[行政不服審査法29条・弁明書の提出]現場編 「理由は通知書に書いてあります」の嘘。曖昧な不許可理由と、役所自身に“なぜそうしたのか”を書かせる一枚
役所の「理由」は、短ければ分かりやすいとは限りません。
――事業遂行上、支障があるため。
――公益上、適当でないため。
――総合的に判断した結果。
短い。
実に短い。
でも。
それを読んだ側が、
「で、結局、私は何が悪かったんですか」
となるなら。
たぶん話は、まだ終わっていません。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の朝、私は一枚の通知書を机の上に置き、腕を組んでいました。
「先輩」
「何だ」
「役所って、『総合的に判断』って言葉、好きですよね」
「便利だからな」
「便利?」
「中身を言わなくても、何となく考えた感じがする」
「それ、便利って言っていいんですか」
「俺に聞くな」
相馬先輩は煙草に火をつけました。
向かいの椅子には、一人の男性が座っています。
宮坂清一さん。
五十八歳。
駅前通りで、小さな靴修理店を営んでいます。
店といっても、間口二間ほど。
革靴のかかとを直し、
傘の骨を直し、
鞄の持ち手を縫い、
たまに、
「これ、靴屋さんの仕事ですか?」
という物まで持ち込まれる。
「昔はねえ、自転車のサドルまで持ってきた人がいましたよ」
宮坂さんが苦笑しました。
「直したんですか」
「直しました」
「守備範囲が広すぎません?」
「町の修理屋なんて、そんなもんです」
その店先。
歩道側へ張り出した小さな日よけと看板について、宮坂さんは毎年、道路占用の許可を受けてきたそうです。
ところが今年。
更新申請をしたところ。
不許可。
通知書には、
――駅前道路環境整備事業の遂行上、支障があるため。
それだけ。
「日よけがなくなるだけなら、まだいいんです」
宮坂さんは言いました。
「看板も出せないとなると、店があるって分からなくなるんですよ」
確かに。
駅前再整備に伴って、最近は工事用の囲いや案内板が増えている。
宮坂靴修理店は、その陰に隠れる位置にあります。
「それで県の土木事務所へ聞きに行ったんです」
「何て言われました?」
「駅前を整理する方針ですから、と」
「ほかには?」
「もう決まったことです、と」
出ました。
行政相談界の横綱。
――もう決まったことです。
これを言われると、普通の人は弱い。
決まった。
許可しない。
方針だ。
専門家が判断した。
そう言われると、
こちらに知識がないだけで、ちゃんとした理由があるんだろう。
と引いてしまう。
でも。
「宮坂さん」
私は通知書を指しました。
「この不許可、県の土木事務所長名義ですね」
「はい」
「県道ですか」
「ええ」
「受け取ったのは?」
「十二日前です」
十二日。
まだ動ける。
私は裏面を確認しました。
不服申立ての教示。
処分に不服がある場合には、県知事に対して審査請求をすることができる旨。
期間。
私はそこまで読んで、
反射的に頭の中で、
三か月。
と浮かべました。
そして即座に打ち消します。
違う。
六十日。
ここは昭和六十三年。
行政不服審査法は旧法です。
未来人の脳内には、
審査請求へ原則一本化。
審理員。
弁明書。
反論書。
行政不服審査会。
という現代制度が並んでいますが。
今、その半分くらいはまだ生まれていません。
行政法の転生者特典。
未来知識。
行政法の転生者デメリット。
未来知識が混ざる。
「どうした」
相馬先輩が言いました。
「また時代を間違えそうになってました」
「知らんがな」
「現代だと三か月なんですよ」
「今は?」
「六十日です」
「じゃあ六十日で動け」
「はい」
法律は未来人にも容赦がない。
私はもう一度、通知を見ました。
「先輩。この件、審査請求ですね」
「ああ」
「上級行政庁がある」
「県知事だ」
「ですよね」
旧法では、
処分庁自身へ申し立てる異議申立てと、
上級行政庁などへ申し立てる審査請求が併存している。
宮坂さんの場合。
処分庁は県土木事務所長。
審査庁は県知事。
つまり今回は、
処分した本人に、
「もう一回考えてください」
ではありません。
上に持っていく。
「何を争う」
片桐所長が奥から聞きました。
新聞を読みながらです。
この人は新聞を読んでいるように見えて、だいたい全部聞いています。
「まず、不許可理由が具体的じゃありません」
「それだけか」
「……それだけじゃ弱いですよね」
「弱いというより、足りん」
はい。
所長の一言はいつも刃物です。
必要なところだけ切ります。
私は宮坂さんへ向き直りました。
「周りの店はどうです?」
「周り?」
「同じように道路へ看板とか日よけを出していた店」
「ああ……」
宮坂さんが少し考えました。
「向かいの土産屋は、看板出してますよ」
「今年も?」
「ええ」
「隣の食堂は?」
「日よけがあります」
「許可は?」
「そこまでは」
相馬先輩が立ち上がりました。
「見に行くぞ」
「ですよね」
「紙より現場だ」
駅前通りへ出ると、宮坂さんの言葉どおりでした。
駅から市役所方面へ続く県道。
再整備計画の看板。
新しい街路灯。
工事予定箇所を示す赤白の柵。
そして。
宮坂靴修理店。
「うわ」
私は思わず声を出しました。
「何だ」
「本当に見えません」
「失礼だぞ」
「店がですよ!」
駅側から歩いてくると、工事案内板の陰にすっぽり隠れます。
店先の看板があって、ようやく、
ここに修理店があります。
と分かる。
「これ撤去したら」
私は言いました。
「初めて来る人、通り過ぎますね」
「だから困ってるんです」
宮坂さんが答えました。
さらに歩く。
向かいの土産物店。
立て看板あり。
隣の食堂。
日よけあり。
二軒先の時計店。
小さな突出看板。
「全部同じ扱いとは限らねえぞ」
相馬先輩が言います。
「はい」
場所。
寸法。
構造。
道路への張り出し方。
道路交通への影響。
全部違う可能性がある。
見た目が似ているから同じ。
では、行政法は戦えません。
「でも」
私は宮坂さんの店先に立ちました。
「だからこそ聞きたいんです」
「何を」
「宮坂さんの何が、具体的に駄目だったのか」
駅前道路環境整備事業。
その名前だけでは広すぎる。
歩行者空間。
景観。
工事。
交通安全。
防災。
何でも入りそうです。
大きな言葉は、
理由として強そうに見える。
でも。
大きすぎる言葉は、ときどき、
何も言っていないのと同じになります。
その日の午後。
県土木事務所。
窓口で事情を伝えると、担当の係長が出てきました。
「宮坂さんの道路占用許可ですか」
「はい」
「通知のとおりです」
相馬先輩が言います。
「だから、その中身を聞きに来た」
「駅前道路環境整備事業の一環です」
「何の支障になる」
「道路環境の統一的な整備です」
「だから、何の支障になる」
相馬先輩。
こういうとき強い。
相手が大きい言葉を出すたびに、具体的なところへ引き戻します。
「歩行者の安全確保や景観面などを総合的に判断しています」
来た。
総合的に判断。
行政言葉の万能調味料。
かけすぎると全部同じ味になります。
「向かいの土産屋の立て看板は?」
私が聞きました。
「個別案件には答えられません」
「宮坂さんの案件だけでいいです」
「はい」
「宮坂さんの日よけと看板の、どこが危険なんですか」
「危険とだけ申し上げているわけではありません」
「では景観?」
「それだけでもありません」
「工事?」
「総合的判断です」
ぐるっと一周しました。
行政説明のメリーゴーラウンドです。
「今年、工事するんですか」
片桐所長が聞きました。
係長の視線が所長へ向きます。
「駅前整備は順次実施します」
「宮坂さんの店の前は」
「今年度中に工事へ入る予定とは聞いていません」
「来年度は」
「まだ工程が確定しておりません」
「歩道を広げるのか」
「将来的には検討されています」
「看板が工事を妨げる具体的予定は」
沈黙。
「現時点ではありません」
相馬先輩が鼻から息を吐きました。
「じゃあ何で今年から駄目なんだ」
「将来の整備を見据えた対応です」
「向かいの看板は残ってるぞ」
「それは個別に――」
「だから宮坂さんの個別事情を聞いてんだよ」
係長の眉間に皺が寄りました。
「先生方」
声が少し硬くなります。
「許可を更新するかどうかは、道路管理上の判断です。従前許可されていたからといって、当然に更新されるものではありません」
「そこは争ってない」
片桐所長が言いました。
「では」
「何を材料に不許可としたかを聞いている」
部屋が静かになりました。
所長は続けます。
「誰が決めた」
「所長決裁です」
「原案は」
「道路管理係です」
「現地調査はしたか」
「担当が」
「宮坂さんの看板の寸法は」
係長の手が止まりました。
「確認します」
「日よけの突出幅は」
「……確認します」
「歩行者通行量との関係は」
「資料を確認しなければ」
相馬先輩が私を見ました。
私も見返します。
来た。
これは。
理由が曖昧というだけではない。
判断材料そのものが見えていない。
「審査請求します」
私は言いました。
係長がこちらを見ました。
「そうですか」
「県知事に」
「それは権利ですので」
「そこで確認されますよね」
「何がです?」
「なぜこの処分をしたのか」
「当然でしょう」
私は一瞬、現代法の教科書を思い出しました。
審理員が処分庁に審査請求書を送る。
相当期間を定めて弁明書を求める。
処分庁は、
処分の内容及び理由を書く。
そして弁明書は審査請求人へ送られる。
――待て。
それは現代。
平成二十六年の全部改正後。
今は昭和六十三年です。
「……先輩」
「何だ」
「この時代も、弁明書ってありましたよね」
「ある」
「ですよね!」
「何でそんな嬉しそうなんだ」
「未来とつながったので」
「気持ち悪いこと言うな」
ただし。
同じ名前でも仕組みは同じではありません。
旧法では、審査庁が審査請求を受理した場合。
審査請求書の副本などを処分庁へ送り、
相当の期間を定めて、
弁明書の提出を求めることができる。
できる。
現代法のように、
審理員が原則として弁明書を求める構造とは違う。
「所長」
「何だ」
「審査請求書に、弁明書によって処分理由を明らかにしてほしい旨も入れたいです」
「入れろ」
係長が少し顔をしかめました。
「弁明書の提出を求めるかどうかは審査庁の判断ですよ」
「承知しています」
私は答えました。
「だから、審査庁に判断してもらいます」
その瞬間。
ちょっとだけ空気が変わりました。
さっきまで。
宮坂さん対土木事務所。
だった。
処分した側が、
「総合的に判断しました」
と言えば、そこで会話が止まる。
でも審査請求になれば。
県知事という審査庁の前で、
処分庁は自分の判断を説明することになるかもしれない。
なぜ不許可にしたのか。
何を見たのか。
他の占用物と何が違うのか。
具体的に書く。
口頭の、
「方針です」
より。
紙に書かせる。
紙は逃げにくい。
「宮坂さん」
片桐所長が言いました。
「帰って申立書を作ります」
「これで許可になりますか」
「まだ分かりません」
「……そうですよね」
「だが」
所長は通知書を畳みました。
「今度は、向こうにも説明させる」
宮坂さんが少しだけ顔を上げました。
三日後。
審査請求書を県庁へ提出しました。
処分。
道路占用許可更新申請に対する不許可処分。
処分庁。
県土木事務所長。
審査庁。
県知事。
審査請求の趣旨。
不許可処分の取消しを求める。
理由。
従前長期間にわたり許可されていたこと。
占用物件の形状等に大きな変更がないこと。
通知書に記載された不許可理由が抽象的であること。
当該地点について具体的工事予定が確定していないこと。
近接する占用物件が存続していること。
宮坂さんの占用のみを不許可とする具体的事情が明らかでないこと。
そして最後。
私は一文を加えました。
――処分庁が本件不許可処分をした具体的理由及び判断資料を明らかにした上で審理されたい。
「これでいいですか」
片桐所長へ見せます。
所長は赤鉛筆で二か所消しました。
「『到底納得できない』はいらん」
「そこ感情ですか」
「感情だ」
「『極めて不合理』は」
「今の段階では言いすぎだ」
「はい」
削る。
削る。
行政不服申立書を作っていると、
怒りがどんどん痩せていきます。
でも。
不思議なことに。
怒りを削ったあとに残った事実のほうが、強い。
「所長」
「何だ」
「法律の書面って冷たいですね」
「そうだな」
「宮坂さんがどれだけ困ってるか、ほとんど書いてない」
「必要なところには書く」
「でも中心じゃない」
「ああ」
所長は申立書を返しました。
「冷たいから、相手にも冷たく答えさせられる」
私はその言葉をしばらく考えました。
一週間後。
県庁から封書が届きました。
審査請求受理の通知。
そして数日後。
もう一通。
私は封を切りました。
「先輩」
「何だ」
「来ました」
「何が」
「弁明書」
処分庁。
県土木事務所長。
審査庁から提出を求められた弁明書。
私は紙を広げました。
相馬先輩が後ろから覗き込みます。
「読め」
「はい」
不許可処分をした理由。
駅前道路環境整備事業に伴い、
歩道上の占用物件を順次整理する方針であること。
宮坂靴修理店の日よけ及び看板について、
将来予定される歩道改良工事の支障となる可能性があること。
景観統一の観点から撤去が望ましいこと。
「……可能性」
私は呟きました。
「続き」
相馬先輩。
さらに読む。
今年度の不許可対象については、
駅前整備区域内の占用物件のうち、
許可更新時期が到来したものから順次不許可としている。
「え?」
私は止まりました。
「もう一回」
「更新時期が来たものから順番に……」
相馬先輩が弁明書を取りました。
「向かいの土産屋は」
「許可期間、まだ残ってるのかもしれません」
「食堂は」
「確認しないと」
なるほど。
それなら、
宮坂さんだけを狙ったわけではない。
差別的な扱いという線は弱くなるかもしれない。
しかし。
「先輩」
「何だ」
「変じゃないですか」
「どこが」
「工事の時期、決まってないんですよね」
「ああ」
「でも更新期限が来た人から、工事予定と関係なく不許可にしてる」
「そう読めるな」
「つまり」
私は地図を引っ張り出しました。
「工事が何年先か分からなくても、たまたま今年更新の人は今すぐ撤去」
「うん」
「工事の直前まで許可が残ってる人は、そのまま」
「そうなる」
何ですかそれ。
整理方法が、
工事の必要性ではなく、
許可証のカレンダー任せ。
「これ」
私が言いました。
「駅前整備のために必要だから不許可、じゃなくて」
「うん」
「更新時期が来たから、とりあえず不許可ですよね」
奥で片桐所長が顔を上げました。
「そこだ」
ぞくっとしました。
昨日まで、
総合的判断。
道路管理上の判断。
駅前整備。
という大きな言葉に隠れていたもの。
弁明書に書かせたら。
出てきた。
基準です。
いや。
基準というより。
運用。
――更新期限が来たものから順番に外す。
「工事工程との対応は?」
所長が聞きました。
弁明書をめくります。
「書いてありません」
「交通障害の具体的危険は」
「書いてありません」
「宮坂さんの物件固有の問題は」
「……ないです」
相馬先輩が笑いました。
「ずいぶん綺麗に書いて、自分で穴開けたな」
これです。
口頭なら。
「総合的判断です」
で逃げられた。
でも。
弁明書は処分を正当化するための文書です。
正当だと言うなら。
何をしたのかを書かなければならない。
書けば。
こちらも反論できる。
曖昧だった空気が、
争点になる。
「返すぞ」
相馬先輩が言いました。
「何を」
「反論だ」
私は現代法の単語が喉まで出ました。
反論書。
でも。
また待て。
昭和です。
現代の条文どおりの手続名を、そのまま持ち込んではいけない。
私は一度止まりました。
「この時代、弁明書に対する反論は――」
「審査庁に書面出せ」
相馬先輩が言います。
「名前に酔うな」
「はい」
「言いたいことは何だ」
私は整理しました。
「駅前整備そのものには反対しない」
「うん」
「将来、道路工事のため撤去が必要になる可能性も否定しない」
「うん」
「でも、工事時期が決まっていない」
「うん」
「宮坂さんの物件自体に、今すぐ排除すべき具体的な危険も示されていない」
「うん」
「それなのに」
私は弁明書の一文を指しました。
「単に更新期限が来たものから一律に不許可にするのが、道路管理上、本当に合理的なのか」
「それだ」
相馬先輩が言いました。
論点が見えた。
たった一枚で。
市役所――ではない。
今回は県。
県土木事務所の判断に、
急に輪郭ができました。
私は気づきました。
弁明書って。
単に役所が、
「私たちは悪くありません」
と書く紙じゃない。
処分庁自身に、
「私は、こういう理由でこうしました」
と立場を固定させる紙なんだ。
固定されれば、
そこにこちらの言葉を当てられる。
議論が始まる。
曖昧なままでは争えない。
でも、
書かれた理由なら争える。
「面白い顔してるぞ」
相馬先輩が言いました。
「今、弁明書がちょっと好きになりました」
「地味なもん好きになるな」
「だってすごくないですか」
「何が」
「役所の『総合的判断』を、紙の上まで引っ張り出せるんですよ」
「役所側の主張書面だぞ」
「分かってます」
「こっちに都合のいいことを書く書面じゃねえ」
「それでもです」
役所の言い分でもいい。
むしろ、それでいい。
何を理由としているのか分かれば。
こちらは、
そこがおかしい。
そこは違う。
その資料は古い。
その比較はおかしい。
と返せる。
敵の姿が見えない霧より、
敵の言い分が紙に書いてあるほうが、
ずっと戦いやすい。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「勘違いするな」
「はい?」
「弁明書が出れば勝てるわけじゃない」
「はい」
「処分庁の説明が正しければ、こっちが崩れる」
「……そうですね」
「だから意味がある」
あ。
そうか。
弁明書は、
申立人を勝たせるための紙ではありません。
処分庁の説明が合理的なら。
こちらが、
ああ、そういう理由だったのか。
と理解する場合もある。
不服審査というのは、
必ず住民側を勝たせる制度ではない。
処分を、
もう一回、
理由と事実の上に載せ直す制度なんだ。
それから五日後。
私たちは補充書面を提出しました。
工事予定が未確定であること。
宮坂さんの日よけ・看板について具体的な交通障害等が示されていないこと。
単に許可更新時期の到来順に不許可とする運用と、駅前道路整備上の必要性との関係が不明であること。
必要であれば、
工事着手までの短期許可。
条件付許可。
占用物件の縮小。
そうした手段も検討できるのではないか。
ゼロか百か。
許可か撤去か。
その二択だけではない。
そして。
二週間後。
県庁から連絡がありました。
審査庁から処分庁へ、
事実関係と運用基準について再確認を求めた。
その結果。
県土木事務所は、
宮坂さんの不許可処分を自ら見直す方向で調整に入った。
「取消しですか」
私は電話口で聞きました。
『まだ正式には』
「はい」
『ただ、次年度の工事工程が確定するまでの期間について、占用物件を縮小した上で許可する案が出ています』
「条件付き?」
『そうなります』
「ありがとうございます!」
電話を切る。
「先輩!」
「聞こえてた」
「見直すって!」
「聞こえてた」
「看板、小さくすれば残せるかもしれないって!」
「だから聞こえてる」
「もうちょっと喜んでくださいよ!」
「まだ決まってねえ」
正しい。
悔しいけど正しい。
一週間後。
正式な通知が届きました。
当初の不許可処分を取り消す。
その上で。
日よけの突出幅を縮小。
看板を歩道側へ大きく張り出さない形へ変更。
許可期間は一年ではなく六か月。
駅前道路整備の具体的工程が決まった場合には、再協議。
満額回答ではありません。
宮坂さんにも負担はある。
看板を作り直さなければならない。
日よけも短くする。
六か月後には、また話し合い。
でも。
いきなり全部撤去。
ではなくなった。
「六か月ですか」
宮坂さんは通知を見ました。
「短いですよね」
私は言いました。
「でも」
宮坂さんは笑いました。
「冬までは商売できる」
「はい」
「それまでに、店の入口も分かりやすくしますよ」
「看板、新しくするんですか」
「小さいやつをね」
相馬先輩が口を挟みます。
「規格確認してから作れよ」
「分かってますよ」
「またはみ出したら知らねえぞ」
「先生、疑い深いなあ」
「行政相手は紙を見てから動け」
「はいはい」
宮坂さんはそう言ってから、
大きな紙袋を机の上に置きました。
「これ、お礼です」
「何です?」
「靴クリーム」
「……靴クリーム?」
相馬先輩の顔が曇りました。
「食えねえな」
「食べないでください」
「差し入れって普通、菓子とかだろ」
「うちは靴屋ですから」
宮坂さんが笑います。
袋の中には、
黒。
茶色。
無色。
何種類もの靴クリーム。
それと。
「これ、所長に」
「何だ」
「革靴用のブラシです」
片桐所長が受け取りました。
「いい物だな」
「分かるんですか」
私が聞くと、
「靴は見る」
と一言。
意外。
片桐所長。
実は足元のお洒落にうるさいらしい。
相馬先輩が自分の靴を見ます。
「俺のは」
宮坂さんも見ます。
「先に磨いたほうがいいですね」
「クリームじゃ駄目か」
「まず泥落としてください」
「そこからか」
私は吹き出しました。
夕方。
宮坂さんが帰ったあと。
私は机の上に、
不許可通知。
審査請求書。
そして処分庁の弁明書。
三枚を並べました。
最初。
理由は一行でした。
――駅前道路環境整備事業の遂行上、支障があるため。
それだけだった。
でも弁明書が出たことで、
何を考えていたのかが見えた。
許可更新時期の到来順に整理していた。
工事工程とは必ずしも対応していなかった。
宮坂さん固有の危険が明確だったわけでもなかった。
そこまで分かって、
ようやく、
何を争えばいいかが見えた。
「先輩」
「何だ」
「弁明書って、役所のための書類に見えて」
「うん」
「住民のためでもあるんですね」
「どういう意味だ」
「相手の言い分が分かるから」
相馬先輩は煙草を灰皿へ押しつけました。
「それだけじゃねえ」
「?」
「役所だって書けば気づく」
「何にです?」
「自分の理屈の穴に」
なるほど。
口で、
総合的に判断しました。
と言っている間は気づかない。
でも紙に、
一。
二。
三。
と理由を書けば。
あれ。
これ、工事予定とつながってないな。
この人だけ今すぐ外す必要あるか。
という穴が、役所自身にも見える。
制度の冷たさは、
相手を殴るためだけにあるんじゃない。
理由を書かせる。
理由を読む。
反論する。
また考える。
感情をいったん横へ置いて、
処分と理由を机の上へ並べる。
その冷たさが。
ときどき、
「もう決まっています」
を、
「もう一度確認します」
へ変える。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「覚えとけ」
「はい」
「理由が見えなきゃ、争点も見えん」
私はノートの端に書きました。
――相手に理由を書かせれば、「総合的判断」は争点になる。
「先輩」
「何だ」
「現代だと、これもっと手続が整ってるんですよ」
「また未来の話か」
「審理員がいて」
「いない」
「処分庁に弁明書を求めて」
「今も弁明書はある」
「でも現代は、審理員が――」
「昭和六十三年だ」
「分かってます!」
分かってます。
でも。
今回ばかりは。
なぜ未来の制度で、
処分庁の弁明をきちんと書面に出させ、
それを審査請求人へ渡し、
反論の機会を確保する仕組みが、もっとはっきり整えられていくのか。
少しだけ分かった気がしました。
旧法では。
審査庁自身が手続を主宰する。
処分庁へ弁明書を求めるかどうかにも、今より幅がある。
処分した行政の中で、
行政が行政を見直す。
便利です。
速いこともある。
でも。
だからこそ、
誰が理由を出させるのか。
誰がそれを読むのか。
反論する機会がきちんとあるのか。
そこが大事になる。
たぶん制度というものは。
ある日突然、賢くなるんじゃない。
こういう、
小さな困りごとを何十年も積み上げて。
少しずつ、
人が言い訳できない形へ変わっていく。
「こはる」
「はい」
「靴」
所長が言いました。
「え?」
「汚れてる」
見る。
今日、駅前を歩き回ったせいで、
私の革靴は薄く白く汚れていました。
「ちょうどクリームありますね」
私は紙袋を見ました。
相馬先輩も自分の靴を出します。
「俺のもやれ」
「嫌ですよ」
「見習いだろ」
「行政書士見習いであって、靴磨き見習いじゃありません!」
「宮坂さんの差し入れだぞ」
「自分で磨いてください」
「面倒だ」
「却下です」
「理由は」
「自分でできるからです」
「弁明書にしろ」
「何で私が提出するんですか!」
片桐所長がぼそりと言いました。
「相当の期間を定めるか」
「所長まで乗らないでください!」
「提出期限、今日」
「短すぎます!」
「不服は?」
「あります!」
「申立先は」
「所長!」
「棄却」
「まだ書いてもいない!」
相馬先輩が笑いました。
「弁明の機会は与えたぞ」
「機会だけじゃ駄目でしょう!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
どうやらここでは、
住民の手続保障より先に、
見習いの手続保障を整備する必要がありそうです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




