[行政不服審査法28条・審理手続の計画的進行]現場編 「順番に処理していますから」の罠。止まらない役所の手続と、止めさせないために必要な“次の一手”
役所の手続というものは、止まっていても「止まっています」とは言いません。
確認中です。
検討中です。
関係課と調整中です。
順次処理しております。
便利な言葉です。
時計だけが動いて、紙が一ミリも動いていないときにも使えます。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の朝、私は机の上に三枚の葉書を並べていました。
一枚目。
――現在、関係課に照会中です。
二枚目。
――必要な確認を行っております。
三枚目。
――審理中につき、今しばらくお待ちください。
「先輩」
「何だ」
「これ、間違い探しですか」
相馬先輩が煙草をくわえたまま、三枚の葉書を見下ろしました。
「全部違う文章だろ」
「意味は全部一緒です」
「そうだな」
「待て、と」
「ああ」
「いつまで?」
「書いてねえな」
「何を待ってるんです?」
「それも書いてねえな」
「じゃあ情報量ゼロじゃないですか」
「役所の葉書に情報を期待するな」
「偏見が年々育ってません?」
もっとも。
今回は私も、かなり偏見側に寄っています。
三枚の葉書を持ってきたのは、
小野寺辰夫さん。
五十二歳。
駅前から少し離れた商店街で、小さな食堂を営んでいる人でした。
店の名前は、
食事処おのでら。
カウンター七席。
テーブル二卓。
名物は煮込みうどん。
そして。
店の前に置かれた、赤い庇。
問題は、その庇でした。
「市から、道路にはみ出してるって言われまして」
小野寺さんは帽子を膝に置いて言いました。
「撤去命令が出た?」
相馬先輩が聞きます。
「はい」
「いつ」
「六月です」
今日は十月。
私は顔を上げました。
「四か月前?」
「はい」
「それで、不服申立てを?」
「すぐしました」
「いつです?」
「通知をもらってから二週間くらいです」
期間は問題なさそう。
「処分庁は?」
「市長名義です」
「上級行政庁は……」
私は言いかけて止まりました。
市長。
市の処分。
上級行政庁なし。
昭和六十三年。
つまり。
「異議申立てですね」
小野寺さんが頷きました。
「片桐先生に書いてもらって、七月の頭に出しました」
私は片桐所長を見ました。
「前からの案件なんですね」
「そうだ」
「私、初めて見ました」
「お前が来る前だ」
なるほど。
机の底から古い事件が発掘されたわけではない。
ちゃんと継続案件でした。
「それで四か月?」
「正確には三か月と二十二日」
片桐所長が言いました。
「細かい」
「日付は細かく見ろ」
「はい」
行政法では、
一日を笑う者が一日で泣きます。
特に期間。
未来の私は三か月という数字に慣れていますが、昭和六十三年の旧行政不服審査法では、申立期間は原則六十日。
頭の中で現代法と旧法が殴り合うのにも、だいぶ慣れてきました。
「その間、市から何か来たのが、この三枚?」
「はい」
小野寺さんが言いました。
「最初は、まあ役所も忙しいだろうと思ってたんです」
「はい」
「でも、八月が過ぎて」
「はい」
「九月も過ぎて」
「はい」
「十月になって」
「はい」
「何を待ってるのか、自分でも分からなくなってきまして」
それは怖い。
怒られるより怖い。
人は、
駄目です。
と結論を言われれば、次の手を考えられます。
でも、
待ってください。
だけが何か月も続くと。
いつまで生活を仮置きにしておけばいいのか分からなくなる。
「庇は、今どうしてます?」
「撤去してません」
「処分の執行は?」
「市からは、異議申立てをしたからって当然には止まらないと言われました」
「それはそうです」
不服申立てをしただけで、当然に処分の効力や執行が停止するわけではない。
そこは別問題。
「ただ」
小野寺さんが続けました。
「今のところ、市も撤去を急かしては来ないんです」
「じゃあ実害はない?」
私が聞くと。
小野寺さんは少し困った顔をしました。
「あるんです」
「どんな?」
「店、直せないんです」
「え?」
「庇がこのままでいいのか、撤去するのか決まらないでしょう」
「はい」
「来月、屋根の修理をする予定だったんです」
「なるほど」
「でも庇を外すなら、屋根と一緒に工事したい。残せるなら補修だけしたい」
「工事内容が決められない」
「そうです」
さらに。
「銀行からも聞かれてます」
「銀行?」
「改装資金を借りる予定で」
あ。
話が急に重くなった。
「市の撤去命令が生きてるなら、店の外観工事が変わります。見積りも変わる。融資額も変わる」
「それで銀行も判断できない」
「はい」
「業者さんは?」
「年内なら仕事を入れられる。でも十一月を過ぎたら来年になるって」
私は三枚の葉書を見ました。
関係課に照会中。
必要な確認を実施中。
審理中。
止まっているように見えない言葉ばかり。
でも。
小野寺さんの屋根は、見事に止まっている。
「庇は、どれくらいはみ出してるんです?」
相馬先輩が聞きました。
「二十センチくらいです」
「道路使用か占用の許可は?」
「昔からあったもので……」
「いつから」
「親父の代です。三十年くらい」
「許可書は」
「見つかりません」
なるほど。
ここも簡単ではない。
古い商店街。
長年存在する工作物。
道路との境界。
昔の運用。
許可の有無。
市側が何らかの是正を求める理由自体はありそうです。
だからこそ。
小野寺さんも、
「役所が全部間違ってる」
とは言っていない。
ただ。
「結論を出してほしいんですね」
私が言うと。
小野寺さんは、はっきり頷きました。
「そうです」
「勝たせろ、じゃなく」
「駄目なら駄目でもいい、とまでは言いませんよ」
少し笑った。
「でも、いつ決まるのか分からないのが一番困ります」
その言葉が残りました。
行政不服審査。
受験生のころ。
私は、
認容。
棄却。
却下。
と、最後の答えばかり覚えていました。
でも。
その答えにたどり着くまでの時間も。
人の生活を縛る。
「市役所へ行きましょう」
私が言いました。
「お前が決めるな」
相馬先輩。
「じゃあ先輩は?」
「行く」
「同じじゃないですか」
「俺が言うのとお前が言うのは違う」
「何が」
「年季だ」
「便利ですね、年季」
片桐所長が立ち上がります。
「行くぞ」
「はい」
結局みんな行くんですね。
市役所。
総務課。
そして。
「またですか」
沢渡課長は、今日も平常運転でした。
この人の机の周囲だけ、台風が来ても気圧が変わらなさそうです。
「小野寺辰夫さんの異議申立てだ」
相馬先輩が言いました。
「ああ。道路上の庇の件ですね」
「出して三か月以上たってる」
「審理中です」
出ました。
三文字。
審理中。
行政版「考えときます」。
「何を審理してるんです?」
私が聞きました。
沢渡課長はこちらを見ます。
「必要な事項です」
「必要な事項って?」
「道路管理課への確認、過去の許可記録の調査、現地状況の確認などです」
「終わったものは?」
「道路管理課からの回答は来ています」
「いつ?」
「八月二十二日」
今日は十月。
私は瞬きをしました。
「現地確認は?」
「九月三日です」
「過去の許可記録は?」
「調査中です」
「どこを?」
「旧庁舎時代の簿冊です」
「いつから?」
「九月上旬から」
「一か月以上?」
「古いものですから」
沢渡課長は平然と言います。
相馬先輩が机に手をつきました。
「で、その記録が出てくるまで、一切動かねえのか」
「重要な資料になる可能性があります」
「可能性」
「ええ」
「見つからなかったら?」
「その場合は、その状態で判断します」
「いつまで探す」
「必要な範囲で」
「だから、それがいつまでだ」
少しだけ。
部屋の空気が変わりました。
沢渡課長は感情的になりません。
相馬先輩も怒鳴りません。
でも。
ここが今日の芯だ。
私にも分かりました。
必要な調査をする。
それ自体は正しい。
慎重に調べる。
それも正しい。
でも。
期限も順番もなく、
「必要だから」
だけで一個ずつ確認していたら。
いつまでも終わらない。
「課長」
私は聞きました。
「今、残ってる確認事項って、何ですか」
「過去の許可記録。それから当時の道路境界資料。必要なら元職員への聴取も考えています」
「必要なら?」
「ええ」
「まだ決まってない?」
「そうですね」
「全部終わるまで、小野寺さんには結果を出さない?」
「審理に必要なら当然でしょう」
当然。
その言葉で。
私の頭の奥で、突然。
現代のテキストが開きました。
審査請求人。
参加人。
処分庁等。
審理員。
簡易迅速かつ公正な審理。
相互協力。
計画的な進行。
「……二十八条」
小声で漏れました。
「何だ?」
相馬先輩が振り返ります。
「いえ」
危ない。
かなり危ない。
行政不服審査法第二十八条。
審理手続の計画的進行。
現行法なら。
審査請求人、参加人、処分庁等、そして審理員が、
簡易迅速かつ公正な審理を実現するため、
相互に協力し、
審理手続を計画的に進める。
しかも。
努力目標ではない。
「図らなければならない」。
義務です。
――って。
待て。
私は心の中で自分の口を塞ぎました。
ここは昭和六十三年。
現行法の第二十八条をそのまま振り回したら駄目。
何より。
審理員がいません。
制度ごと未来です。
「どうした」
片桐所長が言いました。
「未来の条文が頭をよぎりました」
「またか」
相馬先輩が呆れます。
「便利そうな条文だったんです」
「今ないなら使うな」
「はい」
まったくそのとおり。
未来から来た行政書士受験生。
未来法を知っていても、まだ公布されていない法律には勝てません。
でも。
条文自体が使えなくても。
なぜ後世でそんな条文が置かれたのか。
その理由なら。
今、目の前にあります。
調査項目が増える。
誰がいつまでに何をするか決まっていない。
次に何を確認するかも、その都度考える。
申立人には見通しが示されない。
そして。
役所の中では、
ちゃんと審理している。
ということになる。
でも外では。
商売の屋根が直せない。
「沢渡課長」
私は言いました。
「ひとつお願いがあります」
「何でしょう」
「残ってる確認事項を、一度全部並べませんか」
沢渡課長の眉がわずかに動きました。
「並べる?」
「はい」
「何のために」
「いつ結論が出るのか分からない原因を見たいからです」
「朝比奈」
相馬先輩が横から言います。
「論点で喋るな」
「今日は論点というより工程表です」
「余計に役人くせえ」
「先輩にだけは言われたくない」
私は沢渡課長へ向き直りました。
「過去の許可記録」
「はい」
「境界資料」
「はい」
「必要なら元職員への聴取」
「そうですね」
「それ以外は?」
「現時点では、その程度です」
「じゃあ、許可記録が見つからなかった場合、いつまで探すか決めましょう」
「なぜこちらがあなたと期限を決めるんです」
「小野寺さんの生活が、その調査待ちになっているからです」
「審理には必要な時間があります」
「必要な時間は待ちます」
私は言いました。
「必要かどうか分からない時間まで待つのが困るんです」
沢渡課長が黙りました。
私は続けます。
「八月二十二日に道路管理課の回答が来た」
「ええ」
「九月三日に現地確認も終わった」
「ええ」
「いま残ってるのは古い記録中心」
「そうです」
「それなら」
机の上にあったメモ用紙を一枚借りました。
「一、旧簿冊の調査」
書く。
「二、境界資料の確認」
書く。
「三、必要性がある場合に限って元職員から聴取」
書く。
「こはる」
所長が言いました。
「三番目が曖昧だ」
「あ」
そうでした。
必要なら、は。
役所語としては無限に伸びる魔法のゴムです。
「何を確認できなかった場合に、元職員から聞くんです?」
沢渡課長は腕を組みました。
「許可記録や境界関係資料だけでは、庇の設置経緯が確認できない場合です」
「じゃあそれを書きます」
追記。
「その聴取をするかどうかの判断は、いつ?」
「……今月中には」
私は顔を上げました。
「決められるんですね」
「通常なら」
「通常じゃない事情は今あります?」
「ありません」
「では今月中」
沢渡課長がこちらをじっと見ます。
「朝比奈さん」
「はい」
「あなた、今日は何をしに来たんです」
「異議申立てを認めろ、とは言いに来てません」
「ええ」
「結論までの道を見えるようにしてほしいんです」
「……」
「何を調べるのか」
一本指。
「どこまで調べるのか」
二本指。
「いつ次の判断をするのか」
三本指。
「そこが決まれば、小野寺さんも待てます」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「待てます、じゃねえ」
「え?」
「待つしかねえんだよ」
あ。
「だからこそ」
相馬先輩は沢渡課長を見ました。
「待たせる側が、せめて段取りを示せって話だ」
今日の先輩。
またちょっと格好いい。
煙草臭いけど。
沢渡課長はしばらく黙っていました。
そして。
「片桐先生」
「何だ」
「これが法的義務だと主張されますか」
片桐所長が答えました。
「この時代に、朝比奈が頭に浮かべている条文はない」
ぎく。
「ですが」
沢渡課長が続けます。
「審理を必要以上に滞らせてよい理由にもならない」
「そうだ」
所長は短く言いました。
「申立てを受けたなら、答えを出せ」
重い。
やっぱり所長は、七文字くらいで人の逃げ道を塞ぐのが上手い。
「調査するなとは言わん」
「ええ」
「ただし、調査のための調査にするな」
沢渡課長は机の上のメモを見ました。
私が勝手に作った、
即席・審理工程表。
「旧簿冊の探索は今月二十日まで」
沢渡課長が言いました。
「はい」
「境界資料は道路管理課に再確認。今週中」
「はい」
「その結果を見て、元職員への聴取の要否を今月中に判断します」
私は書き込みます。
「そこまで終われば?」
「特段の事情がなければ、十一月前半には結論を出します」
小野寺さんが初めて大きく息を吐きました。
「十一月……」
沢渡課長が彼を見ます。
「認めるという意味ではありませんよ」
「分かってます」
「異議申立てが棄却される可能性もあります」
「それも分かってます」
小野寺さんは言いました。
「でも、十一月なら屋根屋と話ができます」
そこです。
認容じゃない。
勝ってもいない。
それでも。
日付が一つ見えただけで。
生活が再び動き始める。
市役所の階段を下りながら。
私は、どうしても考えてしまいました。
現代の行政不服審査法。
審理員。
審査請求への原則一本化。
そして。
審理手続の計画的進行。
「先輩」
「何だ」
「未来ではですね」
「聞いてねえ」
「まだ何も言ってないです」
「未来では、って始まった時点で長い」
「ひどい」
でも言います。
「未来の行政不服審査法には、審理の関係者と審理員が、相互に協力して、計画的に手続を進めなきゃいけないって条文があるんです」
「へえ」
「簡易迅速かつ公正な審理を実現するために」
「今日みたいなことか」
「たぶん」
私は頷きました。
「今日みたいに、何を調べるかも、いつ終わるかも決まらないままだと、どんどん審理が延びる」
「で?」
「未来では、それを『ちゃんと段取りしろ』って法律が言う」
相馬先輩が少し笑いました。
「法律も世話焼きになったな」
「でも、理由は分かります」
「今日見たからか」
「はい」
テキストで読むと。
計画的進行。
正直、地味です。
ものすごく地味。
行政法の条文界でも、
表紙に選ばれるタイプではありません。
審査請求。
執行停止。
認容裁決。
そういう強そうな言葉の横で。
計画的に進めましょう。
なんて。
学級会みたいです。
でも。
その計画がないだけで、
一軒の食堂の屋根が直せない。
銀行の融資が止まる。
工務店の予定が取れない。
人間の生活は。
法律の結論だけで止まるんじゃない。
手続の途中でも止まる。
「お前」
相馬先輩が言いました。
「未来の制度のほうが好きか」
「え?」
「審理員だの、一本化だの、計画進行だの」
「……便利だとは思います」
「じゃあ昔の制度は駄目か」
少し考えました。
「そういうことでもないです」
「ほう」
「今日だって、条文がなくても、話を整理したら沢渡課長は動いた」
「ああ」
「旧法には旧法のやり方がある」
「うん」
「でも、毎回こうやって交渉しないと見通しが出ないなら」
私は市役所の建物を振り返りました。
「未来で制度として義務化された意味は、すごく分かります」
相馬先輩は何も言いませんでした。
代わりに片桐所長が一言。
「困った跡に、法律はできる」
私は足を止めました。
「……それ、いいですね」
「何がだ」
「メモしていいです?」
「勝手にしろ」
未来の法律は。
突然、天から完成形で落ちてくるわけじゃない。
昔の制度で誰かが困る。
同じ問題が積み重なる。
そして。
もう同じことで止まらないように、
手続に新しい骨組みが入る。
そう考えると。
旧法の不便さは、
ただの古臭さではありません。
現代法がなぜその形になったのかを教える、
巨大な答案用紙です。
二週間後。
小野寺さんの件は、意外な方向へ動きました。
「ありました」
沢渡課長が言いました。
片桐事務所の電話。
私が受話器を握ります。
「何がです?」
『昭和三十年代の道路関係簿冊です』
「えっ」
『庇について、当時の道路管理担当者が現地確認した記録が残っていました』
「許可?」
『正式な占用許可書とは別ですが、市側が設置状況を把握し、道路改修の際にも存置を前提として扱っていたことは確認できました』
「じゃあ撤去命令は?」
『再検討します』
お。
「撤回ですか」
『まだです』
沢渡課長は即答しました。
硬い。
相変わらず硬い。
『ただ、当初処分時にその資料は確認されていませんでした』
「それ、かなり大きくないですか」
『大きいですね』
さらっと認めた。
『道路境界も、当初担当課が前提としていた線と古い資料に差異があります』
「つまり?」
『現状で直ちに撤去を命ずるのが妥当か、再整理が必要です』
私は受話器を握り直しました。
「課長」
『何です』
「もしかして」
『はい』
「期限を区切って探したから見つかった?」
一拍。
『……そうとも言えます』
私は笑ってしまいました。
「笑わないでください」
「すみません」
『今まで探していなかったわけではありません』
「分かってます」
『ただ』
「ただ?」
『いつまで探すか決めたので、書庫を一括して洗いました』
「それ、すごく計画的ですね」
『何か含みがありますか』
「ありません」
あります。
かなり。
でも言いません。
『小野寺さんには、異議申立ての結論が出るまで、撤去を強く求めないよう道路管理課にも伝えました』
「ありがとうございます」
『礼を言われる段階ではありません』
「でも、一歩進みました」
『それは事実です』
そして。
約束どおり。
十一月前半。
結論が出ました。
撤去命令は、いったん取り消し。
改めて境界と道路利用状況を確認したうえで、
必要があれば適正な手続を取り直す。
小野寺さんの全面勝利。
――ではありません。
庇が永遠に残せると決まったわけでもない。
道路管理上、将来改修を求められる可能性もある。
でも。
少なくとも。
不十分な資料のまま出された撤去命令は、一度消えた。
そして。
小野寺さんは予定どおり屋根の修繕工事に入れることになりました。
結果を伝えに来た日の午後。
小野寺さんは、両手に大きな鍋を抱えていました。
「何ですか、それ」
「煮込みうどん」
「鍋ごと!?」
「店、昼休みにしてきました」
「そんな差し入れあります?」
鍋の蓋を開ける。
湯気。
味噌。
葱。
油揚げ。
そして卵。
事務所が一瞬で行政書士事務所から食堂になりました。
「おお」
相馬先輩の反応が早い。
「先輩、法律の話してるときより目が輝いてます」
「食える法律があるなら持ってこい」
「六法を煮込んでも駄目ですよ」
小野寺さんが笑います。
「屋根屋さん、来週から入れることになりました」
「よかったですね」
「銀行も、見積りを出し直せば進めてくれるって」
「それも」
「庇は今後どうなるか分かりませんけどね」
「はい」
「でも」
小野寺さんは、湯気の向こうで少しだけ目を細めました。
「十一月に決めますって言われただけで、あのときずいぶん楽になったんですよ」
私は箸を止めました。
「結果じゃなくて?」
「結果ももちろん嬉しいです」
「はい」
「でも一番つらかったのは」
小野寺さんは言いました。
「明日なのか、一年後なのか分からなかったことです」
ああ。
やっぱり。
手続の時間には、
重さがある。
申立人は、
役所の机の上にいるわけではありません。
審理中の三文字の外で。
店を開ける。
借金をする。
屋根を直す。
家族を養う。
毎日を生きる。
だから。
簡易迅速という言葉は。
行政書士試験の穴埋め問題だけにあるんじゃない。
待っている人の生活を、
必要以上に宙ぶらりんにしない。
そういう意味でもある。
「うまい」
相馬先輩が言いました。
「話聞いてました?」
「聞いてる」
「どこまで?」
「銀行」
「途中じゃないですか!」
片桐所長が黙ってうどんをすすります。
「所長、どうです?」
小野寺さんが聞きました。
「うまい」
「ありがとうございます」
「七味が足りん」
「注文細かい!」
私が突っ込む。
小野寺さんが大笑いしました。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『総務課の沢渡です』
最近、この人の電話が来ると行政法の試験問題が始まる気がする。
「はい」
『小野寺さんの件ですが』
「ちょうど今ここにいます」
『そうですか』
「煮込みうどん食べてます」
『それは業務に関係ありますか』
「差し入れです」
『そうですか』
絶対どうでもいいと思ってる。
『今後、不服申立て案件について、受付時に主要な確認事項と担当課を一覧にすることにしました』
私は箸を置きました。
「え?」
『今回のように、必要な調査が順番待ちのまま長期化するのを避けるためです』
「期限も?」
『一律には決められません』
「ですよね」
『ですが、一定期間動きがない案件は総務で確認します』
「へえ……」
『何です』
「課長」
『はい』
「計画的ですね」
沈黙。
『朝比奈さん』
「はい」
『その言葉、最近妙に好きですね』
「未来では大事なんです」
『また未来ですか』
「気にしないでください」
『気にしていません』
たぶん気にしてる。
『では』
「あ、課長」
『何でしょう』
「今度うどん食べに来ません?」
『なぜ私が』
小野寺さんが横から叫びました。
「沢渡さん! 一杯くらいご馳走しますよ!」
電話の向こうで。
ほんの少し。
本当に少しだけ。
間がありました。
『……検討します』
私は笑いました。
「いつまでに?」
『朝比奈さん』
「はい」
『それは審理手続ではありません』
「逃げた」
電話が切れます。
相馬先輩が笑っていました。
「何だって?」
「検討するそうです」
「役所の検討は長いぞ」
「期限を決めてもらわないと」
私は笑いながら、ノートの隅に一行だけ書きました。
――結論だけじゃない。そこへ行く順番と時間まで整えて、初めて手続は人を置き去りにしない。
現代なら。
その考え方は、もっとはっきり法律の言葉になる。
審査請求人。
参加人。
処分庁等。
審理員。
相互に協力する。
そして。
審理手続の計画的な進行を図る。
しかも。
「できれば」ではない。
未来では、
そうしなければならない。
昭和六十三年の私は、
まだその条文を使えません。
審理員だって存在しない。
異議申立てと審査請求は分かれている。
現代の制度から見れば、
遠回りで、
不器用で、
足りないものも多い。
けれど。
だからこそ。
未来にその条文が置かれた理由が、
よく分かる。
人は。
処分の結果だけで困るんじゃない。
待たされ方でも困る。
法律は冷たい。
期限。
手順。
確認事項。
進行計画。
どれも、
煮込みうどんほど人を温める言葉ではありません。
でも。
冷たい数字で日付を区切り、
冷たい手順で作業を並べることで、
誰かの暮らしを、
「いつ終わるか分からない待ち時間」から救えることがある。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「うどん」
「はい?」
「のびる」
「あっ!」
見る。
私の丼。
完全に法律を考えている場合ではない。
「先輩、食べるの早すぎません?」
「計画的に進行してる」
「うどんに使わないでください!」
「簡易迅速だ」
「公正さは?」
「俺の卵半分やる」
「急に公正!」
小野寺さんが笑う。
片桐所長も、ほんの少し口元を緩めました。
私は卵を半分もらいながら思います。
どうやら今日のところは。
片桐行政書士事務所の昼食手続だけが、
未来の行政不服審査法より先に、
計画的進行を実現しているようでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




