[行政不服審査法33条・物件の提出要求]現場編 「その資料は内部用ですから」の罠。役所だけが持つ一冊と、見えない判断材料を審理の机へ引きずり出す提出要求
役所が何を見て決めたのか分からないままでは、その処分がおかしいのかどうかさえ、うまく争えません。
理由は書いてある。
担当者も説明した。
決裁も通った。
だから問題ありません。
――そう言われても。
その判断の土台になった紙が、役所の机の引き出しに眠ったままなら。
こっちは、目隠しをされたまま将棋を指しているようなものです。
しかも相手だけ盤面が見えている。
それはもう将棋じゃありません。
だいぶ嫌な何かです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
九月の終わり。
私は朝から、茶封筒の中身を机いっぱいに並べていました。
「先輩」
「何だ」
「足りません」
「金か」
「違います」
「なら何だ」
「紙です」
相馬先輩が煙草をくわえたまま、机を見ました。
通知書。
申請書の控え。
駅前再整備区域の略図。
商店会から配られた説明会資料。
市役所とのやり取りを相談者が手帳へ書き留めたメモ。
紙。
紙。
紙。
行政事件というのは、とにかく紙が増えます。
木を守るために電子化が必要だと未来から強く訴えたいところですが、昭和六十三年の片桐行政書士事務所にはコピー機があるだけでも文明開化です。
「これだけありゃ十分だろ」
相馬先輩が言いました。
「足りないんです」
「だから何が」
「市が何を根拠に、この区画だけ駄目にしたのかが分かりません」
私は一枚の通知書を持ち上げました。
――仮設店舗設置許可申請について、不許可とする。
申請人。
森下和夫。
五十二歳。
駅前で三十年近く、自転車屋を営んできた人です。
森下自転車店。
駅前再整備に伴って、古い店舗は立ち退きの対象になった。
そこまでは森下さんも納得していました。
市から、
再整備工事の間は仮設店舗用地を用意する。
希望者は申請してください。
そう説明されていたからです。
森下さんも申請した。
ところが。
不許可。
理由は、
――仮設店舗配置計画上、適当でないため。
以上。
行政文書というのは、ときどき「説明した気になる才能」だけ異様に高いです。
「適当でないって、何がですかね」
私は言いました。
「場所だろ」
「何が場所的に駄目なんです?」
「知らん」
「面積?」
「知らん」
「業種?」
「知らん」
「防災?」
「知らん」
「搬入車両?」
「知らん」
「客層?」
「知らん」
「ほら」
「俺に勝ち誇るな」
勝負してません。
でも。
この「分からない」が今回の事件の中心でした。
向かいの椅子に座っている森下さんは、大きな手を膝の上で握っています。
自転車の修理をしてきた人の手。
節が太くて、爪の際に油が少し染みています。
「ほかの店は入れるんです」
森下さんが言いました。
「仮設店舗へ?」
「八百屋も、靴屋も、時計屋も」
「自転車屋だけ駄目?」
「そうです」
「市役所から説明は?」
「『配置計画で決まっています』って」
「配置計画を見せてもらいました?」
「頼みました」
「どうでした」
「見せられないって」
私は手を止めました。
「見せられない?」
「内部資料だからって」
「内部資料」
出ました。
役所用語の中でも、なかなか強力な結界です。
内部資料。
検討中。
総合的判断。
関係部署と調整。
この辺りが四天王でしょうか。
「仮設店舗に入れないと、どうなります?」
森下さんは少し黙りました。
「店を休むしかないですね」
「工事はどれくらい?」
「一年半って聞いてます」
一年半。
自転車屋で一年半休業。
それは、
ちょっと休む、
ではありません。
常連客は別の店へ行く。
学校の通学自転車も、配達用の自転車も、パンク修理も。
町の商売は、半年見えなくなるだけでも忘れられる。
一年半なら。
戻ってきたとき、店だけ新しくなって客がいない。
そんなこともあり得ます。
「仮の場所を自分で借りるのは?」
「探しました。でも駅前は家賃が高くて」
「補償は?」
「仮設店舗を用意する前提だから、別に借りるなら話が変わるって言われました」
「……なるほど」
詰んでいます。
いや。
詰ませに来ているわけではないのでしょう。
市としては駅前整備を進めたい。
仮設店舗にも限りがある。
配置も考えなければならない。
消防車の進入。
歩行者動線。
荷物の搬入。
業種ごとの設備。
電気。
水道。
いろいろ事情はある。
行政は、無限に土地を生やせる魔法使いではありません。
でも。
「何が理由か分からないと、反論もできませんよね」
私が言うと、
森下さんは黙って頷きました。
そこです。
困っている。
だけでは法律は動かない。
でも、
何を見て判断したのか分からない。
なら話は違う。
「不服申立て、できますか」
森下さんが聞きました。
「処分が出たのはいつです?」
「八日前です」
まだ間に合う。
私は通知の名義を見る。
市長。
上級行政庁なし。
頭の中で、
審査請求。
三か月。
審理員。
と未来の知識が一斉に立ち上がりました。
その瞬間。
「あ」
声が出ました。
「何だ」
相馬先輩が見る。
「いえ」
「また三か月とか言うなよ」
「言いません!」
「顔が言ってた」
「顔で法令違反を判断しないでください」
危ない。
現在なら原則三か月。
でも昭和六十三年は旧法。
六十日。
しかも今回、市長の処分に上級行政庁はない。
なら基本は処分庁への異議申立て。
未来知識をそのまま出すと、毎回どこかで年代事故を起こします。
私は最近、行政法よりタイムスリップのほうが危険なのではないかと思い始めています。
「こはる」
片桐所長が奥から言いました。
「何が要る」
私は通知書を見る。
森下さんを見る。
そして、机の上の紙を見る。
「市が判断に使った資料です」
「具体的に」
「仮設店舗の配置図。業種ごとの配置基準。候補者ごとの検討表。森下さんを外した理由が分かる記録」
所長が頷きました。
「それを取れ」
「でも市は内部資料だと」
「だから行く」
相馬先輩が立ち上がりました。
「市役所」
「先輩」
「何だ」
「今日、展開が早いですね」
「お前が紙並べてる間にも役所は閉庁時間に近づく」
「現場が強い」
「行政法は営業時間にも勝てねえんだよ」
妙に説得力があります。
市役所二階。
総務課。
そこで私たちを待っていたのは。
「また来ましたか」
沢渡課長でした。
「その言い方だと、害虫みたいじゃないですか」
「そこまでは言っていません」
「思ってました?」
「さて」
この人は否定しない。
灰色の背広。
細い眼鏡。
机の上は異様に整理されています。
たぶんこの人の頭の中も同じです。
感情は右。
事実は左。
法令は中央。
泣き落としは廃棄箱。
そういう人です。
相馬先輩が通知を置きました。
「森下和夫さん。仮設店舗不許可」
「ああ」
「理由を聞きたい」
「通知に書いてあります」
「『配置計画上、適当でない』?」
「はい」
「それを理由と呼ぶなら、世の中の会議は全部『いろいろあって決まりました』で済むな」
「相馬さん」
「何だ」
「総務課で喧嘩を売らないでください」
「売ってねえ」
「値札付いてます」
沢渡課長はまったく動じません。
「配置については担当課が検討しています」
私は聞きました。
「その配置計画を見せてもらえますか」
「内部検討資料です」
「森下さんの処分判断に使ってますよね」
「使用した資料すべてを外部へ開示するという扱いではありません」
「じゃあ」
私は一歩踏み込みました。
「森下さんは、何を理由に自分だけ仮設店舗へ入れなかったのか、分からないまま争えってことですか」
「通知された理由に不服があれば、不服申立てをしてください」
さらっと言いました。
腹が立つほど正論です。
でも。
「不服申立てをしたら、判断の基礎になった資料も見直されますよね」
「必要な範囲では」
「そこです」
私は言いました。
「こっちが見たいのは、その必要な範囲です」
沢渡課長の目が少し細くなりました。
「何を想定しています」
「森下さんを除外した検討記録です」
「存在するとは申し上げていません」
「じゃあ、どうやって選んだんです?」
「担当課で検討しています」
「頭の中だけで?」
「朝比奈さん」
「はい」
「少し誘導が強いですね」
「すみません」
相手が沢渡課長だと、つい試験問題みたいになります。
私は息を整えました。
「仮設店舗に入れる人と入れない人を分けたなら、何か基準がありますよね」
「あるでしょうね」
「配置図も?」
「あるでしょう」
「業種別の検討も?」
「担当課に確認しないと答えられません」
「その資料を、異議申立ての審理で確認してほしいんです」
沢渡課長が私を見る。
「確認はします」
「こちらから提出を求めるよう申し立てられますか」
言った瞬間。
私は自分で止まりました。
あ。
頭の中に浮かんだのは。
行政不服審査法第三十三条。
審査請求人や参加人の申立てにより、
または職権で、
審理員が、
書類その他の物件の所持人へ、
相当の期間を定めて提出を求める。
そして提出された物件を留め置くこともできる。
――待て。
審理員。
いない。
ここ、昭和六十三年。
審理員制度。
まだ生まれてません。
私は口を半開きにしたまま固まりました。
沢渡課長が見ています。
相馬先輩も見ています。
「こはる」
「はい」
「止まったぞ」
「ちょっと未来が混線しました」
「またか」
「今、頭の中で審理員が出てきまして」
「誰だそいつ」
「未来の人です」
「帰れ」
「私がですか、審理員がですか」
「両方だ」
「ひどい!」
沢渡課長が眼鏡を押し上げました。
「審理員という制度は、少なくとも現在の行政不服審査法にはありませんが」
「分かってます!」
「では、存在しない職員に資料提出を求めてもらうのは難しいでしょうね」
「分かってますってば!」
この人。
絶対ちょっと楽しんでます。
片桐所長が静かに言いました。
「言葉に引っ張られるな」
「はい」
「何がしたい」
「処分判断に使った資料を、審理の中へ出したいです」
「それでいい」
所長は沢渡課長を見る。
「不服申立ての審理は、申立人が出した紙だけ見て終わりではないだろう」
「もちろんです」
「処分庁側の記録も調べる」
「必要な範囲で」
「なら申立書で特定する」
沢渡課長が少し姿勢を変えました。
所長は続けます。
「仮設店舗配置図」
「はい」
「選定基準」
「はい」
「森下さんの申請についての検討記録」
「存在すれば確認します」
「他の申請者との比較資料」
「内容によっては扱いを検討します」
「それでいい」
私は横で聞きながら、頭の中を整理しました。
そうか。
制度の看板が違っても、
争うために必要な資料を審理の俎上に載せる。
その発想は同じ。
現代法では。
審理員という第三者的立場の職員がいて、
審査請求人や参加人からの申立てでも、
職権でも、
所持人へ書類その他の物件の提出を求められる。
しかも。
提出された物件は留め置くこともできる。
つまり。
「その資料、役所しか持ってません」
で審理を終わらせないための仕組み。
それを。
私は今、昭和の事件の中で、逆向きに理解し始めていました。
未来では、もっと明確な形になっている。
なぜか。
たぶん。
今みたいな場面が何度もあったからです。
「課長」
私は言いました。
「ひとつ確認していいですか」
「どうぞ」
「仮に、その検討資料の中に、森下さんを外した具体的理由があるとします」
「仮に、ですが」
「それが通知には書かれてない」
「そうですね」
「本人も知らない」
「そうですね」
「役所の中だけでは共有されている」
「仮定が多いですね」
「その状態で、本人に『不服があれば争ってください』って、結構きつくないですか」
沢渡課長は、すぐには答えませんでした。
私は続けました。
「自分が何で負けたか分からないのに、再試験だけ受けろって言われるようなものです」
「また学校の例えか」
相馬先輩が呟きました。
「受験生なんですから仕方ないでしょう」
「今は見習いだ」
「心は受験生です」
「面倒くせえ心だな」
沢渡課長が机を指で軽く叩きました。
「朝比奈さん」
「はい」
「だから不服申立ての審理があります」
私は黙りました。
「処分時に本人が持っていなかった資料でも、審理の過程で確認が必要なら確認する」
「はい」
「ただし」
「はい」
「申立人が『何かあるはずだ。全部出せ』と言えば、役所の書庫を全部ひっくり返す制度でもありません」
「なるほど」
「何を確かめたいのか。どの資料が必要なのか。そこは具体的にする」
悔しい。
今日も沢渡課長が半分先生です。
「論点で喋れ」
相馬先輩が言いました。
「え?」
「今のを森下さんの話に戻せ」
はい。
翻訳します。
「つまり」
私は沢渡課長を見ました。
「森下さんについては、なぜ仮設店舗へ入れなかったのか。その判断が適切だったか確かめるために、配置図や選定資料が必要です」
「そういう整理なら分かります」
「異議申立書に書きます」
「どうぞ」
「資料も確認してください」
「必要性が認められれば」
相変わらず。
絶対に先に約束しない。
でも。
扉は閉じていません。
事務所へ戻ると、森下さんが待っていました。
「どうでした」
私は椅子に座ります。
「異議申立てをしましょう」
「やっぱり」
「ただ」
私は机の上の通知書を指しました。
「今回は、『私を仮設店舗へ入れてください』だけじゃ足りません」
「というと?」
「市が何を見て不許可にしたのか。そこを審理の中で確認してもらいます」
「見せないって言ってた資料ですか」
「はい」
「見せてくれるんでしょうか」
「全部こちらへ渡されるとは限りません」
ここは大事です。
期待を盛りすぎない。
「でも、少なくとも」
私は言いました。
「その資料を役所の中だけに隠したまま、『うちは正しく判断しました』で終わらせないようにします」
森下さんの顔が少し変わりました。
「そんなこと、できるんですか」
「不服申立てって」
私は少し考えました。
「自分が持ってる証拠だけで戦う制度じゃないんです」
言ってから。
ああ。
これ、今日の芯だ。
と思いました。
処分を受けた人は、
行政内部の資料なんて普通持っていません。
許可基準。
調査票。
比較表。
現地写真。
業者からの報告書。
専門家の意見書。
会議資料。
役所だけが握っているものはいくらでもある。
それなのに、
申立人が全部立証しろ。
では。
最初から勝負になりません。
「でも」
森下さんが言いました。
「市役所が、自分に都合の悪いものを本当に調べますかね」
その問いは重い。
旧法の異議申立て。
処分庁自身が見直す。
まさにそこです。
私はすぐ答えられませんでした。
代わりに片桐所長が言いました。
「だから書面にする」
「書面に?」
「何を確認してほしいか。なぜ必要か。全部残す」
森下さんを見る。
「口頭なら、聞いた聞かないになる」
「はい」
「書面なら残る」
「……はい」
「役所が調べなければ、調べなかったことも残る」
短い。
でも強い。
森下さんはしばらく黙ってから、
「お願いします」
と頭を下げました。
翌日から。
異議申立書の作成が始まりました。
私は書きます。
相馬先輩が消します。
また書きます。
また消されます。
「先輩」
「何だ」
「赤入れが多すぎます」
「感情が多い」
「森下さんだけ除外するなんて理不尽だ、は?」
「消せ」
「長年地域交通を支えてきた自転車店であり――」
「消せ」
「市民生活に不可欠な――」
「半分消せ」
「半分残った!」
「喜ぶな」
片桐所長が横から言います。
「必要なのは比較だ」
「はい」
仮設店舗への申請者。
許可された店舗。
許可されなかった森下自転車店。
立退き時期。
希望区画。
必要面積。
電源。
水道。
搬入の有無。
店舗前に自転車を置く必要。
それぞれ整理する。
そのうえで。
市が不許可理由としている、
「配置計画上、適当でない」
という結論について、
何を根拠としたのかを確認する。
異議申立書には。
仮設店舗配置図。
配置決定の基準を示す資料。
申請店舗ごとの検討記録。
森下自転車店について不許可とする判断に用いた資料。
これらを審理において確認するよう求めました。
「資料の名前が分からないものもあります」
私が言うと、
所長は、
「目的で特定しろ」
と言いました。
「目的?」
「何を知るための資料か」
「あ」
なるほど。
役所内部の正式名称なんて、外の人には分かりません。
『仮設店舗配置検討総括表』なのか、
『駅前仮設店舗選定会議資料』なのか、
『仮店舗のアレ』なのか。
そんなもの、知るわけがない。
だから。
森下さんを不許可とした具体的理由が分かる資料。
他の申請者と比較検討したことが分かる資料。
そう書く。
「名前を知らないから求められない、では困りますもんね」
「そういうことだ」
所長が言いました。
私は手を止めました。
未来の第三十三条が、また頭に浮かびます。
物件の提出要求。
審査請求人若しくは参加人の申立てにより。
又は職権で。
書類その他の物件の所持人に対して。
相当の期間を定めて。
提出を求めることができる。
私は今まで。
これを、
「審理員が証拠を集める条文」
くらいにしか覚えていませんでした。
赤ペンで、
申立てOK。
職権OK。
留置OK。
そんな感じ。
でも。
違います。
これは。
申立人の手の届かない場所にある証拠を、
審理の机の上へ出すための仕組みなんだ。
急に血が通いました。
「おい」
相馬先輩が言いました。
「また止まったぞ」
「第三十三条が今、起きました」
「寝かせとけ」
「嫌です」
「昭和にはねえんだろ」
「今ここにはありません。でも意味は分かりました」
「なら未来に帰ったら使え」
「帰り方が分からないんですよ!」
行政法以前の重大問題でした。
異議申立書を提出して十二日後。
市役所から連絡が来ました。
沢渡課長です。
『片桐先生はいらっしゃいますか』
「おりますけど、私でもいいですか」
『朝比奈さんですか』
「はい」
『例の仮設店舗の件です』
「資料、ありました?」
一瞬。
電話の向こうが黙りました。
『あります』
私は姿勢を正しました。
「どんな資料です?」
『仮設店舗配置案。それと、出店希望者ごとの検討表』
「検討表」
『ええ』
心臓が少し速くなる。
「森下さんの欄には?」
『電話で詳細は言いません』
「ですよね」
『明日、担当課も含めて話をします』
「分かりました」
『それと』
「はい」
『相馬さんも来ますか』
「行きます」
『では灰皿を片付けておきます』
「先輩、出禁寸前じゃないですか」
『冗談です』
沢渡課長が冗談を言った。
明日は雪かもしれない。
翌日。
総務課の会議室。
沢渡課長。
駅前整備課の担当係長。
片桐所長。
相馬先輩。
私。
机の上に、一冊の青いファイルが置かれていました。
表紙。
――駅前仮設店舗配置検討資料。
いた。
ずっと探していたやつ。
青いファイル。
お前か。
係長が説明を始めました。
「仮設店舗については、業種、必要面積、給排水設備、搬入の頻度、通路への影響などを検討しています」
「森下さんは?」
相馬先輩が聞く。
係長が検討表をめくります。
「自転車店の場合、店舗前に修理待ち車両や販売車両を置く可能性があります」
「はい」
「そのため、通路を狭めるおそれがあるとして、不適当と判断しました」
来た。
初めて具体的な理由が出た。
「どの区画を前提に?」
私は聞きました。
「当初希望された三号区画です」
「三号区画以外は検討しました?」
係長の手が止まります。
「ええと」
沢渡課長が検討表を見ました。
「記載がありませんね」
「三号が駄目なら、それで不許可?」
相馬先輩が言いました。
「仮設店舗全体として受け入れられないって判断したんじゃねえのか」
「当時は三号区画を希望されていましたので」
「申請書」
片桐所長が言いました。
私は森下さんの控えを出します。
希望欄。
第一希望。
三号区画。
その下。
小さく。
――他区画でも可。
会議室が静かになりました。
相馬先輩が言います。
「書いてあるな」
「……はい」
「他でもいいって」
「はい」
「他を検討した記録は?」
係長は何も言いません。
沢渡課長が青いファイルをめくります。
四号区画。
五号区画。
六号区画。
私は配置図を覗きました。
「これ」
「何です?」
「六号区画、前に空きがありますよね」
「荷さばき用の余地です」
「幅は?」
「約三メートル」
「自転車を置けません?」
係長が黙ります。
「しかも」
私は隣の欄を見ました。
「六号区画、申請者いませんよね」
「現時点では」
相馬先輩が椅子にもたれました。
「空いてるじゃねえか」
「将来の予備区画でもあります」
「森下さんは一年半休業しろ。六号は予備だから空けとく」
「相馬さん」
沢渡課長が言います。
「感情で詰めないでください」
「感情じゃねえ」
先輩が青いファイルを指します。
「この資料の話してんだよ」
そこでした。
最初に市役所へ来たときとは違う。
あのときは。
市役所側だけが資料を持っていた。
私たちは、
不許可。
配置計画上不適当。
という二行しか知らなかった。
だから、
かわいそうだ。
長年営業してきた。
商売ができなくなる。
としか言えない。
でも今は。
違う。
三号区画では自転車が通路をふさぐおそれがある。
ここまでは分かる。
しかし申請書には他区画でも可とある。
六号区画には前面余地がある。
現時点で申請者はいない。
それにもかかわらず、
他区画を検討した記録はない。
論点が見える。
「沢渡課長」
私は言いました。
「これ、処分そのものをもう一度見直す必要ありませんか」
「理由は?」
「市が不許可の前提にしたのは、三号区画での支障です」
「はい」
「でも森下さんの申請は、三号区画しか希望していないわけじゃない」
「はい」
「他区画でもいいと書いてある」
「はい」
「なのに他区画を検討した記録がない」
「そうですね」
「つまり」
私は青いファイルを指しました。
「『仮設店舗として受け入れられない』という結論まで行く途中の検討が、一段抜けてませんか」
沢渡課長は黙りました。
係長が言います。
「しかし予備区画は、今後――」
「そこを検討すればいい」
片桐所長が言いました。
短い。
「使えない理由があるなら書く」
係長を見る。
「使えるなら候補にする」
「……はい」
「検討しないまま不許可にしたこととは別だ」
静かでした。
怒鳴っていない。
責めてもいない。
ただ。
順番を並べただけ。
それなのに。
最初から壁だった、
「配置計画上、適当でない」
という言葉が。
急に中身の薄い箱に見えました。
沢渡課長が青いファイルを閉じました。
「なるほど」
その声で。
私は少しだけ分かりました。
この人の「なるほど」は危険です。
役所側に。
「何です?」
「いえ」
沢渡課長は係長を見る。
「これは再検討しましょう」
「課長」
「森下さんを三号区画へ入れる必要はない」
「はい」
「ただし、他区画でも可という申請を、三号区画の事情だけで不許可としたなら、判断過程として十分かは問題になる」
「……はい」
「六号区画を含めて再検討してください」
係長が頷きました。
相馬先輩が言います。
「処分、取り消すのか」
「まだそこまでは言っていません」
「相変わらず固いな」
「行政ですから」
「便利な言葉だ」
「褒め言葉として受け取ります」
私は青いファイルを見ました。
たった一冊。
でも。
この一冊が出てくる前と後では、
争いの形がまるで違います。
資料がなければ、
森下さんは、
「俺だけ外された。ひどい」
と言うしかなかった。
市役所は、
「配置計画上の判断です」
と返せばよかった。
そこで平行線。
でも。
資料が審理の中へ入ると。
何を考えた。
何を考えなかった。
どこまで比較した。
どこで判断が止まった。
それが見える。
空気が、
事実へ変わります。
三日後。
森下さんが事務所へやって来ました。
手には大きな段ボール。
「結果、聞きました」
「市から?」
「はい」
私たちも連絡を受けていました。
当初の不許可処分は見直し。
森下自転車店について、
六号区画への仮設出店を前提に再調整する。
正式な手続はこれから。
でも。
少なくとも、
一年半の休業。
その一本道からは外れました。
「まだ決定じゃありません」
私は言いました。
「電気や設置方法の調整もあります」
「いいんです」
森下さんが笑いました。
「話し合ってもらえるなら」
その言葉が、
意外と胸に残りました。
絶対にここへ出店させろ。
ではない。
ちゃんと検討してほしい。
ただそれだけだった。
「これ」
森下さんが段ボールを机に置きました。
「何です?」
「古い自転車のベル」
「はい?」
開ける。
ベル。
ベル。
ベル。
自転車のベルが大量に入っていました。
「森下さん」
「はい」
「差し入れの概念が新しいです」
「店を整理してたら出てきて」
「食えねえな」
相馬先輩が言います。
「先輩は差し入れを全部食べようとしないでください」
「おはぎは食えた」
「あれは食べ物です」
「これは?」
「ベルです!」
森下さんが一個取り出しました。
「鳴らしてみます?」
「事務所で?」
「いい音しますよ」
ちりん。
思ったより綺麗な音でした。
「お」
相馬先輩がちょっと嬉しそうです。
「もう一個」
「先輩、気に入ってるじゃないですか」
ちりん。
ちりん。
「うるさい」
片桐所長が言いました。
「すみません」
「一個にしろ」
「一個ならいいんですね」
基準が謎です。
森下さんが帰ったあと。
私は机へ戻りました。
通知書。
申立書。
市役所で見た青いファイル。
そして頭の中には。
まだ存在しない未来の制度。
審理員。
物件の提出要求。
申立てでも。
職権でも。
相当な期間を定めて提出を求めることができる。
必要なら提出物を留め置ける。
昨夜までなら。
私はたぶん、
「申立て・職権・相当期間・留置」
と四つ並べて覚えて終わっていました。
でも今日は。
違う。
森下さんは、
市役所の青いファイルを持っていなかった。
持っていないから、
不許可の本当の理由が分からなかった。
理由が分からないから、
どこがおかしいのか具体的に言えなかった。
資料が審理の中に出てきて。
初めて。
三号区画では確かに問題がある。
でも。
他区画を検討していない。
という一点が見えた。
法律は。
証拠を魔法で作るわけではありません。
役所を無理やり負けさせるものでもありません。
ただ。
判断に使ったものを、
判断を見直す場所へ出させる。
それだけで。
人は、
「何となくおかしい」
から、
「ここがおかしい」
へ進めることがあります。
「所長」
「何だ」
「今日、ちょっと分かりました」
「何が」
「資料って、証拠だけじゃないんですね」
所長がこちらを見る。
「どういう意味だ」
「論点を見つけるためのものでもある」
少し間。
所長が頷きました。
「そうだ」
私は嬉しくなって、もう少し言いました。
「未来だと、審理員が申立てでも職権でも――」
「未来の話はいい」
「はい」
秒速で切られました。
相馬先輩が、森下さんからもらったベルを指で鳴らします。
ちりん。
「うるさいです」
「一個ならいいって所長が言った」
「回数の話じゃないでしょう」
「不服か」
「あります」
「申し立てろ」
「じゃあ所長。先輩のベルを――」
「却下」
「まだ何も言ってません!」
「結論は分かる」
「審理して!」
「必要ない」
「資料提出を要求します!」
「何の資料だ」
「そのベルです!」
相馬先輩がベルをポケットへ入れました。
「あ」
「所持人が隠したぞ」
「提出してください!」
「嫌だ」
「留め置きます!」
「お前にそんな権限ねえよ」
その通りです。
昭和六十三年。
審理員制度もなければ、
私に物件を留め置く権限もありません。
未来の第三十三条を振り回しても、
相馬先輩のポケットからベルは出てきません。
でも。
今日ひとつだけ。
はっきり覚えました。
見えない資料の向こう側に、
処分の本当の弱点が隠れていることがある。
だから。
「その資料は内部用です」
と言われたところで、
思考まで止めてはいけない。
その資料は何を証明するのか。
誰が持っているのか。
なぜ審理に必要なのか。
そこまで整理できれば。
閉じた引き出しを、
制度の力で開けられることがある。
法律の言葉は冷たい。
物件。
提出要求。
相当の期間。
留置。
人の困りごとなんて一文字も入っていません。
でも。
冷たい言葉だからこそ。
「役所だけが知っています」
という曖昧な優位を、
感情抜きで崩すことができる。
森下さんを救いかけたのは、
怒鳴り声ではありません。
青いファイル一冊でした。
私は机の端に置かれたベルを一つ取り、
そっと鳴らしました。
ちりん。
「こはる」
「はい」
「うるさい」
「一回ですよ」
「一回でもうるさい」
「先輩には言わなかったじゃないですか」
「相馬はもう帰った」
「ずるい!」
私は慌てて振り返りました。
本当にいません。
そして。
机の上にあったはずの、いちばん音のいいベルもありません。
「持って帰った!」
片桐所長は帳簿をめくったまま言いました。
「必要なら提出を求めろ」
「誰にですか!」
「所持人に」
「逃げましたよ!」
所長が、ほんの少しだけ笑いました。
どうやら物件の提出要求というものは。
相手が市役所でも相馬先輩でも、
まず所持人を特定するところから始まるようです。
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