[行政不服審査法32条・証拠書類等の提出]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、コロッケの匂いが残っていました。
正確には。
法律事務所としては、かなり食欲を刺激する程度に残っていました。
「先輩」
「何だ」
「まだ匂います」
「気のせいだ」
「昨日ここで三個食べましたよね」
「二個だ」
「三個って認めたでしょう!」
「昨日の自白を今日まで使うな」
「供述の信用性が急落してますよ」
相馬先輩は煙草をくわえ、知らん顔をしました。
机の上には。
水野澄江さんの異議申立書。
六月と七月の売上帳。
納品伝票の写し。
注文控え。
六月二十一日の店頭写真。
そして私のノート。
ページの一番上には、大きく、
――証拠書類等の提出。
と書いてあります。
昨日までなら。
この見出しを見ただけで、私はたぶん三秒くらい眠くなっていました。
証拠書類を提出できます。
証拠物も提出できます。
期間を定められたら、その期間内に出しましょう。
はい。
終わり。
そんな単元に見えていたからです。
でも。
水野さんの店が、
「営業実態なし」
とされた。
水野さんは、
「営業していました」
と言った。
市役所は、
「三回確認したら閉まっていました」
と言った。
そして最後に話を動かしたのは、
大声でも、
怒りでも、
長年営業してきたという情でもありませんでした。
帳簿。
伝票。
写真。
でした。
「今日はこれです」
私はノートを相馬先輩へ向けました。
「証拠書類等の提出」
「勝手にやれ」
「昨日、私のコロッケまで食べた人に拒否権はありません」
「食ってねえ」
「証拠があります」
「まだ言うのか」
片桐所長が奥から一言。
「付き合え」
相馬先輩が黙りました。
強い。
所長命令には即時執行力でもあるのでしょうか。
「じゃあ整理します」
私はペンを持ちました。
「まず、証拠って何ですか」
「何だ急に」
「そこからです」
証拠。
法律を勉強していると、当たり前のように出てきます。
でも。
何でも証拠になるわけではありません。
私は昨日の水野さんの資料を指しました。
「水野さんは『営業していました』と主張した」
「ああ」
「その主張の前提になる事実を裏付けるものが証拠」
「まあな」
「その証拠が文書なら、証拠書類」
帳簿。
契約書。
納品書。
領収書。
注文書。
写真。
そういうものです。
「写真も書類か?」
相馬先輩が聞きました。
「厳密な分類では物件の扱いもありますけど、今日は広く『証拠として出す資料』として整理します」
「逃げたな」
「実務優先です」
大切なのは。
紙なら何でもいい、
ではありません。
何の事実を証明するために出すのか。
そこが必要です。
「昨日の売上帳は?」
相馬先輩が聞きます。
「水野さんが、その日に商売をしていたこと」
「納品伝票」
「店に商品や材料が納品されていたこと」
「写真」
「六月二十一日に実際に店を開けていたこと」
「じゃあコロッケの紙袋」
「先輩が三個食べたこと」
「それは違う」
「油が三枚についてました」
「一枚で二個包める」
「合理的疑いを作らないでください」
私はノートに書きました。
――証拠は、「何を証明したいのか」とセットで考える。
ここ。
受験勉強だと飛ばしがちです。
提出できる。
できない。
誰が出せる。
そんな択一知識だけ覚える。
でも実際は、
その資料が何を裏付けるのか。
が一番重要です。
「水野さんの件で」
私は続けます。
「売上帳だけなら弱かったですよね」
「後から書いたって言われる」
「はい」
「写真だけでも?」
「一日開いていた証拠にはなる。でも継続営業まで全部は言えない」
「納品書だけなら?」
「納品された事実は分かる。でも営業したかまでは直接分からない」
「じゃあ何で効いた」
私は少し笑いました。
「重なったからです」
昨日。
片桐所長が言った言葉です。
――一つだけなら弱い。重ねろ。
帳簿の日付。
納品書の日付。
注文票。
写真。
取引先。
それぞれが独立して、
同じ方向を指す。
すると。
一つだけなら疑える資料が、
互いを支えるようになります。
「証拠って」
私は言いました。
「量が多ければ勝ち、じゃないんですよね」
「当たり前だ」
「でも多ければ安心しちゃうじゃないですか」
「お前だけだ」
「世の受験生の何人かは共感してくれると思います」
百枚の関係ない紙より。
三枚の噛み合う紙。
その方が強い。
次。
誰が提出できるのか。
ここで。
私の頭に、現代法の条文が浮かびます。
行政不服審査法第三十二条。
審査請求人又は参加人は、
証拠書類又は証拠物を提出することができる。
処分庁等は、
処分の理由となる事実を証する書類その他の物件を提出することができる。
「今の法律だと」
私は言いました。
「審査請求人と参加人が証拠を出せます」
「うん」
「処分庁側も出せます」
「うん」
「つまり片方だけじゃない」
「当然だろ」
「ここ大事です」
不服申立てというと、
申立人が役所へ証拠を突きつける。
そんな絵を想像しがちです。
でも。
処分庁だって、
なぜその処分をしたのか。
どんな事実を根拠にしたのか。
その資料を出せる。
水野さんの事件でもそうでした。
こちら。
帳簿。
伝票。
写真。
市役所側。
現地確認記録。
担当者の引継ぎ。
それを並べた。
「で」
相馬先輩が言いました。
「並べた結果、何が分かった」
「双方とも、完全な嘘を言っていたわけじゃなかった」
「そうだ」
市役所の職員は、
確かに三回見に来た。
そして三回とも、
その時刻には店が閉まっていた。
一方。
水野さんも、
その日に営業していた。
午前九時には閉まっていた。
でも昼前から開けていた。
つまり。
証拠を見なかったら、
住民か役所か、
どちらかが嘘をついているように見えた。
証拠を出したら、
両方の言葉が別々の時間帯については真実だった。
そして本当の問題は、
三回の午前中の閉店確認から、
継続的な営業実態なし、
とまで認定してよかったのか。
そこへ移った。
「証拠って」
私は呟きました。
「勝ち負けを決めるだけじゃないんですね」
片桐所長が帳簿から目を上げます。
「何だと思っていた」
「相手を倒す武器」
「違う」
「はい」
「争点を正しくするものだ」
私はペンを止めました。
争点を正しくする。
いい言葉です。
私はノートにそのまま書きました。
――証拠は、相手を黙らせるためだけではない。何を争うべきかを正しくする。
「所長」
「何だ」
「今の、今日の一行でもいいくらいです」
「まだ早い」
「はい」
次。
現行法三十二条三項。
審理員が、
証拠書類や証拠物、
あるいは処分庁側の書類等を提出すべき相当の期間を定めたとき。
その期間内に提出しなければならない。
「ここです」
私は言いました。
「期限」
「仕事は何でも期限だ」
「夢がない」
「法律実務に夢を求めるな」
でも。
これも大事です。
証拠を持っている。
だからいつ出してもいい。
ではありません。
手続を進めるためには、
どこかで資料を出し切らせなければならない。
永遠に、
「あ、もう一枚ありました」
を続けていたら、
審理が終わらないからです。
「現代法では審理員が期間を定めることがあります」
私は言いました。
「その場合、その期間内に出す」
「審理員」
相馬先輩が煙草を止めました。
「あ」
またです。
私は頭を抱えました。
「今はいません!」
「自分で言って自分で訂正するな」
「未来知識が勝手に前へ出るんですよ!」
昭和六十三年。
旧法。
現代のような審理員制度はありません。
だから。
今の事件で、
審理員が提出期限を定めました。
なんて書いたら時代事故です。
「しかも」
私はノートに二本線を引きました。
「今の三十二条と、当時の旧法では条文番号も違う」
「昨日もやったな」
「はい」
昭和六十三年当時。
旧行政不服審査法では、
審査請求人または参加人が、
証拠書類や証拠物を提出することができるという規定は第二十六条。
そして。
異議申立てについても、
必要な規定が準用される形になっている。
「だから水野さんは異議申立てでも証拠を出せた」
「そういうことだ」
「現代なら原則審査請求」
「今は異議申立て」
「現代なら審理員」
「今はいない」
「現代なら三十二条」
「旧法では二十六条」
私は机に突っ伏しました。
「転生者に厳しすぎません?」
「勝手に未来から来たお前が悪い」
「好きで来たわけじゃありません!」
でも。
ここには制度改正の意味が見えます。
旧法。
異議申立て。
審査請求。
二本立て。
処分庁自身が判断する場面も多い。
現代。
原則として審査請求に一本化。
そして審理員制度。
処分に関与していない職員が審理を担当する仕組みが設けられている。
「水野さんの事件」
私は言いました。
「もし現代制度だったら、見え方が少し違いますよね」
「どう違う」
「市役所が出した不許可を争う」
「うん」
「処分庁側は、自分たちの処分理由を裏付ける資料を出す」
「うん」
「水野さん側は、それに反する証拠を出す」
「うん」
「それを審理員が整理する」
「未来ではな」
「はい」
この、
双方の主張と証拠を整理する役。
それが制度として明確になっている。
旧法時代より、
審理の公正さを見せる仕組みが強くなっています。
「じゃあ」
相馬先輩が言いました。
「現代の制度なら絶対公平なのか」
「絶対とは言えません」
「だろ」
「制度を作れば人間の問題が全部消えるわけじゃないです」
ただ。
誰が審理するのか。
処分した人と審理する人をどう分けるか。
双方の証拠をどう扱うか。
そういう構造を明示することで、
旧法の弱点を少しずつ減らそうとしている。
制度改正とは、
前の制度が全部間違っていた、
という話ではありません。
使ってみて。
ここが分かりにくい。
ここが公平に見えにくい。
ここを整理した方がいい。
そんなところを直していく。
「昨日の沢渡課長」
私は思い出しました。
「帳簿を見たら、かなりあっさり調査不足を認めましたよね」
「あの人はそういう人だ」
「感情では動かない」
「うん」
「証拠で動く」
「だから楽な相手でもあり、面倒な相手でもある」
「なるほど」
泣いても動かない。
怒っても動かない。
でも。
事実が崩れたら動く。
法律実務では、
そういう相手の方が話が早いこともあります。
私は次の見出しを書きました。
――証拠書類を「提出することができる」。
「ここ」
相馬先輩が言いました。
「できる、だろ」
「はい」
「義務じゃねえのか」
「審査請求人側については、条文上は提出することが『できる』」
「出さなくてもいい?」
「形式上は」
「じゃあ出さない」
「それで自分の主張が通らなくても知りませんよ」
「冷たいな」
「法律ですから」
提出できる。
というのは権利です。
でも。
主張した事実を裏付けたいなら。
出せる証拠は出した方がいい。
水野さんが、
「毎日営業していました」
と何十回言っても。
市側に三回の現地確認記録があれば、
話は簡単には動かなかったでしょう。
そこへ。
売上帳。
納品書。
写真。
を出したから、
事実認定の前提が変わった。
「つまり」
私は書きます。
――提出は権利。でも、主張を通すには証拠が要る。
「雑だな」
「覚え書きです」
「試験には書くなよ」
「分かってます」
次。
参加人。
「これも出てきます」
「昨日はいなかったな」
「はい」
現行法では。
審査請求人だけでなく、
参加人も証拠書類等を提出できます。
参加人というのは、
審査請求の結果について利害関係を持ち、
手続に参加する人。
「たとえば」
私は考えます。
「ある営業許可を取り消す審査請求で、その結果によって直接影響を受ける第三者が参加するような場合」
「そいつも証拠を出せる」
「はい」
「申立人だけの一対一じゃないこともある、と」
「そうです」
行政事件は、
処分庁対申立人。
だけで終わらないことがあります。
許可を得た人。
競争関係にある人。
周辺住民。
いろいろな利害が絡む。
だから参加人にも、
自分の主張を裏付ける資料を出す機会がある。
「水野さんの事件では?」
「参加人はいませんでした」
「なら深追いすんな」
「はい」
範囲管理。
大事です。
受験勉強でも小説でも、
風呂敷を広げすぎると畳めなくなります。
次。
処分庁側の証拠。
「ここ、ちょっと面白いです」
「何が」
「処分庁は、『処分の理由となる事実を証する書類』などを出せる」
「うん」
「つまり、処分庁側も『なぜその処分をしたのか』を証拠で示す」
「当たり前だろ」
「でも受験生の頃は、役所って最初から全部資料持ってる気がしてたんですよ」
「持ってないこともある」
「ですよね」
ある。
ない。
整理されている。
されていない。
担当者の頭にしかない。
引継ぎメモしかない。
そんなこともある。
水野さんの事件では、
営業実態なし。
というかなり重い判断の根拠が、
三回の午前中の確認と、
「あまり開いていないらしい」
という引継ぎに寄っていました。
「これ」
私は言います。
「処分庁側が証拠を出す仕組みがあるってことは」
「うん」
「申立人にだけ証明しろって言ってるわけじゃないんですね」
「当然だ」
「処分した側も、自分たちの認定の根拠を見せる」
「それで争点が見える」
「はい」
これも。
制度の冷たさが人を救うところです。
役所が、
こう判断しました。
だけで終わらない。
その判断のもとになった事実は何か。
何を見たのか。
どんな記録があるのか。
そこへ話を引き戻せる。
「昨日、水野さんが一番傷ついていたの」
私は言いました。
「不許可そのものだけじゃなかったですよね」
「営業してない扱いされたことか」
「はい」
三十年以上店を開けてきた。
その人に、
営業実態なし。
と言う。
処分理由としては一行です。
でも。
その一行は、
その人が積み重ねた毎日まで否定するように聞こえる。
だから。
証拠を出すことは、
単に許可を取り戻すためだけではなかった。
水野さんが、
私はここで商売をしていた。
という事実を、
制度の中へ戻すことでもあった。
「法律って」
私は言いました。
「事実を認定するって、地味ですけどすごく大事なんですね」
「今さらか」
「今さらです」
片桐所長が言いました。
「法律は、事実の上に乗る」
「はい」
「事実が違えば、結論も変わる」
短い。
でも全部入っています。
条文を知っていても。
判例を知っていても。
前提となる事実を間違えれば、
結論は簡単に狂います。
「だから証拠」
「そうだ」
私はノートに二重線を引きました。
――法律論の前に、事実を固める。
これ。
行政法だけじゃない。
民法でも。
会社法でも。
相続でも。
たぶん全部そうです。
次。
証拠の信用性。
「昨日、沢渡課長が言いました」
帳簿は、
後から書こうと思えば書ける。
その瞬間。
私はちょっと腹が立ちました。
でも。
証拠を評価するなら当然の視点です。
「帳簿がある」
「うん」
「だから絶対正しい」
「ではない」
「写真がある」
「だから全部証明できるわけじゃない」
「証人がそう言った」
「だから即採用でもない」
証拠には、
何が書いてあるか。
だけでなく。
それが信用できるか。
という問題がある。
「だから水野さんの資料は」
私は言いました。
「相互に一致していたのが強かった」
「ああ」
「帳簿の日付と納品伝票が合う」
「うん」
「写真の日付と天気の話も合う」
「うん」
「注文記録とも矛盾しない」
「そういうことだ」
一つの資料だけに全部を背負わせない。
複数の資料が同じ事実を支える。
それが強い。
「試験問題だと」
私は言いました。
「提出できるかどうかが中心ですよね」
「まあな」
「実務だと、その一歩先。出した証拠がどう見られるかまで考える」
「それが仕事だ」
「はい」
次。
提出期限。
「もう一回やります」
「さっきやっただろ」
「ここ、試験で落としたくないので」
現行法。
審理員が、
相当の期間を定めて提出を求めた場合。
その期間内に提出する。
「相当の期間」
「うん」
「一日とか無茶な期限じゃ駄目」
「そうだろうな」
「でも期限があるなら守る」
「ああ」
「後から重要資料が出てきたら?」
「事情次第だ」
「ですよね」
私は丸をつけます。
試験では。
審理員が期間を定めた場合、
その期間内に提出しなければならない。
ここを素直に覚える。
実務ではさらに、
いつ何が必要になるか。
早めに証拠を集める。
原本を保管する。
写しを整理する。
一覧を作る。
そういう準備が大事です。
「昨日、沢渡課長が提出資料一覧作ったのも」
「後で揉めないためだ」
「何を出した。出してない。原本か写しか」
「そこを曖昧にしない」
「はい」
証拠というと、
裁判ドラマみたいに、
最後の一枚を机へ叩きつける。
そんな場面を想像します。
でも現実は。
番号を振る。
一覧を作る。
写しを取る。
原本を戻す。
地味です。
ものすごく地味です。
でも。
その地味さが、人を守ります。
「所長」
「何だ」
「制度の冷たさって、こういうところにもありますね」
「どういう意味だ」
「感情じゃなく、資料を整理する」
「うん」
「誰が何を言ったかじゃなく、何が残っているかを見る」
「うん」
「だから声が大きい人だけが勝たない」
所長は少しだけ頷きました。
それです。
法律の冷たさは。
人の事情を無視する冷たさにもなります。
でも同時に。
感情の強さ。
肩書。
役所か住民か。
そういうものから少し距離を置いて、
事実を見ようとする冷たさでもあります。
水野さんは、
役所より声が大きかったわけじゃない。
権限があったわけでもない。
ただ。
帳簿を持っていた。
伝票を持っていた。
写真を持っていた。
それで、
役所の一行をひっくり返した。
「じゃあまとめます」
私は新しいページを開きました。
証拠書類等の提出。
現行法第三十二条。
一。
審査請求人または参加人は、証拠書類または証拠物を提出できる。
二。
処分庁等も、処分の理由となる事実を証する書類その他の物件を提出できる。
三。
審理員が相当の期間を定めた場合、その期間内に提出する。
そして。
昭和六十三年の旧法では、
審理員制度はない。
条文番号も違う。
審査請求人・参加人による証拠書類等の提出は旧法第二十六条。
異議申立てでも、その仕組みが準用される。
「新旧混ぜるな」
相馬先輩が言います。
「はい」
「三十二条って書いて昭和の役所へ持ってくな」
「死ぬほど恥ずかしいですね」
「それで済めばいい」
「怖いこと言わないでください」
私はノートの端に大きく書きました。
――昭和六十三年に審理員はいない。
丸。
二重丸。
三重丸。
「そんなに書かなくても忘れねえだろ」
「私は忘れます」
「自信持って言うな」
最後。
一行の覚え書き。
私は少し考えました。
水野さんの店。
三回の閉店確認。
三か月分の帳簿。
納品伝票。
写真。
市役所の調査記録。
そして。
営業していなかったのではなく、
役所が見た時間には閉まっていただけだった。
証拠がなければ。
その違いは見えませんでした。
私は書きました。
――言い分がぶつかったら、証拠で事実をほどく。
「短いな」
相馬先輩が言いました。
「今回は一行です」
「珍しい」
「成長しました」
「気のせいだ」
「またそれですか」
そのとき。
事務所の扉が開きました。
「こんばんは」
水野さんです。
「どうしたんです?」
「これ」
紙袋。
嫌な予感。
いや。
いい予感。
「コロッケ?」
「今日はメンチカツ」
相馬先輩が立ち上がりました。
「何個です?」
「十二個」
「先輩」
「何だ」
「今度は最初に数えます」
「信用がないな」
「証拠主義です」
私は紙袋を開けました。
十二個。
確かに十二個。
紙に大きく、
十二。
と書きます。
「そこまでします?」
水野さんが笑います。
「前科があるので」
「前科言うな」
片桐所長が一つ取りました。
「十一」
私が書く。
水野さんが一つ。
「十」
私。
「九」
そして相馬先輩。
一つ。
「八」
「何で俺だけ監視されてるんだ」
「信用性の問題です」
「証拠評価か」
「はい」
相馬先輩がメンチカツをかじりながら、
ぼそっと言いました。
「じゃあ俺が食ってないって主張したら?」
「袋の数」
「うん」
「皿」
「うん」
「油紙」
「うん」
「口元の衣」
「またそれか」
「必要なら所長の答述も取ります」
「未来用語を混ぜんな」
「答述そのものは証拠になり得ます!」
「今はメンチカツだ!」
水野さんが笑っています。
片桐所長まで、ほんの少し口元を緩めていました。
窓の外。
駅前には夕方の灯りがついています。
再整備は進みます。
水野さんの店が、
いつまでも今の場所に残れるとは限りません。
でも。
少なくとも今は。
「営業していなかった店」
として追い出されることはなくなった。
帳簿に残っていた数字が。
伝票に残っていた日付が。
写真に残っていた一瞬が。
水野さんの毎日を、
制度の中へ戻してくれたからです。
法律は、
人の記憶を完全には信用しません。
役所の記憶も。
住民の記憶も。
だから資料を見る。
記録を見る。
証拠を見る。
少し冷たい。
でも。
その冷たさのおかげで、
声の小さい人にも、
「本当にそうだったのか」
と確かめてもらえる道が残ります。
私はノートを閉じました。
「先輩」
「何だ」
「今、二個目いきましたね」
「一個だ」
私は紙を見る。
残り七。
所長一。
水野さん一。
私一。
先輩一。
計四個。
本来、残り八。
でも。
七。
「一個消えてます」
「蒸発したんだろ」
「メンチカツは蒸発しません」
「証明しろ」
私は相馬先輩の机を見る。
灰皿の横。
油のついた紙。
二枚。
そして。
口元。
衣。
「証拠提出します」
「おい」
「所長」
「何だ」
「相馬先輩、二個です」
片桐所長は一度だけ先輩を見ました。
「認めろ」
「……二個です」
「ほら!」
水野さんがまた笑いました。
証拠書類等の提出。
教科書では数行です。
でも。
誰かの暮らしを、
「なかったこと」にさせないための数行でもあります。
そして。
どうやら片桐行政書士事務所では、
惣菜の個数管理にも、
かなり強い効力を発揮するようでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




