[行政不服審査法30条・反論書]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、豆腐が似合いません。
いや。
法律事務所に似合う食べ物が何なのかと聞かれると困るのですが。
少なくとも。
六法。
申立書。
事件記録。
その横に、
木綿豆腐。
絹ごし豆腐。
油揚げ。
がんもどき。
という並びは、かなり自由です。
「先輩」
「何だ」
「がんもどき、一個減ってません?」
「気のせいだ」
「まだ夕飯前ですよ」
「証拠はあるのか」
「口の横に醤油ついてます」
相馬先輩が黙りました。
行政法以前の問題でした。
私はため息をついて、自分の机へ戻ります。
目の前には二つの書類。
静岡県浜松土木事務所から出された弁明書。
そして。
水野源吉さん名義で提出した反論書の控え。
ノートの一番上に、私は大きく書きました。
――反論書。
その下に、
――「反対意見を書く紙」ではない。
と書きます。
「何だそれ」
相馬先輩が覗き込みました。
「今日のテーマです」
「反論書だろ」
「はい」
「反論する紙じゃねえか」
「そうなんですけど、それだけで覚えると危ないんですよ」
「お前、また受験生みたいなこと言ってんな」
「受験生だったんです」
「今は見習いだ」
「中身は受験生です」
「胸張るな」
でも。
今回、水野さんの事件をやってみて、
ようやく分かりました。
反論書は、
自分の不満を好きなだけ追加する紙ではありません。
処分庁が弁明書で示した内容に対して、
審査請求人が、
そこは違う。
その事実は間違っている。
その説明では結論につながらない。
と返すための書面です。
今回なら。
処分庁は、
水野豆腐店の日よけについて、
歩道へ約八十センチ張り出している。
だから歩行者の通行に支障を生じさせるおそれがある。
と弁明しました。
ところが。
実際に約八十センチ張り出していたのは、
毎日片付ける商品台。
問題になっている固定式の日よけは、
約四十センチ。
「先輩」
「何だ」
「これ、反論書がなかったらどうなってたと思います?」
「知らん」
「真面目に」
相馬先輩が煙草を灰皿へ置きました。
「審査庁が自分で気づけば直す」
「気づかなかったら?」
「八十センチって記録を前提に審理が進むかもしれん」
「ですよね」
そこです。
私はノートに書きました。
――弁明書=処分庁が処分の正当性を説明する。
――反論書=その説明に対し、審査請求人が反論する。
この往復。
地味です。
ものすごく地味。
裁判ドラマなら、
証人が突然立ち上がったり、
新証拠がドンと出たりしそうな場面ですが。
行政不服審査では、
封筒が届く。
読む。
赤鉛筆を引く。
紙を書く。
出す。
以上。
映像映えが壊滅的です。
でも。
人の生活を守るのは、
案外こういう地味な往復なのかもしれません。
「そもそも」
私はページをめくりました。
「反論書って、必ず出さないといけないんですか」
相馬先輩がこちらを見ます。
「お前が説明するんじゃねえのか」
「質問形式です」
「面倒臭えな」
奥から片桐所長の声。
「答えろ」
「俺が?」
「そうだ」
相馬先輩が露骨に嫌な顔をしました。
「……出せる、だろ」
「正解です」
「何だ、その上から目線」
私は大きく、
提出することができる。
と書きました。
「義務じゃありません」
「そうだな」
「反論書を出さなければ、審査請求が当然に却下される、という話でもない」
所長が頷きます。
「ただし」
「はい」
「出さなくていい、とは違う」
「ですよね」
ここ。
受験生だった頃の私なら、
きっと○×問題として覚えます。
反論書の提出は義務である。
――×。
提出することができる。
はい、おしまい。
でも。
実務で見ると。
全然、おしまいではありません。
今回みたいに、
処分庁の弁明書を読んで初めて、
八十センチ。
という事実認定が出てきた。
他店舗も同じように整理している。
という主張も出てきた。
それに対して、
こちらには、
現地測定の結果。
他店舗の許可書。
がある。
「こんなの」
私は言いました。
「反論できるなら、したほうがいいですよね」
「場合による」
所長が言いました。
「何でも書けばいいわけじゃない」
「ですよね」
「相手が書いていないことまで広げすぎるな」
「はい」
「争点を増やすだけの反論もある」
私は少し考えます。
「反論書って」
「何だ」
「言いたいこと全部を書く場所じゃない」
「そうだ」
「弁明書を読んで、必要なところへ返す」
「そうだ」
現場編で所長が言った、
狙って返す。
という言葉。
あれが一番分かりやすい。
私はノートの端へ書きました。
――反論書は、撃ち返すのではなく、狙って返す。
「物騒だな」
「比喩です」
「行政書士試験に書くなよ」
「書きません」
次。
提出期間。
「今回、十日でした」
「ああ」
「法律で一律十日なんですか」
「違う」
相馬先輩が即答しました。
「お」
「何だ」
「今日は調子いいですね」
「馬鹿にしてんのか」
「してません」
反論書について、
審査庁が、
提出すべき相当の期間を定めることがあります。
そうなれば。
その期間内に提出する。
今回の十日は、
法律が全国一律で、
反論書は必ず十日以内。
と決めているわけではない。
「相当の期間」
私はそこへ丸をつけました。
「行政法、この言葉好きですよね」
「便利だからな」
「受験生には不便なんですよ」
十日。
二十日。
三十日。
数字なら覚えればいい。
相当の期間。
と言われると、
急に霧が出ます。
でも。
制度として考えれば当然です。
事件の内容によって違う。
弁明書が三枚なのか、
三百枚なのか。
証拠を集める必要があるのか。
事情は一律ではありません。
「ただ」
所長が言いました。
「期間を定められたら軽く見るな」
「はい」
「出すなら、その中で出せ」
「はい」
現場編で相馬先輩が言った、
十日もある。
ではなく。
十日しかない。
という感覚。
あれも今なら分かります。
期限というものは、
カレンダーの上では未来でも、
資料を集めて、
依頼人に確認して、
文章を整えて、
提出しようとすると、
ものすごい勢いで今日になります。
「今回なら」
私は数えます。
「現場写真を探す」
「うん」
「測定記録を整理する」
「うん」
「向かいの店の許可書を確認する」
「うん」
「水野さんに事実関係を確認する」
「うん」
「反論書を書く」
「うん」
「所長に削られる」
「余計だ」
「重要な工程です」
実際。
私の文章から、
所長は、
感情。
断定。
余計な形容詞。
をかなり削りました。
「『明らかに不合理である』」
私は自分の下書きを読みます。
「削られました」
「明らかじゃなかったからな」
「『到底容認できない』」
「誰が容認できないんだ」
「水野さん」
「それで処分の違法不当が決まるのか」
「決まりません」
「なら要らん」
冷たい。
でも。
正しい。
「反論書は」
私は書きます。
――感情の強さではなく、弁明の前提を崩す。
「それならいい」
所長が言いました。
今回なら。
第一。
日よけの張り出しを約八十センチとする弁明書の事実認定に疑問がある。
実測は約四十センチ。
処分庁自身も、
商品台の寸法との混同を認めた。
第二。
同地区の占用物件を同様に整理しているとの説明と、
他店舗への更新許可という客観的事実が一致しない。
第三。
水野さんだけを不許可とする具体的な判断基準が明らかではない。
この三つ。
「こう見ると」
私は言いました。
「反論書って、審査請求書の二号機じゃないですね」
「何だ二号機って」
「審査請求書をもう一回強くしたものじゃない」
「当たり前だ」
「受験生だと、その違いがぼんやりするんですよ」
審査請求書では、
なぜその処分を争うのか、
こちらの主張を出す。
弁明書では、
処分庁が処分の理由や正当性を説明する。
そこで出てきた説明に、
反論書で答える。
つまり。
手続が一方向ではない。
少しずつ争点が絞られていく。
「最初から全部分かってるとは限らないんですね」
私は言いました。
「そりゃそうだ」
相馬先輩が言います。
「処分された側は、役所の中で何を見て決めたか全部知ってるわけじゃねえ」
「そうですよね」
「だから向こうに説明させる」
「それを見て」
「違うところがあれば返す」
「なるほど」
私はノートに矢印を引きました。
審査請求人
↓
審査請求
↓
処分庁の弁明
↓
審査請求人の反論
この往復。
ただの書類交換ではありません。
最初は、
水野さん側。
理由が分からない。
自分だけ不許可にされた。
という状態だった。
処分庁が弁明したことで、
八十センチ。
他店も同じ扱い。
歩行者安全。
という理由が見えた。
理由が見えれば。
確かめられる。
比べられる。
反論できる。
つまり。
説明させること自体が、
救済への一歩になる。
私はペンを止めました。
「制度って面白いですね」
「急にどうした」
「役所の言い分を聞くことが、住民を不利にするとは限らない」
「当たり前だろ」
「だって、普通は相手に反論されたら嫌じゃないですか」
「まあな」
「でも弁明書が出たからこそ、八十センチの間違いが見つかった」
「そうだな」
言い分を出させる。
反論させる。
また必要なら資料を見る。
そうやって、
行政の判断をもう一度分解する。
これが、
行政不服審査の審理なのかもしれません。
さて。
ここからが、
転生者には危険区域です。
私はノートに、
大きく二つ書きました。
昭和六十三年。
そして。
現代。
「来たな」
相馬先輩が言います。
「はい」
「また未来の制度か」
「ここ大事なんです」
「俺には大事じゃねえ」
「読者には大事です」
「誰だ読者って」
「独り言です」
危ない。
第四の壁まで行政不服審査されそうです。
私は咳払いしました。
「今、私たちが使っているのは旧制度」
「そうだ」
「現代とは、審理の仕組みがかなり違います」
私の頭の中には、
現代の流れがあります。
審査請求書。
審理員。
処分庁の弁明書。
審査請求人への送付。
反論書。
参加人の意見書。
そして、
反論書や意見書も関係する当事者へ送られていく。
でも。
昭和六十三年の今。
審理員はいません。
「現場で私が最初にやらかしました」
「『審理員に出します』な」
「忘れてください」
「嫌だ」
「お願いします」
「嫌だ」
現代制度では、
原則として、
審査庁が審理員を指名し、
その審理員が審理手続を担当する仕組みがあります。
処分に関与した職員が、
そのまま審理員になるわけではない。
そして。
処分庁から出された弁明書は、
審査請求人や参加人へ送られる。
審査請求人は反論書を提出できる。
参加人は意見書を提出できる。
「ここ」
私は『反論書』と『意見書』を並べました。
「試験で入れ替えられたら嫌ですね」
「どう違う」
「反論書を出すのは審査請求人」
「うん」
「意見書を出すのは参加人」
「うん」
「反論書は、処分庁の弁明書に記載された内容への反論」
「参加人は?」
「事件についての意見を書く」
「じゃあ」
相馬先輩が私のノートを指します。
「参加人が反論書」
「違います」
「審査請求人が意見書」
「違います」
「処分庁が反論書」
「違います!」
「覚えてんじゃねえか」
「試したんですね?」
「試した」
腹が立つ。
でも。
こういう引っかけ、
本当にありそうです。
私は大きく書きました。
審査請求人――反論書。
参加人――意見書。
「まず主体を間違えない」
「そうだ」
「そして現代法では」
私は続けます。
「審理員が反論書を受け取ったら、それを抱え込んで終わりじゃない」
「どうする」
「参加人と処分庁等へ送る」
「意見書は?」
「審査請求人と処分庁等へ送る」
「なんでだ」
私は少し考えました。
「一方だけが知らない主張で審理を進めないため」
片桐所長がこちらを見ます。
「続けろ」
「処分庁が何を言ったか、審査請求人が知る」
「うん」
「審査請求人がどう反論したか、処分庁側も知る」
「うん」
「参加人が意見を出せば、それも審査請求人と処分庁側へ伝わる」
「それで?」
「誰か一人だけが、ほかの人に見えないところで主張を積み上げない」
所長が頷きました。
「そういうことだ」
私は少し感動しました。
提出。
送付。
提出。
送付。
条文で読むと眠い。
かなり眠い。
でも。
意味を考えると。
これは、
同じ机の上へ、
みんなの言い分を載せるための仕組みなんです。
「所長」
「何だ」
「条文って」
「うん」
「『誰に送付する』まで細かく書く意味、前は分かってませんでした」
「今は?」
「見えないところで話を決めさせないため」
「そうだ」
処分庁の言い分だけ。
審査請求人の言い分だけ。
参加人の言い分だけ。
それでは、
反論できません。
相手が何を言っているのか知るから、
初めて答えられる。
当たり前です。
でも。
その当たり前を、
役所の善意ではなく、
手続として置く。
そこに意味がある。
「制度の冷たさって」
私は言いました。
「こういうところなんでしょうね」
「何がだ」
「仲良く話し合いましょう、じゃない」
「うん」
「この書面はこっちへ送る。この書面はこっちへ送る。期間を定めたらその期間内。誰が何を出せるかも決まってる」
「冷たいな」
「でも、だから」
私はノートを見ました。
「役所に好かれてる人だけ話を聞いてもらえる、にはなりにくい」
所長が小さく頷きました。
条文は冷たい。
でも。
冷たいから、
人によって温度を変えにくい。
私は最近、
その冷たさが嫌いではありません。
さて。
ここで。
旧法と現代法の違い。
「昭和六十三年には審理員がいない」
「それはもう聞いた」
「大事なので二回言います」
「受験参考書か」
「そして、現代の行政不服審査法では、一般的な不服申立てが原則として審査請求へ整理されている」
「ああ」
「昭和六十三年は違う」
審査請求。
異議申立て。
旧制度では、この二つが基本的な不服申立てとして並んでいました。
今回の水野さんは、
県の土木事務所による処分を、
その上の審査庁に争う形。
だから審査請求。
一方。
処分庁自身に見直しを求める異議申立てという仕組みもある。
「前に川瀬さんの件でやりました」
「ああ。花屋の婆さんな」
「本人に本人の答案を採点し直してもらう方式」
「まだその例え使うのか」
「分かりやすいので」
旧制度では。
審査請求と異議申立てが並び、
しかも、
処分庁自身が見直す場面もある。
現代制度を見ると、
一般的な手続は原則として審査請求へ整理され、
審理員という役割も置かれている。
私は今日の事件を思い出しました。
もし。
水野さんへの不許可を出した担当者だけが、
水野さんの反論を聞き、
そのまま自分で、
やっぱり私が正しいです。
と決める構造だったら。
水野さんは不安でしょう。
もちろん。
処分庁自身だからこそ、
間違いに気づけば早く直せる。
現場をよく知っている。
という面もあります。
でも。
手続の公正さをどう見せるか。
どう確保するか。
これは別の問題です。
「だから現代制度では」
私は言いました。
「審理を担当する人を分ける方向へ進んだ」
「未来の役人も大変だな」
相馬先輩が言いました。
「制度を増やすと仕事増えますからね」
「お前みたいなのが反論書を出すしな」
「正しい権利行使です」
「役所から見れば紙が増える」
「でも」
私は水野さんの反論書を見ました。
「紙が一枚増えたから、八十センチが四十センチに戻ったんですよ」
相馬先輩が黙ります。
そして。
「まあな」
と言いました。
それで十分でした。
次。
私は赤鉛筆を持ちます。
――反論書を提出したら勝ち?
「違う」
相馬先輩。
「早い」
「当たり前だろ」
「今回、まだ裁決出てませんからね」
反論書を出した。
処分庁の誤りを一つ見つけた。
だから。
必ず処分取消し。
ではありません。
ここも大事です。
今回。
八十センチという事実は間違っていました。
でも。
道路占用許可の更新を認めなかった理由が、
それだけだったかどうかは別問題。
歩行者安全。
将来の整備。
道路管理。
ほかの事情が、
処分を支える可能性はあります。
「だから所長」
私は言いました。
「『明らかに不合理だ』を削ったんですね」
「そうだ」
「一個間違ってたから全部無効!」
「雑すぎる」
「ですよね」
行政法は、
敵の弱点を一つ見つけて、
必殺技で終わり。
とはいきません。
一つずつ見る。
その事実認定が間違っている。
では、
その間違いが処分判断にどれだけ影響したのか。
ほかの根拠はあるのか。
他の店舗との差は説明できるのか。
処分の結論を維持できるのか。
そうやって。
判断の土台を確認する。
「地味ですね」
「だからお前、さっきから何回地味って言うんだ」
「だって地味です」
「豆腐屋の日よけなんてそんなもんだ」
そう。
豆腐屋の日よけです。
国の存亡もかかっていない。
何億円の事件でもない。
でも。
水野さんにとっては、
毎日の商売の話。
夕方の日差し。
豆腐の温度。
古い店の電気容量。
数十万円の工事費。
その一つ一つが生活です。
行政不服審査という制度は、
そういう小さい困りごとにも使われる。
だから。
書面一枚。
数字一つ。
送付一回。
そんな細かい手続が、
実は馬鹿にできない。
「よし」
私は次の見出しを書きました。
――試験で間違えやすいところ。
「来たな」
「来ました」
整理します。
まず。
反論書を提出できるのは、
審査請求人。
参加人が提出するのは、
意見書。
「入れ替え注意」
「うん」
次。
反論書は、
必ず提出しなければならない。
ではない。
提出することができる。
「義務じゃない」
「うん」
ただし。
提出期間を定められた場合。
出すなら、
その期間内。
「うん」
次。
現代法。
処分庁の弁明書を審査請求人らへ送る役割を担うのは、
審理員。
審査請求人から反論書が出れば、
それを参加人や処分庁等へ送る。
参加人から意見書が出れば、
審査請求人や処分庁等へ送る。
「誰から誰へ」
私は言いました。
「ここ、問題にしやすそうですね」
「覚え方は?」
相馬先輩。
「自分だけ持ってちゃ駄目」
「雑」
「じゃあ」
少し考えます。
――弁明を見せて反論させる。反論も見せて応答可能にする。
「まあいい」
「採用」
次。
昭和六十三年には、
現代の審理員制度は存在しない。
「ここは物語特有ですね」
「何が」
「今の受験生が昭和へ来たら間違える」
「普通来ねえよ」
「それを言ったら終わります」
旧法と現代法を混ぜない。
これ。
現場では致命的です。
制度名。
申立期間。
申立先。
審理主体。
全部、
時代で変わることがあります。
現代知識があるから強い。
と思って転生した私ですが。
行政法に限っては、
現代知識を持っているせいで、
逆に地雷を踏むことがあります。
「今日だけで一個踏んだな」
「審理員ですね」
「そうだ」
「もう掘り返さないでください」
そして。
私は最後のページを開きました。
今日の一行の覚え書き。
「所長」
「何だ」
「反論書を一言で言うなら?」
「弁明に答える書面だ」
「短い」
「駄目か」
「完璧です」
私は書きます。
――反論書は、審査請求人が処分庁の弁明に答えるための書面。
「普通だな」
相馬先輩が言います。
「試験用です」
「物語用は?」
「あります」
その下へ。
私はもう一行書きました。
――役所の説明が出たら終わりじゃない。説明が出たから、間違いを指せる。
相馬先輩が黙りました。
「どうです」
「長い」
「内容は?」
「まあ悪くねえ」
「褒めた」
「気のせいだ」
またそれです。
夕方。
窓の外が少しずつ暗くなっていきます。
水野豆腐店の日よけが、
最終的にどうなるかは、
まだ分かりません。
審査庁は、
追加資料を求めています。
処分庁は、
八十センチという記載を訂正しました。
でも。
処分自体はまだ取り消されていない。
裁決も出ていない。
完全勝利ではありません。
それでも。
水野さんが最初にここへ来たとき。
役所の紙には、
歩行者の安全のため。
という一言しかありませんでした。
役所がそう判断しました。
以上。
そんな壁でした。
そこへ審査請求をした。
処分庁が弁明した。
数字が出た。
比較の説明が出た。
こちらが確認した。
違っていた。
反論した。
審査庁が、
もう一度資料を出せ。
と言った。
ほんの少しずつ。
閉じていた箱が開いています。
法律は、
相手を黙らせるためだけにあるわけではない。
むしろ。
言わせる。
聞かせる。
返させる。
その順番まで決めることがある。
弁明書。
反論書。
意見書。
送付。
期間。
眠くなる言葉ばかりです。
でも。
その眠い仕組みがなければ。
八十センチ。
と役所が一度書いた数字を、
一人の豆腐屋さんが、
いや、違います。
と正式に返す場所さえないかもしれない。
条文は冷たい。
誰が泣いているかではなく。
誰が何を書いたか。
誰に送ったか。
期間内か。
何を根拠にしているか。
そんなことばかり見ます。
でも。
その冷たさがあるから。
役所が言ったから正しい。
にもならない。
住民が困っているから正しい。
にもならない。
同じ机の上に、
弁明と反論を並べられる。
そして。
事実で比べられる。
私はノートを閉じました。
「終わったか」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「じゃあ食うぞ」
「何を」
「豆腐」
「まだ食べてなかったんですか」
「がんもどきは食った」
「やっぱり食べたんじゃないですか!」
相馬先輩が木綿豆腐を皿へ出します。
「ねぎ取れ」
「昨日私が買ったやつですよね」
「そうだ」
「私は、ねぎ購入処分に反論したはずですが」
「却下されたろ」
「処分庁が勝手に却下しないでください」
「じゃあ審査請求するか」
「します」
「誰に」
私は片桐所長を見ました。
「所長に」
所長は豆腐へ醤油を垂らしながら、
一言。
「棄却」
「まだ何も言ってません!」
「理由はある」
「何ですか」
「ねぎは必要だ」
「弁明が雑!」
「反論は?」
私は止まりました。
そして。
ねぎの皿を見ます。
昨日買った一束。
価格百二十円。
事務所三人。
うち私も食べる。
「……ありません」
「なら終わりだ」
相馬先輩が笑いました。
「反論書、出せねえな」
「出せます! 出せますけど、反論する中身が弱いだけです!」
「同じようなもんだ」
「違います!」
片桐所長が豆腐を一口食べました。
「こはる」
「はい」
「覚えとけ」
「何をです?」
「反論できることと、反論が通ることは別だ」
私は黙りました。
それ。
今日の授業の締めとして、
ものすごく正しい。
「所長」
「何だ」
「今の、ノートに書いていいですか」
「好きにしろ」
私は慌ててノートを開きました。
最後の余白。
そこへ一行。
――反論する権利があることと、反論に理由があることは別。
「できました」
「じゃあ食え」
「はい」
水野さんにもらった豆腐は、
少し冷たくて。
大豆の味がしっかりしました。
八十センチを四十センチへ戻すのに、
怒鳴り声はいりませんでした。
必要だったのは、
巻尺と、
許可書と、
相手の弁明をきちんと読むこと。
そして。
違うものを、
違うと返すための一枚の紙。
反論書。
昨日までなら、
試験に出る書類の名前。
今日は。
一方的な説明を、
会話へ戻すための紙。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
私はまた一つ、
眠かった法律用語に、
町の暮らしの顔を覚えました。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




