。
C地点。
写真資料。
六月三日撮影。
人が歩いている。
商店街。
道路脇に。
段ボール箱。
野菜。
果物。
私は写真を見つめました。
「西野さん」
「はい」
「これ、あなたの販売台ですか?」
「違います」
「じゃあ」
西野さんが指しました。
「あそこの八百屋さんです」
全員が黙りました。
写真の端に映っている店名。
確かに。
西野さんの店ではない。
向かいの八百屋。
しかも。
箱は道路側へかなり出ています。
「……これ」
私は言いました。
「西野さんの不許可理由の資料ですよね」
沢渡課長は答えません。
ただ。
交通量調査表。
位置図。
写真。
それぞれを順に見ました。
「担当を呼びます」
声が少しだけ低くなりました。
十分後。
建設部の担当者が来ました。
四十代の男性。
最初は、
「駅前全体の調査ですから」
と説明しました。
相馬先輩が聞きます。
「この写真の路上陳列物は誰のだ」
「周辺店舗のものです」
「西野さんのか」
「個別には確認していません」
「じゃあ、何を根拠に西野さんを不許可にした」
「交通量と道路幅員、それに将来の整備計画を――」
「総合的に?」
「はい」
また出ました。
総合的。
法律実務でこの言葉を聞いたら、
その中身を一個ずつ取り出したくなる病気に、
私はもう感染しています。
「では」
私は言いました。
「一個ずつ確認していいですか」
担当者が私を見る。
「交通量」
「はい」
「多い」
「はい」
「でも、それは八百屋さんにも同じですよね」
「場所が厳密には異なります」
「道路幅員」
「はい」
「西野さんの販売台の場所だけ、狭い?」
「……大きな差はありません」
「写真」
「はい」
「西野さんの台は写ってない」
「そうですね」
「なのに『路上陳列物で狭い』という資料を、西野さんの不許可判断にも使った?」
担当者が黙りました。
「駅前整備計画」
「はい」
「西野さんの店の前、今年中に工事しますか」
「いえ」
「来年?」
「現在の工程では、再来年度以降です」
「八百屋さんは?」
「同じ区画です」
はい。
並びました。
全部。
空気ではなく、
紙の上に。
同じ通行量。
大差のない幅員。
同じ工事区画。
そして不許可判断の資料に写っていた障害物は、
西野さんのものではない。
なのに。
西野さんだけ不許可。
「課長」
私は沢渡課長を見ました。
「これ、少なくとももう一回、処分理由を整理し直す必要ありませんか」
沢渡課長はすぐには答えませんでした。
資料をめくる。
弁明書を見る。
処分通知を見る。
「建設部」
「はい」
「西野さんと八百屋の更新判断について、決裁資料をもう一度確認してください」
「しかし――」
「比較した記録も」
「はい」
「許可、不許可を分けた基準があるならそれも」
「……分かりました」
沢渡課長は西野さんを見る。
「現時点で、処分が誤りだったとは申しません」
「はい」
「ですが」
少しだけ間。
「弁明書に書かれた理由と、提出された資料との対応関係は、確認する必要があります」
西野さんが、ゆっくり頷きました。
「それだけでも」
「はい」
「見せてもらって、よかったです」
その一言が。
なんだか胸に残りました。
勝ったわけじゃない。
処分が取り消されたわけでもない。
販売台を明日から出せるわけでもない。
でも。
今まで西野さんは、
「調査した結果です」
と言われるしかなかった。
その調査が何だったのか分からない。
何人通ったのか。
どの写真なのか。
何を比べたのか。
全部、
役所の箱の中。
今日。
初めて箱が開いた。
すると。
そこには、
絶対的な行政判断なんて入っていませんでした。
日付。
数字。
写真。
図面。
そして。
人間がした判断。
だから。
間違うこともある。
三日後。
片桐行政書士事務所。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『総務課の沢渡です』
「お世話になります」
『西野さんの件です』
私は背筋を伸ばしました。
「はい」
『処分庁から、弁明書の補充がありました』
「補充?」
『併せて、不許可処分そのものについても再検討するとのことです』
私は相馬先輩を見る。
「結果は?」
『まだです』
「ですよね」
『ただ』
「はい」
『比較対象となった近隣店舗について、判断基準の適用が統一されていなかった可能性があります』
やっぱり。
『審査庁としても、その点を確認します』
「ありがとうございます」
『礼を言われることではありません』
「でも」
『仕事です』
沢渡課長らしい。
「課長」
『何でしょう』
「最初から資料を見せてもらえてたら、もっと早かったですよね」
少し沈黙。
『それは建設部へ言ってください』
「逃げましたね」
『所管が違います』
「役所最強の言葉」
『では』
「あ、待ってください」
『まだ何か』
「今回みたいに、資料を見て初めて反論できることって、結構あるんですか」
沢渡課長は少しだけ間を置きました。
『当然でしょう』
「当然?」
『何を根拠に処分したか分からなければ、何を争うべきかも分かりません』
「……ですよね」
『だから手続があるんです』
電話が切れました。
私はしばらく受話器を見ました。
「何だって?」
相馬先輩が聞きます。
「処分、再検討です」
「取消しか」
「まだです」
「じゃあ喜ぶな」
「分かってます」
でも。
少しだけ。
嬉しかった。
西野さんが、
感情で押し切ったからじゃない。
役所へ何度も怒鳴り込んだからでもない。
資料を見た。
数字を見た。
写真を見た。
処分理由と照らした。
すると。
向こうの説明に穴が見つかった。
それだけです。
それだけなのに。
「見られるって、大事ですね」
私が言うと、
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「何がだ」
「行政不服審査です」
「うん」
「反論する権利があっても、相手の材料が見えなかったら意味がない」
「そうだ」
「だから閲覧って」
私は少し考えました。
「紙を見るだけの制度じゃないんですね」
所長は答えません。
続きを待っています。
「反論できる位置まで、当事者を戻すための制度なんだ」
所長が一度だけ頷きました。
「覚えとけ」
はい。
たぶん。
これは忘れません。
現代の私は、
行政不服審査法三十八条。
閲覧。
交付。
審理手続終結まで。
正当な理由がなければ拒めない。
手数料。
減免。
そんな単語を試験用に覚えていました。
でも。
昭和六十三年には、
その現代法はまだありません。
審理員もいない。
現代と同じ交付請求の仕組みもない。
それでも旧法には、
処分庁が審査庁へ出した資料を見る道があった。
そして実際に使ってみると。
なぜ後の制度が、
閲覧できる資料の範囲を広げ、
写しの交付まで整え、
より公正で透明な審理へ進もうとしたのか。
少しだけ分かる気がしました。
制度改正は、
受験生を苦しめるためにあるんじゃない。
たぶん。
こういう、
「相手の資料が見えない」
という小さな不自由を、
一個ずつ減らしてきた結果なのです。
その日の夕方。
西野さんが事務所へ来ました。
「まだ結果は出てません」
私が言うと、
「分かってます」
と笑いました。
「でも今日は、お礼だけ」
「お礼?」
大きな紙袋を机に置きます。
いい匂い。
私は一瞬で分かりました。
「コロッケ!」
「よく分かったねえ」
「行政法より得意です」
「威張るな」
相馬先輩が言います。
袋を開ける。
コロッケ。
かぼちゃの煮物。
きんぴら。
卵焼き。
「多くないですか?」
「売れ残り」
「絶対嘘ですよね」
「内緒」
「内部資料ですか」
西野さんが笑いました。
「そう。見せられません」
私は即座に手を挙げました。
「閲覧を請求します」
「食え」
相馬先輩が言いました。
「それ閲覧じゃなくて消費です」
「細けえな」
片桐所長がコロッケを一つ取りました。
「あ」
「何だ」
「所長、一番に取りましたね」
「悪いか」
「こういうときだけ判断が迅速」
「不服か」
「あります」
「申立先は?」
「所長」
「却下」
「また本人審査!」
相馬先輩が笑いました。
「未来なら審理員とやらに頼め」
「まだ三十年近く先ですよ!」
「じゃあ待て」
「コロッケ冷めます!」
西野さんまで声を出して笑いました。
私は揚げたてに近いコロッケを半分に割りました。
湯気が上がる。
まだ熱い。
結果は、まだ出ていません。
不許可が取り消されるとも限らない。
役所の調査そのものが全部間違っていたわけでもない。
駅前再整備が必要なのも事実です。
けれど。
少なくとも。
「内部資料ですから」
という一言の向こう側にあったものを、
西野さんは自分の目で見ることができた。
そして。
見たからこそ、
言えた。
その写真は私の店じゃありません。
その比較はおかしくありませんか。
同じ区画なのに、なぜ私だけなんですか。
法律は、
必ずしも答えをくれるわけではありません。
でも。
答えを決める材料を、
一方だけに隠させないことはできる。
私はコロッケを一口かじりました。
熱い。
「っ!」
「どうした」
「熱っ」
「見りゃ分かるだろ」
「中身は見えませんでした!」
「割っただろ」
「閲覧が不十分でした!」
「知らん」
片桐所長が、淡々と言いました。
「こはる」
「はい?」
「今日の教訓」
私は口の中のコロッケを飲み込みます。
少し考えて。
言いました。
「反論させるなら、まず根拠を見せる」
所長が頷きました。
「それでいい」
役所の書庫には、
たくさんの紙があります。
調査表。
写真。
図面。
報告書。
一枚一枚は冷たい紙です。
でも。
その紙を誰が見られるのか。
それだけで、
人の立つ場所は変わります。
見えなければ、
ただ従うしかない。
見えれば、
確かめられる。
違えば、
違うと言える。
法律の冷たさは、
ときどき。
閉じた書類棚の扉を、
静かに開けてくれるのです。
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