[行政不服審査法37条・審理手続の計画的遂行]現場編 「全部順番に出してください」の罠。増え続ける争点を放置する旧法と、最初に交通整理する現代の審理
書類は、多ければ丁寧というわけではありません。
むしろ。
多すぎる書類は、ときどき真実を埋めます。
一枚目に申請書。
二枚目に許可証。
三枚目に図面。
四枚目に通知。
五枚目に写真。
六枚目に陳述書。
七枚目に――。
「先輩」
「何だ」
「机が死にました」
「机は死なねえ」
「じゃあ遭難しました」
「紙の上でか」
「救助隊を呼びたいです」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
朝から私の机を占領しているのは、書類。
書類。
書類。
そして、その向こうに座っている男性も、さらに書類の入った茶封筒を抱えていました。
「まだあります」
「あるんですか」
「はい」
お願いです。
その言葉を嬉しそうに言わないでください。
相談者は、真田善吉さん。
五十八歳。
市の北側、山あいの地区で、小さな製材所を営んでいます。
従業員は四人。
住宅用の柱材や板材を挽いて、地元の工務店へ卸している。
話だけ聞けば、行政書士事務所より木の匂いが似合いそうな人でした。
その真田さんが困っている原因。
それは一枚の通知でした。
――市道沿線資材置場使用許可取消処分。
要するに。
製材所の隣にある市有地の一角を、材木の一時置場として使っていた。
以前から許可を受けていた。
ところが突然。
許可取消し。
「理由は?」
私は通知を読みます。
――道路整備事業及び周辺環境保全上、支障があるため。
「また便利な言葉ですね」
「何がだ」
「『支障があるため』」
相馬先輩が鼻を鳴らしました。
「役所の紙は、何が支障なのか書いてない時が一番支障だな」
「今日ちょっと上手いですね」
「うるせえ」
問題は。
これだけではありませんでした。
真田さんは通知を受けたあと、市役所へ行っています。
そこで言われた。
『材木が歩道から見えて景観上よくない』
ところが別の日。
道路課では、
『将来、道路拡幅に使う予定だから』
さらに環境担当では、
『木くずや粉じんの苦情がある』
消防関係では、
『材木の積み方に問題があるという話を聞いた』
つまり。
理由が増えています。
「通知より、後から成長してません?」
私は言いました。
「何が」
「取消理由です」
最初は道路整備と環境保全。
次に景観。
その次に道路拡幅。
さらに粉じん。
消防。
処分理由が、話を聞くたび枝分かれしている。
行政法なのに生命力が強い。
「それで」
真田さんが茶封筒から紙を出します。
「こっちはわしの言い分です」
「はい」
「まず道路拡幅については、計画図があります」
一枚。
「それから、材木が歩道にはみ出してない写真」
二枚。
「粉じんについては、集じん機を去年入れ替えた領収書」
三枚。
「消防署には確認して――」
「待ってください」
四枚目が来る前に止めました。
「整理しましょう」
「まだありますよ」
「知ってます。顔を見れば分かります」
「顔で?」
「出したくて仕方ない顔してます」
真田さんは少し困ったように笑いました。
でも。
笑える話ではありません。
材木置場が使えなければ、製材した材を工場の中へ入れるしかない。
そんな場所はない。
置場を借りれば費用が掛かる。
遠ければ運搬費も増える。
「一か月くらいなら、何とかなるんです」
真田さんは言いました。
「でも半年、一年となると……」
従業員四人。
家族もいる。
取引先もいる。
一枚の取消通知で、
いきなり倒産するわけではない。
でも。
少しずつ血が抜ける。
そういう処分のほうが、生活では怖かったりします。
「不服申立ては?」
相馬先輩が聞きました。
「もうしました」
「いつ」
「三週間前です」
「何を」
「異議申立てです」
私は一瞬、現代の知識へ飛びました。
審査請求。
審理員。
弁明書。
反論書。
口頭意見陳述。
審理手続の計画的遂行。
待て。
私は脳内に急ブレーキをかけます。
ここは昭和六十三年。
審理員はいません。
行政不服審査会もありません。
現代なら審査請求に原則一本化。
でも今は、
異議申立てと審査請求。
二本立て。
真田さんの処分庁は市長。
上級行政庁がない。
だから今回は処分庁への異議申立て。
「それで、役所から何か来ました?」
「来ました」
また封筒。
嫌な予感しかしません。
中には、
追加資料提出依頼。
照会書。
確認事項。
提出期限。
さらに担当課ごとの問い合わせ記録。
「……多い」
「でしょう?」
真田さんが言いました。
「先週は道路課から電話が来て、昨日は総務課から来て、今朝は環境の人から」
「別々に?」
「はい」
「同じこと聞かれました?」
「何回も」
私は紙を並べました。
道路予定地との位置関係。
いつから材木を置いているか。
苦情を受けたことがあるか。
粉じん対策。
木材の高さ。
車両の出入り。
防火対策。
使用許可の条件。
処分理由。
代替地。
そして。
「これ」
私は一枚を持ち上げました。
「同じ質問、三回目です」
「そうなんです」
「回答済みですよね」
「ええ」
役所の中で、
争点が整理されていない。
それぞれの課が、
それぞれ必要だと思ったことを、
それぞれ聞いている。
これはまずい。
いや。
法的に何がまずいのか。
そこはまだ頭の中で形になっていません。
でも現場の感覚として。
ものすごくまずい。
「相馬先輩」
「何だ」
「これ、どこまで続くんです?」
「知らん」
「いつ終わるんです?」
「知らん」
「役所側は?」
「聞け」
ですよね。
その日の午後。
私たちは市役所へ向かいました。
総務課。
窓口の奥には、見慣れた灰色の背広。
「またですか」
沢渡課長でした。
「『また』って言いました?」
「言いました」
「隠さないんですね」
「事実ですから」
相変わらず強い。
住民の感情という雨風を、三十年くらい浴びて防水加工された人です。
相馬先輩が真田さんの書類を机へ置きました。
「異議申立ての件だ」
「真田製材ですね」
「処理どうなってる」
「審査中です」
「いつ終わる」
「必要な審理が済み次第です」
出ました。
必要な審理が済み次第。
行政手続版、
『善処します』
と同じくらい出口が見えない言葉です。
「その必要な審理って、何です?」
私が聞きました。
沢渡課長が眼鏡越しに私を見ました。
「朝比奈さん」
「はい」
「異議申立てですから、処分について必要な事実確認をしています」
「道路課も」
「はい」
「環境担当も」
「必要です」
「消防関係も」
「関連するなら」
「景観も?」
「必要なら」
私は一度黙りました。
「課長」
「何です」
「何を審理すれば終わるんです?」
一瞬。
沢渡課長が止まりました。
「どういう意味ですか」
「争点です」
相馬先輩が私を横目で見ます。
あ。
また論点で喋ってる顔です。
でも今日は止めません。
「市が真田さんの使用許可を取り消した理由って、結局何なんですか」
「通知に書いてあるでしょう」
「道路整備事業と周辺環境保全」
「ええ」
「でも道路課は将来の拡幅」
「それも道路整備です」
「環境担当は粉じん」
「環境保全です」
「景観も?」
「含まれます」
「消防は?」
沢渡課長が少し黙りました。
「関連事情です」
「では」
私は紙を一枚ずつ置きました。
「道路予定地との関係」
一枚。
「粉じん」
一枚。
「景観」
一枚。
「防火」
一枚。
「車の出入り」
一枚。
「積み方」
一枚。
「全部が取消処分の理由なんですか」
「審査に必要な事情です」
「じゃあ、真田さんは全部について反論しなきゃいけない?」
「必要なら」
「そのあと新しい事情が出たら?」
「確認します」
「また反論?」
「必要なら」
「それ、いつ終わるんです?」
沢渡課長が口を閉じました。
私は、ようやく違和感の形を掴みました。
争点が多い。
資料も多い。
関係部署も多い。
双方の主張も食い違う。
そのうえ、
どの手続を、
いつ、
どの順番でやるのか、
誰も決めていない。
だから。
質問が飛んでくる。
回答する。
また別の質問。
回答する。
資料提出。
追加資料。
確認。
再確認。
これは審理ではある。
でも。
道順のない審理です。
私は頭の中で、現代法の条文を思い出しました。
審理手続の計画的遂行。
事件が複雑。
審理すべき事項が多数。
錯綜。
迅速かつ公正に審理する必要。
審理員が審理関係人を集める。
どんな審理手続を申し立てるか、意見を聞く。
そして。
今後の審理手続の期日。
場所。
終結予定時期。
決める。
通知する。
私は思わず口を開きました。
「だったら最初に集めて――」
止まりました。
「何をです?」
沢渡課長が聞きます。
「いえ」
「何です」
「何でもありません」
危ない。
危険です。
現代行政不服審査法第三十七条を、
昭和六十三年の市役所に召喚するところでした。
転生したのに、法律のタイムスリップは許されません。
「朝比奈」
相馬先輩が低い声で言いました。
「今、何を言おうとした」
「未来の便利な仕組みです」
「帰れ」
「まだ帰りません!」
沢渡課長が怪訝な顔をしています。
「何の話です」
「気にしないでください」
「気になります」
「未来では審理する人が関係者を集めて、複雑な事件なら手続の進め方を先に整理したりするんです」
「未来?」
「比喩です」
「比喩にしては具体的ですね」
「夢です」
「もっと悪い」
相馬先輩に切られました。
片桐所長が、それまで黙って書類を見ていました。
そして。
「沢渡課長」
「はい」
「法令に、今こいつが言った制度はない」
「当然です」
やっぱりない。
「だが」
所長は続けました。
「このままではまずい」
沢渡課長の眉がわずかに動きました。
「何がです」
「何を争っているのか、処分庁自身が整理できていない」
「整理はしています」
「なら聞く」
所長が通知書を指しました。
「取消処分を維持するために必要な事実は、何だ」
「道路整備上の必要と、周辺環境への影響です」
「具体的には」
「……道路拡幅計画との関係、周辺住民への影響など」
「消防は」
「補充事情です」
「景観は」
「環境面の一事情です」
「車両出入りは」
「安全面です」
「それは処分時に判断したのか」
沈黙。
来た。
私は沢渡課長を見ました。
「課長」
「何です」
「処分を出したあとに集めた事情、混じってません?」
「審査では関連事情も確認します」
「それ自体は分かります」
でも。
私は通知書を指しました。
「真田さんは、自分が何に反論すればいいのか分からなくなってます」
道路拡幅なのか。
粉じんなのか。
景観なのか。
消防なのか。
車両なのか。
全部なのか。
しかも。
資料を出すたび、
次の論点が出てくる。
これでは、
反論する側だけが延々と追いかける形になります。
「不服申立てって」
私は言いました。
「役所が質問を思いつくたび、申立人が宿題を増やされる制度じゃないですよね」
沢渡課長が私を見ました。
「随分な言い方ですね」
「違います?」
「必要な確認はしなければなりません」
「もちろんです」
「なら問題はないでしょう」
「あります」
私は言いました。
「必要な確認をすることと、出口を決めずに確認し続けることは違います」
部屋が静かになりました。
自分で言って、
あ。
これだ。
と思いました。
迅速な審理。
公正な審理。
ただ早ければいいわけじゃない。
ただ全部聞けばいいわけでもない。
複雑なら複雑なほど、
何を争うのか。
どの証拠を見るのか。
誰の意見を聞くのか。
いつまでに何をするのか。
それを整理しないと、
丁寧さそのものが人を潰します。
真田さんは三週間で、
同じ説明を何度もしています。
仕事を抜けて市役所へ行き、
書類を集め、
写真を撮り、
昔の許可証を探し、
従業員に確認し、
また回答する。
これは、
書類一枚の話ではない。
審理が長引く時間そのものが、
事業者にとって負担です。
「じゃあどうしろってんだ」
相馬先輩が言いました。
私にです。
来ました。
いつもの、
条文を現場語に直せ、
の顔。
「……一回、整理できませんか」
「何を」
「市役所側と真田さん側で、今何が争点なのか」
「うん」
「どの資料を出すのか」
「うん」
「追加で何を確認する必要があるのか」
「うん」
「それを一度、まとめる」
私は沢渡課長を見ました。
「法令に、今の審理員みたいな制度がないのは分かってます」
「今?」
「比喩です」
「またですか」
「とにかく」
私は押し切りました。
「制度として決められた手続じゃなくても、担当部署を集めて整理することはできますよね」
沢渡課長は答えません。
「道路課」
相馬先輩が指を折ります。
「環境」
「はい」
「総務」
「はい」
「真田さん側」
「はい」
「一回同じ机につける」
「そうです」
「何を争うか決める」
「そうです」
「資料の締切も決める」
「できれば」
「結論時期は?」
「……そこも見通しが欲しいです」
沢渡課長が息を吐きました。
「行政不服審査法上、そのような協議手続が定められているわけではありません」
「分かってます」
「こちらに会合を開く義務があるとも言えません」
「それも分かってます」
「では」
「でも」
私は机の書類を見ました。
「今のままのほうが合理的ですか?」
沢渡課長が黙りました。
その顔に、
怒りはありませんでした。
この人は感情では動かない。
だから。
感情で勝とうとしてはいけない。
「真田さんは三週間で、同じ説明を三回しています」
「……」
「道路課と環境担当の照会内容も重なっています」
「……」
「取消しを維持する理由も、通知時より増えているように見える」
「……」
「それぞれの部署が別々に聞くより、一度整理したほうが役所側も早くないですか」
沢渡課長は、書類を見ました。
一枚。
また一枚。
そして。
「分かりました」
あっさり。
「え?」
思わず聞き返しました。
「来週、関係課を集めます」
「本当に?」
「合理性がありますから」
出ました。
この人の魔法の言葉。
合理性。
「ただし」
沢渡課長が続けます。
「これは法定の口頭審理でも、何か特別な審理手続でもありません」
「はい」
「異議申立ての処理に必要な事実関係を庁内で整理するため、申立人側からも説明を受ける機会を設ける。それだけです」
「十分です」
私は即答しました。
「それと」
片桐所長が言いました。
「その場で確認したいことがある」
「何でしょう」
「今後、何を調べるか」
「はい」
「誰が資料を出すか」
「はい」
「いつまでに出すか」
「はい」
「その後、いつ頃までに判断する見込みか」
沢渡課長は少しだけ眉を寄せました。
「最後は確約できません」
「確約はいらん」
「では」
「見通しだ」
所長の声は低い。
でも強い。
「人間は、いつ終わるか分からない手続に一番疲れる」
私は横で、少し息を止めました。
そう。
そうなんです。
三日待つ。
一週間待つ。
一か月待つ。
長さだけなら耐えられることがある。
でも、
いつまで待つか分からない。
次に何を求められるか分からない。
終わりがあるのかすら分からない。
それが一番きつい。
沢渡課長はしばらく黙ってから、
「努力します」
と言いました。
「役所の『努力します』は信用していいんですか」
私が聞く。
「朝比奈さん」
「はい」
「今、それを言いますか」
「すみません」
一週間後。
市役所の小会議室。
長机を囲んで、
総務課。
道路課。
環境担当。
真田さん。
片桐所長。
相馬先輩。
そして私。
人数だけなら、
製材所の経営会議より多い。
「では」
沢渡課長が資料を配りました。
表題。
――真田製材・市有地使用許可取消異議申立て 確認事項整理表。
私は目を見開きました。
「作ったんですか」
「会議する以上、必要でしょう」
「課長」
「何です」
「ちょっと現代人っぽいです」
「意味が分かりません」
一覧には、
一、道路整備計画との関係。
二、周辺環境への具体的影響。
三、処分時に把握していた事実。
四、処分後に判明した事情。
五、申立人提出資料。
六、市側追加確認事項。
分かれていました。
私は思わず嬉しくなりました。
これです。
紙の束が、
急に道になった。
「まず道路拡幅ですが」
道路課の係長が図面を出しました。
「真田製材の資材置場は、第一期工区には含まれていません」
「え?」
真田さんが顔を上げました。
「第二期?」
「それも現時点では未定です」
相馬先輩の眉が上がります。
「じゃあ道路整備のため、今すぐ使用許可を取り消す必要は?」
「道路課としては、必須とは言っていません」
空気が止まりました。
私は沢渡課長を見る。
沢渡課長は道路課係長を見る。
「処分時の照会では?」
「将来的に用地整理が必要になる可能性がある、と回答しました」
「将来的に」
相馬先輩が復唱します。
「はい」
「それが取消理由の一つになった」
「……結果的には」
次。
環境担当。
「粉じんの苦情についてですが」
担当者が記録を開きました。
「過去二年で二件です」
「二件」
「ただし、一件は道路向かいの工事車両によるものの可能性があります」
「もう一件は?」
「真田製材かどうか特定できていません」
真田さんが言いました。
「集じん機も去年替えました」
「確認しました」
「じゃあ環境保全上、直ちに取消しが必要だったんですか」
私が聞きました。
担当者は少し困った顔をしました。
「改善指導で対応する余地はあったと思います」
また。
一つ。
処分を支えていた柱が細くなった。
景観。
市には統一的な材木置場の景観基準なし。
消防。
消防署から処分を求めた事実なし。
車両出入り。
重大事故歴なし。
もちろん。
何も問題がないわけではありません。
積み方について改善したほうがいい。
敷地境界近くの材木は少し低くする。
粉じん測定も続ける。
車両の出入り時間も配慮する。
でも。
それと、
許可を全部取り消して即座に撤去させる。
は別の話です。
一時間ほど経ったころ。
沢渡課長が眼鏡を外しました。
「整理します」
全員が見る。
「処分時に主として考慮されたのは、道路整備の将来的必要性及び周辺環境への影響」
「はい」
「しかし道路整備については、直ちに当該土地を使用する具体的予定はない」
「はい」
「環境面も、改善措置による対応可能性を十分検討していない」
「はい」
「一方で、資材の積み方等については改善の必要がある」
真田さんが頷きます。
「そこは直します」
「なら」
沢渡課長は書類を閉じました。
「取消処分をそのまま維持する必要があるか、再検討します」
真田さんが息を吐きました。
「取り消してもらえるんですか」
「まだ言っていません」
沢渡課長。
そこは絶対に甘くしない。
「ですが」
一拍。
「少なくとも、今日確認した事情を前提に再検討する必要はあります」
それで十分でした。
いや。
今はそれ以上言えません。
でも。
三週間。
どこへ向かっているか分からなかった不服申立てが、
今日初めて一本道になった。
「今後ですが」
沢渡課長が続けました。
「真田さんから、積み方の改善案を一週間以内に提出していただく」
「はい」
「道路課は今後一年以内の工事予定の有無を文書で確認」
「はい」
「環境担当は苦情記録を整理」
「はい」
「それが揃った後、二週間程度を目安に結論を出します」
私は思わず聞きました。
「二週間?」
「目安です」
「変更したら?」
「連絡します」
その言葉に。
私は妙な感覚を覚えました。
聞いたことがある。
未来で。
複雑な審査請求について、
関係人から意見を聞いたあと。
審理手続の期日。
場所。
そして、
審理手続が終わる予定時期。
決めて通知する。
予定が変わったら、
また通知する。
第三十七条。
審理手続の計画的遂行。
もちろん。
今、目の前でやっていることは、
現代法三十七条そのものではありません。
審理員もいない。
法律上定められた意見聴取でもない。
ただの実務上の整理。
でも。
制度が後から生まれる理由。
それだけは、
分かった気がしました。
複雑な事件で、
皆が好き勝手に書類を投げ合ったら、
公正な審理は、
丁寧になる前に迷子になる。
だから。
最初に交通整理する。
いつ。
どこで。
何をする。
いつ頃終える。
未来の制度は、
魔法みたいに突然生まれたわけじゃない。
たぶん。
こういう現場の、
「これ、誰か最初に整理してくれません?」
の積み重ねから生まれている。
会議室を出たあと。
真田さんが深く頭を下げました。
「ありがとうございました」
「まだ終わってませんよ」
私は言いました。
「分かってます」
「処分が変わるかも、まだ」
「それも」
真田さんは笑いました。
「でも、何を出せばいいか分かっただけで、だいぶ楽です」
私は少し黙りました。
それ。
結構大きいんですね。
「今までは」
真田さんが続けました。
「電話が鳴るたび、市役所かと思って」
「……はい」
「次は何を言われるんだろうって」
「はい」
「でも今日、あと何を出せばいいか分かった。いつ頃返事が来るかも分かった」
処分は、
まだ取り消されていない。
営業の不安も、
消えていない。
それでも。
見通しができた。
人は、
結果だけで救われるわけじゃない。
次に何が起きるのか分かること。
いつまで続くのか分かること。
自分が何をすればいいのか分かること。
それだけで、
少し呼吸が戻る。
二週間後。
市役所から通知が届きました。
許可取消処分を撤回。
代わりに、
資材の積載高さ。
粉じん対策。
車両出入り時間。
一定の条件を付したうえで、
当面の使用継続を認める。
「勝った!」
私は通知を掲げました。
「騒ぐな」
相馬先輩が言います。
「でも取消しですよ!」
「条件付きだ」
「そこは分かってます」
「今後、道路整備が具体化すりゃまた別だ」
「分かってます」
「環境対策も守らなきゃならん」
「分かってますって」
それでも。
嬉しいものは嬉しい。
真田さんの製材所が、
明日から置場を失うことはなくなった。
四人の従業員が、
すぐ仕事を失うこともない。
そして何より。
取消処分を、
ただ「役所が決めたこと」で終わらせなかった。
昼過ぎ。
真田さんが事務所へやって来ました。
手には、
長い板。
「……何です、それ」
「杉です」
「見れば何となく分かります」
「お礼に」
「材木を!?」
差し入れの概念が広い。
「置く場所ないですよ」
相馬先輩が言いました。
「棚でも作ってください」
「誰が」
「先輩」
「何で俺が」
「器用そうだから」
「理由が雑だ」
真田さんは笑っていました。
「じゃあ、これならどうです」
もう一つ。
小さな木箱。
「端材で作りました」
蓋を開けると、
中に羊羹。
「おお」
相馬先輩の反応が露骨に変わりました。
「現金ですね」
「材木は食えねえ」
「基準がそこなんですか」
片桐所長が杉板を持ち上げました。
「これは使える」
「何にです?」
「書類棚」
「増やすんですか」
「増える」
「書類が?」
「そうだ」
私は今日だけは、
ちょっと嫌な予感がしました。
これ以上棚を増やすということは、
これ以上書類を保存できるということ。
そして書類が保存できるということは、
仕事が増えても耐えられるということ。
設備投資が業務量を呼び込む。
怖い。
「こはる」
「はい」
「今日の教訓は」
所長が聞きました。
私は少し考えました。
「複雑な事件ほど、全部を一度に頑張らない」
「ほう」
「最初に、何を争うか整理する」
「それから」
「何をするか。誰がするか。いつするか」
「それから」
私は、真田さんの顔を思い出しました。
「いつ終わる予定かも、できるだけ見えるようにする」
所長が頷きました。
「そうだ」
相馬先輩が羊羹を切りながら言います。
「当たり前の話に聞こえるけどな」
「そうなんですよ」
私は答えました。
「でも法律って、ときどきその『当たり前』を条文にしないと守られないんですよね」
書類が多い。
争点が多い。
関係者が多い。
だから時間が掛かる。
そこまでは仕方ない。
でも。
複雑だからこそ、
計画が必要になる。
何をするか分からないまま、
ただ待たせることまで、
仕方ないことにはならない。
私は現代の第三十七条を、
頭の中でそっと思い浮かべました。
審理員が、
複雑な事件で必要なら、
関係人を集め、
審理手続について意見を聞く。
遠くに住んでいれば、
電話のように音声で通話できる方法も使える。
そして。
審理手続の日程や場所。
終結予定時期。
決めて知らせる。
予定が変われば、
また知らせる。
昭和六十三年のこの部屋には、
まだそんな制度はありません。
審理員もいません。
だから今日、
私たちは法律に書かれていない形で、
必死に交通整理をした。
未来を知っている私は、
少しだけ不思議な気分になります。
制度改正って。
未来の偉い人が、
突然賢くなって作るものじゃないのかもしれない。
昔の誰かが、
同じ説明を三回させられた。
次に何が起きるか分からなかった。
審理がいつ終わるか分からなかった。
争点が増え続けた。
そんな小さな疲れが積み重なって。
ある日、
法律の条文になる。
「先輩」
「何だ」
「未来では、こういう複雑な事件なら、審理員が関係者を招集して、手続の進め方について意見を聞けるんですよ」
「また未来か」
「しかも遠隔地なら、電話みたいな方法でも」
「便利だな」
「そのあと手続の日程と、終結予定時期も決めて通知するんです」
「へえ」
「予定が変わったら、それも通知」
相馬先輩が羊羹を食べながら言いました。
「じゃあ未来じゃ、役所の仕事は全部早いのか」
私は黙りました。
「……何で黙る」
「制度と現実は別問題なので」
「未来も大変そうだな」
「たぶん」
片桐所長が杉板を壁に当てています。
「相馬」
「何です」
「棚を作れ」
「嫌です」
「今週中」
「勝手に期日決めないでくださいよ」
私は吹き出しました。
「先輩」
「何だ」
「審理手続の計画的遂行ですね」
「どこがだ!」
「期日が決まりました」
「俺の意見を聞いてねえ!」
「あ」
私は指を立てました。
「そこ大事です」
「何が」
「一方的に予定を決めるんじゃなくて、先に関係者の意見を聞く」
「じゃあ所長に言え」
私は片桐所長を見ました。
「所長」
「何だ」
「相馬先輩から、棚作りについて意見聴取を――」
「不要」
「早い!」
「迅速だ」
「公正じゃない!」
相馬先輩が机を叩きました。
「異議申立てだ!」
「申立先は所長ですよ」
「絶対負けるじゃねえか!」
旧法の弱点が、
片桐行政書士事務所で妙に分かりやすく再現されていました。
真田さんが腹を抱えて笑います。
私も笑いました。
窓の外では、
夕方の風が街路樹を揺らしていました。
処分そのものを見直すこと。
それはもちろん大事です。
でも。
見直すまでの道筋もまた、
人を傷つけることがある。
だから未来の法律は、
結果だけではなく、
そこへ至る時間の使い方まで整えようとした。
法律の言葉は相変わらず硬いです。
審理手続。
計画的遂行。
審理関係人。
終結予定時期。
眠気を誘うには十分です。
けれど。
今日の真田さんの、
「いつ頃返事が来るか分かっただけで楽です」
という顔を思い出すと。
その硬い言葉の奥にあるものが、
少しだけ見えました。
――複雑だからこそ、行き先を決める。
それだけのことが、
人をずいぶん救うのです。
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