[行政不服審査法36条・審理関係人への質問]現場編 「書いてあることだけで判断してください」の罠。食い違う二つの説明と、曖昧な処分理由を質問で逃がさない審理の目
紙は、聞き返してくれません。
だから。
紙に書かれた説明が食い違っているとき、
誰かが質問しなければ、
矛盾はそのまま「事実」として処理されることがあります。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の午前中、私は電話帳と格闘していました。
「先輩」
「何だ」
「この町、同じ名字の鈴木さん多すぎません?」
「静岡でそれ言うな」
「電話帳一ページの半分が鈴木さんです」
「それは盛っただろ」
「三分の一くらいです」
「じゃあ最初からそう言え」
相馬先輩は新聞を広げたまま、煙草を灰皿へ落としました。
私は電話帳を閉じます。
「人探しって大変ですね」
「行政書士の仕事じゃねえ」
「じゃあ、なぜ私がやってるんです?」
「見習いだからだ」
便利ですね。
見習い。
この事務所ではだいたい、
コピー。
お茶。
郵便。
役所への使い。
花瓶の水替え。
電話帳で鈴木さん探し。
このあたりが全部「見習いだから」で片付きます。
行政書士試験の業務範囲には、たぶん載っていません。
そんなことを考えていると、
入口の引き戸が、
からん。
と鳴りました。
「ごめんください」
入ってきたのは、五十代くらいの男性でした。
日に焼けた顔。
紺色の作業着。
胸元には、
――山下青果。
と刺繍があります。
男の人は帽子を脱ぐと、少しくしゃくしゃになった封筒を両手で持ちました。
「片桐先生はいらっしゃいますか」
「はい」
片桐所長が奥から出てきます。
「どうしました」
「市役所から、こんなのが来まして」
机の上に置かれた紙。
私は横から覗きました。
通知書。
その一番上に、
――道路占用許可取消処分通知書。
とあります。
処分を受けたのは、
山下正一さん。
駅前通りで八百屋を営んでいるそうです。
私は顔を上げました。
「道路占用って、お店の前に何か出してるんですか」
「ええ」
山下さんが頷きます。
「日除けです」
「日除け?」
「店先のテントですよ」
ああ。
昔の商店街によくある、
店の軒から道路側へ張り出す布製の日除け。
雨の日にはちょっと濡れずに済み、
夏には西日を遮ってくれる、
あれです。
「二十年以上前からあります」
「許可もずっと?」
「毎年じゃないですが、必要な手続はしてきました」
ところが。
今年、市から突然、
許可を取り消す。
日除けを撤去せよ。
という通知が届いた。
「理由は?」
相馬先輩が聞きました。
山下さんが通知を指します。
そこには、
――歩行者の安全な通行に支障を及ぼすため。
「危ないってことですか」
「そう言われました」
「実際、危ないんです?」
「それが……」
山下さんは困った顔をしました。
「先月、市役所の人が測りに来たんです」
「何を?」
「歩道です」
山下青果の前には歩道がある。
その上方へ日除けが張り出している。
柱は店の敷地内。
歩道へ直接物を置いているわけではない。
「高さが足りないとか?」
「それなら直します。でも、そういう話じゃないんです」
市の職員が現場確認をしたとき。
山下さんは聞いたそうです。
何が問題なのか。
すると職員は、
「駅前再整備で、この一帯の看板や日除けを整理する予定だから、と」
私は通知を見ます。
歩行者の安全な通行に支障。
山下さんの話では、
駅前再整備による景観整理。
「……違いますね」
「でしょう?」
山下さんが身を乗り出しました。
「だから市役所へ聞きに行ったんです。そうしたら今度は、『大型車両から見えにくい位置になるから危険だ』って」
「大型車両?」
「配送トラックです」
「日除けが?」
「私にも分かりません」
私にも分かりません。
日除けがトラックの視界をどう遮るのか。
むしろトラックの運転席より日除けのほうが低い気もします。
「事故は?」
片桐所長が聞きました。
「ありません」
「苦情は」
「聞いたことありません」
「歩道の幅は」
「二メートル以上あります」
「日除けの高さ」
「二メートル四十くらいです」
所長は通知書を手に取りました。
「現場確認に来た職員の名前は」
「道路管理課の杉浦さんです」
「処分理由を説明したのも」
「最初は杉浦さんです。そのあと窓口へ行ったら別の人でした」
「名前は」
「そこまでは」
私はメモします。
現場職員。
駅前再整備のため。
通知。
歩行者の安全のため。
窓口職員。
大型車両の視界のため。
理由が三つ。
行政法。
理由は増やせば豪華になる料理ではありません。
むしろ増えるほど、
最初の一皿は何だったんですか。
と聞きたくなります。
「撤去期限は?」
相馬先輩が聞きました。
「今月末です」
「あと十二日か」
「日除けがなくなると、何か困るんですか」
私が尋ねると、
山下さんは一瞬黙りました。
「商品なんです」
「商品?」
「うちは西向きなんですよ」
午後。
店の正面から西日が入る。
葉物。
果物。
特に夏場は日除けがないと傷みが早い。
「昔は店の中だけで売ってました。でも駅前が寂しくなってから、店先に野菜を並べるようになりましてね」
駅前の商店街。
大型スーパーが郊外にでき、
客足は少しずつ減っていた。
それでも山下青果は残った。
駅へ行くお年寄りが、
大根を一本。
トマトを二つ。
葱を一束。
そんな買い物をしていく。
「日除けが取られたら、店先に商品を出せません」
「店内だけでは?」
「狭いんです」
山下さんは笑いました。
笑ったけれど、
目は笑っていませんでした。
「若いころはね、役所に撤去しろと言われたら、腹立てて喧嘩したと思います」
「今は?」
「もう、そんな元気もありません」
そして。
「ただ、理由くらいは本当のことを教えてほしいんです」
その言葉が、
小さく残りました。
撤去したくない。
商売を守りたい。
もちろんそれもある。
でもそれ以前に。
なぜなのか。
自分の店の日除けが、
本当に誰かを危険にしているのか。
再整備の邪魔なのか。
それとも、
単に駅前を一斉に綺麗にしたいだけなのか。
それが分からない。
分からないまま、
処分だけが届いた。
私は通知書をもう一度見ました。
「所長」
「何だ」
「市役所、行きたいです」
「行け」
「即決ですね」
「その顔は、もう紙を見ても増えないと思ってる顔だ」
ばれています。
相馬先輩が立ち上がりました。
「俺も行く」
「先輩も?」
「お前一人だと、役所で教科書読み始めるからな」
「読みませんよ」
「前に読んだだろ」
「あれは必要があって」
「廊下で条文集開く奴を必要とは言わねえ」
失礼な。
行政法は現場で読むと、急に面白くなるんです。
ただし。
今回は、その面白さが少し怖かった。
頭の中では、
一つの条文が浮かんでいる。
行政不服審査法三十六条。
審理関係人への質問。
審理員は、
審査請求人や参加人の申立てにより、
または職権で、
審理関係人に質問することができる。
今回みたいに、
申立人の言い分。
処分庁の説明。
資料。
それぞれが食い違っているとき。
審理員が、
では、そこを説明してください。
と質問できる。
使える。
私はそう思いました。
市役所へ着くまでは。
市役所二階。
総務課。
またいました。
「こんにちは」
「こんにちは」
沢渡課長。
いつもの灰色の背広。
いつもの細い眼鏡。
いつもの、
行政法の問題集からそのまま人間になったような無表情。
「今日は何でしょう」
「山下青果」
相馬先輩が通知を置きました。
「ああ」
また知っている。
この人、たぶん市役所の不服案件を全部脳内で整理しています。
「道路占用許可の取消しですね」
「理由を聞きたい」
「通知書に記載してあります」
「歩行者の安全な通行に支障を及ぼすため」
「はい」
私は言いました。
「でも現場では、駅前再整備のためだと説明されています」
「そうですか」
「窓口では、大型車両の視界の問題とも言われています」
「担当者による説明の表現が違ったのでしょう」
「表現?」
私は思わず聞き返しました。
「全部同じ意味なんですか?」
「駅前の安全な通行環境を整える、という大きな目的の中では関連しています」
出ました。
役所の便利な巨大風呂敷。
全部まとめて、
総合的に判断しました。
と言えるやつです。
「具体的に」
私は言いました。
「山下さんの日除けの、どの部分が危険なんですか」
「道路管理課が判断したことです」
「高さ?」
「詳細は担当課に」
「幅?」
「担当課に」
「車の視界?」
「その点も含めてでしょう」
「じゃあ課長は、処分理由を知らないんですか」
相馬先輩が横で咳払いしました。
言い方。
そういうことですね。
私は口を閉じます。
沢渡課長は怒りませんでした。
「不服申立ての相談ですか」
「そうなるかもしれない」
相馬先輩が答えます。
「処分庁は市長ですね」
「ええ」
「上級行政庁は」
「ありません」
私は頭の中で答えます。
昭和六十三年。
上級行政庁なし。
処分庁自身への――
「異議申立て」
口に出す前に、相馬先輩が言いました。
「そうなりますね」
沢渡課長が頷く。
はい。
昭和です。
また昭和です。
頭の中で現代法が、
審査請求。
審理員。
行政不服審査会。
と元気よく行進していましたが、
全員まとめて帰っていただきます。
ここは昭和六十三年。
現代法の一般的な異議申立ては、もうありません。
でも今は逆。
異議申立てが普通に生きている。
私は一瞬、
審理員に質問してもらえば――
と考えて。
止まりました。
審理員。
いません。
「……あ」
声が出ました。
「どうした」
相馬先輩が見る。
「いえ」
「また未来か」
「違います」
「顔がそう言ってる」
沢渡課長までこちらを見ます。
「朝比奈さん」
「はい」
「何か?」
「この時代、審理員いないなと思って」
沈黙。
相馬先輩が額を押さえました。
「また始まった」
沢渡課長は眼鏡を少し上げます。
「審理員?」
「忘れてください」
「役職名ですか」
「未来の話です」
「お前は役所でそれ言うのやめろ」
「分かってます!」
危ない。
この人たちの前で平成二十六年改正の話を始めたら、
私は単なる制度改正予言者です。
しかも施行はさらに先。
でも。
この違和感。
現代の制度だったら。
審査請求の審理を担当する審理員が、
審査請求人、
参加人、
処分庁。
そういう審理関係人に対して、
必要なら質問できる。
申立てがあれば質問することもできるし、
審理員自身が疑問を持てば職権でも質問できる。
なぜ?
今まさに目の前に答えがあります。
処分庁の書類だけで進めると、
その書類の説明が曖昧でも、
誰も突っ込まなければ通ってしまう。
申立人の言い分だけ聞いても、
思い込みかもしれない。
だから、
審理する側が聞く。
何を根拠にそう判断したんですか。
この説明と、この説明はなぜ違うんですか。
その数字はどこから出ましたか。
質問する。
ただし。
今は、その「審理員」がいない。
では。
この時代はどうする。
「所長ならどうするかな」
私は小さく呟きました。
「何だ」
「いえ」
相馬先輩を見る。
「先輩」
「何だ」
「道路管理課、行きません?」
「最初からそのつもりだ」
「ですよね」
未来の仕組みが使えないなら、
昭和の仕組みの中で、
必要な事実を拾うしかありません。
道路管理課。
杉浦さんは、四十代くらいの職員でした。
日に焼けた顔。
現場へよく出る人らしく、机の横には巻尺と黄色いヘルメットがあります。
「山下青果さんの件ですか」
「はい」
「もう総務へ行ったんですか?」
「行きました」
相馬先輩が答えます。
「取消しの理由を確認したい」
「通知のとおりです」
またそれ。
「歩行者の安全な通行に支障」
「ええ」
私は机の上の図面を見ました。
「具体的には?」
杉浦さんが少し困った顔をします。
「駅前通りは今後、再整備を予定してますから」
「それは安全の話ですか」
「安全も含みます」
「日除けが今、危険なんですか」
「今というか」
「事故がありました?」
「いや」
「苦情は?」
「ありません」
「高さが基準に足りない?」
「高さは……足りています」
相馬先輩が私を見る。
私はメモします。
高さ問題なし。
事故なし。
苦情なし。
「幅は?」
「柱は民地側なんで、歩道幅そのものは狭くなってません」
では。
何が危険なのか。
「大型車両の視界という説明も受けたそうです」
「ああ」
杉浦さんが言いました。
「あれは搬入車が停まるときですね」
「日除けで見えなくなる?」
「可能性がある」
「確認しました?」
「まあ……そこまでは」
可能性。
行政の世界で、ときどき巨大化する言葉です。
可能性がある。
危険性がある。
おそれがある。
もちろん、本当に危険を予防しなければならない場合はある。
事故が起きてからでは遅い。
でも。
可能性。
と唱えれば、
現場確認も具体的検討もいらなくなるわけではない。
「杉浦さん」
私は聞きました。
「最初に山下さんへ、駅前再整備のためって説明しました?」
「ああ、それは言いました」
「じゃあ、実際の理由はそっちなんですか」
「実際の理由というか」
杉浦さんが頭を掻きました。
「商店街全体をすっきりさせたいって話はあるんです」
来ました。
すっきり。
法律用語ではありません。
そして役所が住民の物を撤去させる理由としては、
かなり心許ない日本語です。
「誰が決めたんです?」
相馬先輩が聞きました。
「駅前整備の会議です」
「会議の資料は?」
「あります」
「山下青果の日除けを危険と判断した資料は?」
「それは……」
杉浦さんが机の書類をめくります。
一枚。
二枚。
三枚。
「個別にはないですね」
「現場確認票は?」
「あります」
出てきた紙を見せてもらいます。
所在地。
占用物件。
寸法。
高さ。
状態。
写真番号。
そして備考。
私はそこを読みました。
――老朽化若干あり。
――歩行空間への直接支障なし。
「……直接支障なし?」
声に出してしまいました。
杉浦さんが黙る。
相馬先輩が紙を覗き込みました。
「おい」
「はい」
「通知は『安全な通行に支障』だな」
「はい」
「現場確認票は?」
「『歩行空間への直接支障なし』」
部屋が、
しん。
となりました。
こういう瞬間。
行政法は派手ではありません。
犯人が叫んだり。
証拠品が光ったり。
崖の上で告白が始まったりしない。
ただ。
紙と紙が、
喧嘩を始めます。
「これ」
私は言いました。
「どういうことですか」
杉浦さんは、しばらく現場確認票を見ていました。
「私が書きました」
「ですよね」
「日除けそのものが歩道を塞いでいるわけではない、という意味です」
「じゃあ安全上の支障は?」
「将来的な整備を含めて――」
「将来ですか」
「ええ」
「処分通知には将来の整備とは書かれてません」
私は自分でも、
少し声が強くなったのが分かりました。
相馬先輩が止めるかな。
と思ったけれど、
止めません。
「市が将来整備する」
私は続けました。
「そのために今の占用を整理したい。それなら、その理由で判断したと説明するべきじゃないんですか」
「朝比奈」
やっぱり止められました。
「はい」
「詰めるな」
「すみません」
「聞け」
一文字違うだけなのに、
全然意味が違いました。
詰める。
ではなく。
聞く。
そうだ。
今日の鍵は、
たぶんそこです。
「杉浦さん」
私は息を整えました。
「確認させてください」
「はい」
「山下さんの日除けについて、現場確認では歩行空間への直接支障はないと判断した」
「はい」
「高さも不足していない」
「はい」
「事故や苦情も確認されていない」
「はい」
「大型車両の視界については、具体的な検証はしていない」
「……はい」
「一方で、市には駅前整備に合わせて日除けなどを整理したい方針がある」
「あります」
「では、今回の取消処分は、安全上の具体的な危険を理由にしたんですか。それとも駅前整備上の整理を理由にしたんですか」
杉浦さんが黙りました。
そして。
「私には答えられません」
と言いました。
「なぜです?」
「最終的な決裁理由は、課長と総務で整理しています」
なるほど。
また一枚めくれました。
現場の人が危険と判断した。
ではない。
現場では、
直接支障なし。
それが。
決裁のどこかで、
安全な通行に支障。
へ変わっている。
「先輩」
「ああ」
「総務、戻りましょう」
「そうだな」
沢渡課長のところへ戻ると、
私たちは現場確認票の写しと、
駅前整備会議の資料の存在を伝えました。
沢渡課長は黙って聞いていました。
「つまり」
相馬先輩が言います。
「処分通知の理由と、現場担当者の記録が噛み合ってねえ」
「そのようですね」
「ずいぶん素直ですね」
私が言うと、
「記録がそうなら否定しても意味がありません」
と返されました。
この人、本当に合理主義者です。
「異議申立てをします」
相馬先輩が言いました。
「どうぞ」
「取消処分の根拠となった具体的事実を確認したい」
「申立書に書いてください」
「処分庁側の説明も出るな」
「必要な調査はします」
私は沢渡課長を見ました。
「質問も?」
「質問?」
「関係する人に」
「必要なら事情は確認します」
そこで。
また未来の条文が頭に浮かびました。
審理員は、
審査請求人若しくは参加人の申立てにより、
又は職権で、
審理関係人に質問することができる。
現代なら。
審理員という、
原処分に関与していない立場の職員が、
この食い違いを前にして、
処分庁へ聞ける。
安全上の支障とは具体的に何ですか。
現場確認票との整合はどうなっていますか。
大型車両の視界について検証しましたか。
駅前整備方針と今回の取消しはどう関係していますか。
そして。
審査請求人や参加人から、
そこを聞いてほしい。
と申し立てる道もある。
なるほど。
私は今さら、
三十六条の「質問」という、
小学生でも分かりそうな言葉の意味が、
急に重くなった気がしました。
質問。
ただ聞くだけ。
でも。
聞かなければ、
曖昧な理由は曖昧なまま進む。
「朝比奈さん」
沢渡課長が言いました。
「また妙な顔をしていますね」
「未来では便利な仕組みがあるんです」
「また未来ですか」
「独り言です」
「最近、慣れました」
慣れないでください。
私は昭和に馴染みたいんです。
数日後。
山下さんの異議申立書をまとめました。
主張は、
感情ではありません。
二十年以上使ってきたのにひどい。
商売が苦しくなる。
それも大切な事情です。
でも、
申立書の芯に置いたのは別でした。
処分理由として、
歩行者の安全な通行への支障が挙げられている。
しかし現場確認票には、
歩行空間への直接支障なし、
との記録がある。
日除けの高さにも問題は確認されていない。
事故や苦情もない。
大型車両の視認性への影響について、
具体的な調査が行われた形跡もない。
一方、
現場では駅前再整備に伴う整理が説明されている。
したがって。
処分理由と、
処分の基礎となった事実との間に食い違いがある。
まず、
何を理由として取消処分をしたのか。
その事実関係を明らかにしたうえで、
処分の妥当性を見直してほしい。
片桐所長が読みます。
「こはる」
「はい」
「最後」
「何です?」
「『市の説明は二転三転し信用できない』」
「あ」
「消せ」
「やっぱり?」
「喧嘩を売る文じゃない」
「はい」
赤線。
削除。
相馬先輩が横から言います。
「『処分理由について説明の整合性を欠く』くらいでいい」
「言ってることは同じじゃないですか」
「相手が読んで殴り返したくなる文章と、調べたくなる文章は違う」
「なるほど」
実務。
深い。
私は書き直しました。
「所長」
「何だ」
「質問って、書いたほうがいいですか」
「何を聞く」
「四つです」
私は別紙を出しました。
一。
歩行者の安全な通行への具体的な支障とは何か。
二。
現場確認票の「歩行空間への直接支障なし」と処分理由は、どのように整合するのか。
三。
大型車両の視界への影響について、どのような事実確認を行ったのか。
四。
駅前再整備方針が、今回の取消処分の判断にどの程度影響したのか。
相馬先輩が見ます。
「尋問みてえだな」
「だめですか」
「いや」
片桐所長が言いました。
「付けろ」
「いいんです?」
「論点が見える」
私は嬉しくなりました。
質問。
質問。
質問。
現代法三十六条が、
頭の中で手を振っています。
でも。
今はそれを条文として使うわけではありません。
昭和六十三年。
旧法の手続。
異議申立て。
今ある制度の中で、
処分庁に事実を確認させる。
未来の制度を、
過去へそのまま持ち込むことはできない。
でも。
未来の制度がなぜ必要になったのか。
それを知っていることで、
今の制度の弱いところは見えやすくなる。
転生知識。
法律だけは、
無双というより比較表に近い。
提出から一週間後。
市役所から片桐事務所へ電話がありました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
私が取ります。
『総務課、沢渡です』
「はい」
『山下正一さんの異議申立てについて、追加で事実確認をしています』
「追加?」
『道路管理課と駅前整備担当、それぞれから事情を聞きました』
私は背筋を伸ばしました。
「どうでした?」
『電話では結論まで申し上げません』
「そこを何とか」
『なりません』
硬い。
『ただし』
「はい」
『取消処分の理由について、内部の説明に整合しない部分があることは確認しました』
「……やっぱり」
『まだ結論ではありません』
「はい」
『山下さんには、撤去期限について当面の猶予を伝えてください』
「え?」
『異議申立ての審理中に撤去させたあとで処分を見直しても、日除けは戻りませんから』
私は少し黙りました。
沢渡課長。
この人。
やっぱり敵役として扱いにくい。
「課長」
『何でしょう』
「今回、道路管理課には何を聞いたんです?」
『朝比奈さんたちが別紙に書いた四点です』
そのまま。
「全部?」
『全部です』
「駅前整備担当にも?」
『必要な点は』
「職権で?」
『……何ですか、その言い方は』
「いえ」
危ない。
ここで三十六条の話をしたらまた未来人になります。
『朝比奈さん』
「はい」
『一つだけ』
「何でしょう」
『質問というのは、答えを決めてからするものではありませんよ』
胸に刺さりました。
「はい」
『山下さんが正しいと証明するためだけに聞くのではない』
「……はい」
『市の処分が正しいと証明するためでもない』
「はい」
『食い違っているなら、まず確認する。それだけです』
「分かりました」
『では』
切れました。
「何だって?」
相馬先輩が聞きます。
「撤去、いったん待つそうです」
「そうか」
「市が内部で関係者に質問してるって」
「へえ」
「私たちが書いた四つ」
片桐所長が帳簿から顔を上げます。
「答えは」
「まだです」
「なら待て」
「はい」
けれど。
完全に待つだけではありませんでした。
私たちも山下青果へ行きました。
現場を見るためです。
駅前通り。
古い商店街。
山下青果は、
赤と白の縞模様の日除けを出していました。
「これか」
相馬先輩が見上げます。
「はい」
確かに古い。
端が少し擦れている。
でも歩道を塞いではいない。
高さも十分ありそうです。
日除けの下には、
梨。
茄子。
ピーマン。
長葱。
段ボールに入ったじゃがいも。
「おお」
相馬先輩が梨を見る。
「仕事中ですよ」
「見てるだけだ」
「顔が買いたそうです」
「見るな」
山下さんが店から出てきました。
「先生方」
「撤去期限、止まりました」
私が言うと、
山下さんは目を丸くしました。
「本当ですか」
「まだ処分が取り消されたわけじゃありません」
「はい」
「でも、市が理由を確認し直しています」
「……そうですか」
山下さんは日除けを見上げました。
「これね」
「はい」
「親父が付けたんです」
「お父さんが?」
「昭和四十年代ですよ。布は何度も替えましたけど、骨組みはずっとこれです」
古い鉄の骨組み。
少し錆びている。
その下に、
梨が並んでいる。
「危ないなら直します」
山下さんが言いました。
「本当に危ないなら」
「はい」
「ただ、危なくないのに、『危ないから』って言われて外すのが嫌なんです」
私は頷きました。
それは、
意地なのかもしれない。
でも。
行政が人に何かをやめさせるなら。
なぜなのか。
その理由は、
少なくとも確かめられるものであってほしい。
二週間後。
もう一度、市役所。
沢渡課長の前には、
三冊のファイルが並んでいました。
「結論から言います」
山下さん。
片桐所長。
相馬先輩。
私。
全員が沢渡課長を見ます。
「道路占用許可の取消処分は、いったん取り消します」
山下さんが息をのみました。
私は思わず、
「勝った」
と言いかけました。
相馬先輩が肘で止めます。
はい。
まだ。
「理由を聞いても?」
片桐所長が言いました。
「処分理由として示した『歩行者の安全な通行への支障』について、処分時点で十分な事実確認がされていませんでした」
沢渡課長は淡々と続けます。
「道路管理課の現場確認では、直接的な通行支障なしとの記録がある」
「はい」
「大型車両の視認性についても、実地確認はされていなかった」
「はい」
「一方で、駅前整備担当には、景観統一の観点から既存の日除け類を将来的に整理したい意向があった」
なるほど。
三つの話が、
ようやく一本になりました。
安全。
大型車両。
再整備。
全部が同じ理由だったわけではない。
それぞれ別の担当者の頭にあった話が、
処分を出す過程で混ざっていた。
「つまり」
相馬先輩が言います。
「誰も嘘をついたわけじゃねえ」
「おそらくは」
「でも」
「一つの処分を支える理由として整理されていなかった」
沢渡課長が言いました。
私は、
ああ。
と思いました。
悪人がいない。
だからこそ、
こういう事件は怖い。
道路管理課は、
駅前再整備の話を知っていた。
駅前整備担当は、
景観を整理したかった。
窓口では、
安全面の可能性も聞いていた。
決裁では、
いちばん通りのいい言葉として、
「歩行者の安全」
が前に出た。
誰も、
住民を騙してやろう。
とは思っていない。
なのに。
最終的には、
本人にも説明できない処分が出来上がった。
「質問したら」
私は呟きました。
「ばらばらだったんですね」
「そうですね」
沢渡課長がこちらを見ます。
「書類だけなら分かりにくかった」
「はい」
「道路管理課へ聞く」
「はい」
「駅前整備担当へ聞く」
「はい」
「山下さんの説明とも照らす」
「はい」
「そうしたら」
沢渡課長はファイルを閉じました。
「一つの理由だと思っていたものが、実際には三つの話だった」
質問。
たったそれだけ。
でも。
質問には、
書類の接着剤を剥がす力がある。
何となく一つに見えていた説明を、
これは誰の判断ですか。
何を確認しましたか。
その事実はどこにありますか。
と聞いていく。
すると、
くっついていたものが、
一枚ずつ剥がれる。
「今後は?」
山下さんが聞きました。
「日除けの占用については、改めて現状を踏まえて判断します」
「また取り消されることは?」
「あります」
山下さんの顔が曇る。
沢渡課長は続けました。
「老朽化については改善を求める可能性があります。また駅前整備が具体化すれば、その段階で移設や撤去をお願いすることもあるでしょう」
「……はい」
「ただし」
沢渡課長が言いました。
「そのときは、その理由で判断します」
山下さんは、
しばらく黙っていました。
そして、
「それならいいです」
と答えました。
「危ないなら直します。工事するなら、場所も空けます」
「ありがとうございます」
「でも」
山下さんが少し笑いました。
「『なんとなく危ないから』だけは勘弁してください」
沢渡課長の口元が、
ほんの少し動きました。
「承知しました」
帰り道。
私は相馬先輩と歩きながら、
ずっと考えていました。
「先輩」
「何だ」
「質問って強いですね」
「今さらか」
「いや、普通すぎて」
「何がだ」
「聞くだけじゃないですか」
「そうだな」
「証拠を押収するわけでもない。命令するわけでもない。処分を取り消すわけでもない」
「うん」
「でも聞くだけで、処分の理由が崩れた」
相馬先輩は少し考えました。
「質問で崩れたんじゃねえ」
「え?」
「最初から崩れてたんだ」
私は足を止めました。
「質問したから、それが見えただけだ」
「……なるほど」
悔しい。
今日の先輩、
妙にいいことを言います。
「先輩」
「何だ」
「今の、法理編で使っていいですか」
「何だ法理編って」
「独り言です」
「お前最近、独り言多いぞ」
事務所へ戻った午後。
山下さんがやって来ました。
大きな段ボール箱を抱えています。
「これ、皆さんで」
「何です?」
開ける。
梨。
十個以上。
「わあ」
「傷があるやつです。売り物にならないから」
相馬先輩が一つ持ちました。
「十分うまそうじゃねえか」
「先輩」
「何だ」
「さっきから梨見てましたもんね」
「見てねえ」
「現場でも見てました」
「事実確認だ」
「何の?」
「品質」
「行政書士事務所は青果検査機関じゃありません」
山下さんが笑いました。
「じゃあ、一番大きいの持ってってください」
「いただきます」
「即答!」
片桐所長は箱から一つだけ梨を取りました。
「こはる」
「はい」
「切れ」
「私ですか」
「見習いだろ」
出た。
万能根拠条文。
見習いだから。
「質問していいですか」
「何だ」
「なぜ私が切るんです?」
「包丁を持っているからだ」
「職権ですか」
「業務だ」
「申立てによる可能性は?」
「ない」
相馬先輩が笑います。
「細けえな」
私は梨を台所へ持っていきました。
皮を剥きながら、
頭の中では別のことを考えています。
現代なら。
審理員がいる。
処分した担当者とは別の立場から、
審査請求人にも、
参加人にも、
処分庁にも、
事件について質問できる。
申立てを受けて聞くこともできる。
必要だと思えば、
自分から聞くこともできる。
昭和六十三年の今。
そんな審理員はいない。
異議申立てなら、
処分した行政庁自身が見直すことになる。
だから。
今日みたいな事件を見ると、
未来の制度が少し分かる。
なぜ、
処分した側とは距離を置いた人が審理する仕組みが作られたのか。
なぜ、
その人に質問する権限まで用意されたのか。
たぶん。
書類というのは、
完成した顔をしているからです。
通知書には、
歩行者の安全のため。
と一行書いてあった。
それだけ読めば、
そういう処分なんだと思ってしまう。
でも。
聞いてみれば。
現場担当者は、
直接支障なし。
と記録していた。
別の担当者は、
駅前再整備の景観整理を考えていた。
窓口では、
大型車両の視界の話が出ていた。
一枚の処分通知の裏に、
三つの事情が入り込んでいた。
それを見つけたのは、
難しい法律論ではない。
質問です。
何が危険なんですか。
誰が確認したんですか。
その記録はありますか。
この説明と、あの説明はなぜ違うんですか。
私は梨を八等分にしました。
「できましたよ」
皿を出します。
相馬先輩が一切れ取る。
「甘い」
「早いですよ」
「梨は切ったら食うもんだろ」
「所長まだですよ」
「役所じゃねえんだから順番なんかねえ」
片桐所長も一切れ取ります。
食べる。
「うまい」
珍しく感想が出ました。
「山下さん」
「はい」
「日除け」
所長が言います。
「骨組みは直したほうがいい」
山下さんが苦笑しました。
「やっぱり錆びてますよね」
「少しな」
「今度直します」
「そのほうがいい」
処分は取り消された。
でも。
日除けが永遠に守られたわけじゃない。
必要なら修理する。
再整備が本当に始まれば、
撤去することもある。
ただ。
今日は、
理由の分からないまま壊さずに済んだ。
それだけです。
でも。
生活の道具というのは、
法律の世界では小さく見えても、
使っている人には、
そのまま暮らしの一部です。
梨をもう一切れ取ろうとしたら、
最後の一つを相馬先輩が取りました。
「あっ」
「何だ」
「それ私のです」
「名前書いてねえだろ」
「食べようと思ってたんです」
「思ってただけだ」
「質問します」
「何だ」
「なぜ私の梨を食べたんですか」
「俺が先に取ったから」
「職権で?」
「梨に職権も何もあるか」
「では参加人として所長に申立てます」
「何に参加してんだ、お前」
私は片桐所長を見ました。
「所長。相馬先輩に質問してください」
「何を」
「最後の梨を取る必要性について」
「却下」
「質問すらしないんですか!」
「事実に争いがない」
強い。
確かに、
先輩が食べたことには争いがない。
「じゃあ結論は?」
「梨はなくなった」
「救済がない!」
山下さんが声を上げて笑いました。
さっきまで処分通知を握りしめていた人が、
腹を抱えて笑っています。
それだけで。
まあ今日は、
悪くない日だった気がします。
私は空になった皿を見ました。
法律には、
答えを出す仕組みがあります。
でも。
正しい答えを出す前には、
正しい問いが要る。
何が起きたのか。
誰がそう判断したのか。
何を根拠にしたのか。
説明が食い違うなら、
なぜ食い違うのか。
紙に書かれた答えをそのまま信じる前に、
一度、聞いてみる。
それだけで。
閉じていた処分の中身が、
開くことがあります。
私は今日の教訓を、
頭の中で一行にしました。
――答えが曖昧なら、まず質問して、事実を一枚ずつ剥がす。
「こはる」
所長が言いました。
「はい」
「皿」
「はいはい、洗います」
「不服か」
「あります」
「聞こう」
私は一瞬、嬉しくなりました。
「本当ですか?」
「ああ」
「では、なぜ見習いだけが毎回――」
「却下」
「最後まで質問させてください!」
相馬先輩がまた笑いました。
質問する機会というものは、
どうやら昭和六十三年の片桐行政書士事務所では、
まだ十分に保障されていないようです。
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