↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
183/288

[行政不服審査法35条・検証]現場編 「写真を見れば分かりますから」の罠。机上の一枚で塞がれた商売と、現地に立って崩す“通れない”の思い込み

挿絵(By みてみん)

 地図の上では狭い道も、


 人が立ってみると、案外広かったりします。


 逆もあります。


 写真では平らに見える坂道が、


 自転車で登ると人生について考えたくなる角度だったりします。


 つまり。


 場所のことは、


 場所を見ないと分からないことがある。


 当たり前です。


 ものすごく当たり前です。


 なのに役所の机の上へ行くと、


 たまにその当たり前が書類の下敷きになります。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の朝。


 私は巻き尺と格闘していました。


「戻らない」


「何が」


「巻き尺です」


「押せ」


「押してます」


「もっと押せ」


「行政指導みたいに言わないでください」


 相馬先輩が煙草をくわえたまま、私の手から巻き尺を取り上げました。


 ぱちん。


 一発で戻る。


「……」


「何だ」


「腹立つ」


「道具に嫌われてんだろ」


「行政法には好かれてます」


「それはもっと嫌だな」


 失礼な。


 私だって好きで行政法に追い回されているわけではありません。


 受験生だったころなんて、


 行政不服審査法の審理手続あたりに来ると、


 参考人。


 鑑定。


 物件提出。


 検証。


 質問。


 と並んでいて、


 正直、


 ――裁判ごっこみたいなのがいっぱいあるな。


 くらいにしか思っていませんでした。


 今となっては謝りたい。


 誰にかは分かりませんが。


 そんなことを考えていると、事務所の戸が開きました。


「すみません」


 入ってきたのは、小柄な女性でした。


 六十歳くらい。


 白髪を後ろで丸くまとめています。


 片手に紙袋。


 もう片方には茶色い封筒。


「片桐先生はいらっしゃいますか」


 奥から所長が顔を出しました。


「います」


 相変わらず接客開始の言葉が短い。


 女性は、


 佐伯澄江さん。


 駅前商店街の外れで、小さな焼き芋屋をやっていました。


 店といっても立派な建物ではありません。


 市有地の一角に置かれた、


 古い木造の仮設店舗。


 幅二間ほど。


 赤い布のひさし。


 冬になると、


 学校帰りの子どもや駅から歩いてくるお年寄りが寄る。


 三十年以上続く小さな店でした。


「これが来まして」


 佐伯さんが封筒から通知を出しました。


 私は受け取ります。


 ――市有地使用許可更新申請について、不許可。


「理由は……」


 探す。


 ありました。


 短いです。


 非常時の通行及び避難経路の確保に支障があるため。


「非常時の通行?」


 佐伯さんが頷きました。


「市役所の人には、消防車が通れないって言われました」


「消防車」


「はい」


 私は少し眉を寄せました。


「お店、道路の真ん中にあるんですか」


「まさか」


「ですよね」


「広場の端です」


 駅前再整備予定地。


 その西側にある細長い市有地。


 そこに仮設店舗が数軒並んでいる。


 佐伯さんの焼き芋屋も、その一つでした。


「今までは更新されてたんですよね」


「毎年」


「今年だけ?」


「はい」


「お店が大きくなったとか」


「なってません」


「荷物を外へ置いたとか」


「芋の箱くらいは置きますけど、閉店したら中に入れます」


「市役所は現地を見ました?」


 佐伯さんが首をかしげました。


「見てないと思います」


「どうして分かるんです?」


「だって」


 佐伯さんは鞄から一枚の紙を出しました。


 市役所で説明されたときに見せられたという、


 駅前広場の配置図のコピー。


 そこには。


 佐伯商店。


 仮設倉庫。


 街灯。


 植え込み。


 そして。


 赤い鉛筆で一本の線が引いてありました。


 ――緊急車両進入予定線。


「ここを通すから、私の店が邪魔だって」


 佐伯さんが指を置きます。


 確かに。


 紙の上では邪魔です。


 焼き芋屋の角が、赤い線に少しかかっています。


「何センチくらい足りないって言われました?」


「一メートルくらい」


「一メートル?」


「はい」


 かなりです。


 数センチなら測量誤差も考えます。


 一メートルなら、


 焼き芋屋が突然増築していない限り、そう簡単には消えません。


「写真は?」


「市役所の人が持ってました」


「いつ撮った写真です?」


「さあ……」


 相馬先輩が配置図を取りました。


「これ」


「はい」


「植え込みがあるな」


「あります」


「今も?」


 佐伯さんは首を横に振りました。


「去年、なくなりました」


「何で?」


「駅前工事で」


 相馬先輩の指が止まりました。


「この倉庫は」


「それもありません」


「街灯」


「場所が変わりました」


 私は配置図を見ました。


 もう一度。


 佐伯さんを見る。


 また配置図。


「……先輩」


「言うな」


「これ」


「言うな」


「古くないですか」


「だから言うなって」


「絶対古いですよね!」


 言いました。


 だって。


 そりゃ言います。


 なくなった植え込み。


 なくなった倉庫。


 移動した街灯。


 なのに焼き芋屋だけが現在地のまま扱われて、


 そこへ緊急車両の線を引いている。


 書類の中だけ、


 駅前が数年前で時間停止しています。


「これ、何年前の図面です?」


 片桐所長が聞きました。


「分からないんです」


「役所では何と言った」


「『資料上、必要な幅員が確保できません』って」


 資料上。


 私はその言葉を頭の中で転がしました。


 嫌な言葉です。


 資料は大切。


 記録も大切。


 でも。


 資料が現場を写していないなら、


 資料上正しいことと、


 現実に正しいことは、


 別です。


「それで」


 佐伯さんが小さな声で言いました。


「来月末までに店をどけてくださいって」


「来月?」


「はい」


「焼き芋の時期じゃないですか」


「そうなんです」


 佐伯さんは笑いました。


 困った人がする、


 笑うしかない笑いでした。


「夏はほとんど商売にならないから、冬に稼ぐんです」


「ですよね」


「今年も学校の子たちに、十月からやるよって言っちゃって」


 机の上の通知が、急に重く見えました。


 一枚の紙です。


 でもその紙で、


 冬の売上が消える。


 常連客との約束も消える。


 来月から何をするか、


 急に考えなければならなくなる。


「不服申立てはできます」


 私は通知の裏を確認しながら言いました。


「期間もまだ大丈夫です」


「裁判ですか」


「いえ」


「市役所と喧嘩するんでしょうか」


「それも違います」


 相馬先輩が鼻で笑います。


「こいつ、役所とはしょっちゅう喧嘩してるけどな」


「してません。法的対話です」


「沢渡課長がお前を見る目、対話相手を見る目じゃねえぞ」


「気のせいです」


 片桐所長が通知を手に取りました。


「市長名義か」


「はい」


 私も見る。


 市長。


 市の処分。


 上級行政庁はない。


 なら。


「異議申立て」


 私は言いました。


 頭の中で一瞬、


 審査請求。


 審理員。


 三か月。


 という現代セットが出てきましたが、


 叩いて引っ込めます。


 ここは昭和六十三年。


 異議申立てが現役です。


 期間も現代の三か月ではない。


 六十日。


 転生者に優しくない法律です。


 でも。


 今日引っかかるのは、そこだけではありません。


「所長」


「何だ」


「現場を見てもらえませんかね」


「誰に」


「役所に」


 相馬先輩が配置図を机へ置きました。


「担当課なら見に行くだろ」


「そうじゃなくて」


 私は少し考えました。


 言葉が出かかる。


 審理員が検証を――


 違う!


 いない!


 昭和に審理員はいません!


 危ない。


 未来人がまた制度を二十八年ほど先取りするところでした。


「……不服申立ての審理の中で」


 私は言い直しました。


「検証を求めるんです」


 相馬先輩がこちらを見ました。


「ほう」


「この件、紙だけじゃ分からないですよ」


 焼き芋屋の位置。


 通路の幅。


 撤去された植え込み。


 移動した街灯。


 緊急車両が本当に通れないのか。


 配置図が現在の状況と一致しているのか。


 それは。


「現地へ行けば、分かる」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「申立書を作れ」


「はい」


 その日の午後。


 私たちは市役所へ向かいました。


 総務課。


 窓口の奥には、


 いつもの灰色の背広。


 沢渡課長。


 この人を見ると、


 行政法の条文が人間の形をして座っているような気がします。


「片桐先生」


 沢渡課長は顔を上げました。


「今日は何でしょう」


 相馬先輩が通知を置きます。


「佐伯澄江さん。駅前の仮設店舗」


「ああ」


「更新不許可」


「担当課から聞いています」


「異議申立てを出す」


「そうですか」


 驚かない。


 怒らない。


 困らない。


 沢渡課長に感情攻撃は効きません。


 たぶん泣き落としをしても、


 ティッシュを一箱出されて終わります。


「理由は緊急車両の通行確保ですね」


 私は言いました。


「そうです」


「根拠にした配置図、これですか」


「担当課ではそれを使用しています」


「いつ作成されたものです?」


「確認が必要です」


「植え込み、もうありません」


「承知しています」


「仮設倉庫もありません」


「それも承知しています」


「街灯の位置も違います」


「そうですね」


「……課長」


「何でしょう」


「それで、どうしてこの図面で通行幅が足りないって判断したんですか」


 沢渡課長は少しだけ眼鏡を上げました。


「配置図だけで決定したとは聞いていません」


「じゃあ現地確認は?」


「担当職員が以前撮影した写真があります」


「いつの写真です?」


「確認します」


 確認します。


 二回目です。


 行政法の現場でこの言葉が二回続くと、


 だいたい何か出ます。


 私は配置図を指しました。


「検証を申し立てます」


 そこで。


 沢渡課長の視線が止まりました。


「検証?」


「はい」


「現場確認なら担当課で――」


「違います」


 相馬先輩が遮りました。


「担当課が勝手に見てきて、『やっぱり駄目でした』で終わらせる話じゃねえ」


 沢渡課長が相馬先輩を見る。


「不服申立ての審理として、現場を見てもらう」


 私は続けました。


「焼き芋屋の位置と、現在の通行部分。それから障害物の有無を、その場で確認してほしいんです」


「写真でも確認できます」


 出ました。


 今日の敵。


 写真を見れば分かります。


 私は少し身を乗り出しました。


「その写真が、いつの写真か分からないんですよね」


「確認すると申し上げました」


「じゃあ、現場を見たほうが早くないですか」


「朝比奈さん」


「はい」


「行政は何でも現地へ行けばいいというものではありません」


「分かってます」


 職員の時間も限られる。


 全部の事件で現場検証なんてしていたら、


 役所が遠足集団になります。


 書面で分かることは書面でやる。


 それは合理的です。


 でも。


「今回の争点そのものが、場所なんです」


 私は言いました。


「通れるか、通れないか」


 沢渡課長は黙る。


「図面が古い可能性がある。写真の時期も分からない。だったら、その資料だけで『通れない』と決めるより、現場で確認する意味があります」


「検証をすれば、必ずあなた方の主張が認められるわけではありませんよ」


「もちろんです」


「むしろ現場を見て、本当に通れないとなれば、市の判断が補強される」


「それでもいいです」


 自分で言って、


 少し驚きました。


 でも。


 本当にそうです。


 私たちは、


 佐伯さんを何が何でも勝たせたいから、


 現地を見ろと言っているわけではない。


 事実を確かめてほしいのです。


 通れないなら、


 通れない。


 通れるなら、


 通れる。


 まずそこを決めないと、


 法律以前の話が始まりません。


「現場で負けるなら」


 私は言いました。


「少なくとも、古い図面だけで負けるより納得できます」


 沢渡課長の口元が少し動きました。


「妙なことを言いますね」


「褒めてます?」


「いいえ」


「残念」


 片桐所長が静かに言いました。


「申立ては書面で出す」


「承知しました」


「実施するなら」


 所長は一拍置きました。


「佐伯さんにも立ち会わせてもらう」


 沢渡課長が頷きました。


「申立てによる検証として実施するのであれば、日時と場所は通知します」


 私は心の中で、


 よし。


 と拳を握りました。


 旧法でも、検証の仕組みはある。


 審査請求については、審査庁が申立てまたは職権で必要な場所を検証でき、申立てにより検証する場合には、申立人へ事前に日時・場所を通知して立会いの機会を与える仕組みになっていました。異議申立てにもこの規定が準用されます。


 現代なら、


 ここで主役になるのは審理員。


 でも昭和六十三年には、そんな人はいません。


 処分庁自身が異議申立てを扱う。


 そして自分たちの処分について、


 自分たちで現場を見る。


 やっぱり不思議です。


 未来から来た私の頭では、


 どうしても、


 ――それ、公平性は大丈夫?


 と思ってしまう。


 たぶん。


 後の制度改正は、


 こういう違和感を少しずつ拾っていった結果なのだと思います。


 でも。


 今は今の制度を使うしかない。


 大事なのは。


 使える手続を、ちゃんと使うことです。


 三日後。


 検証の日。


 午前九時。


 駅前西口。


 私は巻き尺を持って立っていました。


「結局お前が持つのか」


 相馬先輩が言います。


「今度はちゃんと戻せます」


「そこじゃねえ」


 佐伯さん。


 片桐所長。


 相馬先輩。


 私。


 そして市役所から、


 沢渡課長。


 駅前整備担当の職員二名。


 現場は朝から人通りがありました。


 自転車。


 買い物袋を持った人。


 駅へ急ぐ高校生。


 その端に、


 赤いひさしの小さな焼き芋屋。


「ここです」


 佐伯さんが言いました。


 私は初めて現物を見ました。


 そして。


「……広くないですか」


 言ってしまいました。


 相馬先輩も黙っています。


 配置図で見た印象と、


 まるで違う。


 焼き芋屋の前から反対側まで、


 かなり空間があります。


 もちろん大型車が自由自在に走れるほどではありません。


 でも。


 図面では通路を塞ぐように見えていた店が、


 現地では端へ寄っている。


「植え込みがあったのは」


 沢渡課長が担当職員へ聞きました。


「あちらです」


 指差した場所。


 今は舗装されています。


「倉庫は」


「撤去済みです」


「街灯は」


「あちらへ移設しています」


 沢渡課長が黙りました。


 私は焼き芋屋の角を見る。


 その横。


 白い塗装跡があります。


「これ、何です?」


 担当職員が答えました。


「以前の植え込みの縁です」


「じゃあ昔は、ここまで狭かった?」


「そうです」


 なるほど。


 私は配置図を広げました。


 図面と現場を見比べます。


 分かりました。


 図面が嘘なのではありません。


 昔は正しかった。


 でも、


 駅前工事の途中で障害物が撤去され、


 現場が変わった。


 その後も、


 古い配置図を基礎資料として使っていた。


 悪意ではない。


 ただ。


 更新されなかった。


「幅、測ります」


 担当職員が巻き尺を伸ばしました。


 佐伯さんが一歩近づきます。


「私、見ていていいんですか」


「はい」


 沢渡課長が答えました。


「そのために来ていただいています」


 佐伯さんは少し驚いた顔をしました。


 当事者が、


 役所の確認作業のすぐそばに立つ。


 たったそれだけ。


 でも。


 自分のいないところで、


 いつの間にか、


 「通れませんでした」


 と決められるのとは違う。


 測る場所が分かる。


 数字が見える。


 何を確認したのか、その場で分かる。


 それが立会いというものなのだと思います。


「三・八」


 職員が言いました。


「もう一度」


 沢渡課長が言います。


 測り直す。


「三・八二です」


 沢渡課長が配置図を見る。


「資料上は?」


「二・七です」


 私は思わず聞き返しました。


「一メートル以上違うじゃないですか」


「現況が変わっていますから」


「それを言ってるんです!」


 相馬先輩が私の肩を掴みました。


「落ち着け」


「先輩、これ落ち着けます?」


「お前が騒ぐと話が遅くなる」


「ぐぬ」


 事実。


 痛い。


 沢渡課長はさらに聞きます。


「必要幅員は」


 担当職員が答えました。


「計画上、三・五メートルです」


 沈黙。


 三・八二。


 必要なのは三・五。


 つまり。


 今の状態なら。


「足りてますね」


 私は言いました。


 誰もすぐには答えませんでした。


 数字は冷たいです。


 三・八二。


 三・五。


 そこに感情はありません。


 佐伯さんが三十年焼き芋を売ったことも、


 子どもたちが待っていることも、


 生活がかかっていることも、


 数字は知りません。


 でも。


 だからこそ強い。


 かわいそうだから許可しろ。


 ではない。


 通行に必要だから不許可にした。


 なら。


 本当に必要な幅がないのか。


 測る。


 ある。


 それだけ。


 私は、


 法律の冷たさが人を救う瞬間を、


 またひとつ見た気がしました。


「課長」


 相馬先輩が言います。


「どうする」


「ここで処分を取り消すとは言えません」


 沢渡課長は即答しました。


「まあ、そうでしょうね」


「ほかにも確認事項があります」


「逃げるのか」


「手続です」


 強い。


 やっぱりこの人は感情では崩れません。


「ただし」


 沢渡課長は配置図を畳みました。


「少なくとも、『必要幅員が確保できない』という前提は再検討が必要です」


 佐伯さんが息を呑みました。


「じゃあ……」


「まだ結論ではありません」


「はい」


「ですが」


 沢渡課長は焼き芋屋を見ました。


「この現場を見たあとで、二・七メートルという資料だけを根拠にはできません」


 それで十分でした。


 今日ここへ来た意味は、


 それだけでありました。


 帰り際。


 私は沢渡課長に聞きました。


「課長」


「何でしょう」


「もし私たちが検証を申し立てなかったら」


「仮定の話には答えません」


「そこを何とか」


「朝比奈さん」


「はい」


「職権でも必要なら現場確認はできます」


「ですよね」


「ですが」


 沢渡課長は少しだけ目を細めました。


「書類が整っている案件ほど、書類を疑うきっかけは少ない」


 あ。


 それ。


 怖いやつです。


 書類が雑なら、


 誰かが気づく。


 数字が抜けている。


 日付がおかしい。


 地図がない。


 そういう書類なら止まる。


 でも。


 昔は正しかった資料。


 きれいな配置図。


 もっともらしい数字。


 それらが全部揃っていると。


 かえって、


 「これは本当か」


 と疑う人がいなくなる。


「不服申立てって」


 私は言いました。


「役所に間違いを認めさせるだけじゃないんですね」


「また妙なことを言いますね」


「止まって見直すきっかけを作る」


 沢渡課長は少し考えました。


「その程度にしておきましょう」


「褒めてます?」


「いいえ」


「今日二回目」


 一週間後。


 市役所から通知が届きました。


 佐伯さんの使用許可について、


 不許可処分を見直す。


 現況確認の結果、


 緊急車両の進入に必要とされた幅員が確保されていることが確認された。


 ほかの条件も再確認した上で、


 当面一年間の使用を認める。


「一年」


 私は通知を握りました。


「取れたぞ」


 相馬先輩が言います。


「はい!」


「騒ぐな」


「でも一年ですよ!」


「聞こえてる」


 片桐所長は通知を読んで、


 一言。


「現場は強い」


 短い。


 でも今日に限っては、


 これ以上いりません。


 午後。


 佐伯さんが来ました。


 結果を伝えると、


 何度も通知を読みました。


「今年もできますか」


「できます」


「焼き芋」


「はい」


「冬いっぱい?」


「少なくとも、この許可期間は」


 佐伯さんはしばらく黙っていました。


 そして。


「よかったあ」


 ようやく、


 本当に笑いました。


 紙袋を机へ置きます。


「これ」


「まさか」


「焼き芋」


 相馬先輩が、


 通知を受け取ったときより早く反応しました。


「もらおう」


「先輩」


「何だ」


「まだお礼を言ってません」


「ありがとうございます」


「芋に言わないでください」


 紙袋を開く。


 湯気。


 甘い匂い。


 まだ秋口なのに、


 事務所の中だけ急に冬になりました。


「試し焼きなんです」


 佐伯さんが言います。


「今年の芋、甘いか見てもらおうと思って」


 私は一本受け取りました。


 熱い。


「熱っ」


「持ち方が悪い」


「焼き芋の持ち方に行政実務みたいな正解あるんですか」


「ある。端を持て」


「早く言ってください」


 半分に割る。


 中は黄色。


 相馬先輩がすでに食べています。


「うまい」


「早いなあ」


「食い物は現場確認が大事だからな」


 私は止まりました。


「先輩」


「何だ」


「今ちょっと上手いこと言いました?」


「言ってねえ」


「検証ですね」


「違う」


「芋の内部を直接確認して――」


「黙って食え」


 佐伯さんが笑いました。


 片桐所長も一本取ります。


 珍しい。


「所長も食べるんですね」


「悪いか」


「いえ」


 私は芋を一口食べました。


 甘い。


 本当に甘い。


「佐伯さん」


「はい」


「今回、写真とか図面だけだったら、危なかったですね」


「そうねえ」


「でも」


 私は考えました。


「検証って、佐伯さんのためだけじゃなかったのかもしれません」


「どういうこと?」


「役所の人も、現場を見て数字を直せたから」


 佐伯さんは少し考えてから、


 頷きました。


「役所も間違えるものね」


「はい」


 相馬先輩が口を挟みます。


「人間がやってるからな」


「先輩が急に哲学者みたいなことを」


「うるせえ」


 その日の夕方。


 沢渡課長から電話がありました。


『朝比奈さん』


「はい」


『駅前の仮設店舗について、基礎資料を更新することになりました』


「全部ですか」


『対象区域全体です』


「古い配置図を?」


『現況図に差し替えます』


 私は少し笑いました。


「佐伯さんの一件がきっかけですか」


『直接そういう言い方はしません』


「役所らしい」


『それと』


「はい」


『今後、通行幅を理由に不許可とする案件では、現況確認を記録に残す運用にします』


「……それは」


 思ったより大きい。


 一軒の焼き芋屋。


 一メートルの違い。


 一回の検証。


 それだけで、


 次の人が古い地図で店を失わずに済むかもしれない。


『朝比奈さん』


「はい」


『一つだけ』


「何でしょう」


『検証は、申立人の主張を証明するためだけにあるわけではありません』


 私は黙りました。


『行政側に有利な事実が確認されることもあります』


「はい」


『現場を見る、というのはそういうことです』


「どっちに有利かじゃなくて」


『事実を確認する』


「……はい」


『では』


 電話が切れました。


 悔しい。


 最後だけ先生みたいなことを言って帰りました。


「何だって?」


 相馬先輩が聞きます。


「駅前の図面、全部更新するそうです」


「そうか」


「今後は現況確認の記録も残すって」


「なら上出来だ」


 私は机の上の巻き尺を見ました。


 朝は、


 ただ戻らなくて腹の立つ道具でした。


 今は少し違って見えます。


 行政法は、


 紙の法律です。


 申立書。


 弁明書。


 反論書。


 証拠書類。


 通知書。


 裁決書。


 とにかく紙が多い。


 でも。


 紙の向こう側には、


 本物の道がある。


 本物の店がある。


 本物の幅がある。


 その場所へ行って、


 自分の目で確かめる手続も、


 ちゃんと用意されている。


 今日の教訓。


 ――場所が争点なら、紙の上だけで負けるな。現場を見てもらう道を探せ。


「こはる」


 所長が言いました。


「はい」


「巻き尺」


「何です?」


「片付けろ」


「はい」


 私は巻き尺を手に取りました。


 ボタンを押す。


 途中で止まる。


「……」


 もう一度。


 止まる。


「先輩」


「嫌だ」


「まだ何も言ってません」


「巻き尺だろ」


「検証してください」


「見りゃ分かる。壊れてる」


「写真だけで判断してません?」


「現物が目の前にあるだろ」


「あ」


 確かに。


 片桐所長が一言。


「現場は強い」


 今日二回目です。


 相馬先輩が笑い、


 私は壊れた巻き尺を見つめました。


 どうやら。


 行政不服審査だけでなく、


 事務用品の世界でも、


 最後にものを言うのは現物らしいです。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜
宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
動画生成AIが作成したイメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。