[行政不服審査法31条・口頭意見陳述]現場編 「書面に書いてあることが全部でしょう」の嘘。紙だけで決めたい役所と、本人の言葉で“前提の間違い”を崩す口頭陳述
紙には、声がありません。
だから便利です。
泣き声も入らない。
言い淀みも入らない。
役所にとって都合の悪い、
「ちょっと待って。それ、前提から違いませんか」
という一言も、勝手には飛び出してきません。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の午前中、私は一枚の図面を逆さまに眺めていました。
「先輩」
「何だ」
「これ、道路ですか?」
「道路だ」
「こっちは?」
「側溝」
「じゃあ、この黒い長方形は?」
「橋板」
「橋板?」
「店に入るための板だ」
「……ずいぶん人生を左右する長方形ですね」
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけます。
「行政法じゃ、黒い線一本で店が潰れることもある」
「怖いことを普通の顔で言わないでください」
机の向こうには、一人の女性が座っていました。
三輪きぬさん。
六十四歳。
駅から少し離れた県道沿いで、四十年近く洋品店を営んでいる人です。
店の前には古い側溝があります。
道路から店へ入るには、その側溝をまたがなければならない。
そこで長年、店先に鉄製の小さな橋板を渡していました。
幅は一間ほど。
人が歩いて渡れる程度。
毎年、道路占用の許可を受けていたそうです。
ところが今年。
更新申請が通らなかった。
県の土木事務所から届いた紙には、
――道路交通の安全及び歩行者通行の円滑化を図るため、占用の継続を認めない。
そう書かれていました。
「板を外せって言われまして」
きぬさんが言いました。
「いつまでに?」
「今月いっぱいです」
「外したら、お店には?」
「裏口から入れます」
「お客さんは?」
「裏は細い路地でねえ。表からしか入れません」
つまり。
橋板を外す。
店の正面入口が使えない。
洋品店なのに、お客さんだけ忍者みたいに裏路地から侵入してください、という営業形態になります。
斬新すぎます。
「道路工事が始まるんですか?」
私が聞くと、きぬさんは首を振りました。
「駅前を広くする話はあるみたいですけど、うちの前はまだ何年も先だって」
「じゃあ、何で今年から?」
「それが分からなくて」
きぬさんは鞄からもう一枚、折れた紙を出しました。
土木事務所へ説明を聞きに行ったときのメモ。
担当者から、
こう言われたそうです。
――歩行者の邪魔になる構造物は順次整理しています。
「実際、邪魔になっています?」
「なってないと思うんですけどねえ」
きぬさんは弱々しく笑いました。
「私は毎日見てるだけだから」
相馬先輩が図面を指しました。
「写真はあるか」
「あります」
封筒から写真が出てきます。
昭和の写真。
店先。
鉄の橋板。
確かに県道側へ少し張り出している。
そして。
「……人、多くないですか?」
私は言いました。
店の前に、自転車。
買い物客。
子ども。
のぼり。
段ボール箱。
かなり雑然としています。
「これは」
きぬさんが顔をしかめました。
「去年の秋祭りの日ですよ」
「秋祭り?」
「商店街で福引きをやった日」
「いつもこうじゃない?」
「まさか」
きぬさんは身を乗り出しました。
「普段は自転車なんて横に置いてもらってます。箱だって出しません。あの日だけ、お向かいの店と一緒に福引きの景品を並べて」
私は写真をもう一度見ました。
なるほど。
写真だけなら、
通行の邪魔。
そう見えます。
でも。
その写真が日常を表しているとは限らない。
「土木事務所は、この写真を見て判断したんですか」
「たぶん」
「説明したんですよね。祭りの日だって」
「しました」
「何て?」
きぬさんは困ったように笑いました。
「『事情は書面で出してください』って」
「出したんですか」
「はい」
また紙が出てきました。
短い上申書。
普段は商品等を道路側に置いていない。
橋板は客の出入りに必要である。
歩行者の妨げにならないよう管理している。
ちゃんと書いてあります。
「これで駄目だったんですか」
「ええ」
「理由は?」
「審査は書類でしますから、って」
私は黙りました。
書面。
書面。
書面。
行政は紙が好きです。
たぶん紙も行政が好きです。
相思相愛です。
でも。
この件で争いたいのは、
単に、
「私は困っています」
ではありません。
役所が判断の前提にした状況と、
現実の日常が、
ずれているかもしれない。
そこです。
「不服申立ては?」
片桐所長が尋ねました。
「しました」
「いつ」
「二週間前です」
「何を」
「審査請求、と書いてありました」
私は反射的に顔を上げました。
審査請求。
頭の中で、現代の制度が一斉に起動します。
審理員。
弁明書。
反論書。
口頭意見陳述。
第三十一条。
処分庁への質問。
全審理関係人を招集――
「こはる」
「はい」
「顔」
「何です?」
「また未来に行ってる」
相馬先輩が言いました。
「行ってません」
「じゃあ何で宙見てた」
「制度改正と戦ってました」
「一人で戦うな」
危ない。
ここは昭和六十三年。
現代の行政不服審査法ではありません。
処分庁は県の土木事務所長。
その上に県知事がいる。
だから今回は、上級行政庁への審査請求。
そこまではいい。
でも。
現代みたいな審理員制度はない。
行政不服審査会への諮問もない。
そして。
今、私の頭に浮かんだ「第三十一条」も、
この時代の条文番号ではありません。
「所長」
私は言いました。
「口頭で話せませんか」
きぬさんが私を見ました。
「役所で?」
「はい」
「もう話しましたよ」
「窓口で説明するのとは別です」
相馬先輩がこちらを見る。
「続けろ」
「審査請求の審理って、書面が原則ですよね」
「ああ」
「でも、本人から申立てがあれば……」
そこまで言って。
私は止まりました。
第三十一条。
違う。
今は旧法。
「第二十五条」
片桐所長が言いました。
「あ」
「審理の方式だ」
「はい」
やられました。
未来人、また条文番号で転倒。
でも中身はつながっています。
旧法でも。
審査請求の審理は原則として書面。
ただし。
審査請求人や参加人から申立てがあったときは、
審査庁は、
口頭で意見を述べる機会を与えなければならない。
紙だけで終わるとは限らない。
「三輪さん」
私は言いました。
「もう一度、話す機会を求めましょう」
「また窓口へ行くんですか」
「窓口じゃありません」
「違うの?」
「審査請求の手続の中で、ちゃんと口頭で意見を述べる機会を求めます」
きぬさんは少し戸惑いました。
「そんなこと、できるんですか」
「できます」
言ってから。
私は相馬先輩を見ました。
「できますよね」
「そこで確認すんな」
「念のためです」
「できる」
よかった。
未来法を持ち込んでいたら恥ずかしくて転生し直すところでした。
片桐所長が、きぬさんの上申書を取りました。
「ただし」
「はい」
「喋れば勝てるわけじゃない」
そう。
そこです。
口頭意見陳述は、
感情をぶつける大会ではありません。
声が大きい人が勝つ制度でもない。
書面では伝わりにくい事実。
誤解されている前提。
写真だけでは分からない現場。
それを、
審理の中へ入れる。
「何を話す」
所長が私に聞きました。
私は写真を見ます。
「この写真が、普段の状態じゃないこと」
「それだけか」
「橋板だけなら歩行者の通行幅はどれくらい残るか」
「うん」
「自転車や商品箱は常時置いてない」
「うん」
「近隣の同じような橋板はどう扱われているか」
「そこも要る」
相馬先輩が図面を指しました。
「あと、この数字だ」
「数字?」
「歩道幅」
図面の端に、小さく寸法が書かれていました。
私は定規を当てます。
「これ……」
妙です。
橋板を含めた残りの幅。
役所の図面では、一・二メートル。
きぬさんが持ってきた店の改修図面では、
一・八メートル近くあります。
「六十センチ違う?」
「ああ」
「結構大きいですよね」
「人一人分だ」
相馬先輩が言いました。
「現地測ったほうが早い」
午後。
私たちは三輪洋品店へ行きました。
メジャー。
写真機。
図面。
そして相馬先輩。
この四つが揃うと、大抵役所に嫌がられる仕事が始まります。
「そこ持て」
「はい」
「もっと引け」
「これ以上行くと側溝に落ちます!」
「行政法は現場主義だ」
「物理的に落とさないでください!」
測る。
一・七八メートル。
もう一度。
一・七九メートル。
場所を変える。
一・八一メートル。
どう測っても、一・二ではない。
「先輩」
「ああ」
「図面、違います」
きぬさんが不安そうに聞きました。
「何か悪いんですか」
「悪いというか」
私は土木事務所の図面を見直しました。
「たぶん、この線」
道路端として引かれている位置が、
実際より内側です。
古い測量図を使ったのか。
店の改修前の資料なのか。
理由はまだ分からない。
でも。
判断の前提になった通行幅が違うなら。
話は変わります。
「写真だけじゃないですね」
私は言いました。
「数字もです」
相馬先輩が笑いました。
「やっと喋る内容ができたな」
「最初からありましたよ」
「『困ってます』だけじゃ、意見陳述じゃ弱い」
「はい」
「役所が何を間違えてるか、見せろ」
その言葉が、すとんと入ってきました。
怒る。
訴える。
お願いする。
それだけでは足りない。
処分の判断に使った前提を、
一つずつ確かめる。
そして。
間違っているなら、
そこを口頭で突く。
これが。
意見を述べる、ということなのかもしれません。
翌日。
県庁へ、口頭で意見を述べる機会を求める申立てを出しました。
三日後。
電話。
私が取りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『県総務部です。三輪きぬさんの審査請求について』
「はい」
『口頭で意見を述べたいとの申立てですが』
「はい」
『書面にはすでに主張が記載されています』
「はい」
『同じ内容をお話しいただいても、判断は変わらないと思いますが』
来ました。
柔らかい。
丁寧。
そして非常に嫌な感じの、
やらなくてもいいですよね圧。
「それは」
私は言いました。
「機会を設けない理由になりますか」
一瞬。
電話の向こうが止まりました。
『いえ。そういう意味ではありません』
「本人が申し立てています」
『承知しています』
「では、お願いします」
『……分かりました。日程を調整します』
電話を切りました。
相馬先輩が新聞の向こうから言います。
「強くなったな」
「何がです?」
「前なら『そうなんですか』で切ってただろ」
「切りませんよ」
「切ってた」
「たぶん切ってました」
認めます。
受験生時代の私は、
役所の人に、
「通常は必要ありません」
と言われたら、
法律上本当に必要ないのか。
それとも、
向こうが面倒だからそう言っているだけなのか。
そこを分けて考える癖がありませんでした。
でも今は。
原則。
義務。
裁量。
申立て。
許可。
そういう言葉の違いが、
人一人の店の入口につながっている。
「ところで」
私は言いました。
「三輪さん、一人で大丈夫でしょうか」
「何が」
「緊張すると、話が飛ぶって」
昨日も現場で言っていました。
役所へ行くと、
頭が真っ白になる。
聞こうと思っていたことを忘れる。
あとから家で、
あれも言えばよかった。
これも言えばよかった。
となる。
非常によく分かります。
私も試験会場で同じ症状になります。
「娘さんが一緒に行ければ」
「補佐人か」
「はい」
私はそこまで言って、
今度は慎重になります。
現代法。
補佐人と出頭。
審理員の許可。
旧法。
……。
「先輩」
「何だ」
「許可要りますよね」
「要る」
「よし」
「何がよしだ」
「未来と昭和が一致しました」
「知らん」
補佐人と一緒に出頭するには、
審査庁の許可がいる。
そこで、
きぬさんの娘の美恵子さんを補佐人として同行させたい旨も申し出ました。
美恵子さんは四十歳。
隣町で美容室をしています。
店の前の状況も昔から知っている。
そして何より、
母親が役所で言葉に詰まったとき、
横で事実関係を整理できる。
「私が全部喋ればいいの?」
事務所へ来た美恵子さんが聞きました。
「全部は駄目です」
「じゃあ何するの?」
「お母さんがうまく説明できないところを補う感じです」
「代わりに怒るのは?」
「やめてください」
「相当腹立ってるんだけど」
「それは分かります」
私は机に紙を三枚並べました。
一枚目。
県が使った現場図。
二枚目。
私たちの実測図。
三枚目。
普段の店先の写真。
「当日は、この三つに絞りましょう」
「それだけ?」
「それだけです」
美恵子さんが不満そうな顔をします。
「四十年店をやってきたこととか」
「話していいです」
「母さんがどれだけ苦労したかとか」
「それも背景としては」
「父さんが死んでから一人で――」
「美恵子さん」
片桐所長が言いました。
短い声でした。
「勝つために、減らす」
美恵子さんが黙ります。
所長は三枚の紙を指しました。
「審査する側に分からせるべきことは何か」
きぬさんが写真を見ました。
「普段は、邪魔してない」
「そうです」
「役所の図面より、道は広い」
「そうです」
「それを言えばいい?」
「はい」
きぬさんは、ゆっくり頷きました。
「それなら言えそう」
その一言に。
私は少し嬉しくなりました。
法律家っぽい難しい言葉を教えるより。
本人が、
自分の言葉で、
必要なことを言える形にする。
たぶん、そのほうが強い。
口頭で意見を述べる日。
県庁の会議室。
長机。
灰色の壁。
灰色の書棚。
灰色の背広。
役所の会議室は、なぜここまで色彩に敵意があるのでしょう。
審査庁側の職員が三人。
土木事務所から担当者が二人。
そして。
見覚えのある細い眼鏡。
「沢渡課長?」
「どうも」
「市役所じゃなかったんですか」
「県へ出向中です」
「行政法の壁って人事異動するんですね」
「意味が分かりません」
沢渡課長。
まさかの県庁配置。
総務部で不服申立て関係の事務を担当しているらしい。
この町の行政救済には、この人が標準装備なのでしょうか。
沢渡課長が書類を揃えます。
「では、三輪さん」
「はい」
「本日は、審査請求について、口頭で意見を述べていただきます」
きぬさんの手が震えていました。
美恵子さんが横にいます。
補佐人としての同行は許可されています。
私は少し離れた席から見守りました。
「どうぞ」
きぬさんが一度、息を吸います。
「私は」
声が小さい。
「四十年、あそこで店をやってます」
土木事務所の担当者がメモを取る。
「板がないと、表から店に入れません」
そこで言葉が止まりました。
美恵子さんが横から、
「母さん、写真」
と小さく言います。
「ああ」
きぬさんは写真を持ち上げました。
「この写真ですけど」
秋祭りの日の写真。
「これは、いつもの店じゃありません」
担当者が顔を上げました。
「あの日は商店街の福引きで、人も、自転車も、荷物も多かったんです」
沢渡課長が聞きます。
「通常時は?」
「自転車は横へ置いてもらいます。商品も出しません」
「それを示す写真はありますか」
「あります」
普段の写真。
三枚。
きれいなものです。
店先にあるのは橋板だけ。
「それから」
きぬさんの声が少し強くなりました。
「道の幅が違います」
土木事務所の担当者が止まりました。
「幅?」
きぬさんは私たちの実測図を出しました。
「そちらの図面だと、一・二メートルって書いてあります」
「はい」
「でも測ったら、一・八メートル近くありました」
「誰が測定したんですか」
担当者が聞きます。
相馬先輩の眉が少し上がりました。
来ました。
そこを攻めますか。
「うちで測りました」
相馬先輩が答えます。
「専門の測量ではない。だが何度測っても、一・七八から一・八一だ」
「簡易測定ですよね」
「だから確認しろと言ってる」
会議室が静かになりました。
相馬先輩は、県の図面を指しました。
「こっちの一・二は、いつ測った数字だ」
担当者が書類をめくります。
「昭和五十七年の現況図を基礎にしています」
「その後、側溝工事してないか」
また書類。
「……昭和五十九年に改修があります」
あ。
私は心の中で声を上げました。
そこです。
「改修後の幅は?」
沢渡課長が聞きました。
担当者が黙ります。
「確認していません」
「では」
沢渡課長が淡々と言います。
「本件処分の判断に用いた一・二メートルという数字は、改修前の資料ですか」
「可能性があります」
空気が変わりました。
大声は出ていません。
誰も机を叩いていません。
でも。
紙の上では動かなかったものが、
一つ、
ずれた。
私は膝の上で拳を握りました。
きぬさんが言います。
「私」
一同が見る。
「難しいことは分かりません」
声はまだ震えています。
「道は県のものだし、勝手に板を置いていいとは思ってません」
ゆっくり。
でも、はっきり。
「危ないなら直します。狭いなら小さくします」
そして。
「でも、狭いと思ってた道が、ほんとは狭くないなら」
きぬさんは担当者を見ました。
「それを確かめてから、駄目って言ってほしいんです」
誰も喋りませんでした。
その言葉は、
法律用語ではありません。
裁量。
事実誤認。
判断過程。
比例。
そんな言葉は一つも出ていない。
でも。
核心はそこにありました。
処分をするな。
ではない。
ちゃんと確かめてから決めてくれ。
それだけです。
条文は冷たい。
でも。
冷たい手続が、
人にそれを言わせる時間を作る。
少し不思議な感じがしました。
そのとき。
美恵子さんが手を上げました。
「一つ聞いていいですか」
私は一瞬、背筋を伸ばしました。
現代法なら。
口頭意見陳述の際、
審理員の許可を得て、
処分庁等に質問することができる。
でも。
ここは昭和六十三年。
現行法第三十一条第五項の世界ではありません。
「美恵子さん」
私は小声で言いました。
「ちょっと待って」
「何?」
沢渡課長は美恵子さんへ向き直りました。
「質問という形ではなく、補足したい意見があるなら聞きます」
「あ」
「事件に関係することでお願いします」
「はい」
美恵子さんは言いました。
「母の店の隣にも、同じような橋板があります」
担当者が顔を上げる。
「そこは、更新されてます」
また。
空気が動きました。
「場所は?」
「三軒隣です」
「幅は?」
「母の店とほとんど同じです」
沢渡課長が土木事務所の担当者を見ます。
「確認していますか」
「……個別の台帳を確認します」
「お願いします」
のらりくらりしているようで。
法理と事実が揃った瞬間だけ、
この人は逃げません。
口頭で話す意味。
私は少し分かってきました。
書面にすべて書くことはできる。
むしろ原則は書面審理。
それでも。
人が目の前で話すと、
審査する側が、
その場で引っかかる。
この数字は何だ。
この写真はいつだ。
隣はどうなっている。
紙に眠っていた疑問が、
会話の中で起き上がる。
もちろん。
何でも喋ればいいわけじゃない。
美恵子さんが、
「それから母は父が亡くなって――」
と言いかけると、
きぬさん自身が袖を引きました。
「それはいいよ」
「でも」
「今日の話じゃない」
私は思わず目を丸くしました。
強い。
昨日まで、
何を言えばいいか分からない、
と困っていた人です。
今は自分で、
事件に関係することと、
そうでないことを分けている。
口頭陳述は、
好きなだけ喋る場じゃない。
争点を、
本人の声で、
必要なところへ戻す場。
そういうことなのかもしれません。
終了後。
廊下へ出ると、
きぬさんが大きく息を吐きました。
「寿命が三年縮んだわ」
「そんなにですか」
「役所であんなに喋ったの初めて」
美恵子さんが笑います。
「でも母さん、私よりちゃんとしてたよ」
「当たり前でしょう。私の店なんだから」
その言葉に。
私は少しだけ胸が温かくなりました。
自分の店。
自分の処分。
自分の審査請求。
代理人や補佐人がいても。
最後に困っているのは本人です。
だからこそ、
本人が口を開ける場所には意味がある。
「まだ勝ったわけじゃありません」
私が言うと、
「分かってます」
きぬさんは答えました。
「でもね」
「はい」
「ちゃんと聞いてもらえたから」
それで少し違う、と。
きぬさんは言いました。
一週間後。
県から連絡が入りました。
相馬先輩が受話器を置きます。
「現地確認するってよ」
「県が?」
「ああ」
「処分、取消しですか?」
「早まるな」
いつもこれです。
私の喜びには毎回、相馬先輩という行政上の執行停止がかかります。
「まず実測し直す。それまでは橋板の撤去を求めない」
「じゃあ」
「当面、店は続けられる」
私は立ち上がりました。
「十分前進じゃないですか!」
「だからって最終結論じゃねえ」
「分かってます」
でも。
処分通知では、
撤去。
それだけだった。
窓口では、
書面で出してください。
審査請求でも、
書面に書いてありますよね。
それで終わりかけていた。
そこから。
本人が口頭で話し、
写真の特殊事情を説明し、
図面の数字を指摘し、
近隣の扱いまで浮かび上がった。
そして。
役所が現場をもう一度見ることになった。
処分は、まだ取り消されていません。
でも。
紙だけで固まっていた判断が、
現場へ戻った。
それは大きい。
午後。
三輪きぬさんが事務所へ来ました。
手には、やたら大きな紙袋。
「結果聞きました」
「まだ現地確認ですからね」
「分かってますよ」
そして紙袋を机に置く。
「これ」
「何です?」
「靴下」
「靴下?」
「売れ残り」
出てきました。
靴下。
靴下。
靴下。
大量です。
「こんなにもらえません!」
「いいのよ。去年の柄だから」
相馬先輩が一足持ち上げました。
赤と黄色の横縞。
「派手だな」
「先輩に似合いますよ」
「どこがだ」
「行政法よりは明るいです」
「比較対象がおかしい」
きぬさんが笑います。
「片桐先生には黒いの」
所長へ黒い靴下。
「朝比奈さんには、これ」
私には水玉。
「可愛い」
「相馬さんは、それ」
赤と黄色。
「何で俺だけ祭りなんだ」
「似合うから」
「本人も言ってますよ」
「うるせえ」
笑い声。
その途中。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『沢渡です』
私は背筋を伸ばします。
「はい」
『三輪さんの件、現地確認の日程が決まりました』
「ありがとうございます」
『それと』
「はい」
『土木事務所で他の占用案件も調べました』
「三軒隣ですか」
『ええ。更新されています』
「やっぱり」
『ただし、条件が少し違う。ですので、直ちに同じ扱いにすべきとは言えません』
さすがです。
簡単には認めない。
でも。
『一方で、こちらの現況図が古かったことは事実です』
私は黙って聞きました。
『改修後の実測をしないまま、旧図面の数値を前提に判断した点は確認が必要です』
「……はい」
『朝比奈さん』
「何でしょう」
『口頭で話すというのは、情に訴えるためだけの制度ではありません』
「はい」
『書面の前提を崩すこともある』
私は思わず笑いました。
「今日の授業のまとめですか?」
『事務連絡です』
「絶対ちょっと授業ですよね」
『では』
切れました。
本当にこの人。
敵なのか先生なのか分かりません。
「何だって?」
相馬先輩が聞きます。
「古い図面を使ってたのは認めました」
「ほう」
「現地確認して、判断し直すそうです」
片桐所長が黒い靴下を机の端へ置きました。
「なら、口を開いた意味はあったな」
「はい」
私は窓の外を見ました。
行政不服審査。
書面審理が原則。
それは合理的です。
何でも会議室に集まって延々喋っていたら、
簡易迅速どころではありません。
紙なら、
主張を整理できる。
記録にも残る。
同じ基準で検討しやすい。
冷たい。
でも役に立つ。
ただ。
紙だけでは落ちるものがある。
写真一枚の撮影日。
図面一枚の古さ。
本人にとっては当然すぎて、
うまく文章にできなかったこと。
それを、
本人の声で拾い直す道がある。
私は今日、
口頭意見陳述という制度を、
「喋る権利」
だと思っていました。
少し違う。
たぶん。
――紙だけで決めるな、と言える手続。
そっちのほうが近い。
「こはる」
所長が言いました。
「何だ」
「いえ」
「また考え込んでただろ」
「今日の教訓です」
「言ってみろ」
私は少し考えました。
「書面審理は、口を閉じろって意味じゃない」
所長が頷きます。
「続けろ」
「本人が申し立てれば、紙だけでは伝わらない事実を、自分の言葉で審理に戻せる」
「そうだ」
相馬先輩が横から言いました。
「ただし、何でも喋っていいわけじゃねえぞ」
「分かってます」
「事件に関係することを話せ」
「はい」
「補佐人連れてくなら?」
「許可」
「未来の第三十一条は?」
「持ち込みません!」
「処分庁への質問は?」
「それも現代法の仕組みをそのまま持ち込まない!」
「よし」
「何で先輩が試験官なんですか」
きぬさんが目を丸くしています。
「未来?」
「気にしないでください」
「第三十一条?」
「もっと気にしないでください」
転生者は口頭意見陳述より先に、
余計なことを喋らない訓練が必要かもしれません。
相馬先輩が、赤と黄色の靴下を机に置きました。
「これ、本当に俺が履くのか」
「せっかくですし」
「嫌だ」
「申立てます?」
「誰に」
「三輪さんに」
きぬさんが即答しました。
「棄却」
「早えな」
「簡易迅速です」
私は吹き出しました。
「でも、公正ですか?」
「私が決めるんだから公正よ」
「それ、旧制度の弱点みたいなこと言ってますよ!」
相馬先輩が私を見る。
「また未来の話か」
「今のは半分だけです」
「半分でもやめろ」
片桐所長が小さく息を吐きました。
「こはる」
「はい」
「靴下を片付けろ」
「私ですか?」
「見習いだろ」
「職務範囲が広すぎます!」
その日の夕方。
黒い靴下。
水玉の靴下。
赤と黄色の靴下が、
片桐行政書士事務所の机に並びました。
まだ処分は覆っていません。
店の橋板が来年も残るかも分かりません。
それでも。
役所は、
もう一度現場を見る。
古い図面を測り直す。
本人が言ったことを、
審査の材料として受け止める。
昨日まで、
「書面に書いてあることが全部です」
で閉じていた話が、
そこまで動きました。
法律は、
必ずしも人に優しい言葉ではできていません。
書面。
審査。
申立て。
許可。
どれも冷たい。
でも。
その冷たい制度の中に、
「本人にも喋らせろ」
という仕組みが一本入るだけで、
紙の上で消えかけていた生活が、
もう一度、審理の机へ戻ってくることがあります。
人の話を聞く。
ただそれだけのことを、
役所の善意に任せず、
手続として用意する。
たぶん。
それが法律の冷たさが人を救う、ということなのだと思います。
私は水玉の靴下を鞄へ入れました。
「先輩」
「何だ」
「明日、それ履いてきてくださいね」
「断る」
「口頭で理由を述べる機会を与えます」
「派手だから嫌だ」
「却下」
「お前が決めるな」
「不服があるなら――」
「誰に申し立てるんだ」
私は奥を見ました。
「所長」
「棄却」
「まだ申立ててません!」
どうやら。
口頭で意見を述べる機会が保障されていても、
結論まで保障されるわけではありません。
そこもまた、
行政不服審査法らしいところでした。
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