[行政不服審査法32条・証拠書類等の提出]現場編 「言っただけでは証拠になりません」の罠。三日の見回り記録と、三か月分の帳簿がひっくり返す「営業実態なし」
役所と話が食い違ったとき。
「私はちゃんとやっていました」
と言うだけでは、たいてい足りません。
向こうが、
「確認できませんでした」
と言えば、
声と声がぶつかるだけだからです。
そんなとき。
古びた帳簿一冊が、百回の「本当です」より強いことがあります。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の朝、私は帳簿に埋もれていました。
「先輩」
「何だ」
「昭和の人、何でも取っておきすぎじゃないですか」
「何だ急に」
「納品書。領収書。手書き伝票。注文票。包装紙まであります」
「捨てるよりいいだろ」
「机が沈みそうです」
「お前の参考書のほうが重い」
「行政法の厚みを物理攻撃みたいに言わないでください」
私の机の前。
小柄な女性が、申し訳なさそうに頭を下げました。
「すみませんねえ。何が要るか分からなくて」
「いえ」
私は慌てて首を振りました。
「むしろ助かります」
相談者は、
水野澄江さん。
六十一歳。
駅東口の仮設商店街で、小さな惣菜屋を営んでいます。
店の名前は、
――みずの屋。
コロッケ。
煮豆。
きんぴら。
卵焼き。
夏にはところてん。
冬にはおでん。
派手な店ではありません。
でも駅前で働く人なら、たいてい一度くらいは食べたことがある。
そんな店でした。
ところが。
机の中央に置かれている紙には、
まるで別の店のことのような言葉が並んでいました。
――仮設店舗使用許可更新申請について、不許可とする。
理由。
――継続的な営業実態が認められないため。
「営業実態がない」
私はもう一度読みました。
「はい」
水野さんが小さく答えます。
「でも、営業してたんですよね」
「してました」
「どのくらい?」
「日曜以外は、ほとんど」
私は紙を見る。
水野さんを見る。
また紙を見る。
紙は無表情です。
紙というものは、嘘をついているときでも顔色を変えないので腹が立ちます。
「役所には?」
「言いました」
「何て?」
「毎日やってますって」
「返事は?」
水野さんは少し困ったように笑いました。
「『こちらで確認した結果ですから』って」
来ました。
行政界の万能呪文。
――確認した結果です。
確認した。
調査した。
判断した。
この三つが揃うと、住民側は急に自分が間違っているような気になります。
「それで、異議申立てを?」
「先週、出しました」
相馬先輩が言いました。
「うちで作ったやつだ」
「あ」
私は思い出しました。
駅前再整備に伴う仮設店舗の更新案件。
このところ、事務所に似た相談が増えています。
駅前を整理する。
仮設店舗を減らす。
歩行者空間を確保する。
防災上の問題をなくす。
言っていること自体は、もっともです。
けれど。
もっともな目的は、ときどき雑な運用の隠れ蓑になります。
「異議申立書では」
私は控えをめくりました。
「水野さんは継続営業していた。だから営業実態がないという認定は事実と違う、って主張したんですね」
「ああ」
「市は?」
「変わらん」
相馬先輩が一枚の書面を机へ滑らせました。
市役所から届いた回答。
そこには、
職員による現地確認の結果、
複数回にわたり店舗が閉鎖されていた。
したがって継続的営業実態を認めることは困難である。
という趣旨が書かれていました。
「複数回って、何回です?」
私が聞くと、
相馬先輩は三本指を立てました。
「三回」
「三回?」
「六月七日。六月二十一日。七月五日」
「それで営業実態なし?」
「らしい」
私は水野さんを見ました。
「この日、お店休みました?」
水野さんが眉を寄せました。
「六月七日は……」
少し考え、
「ああ。病院です」
「一日?」
「いいえ。午前だけ」
「午後は?」
「店、開けました」
「二十一日は?」
「大雨の日じゃなかったかしら」
机の端にあった古いカレンダーを探します。
もちろん昭和六十三年なのでスマートフォンはありません。
未来人にはつらい。
指二本で拡大もできません。
「雨でも営業したんですか」
「朝は閉めてました。でも昼前から」
「七月五日は?」
「市場へ仕入れに行くのが遅くなって、十時半くらいに開けたと思います」
私は黙りました。
三回とも、
店が一日中閉まっていたわけではない。
「職員が何時に見に来たか分かります?」
「分かりません」
「ですよね」
そこで。
片桐所長が奥から出てきました。
「帳簿は」
唐突です。
でもこの人はいつもそうです。
こんにちはより先に論点が来ます。
「これです」
水野さんが分厚い大学ノートを差し出しました。
表紙に、
六月。
と書いてあります。
開く。
日付。
コロッケ十五。
煮豆八。
卵焼き六。
売上。
仕入れ。
つけ払い。
ときどき、
――田辺さん、金曜に弁当二つ。
などと書いてある。
「毎日つけてるんですか」
「忘れる日もありますけどね」
「六月七日は」
ページを探します。
ありました。
六月七日。
午後売上。
四千八百六十円。
さらに。
肉屋の納品伝票。
午後一時二十分。
「先輩」
「見えてる」
「二十一日もあります」
昼十二時十分。
豆腐店の納品。
売上記録。
七月五日。
午前十一時。
油屋の納品。
午後の弁当予約。
「これ」
私は顔を上げました。
「営業してたこと、かなり裏付けられません?」
「だから持ってこさせた」
相馬先輩が言いました。
「先に言ってくださいよ」
「自分で気づけ」
「教育方針が昭和すぎる」
「昭和だ」
「ぐうの音も出ない」
私は異議申立書の控えと帳簿を見比べました。
これまでの申立てでは、
営業していました。
閉店していたのは一時的です。
という主張は書いてある。
でも。
その事実を裏付ける資料までは、十分につけていない。
言葉だけ。
対する市役所には、
職員が見に行った。
閉まっていた。
という記録がある。
だったら。
「証拠を出せばいい」
私は呟きました。
片桐所長がこちらを見ます。
「何を」
「帳簿です」
「ほかは」
「納品書」
「ほか」
「注文票。仕入れ伝票」
「ほか」
「……写真?」
水野さんが「あ」と声を上げました。
「写真ならあります」
「本当ですか?」
「娘が撮ったやつ」
「いつの?」
「六月の商店街祭り」
「それは通常営業日の証明には弱いですね」
「あとは……」
水野さんは紙袋を探りました。
一枚の封筒。
中から写真が数枚出てきます。
店先。
惣菜。
値札。
水野さん。
そして写真の隅に、
新聞。
「これ、日付分かるか?」
相馬先輩が写真を持ち上げました。
新聞の日付。
六月二十一日。
私は椅子から半分立ち上がりました。
「二十一日!」
「雨が上がったあと、娘が来たんです」
水野さんが言いました。
「新しい看板を作ったからって、写真撮ってくれて」
はい。
出ました。
三回の「閉まっていた」のうち一日。
同じ日に開いていた写真。
法律の神様は、ときどき写真の隅に新聞を置いてくれます。
「所長」
「出せ」
「ですよね」
「異議申立ては、書いたら終わりじゃない」
その一言で。
昨夜までテキストの中で眠っていた言葉が、むくりと起き上がりました。
証拠書類等の提出。
現代の私の頭には、
行政不服審査法三十二条。
という番号が浮かびます。
審査請求人や参加人。
処分庁。
審理員が期間を定めたら――
待て。
違う。
「……あ」
私は額を押さえました。
「何だ」
相馬先輩が言います。
「審理員がいない」
「誰だそいつ」
「未来の人です」
「帰れ」
「私じゃなくて審理員がです!」
またやった。
ここは昭和六十三年。
現代法ではありません。
現行法三十二条の仕組みをそのまま持ち込んだら駄目です。
この時代。
旧行政不服審査法では、
審査請求人や参加人が証拠書類や証拠物を提出できる規定は第二十六条。
そして異議申立てでも、その規定が準用される。
もちろん、
現代の審理員制度なんてありません。
「頭の中で条文番号が引っ越ししてます」
「知らん」
「未来では三十二条なんですよ」
「今は二十六条だ」
「はい」
「使う法律を間違えるな」
「はい……」
転生者。
未来知識が多いほど事故ることがある。
法律改正、恐るべし。
その日の午後。
私たちは市役所へ向かいました。
総務課。
窓口の奥。
沢渡課長は相変わらず、感情を薄切りにして乾燥させたような顔をしています。
「水野澄江さんの件ですか」
「はい」
私が分厚い封筒を置きます。
沢渡課長が封筒を見る。
「これは?」
「証拠です」
「証拠」
ほんの少しだけ、眉が動きました。
「異議申立ての理由は、すでに承知しています」
「理由を増やしに来たんじゃありません」
「では?」
「水野さんが実際に営業していたことを裏付ける資料です」
沢渡課長は黙りました。
私は一つずつ机へ並べます。
「六月七日の売上帳」
一冊。
「同日の納品伝票」
一枚。
「六月二十一日の売上帳」
一冊。
「豆腐店の伝票」
一枚。
「そして六月二十一日に撮影された店頭写真」
一枚。
最後。
「七月五日の売上記録と仕入れ伝票」
沢渡課長が写真を手に取りました。
「日付は?」
「写っている新聞で確認できます。娘さんにも撮影時期を確認済みです」
「なるほど」
「市の確認では、この三日間、店が閉まっていたんですよね」
「担当課の報告では」
「何時です?」
少し間が空きました。
「何がでしょう」
「確認した時刻です」
「確認します」
「お願いします」
相馬先輩が口を挟みました。
「一日閉まってたのか、朝だけ閉まってたのかで、話が違う」
「その点も含めて担当課の記録を確認します」
「営業実態なしって判断した根拠は、その三回だけか?」
「それも確認が必要ですね」
沢渡課長の声は変わりません。
動揺もない。
逆切れもしない。
でも。
さっきまで、
市が確認した。
営業実態は認められない。
という一本の線だった話に、
別の線が入った。
帳簿。
納品伝票。
注文記録。
写真。
全部、
水野さんの「営業していました」を、
事実の形に変えるものです。
「課長」
私は言いました。
「水野さんが『営業していた』と言うだけなら、市の現地確認記録と水掛け論になります」
「そうでしょうね」
「でも、帳簿がある」
「ええ」
「納品記録もある」
「ええ」
「閉店確認日と同じ日に、営業中の写真まである」
「ありますね」
「なら」
少しだけ息を吸います。
「『こちらでは閉まっているのを確認しました』だけで、営業実態なしと決めていい話ではなくなりましたよね」
沢渡課長は写真を机へ戻しました。
「そうですね」
あっさり。
本当にこの人は、
崩れた論理には妙なほど執着しません。
「資料は受け取ります」
「異議申立ての審理資料として?」
「当然です」
「担当課にも?」
「確認させます」
相馬先輩が言いました。
「処分を維持するなら、市側も根拠をはっきりさせろ」
「そこは整理します」
「三回見に行った。そのとき閉まってた。だから継続営業なし。それだけなら雑すぎる」
沢渡課長は眼鏡を上げました。
「相馬さん」
「何だ」
「まだ市の判断が誤りだと決まったわけではありません」
「ああ」
「帳簿も、書こうと思えば後から書けます」
空気が少し固くなりました。
水野さんの肩が揺れる。
私は一瞬、
ひどい。
と言いそうになりました。
でも。
止めました。
沢渡課長が言っていることは、
証拠を見る側としては当然でもある。
提出したら勝ち。
ではない。
証拠には、
信用できるか。
他の資料と合うか。
本当にその事実を裏付けるのか。
という問題がある。
そこで。
片桐所長が口を開きました。
「だから、納品書もある」
「はい」
「取引先にも確認できる」
「ええ」
「写真もある」
「ありますね」
「一つだけなら弱い」
所長は帳簿を指しました。
「重ねろ」
私は、その言葉を頭の中で繰り返しました。
重ねる。
帳簿だけでは、
後から書いたと言われるかもしれない。
でも。
納品伝票と合う。
注文票とも合う。
写真とも合う。
取引先の記録とも合えば、
一つ一つは小さな紙でも、
同じ事実を指し始める。
水野さんが店を開けていた。
という事実を。
「所長」
「何だ」
「それ、ちょっと格好いいです」
「余計なことを言うな」
「はい」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「論点で喋るなって言われるぞ」
「今日は証拠で喋ってます」
「成長したな」
「褒めました?」
「気のせいだ」
沢渡課長が一枚の紙を出しました。
「念のため、預かる資料の一覧を作りましょう」
「一覧?」
「何を提出したか、後で食い違うと困ります」
あ。
そういうところは、ちゃんとしている。
私は提出資料を一つずつ確認しました。
六月分売上帳の写し。
七月分売上帳の写し。
肉店納品伝票。
豆腐店納品伝票。
食用油納品伝票。
注文控え。
六月二十一日撮影写真。
原本は必要に応じて提示。
「原本まで全部置いていかないんですね」
帰り道で私が言うと、
相馬先輩が答えました。
「商売で使う帳簿まで全部役所に預けたら困るだろ」
「なるほど」
「証拠だからって、何でも原本を放り込めばいいわけじゃねえ」
「提出した物が何か分かるようにしておく」
「ああ」
「写しなら原本確認できるようにしておく」
「そういうことだ」
行政法の教科書には、
証拠書類を提出することができる。
と一行書いてある。
でも。
現場では。
何を出す。
いつ出す。
原本か写しか。
何を証明するための資料か。
ほかの資料と食い違わないか。
そこまで考えて初めて、
「提出する」
になる。
条文は短い。
実務はだいたい、その行間に住んでいます。
三日後。
市役所から電話がありました。
「総務課の沢渡ですが」
私が受話器を取ります。
「はい」
『水野さんの件で、一度来ていただけますか』
「結果出ました?」
『途中経過です』
嫌な言葉です。
行政の「途中経過」は、
良い知らせにも悪い知らせにも化けます。
午後。
市役所。
沢渡課長の机には、
今度は市側の書類が置かれていました。
「担当課の現地確認記録です」
見せてもらう。
六月七日。
午前九時十五分。
閉店。
六月二十一日。
午前八時五十分。
閉店。
七月五日。
午前九時四十分。
閉店。
私は三秒ほど黙りました。
「……全部、午前中?」
「そうなっています」
「午後の確認は?」
「していません」
相馬先輩が椅子にもたれました。
「おい」
「はい」
「これで継続営業なし?」
「担当課では、開店時刻が一定していないことも含めて判断したとのことです」
「許可条件に開店時刻の指定は?」
「ありません」
「週何日以上営業とかは?」
「明示的な条件はありません」
「じゃあ」
私は思わず身を乗り出しました。
「午前九時に閉まっていたことと、『継続的な営業実態がない』こと、同じじゃないですよね」
沢渡課長が頷きました。
「同じではありません」
その瞬間。
空気がひっくり返りました。
水野さんは営業していたと言う。
市は閉まっていたと言う。
最初は、
どちらが本当か。
でした。
でも資料を並べたら違った。
両方、本当だったのです。
市職員が見た朝は閉まっていた。
そのあと水野さんは店を開けていた。
つまり問題は、
嘘をついた人がいるか。
ではない。
三回の朝の観察から、
営業実態そのものがない、
とまで判断してよかったのか。
そこです。
「担当課も」
沢渡課長が続けました。
「提出された帳簿、納品記録、写真を確認しました」
「はい」
「少なくとも、当初想定していたより営業日数は多かったと認めています」
「当初想定?」
「ほぼ休業状態だと認識していたようです」
「何を根拠に?」
「現地確認と、担当者間の引継ぎです」
私は嫌な予感がしました。
「引継ぎって」
「前任者から、『最近あまり開いていない』と」
出ました。
行政を蝕む、ふわふわした日本語。
――最近。
――あまり。
――らしい。
これだけ揃えば、雲より軽い。
「それ」
私は言いました。
「事実じゃなくて印象ですよね」
「そう評価せざるを得ません」
沢渡課長は淡々と言いました。
「なるほど」
「何です?」
「いや」
沢渡課長が書類を閉じます。
「今回は、そちらの出した紙のほうが重かった」
私は一瞬、意味を取り損ねました。
「重い?」
「こちらは三回の午前中の確認記録と、担当者の引継ぎ」
帳簿を見る。
「そちらは三か月分の売上帳、仕入れ伝票、注文記録、写真」
そして。
「互いに照らし合わせても、大きな矛盾がない」
沢渡課長は少しだけ口元を緩めました。
「これはこちらの調査不足ですね」
相馬先輩が腕を組みました。
「処分は?」
「再検討します」
「取消し?」
「まだ決裁前です」
「固いな」
「役所ですから」
沢渡課長はそう言ってから、
「ただし」
と続けました。
「駅前再整備そのものがなくなるわけではありません」
「分かってます」
「仮設店舗を今後整理する方針も変わりません」
「はい」
「ですが、水野さんを『営業実態なし』として優先的に不許可にする前提は崩れました」
それで十分でした。
いや。
十分ではない。
店がずっと残る保証はない。
再整備は進む。
いつか移転しなければならない。
でも。
「営業していない店だから外す」
という扱いからは抜けられる。
それだけで、
交渉の立つ場所がまるで違います。
一週間後。
市から正式な連絡がありました。
水野さんに対する更新不許可処分を見直し、
当面六か月の使用を認める。
その間、
再整備後の移転先について商店会と協議する。
そんな内容でした。
事務所で結果を伝えると、
水野さんはしばらく黙っていました。
「じゃあ」
「はい」
「まだ、お店開けていいんですね」
「六か月は」
「よかった……」
大声ではありませんでした。
泣きもしませんでした。
ただ。
膝の上で握っていた手が、ゆっくり開きました。
「私ね」
水野さんが言います。
「閉めろって言われたのもつらかったけど」
「はい」
「営業してなかったって言われたのが、一番悔しかったんです」
私は返事ができませんでした。
三十年以上。
朝に仕込み。
店を開け。
コロッケを揚げ。
注文を帳面につけ。
仕入れ先へ金を払い。
雨なら遅れて店を開け。
病院へ行った日も、午後には戻る。
そういう日々を、
――営業実態がない。
の一行で消された。
たぶん。
生活というのは、
法律よりずっと細かいものからできています。
納品書。
売上帳。
注文票。
何月何日に何個売った。
そんな紙切れの積み重ねです。
そして今回。
その紙切れが、
水野さんの生活は確かにここにあった、
と証明してくれました。
「これ」
水野さんが風呂敷包みを机へ置きました。
「また何か持ってきました?」
「コロッケ」
相馬先輩が即座に立ち上がりました。
「何個です?」
「お前は座れ」
「先輩、さっきまで法律家の顔してたでしょう」
「腹が減れば人間に戻る」
「法律家も人間です」
包みを開く。
まだ温かい。
「十二個あります」
「十二」
相馬先輩が数える。
「所長一。水野さん一。こはる一。俺九」
「証拠計算がおかしい」
「算数だ」
「算数ならもっと悪い!」
水野さんが声を上げて笑いました。
「朝比奈さん」
「はい」
「帳簿、捨てちゃ駄目ね」
「絶対取っておいてください」
「昔、主人には言われたのよ。そんな細かいもん、いつまで置いとくんだって」
「今回は、その細かいものに助けられましたね」
「本当に」
片桐所長がコロッケを一つ取りました。
「証拠は」
また唐突に言います。
「大げさなものとは限らん」
私は頷きました。
「はい」
「暮らしていれば残るものもある」
帳簿。
領収書。
伝票。
写真。
手紙。
注文票。
普段なら、
ただの紙です。
でも。
誰かに、
「そんな事実はありません」
と言われた瞬間。
紙は証拠になる。
私は自分のノートを開きました。
今日の覚え書き。
まだ法理編ではありません。
でも一行だけ。
――主張がぶつかったら、声を大きくするな。事実を支える紙を探せ。
「何書いてる」
相馬先輩が覗き込みました。
「今日の教訓です」
「コロッケ冷めるぞ」
「今いいところなんです」
「証拠保全よりコロッケ保全だ」
「黙ってください」
そこへ電話が鳴りました。
私が取ります。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『沢渡です』
この声。
「どうも」
『水野さん、そちらにいますか』
「いますけど」
『伝えておいてください』
「何を?」
『仮設店舗の営業実態確認について、担当課で調査方法を見直すことになりました』
私は目を瞬きました。
「三回見て閉まってたら営業実態なし、みたいな?」
『そういう雑な言い方はしていません』
「でも?」
一秒。
『……結果として、そういう調査になっていました』
「ですよね」
『今後は確認時間帯を変える。複数日の営業記録も見る。本人への確認もする。その方向です』
「分かりました」
『それと』
「はい」
『帳簿は大事ですね』
思わず笑ってしまいました。
「課長が言います?」
『役所も帳簿で仕事をしていますから』
「確かに」
『では』
電話が切れました。
「何だって?」
相馬先輩がコロッケを片手に聞きます。
「調査方法、変えるそうです」
「へえ」
「今度から、一回閉まってたくらいで営業してないことにしない」
「当たり前だ」
「その当たり前が抜けるから、手続があるんでしょうね」
所長が私を見る。
「分かったか」
「少し」
法律は、
誰かの記憶を信じるためのものではありません。
役所だから正しい。
住民だから正しい。
そういう話でもない。
言い分がぶつかったら、
事実を見る。
その事実を支えるものを見る。
帳簿を見る。
伝票を見る。
写真を見る。
ひとつずつ、
冷たく確認する。
法律の冷たさは、
こういうとき少し優しい。
声の大きいほうを勝たせないからです。
「先輩」
「何だ」
「ところで、コロッケ何個食べました?」
「二個」
「本当に?」
「本当だ」
私は包みを見る。
残り七個。
所長一。
水野さん一。
私、まだゼロ。
「計算が合いません」
「気のせいだ」
「証拠があります」
私は空になった小皿を指しました。
「皿二枚」
「状況証拠だ」
「油のついた紙袋三枚」
「それがどうした」
「あと先輩の口の横に衣」
相馬先輩が止まりました。
水野さんが吹き出します。
片桐所長はコロッケを一口食べて、
静かに言いました。
「相馬」
「はい」
「認めろ」
「……三個です」
「ほら!」
主張がぶつかったら。
声を大きくするな。
証拠を出せ。
昭和六十三年。
証拠書類等の提出という制度は、
駅前の小さな惣菜屋だけでなく、
うちの事務所のコロッケ紛争にも、
かなり有効らしいです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




