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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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168/278

[行政不服審査法27条・審査請求の取下げ]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 夕方の片桐行政書士事務所には、焼き鯵の匂いが残っていました。


 正確には。


 法律を勉強する環境として、かなりよろしくない程度に残っていました。


「先輩」


「何だ」


「法令集から魚の匂いがします」


「気のせいだ」


「昨日、法令集の横で鯵食べましたよね」


「食ったな」


「じゃあ気のせいじゃないでしょう」


 相馬先輩は煙草をくわえたまま、知らん顔をしました。


 机の上には。


 行政不服審査法。


 昨日の共同審査請求に関する書類。


 そして私のノート。


 大きく書いた見出しは、


 ――審査請求の取下げ。


 昨日までは。


 取下げなんて、


 「やめます」


 で終わる話だと思っていました。


 始めた人が、やめる。


 ただそれだけ。


 試験でも、


 裁決があるまで。


 いつでも。


 書面で。


 その三つを覚えておけばいい。


 そんな単元。


 ところが。


 実際に六人の共同審査請求で、


 一人の総代が、


 「もう取り下げます」


 と言った瞬間。


 五人分の救済まで消えかけた。


 そうなると。


 条文の「書面」という二文字が、


 急に重く見えます。


「じゃあ始めるか」


 私は鉛筆を持ちました。


「勝手にやれ」


「付き合ってください」


「嫌だ」


「昨日、総代と代理人で私に問題出したじゃないですか」


「あれは沢渡だろ」


「先輩も笑ってました」


「笑ってねえ」


「では所長」


 私は奥を見ました。


「付き合え」


 片桐所長が帳簿から顔も上げずに言います。


 相馬先輩が黙りました。


 今日も強い。


「まず基本です」


 私はノートに書きました。


 審査請求人は、


 裁決があるまでは、


 いつでも、


 審査請求を取り下げることができる。


「昨日の森田さんですね」


「ああ」


「まだ裁決は出てなかった」


「だから、自分の審査請求をやめること自体はできる」


「はい」


 ここは大事です。


 不服申立ては、


 始めたら最後まで絶対に続けなければならない制度ではありません。


 途中で事情が変わることもある。


 処分庁との話し合いで解決することもある。


 目的が達成されることもある。


 本人が、


 これ以上争わない。


 と決めることもある。


 だから。


 裁決が出る前なら、


 取下げられる。


「裁決が出たあとなら?」


 相馬先輩が聞きました。


「もう取下げの対象になる審査請求手続が終わってます」


「そうだ」


「だから『裁決があるまで』」


 私は丸をつけました。


 ――裁決前なら、いつでも。


 ここだけ見ると。


 かなり自由です。


「でも」


 私は続けました。


「方法は自由じゃない」


「何でだ」


「書面だからです」


 昨日。


 森田さんは県庁で言いました。


 ――もう審査請求は取り下げます。


 でも。


 その場で取下書を書いたわけではありません。


 書面も出していない。


 つまり。


 口で言っただけ。


「それで取下げ成立?」


 相馬先輩が聞きます。


「しません」


「電話なら?」


「しません」


「窓口で本人がはっきり『取り下げる』って言ったら?」


「それでも書面が必要です」


「泣きながら言っても?」


「感情の強さで方式は変わりません」


「役人の前で土下座しても?」


「先輩、だんだん例が昭和ドラマになってます」


 でも。


 結論は同じです。


 審査請求の取下げは、


 書面でしなければならない。


「何でそこまで書面にこだわると思う」


 片桐所長が言いました。


 私は少し考えました。


「後から揉めるから?」


「具体的に」


「本人は『相談しただけ』と言ってるのに、役所が『取下げと言った』と受け取るとか」


「うん」


「逆に本人が『取り下げた』と言ってるのに、役所側が『そんな話は聞いてない』とか」


「それもある」


「あと……」


 昨日の森田さんが浮かびました。


 仮店舗の話を出されて、


 その場の流れで、


 もう争わなくてもいい、


 と言ってしまった。


「勢いで言った言葉と、本当に手続を終わらせる意思を区別する」


「そうだ」


 所長が言いました。


「取下げれば、その審査請求は終わる」


「はい」


「救済の手続を、自分で閉じる行為だ」


 なるほど。


 ただの連絡じゃない。


 権利救済の道を閉じる。


 だから。


 証拠が残る形にする。


 本人の意思を明確にする。


 行政庁側も、


 聞いた、聞いてない、


 で処理しない。


「法律って」


 私は言いました。


「やめるときのほうが慎重なんですね」


「場合による」


 相馬先輩が言いました。


「でも昨日は、慎重で助かっただろ」


「はい」


 もし。


 口頭だけで簡単に取下げが成立するなら。


 森田さんの一言で、


 どこまで手続が終わったのか。


 もっとややこしくなっていた。


 書面主義。


 面倒です。


 でも。


 その面倒が、


 人を守っています。


 私は次の見出しを書きました。


 ――共同審査請求と総代。


「昨日の本丸です」


「総代な」


 複数の人が共同で不服申立てをするとき。


 全員が毎回ばらばらに動いたら、


 行政庁側も申立人側も大変です。


 そこで。


 共同不服申立人は、


 総代を互選することができる。


「昨日は六人で審査請求して」


「森田が総代」


「はい」


「じゃあ総代って何するんだ」


 私はノートに書きます。


 総代は、


 共同不服申立人を代表して、


 不服申立てに関する行為をする。


「かなり広いですよね」


「ああ」


「だったら昨日の県の担当者が勘違いしたのも、少し分かるんです」


「総代が窓口だからな」


「はい」


 県からの連絡を受ける。


 書類を出す。


 意見を述べる。


 手続を進める。


 ぱっと見れば、


 代表者。


 だから。


 代表者が、


 やめます。


 と言えば。


 全体も終わるように思える。


「でも」


 私は赤線を引きました。


 ――総代は、不服申立てを取り下げることはできない。


「ここが試験ポイント」


「何で総代だけ駄目なんだ」


 私は昨日の大西さんを思い出しました。


 ――私は取り下げてません。


「総代は、皆から『手続をまとめてください』と任された人だからです」


「うん」


「でも、『私の救済手続を終わらせてください』まで当然に任されているわけじゃない」


「そうだ」


 取下げは、


 単なる手続進行ではありません。


 争いそのものを終わらせる行為。


 本人にとって重大です。


 だから。


 総代にはそこまでの権限を与えない。


「つまり」


 私はまとめました。


 総代。


 みんなの手続をまとめる。


 でも。


 みんなの争う権利まで捨てられない。


「昨日の森田さんは」


 相馬先輩が言いました。


「総代としては取り下げできない」


「はい」


「自分の分は?」


「自分自身が審査請求人でもありますから、自分の意思で取下げる余地はあります」


「ただし?」


「書面」


「よし」


 昨日。


 森田さん自身も、


 本当に自分の分を取り下げるか決めきれていませんでした。


 だから片桐所長は、


 今決めるな。


 と言った。


 裁決前なら。


 あとで決めてもいい。


「『いつでも取り下げられる』って」


 私は言いました。


「今すぐ決めろって意味じゃないんですね」


「当たり前だ」


「分かってますけど、現場で見ると違うんですよ」


 いつでもできる。


 という自由は。


 今ここで決断しなくてもいい。


 という余裕でもある。


 制度の冷たい言葉が、


 人に考える時間を返すことがあります。


 次。


 私は大きく書きました。


 ――総代と代理人の違い。


「昨日、私が詰まったところです」


「盛大に止まったな」


「一秒くらいです」


「三秒」


「測ってたんですか」


 総代と代理人。


 似ています。


 どちらも、


 本人に代わって手続をする。


 だから試験では混同しやすい。


「じゃあ」


 相馬先輩が煙草を指で回しました。


「代理人は取下げできるのか」


「できます」


「いつでも?」


「そこです」


 私はノートに太く書きました。


 ――特別の委任が必要。


「普通に代理人に選ばれただけでは?」


「取下げできません」


「何で?」


「重大な行為だから」


 代理人は。


 本人から委任を受けて、


 不服申立てに関する行為をすることができます。


 でも。


 取下げまで代理人に任せるなら。


 それが分かるように、


 特別の委任が必要。


「つまり」


 私は比較しました。


 総代。


 取下げ不可。


 代理人。


 特別の委任があれば取下げ可能。


「ここ、丸暗記しやすいけど」


「理由まで分かれ」


 片桐所長が言います。


「はい」


 総代は、


 共同不服申立人が多数いるときの手続整理のための代表者。


 一方。


 代理人は、


 個々の本人から委任を受けて動く。


 その委任内容として、


 取下げという重大な行為まで明確に任せているなら、


 代理人にも可能。


「昨日の森田さんに」


 私は言いました。


「みんなが『取下げも含めて全部任せます』って言ってたとしても、総代という立場だけでは取下げられない」


「そうだ」


「じゃあ森田さんを代理人にもしたら?」


「代理権の内容次第だ」


「特別の委任があれば可能」


「そういうことだ」


 役職名だけで決まらない。


 どんな法的立場で。


 どんな権限を与えられているのか。


 そこを見る。


 また出ました。


 行政法の敵。


 なんとなく同じ。


 総代も代理人も、


 代わりに動く人。


 そう覚えると。


 本番で刺されます。


「じゃあ試験問題です」


 私は相馬先輩を見ました。


「共同審査請求人が選任した総代は、他の共同審査請求人のために審査請求を取り下げることができる」


「誤り」


「理由は?」


「取下げは総代の権限から外れてる」


「正解」


「次」


「代理人は、本人から審査請求について代理権を与えられていれば、当然に取下げもできる」


「誤り」


「理由」


「取下げには特別の委任が要る」


「正解」


「次」


「審査請求人は、裁決が出たあとでも、裁決に納得できなければ審査請求を取り下げることができる」


「何のために取り下げるんだ」


「ですよね」


「誤り。裁決前まで」


「正解」


「次」


「審査請求の取下げは、口頭でも本人の意思が明確なら有効」


「誤り。書面」


「完璧です」


「俺を誰だと思ってんだ」


「口の悪い先輩」


「そこじゃねえ」


 私は少し笑って。


 次の見出しを書きました。


 ――昭和六十三年の旧法と現代法。


「来ました」


「また未来か」


「避けて通れません」


 今回。


 教材として私の頭に浮かぶのは、


 現代の行政不服審査法第二十七条。


 審査請求の取下げ。


 でも。


 今いるのは昭和六十三年。


 旧法では第三十九条。


「同じ内容なのか」


「基本的な骨格は似ています」


 裁決があるまで。


 いつでも。


 書面で。


 この考え方は、


 現代でも引き継がれている。


 ただし。


 制度全体は大きく変わっています。


「現代だと」


 私は書きました。


 不服申立ては、


 原則として審査請求へ一本化。


 旧法にあった一般的な異議申立ては廃止。


「昨日の事件は?」


「審査請求」


「だから今回、異議申立てとの使い分けは直接出てこない」


「はい」


 でも。


 昭和六十三年には、


 審査請求と異議申立てが併存しています。


 現代の感覚で、


 不服申立てイコール全部審査請求。


 と考えると危ない。


「それから現代には」


 私は書きます。


 審理員制度。


 行政不服審査会等への諮問。


「昭和六十三年には?」


「ありません」


「申立期間」


「旧法は原則六十日。現代は原則三か月」


「そこまで今回必要か」


 相馬先輩が言いました。


「取下げのテーマとしては脇ですね」


「なら広げすぎるな」


「はい」


 そのとおり。


 今日は取下げ。


 制度改正の全部をやる日ではありません。


 ただ。


 新旧法を読むとき。


 条文番号だけをそのまま持ち込まない。


 今どの時代なのか。


 どの法制度なのか。


 そこは常に確認。


 転生者には、


 特に重要です。


「昨日なんて私」


 私は言いました。


「頭の中では二十七条って出ました」


「違うのか」


「今は三十九条です」


「未来の条文番号で県庁行かなくてよかったな」


「本当に」


 法理が合っていても。


 条文番号が未来。


 そんな行政書士見習いは嫌すぎます。


 私はノートの端に書きました。


 ――昭和六十三年=旧法三十九条。


 ――現代=現行法二十七条。


「ここは時代物ならではですね」


「誰に話してんだ」


「独り言です」


「多いな」


 次。


 取下げの効果。


 私は少しペンを止めました。


「取り下げたら、どうなる」


 相馬先輩が聞きます。


「その審査請求手続は終わります」


「で?」


「最初から何もなかったことになる……って雑に言うと危ないですよね」


「そうだな」


 取下げによって、


 審査庁がその審査請求について裁決する必要はなくなる。


 その救済手続は終了する。


 でも。


 そこで一番重要なのは、


 何が残るか。


「原処分は?」


「残ります」


「昨日の仮設店舗の使用継続を認めない処分も?」


「取下げたからといって、自動で消えません」


「そうだ」


 審査請求をやめる。


 イコール。


 元の処分を取り消す。


 ではない。


 むしろ。


 争う手続を自分から終わらせる。


 だから原処分はそのまま。


「つまり森田さんが取下げたら」


 私は言いました。


「県の処分が正しかったと認めたことになるんですか?」


「必ずしもそういう意味じゃない」


 片桐所長が答えます。


「ですね」


 取下げの理由はいろいろ。


 和解的に解決した。


 別の救済が得られた。


 費用や時間の負担からやめた。


 事情が変わった。


 勝てないと思った。


 本人が諦めた。


 だから。


 取下げ。


 イコール。


 処分が適法だったと認めた。


 ではない。


「でも」


 私は言いました。


「実際の救済ルートは閉じる」


「その審査請求についてはな」


「だから重大」


「そうだ」


 ここが。


 総代に取下げを許さない理由。


 代理人に特別の委任を要求する理由。


 書面を要求する理由。


 全部つながっています。


 私は矢印を書きました。


 取下げは重大。


 ↓


 本人意思を慎重に確認。


 ↓


 書面。


 ↓


 総代は不可。


 ↓


 代理人は特別委任が必要。


「お」


 相馬先輩が覗きます。


「今日は図にしたか」


「覚えやすいでしょう」


「最初からそうしろ」


「小説なので」


「何の話だ」


「独り言です」


 危ない。


 私は咳払いしました。


 そして。


 もう一つ。


 昨日の事件で気づいたことがあります。


「所長」


「何だ」


「県の担当者、まだ正式処理してなくてよかったですね」


「ああ」


「もし本当に共同審査請求全体を終了処理していたら?」


「是正させる」


「ですよね」


「総代に権限がない。書面もない」


「二重でおかしい」


 法的な要件を一つずつ確認すると。


 曖昧だった話が急に崩れます。


 県側の言い分は、


 総代の方が取り下げたいとおっしゃった。


 それだけ。


 でも。


 こちらから見れば。


 誰が?


 総代。


 何の権限で?


 取下げ権限はない。


 方法は?


 口頭。


 書面ではない。


 対象は?


 共同審査請求全体。


 他の五人は取り下げ意思なし。


 こう並べた瞬間。


 「もう手続は終わりです」


 という空気が、


 ただの空気になります。


「これですよね」


 私は言いました。


「何がだ」


「法律の気持ちいいところ」


「急だな」


「『代表者が言ったから終わり』って、ぱっと聞くとそれっぽいじゃないですか」


「まあな」


「でも論点で切ると、一個ずつ駄目」


 総代か。


 代理人か。


 本人か。


 取下げ権限があるか。


 特別委任があるか。


 書面か。


 裁決前か。


 本人の意思か。


「感情で『ひどい』って言うより」


 私は言いました。


「ずっと強い」


「それが仕事だ」


 相馬先輩が言います。


「怒るのは本人でもできる」


「はい」


「俺たちは、どこがおかしいか言葉にする」


 珍しく。


 本当に珍しく。


 格好いい。


「先輩」


「何だ」


「今のメモしていいですか」


「やめろ」


「名言なのに」


「魚臭いノートに残すな」


「まだ言います?」


 私は笑いながら。


 次のページに、


 試験注意。


 と書きました。


 取下げ。


 ①裁決があるまで。


 ②いつでも可能。


 ③書面による。


 ④総代は取下げ不可。


 ⑤代理人は特別の委任があれば可能。


「五点セットですね」


「覚えろ」


「覚えます」


「じゃあ問題」


 相馬先輩が今度は出題側に回りました。


「審査請求人本人が、審査庁の窓口で口頭により取下げの意思を明確に表示した。担当職員がその内容を記録した。この取下げは有効か」


「無効」


「何で」


「取下げは書面でしなければならないから」


「総代が取下書を提出した」


「他の共同審査請求人の分まで取下げることはできない」


「代理人が提出した」


「特別の委任があるか確認」


「ない」


「取下げ不可」


「ある」


「可能」


「裁決翌日に本人が書面で取下げた」


「遅い。裁決前までです」


「完璧じゃねえか」


「昨日、県庁で一回固まった甲斐がありました」


「失敗を教材にすんな」


「一番覚えるんですよ、それが」


 本当に。


 問題集で間違えた問題より。


 目の前で人が困った論点のほうが。


 ずっと残ります。


 昨日の大西さん。


 私は取り下げていない。


 その一言。


 たぶん。


 忘れません。


「そういえば」


 私は聞きました。


「森田さん、結局どうするでしょうね」


「知らん」


「仮店舗一軒の話」


「条件次第だろ」


「自分だけ助かるなら、取下げるかもしれない」


「それも本人の自由だ」


 片桐所長が言いました。


「はい」


 そこは。


 道徳で縛れない。


 森田さんには森田さんの生活がある。


 魚屋を続けたい。


 奥さんもいる。


 新しい店舗を確保できるなら。


 争いをやめる選択もある。


 法律は、


 皆で最後まで戦え。


 とは言いません。


 取下げるな。


 とも言いません。


 ただ。


 本人が決めろ。


 そこだけは譲らない。


「条文って」


 私は言いました。


「意外と突き放してますね」


「何が」


「続けてもいい。やめてもいい。でも本人が決めろ」


「そういう制度だ」


「冷たい」


「嫌か」


 私は少し考えました。


「いえ」


 むしろ。


 温かい言葉で、


 皆さんのためですよ。


 ここはまとめておきますね。


 と言われて。


 勝手に人生を決められるほうが怖い。


 書面で。


 権限を確認して。


 委任の範囲を見て。


 本人の意思を確かめる。


 冷たい。


 面倒。


 形式的。


 でも。


 その形式が、


 人の意思を他人に奪わせない。


「やっぱり」


 私は呟きました。


「条文は冷たい。でも冷たいから、勝手に諦めさせられない」


 片桐所長がこちらを見ました。


「覚えとけ」


「はい」


 私はノートの最後の欄を開きました。


 ――一行の覚え書き。


 少し考える。


 昨日の事件。


 森田さん。


 大西さん。


 総代。


 代理人。


 書面。


 特別の委任。


 裁決。


 全部を一行にする。


 そして書きました。


 ――取下げは本人の「やめる権利」。だから書面で、他人には簡単に捨てさせない。


「長い」


 相馬先輩が言いました。


「またですか」


「もっと短くしろ」


「じゃあ」


 その下に書きます。


 ――やめる自由は本人のもの。取下げは書面、総代は不可。


「代理人が抜けてる」


「一行に全部入らないんですよ!」


「工夫しろ」


「じゃあ超試験版」


 私はさらに書きました。


 ――裁決前・書面・総代×・代理人は特別委任。


 相馬先輩が黙りました。


「どうです」


「それでいい」


「情緒ゼロ」


「試験メモに情緒を求めるな」


「さっきまで人の意思がどうとか言ってたのに」


「覚える欄だろ」


 確かに。


 私は三本とも残すことにしました。


 夕方。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『森田です』


「あ」


 私は姿勢を正しました。


「昨日はありがとうございました」


「どうしました?」


『みんなで話しました』


「はい」


『俺も、審査請求、続けます』


 私は少し驚きました。


「仮店舗は?」


『あの話、一軒だけじゃなかったんです』


「え?」


『県と市で調整して、あと三軒分確保できそうだって』


 なるほど。


『だから、誰が入るかも含めて、六人でちゃんと話そうってことになりました』


「そうですか」


『俺、昨日は焦っちまって』


「仕方ないですよ」


『でも先生に言われたでしょう。今決めなくていいって』


「はい」


『あれで、一晩考えられました』


 私は電話を握ったまま、


 ノートを見ました。


 裁決があるまで。


 いつでも。


 取下げられる。


 その言葉は。


 やめる自由だけじゃない。


 急いでやめなくてもいい。


 という意味にもなる。


『あと』


 森田さんが言いました。


『大西が、先生たちに豆腐持ってけって』


「またですか」


『今度は厚揚げ』


「相馬先輩が喜びます」


「聞こえてるぞ」


 後ろから声がしました。


『それと鯵も』


「鯵は結構です!」


『今日は鯖』


「魚種の問題じゃありません!」


 電話の向こうで森田さんが笑いました。


 昨日より。


 ずっと軽い声でした。


 電話を切る。


「何だって」


 相馬先輩が聞きます。


「六人とも審査請求を続けるそうです」


「そうか」


「仮店舗も、追加で確保できそうだって」


「なら昨日、取り下げなくて正解だったな」


「結果的には」


 でも。


 たとえ違う結論でも。


 それでよかったと思います。


 森田さんが一晩考えて。


 それでも自分の分は取り下げる。


 そう決めたなら。


 それも本人の選択。


 大事なのは。


 その選択を、


 総代だから。


 代理人だから。


 役所がそう受け取ったから。


 そんな理由で、


 他人に代わって決められないこと。


 私はノートを閉じました。


 行政不服審査法の取下げ。


 派手な制度ではありません。


 裁決のように勝ち負けも出ない。


 処分をひっくり返す条文でもない。


 ただ。


 争いを終わらせるとき。


 本当に本人が終わらせたいのか。


 それを確かめる。


 書面で。


 権限で。


 委任で。


 冷たく確認する。


 その冷たさが。


 昨日は五人の審査請求を守りました。


「こはる」


「はい」


 片桐所長が言いました。


「昨日の鯵の皿」


「あ」


「洗ってない」


「相馬先輩でしょう!」


「俺は焼いた」


「私は大根おろしました!」


「役割分担だ」


「皿洗いまで私に代理させないでください!」


「代理人」


 相馬先輩がにやりとします。


「特別の委任をする」


「受けません!」


「書面にするぞ」


「方式の問題じゃありません!」


 片桐所長が一言。


「こはる」


「はい」


「洗え」


「異議申立てします」


「却下」


「だから、この時代でも何でも却下していいわけじゃないです!」


「じゃあ審査請求するか」


「上級行政庁は誰ですか!」


 相馬先輩が奥を指しました。


「所長の上?」


「いねえな」


「じゃあ詰んでるじゃないですか!」


 笑い声が事務所に広がりました。


 結局。


 皿は私が洗いました。


 取下げは。


 書面でなければできないのに。


 皿洗いだけは。


 口頭の業務命令で十分らしいです。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 少なくともここでは、


 私の救済制度だけ、


 まだ全面改正が必要そうでした。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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