[行政不服審査法30条・反論書]現場編 「役所の説明は出ましたから」の罠。処分庁の弁明で終わらせる役所と、その説明の穴を一行ずつ崩す反論書
役所が理由を書いてきたからといって、その理由が正しいとは限りません。
むしろ。
理由が紙になった瞬間。
初めて、間違っている場所を指で示せることがあります。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の朝。
私は一通の封筒を前に、盛大に勘違いしていました。
「来ました!」
「何がだ」
「反論書を書くターンです!」
相馬先輩が煙草をくわえたまま、私を見ました。
「たーん?」
「順番です、順番」
「朝から妙な言葉使うな」
「だって、ほら」
私は封筒から三枚の書面を取り出します。
県庁から届いたものです。
表題。
――弁明書副本送付書。
その下に、
静岡県浜松土木事務所長から提出された弁明書の副本。
そして、
反論書を提出する場合は、十日以内に提出されたい。
という一文。
「審査請求書を出した」
私は指を一本立てました。
「処分庁が弁明書を出した」
二本目。
「次は審査請求人が反論書を――」
「朝比奈」
片桐所長の声がしました。
「はい」
「誰に出す」
「審理員です!」
沈黙。
嫌な沈黙です。
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。
「誰だ、それ」
「……え」
「その審理員って野郎、どこの役所にいる」
「県庁……」
私は言いかけて、
止まりました。
昭和六十三年。
昭和六十三年。
昭和六十三年。
頭の中で三回唱えます。
「あ」
「気づいたか」
「いません」
「何が」
「審理員」
「最初からそう言ってる」
やった。
また未来法を持ち込みました。
現代なら。
審査請求。
審理員。
処分庁の弁明書。
審査請求人の反論書。
参加人の意見書。
そんな流れを頭に置きます。
でも。
ここは昭和六十三年。
旧行政不服審査法。
審理員制度なんて、まだ影も形もありません。
「では、訂正します」
私は咳払いしました。
「審査庁へ提出」
「そうだ」
相馬先輩が言います。
「県知事宛ての審査請求だ。県庁から弁明書が送られてきた。反論するなら県庁へ出す」
「分かってました」
「今、審理員って言っただろ」
「未来の私が勝手に」
「便利な言い訳だな」
行政法。
時代をまたぐと、同じ単語の周囲に別の部品が生えます。
転生者に優しくない。
いや。
試験制度というものは、そもそも転生者への配慮をしていないので当然ですが。
「それで」
片桐所長が言いました。
「中身を読め」
「はい」
今回の依頼人は、
駅前商店街で小さな豆腐店を営む、
水野源吉さん。
六十四歳。
水野豆腐店。
朝五時から豆腐を作り、
六時半になると店先に木箱を並べる。
豆腐。
油揚げ。
厚揚げ。
夏は冷ややっこ用の絹ごし。
冬は鍋用の焼き豆腐。
昔ながらの店でした。
問題は、
店の前にある小さな日よけです。
木製の柱二本。
その上に帆布。
歩道側へ四十センチほど張り出している。
夏の日差しから豆腐を守るため、
二十年以上前から道路占用許可を受けて設置していました。
ところが。
駅前再整備に合わせて、
県の土木事務所から更新不許可。
理由は、
――歩行者の安全な通行を確保するため。
水野さんは困りました。
日よけそのものが商売ではありません。
なくても豆腐は売れます。
ただ。
午後の日差しが直接、店先へ入る。
冷蔵ケースを増やせばいい。
そう言われても。
古い店です。
電気容量も足りない。
工事をすれば数十万円。
そして何より。
「駅前整備が始まるなら仕方ないと思ったんです」
最初に事務所へ来たとき、
水野さんはそう言いました。
「でもね」
机に置かれた大きな手。
豆腐屋さんらしく、指先が少し荒れていました。
「向かいの果物屋の日よけは、そのままなんですよ」
それが引っかかった。
調べてみれば、
同じ県道沿い。
同じ歩道。
似たような張り出し。
それでも、
更新された店がいくつかある。
しかも。
県が示した駅前再整備の第一期工事区域に、水野豆腐店前は入っていませんでした。
私たちは処分庁である土木事務所に確認し、
そのうえで、
県知事に審査請求をしました。
期限は、
現代の三か月――
ではなく。
昭和六十三年なので六十日。
この辺りは、もう何度間違えかけたか分かりません。
そして今日。
処分庁である土木事務所から、
弁明書が出た。
というわけです。
「読みます」
私は声に出しました。
「『本件道路占用許可更新申請を不許可としたのは、駅前地区における歩行者通行量の増加に対応し、安全かつ円滑な交通を確保する必要があるためである』」
「続けろ」
「『当該日よけは歩道上に約八十センチメートル張り出しており、歩行者の通行に支障を生じさせるおそれがある』」
そこで。
私は止まりました。
「……八十?」
「どうした」
相馬先輩が聞きます。
「八十センチ?」
「そう書いてあるな」
「四十じゃありませんでした?」
相馬先輩も紙を見る。
「現場じゃ四十くらいだったな」
私は引き出しを開けました。
写真。
現場見取図。
測定メモ。
この前、三人で行ったときに、
相馬先輩が巻尺で測ったものです。
道路境界から日よけの先端まで。
三十九・八センチ。
「……先輩」
「何だ」
「私たちの測り方、間違ってませんよね」
「三回測った」
「八十センチってどこから出てきたんでしょう」
「知らん」
さらに読みます。
「『また、同地区においては道路占用物件を順次整理しており、本件のみを例外的に許可することは、今後の道路管理上適当でない』」
「順次整理」
片桐所長が言いました。
「はい」
「ほかは」
私はページをめくります。
「『他店舗についても同様の方針に基づき対応している』」
三人とも黙りました。
私は机の端に置いてあった別の書類を取りました。
向かいの八百屋さんから見せてもらった、
道路占用許可書の写し。
今年四月一日付。
更新許可。
「……出てますよね」
「出てるな」
「果物屋さん」
「出てる」
「隣の時計屋さんの袖看板も」
「許可済みだ」
私は弁明書へ戻ります。
そこには、
堂々と書いてあります。
――他店舗についても同様の方針に基づき対応している。
「所長」
「何だ」
「これ」
私は弁明書を指しました。
「反論しやすくなってません?」
「そうだ」
所長は短く答えました。
その瞬間。
昨日まで眠そうにノートの上に横たわっていた、
反論書。
という三文字が。
むくりと起き上がりました。
なるほど。
そういうことか。
審査請求を出して、
こちらの言い分を書いた。
それに対して、
処分庁が、
なぜ自分たちの処分は正しいのか。
弁明する。
そしてその内容を、
審査請求人が見る。
そこで初めて。
あ。
そこ違います。
その数字、違います。
その前提、事実と合ってません。
と言える。
最初の審査請求書では見えなかった相手の理屈が、
弁明書によって表へ出てきた。
反論書は、
ただ怒りを追加する紙じゃない。
相手が出した説明に、
答える紙なのです。
「相馬先輩」
「何だ」
「ちょっと楽しくなってきました」
「水野さんの人生かかってんだから楽しむな」
「そういう意味じゃありません」
「分かってる」
分かってるんじゃないですか。
私は赤鉛筆を取りました。
弁明書の一行目。
歩行者通行量の増加。
これはあり得る。
二行目。
張り出し八十センチ。
違う可能性が高い。
三行目。
同地区の道路占用物件を順次整理。
本当にそうなのか。
四行目。
他店舗にも同様に対応。
許可書の写しと食い違う。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「役所へ行くぞ」
「今からですか」
「確認する」
「何を?」
「八十センチだ」
静岡県浜松土木事務所。
道路管理課。
午後一時。
窓口の奥には、
駅前再整備関係の図面が何本も立て掛けられていました。
そして。
「また来ましたか」
沢渡課長がいました。
「なんで市役所の課長が県の土木事務所にいるんですか」
「駅前整備の連絡会議です」
そうでした。
この人。
最近、駅前関連ならだいたいどこにでも現れます。
行政法の中ボスが、別マップへ出張してきた感じです。
「今日は県の案件ですよ」
「承知しています。私は横で聞くだけです」
「本当ですか」
「必要なら笑います」
「何を?」
「朝比奈さんが制度を間違えたときに」
「帰ってください」
その向かいに、
道路管理課の係長、
野沢さんが座りました。
四十代後半。
分厚い黒縁眼鏡。
真面目そうな人です。
相馬先輩が弁明書を置きました。
「これ」
「はい」
「八十センチってどう測った」
野沢係長が書面を見ました。
「現地確認の記録によります」
「記録、見せられるか」
「内部資料ですので――」
「なら数字の根拠だけでいい」
相馬先輩は引きません。
「うちで測ったら四十センチだ」
「測定位置が違うのでは?」
「どこからどこまで測った」
「それは確認しないと」
「確認してくれ」
乾いた会話です。
でも。
こういうとき相馬先輩は強い。
怒鳴らない。
相手の言った言葉から逃げない。
一つずつ、
数字にする。
事実にする。
確認できる形にする。
十分ほどして。
野沢係長が一冊の台帳を持って戻ってきました。
「八十センチというのは」
「はい」
「日よけではなく、店頭に置かれていた商品台の張り出し寸法ですね」
私は瞬きをしました。
「商品台?」
「はい」
「処分の対象は日よけですよね」
「……そうですね」
「商品台は毎日片付ける移動式ですよね」
「はい」
相馬先輩が椅子へ深く座りました。
「じゃあ」
低い声。
「弁明書に書いた八十センチは何だ」
野沢係長が黙ります。
「道路占用許可の対象になってる固定式の日よけと、店先の商品台。別物じゃねえのか」
「記録作成時に混同があった可能性があります」
出ました。
可能性。
役所が間違いを認めるとき、
なぜか急に天気予報みたいな言葉になります。
「では」
私が言いました。
「日よけの張り出しが八十センチだから危険だ、という弁明は違う可能性があるんですね」
「正確には確認が必要です」
「じゃあ、もう一つ」
私は八百屋さんの許可書の写しを出しました。
「『他店舗についても同様の方針に基づき対応している』」
「はい」
「この店、今年も占用許可が出ています」
「個別事情があります」
「どんな?」
「道路幅員、占用物件の種類、歩行者への影響等を総合的に――」
「水野さんとの違いは?」
「それは個別の――」
「だから」
相馬先輩が入ります。
「水野さんの処分を説明してくれって言ってる」
野沢係長が黙りました。
そこへ。
沢渡課長が口を開きます。
「野沢さん」
「はい」
「比較表はありますか」
「比較表?」
「駅前地区の占用物件を、どれを更新し、どれを不許可にするか。判断基準を並べたものです」
「……正式な比較表はありません」
「では、担当者ごとに判断していますか」
「最終的には課で決裁しています」
「基準は」
「安全性を中心に総合判断です」
「具体的な数値基準は?」
「一律ではありません」
沢渡課長は頷きました。
「なるほど」
私は横目で見ます。
この人。
今日はこっち側なのか。
いや。
たぶん違う。
役所側とか住民側とかではなく、
穴のある理屈が嫌いなだけです。
「沢渡課長」
「何でしょう」
「楽しんでません?」
「まさか」
「口元」
「気のせいです」
この人もそれを使うのか。
片桐所長が野沢係長を見ました。
「こちらは反論書を出す」
「承知しています」
「書くのは三点だ」
一本。
「八十センチという弁明の前提事実に誤りがある」
二本。
「他店舗にも同様の方針で対応しているとの説明と、実際の許可状況が一致していない」
三本。
「その差を説明する客観的な基準が示されていない」
野沢係長の表情が少し硬くなりました。
「審査庁がどう判断するかは分かりません」
「それでいい」
所長が言いました。
「決めるのは審査庁だ」
短い。
でも。
その一言で、
部屋の空気が変わりました。
そうだ。
ここが、
異議申立てとの違いです。
今回は、
処分した土木事務所自身に、
もう一度お願いします。
という手続ではない。
処分庁とは別の審査庁へ、
審査請求をしている。
土木事務所は弁明する。
水野さんは反論する。
そして、
そのやり取りを見て、
審査庁が判断する。
私は一瞬、
現代の審理員を頭に浮かべました。
処分庁。
審査請求人。
審理員。
参加人。
反論書。
意見書。
――違う。
また未来が混ざる。
ここには審理員はいない。
旧法では、
審査庁そのものが手続を進める。
でも。
相手の説明を審査請求人へ見せ、
それに対する反論を出させる。
この往復そのものは、
すでに昭和六十三年にもある。
制度は違う。
でも、
一方の言い分だけで決めない。
その芯は同じです。
事務所へ戻ると、
水野さんが来ていました。
「どうでした」
心配そうに立ち上がります。
「一つ、分かりました」
私は座るよう勧めました。
「県が弁明書に書いた八十センチという数字。水野さんの日よけの寸法じゃありませんでした」
「え?」
「店頭の商品台と混ざっていたようです」
「そんな」
水野さんの顔が赤くなります。
「そんな間違いで、うちの日よけ駄目にされたんですか」
当然です。
腹が立ちます。
私だって腹が立つ。
でも。
「水野さん」
片桐所長が言いました。
「まだ、そう決まったわけじゃありません」
「でも」
「処分そのものを、その数字だけで決めたとは限らない」
水野さんが黙ります。
「だから」
所長は続けました。
「怒るのはあとでいい。まず崩す」
私は、その言葉が好きでした。
怒るのはあと。
まず崩す。
行政不服審査では、
腹が立っていることと、
処分が違法・不当であることは、
同じではありません。
だったら。
相手の説明を一個ずつ、
事実と照らす。
「反論書を書きます」
私は言いました。
「最初の審査請求書と同じことを書くんですか」
「いいえ」
「じゃあ、何を?」
「向こうが出してきた弁明に答えます」
水野さんが首をかしげました。
「向こうが、『八十センチ張り出して危ない』と言った」
「はい」
「でも実際は、日よけは約四十センチだった」
「はい」
「『ほかの店も同じように整理している』と言った」
「はい」
「でも実際は、更新されている店がある」
「あります」
「だったら」
私は弁明書を指しました。
「そこを、一つずつ書くんです」
「役所に文句を書く?」
「文句じゃなくて、反論です」
言ってから。
自分でも、その違いが少し分かった気がしました。
文句なら、
ひどい。
困る。
納得できない。
で終わります。
反論は違う。
あなたはAと言った。
でも事実はBだ。
だからAを前提にした説明は成り立たない。
そこまで書く。
「書いてみろ」
相馬先輩が私へ紙を滑らせました。
「今ですか」
「十日しかねえんだろ」
「あります、十日」
「十日『しか』ねえんだ」
なるほど。
期間は、
余っているうちは長く見えて、
過ぎると突然ゼロになります。
行政法あるあるです。
私は鉛筆を握りました。
まず。
処分庁は、
本件日よけが歩道上に約八十センチ張り出していることを理由の一つとしている。
しかし。
現地実測では、
道路側への張り出しは約四十センチ。
土木事務所への確認によれば、
八十センチとの数字は移動式商品台の寸法と混同した可能性がある。
したがって、
弁明書記載の事実には誤りがある。
「次」
相馬先輩。
私は続けます。
処分庁は、
同地区の占用物件を同様の方針で整理していると主張する。
しかし。
近接する店舗について、
本年度も道路占用許可が更新されている事例がある。
その許可書の写しを添付。
「次」
片桐所長。
さらに。
処分庁は、
水野豆腐店と他の店舗とで異なる取扱いをする具体的基準を示していない。
本件日よけが、
他の許可済み占用物件と比較して、
どのような点で歩行者の安全を特に害するのかも明らかではない。
「いい」
所長が言いました。
「感情は?」
「書きません」
「二十年以上使ってきた、は」
「事実として必要なら書く。でも『長年やってきたのにひどい』にはしない」
「そうだ」
「豆腐が傷む、は?」
「処分による不利益として必要な範囲で」
「そうだ」
よし。
少しずつ。
分かってきた。
反論書は、
怒りを濃くするための第二ラウンドではない。
相手の弁明によって新しく見えた争点を、
狙って返すための紙です。
「ただ」
水野さんが不安そうに言いました。
「こんな紙出したら、県に嫌われませんかね」
その言葉に。
私は手を止めました。
分かります。
役所に逆らう。
役所の間違いを指摘する。
そういうふうに感じれば、
怖い。
これからも許可をもらわなければならない。
商売も続ける。
担当者と顔を合わせる。
「嫌われるために出すんじゃありません」
私は言いました。
「でも、間違ってるって書くんでしょう」
「はい」
「角が立ちませんか」
私は少し迷いました。
そこで。
相馬先輩が言いました。
「立てる必要のある角もある」
「先輩」
「ただし」
水野さんを見る。
「人を刺す角じゃねえ」
そして、
弁明書を指しました。
「事実に刺す」
私は思わず先輩を見ました。
「何だ」
「いえ」
「変な顔すんな」
「今日すごくいいこと言ったので」
「殴るぞ」
「取り消します」
でも。
そのとおりです。
担当者を馬鹿にする必要はない。
役所は信用できない、と書く必要もない。
書くのは、
八十センチではありません。
この許可書があります。
同じ扱いという説明とは合いません。
基準を示してください。
ただ、それだけ。
冷たい文章です。
でも。
冷たいからこそ、
相手も感情で逃げにくい。
「それなら」
水野さんが言いました。
「お願いします」
「はい」
「豆腐屋なんて、紙に弱くてね」
「私も行政法には弱かったです」
「おい」
相馬先輩。
「過去形にするな」
「だいぶ強くなりましたよ」
「審理員とか言ってたの誰だ」
「本日の件は忘れてください」
「却下だ」
二日後。
反論書が完成しました。
片桐所長の赤鉛筆によって、
私の書いた、
「明らかに不合理である」
は削られました。
「なぜです?」
「まだ明らかじゃない」
「でも八十センチ間違ってましたよ」
「一つの事実が違うことと、処分全体が当然に崩れることは別だ」
「厳しい」
「だから書く」
所長は、
その箇所を、
こう直しました。
――当該事実認定を前提とした処分の妥当性について、改めて検討されたい。
「……強くないですね」
「弱くもない」
なるほど。
行政書士の文章は、
声量ではなく、
逃げ道を減らす。
私は、そう覚えました。
県庁へ提出。
受付印。
朱肉の赤。
紙一枚。
それだけです。
でも、
審査請求書を出したときとは感覚が違いました。
最初は、
こちらから問いを投げた。
今度は、
相手が答えた。
そしてその答えに、
こちらが返した。
行政処分をめぐって、
初めて会話になった気がしました。
「所長」
県庁を出たところで私は言いました。
「現代法だと、この辺もっと仕組みが増えるんですよね」
「また未来か」
「ちょっとだけです」
「言ってみろ」
「現代なら審理員がいて、処分庁の弁明書を審査請求人や参加人に送って、審査請求人は反論書、参加人は意見書を出せます」
「参加人?」
「はい。それで提出された反論書や意見書も、関係する側へ送られて――」
「こはる」
「はい」
「今は何年だ」
「昭和六十三年です」
「なら今の法律で仕事しろ」
「はい」
毎回これです。
未来を知っているのに、
未来の制度は使えない。
転生者として、
ものすごくもどかしい。
でも。
旧法の手続を実際に踏むと、
現代法でなぜ審理員が置かれ、
審理関係人のやり取りが整理されているのか。
なんとなく輪郭が見えてきます。
審査庁が直接、
処分庁の弁明を求め、
審査請求人へ送り、
審査請求人が反論する。
昭和にも、
言いっぱなしで終わらせない仕組みはある。
ただ。
その手続を誰が整理し、
誰が中立的に進めるのか。
そこには、
未来で変わっていく余地がある。
「制度って」
私は呟きました。
「急に全部、新しくなるわけじゃないんですね」
「当たり前だ」
相馬先輩が言います。
「前の制度で困ったところがあって、直していくんだろ」
「先輩」
「何だ」
「またいいこと言いました」
「今日はうるせえな」
それから十二日後。
片桐行政書士事務所へ電話が入りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『静岡県道路管理課です』
私は背筋を伸ばしました。
「はい」
『水野源吉さんの審査請求の件ですが』
「はい」
『審査庁から、処分庁に追加資料の提出を求めています』
「追加資料?」
『駅前地区における道路占用許可の更新状況と、本件処分に用いた現地確認記録です』
私は相馬先輩を見ました。
口だけで、
来た。
と言います。
「それは」
『反論書で指摘された事項について確認するためです』
「分かりました」
『まだ裁決ではありません』
「はい」
『処分が取り消されたわけでもありません』
「分かっています」
『ただ』
電話の向こうの声が少しだけ柔らかくなりました。
『八十センチという記載については、処分庁から訂正の申し出がありました』
「……訂正」
『はい』
「つまり、弁明書の事実に誤りがあったことは認めるんですね」
『その点は』
「分かりました」
電話を切りました。
「どうだ」
相馬先輩。
「追加資料を出させるそうです」
「処分は?」
「まだ」
「取消し?」
「まだ」
「じゃあ喜ぶのは早い」
「分かってます」
でも。
私は笑っていました。
だって。
最初。
県は、
歩行者の安全のためです。
他店にも同じ方針です。
そう説明していました。
それで終わりそうだった。
でも。
弁明書が来た。
そこに反論した。
すると今度は、
本当にそうなのか。
記録を出せ。
他店舗の処理も見せろ。
と審査庁が動いた。
「これ」
私は言いました。
「反論書を出さなかったら、八十センチのまま進んでた可能性ありますよね」
「あるな」
「怖いですね」
「ああ」
一度、
公文書に書かれた数字。
それだけで、
妙に正しそうに見えます。
八十センチ。
役所がそう書いた。
だから八十センチ。
でも。
現場へ行けば四十センチ。
記録を辿れば商品台。
紙は強い。
だからこそ、
紙に書かれた間違いには、
紙で返す意味がある。
その日の夕方。
水野さんが、
風呂敷包みを持って事務所へやって来ました。
「結果、出ましたか」
「まだです」
「ああ」
少し残念そうな顔。
私はすぐ続けました。
「でも、前に進みました」
「え?」
「県が追加の資料を調べることになりました」
「八十センチの件は?」
「向こうが訂正するそうです」
水野さんは、
しばらく何も言いませんでした。
それから。
「四十センチになっただけですけどね」
と笑いました。
「はい」
「まだ日よけを残せるって決まったわけじゃない」
「はい」
「でも」
風呂敷を机に置く。
「四十センチを八十センチって言われたまま終わらなかっただけで、少し気が晴れました」
私は頷きました。
それは、
とても小さな前進です。
処分はまだ生きています。
日よけを残せるかどうかも分からない。
裁決も出ていない。
でも。
行政が書いたことだから正しい。
ではなくなった。
間違っている事実は、
間違っていると訂正された。
そして、
その訂正を前提に、
もう一度判断される。
制度の冷たさが、
少しだけ人を守る瞬間。
私は最近、
そういうものを見つけるのが好きになってきました。
「ところで」
相馬先輩が風呂敷を見ます。
「それ何です?」
「豆腐です」
「おお」
急に声が明るい。
「木綿と絹。それから油揚げ」
「ありがとうございます」
「先輩、反応が相談者への対応より速い」
「食えるかどうかは重要だ」
「行政法の判断基準に入れないでください」
水野さんが笑いました。
「こっちは、がんもどき」
「所長」
相馬先輩が奥へ向かって呼びます。
「今夜、がんもどきです」
「知らん」
「食いますよね」
「置いとけ」
食べるんだ。
片桐所長、
こういうときだけ返事が微妙に速い。
私は風呂敷の横に、
弁明書と反論書の控えを並べました。
弁明。
反論。
たった二文字違い。
でも、
そこには役割があります。
処分庁が、
なぜその処分をしたのか書く。
審査請求人が、
その説明のどこがおかしいのか返す。
一方が言って終わりじゃない。
紙と紙をぶつけて、
事実を少しずつ絞っていく。
「今日の教訓」
私は呟きました。
相馬先輩が油揚げを持ち上げながら言います。
「何だ」
「役所が弁明したら、話は終わりじゃない」
「うん」
「むしろ」
私は弁明書の、
八十センチ。
という文字を指で叩きました。
「そこから、反論できる話が始まる」
片桐所長が奥から出てきました。
「こはる」
「はい」
「もう一つだ」
「何です?」
「反論は、相手の言ったことに返せ」
「はい」
「言いたいことを最初から全部繰り返すな」
私は少し考えました。
そして、
頷きます。
「狙って返す」
「そうだ」
なるほど。
反論書。
名前そのままです。
反論する書面。
ただ不満をもう一度書く紙ではない。
相手が出した弁明を読んで、
その事実。
その論理。
その前提。
そこへ返す。
行政法の文章は、
やっぱり愛想がありません。
弁明書。
反論書。
審査庁。
処分庁。
どれも豆腐屋の店先には似合わない。
でも。
愛想のない言葉だからこそ、
八十センチを四十センチへ戻せる。
怒鳴り声ではなく、
巻尺と許可書で。
「朝比奈」
相馬先輩が言いました。
「醤油あるか」
「台所です」
「生姜は」
「冷蔵庫」
「ねぎ」
「ありません」
「買ってこい」
「嫌です」
「業務命令だ」
「それ、行政処分ですか?」
「知らん」
「弁明書を要求します」
「豆腐を食うためだ」
「理由が短すぎます」
「十分だろ」
「反論します。私の勤務内容に買い物は――」
「こはる」
片桐所長。
「はい」
「ねぎも頼む」
「処分庁が二人に増えた!」
水野さんが声を上げて笑いました。
その笑い声を聞きながら、
私は財布を持って立ち上がります。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
どうやらこの事務所では、
反論書を提出しても、
ねぎ購入処分の執行は止まらないようです。
――この論点については。
また別の日に争うことにします。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




