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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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181/278

[行政不服審査法34条・参考人の陳述及び鑑定の要求]現場編 「市の測定ですから間違いありません」の罠。役所の報告書だけで決める処分と、第三者の目で事実をほどく証拠調べの刃

挿絵(By みてみん)

 数字は、嘘をつかない。


 ――という言葉があります。


 でも。


 数字を測った人。


 測った場所。


 測った時間。


 測ったもの。


 そこまで正しいとは限りません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の朝、私は一枚のグラフを睨んでいました。


「先輩」


「何だ」


「八十七デシベルって、うるさいですか」


「お前が騒いでるときくらいだ」


「私そんなに出ませんよ!」


「今ので八十はあるな」


「測ってから言ってください!」


 相馬先輩は煙草をくわえたまま新聞をめくりました。


 私の机の上には、


 騒音測定結果。


 そして。


 もう一枚。


 ――駅前広場売店使用許可取消通知書。


 相談者は、


 野村義一さん。


 五十八歳。


 駅前広場の端で、小さな焼きそば屋を営んでいました。


 屋台ではありません。


 市の土地に建てられた六坪ほどの簡易店舗。


 昔から駅前にある、


 赤い暖簾の「野村食堂」。


 焼きそば。


 おでん。


 夏にはかき氷。


 冬には甘酒。


 高校生なら百円おまけ。


 タクシー運転手なら漬物一皿追加。


 そういう、


 法律より先に人情で運営されている店でした。


 ところが。


 一週間前。


 市から突然、


 広場使用許可の取消しが届いた。


 理由。


 ――周辺環境を著しく害する騒音を継続的に発生させたため。


「騒音って、何の音です?」


 私が尋ねると、


 野村さんは困ったように頭を掻きました。


「カラオケだって言うんです」


「カラオケ」


「去年から、夜だけ置いてるんです」


「食堂に?」


「常連がね。歌いたいって」


 なるほど。


 昭和六十三年。


 飲んだ大人は、だいたいカラオケを置きたがります。


 たぶん法律では止められません。


「何時までです?」


「九時には切ってます」


「苦情は?」


「一度だけ」


「一度?」


「去年の秋です。近所の人に『ちょっと響くよ』って言われて、それから音量も下げました」


「市から注意は?」


「二回」


「それはいつです」


「今年の六月と七月」


「そのあとも?」


「音量下げましたよ。それどころか、八月からはほとんど使ってない」


 私はグラフを見ました。


 測定日。


 昭和六十三年九月十五日。


 午後七時四十分。


 最大八十七デシベル。


 平均七十九デシベル。


「九月十五日……」


 野村さんが首をかしげます。


「その日、カラオケなんか使ってませんよ」


「本当ですか」


「本当です」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「店は開けてたのか」


「はい」


「客は?」


「三人くらい」


「誰だ」


「駅前の花屋の川瀬さんと、タクシーの西村さんと――」


 私は顔を上げました。


「川瀬さん?」


「知ってるんですか」


「ええ、まあ」


 駅前という町は狭い。


 行政事件を続けていると、だんだん登場人物が同窓会みたいになってきます。


「で、その日は何をしてた」


 相馬先輩が聞きます。


「普通に飯を出してました」


「音は?」


「テレビくらいです」


「じゃあ、この八十七デシベルは何だ」


「それが分からんのです」


 野村さんの声が沈みました。


「市役所へ聞きに行ったんですよ」


「何て?」


「『職員が測定した正式な記録です』って」


 私はグラフの端を見ました。


 測定地点。


 ――野村食堂北側歩道。


 測定時刻。


 十九時四十分から十九時五十分。


 そこまでは書いてある。


 でも。


「これ」


「何だ」


 相馬先輩が覗き込む。


「測定したとき、何の音が鳴っていたか書いてないですね」


「ああ」


「カラオケの曲名も」


「そこかよ」


「いや、曲名はどうでもいいですけど」


 違う。


 でも。


 気になる。


 八十七デシベル。


 それは確かに数字です。


 けれど。


 その数字が、


 野村食堂のカラオケの音だった。


 というところまでは、


 数字自身は証明してくれません。


「所長」


 私は奥を見ました。


 片桐所長は通知書を読んでいました。


「取消しはいつからです?」


「今月末です」


「あと十日……」


 店を閉めろ。


 十日後に。


 駅前再整備が進んでいる中で、


 使用許可を取り消されたら、


 新しく別の場所を借りる余裕なんてありません。


「駅前整備の話も関係してますか」


 私は聞きました。


 野村さんの顔が曇りました。


「春から、市に言われてるんです」


「何を?」


「できれば自主的に店を閉めてくれって」


 来た。


「理由は?」


「再整備で駅前をきれいにしたいからって」


「でも使用許可は残ってた」


「はい」


「退去の期限は?」


「正式には言われてません」


「立退きの処分は?」


「ないです」


 相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。


「面白くなってきたな」


「先輩。相談者の前で事件を面白がらないでください」


「事件が面白いんじゃねえ」


 先輩は測定表を指で叩きました。


「理由が増えたって話だ」


 騒音。


 再整備。


 自主退去の要請。


 そのあとに、


 騒音を理由とした使用許可取消し。


 もちろん。


 これだけで市が悪いとは言えません。


 本当に騒音がひどかったなら、取消しに理由があるかもしれない。


 でも。


 だからこそ。


 確かめなければならない。


「市役所、行きましょう」


 私が言いました。


 相馬先輩が眉を上げます。


「今日はお前が言うのか」


「情報は、紙見て唸ってても増えませんから」


「俺の台詞取るな」


「学習しました」


 片桐所長が立ち上がりました。


「野村さん」


「はい」


「九月十五日の夜。覚えている者を探しておいてください」


「客ですか」


「客でも、近所でもいい」


 そして所長は、


 騒音測定表を折らずに鞄へ入れました。


「数字だけで、人の店は閉めさせん」


 市役所二階。


 総務課。


「今回は焼きそばですか」


 沢渡課長が言いました。


「案件で人を呼ばないでください」


「駅前案件ばかりなので」


「私たちのせいじゃありません」


「それもそうですね」


 相変わらずです。


 この人は、


 人間の感情を一度役所の受付で預けてから仕事をしているように見えます。


 相馬先輩が通知書を机に置きました。


「野村食堂」


「はい」


「許可取消しの根拠になった騒音測定について確認したい」


「記録のとおりです」


「九月十五日、七時四十分。八十七デシベル」


「ええ」


「何の音だ」


 沢渡課長が一瞬止まりました。


「何の、と言いますと」


「カラオケの音なのか」


「周辺騒音を測定したものです」


「じゃあ野村食堂のカラオケだと、どう確認した」


 沢渡課長が眼鏡を押し上げます。


「担当者は、店舗からの騒音であると判断しています」


「どうやって」


「現地確認です」


「記録は?」


「あります」


「見せてもらえるか」


「内部資料ですので、そのまま全部というわけにはいきません」


 相馬先輩の眉が少し動きます。


 でも。


 片桐所長が先に言いました。


「測定時の状況だけ確認したい」


「どういう意味でしょう」


「当日、周囲で別の音はなかったか」


「別の音?」


「工事だ」


 私はハッとしました。


 所長は続けます。


「駅前再整備の関連工事。夜間作業はなかったか」


 沢渡課長が黙りました。


「確認します」


「今分からない?」


「私の担当ではありませんから」


「じゃあ確認してください」


 私が言いました。


 沢渡課長がこちらを見る。


「朝比奈さん」


「はい」


「市の職員が測定した記録ですよ」


「はい」


「測定器も市の備品です」


「はい」


「担当者が現地で測っています」


「そこは疑ってません」


「では何を?」


 私は測定表を指しました。


「この八十七って数字が本物でも、それが野村さんの店の音じゃなかったら意味が違います」


 部屋が静かになりました。


「野村さん本人は、その日はカラオケを使っていないと言っています」


「本人の主張でしょう」


「そうです」


「処分を受けた本人が、自分に有利なことを言うのは当然です」


 冷たい。


 でも。


 間違ってはいません。


 だからこそ。


「じゃあ、本人以外に聞けばいいですよね」


 沢渡課長が少し目を細めました。


「誰に?」


「その場にいた人です」


「……なるほど」


 その瞬間。


 私の頭の奥で、


 昨夜まで眠かった行政不服審査法の単語が、


 突然起きました。


 参考人。


 事実を知っている人。


 その人から話を聞く。


 そして。


 もう一つ。


 鑑定。


 専門知識のある人に、


 資料や測定結果を見てもらう。


 あ。


 これ。


 使える。


「もし不服申立てになったら」


 私は言いました。


「当日の客に話を聞いてもらうよう申し立てます」


 沢渡課長は答えません。


「それから、この測定結果」


 私は紙を持ち上げました。


「専門家にも見てもらいたいです」


「専門家?」


「騒音測定に詳しい人です。測定場所や条件から、この数字だけで店のカラオケ音と判断できるのか」


 言いながら、


 頭の中では現代法が猛ダッシュしてきます。


 行政不服審査法三十四条。


 審理員は、


 審査請求人若しくは参加人の申立てにより又は職権で――


 そこで急ブレーキ。


 違う。


 今は昭和六十三年。


 審理員なんていない。


「……危な」


「何がだ」


 相馬先輩が言います。


「いえ、未来から余計な人を呼ぶところでした」


「もう黙ってろ」


「はい」


 でも。


 制度の形は違っても、


 不服申立ての審理で、


 当事者が出した紙だけを眺めて終わる必要はない。


 必要なら、


 事情を知る人から事実を聞く。


 専門家の知識を借りる。


 役所の報告書に、


 役所の報告書だけをぶつける必要はないのです。


 片桐所長が私を見ました。


「こはる」


「はい」


「誰を呼ぶ」


「九月十五日に店にいた人です」


「それだけか」


 考える。


 店内にいた人。


 近所。


 駅前。


「……タクシー乗り場の人」


「なぜだ」


「店の外の音を聞いてるから」


「そうだ」


 もう一つ。


「工事関係者」


 私は言いました。


 沢渡課長の視線が動きます。


「その夜、駅前工事があったなら」


 私は続けました。


「作業していた人が知ってます」


「まだ工事があったと決まったわけではありません」


「だから聞くんです」


 自分でも、


 ちょっと気持ちよかった。


 推測で決めない。


 市が悪いとも決めない。


 野村さんが正しいとも決めない。


 知っている人に聞く。


 分からない技術は、


 分かる人に見てもらう。


 行政法。


 急に探偵ものみたいです。


「不服申立てをするつもりですか」


 沢渡課長が聞きました。


 片桐所長が答えました。


「必要なら」


「取消処分自体は既に出ています」


「だからだ」


「騒音記録もあります」


「だから、それが何を示す記録なのか調べる」


 所長の声は静かでした。


「数字は証拠だ」


 一拍。


「結論じゃない」


 沢渡課長は何も言いませんでした。


 翌日。


 事務所へ三人が来ました。


 一人目。


 川瀬千代さん。


「また役所とやってるの?」


「やってるって言い方やめてください」


「元気ねえ」


「望んでません!」


 川瀬さんは、


 九月十五日の夜、


 野村食堂で焼きそばを食べていました。


「カラオケ?」


「歌ってないわよ」


「絶対です?」


「私が歌いたかったもの」


「説得力がすごい」


「でも野村さんが『今日はやめとく』って」


「なぜ?」


「外がうるさかったから」


 私は止まりました。


「外?」


「ええ」


「どんな音です?」


「ガガガガって」


 川瀬さんが両手を震わせます。


 すごい再現です。


 机まで振動しそう。


「道路工事?」


「駅前の舗装を剥がしてたんじゃないかしら」


 二人目。


 タクシー運転手の西村さん。


「その夜は覚えてるよ」


「なぜです?」


「客待ちできなかったから」


「え?」


「工事車両が入ってきてさ。乗り場を十メートルずらされた」


「何時ごろ?」


「七時過ぎから九時くらい」


「野村食堂のカラオケは?」


「聞いてない」


「店の前はうるさかった?」


「工事でな」


 三人目。


 駅前工事を請け負っていた建設会社の現場主任。


 これは相馬先輩が見つけてきました。


「九月十五日ですか」


「はい」


「やってますね」


「何を?」


「路面の掘削」


「時間は?」


「午後七時半から九時半」


 私は測定表を見ました。


 七時四十分。


 ど真ん中です。


「機械は?」


「エアブレーカーと小型の掘削機」


「音、大きいですよね」


「まあ」


 現場主任が苦笑しました。


「静かではないです」


 静かではない。


 それはそうでしょう。


 アスファルトを剥がす機械が小鳥みたいにさえずっていたら、そっちのほうが怖い。


 相馬先輩が腕を組みました。


「これで決まりか」


「まだです」


 私は言いました。


「何だよ」


「工事がうるさかったことと、市の八十七デシベルが工事音だったことは同じじゃないです」


 言った自分で、


 ちょっと驚きました。


 以前の私なら。


 ほら市役所が間違ってた!


 と飛びついていたかもしれない。


 でも。


 今日のテーマは、


 事実を確かめることです。


「所長」


「何だ」


「専門家に見てもらえませんか」


 片桐所長は頷きました。


 二日後。


 県内の工業試験場で騒音測定に詳しかった技術者が、


 測定表の写しと、


 市が開示した測定条件を見てくれました。


 結果は。


「これだけでは、音源は特定できません」


「やっぱり」


「測定値自体が間違っているとは言えませんよ」


 技術者は念を押しました。


「はい」


「ただ、この測定地点」


 図面を指します。


「野村食堂から約九メートル」


「はい」


「工事箇所からは?」


「十二メートルくらいです」


「近いですね」


「ですよね」


「しかも同じ時間帯に掘削作業があった」


 技術者は測定表を指しました。


「音源別の測定もしていない。工事停止時との比較もない。店舗の音響機器を停止させた状態との比較もない」


「つまり?」


「八十七デシベルを測った。それは記録できます」


「はい」


「でも、その八十七デシベルが野村食堂のカラオケによるものだった、とこの資料だけから判断するのは難しいでしょう」


 私は、


 ゆっくり息を吐きました。


 これだ。


 数字が間違っていたわけじゃない。


 測定器が壊れていたわけでもない。


 職員が嘘を書いたわけでもない。


 ただ。


 数字から結論までの間に、


 一本、


 橋が足りなかった。


     ◇


 不服申立書を作りました。


 感情は削る。


 駅前再整備反対。


 市は追い出したいだけだ。


 野村さんは三十年頑張ってきた。


 そういう言葉は、


 全部いったん横へ置きました。


 書いたのは事実です。


 取消処分の主要な根拠として九月十五日の騒音測定結果が用いられていること。


 しかし同日時、


 測定地点付近では駅前整備工事による掘削作業が行われていたこと。


 当日店内にいた者は、


 カラオケを使用していなかったと述べていること。


 駅前タクシー乗り場にいた者も、


 工事騒音を認識していること。


 工事現場主任が、


 同時間帯の掘削作業を確認していること。


 さらに。


 騒音測定の専門知識を有する者から、


 現在の測定資料だけでは音源を野村食堂に特定することは困難との見解を得ていること。


 そして。


 申立てました。


 審理に当たり、


 当日の状況を知る者から事情を聴いてほしい。


 必要なら、


 騒音測定について専門家の判断も求めてほしい。


「ここまでやるんですか」


 野村さんが聞きました。


「ここまでやります」


「俺が『歌ってない』って言うだけじゃ駄目ですか」


「野村さん」


「はい」


「私が役所だったら、たぶんそれだけじゃ処分を戻しません」


「ですよねえ」


「だから」


 私は申立書を指しました。


「知ってる人に聞いてもらいます」


「川瀬さんにも?」


「はい」


「西村にも?」


「はい」


「工事の人にも?」


「はい」


「専門家まで?」


「必要なら」


 野村さんが頭を掻きました。


「何か、大げさですね」


 片桐所長が言いました。


「逆だ」


「え?」


「店を閉めさせるほうが大きい」


 野村さんは黙りました。


「その処分をするなら、それだけの事実を確かめる」


 所長は申立書を閉じました。


「当たり前の話だ」


 市役所へ提出した三日後。


 沢渡課長から電話が来ました。


『朝比奈さん』


「はい」


『野村さんの件です』


「どうなりました?」


『まず、処分の執行時期を留保します』


 私は椅子から半分立ちました。


「店、閉めなくていいんですか」


『現段階では』


「取消し自体を撤回するんですか」


『まだです』


 釘が早い。


『ただ、測定時の状況について、こちらにも確認不足がありました』


「工事ですか」


『ええ』


 沢渡課長が淡々と続けます。


『担当課の測定記録には、駅前工事についての記載がありませんでした』


「……そうですか」


『また、当日現場へ行った職員に確認したところ』


 一拍。


『カラオケの楽曲そのものを聞いた記憶はないそうです』


「え?」


『店舗方向から音があるように感じた、と』


「感じた」


『はい』


「それで八十七デシベルを全部お店の音として?」


『そこを再確認しています』


 私は思わず受話器を握り直しました。


「課長」


『何でしょう』


「参考人の話、聞いてくれるんですか」


『必要があると判断しました』


「鑑定は?」


『専門的な確認も行います』


「……本当に?」


『朝比奈さん』


「はい」


『私は、処分を守るために仕事をしているわけではありません』


 珍しく。


 少しだけ声が硬かった。


『処分が正しければ維持します』


「はい」


『事実認定が崩れれば、見直します』


 この人。


 本当に。


 感情では一ミリも動かない。


 でも。


 証拠を一ミリ動かすと、


 ちゃんと結論も動かす。


「なるほど」


『何ですか』


「課長らしいなと思って」


『褒めていますか』


「半分くらい」


『残り半分は不要です』


 電話が切れました。


 相馬先輩が聞きます。


「何だって」


「店、ひとまず閉めなくていいそうです」


「取消しは?」


「まだ結論出てません」


「じゃあ勝ってねえな」


「はい」


 私は頷きました。


「でも」


 机の上の申立書を見る。


「役所の測定結果だけで終わらなくなりました」


「それでいい」


 片桐所長が言いました。


     ◇


 一週間後。


 市から連絡がありました。


 騒音測定について再調査。


 九月十五日の測定値は、


 野村食堂のカラオケ音だけによるものと認定するには不十分。


 過去の注意歴はあるものの、


 今回の使用許可取消しを維持するだけの事実確認としては不足している。


 取消処分は、


 いったん撤回。


 代わりに、


 夜間営業時の音量管理について条件を付け、


 使用許可を継続する。


「戻ったんですか」


 野村さんが聞きました。


「戻りました」


「店、続けていい?」


「はい」


「カラオケは?」


「音、小さくしてください」


「そこは駄目かあ」


「そこは駄目です」


 私は笑いました。


「今回の話は、『野村さんは絶対静かだった』って認定されたわけじゃありませんから」


「厳しいねえ」


「過去に注意も受けてますからね」


「先生より厳しいな」


「私、見習いです」


 野村さんはしばらく通知書を眺めていました。


 それから。


「でも」


「はい」


「良かった」


 ぽつりと言いました。


「俺、市役所の紙に八十七って書いてあったから」


「はい」


「もう何言っても駄目なんだと思ってた」


 分かります。


 数字。


 測定。


 公文書。


 市役所。


 全部並ぶと、


 素人には巨大な壁に見える。


「数字そのものを否定しなくてもいいんです」


 私は言いました。


「え?」


「八十七デシベルだったこと自体は、本当だったのかもしれません」


「じゃあ」


「でも」


 私は通知書を指しました。


「誰の音だったかは、別です」


 野村さんが目を丸くしました。


「ああ……」


「そこを分けただけです」


 数字がある。


 だから処分は正しい。


 ではない。


 誰が、


 いつ、


 どこで、


 何を見たのか。


 専門的に見て、


 その資料から本当にそこまで言えるのか。


 一つずつ確かめる。


 それだけです。


 法律って、


 たまにものすごく地味です。


 でも。


 地味だから強い。


 翌日の昼。


 野村さんが巨大なアルミ皿を持ってきました。


「何ですか、これ」


「焼きそば」


「多っ!」


「五人前」


「この事務所三人ですよ!」


「相馬さんが三人前食うって聞いた」


「誰からです?」


「川瀬さん」


 情報網が怖い。


 相馬先輩が新聞の向こうから言いました。


「足りねえな」


「食べる気満々ですか!」


「差し入れだろ」


「昨日の野村さんの危機より真剣な顔しないでください」


 片桐所長が皿を覗きました。


「紅しょうがは」


「そこですか、所長」


「必要だ」


「所長まで!」


 野村さんが笑いました。


「ちゃんとありますよ」


 赤い紅しょうが。


 青のり。


 鰹節。


 ソースの匂いが、


 行政書士事務所として許容できる限界を一瞬で超えました。


「これ、午後の来客大丈夫ですか」


「窓開けろ」


 相馬先輩が言います。


「先輩が三人前食べなければ被害は三分の一です」


「因果関係を証明しろ」


「目の前に証拠があります!」


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課の沢渡です』


「課長」


『野村さんの件ですが』


「はい」


『測定手順を見直すことになりました』


「え?」


『今後、周囲に工事その他の騒音源がある場合、その状況も記録します』


「……そうですか」


『それと』


「はい」


『今回のように処分の重要な根拠とする場合は、一回の測定だけでなく、必要に応じて再測定するよう内部で申し合わせました』


 私は少し黙りました。


「野村さん一人の件で?」


『一人の件だから見直さない、という理由はありません』


「課長」


『何でしょう』


「それ、ちょっと格好いいですよ」


『評価は不要です』


「はい」


『それから』


「まだあります?」


『参考人の話を聞く手続についても、担当者に周知します』


「へえ」


『職員が作った資料だけで判断すると、見落とすことがありますので』


「……課長が言うと重いですね」


『合理的なだけです』


「知ってます」


 電話を置きました。


「何だって」


 相馬先輩が焼きそばを取り分けながら聞きます。


「市役所、騒音測定のやり方を見直すそうです」


「へえ」


「周りの音も記録するって」


「当たり前じゃねえか」


「その当たり前が抜けてたんですよ」


 私は割り箸を持ちました。


 今日の教訓。


 役所の紙だから正しい。


 相談者の話だから正しい。


 どちらでもない。


 事実を知っている人がいるなら、


 聞く。


 専門知識が必要なら、


 専門家に見てもらう。


 冷たい条文は、


 誰かの肩を持ってくれるわけではありません。


 でも。


 肩を持たないからこそ、


 役所が作った一枚の紙にも、


 住民が叫んだ一言にも、


 同じように、


 「本当に?」


 と聞くことができる。


 それが時々。


 閉まりかけた店のシャッターを、


 もう一度上げる力になります。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「焼きそば」


「取ります?」


「違う」


「何です?」


「相馬が食った」


 見る。


 大皿。


 ほぼ空。


「先輩!」


「何だ」


「私まだ二口なんですけど!」


「証拠は?」


「口の中です!」


「客観性がねえな」


「川瀬さん呼びますよ!」


「何でだよ」


「参考人です!」


 相馬先輩が笑いました。


「じゃあ鑑定も頼め」


「何を鑑定するんですか!」


「俺が何人前食ったか」


「胃袋をですか!?」


 片桐所長が、空になりかけた皿を見ました。


「三人前以上だ」


「所長!?」


「鑑定結果だ」


「早い!」


 どうやら。


 事実を知る人の話と、


 専門家の判断が大切なのは、


 行政不服審査だけではないようです。


 もっとも。


 相馬先輩の胃袋については。


 専門家を呼ぶまでもなく、


 現物だけで十分だった気がします。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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