[行政不服審査法33条・物件の提出要求]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、ときどき仕事とまったく関係のない物件が残されます。
今日の場合。
自転車のベル。
机の端に、ひとつ。
ちりん。
「こはる」
「はい」
「鳴らすな」
「まだ一回です」
「回数の問題じゃない」
片桐所長は帳簿から顔も上げません。
私は渋々、ベルから手を離しました。
森下さんが置いていった古い自転車用のベル。
銀色。
少し傷がある。
でも音はきれいです。
昨日までなら、
ただのベル。
だったはずなのですが。
今日の私には、これを見るたびに、
――物件。
という、あまり情緒のない法律用語が浮かびます。
「……行政法ってすごいですよね」
「何がだ」
向かいで新聞を読んでいた相馬先輩が顔を上げました。
「自転車のベルまで教材に見えてきます」
「病気だな」
「受験勉強の成果です」
「悪化してるだけだろ」
ひどい。
私はノートを開きました。
上には大きく。
――行政不服審査法第三十三条 物件の提出要求。
と書きます。
ただし。
ここで最初に問題があります。
「先輩」
「何だ」
「この条文、昭和六十三年には使えません」
「じゃあ閉じろ」
「早い!」
「使えねえ法律を勉強してどうする」
「未来では使うんです!」
「未来に帰ってからやれ」
「帰れないから今やってるんでしょう!」
我ながら、行政法以前に人生設計がかなり破綻しています。
片桐所長が言いました。
「新法の話か」
「はい」
私は頷きます。
今、私の頭にある第三十三条は、平成二十六年の全面改正後の行政不服審査法。
現代の制度です。
そこには。
審理員。
という人が登場します。
でも。
昭和六十三年の今。
そんな制度はありません。
「だから今日の森下さんの件は」
私はノートへ線を引きながら言いました。
「現代法そのものを使った事件じゃないです」
「当たり前だ」
「でも」
私は顔を上げました。
「第三十三条が、何のためにあるのかは、森下さんの件でめちゃくちゃ分かりました」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「なら言ってみろ」
「はい」
私はノートに書きます。
物件の提出要求。
まず。
現代法では、
審理員は、
審査請求人または参加人の申立てにより、
または職権で、
書類その他の物件の所持人に対し、
相当の期間を定めて、
その物件の提出を求めることができる。
さらに。
提出された物件を留め置くこともできる。
「ここです」
私は四つ丸をつけました。
一。
申立てでもできる。
二。
職権でもできる。
三。
相当の期間を定める。
四。
提出された物件を留め置ける。
「試験で聞かれそうだな」
相馬先輩が言います。
「むしろ聞かれてほしいです」
「何でだ」
「今なら覚えてますから」
受験生というのは勝手です。
分からない論点は出るなと思い、
分かった論点は出ろと思う。
試験委員から見たら、かなり都合のいい生き物です。
「まず」
私は書きました。
――誰が提出を求めるのか。
「審査請求人?」
相馬先輩がわざとらしく言います。
「違います」
「参加人?」
「違います」
「じゃあ申立人本人が役所に『出せ』って命令するのか」
「それも違います」
私は大きく、
審理員。
と書きました。
「提出を求める主体は審理員です」
「でも申立てによって、って書いてあるんだろ」
「はい。そこが引っかけやすいところです」
審査請求人や参加人は、
『この物件を提出させてください』
と申立てることができる。
でも。
実際に所持人へ提出を求めるのは、
審理員。
「つまり」
相馬先輩が言いました。
「森下さんが青いファイルを直接没収するわけじゃねえ」
「当たり前です」
「お前ならやりそうだ」
「やりません!」
たぶん。
いや。
絶対。
「昨日の事件に当てはめるなら」
私は言いました。
「森下さん側が、仮設店舗配置図とか、申請者ごとの検討表が必要だと申し立てるイメージです」
「うん」
「現代法なら、それを受けて審理員が必要と判断すれば、その資料を持っている人に提出を求める」
「誰が持っててもか」
「条文上は『物件の所持人』です」
ここも大事。
処分庁だけ、
とは書かれていない。
書類その他の物件を持っている者。
「たとえば?」
相馬先輩が聞きます。
「処分庁の担当課」
「普通だな」
「別の行政機関」
「ありそうだな」
「場合によっては民間人や事業者が持っている資料」
「なるほど」
私は頷きました。
たとえば。
営業許可の処分で、
行政が検査を外部機関へ委託していた。
その検査記録を受託事業者が持っている。
そういう場合。
争いに必要な資料が処分庁以外にあることもあり得る。
「条文が『処分庁』じゃなくて『所持人』なのは、そこなんですね」
「持ってる奴に出せと言う」
「雑に言うとそうです」
「お前の説明も雑になってきたな」
法律は、まず雑に掴んでから精密にする。
たぶん。
きっと。
そう信じたい。
次。
私は赤ペンで、
申立て。
職権。
と二つ並べました。
「ここも重要です」
「申立てがなくてもいい?」
「はい」
審査請求人や参加人から申立てがなくても。
審理員自身が必要だと思えば、
職権で物件の提出を求めることができる。
「じゃあ」
相馬先輩が言います。
「申立人は何もしなくていいのか」
「それは違います」
「また違うのか」
「審理員が全部察してくれるとは限りませんから」
ここ。
実務的にはかなり大きい気がします。
自分が何を争っているのか。
どんな資料が必要なのか。
申立人側が具体的に指摘できるなら、
したほうがいい。
森下さんの事件でもそうでした。
ただ、
『市役所に何か資料があるはずです』
では弱い。
何を確かめたいのか。
どんな資料がありそうなのか。
その資料で何が分かるのか。
そこを絞った。
「仮設店舗配置図」
「うん」
「選定基準」
「うん」
「申請者ごとの検討表」
「うん」
「森下さんを不許可とした理由が分かる資料」
「うん」
「そこまで特定したから、青いファイルに辿り着けた」
「そういうことだな」
私はノートに書きました。
――申立ては「何でもいいから出せ」ではなく、必要性と対象を具体化する。
「条文にそこまで書いてあるのか?」
「そこまでは書いてません」
「じゃあ勝手に足すな」
「実務的な覚え書きです!」
相馬先輩が鼻で笑いました。
でも。
これ、かなり大事です。
法理編だからこそ。
条文そのものと、
現場でどう使うか。
分けておきたい。
条文上。
審査請求人や参加人の申立てがあれば、
審理員は物件提出要求をすることができる。
できる。
です。
しなければならない。
ではない。
「そこ」
片桐所長が言いました。
「何です?」
「申立てがあれば必ず提出を求めるのか」
「……いいえ」
私は書いた文字を見直しました。
「『求めることができる』です」
「義務ではない」
「はい」
そう。
審査請求人が、
あれを出せ。
これを出せ。
と言えば全部自動的に提出要求される。
そんな制度ではない。
審理員が審理に必要かを判断する。
「試験だと」
私は言いました。
「『審査請求人から申立てがあった場合、審理員は必ず物件の提出を求めなければならない』」
「×だな」
「×です」
「『申立てがない場合は、物件の提出を求めることができない』」
「それも×」
「職権があるから」
「はい」
私は二重丸。
申立てでも。
職権でも。
ここは絶対に落としたくありません。
次。
相当の期間。
「これも条文にわざわざ入っています」
私は書きました。
――相当の期間を定めて。
「一週間とか?」
「場合によります」
「十日?」
「場合によります」
「三日?」
「だから場合によります!」
「便利な法律用語だな」
「本当に」
相当。
合理的。
正当。
必要。
行政法は、ときどき日本語の顔をした答案泣かせを放ってきます。
「ここで大事なのは」
私は言いました。
「提出要求するときに、期間を定めるということです」
「いつまででもいい、じゃない」
「はい」
提出対象が、
机の上にある一枚の書類なのか。
倉庫から探す必要がある大量資料なのか。
写しを取る必要があるのか。
いろいろ事情が違う。
だから、
相当の期間。
という柔らかい言葉になる。
「森下さんの青いファイルなら?」
「担当課にありましたから、そんなに長くは要らなさそうですね」
「逆に三十年前の保管資料だったら?」
「少し時間が必要かもしれません」
要するに。
提出を求める側の都合だけで、
明日まで。
今日中。
一時間以内。
と無茶を言うものではない。
「行政法、意外と社会人」
「何だそれ」
「締切には合理性が必要」
「普通だ」
普通を条文でちゃんと作る。
法律の仕事って、たぶんそういうところがあります。
次。
私は少し大きく書きました。
――留め置くことができる。
「昨日、お前これをベルでやろうとしてたな」
「反省してます」
「してない顔だ」
「してます」
条文では。
審理員は、
提出された物件を留め置くことができる。
「提出を受けたら、必ず返さずにずっと保管する?」
「違います」
「また『できる』か」
「はい」
留め置くこともできる。
必要がなければ返すこともあり得る。
審理に必要な間、手元に置いて確認する。
そんなイメージです。
「何で留め置く必要があるんだ?」
相馬先輩が聞きました。
「その場で一回見るだけじゃ足りない場合があるからじゃないですか」
「たとえば」
「帳簿を照合するとか」
「うん」
「写真や図面とほかの資料を突き合わせるとか」
「うん」
「審理の中で継続的に確認するとか」
「そういうことだな」
私は昨日見た青いファイルを思い出しました。
仮設店舗配置図。
検討表。
申請書。
一枚だけ見ても分からない。
並べることで。
三号区画では駄目。
他区画も可。
六号区画は空いている。
他区画検討なし。
という流れが見えた。
証拠って。
一枚で光るというより。
並べて初めて形になることがあります。
「だから留め置ける」
私は呟きました。
「何だ」
「いえ。昨日の青いファイル、机の上で申請書と並べたから分かったじゃないですか」
「ああ」
「資料って、単体じゃなくて比較すると意味が出る」
「うん」
「そのためにも、審理の間、手元に置いて確認できる必要があるんですね」
片桐所長が、
「そう考えればいい」
と言いました。
よし。
また一個。
眠い単語が起きました。
留置。
昨日までは、
提出されたら持っておける。
くらい。
今は違う。
審理の材料として、
ほかの資料と照らし合わせるために、
手元へ残しておく。
急に意味が見えます。
「で」
相馬先輩が言いました。
「現代法の審理員って何者だ」
「そこ、やります?」
「お前が昨日から審理員審理員うるせえからな」
「では」
私はノートのページを変えました。
――旧法と現代法。
「まず昭和六十三年」
「今だな」
「今です」
旧行政不服審査法では、
異議申立てと審査請求が基本的な二本立て。
処分庁に上級行政庁があるかどうかなどで、
どちらを使うかが分かれる。
森下さんの場合。
市長の処分。
上級行政庁なし。
だから。
処分庁に対する異議申立て。
「処分した側が見直す」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「昨日の担当課が資料持ってる」
「はい」
「同じ市の中で調べる」
「はい」
「それで公平か、って話だろ」
その通りです。
「もちろん」
私は言いました。
「旧法でも、不服申立制度としてちゃんと審理します」
「でも」
「でも、構造的には」
処分した行政庁に、
その処分を見直してください。
と申し立てる。
特に異議申立ては、
その性格がかなり強い。
だから。
申立人から見れば。
本当に必要な資料を調べてくれるのか。
自分たちに不利な資料まで見るのか。
そういう不安が出ます。
「森下さんも言ってました」
私は思い出しました。
――市役所が、自分に都合の悪いものを本当に調べますかね。
「言ってたな」
「それが、まさに旧制度の弱いところのひとつなんですよね」
現代法では。
原則として不服申立てを審査請求に一本化。
そして。
審理員制度が導入された。
「審理員ってのは」
相馬先輩が言います。
「処分した担当本人じゃない?」
「はい」
原処分に関与していない職員が審理員となり、
審理手続を担当する。
「つまり」
相馬先輩が腕を組みました。
「昨日の担当係長が、自分の不許可処分をそのまま審理する形じゃない」
「そうです」
「未来は疑り深いな」
「公正さを上げたんです」
行政が行政を見直す。
その枠組み自体は変わらない。
でも。
その中で、
原処分をした側と、
審理を進める人。
そこを切り分けた。
「だから第三十三条の主語も」
私は言いました。
「処分庁じゃなくて審理員なんですね」
昨日の森下さんの事件。
もし現代法の世界なら。
森下さん側が、
仮設店舗配置図。
選定基準。
検討表。
そういう物件の提出を求めるよう審理員へ申し立てる。
または。
申立てがなくても審理員が、
これは必要だ。
と考えれば職権で提出を求める。
「こっちが申し立てなくても動ける」
「はい」
「でも動く奴が、処分した本人じゃない」
「そこが大きいです」
もちろん。
審理員も行政機関の職員です。
裁判官ではない。
完全に行政から独立した外部第三者でもない。
でも。
少なくとも、
自分が作った処分を自分で守る。
という構造から距離を取る。
「さらに現代法では」
私は言いました。
「行政不服審査会等への諮問という仕組みもあります」
「また未来の機関か」
「はい」
「増えるなあ」
「制度は公正さを高めると増えがちです」
「受験生は泣くな」
「泣きます」
でも。
今日のテーマは第三十三条。
深追いしすぎません。
私は矢印を書きました。
旧法。
処分庁自身が関わる審理構造。
異議申立てという仕組み。
現代法。
審査請求へ原則一本化。
審理員による審理。
必要資料について提出要求。
「こうやって並べると」
私は言いました。
「第三十三条だけ単独で生まれたわけじゃないって分かります」
「どういう意味だ」
「公正な審理をしようと思ったら」
私は青いファイルを思い出しながら答えました。
「処分に関与してない人が審理するだけじゃ足りません」
「ほう」
「その人が、必要な資料をちゃんと審理の場へ出せないと意味がない」
相馬先輩が少し黙ります。
「なるほどな」
「ですよね」
第三者的立場の人を置きました。
でも。
資料は全部処分庁の机の中です。
出すかどうかは処分庁任せです。
では。
公正な審理はできない。
だから。
審理員自身に、
物件提出を求める権限がある。
申立てでも。
職権でも。
そこまでセット。
「制度って」
私は言いました。
「一個だけ切り取ると暗記になるけど、つながると理由が見えますね」
「今さらか」
「今だからです!」
受験生時代。
審理員。
物件提出要求。
提出資料の閲覧。
口頭意見陳述。
全部、別々の条文カード。
覚える項目。
そう見えていました。
でも実際は。
申立人と処分庁の情報格差を縮める。
審理を公正にする。
そのための道具なんだ。
「ところで」
相馬先輩が言いました。
「物件って何だ」
「書類その他の物件です」
「書類だけか」
「いいえ」
私はノートに、
書類「その他」の物件。
と書きました。
「ここも注意です」
資料と言うと紙だけを想像しやすい。
でも条文は、
書類その他の物件。
「たとえば?」
「写真」
「うん」
「図面」
「うん」
「帳簿」
「うん」
「録音物とか、物そのものが争点に関係する場合も考えられます」
「じゃあ」
相馬先輩がポケットへ手を入れました。
ちりん。
「これも?」
「ベル!」
「物件か?」
「場合によっては!」
私は身を乗り出しました。
「例えばですよ。そのベルの音量が行政処分の判断に関係していたら、物件になる可能性はあるでしょうね」
「そんな処分あるか?」
「騒音関係とかなら……」
「自転車ベルで?」
「例えが悪いです!」
「お前が始めたんだろ」
でも。
試験では。
物件=書類だけ。
と限定しない。
ここは注意です。
さらに。
提出要求できるのは、
審査請求人が持っているものだけ。
でもない。
参加人が持っているものだけ。
でもない。
所持人。
です。
「ここ、問題にしやすそう」
私は言いました。
「『審理員は、処分庁が所持する書類に限り提出を求めることができる』」
「×」
「はい」
「『審査請求人の申立てがある場合に限り』」
「×」
「『申立てがなくても職権でできる』」
「○」
「『提出された物件は必ず留め置かなければならない』」
「×」
「できる、だから」
「はい」
相馬先輩。
こういうときだけ優秀です。
「何だその顔」
「いえ。試験受けたら意外と受かりそうだなって」
「受けねえよ」
「行政書士」
「嫌だ」
「即答」
「お前見てると勉強量が分かる」
「反面教師にしないでください」
◇
私は次の見出しを書きました。
――物件提出要求と、申立人自身の証拠提出は別。
「ここも混ぜたくないです」
「何が」
「自分で証拠を出すことと、第三十三条の物件提出要求」
審査請求人は。
自分の持っている証拠資料を提出することができる。
それとは別に。
自分が持っていない。
他人が持っている。
でも審理に必要。
そんな物件について。
審理員に提出要求をしてもらう。
「森下さんで言えば」
私は整理します。
森下さん自身が持っていたもの。
不許可通知。
申請書の控え。
市とのやり取りのメモ。
これは自分で出せる。
一方。
市役所が持っていたもの。
仮設店舗配置図。
申請者ごとの検討表。
内部の配置検討資料。
これは森下さん自身には出せない。
「だから提出要求」
「なるほど」
「この区別、大事です」
申立てによっても提出できる。
という教材の注意書き。
最初に見たとき。
私は一瞬、
審査請求人自身が第三十三条で書類を提出する。
みたいに読んでしまいそうでした。
でも正確には。
申立てによって、
審理員が、
所持人に、
提出を求める。
「主語を飛ばすな」
片桐所長が言いました。
「はい」
「行政法は主語で間違える」
「……本当にそうですね」
誰が。
誰に。
何を。
できる。
行政法は、
ここを一個ずらすだけで全部×になります。
審査請求人が。
所持人に直接。
命令する。
違う。
審査庁が。
必ず。
提出を命じる。
違う。
審理員が。
申立てまたは職権で。
所持人に。
相当の期間を定めて。
提出を求めることができる。
これです。
「所長」
「何だ」
「行政法って、文法問題ですね」
「法律はだいたいそうだ」
「もっと早く教えてくださいよ」
「聞かれてない」
冷たい。
でも正しい。
私はノートに森下さんの事件を図にしました。
森下さん。
↓
仮設店舗申請。
↓
不許可。
理由。
「配置計画上、適当でない」
↓
森下さん側が持つ資料だけでは、
具体的な判断過程が不明。
↓
市内部の資料を確認。
↓
三号区画では支障あり。
しかし。
他区画可との申請。
六号区画に余地。
他区画を検討した記録なし。
↓
判断過程の不足が見える。
「これです」
私は言いました。
「昨日、資料が出てこなかったら」
「森下さんは『不公平だ』で終わってたかもしれんな」
「はい」
「市は『配置計画上の判断だ』」
「はい」
「平行線」
「そうです」
物件の提出要求。
ただの証拠収集手続。
と言えばそれまでです。
でも。
その証拠が出ることで。
争点そのものが変わる。
昨日はまさにそうでした。
最初。
論点は。
森下さんだけ入れないのは不公平では。
でした。
でも資料が出てきたら。
三号区画についての支障は検討した。
しかし他区画の検討がない。
申請内容を十分に考慮したのか。
という具体的な話になった。
「曖昧な不満が」
私は呟きました。
「審理できる論点に変わった」
所長が言います。
「資料は事実を増やす」
「はい」
「事実が増えれば、論点が絞れる」
「はい」
「だから取る」
短い。
でも。
全部入っています。
行政事件で、
資料を取る。
という作業は。
何か隠し事を暴いてやる。
という話だけじゃない。
何が起きたのか。
行政が何を考えたのか。
何を考えなかったのか。
それを事実として並べる。
感情を論点へ変える。
そのための作業です。
「条文って冷たいですね」
私は言いました。
「またそれか」
相馬先輩が言います。
「だって第三十三条」
審理員。
物件。
所持人。
相当の期間。
留め置く。
人情はゼロ。
涙もゼロ。
生活もゼロ。
「でも」
私は続けました。
「森下さんが一年半店を休まなくて済むかもしれないきっかけって、この冷たい話なんですよ」
資料を出す。
見る。
比べる。
足りない検討を見つける。
それだけ。
でも。
行政は。
誰かが困っているから。
だけでは簡単に処分を変えられない。
逆に。
検討が一段抜けている。
考慮すべき事情を見ていない。
そんな事実が出れば。
動ける。
「沢渡課長も」
私は思い出しました。
青いファイルを閉じて。
――これは再検討しましょう。
と言った。
感情では動かなかった。
でも資料で動いた。
「制度の冷たさが、助けたんですね」
「そういうこともある」
片桐所長が言いました。
「じゃあ試験用にまとめろ」
相馬先輩が言いました。
「急に先生みたいですね」
「さっきから付き合ってんだから終わらせろ」
「はい」
私はノートに箱を書きました。
行政不服審査法第三十三条。
物件の提出要求。
一。
主体。
審理員。
二。
きっかけ。
審査請求人または参加人の申立て。
または。
職権。
三。
相手。
書類その他の物件の所持人。
四。
方法。
相当の期間を定めて提出を求める。
五。
提出後。
審理員は提出された物件を留め置くことができる。
「注意点」
私は別枠を作りました。
申立てがあれば必ず提出要求する。
――×。
職権ではできない。
――×。
処分庁が持つ書類だけが対象。
――×。
提出された物件は必ず留め置く。
――×。
「『できる』が多いな」
相馬先輩が言います。
「裁量的な手続ですね」
「申立人が命令できるわけじゃない」
「はい」
「審理員が必要性を判断する」
「はい」
「ただし申立人側からも動ける」
「そこが重要です」
私は赤で囲みました。
――申立てでも動かせる。
これ。
受験生としては、
職権だけ。
と勘違いしそうなところです。
審理員が調べる制度だから。
全部審理員任せ。
ではない。
審査請求人や参加人も。
必要な物件について、
提出要求を求めるきっかけを作れる。
「受け身じゃないんですね」
「何が」
「不服申立ての審理」
処分がおかしい。
と言って紙を出す。
あとは行政が調べてくれるのを待つ。
だけじゃない。
必要なら。
この資料を確認してほしい。
これを持っている人に提出を求めてほしい。
そう動ける。
「ただし」
所長が言いました。
「乱発するな」
「はい」
「争点と関係のない資料まで求めれば、審理は散る」
「はい」
「必要性を考えろ」
私は頷きました。
ここも。
森下さんの件で分かります。
市役所の駅前整備資料を全部。
ではない。
過去十年分の会議録を全部。
でもない。
森下さんが仮設店舗へ入れなかった理由。
その判断過程。
比較した事情。
そこに関係するもの。
目的から逆算する。
「資料収集って」
私は言いました。
「多ければ強いわけじゃないんですね」
「当たり前だ」
「受験生時代は証拠が多いほど安心する気がしてました」
「読む奴の身にもなれ」
「はい」
相馬先輩に実務の説教をされました。
私は最後のページを開きました。
――一行の覚え書き。
「来たな」
相馬先輩が言います。
「今回は簡単です」
「言ってみろ」
私は書きました。
――手元にない証拠も、申立てか職権で審理の机へ出せる。
相馬先輩が見ます。
「まあ分かる」
「お」
「ただ」
「ただ?」
「誰が出させるか抜けてる」
「……審理員」
「そこが試験で大事なんだろ」
「はい」
消しゴム。
修正。
私は書き直しました。
――必要な物件は、申立てでも職権でも、審理員が所持人から審理の机へ出させる。
「長い」
「内容を取るか短さを取るかなんですよ!」
「一行だろ」
「一行には収まってます!」
文字数では負けています。
でも私は気に入りました。
森下さんの青いファイル。
あれが机に出てきた瞬間。
事件は変わりました。
感情のぶつかり合いから。
判断過程の検証へ。
役所対住民から。
事実対事実へ。
そして。
不許可。
の一言で止まっていた商売が。
もう一度検討されるところまで進んだ。
行政不服審査法第三十三条は。
誰かを勝たせる条文ではありません。
処分を必ず取り消す条文でもありません。
役所の秘密を全部暴く条文でもない。
ただ。
審理に必要な物件が、
申立人の手元にないとき。
その物件を審理の場へ持ってくる道を作っている。
それだけです。
でも。
情報を持っている側と。
持っていない側。
その差が大きい行政事件では。
それだけが、
ものすごく大きい。
私はノートを閉じました。
そして。
机の端のベルを見る。
ちりん。
「鳴らすな」
「所長」
「何だ」
「このベル、相馬先輩が昨日持って帰ったはずですよね」
「戻した」
相馬先輩が言いました。
「いつ?」
「朝」
「勝手に留め置いてたじゃないですか!」
「一晩借りただけだ」
「所持人!」
「何だ」
「提出してください!」
「もう出してるだろ」
「あ」
机にある。
確かに提出済みです。
「じゃあ」
私はベルを自分のほうへ引き寄せました。
「審理のため留め置きます」
「何の審理だ」
「先輩が無断で持ち帰った件です」
「処分庁は誰だ」
「私です」
「お前が審理員もやるのか」
「……あ」
駄目です。
それでは昨日勉強したばかりの公正さが吹き飛びます。
「所長」
「断る」
「まだ頼んでません!」
「審理員役だろ」
「何で分かったんですか」
「顔」
「うちの事務所、顔で手続進めすぎじゃないですか!」
相馬先輩が笑いました。
「じゃあ第三者がいねえな」
「困りましたね」
「旧法でやれ」
「処分した本人が自分で見直すやつですか?」
「今は昭和だろ」
「制度上はそうですけど!」
私はベルを持ち上げました。
「では異議申立てします」
「誰に」
「私に」
「結論は」
「相馬先輩に返還を命じます」
「お前に有利すぎるだろ!」
「やっぱり公正じゃない!」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「だから制度は変わる」
一瞬。
事務所が静かになりました。
私は所長を見ます。
「……それ、今日いちばん大事な一言じゃないですか」
「そうか」
「旧法の構造を見て、現代法で審理員制度ができて、審理員が必要資料まで集められる」
「うん」
「公正な審理にするために」
「そういうことだ」
やっぱり。
制度改正は。
受験生を苦しめるためにあるわけではありません。
昔の制度で困ったこと。
疑われたこと。
足りなかったこと。
その積み重ねが。
次の条文になる。
私はノートをもう一度開き。
一行の下へ、小さく書き足しました。
――公正な審理には、第三者的な目だけでなく、その目が見るための資料も要る。
「二行になったぞ」
相馬先輩が言いました。
「これは補足です」
「一行の覚え書きだろ」
「欄外です」
「ずるいな」
「法解釈です」
「便利な言葉使うな」
ちりん。
「こはる」
「はい」
「今鳴らしたな」
「証拠あります?」
「目の前で見た」
「物件の提出要求を――」
「ベルを出せ」
「任意ですか?」
「業務命令だ」
「行政処分ですか?」
「没収だ」
「そんな権限ありません!」
結局。
ベルは所長の机の引き出しへ入りました。
「所長」
「何だ」
「それ、留め置きですか」
「静穏確保だ」
「根拠条文は?」
「事務所規則」
「そんな規則ありました?」
「今作った」
「行政立法まで始めた!」
相馬先輩が吹き出しました。
窓の外では。
駅前の仮設店舗予定地に、夕方の光が落ちています。
森下さんの店が、そこへ本当に移れるか。
まだ最終決定ではありません。
でも。
昨日まで、
「配置計画上、適当でない」
その一言で見えなかったものが。
青いファイル一冊によって。
見えるようになった。
見えれば。
比べられる。
比べれば。
問い直せる。
そして。
問い直せれば。
行政は、ときどき戻れます。
物件の提出要求。
名前だけなら。
ひどく地味な条文です。
でも。
見えないまま負けさせない。
そのための条文だと思えば。
私はたぶん、もう忘れません。
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