[行政不服審査法26条・執行停止の取消し]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、饅頭の箱だけが残っていました。
正確には。
饅頭は残っていません。
箱だけです。
「先輩」
「何だ」
「十二個入りでしたよね」
「そうだったか」
「高瀬さんが持ってきたとき、十二個ありました」
「へえ」
「所長が一個。私が一個」
「ああ」
「残り十個」
「算数はできるみたいだな」
「その十個はどこへ?」
相馬先輩は煙草に火をつけました。
「事情が変更した」
「便利に使わないでください!」
今日覚えた法律用語を、饅頭泥棒の免罪符にしないでもらいたい。
私は空箱を睨んでから、自分の机へ戻りました。
ノートを開きます。
上には大きく、
――執行停止の取消し。
と書きました。
その横に。
現代法・行政不服審査法第二十六条。
そしてすぐ下。
――ただし、昭和六十三年の現場では旧法。
ここ、大事。
ものすごく大事です。
私は現代の行政書士受験生でした。
だから頭の中には、
行政不服審査法第二十五条。
執行停止。
第二十六条。
執行停止の取消し。
という並びが染みついています。
でも。
今は昭和六十三年。
平成二十六年の全部改正後の条文を、そのまま役所の窓口で振り回したら駄目です。
内容を理解するのと。
今ここで使う法令を間違えないこと。
これは別問題。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日のテーマ、執行停止の取消しです」
「勝手にやれ」
「質問役お願いします」
「断る」
私は奥を見ました。
「所長」
「付き合え」
片桐所長が帳簿を見たまま言いました。
「最近この流れ多くないですか」
「学習効果が高い」
「所長が?」
「お前の扱いの」
「私、教材扱いされてません?」
相馬先輩が諦めた顔で椅子を引きました。
「で」
「はい」
「まず執行停止って何だ」
来ました。
前提からです。
私はノートの一行目に書きます。
――不服申立てをしただけでは、原則として処分の効力や執行は止まらない。
「これが出発点です」
「高瀬さんの件なら?」
「除去命令に審査請求したからって、それだけで建物を壊せなくなるわけじゃない」
「そうだ」
「だから、審査の結果が出るまでに取り返しのつかないことになるおそれがあるなら、執行停止が問題になる」
高瀬さんの作業場。
増築部分に除去命令。
高瀬さんは、その命令自体を争った。
でも。
審査請求をしている最中に全部取り壊されたら。
あとで、
処分はおかしかったですね。
と言われても。
建物は戻ってきません。
「それで執行停止が認められた」
「はい」
「じゃあ一回認められたら、審査が終わるまで絶対止まるのか」
「そこが今日のテーマです」
私は大きく書きました。
――一度した執行停止も、一定の場合には取り消せる。
相馬先輩が眉を上げます。
「行政庁が気分を変えたら?」
「駄目です」
「やっぱり処分進めたいな、と思ったら?」
「駄目です」
「担当課が忙しくなった」
「なおさら駄目です」
「予算が余った」
「何でそれで壊すんですか」
「じゃあ何ならいい」
私はペンを止めました。
現代法の言葉なら。
二つです。
一つ。
執行停止が公共の福祉に重大な影響を及ぼすことが明らかとなったとき。
二つ。
その他事情が変更したとき。
「現代法では、この二つを押さえます」
「昭和六十三年は?」
「制度の読み方としては、旧法を確認して動く」
「逃げたな」
「逃げてません。時代を守ってるんです」
ここで未来法の条文番号を、昭和の事件にそのまま貼るほうが危険です。
私はノートに四角を書きました。
現代法・執行停止取消しの核。
①公共の福祉への重大な影響が明らかになった。
②その他、事情が変更した。
「高瀬さんはどっちだ」
相馬先輩が聞きます。
「両方の観点が出ます」
「欲張るな」
「本当に両方なんです」
私は昨日の現場を思い出しました。
執行停止が認められた時点。
作業場は存在していた。
除去命令は争われていた。
すぐ除去すれば、高瀬さんに回復しにくい損害が出る。
だから執行停止。
ところが。
そのあと大雨。
川が増水。
道路側の地盤がえぐれる。
庇を支える柱が傾く。
瓦の載った庇が県道側へ沈む。
その下を、人が通る。
「これが事情変更」
「大雨前にはなかった事情が出た」
「はい」
「じゃあ公共の福祉は?」
「執行停止を続けることで、通行人に重大な危険が及ぶことが明らかになった」
「つまり?」
「高瀬さんを守るために止めた結果、別の人を危険にさらす状態になった」
片桐所長が言いました。
「そこを混ぜるな」
「はい?」
「事情変更と公共の福祉への重大な影響は、言葉として分けて覚えろ」
「あ」
「事件では重なることがある。試験では別々に聞かれる」
なるほど。
私はノートを修正しました。
事情変更。
執行停止をしたときの前提事情が、その後変わったこと。
公共の福祉への重大な影響。
執行停止を続けることで、社会全体や第三者に重大な支障が生じることが明らかになった場合。
「高瀬さんの事件では」
私は言いました。
「大雨で建物の状態が変わった。これが事情変更」
「うん」
「その結果、庇が道路へ倒れれば通行人が危険になる。これが公共の福祉への重大な影響」
「そう整理しろ」
私は二重線を引きました。
これ。
テキストで読んだときは、
公共の福祉。
事情変更。
どちらも抽象語でした。
文字が大きい。
意味も大きい。
眠気も大きい。
でも。
現場では違う。
柱一本。
瓦一枚。
通学路。
自転車の高校生。
そこまで小さくすると、
公共の福祉という言葉が、急に人間サイズになります。
「じゃあ」
相馬先輩が言います。
「執行停止を取り消したら、何が起きる」
私は答えます。
「止めていた状態が解除される」
「もっと高瀬さんの件で言え」
「除去命令の執行を止めていた効力がなくなる」
「だから?」
「処分庁側は、また命令の執行を進められる状態になる」
「そうだ」
ここ。
試験では単純です。
執行停止を取り消す。
つまり。
止めるのをやめる。
処分は再び動ける。
でも。
昨日、私はここで盛大に間違えました。
饅頭の執行停止を取り消す。
と言った結果。
相馬先輩が合法的に饅頭へ突撃する理屈を、自分で作りました。
「先輩」
「何だ」
「執行停止の取消しは、停止を強化する制度じゃありません」
「昨日身をもって覚えたな」
「饅頭十個返してください」
「事情が確定した」
「何の事情ですか」
「もうない」
「不可逆的すぎる」
私はノートの端に、
執行停止の取消し=処分がまた動ける。
と大きく書きました。
「でも」
私は続けます。
「昨日の事件で、ちょっと引っかかったことがあります」
「何だ」
「執行停止が取り消されたら、元の処分を何でも好きなだけ執行していいんですか」
相馬先輩が私を見ます。
「どう思う」
「条文の効果だけを雑に言えば、執行停止はなくなる」
「うん」
「だから元の除去命令は、執行可能な状態に戻る」
「うん」
「でも昨日は、庇だけ先に処理して、本案で争ってる残りはすぐ壊さないって整理になりました」
「そうだな」
「これは、執行停止の取消しの効果が法律上『庇だけ』に限定されたってことではないですよね」
片桐所長が顔を上げました。
「そこは大事だ」
私は姿勢を正します。
「執行停止の取消しそのものと、その後どの範囲で現実に執行するかは、分けろ」
「はい」
そうなんです。
昨日。
危険になったのは、道路側の庇と支持部分。
でも元の除去命令は、それより広い増築部分を対象にしていました。
執行停止が取り消されれば、
法的には停止が外れる。
しかし。
だから即座に全部壊すべきだ。
と自動的に決まるわけではありません。
実際にどう執行するかについては。
新たに生じた危険。
必要性。
緊急性。
本案審理が続いていること。
そういう事情を踏まえ、
行政側がどこまで進めるかを判断することになる。
「昨日のこはるの言い方」
相馬先輩が言います。
「新しい危険は庇だろ、ってやつ」
「はい」
「あれは二十六条そのものの条文要件じゃねえ」
「そうなんですよね」
「でも実務上は大事だ」
「はい」
ここを混同すると危ない。
執行停止の取消し要件。
そして。
取消し後の行政の執行判断。
似ています。
でも同じではない。
「試験だったら」
私は書きます。
執行停止取消しの要件を聞かれているのに、
必要最小限度でなければならない。
と勝手に条文要件へ足してはいけない。
「事件で大切だったからといって」
私は言いました。
「そのまま試験の条文要件にしちゃ駄目なんですね」
「そうだ」
片桐所長が言いました。
「現場と条文を混ぜるな。つなげろ」
「……それ、すごくいいですね」
「書くな」
「もう書きました」
――現場と条文を混ぜるな。つなげろ。
これは行政法全般に使えそうです。
私は次の見出しを書きました。
執行停止の取消しは、誰がする?
「審査庁」
「即答か」
「現代法の二十六条では、審査庁が取り消すことができます」
「じゃあ処分庁が勝手に」
「『危なくなったから今日から執行停止なしね』とはできない」
「そうだ」
執行停止をした主体。
それを取り消す主体。
ここも、
なんとなく役所。
で覚えると危ない。
法律は、
誰が。
何を。
できるのか。
主語を外すと急に崩れます。
「こはる」
所長が言いました。
「昨日の高瀬さんは何だった」
「審査請求です」
「なぜ異議申立てじゃない」
「処分庁に上級行政庁があるケースだったからです」
「昭和六十三年は?」
「旧法。異議申立てと審査請求が併存」
「現代は?」
「原則として審査請求に一本化」
「期間」
「旧法の基本は六十日。現代は原則三か月」
「審理員」
「昭和六十三年にはいません」
「行政不服審査会」
「現代の仕組み。昭和六十三年にはありません」
よし。
今日は引っかからなかった。
相馬先輩がつまらなそうな顔をします。
「何ですか」
「三か月って言わねえのか」
「毎回間違えると思わないでください!」
「成長したな」
「褒められてる気がしない」
私はノートに、
昭和六十三年=旧法。
と囲みました。
このシリーズでは。
執行停止という考え方そのものを理解しつつ、
手続の名称や申立先、期間は昭和の制度で見る。
そこを外してはいけません。
「じゃあ」
相馬先輩が煙草を灰皿へ置きました。
「何で現代は審査請求に一本化した」
「またそこ来ます?」
「転生者なんだろ」
「設定を理解してきましたね」
旧法では。
異議申立て。
審査請求。
処分によって入口が違う。
上級行政庁があるかどうかも見る。
しかも異議申立ては、
処分した行政庁自身に見直しを求める構造を持つ。
「利用する側からすると、分かりにくい」
「うん」
「しかも、自分で処分した側が自分で見直す場面もある」
「うん」
「公正さへの不安も出る」
「だから?」
「現代法では原則として審査請求に一本化し、審理員制度などで審理の公正性を高める方向へ改正された」
「昨日の事件と関係あるか」
「あります」
私は高瀬さんの顔を思い出しました。
最初。
高瀬さんは、
役所が一度止めたのに、また勝手に動かそうとしている。
そう感じていました。
住民から見ると。
処分した役所。
執行停止に関わる役所。
審査する役所。
全部が、
役所。
の一語に見えます。
「旧法の時代は特に」
私は言いました。
「誰が処分して、誰が審査して、誰が執行停止を判断するのかが、利用する人から見ると分かりにくかったんでしょうね」
「今でも分かりやすくはねえだろ」
「それはそうです」
「行政法だからな」
「行政法のせいにしないでください」
でも。
制度改正には理由があります。
旧法の不服申立て制度が、
複雑。
分かりにくい。
公正性が見えにくい。
そういう課題を抱えていたから。
現代法では、
入口を原則一本化し、
審理員など、
処分担当から一定の距離を置いて審理する仕組みを整えた。
昨日。
沢渡課長が、
制度とはそういうものです。
と言っていました。
必要なら止める。
事情が変われば見直す。
その判断を住民が納得するためには。
結論だけじゃ駄目なんだと思います。
誰が判断したのか。
どんな事情を見たのか。
なぜ前と結論が違うのか。
それが見えないと、
昨日と言ってることが違うじゃないか。
で終わってしまう。
「執行停止の取消しって」
私は言いました。
「前の判断が間違ってたから取り消すとは限らないんですね」
「そうだ」
所長が答えました。
そこ。
かなり重要です。
執行停止をした。
その後、取り消した。
だから。
最初の執行停止が間違いだった。
とは限らない。
執行停止をした時点では、
止める必要があった。
でも。
その後。
事情が変わった。
公共への重大な影響が明らかになった。
だから、今は止め続けない。
「時間が違えば、適切な結論も変わる」
「そういうことだ」
「法律って、意外と動きますね」
「法律が動くんじゃない」
所長が言いました。
「事実が動く」
「あ」
私は思わずペンを止めました。
事実が動く。
だから。
同じ制度でも結論が変わる。
これは今回の事件そのものです。
大雨前。
止める。
大雨後。
危険が生じた。
止め続けることを見直す。
「じゃあ」
相馬先輩が聞きます。
「事情が変更した、って何でもいいのか」
「何でもいいわけじゃないです」
「例えば高瀬が髪を切った」
「関係ない」
「県の担当者が異動した」
「それだけなら関係ない」
「俺が饅頭を食った」
「返してください」
「事情は変わった」
「事件との関連性がないです!」
私はノートに書きました。
事情変更。
単に何かが変わった、ではない。
執行停止を続けるかどうかの判断に影響する事情が変わったこと。
「高瀬さんの住所が変わったら?」
相馬先輩が聞きます。
「事件によります」
「逃げた」
「本当に事件によります」
たとえば。
市民だけが利用できる市の施設。
市民であることを前提に使用許可を求めた。
不許可処分を争い、執行停止が問題になった。
その後。
本人が他市へ転居し、
そもそも利用資格を失った。
「そういう事情なら」
私は言いました。
「執行停止を続ける前提が変わったと言える」
「高瀬の髪型とは違う」
「当然です」
「饅頭は?」
「返してください」
しつこい。
でも。
試験ではこういう切り分けが大事です。
事情変更。
という言葉が広いからこそ。
その事情が、
執行停止を維持するかどうかに関係しているのか。
そこを見る。
「次」
私は書きました。
執行停止の取消しと、本案審理は別。
「高瀬さんの執行停止が取り消された」
「うん」
「だから審査請求も負けた?」
「違う」
「そうです」
これも。
高瀬さんが最初に誤解しかけたところ。
執行停止の取消し。
これは。
本案の結論ではありません。
除去命令が適法だった。
高瀬さんの審査請求には理由がない。
そう決めたわけではない。
「昨日も」
私は言いました。
「残りの増築部分については、本案の判断が続くことになった」
「そうだな」
「つまり執行停止の取消しは、途中の暫定的な状態を変える判断」
「うん」
「本案で処分が正しいかどうかとは別」
私は二重線を引きました。
これは試験でも実務でも重要。
執行停止が認められた。
イコール本案で勝つ。
ではない。
執行停止が取り消された。
イコール本案で負ける。
でもない。
「途中の安全装置なんですね」
「まあ、そんなもんだ」
相馬先輩が言います。
「本体の争いとは別に、争ってる間どうするかを決める」
「はい」
なるほど。
だから昨日。
高瀬さんの事件は、
除去命令そのもの。
執行停止。
執行停止の取消し。
三つを一緒にすると分からなくなりました。
でも。
分ければ見える。
一つ。
本案。
除去命令は正しいのか。
二つ。
本案の結論までの間。
処分の執行を止めるべきか。
三つ。
止めたあと事情が変わった。
その停止を続けるべきか。
「行政法って」
私は言いました。
「箱の中に箱がありますね」
「何だそれ」
「一個の事件の中に、判断が何段もある」
「だから論点で切れ」
「先輩、普段『論点で喋るな』って言うのに」
「客に喋るな。頭では切れ」
「難易度高いなあ」
でも。
まさにそうです。
相談者に、
これは本案。
これは暫定処分。
これはその取消し。
などと一気に言っても、たぶん余計に混乱します。
だから。
頭では分ける。
口では生活の言葉へ翻訳する。
それが実務。
「こはる」
所長が言いました。
「試験で引っかかるところをまとめろ」
「はい」
私はノートに番号を振りました。
一つ目。
不服申立てをしただけで、当然に処分が止まるわけではない。
二つ目。
執行停止がされたあとでも、一定の場合には取り消される。
三つ目。
現代法では、
公共の福祉に重大な影響を及ぼすことが明らかとなったとき。
その他事情が変更したとき。
審査庁は執行停止を取り消すことができる。
四つ目。
取消しがされたからといって、本案で処分が適法・妥当と確定したわけではない。
五つ目。
事情変更は、何でもいいわけではない。
執行停止を維持するかどうかの判断に関係する事情の変化を見る。
六つ目。
昭和六十三年の事件に、現代法の手続をそのまま持ち込まない。
「多い」
相馬先輩が言います。
「行政法ですから」
「言い訳に使うな」
「じゃあ減らします?」
「減らして間違えるよりマシだ」
「優しい」
「気のせいだ」
はい。
いつものやつです。
私はさらに書きます。
――「取消し」という言葉にも注意。
「何だ」
相馬先輩が聞きました。
「執行停止の取消しって聞くと」
私は言いました。
「元の処分を取り消すみたいに聞こえるじゃないですか」
「聞こえねえよ」
「受験生には聞こえるんです」
取消し。
という言葉は行政法のあちこちに出てきます。
処分の取消し。
裁決による取消し。
執行停止の取消し。
似た言葉が並ぶ。
でも。
何を取り消しているのか。
主語と目的語を見ないと危険です。
「執行停止の取消しで消えるのは」
私は書きます。
――執行停止。
元の処分ではない。
「当たり前だ」
「試験では、その当たり前をずらしてくるんです」
行政不服審査法の問題。
選択肢は、
ほぼ合ってる。
九割合ってる。
最後の一語だけ違う。
みたいな顔で近づいてきます。
油断すると刺されます。
「例えば」
私は言いました。
「執行停止が取り消されたので、審査請求そのものも失効する」
「違う」
「執行停止が取り消されたので、原処分が適法であることが確定する」
「違う」
「事情変更があれば、処分庁は自由に執行停止を取り消せる」
「違う」
「公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれが少しでもあれば」
「条文の言葉を雑に変えるな」
「そこです」
私は線を引きました。
現代法では、
重大な影響を及ぼすことが明らかとなったとき。
この言葉。
軽くしない。
公共の福祉。
重大な影響。
明らか。
全部乗っています。
「ただ不便」
では弱い。
「役所が困る」
でも弱い。
執行停止によって、
公共に対する重大な支障が明らかになった。
そこまでの事情が必要になる。
「高瀬さんの事件なら」
私は言いました。
「庇が倒れそう」
「うん」
「県道に面している」
「うん」
「通行人が日常的に通る」
「うん」
「大雨後に傾斜が進んだ記録もある」
「だから具体的」
「はい」
単なる役所の都合ではない。
人の生命や身体への危険。
しかも。
現地確認や写真という裏付けがある。
だから。
公共の福祉への重大な影響という言葉が、現実の事実と結びつく。
「結局」
相馬先輩が言います。
「昨日一番大事だったのは何だ」
私は少し考えました。
執行停止の取消し。
条文。
公共の福祉。
事情変更。
審査庁。
本案との区別。
全部大事です。
でも。
「止めること自体が目的じゃない、ってことですかね」
相馬先輩が黙ります。
私は続けました。
「執行停止って、処分を永久に凍らせる制度じゃない」
「うん」
「審査中に取り返しがつかなくなるのを防ぐために、一時的に止める」
「うん」
「だから、その途中で事情が変わって、止め続けるほうが重大な問題を起こすなら、停止のほうを見直す」
片桐所長が頷きました。
「それでいい」
私はノートに一行。
――執行停止は「止める権利」ではなく、事情に応じて動く暫定的な救済。
と書きました。
「長い」
相馬先輩が言います。
「じゃあ短くします」
少し考えます。
――止めたあとも、事情は動く。
「短すぎる」
「先輩、注文多いですね」
「試験用だろ」
「じゃあ」
もう一度。
――停止後に重大な危険・事情変更なら、停止自体を見直す。
「まあ」
相馬先輩が言います。
「それなら忘れねえだろ」
「採用します」
私は四角で囲みました。
そして。
今日の最後。
一行の覚え書き。
――執行停止は永久凍結じゃない。公共への重大な影響や事情変更があれば、審査庁は停止を取り消せる。
「一行にしては長い」
「内容優先です」
「毎回それ言うな」
窓の外は、もう暗くなっていました。
高瀬さんの作業場では。
今日、庇の瓦が下ろされています。
明日には、傾いた柱も外される。
建物そのものを残せるかどうかは。
まだ決まっていません。
審査請求の本案は続きます。
だから。
昨日の結末は、
勝った。
でも。
負けた。
でもない。
危険なところだけ先に直す。
争うべきところは、まだ争う。
ただそれだけです。
でも。
法律はときどき、
その「ただそれだけ」をするためにあります。
全部壊すか。
全部守るか。
役所が正しいか。
住民が正しいか。
そんな二択にすると。
たいてい現実のほうが先に壊れます。
だから。
処分は処分。
本案は本案。
執行停止は執行停止。
事情が変われば、その停止も見直す。
冷たいほど細かく分ける。
その細かさのおかげで。
高瀬さんは、まだ建物全部を失わずに済んだ。
通学路を通る高校生は、危ない庇の下を通らずに済む。
誰か一人だけを主人公にしない。
それが。
公共の福祉という言葉の、少し嫌で。
でも必要なところなのかもしれません。
私はノートを閉じました。
「終わったか」
相馬先輩が立ち上がります。
「はい」
「帰るぞ」
「その前に一つ」
「何だ」
私は机の上の空箱を指しました。
「饅頭十個の件です」
「まだ言うのか」
「事情変更を主張するなら、具体的事情を示してください」
「腹が減った」
「弱いです」
「公共の福祉」
「どこの公共ですか」
「俺の胃」
「私益です!」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「証拠がある」
「え?」
所長が机の端を指しました。
そこに。
小さな紙袋。
「何です?」
「高瀬さんが帰り際に置いていった」
開けます。
饅頭。
六個。
「追加!」
相馬先輩の手が伸びました。
私は箱を抱え込みました。
「執行停止!」
「申立てか」
「はい!」
「理由は」
「このままでは先輩の胃袋に重大な影響が――」
「俺なら平気だ」
「公共の福祉じゃなく健康問題です!」
所長が一個取りました。
「所長!」
「事情が変更した」
「何がですか!」
「饅頭が増えた」
「それは確かに事情変更ですけど!」
相馬先輩も一個取る。
「先輩!」
「停止の取消しだ」
「誰が決めたんですか!」
「審査庁」
「誰ですか!」
片桐所長が静かに言いました。
「俺だ」
「最悪の審査庁がいた!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
どうやら。
執行停止の取消しという制度は理解できても。
饅頭の執行停止だけは。
今日も公正な審理を期待できそうにありません。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




