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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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164/274

[行政不服審査法25条・執行停止]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 夕方の片桐行政書士事務所には、


 ぎゅ。


 ぎゅ。


 という音が響いていました。


「……先輩」


「何だ」


「うるさいです」


「俺のせいじゃねえ」


「先輩が歩くたび鳴ってます」


「靴のせいだ」


「その靴を履いて歩いてるのは先輩です」


「細けえな」


 相馬先輩が不機嫌そうに足元を見ました。


 昨日。


 松崎源太郎さんが直してくれた革靴。


 剥がれかけていた底は、見事に直っています。


 ただし。


 右足だけ、


 ぎゅ。


 と鳴る。


 革同士が馴染んでいないだけらしいのですが。


 静かな事務所では、かなり主張が強い。


「執行停止します?」


「何を」


「右足」


「黙れ」


「申立てにより――」


「お前の口を職権で止めるぞ」


「そんな処分あります?」


「今作る」


「行政立法の限界を軽々しく突破しないでください」


 片桐所長が奥の机から言いました。


「勉強するなら始めろ」


「はい」


 私は姿勢を正しました。


 机の上。


 行政不服審査法。


 ノート。


 昨日提出した執行停止申立書の控え。


 そして。


 大きく書いた見出し。


 ――執行停止。


 その横には、さらに赤字。


 ――審査請求しただけでは、止まらない。


「今日はこれです」


 私は言いました。


「昨日、身に染みました」


「松崎さんの店か」


「はい」


 松崎靴店。


 駅前の県道脇。


 三十五年間続いた、小さな靴修理店です。


 県の土木事務所長から出された、


 道路占用物件の除却命令。


 撤去期限は五日後。


 松崎さんは、その処分を争うために審査請求をした。


 そして。


 こう思っていた。


 ――審査請求したんだから、結論が出るまで撤去は待ってくれる。


 でも。


 待ってくれない。


「まず原則」


 私はノートに書きます。


 ――審査請求は、処分の効力、処分の執行又は手続の続行を妨げない。


「執行不停止の原則」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


「不服申立てをしただけじゃ、処分は止まらん」


「はい」


「昨日のお前、一瞬忘れてたけどな」


「一瞬です」


「顔は三秒くらい止まってたぞ」


「誤差です」


 私は無視してノートへ戻ります。


 ここ。


 受験生の頃は、


 ものすごく簡単に覚えていました。


 審査請求。


 イコール。


 処分停止ではない。


 以上。


 でも。


 松崎さんの事件を見たあとでは、


 その意味が違って見えます。


「例えば」


 私は言いました。


「昨日の除却命令」


「うん」


「処分そのものは、店を撤去しろという命令です」


「そうだな」


「松崎さんが審査請求をした」


「した」


「でも、それだけで除却命令が消えるわけじゃない」


「当然だ」


「撤去期限も来る」


「来る」


「さらに必要な手続が進めば、強制的な執行に進む可能性もある」


「ああ」


 つまり。


 審査請求というのは、


 処分に対して、


 もう一度審査してください。


 と求める制度。


 処分そのものへ自動的に、


 停止ボタン。


 を押す制度ではありません。


「これ」


 私は首をかしげました。


「最初に聞くと、かなり冷たいですよね」


「何がだ」


「争ってるのに進めるんですよ」


「行政からすりゃ、止まるほうが困る場合もあるだろ」


 相馬先輩が言いました。


 昨日。


 沢渡課長にも同じことを言われました。


 もし。


 不服申立てをしただけで、


 すべての処分が自動的に止まったら。


 危険な施設への使用停止。


 営業停止。


 危険物の除去。


 さまざまな行政処分が、


 不服申立て一本で、


 とりあえずストップ。


 になってしまう。


「なるほど」


 私はノートに書きます。


 ――なぜ原則として止めないのか。


 ――行政目的を、申立てだけで簡単に止めないため。


「つまり」


 私は言いました。


「執行不停止って、住民に意地悪するための原則じゃない」


「当たり前だ」


「行政をちゃんと動かすため」


「そうだ」


「でも」


 私は赤ペンを持ちました。


「それだけだと困る」


 松崎さんの店。


 五日後に解体。


 半年後。


 審査請求が認められる。


 除却命令は不当でした。


 取消します。


 ――はい。


 でも。


 店は?


 ありません。


 お客さんは?


 散っています。


 設備は?


 処分しているかもしれない。


 修理屋を再開するお金は?


 ないかもしれない。


「それじゃ」


 私は言いました。


「本案で勝っても、救済になってない」


「だから?」


 片桐所長が聞きました。


「だから執行停止」


 私はノートへ大きく書きました。


 ――本案の判断までに救済が手遅れになるのを防ぐ。


「そこだ」


 所長が言いました。


 審査請求。


 処分が正しかったかを争う。


 執行停止。


 その結論が出るまでに、取り返しがつかなくならないよう止める。


 役割が違います。


「昨日の私」


 私は言いました。


「最初、審査請求と執行停止を一つの流れで考えてました」


「受験生あるあるか」


「かなりあると思います」


 審査請求した。


 だから争っている。


 だから止まる。


 人間の感覚では、


 この三段論法が妙に自然です。


 でも。


 法律はそこを切っています。


 争うこと。


 止めること。


 別。


「だから試験問題で」


 私は指を一本立てました。


「『審査請求がされた場合、原則として処分の効力は停止する』」


「バツ」


「即答」


「昨日やっただろ」


「正解です」


 私は丸ではなく、大きなバツを書きました。


 ――不服申立てをしても、自動停止しない。


 ここが入口。


 次。


「問題は、どうやって止めるか」


 私はページをめくりました。


 そして。


「ここから時代が私を殺しに来ます」


「また始まった」


 相馬先輩が煙草をくわえます。


「現代の私の頭には、第二十五条って入ってるんですよ」


「知らん」


「執行停止は二十五条」


「知らん」


「重大な損害」


「知らん」


「審理員から意見書が――」


「知らんと言ってるだろ」


「ですよね!」


 ここは昭和六十三年です。


 現代ではない。


 平成二十六年全面改正後の行政不服審査法ではない。


 私が受験勉強で覚えていた現代法を、


 そのまま昭和六十三年に持ち込んではいけません。


 私はノートに書きました。


 昭和六十三年。


 旧行政不服審査法。


 執行停止。


 ――第三十四条。


「昨日」


 私は言いました。


「現場から戻って法令集開いて、二十五条探して固まりました」


「間抜けだな」


「転生者特有の事故です」


「普通の人間は転生しねえ」


 片桐所長が咳払いしました。


 私は続けます。


「まず旧法三十四条一項」


 審査請求は、


 処分の効力、


 処分の執行、


 手続の続行を妨げない。


「ここは基本的な考え方が今と同じです」


「執行不停止だな」


「はい」


 そして二項。


 昨日の松崎さんに一番関係したところ。


 処分庁の上級行政庁である審査庁は、


 必要があると認めるとき、


 審査請求人の申立てにより、


 または職権で、


 執行停止をすることができる。


「昨日は」


 私は確認します。


「処分庁が県の土木事務所長」


「ああ」


「審査庁は県知事」


「ああ」


「処分庁に対する上級行政庁」


「そういう整理だ」


 だから。


 この類型では、


 松崎さんから申立てることができる。


 しかも。


 必要があると審査庁自身が認めれば、


 職権でも執行停止ができる。


「申立てが絶対必要ってわけじゃない」


「この場合はな」


「ここ、試験で引っかけられそう」


「お前なら引っかかるな」


「引っかかりません」


「さっき二十五条探してただろ」


「時代錯誤と知識不足は別です!」


 私は二重線。


 ――上級行政庁である審査庁。


 ――申立てでも、職権でも可能。


 そして。


「止められるものも、一種類じゃありません」


 処分の効力。


 処分の執行。


 手続の続行。


 全部または一部。


 さらに、


 その他の措置。


「その他の措置?」


 相馬先輩が聞きます。


「単に止めるだけじゃなく、必要な別の措置を取れる余地があるってことです」


「昨日は使わなかったな」


「はい」


 昨日求めたのは、


 除却命令そのものを丸ごと消してください。


 ではありません。


 五日後に店を壊すことを、


 本案の判断まで止めてください。


 というもの。


 必要なところを止める。


「ここも大事なんですね」


 私は言いました。


「執行停止って聞くと、処分全部の電源を落とすみたいなイメージでした」


「乱暴だな」


「でも実際は違う」


 効力そのものを止める。


 執行だけ止める。


 手続の続行だけ止める。


 一部だけ止める。


 その他の措置を取る。


 選択肢があります。


「何でも一番強い止め方を使うわけじゃない」


 片桐所長が言いました。


「はい」


 ここで重要なのが。


 処分の効力停止です。


「これ」


 私はノートに書きました。


 ――処分の効力停止は最後。


「最後?」


 相馬先輩。


「効力を止めなくても目的を達成できるなら、効力停止はできない」


「もっと弱い止め方で足りるなら、そっちを使えってことか」


「そうです」


 例えば。


 除却命令。


 命令そのものの効力は残しても、


 現実の強制的な撤去だけ止めれば、


 当面の目的は達成できる場合がある。


 なら。


 わざわざ命令自体の効力まで停止する必要はない。


「必要以上に行政処分を止めない」


「そうだな」


「ここでも綱引きですね」


 人を守るために止める。


 でも。


 行政を必要以上に止めない。


 だから。


 目的を達成できる最小限の止め方を選ぶ。


「執行停止って」


 私は言いました。


「思ってたより繊細ですね」


「お前は何だと思ってたんだ」


「非常停止ボタン」


「工場じゃねえぞ」


「赤いボタンを、ばーんと」


「押すな」


 次。


 相手が上級行政庁ではない場合。


「ここも分かれます」


 私はノートに線を引きました。


 旧法では、


 処分庁の上級行政庁以外の審査庁の場合。


 必要があると認めるとき、


 審査請求人の申立てにより、


 処分庁の意見を聴いたうえで、


 執行停止ができる。


「こっちは職権じゃないのか」


「条文上、申立てが必要です」


「処分庁の意見も聞く」


「はい」


「その他の措置は?」


「できません」


「違いが多いな」


「だから試験に出るんですよ!」


 私は表にします。


 上級行政庁である審査庁。


 申立て。


 または職権。


 その他の措置まで可能。


 一方。


 上級行政庁以外の審査庁。


 申立てが必要。


 処分庁の意見聴取。


 できるのは、


 効力の停止。


 執行の停止。


 手続続行の停止。


 その全部または一部。


 それ以外の措置はできない。


「何で違うんです?」


 私は言ってから考えました。


「権限関係か」


 片桐所長が言いました。


「上級行政庁なら、処分庁に対する指揮監督の関係がある」


「だから、より幅広い措置を取りやすい」


「そういうことだ」


 なるほど。


 単語で覚えると面倒です。


 でも。


 誰が、


 誰の処分を、


 どんな立場から見直しているのか。


 そこまで考えると、


 条文の差に意味が出てくる。


「行政法って」


 私は言いました。


「人間関係図を描くと急に分かりますね」


「行政機関を人間関係って言うな」


「でも上司と部下みたいな感じですよ」


「試験答案に書くなよ」


「書きません」


 そして。


 ここからが昨日の核心。


「任意で止める場合と」


 私は言いました。


「止めなければならない場合がある」


 相馬先輩の眉が動きました。


「義務か」


「はい」


 審査庁が、


 必要だと思えば止められる。


 これは裁量的な執行停止。


 でも。


 一定の場合には。


 止めてもいい。


 ではない。


 止めなければならない。


「昨日、松崎さんについて私たちが一番強く主張した部分です」


 除却まで五日。


 店舗そのものが営業基盤。


 一度解体すれば復元が難しい。


 移転先なし。


 設備もある。


 顧客も失う。


 そして。


 工事着手日はまだ決まっていない。


 つまり。


 今すぐ壊す必要性は薄い。


 一方。


 壊された側は、


 あとで勝っても戻れない可能性が高い。


「昭和六十三年の旧法で重要なのは」


 私は赤ペンで囲みました。


 ――回復の困難な損害を避けるため緊急の必要。


「現代だと?」


 相馬先輩が聞きます。


「そこが罠です」


「嬉しそうだな」


「比較すると覚えやすいので」


 現代法では、


 重大な損害を避けるため緊急の必要があると認めるとき。


 という形になっています。


 でも。


 昭和六十三年に、


 私が頭の中の現代法をそのまま口にして、


「重大な損害です!」


 とやるのは、


 時代がずれています。


「昨日の書面では」


 私は言いました。


「『回復の困難な損害』を中心に組みました」


「ああ」


「壊されたら戻せるのか」


「戻しにくい」


「金を払えば全部埋まるのか」


「難しい」


「しかも五日後」


「緊急だ」


「だから止める必要がある」


 ここです。


 単に、


 損します。


 では足りない。


 あとで取り戻しにくい損害。


 しかも。


 今止めなければ間に合わない。


 そこを示す。


「昨日」


 私は思い出しました。


「『三十五年間地域に愛された店です』って書いたら先輩に消されました」


「消してねえ。書き直させた」


「かなりいい文章だったんですよ」


「作文大会じゃねえんだ」


「でも三十五年って大事でしょう」


「大事だ」


「なら」


「その三十五年が、どういう損害につながるかを書け」


 相馬先輩が言いました。


「三十五年営業してた」


「はい」


「だから客がいる」


「はい」


「場所を失って半年休めば、その客が散る」


「はい」


「店を建て直したからって、同じ客が帰ってくる保証はない」


「はい」


「そこまで書いて、初めて意味が出る」


 私は黙りました。


 やっぱり。


 この人。


 口は悪いのに教えるのがうまい。


「何だ」


「別に」


「気持ち悪い顔すんな」


「褒めようと思ってやめました」


「やめて正解だ」


 私はノートに書きます。


 ――感情を、要件に翻訳する。


 三十五年間続いた店。


 かわいそう。


 ではなく。


 三十五年の営業によって形成された顧客関係。


 それが長期休業によって失われる。


 そして一度失えば回復が難しい。


 法律の言葉は、


 冷たい。


 でも。


 冷たく整理することで、


 逆に人の困りごとが、


 審査庁へ届く形になる。


「ただし」


 片桐所長が言いました。


「要件を満たせば必ず止まる、とだけ覚えるな」


「例外ですね」


「言え」


 私は三つ書きました。


 まず。


 公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれ。


 例えば。


 止めれば多数の人の安全に重大な危険が出る。


 社会全体に大きな支障が出る。


 そんな場合。


「松崎さんの件では?」


「そこが弱かった」


 相馬先輩が答えます。


「店を数か月残しても、道路交通に差し迫った危険は確認されてなかった」


「工事の着手日も決まっていなかった」


「だから五日後に壊さなきゃ公共が困る、という事情は薄かった」


「はい」


 次。


 昭和六十三年の旧法では、


 処分の執行または手続の続行ができなくなるおそれ。


「これ、現代法と比べると注意ですね」


「未来の条文にはないのか」


「今の条文構造とは違います」


 そして。


 三つ目。


 本案について理由がないとみえるとき。


「本案」


 相馬先輩が言いました。


「審査請求そのものか」


「はい」


 執行停止は、


 本案の勝敗を先に決める制度ではない。


 でも。


 どう見ても審査請求に理由がない。


 明らかに勝ち目がない。


 そんな案件まで、


 緊急だからというだけで止める必要はない。


「昨日の松崎さんは?」


「少なくとも、理由なしと一目で切れる案件ではありませんでした」


 長年更新されてきた占用。


 駅前整備を理由に突然の除却。


 しかも具体的な工事着手日は未確定。


 他の占用物件との扱い。


 撤去期限を五日後とする必要性。


 審査すべき点が複数ある。


「勝てると決まったわけじゃない」


「はい」


「でも最初から負けが見えてるわけでもない」


「その程度でいいんです。本案をここで全部決着させる必要はない」


 私はノートに、


 大きく書きました。


 ――執行停止はミニ裁判ではない。


「また変な覚え方してるな」


「分かりやすいです」


「試験答案には」


「書きません!」


 そして。


 申立てがあったら。


 審査庁は、


 のんびりしていられません。


「速やかに決める」


「なぜだ」


 相馬先輩が聞きました。


「急がないと意味がないから」


「そのままだな」


「だってそのままですよ」


 松崎さんは五日後。


 もし。


 執行停止をするかどうか、


 一か月かけて検討します。


 と言われたら。


 その前に店がなくなっています。


「仮の救済って」


 私は言いました。


「内容だけじゃなく、速度そのものが救済なんですね」


 片桐所長が頷きました。


「遅い救済は、救済にならんことがある」


 短い。


 でも。


 昨日の店を見たあとだと、


 その言葉が重い。


 私はノートに囲みました。


 ――執行停止の申立てがあれば、速やかに決定。


「現代法だと」


 私は続けます。


「ここに審理員から執行停止をすべき旨の意見書が出された場合も出てきます」


「また未来か」


「はい」


「昭和六十三年には?」


「審理員制度そのものがありません」


「なら今は忘れろ」


「でも比較すると面白いんですよ」


 旧法。


 審査庁が審理する。


 異議申立てと審査請求が併存。


 処分庁自身が判断する場面もある。


 そして。


 現代。


 原則として審査請求に一本化。


 審理員制度。


 行政不服審査会等への諮問。


「昨日の執行停止だけ見ても」


 私は言いました。


「制度改正の方向が少し見えますね」


「どういう意味だ」


「誰が審理するかを、前より意識するようになってる」


 行政の中で見直す。


 それ自体は同じ。


 でも。


 行政が行政自身を審査するなら。


 公正さをどう確保するか。


 そこが問題になる。


「旧法の異議申立てなんて」


 私は言いました。


「処分庁本人に、もう一回見てください、ですもんね」


「前にも言ってたな」


「本人に本人の答案を採点し直してもらう」


「学校から離れろ」


「便利なんですよ、この例え」


 現代法で、


 原則審査請求へ一本化。


 そして審理員制度。


 そういう仕組みが作られた背景には、


 旧制度の分かりにくさや、


 公正性を高める必要性がある。


 ただ。


「古い制度だから全部駄目、ではない」


 片桐所長が言いました。


「はい」


 昨日。


 昭和六十三年の制度でも、


 松崎さんの店は止められた。


 申立てをして。


 資料を出して。


 回復困難な損害。


 緊急性。


 公共側の影響。


 本案の見込み。


 それらを整理した。


 制度は古くても。


 そこに救済の道はある。


「結局」


 私は言いました。


「新法を知ってるから偉いんじゃないんですね」


「当たり前だ」


「今使える法律を正しく使わないと意味がない」


「昨日ようやく分かったか」


「前から分かってます」


「二十五条」


「う」


「重大な損害」


「うう」


「審理員」


「もうやめてください!」


 全部。


 現代知識。


 全部。


 昭和六十三年では、そのまま使えません。


 私はノートの真ん中に線を引きました。


 左。


 昭和六十三年。


 旧法。


 右。


 現代法。


 そして書きます。


 旧法。


 執行停止は第三十四条。


 審査請求をしても執行不停止。


 上級行政庁である審査庁なら、


 申立てまたは職権。


 必要なら、


 効力停止。


 執行停止。


 手続続行の停止。


 その他の措置。


 一定の場合には、


 回復の困難な損害を避けるため緊急の必要があれば、


 原則として執行停止が義務になる。


 一方。


 現代。


 執行停止は第二十五条。


 やはり執行不停止が原則。


 一定の場合に、


 重大な損害を避けるため緊急の必要があれば、


 執行停止が義務。


 審理員制度もある。


「似てる」


 私は言いました。


「でも違う」


「一番危ないやつだな」


「はい」


 全然違うなら、


 間違えにくい。


 名前も考え方も似ている。


 でも。


 条文番号。


 文言。


 制度。


 少しずつ違う。


 こういうのが、


 一番危ない。


「試験で現行法を聞かれたら?」


 相馬先輩。


「現行法で答える」


「実務で昭和六十三年なら?」


「昭和六十三年の法令で動く」


「未来知識は?」


「いったん脇へ置く」


「よし」


「……なんで先輩が先生みたいになってるんです?」


「お前が生徒みたいだからだ」


「納得いかない」


 私は次に、


 昨日の事件を三つに分けました。


 一。


 本案。


 除却命令は適法・妥当か。


 二。


 執行。


 その命令を現実に進めるか。


 三。


 時間。


 本案の結論が出るまでに何が失われるか。


「昨日の最大のポイント」


 私は言いました。


「たぶん三つ目です」


「時間か」


「はい」


 行政法の本を読んでいると。


 処分。


 取消し。


 裁決。


 そういう結果ばかり目に入ります。


 でも。


 現実の人には、


 結果が出るまでの時間があります。


 その間にも、


 店はなくなる。


 仕事はなくなる。


 契約が切れる。


 客が離れる。


 生活が変わる。


「だから」


 私は言いました。


「執行停止は、本案とは別に『時間』を扱う制度なんですね」


 片桐所長がこちらを見ました。


「悪くない」


「褒めました?」


「気のせいだ」


 またそれです。


 私は調子に乗って続けます。


「本案で勝つ権利があっても、勝つまでに全部失ったら意味がない」


「うん」


「だから、結論までの時間を壊さない」


「そうだ」


「なるほど」


 私は赤線を引きました。


 ――執行停止は、本案の意味を残すための救済。


 昨日。


 所長が言った言葉です。


「これ、かなり覚えやすいです」


「条文も覚えろ」


「はい」


「雰囲気だけで試験は受からん」


「はい……」


 痛い。


 非常に痛い。


 私は仕方なく、


 条文構造をもう一度整理しました。


 第一段階。


 原則。


 審査請求しても止まらない。


 第二段階。


 必要があれば執行停止。


 上級行政庁なら申立てまたは職権。


 第三段階。


 申立てがあり、


 回復困難な損害を避けるため、


 緊急の必要がある。


 その場合は原則として止めなければならない。


 第四段階。


 ただし。


 公共の福祉への重大な影響。


 執行・手続続行が不可能になるおそれ。


 本案に理由がないとみえる場合。


 こうした事情があれば義務的な停止にはならない。


 第五段階。


 効力停止は、


 他の措置で目的を達成できるなら使えない。


 第六段階。


 申立てが来たら速やかに判断。


「……多い」


 私は机へ突っ伏しました。


「これが試験に出る理由、分かりました」


「何だ」


「引っかけポイントが多すぎます」


「受験生目線しかねえのか」


「でもですよ」


 私は起き上がりました。


「申立てか職権か」


「うん」


「できる措置の範囲」


「うん」


「裁量か義務か」


「うん」


「義務になる要件」


「うん」


「例外」


「うん」


「効力停止の補充性」


「うん」


「速やかな決定」


「多いな」


「でしょう!」


 行政書士試験作成者から見たら、


 おいしいところしかありません。


 私は問題を作ってみました。


「先輩」


「何だ」


「問題です」


「嫌だ」


「処分庁の上級行政庁である審査庁は、審査請求人から申立てがなければ、執行停止をすることができない」


「バツ」


「理由」


「職権でもできる」


「正解」


「次」


「まだやんのか」


「上級行政庁以外の審査庁も、職権で執行停止できる」


「バツ」


「はい」


「申立てが要る」


「はい」


「じゃあ次は俺からだ」


「え?」


 相馬先輩がにやりとします。


 嫌な予感。


「松崎さんが審査請求した。その瞬間、五日後の除却期限は止まった」


「バツ」


「松崎さんの店が三十五年続いていた。だから当然に執行停止しなければならない」


「バツ」


「かわいそうだから?」


「バツ!」


「声でかい」


「先輩が雑な問題出すからです」


「じゃあ何が要る」


「回復困難な損害と緊急性を具体的に示す」


「公共への影響は」


「見る」


「本案が最初から駄目そうなら」


「義務的に止める話にはならない」


「効力を止めなくても、執行だけ止めれば足りるなら」


「効力停止はしない」


「よし」


 私は止まりました。


「……全部答えられた」


「昨日やったからな」


 本当に。


 昨日までは、


 この条文。


 表にして覚えようとしていました。


 申立て。


 職権。


 上級行政庁。


 その他の措置。


 回復困難。


 緊急。


 公共の福祉。


 効力停止。


 速やか。


 単語が多くて、


 脳の中で全部ばらばらでした。


 でも。


 松崎靴店を一つ置くだけで。


 全部がつながる。


 なぜ自動停止しない。


 行政を動かす必要があるから。


 なぜ例外的に止める。


 あとで勝っても戻らない場合があるから。


 なぜ緊急性を見る。


 明日壊れるのに半年後の救済では遅いから。


 なぜ公共への影響を見る。


 一人を守るために多数の安全を危険にしてはいけないから。


 なぜ一番強い効力停止を簡単に使わない。


 必要以上に行政作用を止めないため。


 なぜ速やかに決める。


 遅ければ執行停止そのものが無意味になるから。


「……条文って」


 私は呟きました。


「ちゃんと理由があるんですね」


「今さら何言ってんだ」


「受験生って、覚える量が多くなると忘れるんですよ」


 条文の向こうに、


 何を守ろうとしているのか。


 それより。


 どこが出る。


 どこが引っかけ。


 何点取れる。


 そっちを見る。


 それも試験には必要です。


 でも。


 現場へ出ると、


 順番が逆になります。


 まず人が困る。


 次に、


 どんな損害が起きるのかを見る。


 それから条文を見る。


 すると。


 眠かった法律用語が、


 急にその人を守る道具になる。


 そのとき。


 電話が鳴りました。


 私が取ります。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『松崎です』


「あ、源太郎さん」


『昨日はありがとうね』


「いえ。その後どうです?」


『店、開けてるよ』


「よかったです」


『朝から三人来た』


「修理ですか」


『二人は修理。一人は話を聞いて、頑張れって』


 電話の向こうで、


 少し照れたように笑っています。


『それでね』


「はい」


『相馬さんの靴』


 私は相馬先輩を見る。


「はい」


『鳴るでしょう』


「鳴ります」


「おい」


『やっぱりな』


「やっぱりなんですか!?」


『接着じゃない。革が馴染んでないだけだから、一週間くらい履けば落ち着く』


「だそうです」


 相馬先輩へ伝えます。


「そうか」


『だから』


 源太郎さんが言いました。


『まだ壊れてないから、持ってこなくていい』


 私は笑いました。


「分かりました」


『店も同じだな』


「え?」


『まだ壊れてない』


 電話の向こうで、


 ミシンの音がしました。


 かたん。


 かたん。


『だから、争える』


 私は少しだけ黙りました。


「……はい」


『勝つか負けるかは知らんけどね』


「はい」


『でも、店があるうちに決めてもらえる』


「はい」


『それで十分だよ』


 電話が切れました。


 受話器を置く。


「何だって?」


 相馬先輩が聞きました。


「靴は壊れてないそうです」


「そこじゃねえだろ」


「一週間履けって」


「店の話だ」


 分かっています。


 私は椅子へ戻りました。


 ノートの最後のページを開きます。


 一行の覚え書き。


 いつものやつです。


 少し考える。


 そして。


 書きました。


 ――審査請求は止めない。だから、あとで勝っても遅いなら、今を止める。


「長いな」


 相馬先輩。


「じゃあ短くします」


 書き直す。


 ――争うだけでは止まらない。手遅れになる前に、執行を止める。


「まあいい」


「今回は褒めるの早いですね」


「もう帰りてえ」


「ひどい」


 でも。


 私はその一行を囲みました。


 行政不服審査法。


 執行停止。


 言葉だけを見ると、


 役所の機械を一時停止するような制度です。


 でも。


 昨日止まったものは、


 単なる行政手続ではありません。


 五日後に壊されるはずだった店。


 三十五年かけてつながった客。


 古いミシン。


 預かった靴。


 職人の仕事。


 それらが、


 本案の結論が出るまで、


 まだそこにいていいことになった。


 もちろん。


 松崎さんが勝ったわけではありません。


 除却命令が取り消されたわけでもない。


 駅前整備がなくなったわけでもない。


 ただ。


 行政の答えが出る前に、


 答えの意味そのものが消えてしまうことを防いだ。


 それだけです。


 でも。


 たぶん執行停止という制度は、


 その「それだけ」のためにあります。


 行政を止めすぎれば、


 社会が困る。


 行政を止めなさすぎれば、


 救済が間に合わない。


 だから。


 原則は進める。


 必要なときだけ止める。


 そして。


 止めるなら、


 何を。


 どこまで。


 なぜ。


 いつまで。


 冷静に切り分ける。


 法律は、


「かわいそうだから待ってあげよう」


 とは書きません。


 回復の困難な損害。


 緊急の必要。


 公共の福祉。


 本案について理由がないとみえるか。


 そんな冷たい言葉を並べます。


 でも。


 冷たいからこそ。


 誰かの同情に頼らず、


「この人は、今止めなければ救えない」


 と論理で言える。


 それが、


 たぶん制度の冷たさが人を救う瞬間です。


 私はノートを閉じました。


「終わりました」


「帰るぞ」


 相馬先輩が立ち上がります。


 ぎゅ。


「……」


 ぎゅ。


「先輩」


「言うな」


「まだ回復困難ではないそうです」


「言うな」


「緊急の必要もありません」


「黙れ」


「公共の福祉にも重大な影響は――」


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「その口を止めろ」


「職権ですか」


「そうだ」


「私は処分庁の部下じゃありません!」


「なら申立てる」


「誰がです?」


「相馬が」


 相馬先輩が即答しました。


「申し立てる」


「二対一!」


「必要性あり」


「どんな損害があるんですか!」


「俺の精神」


「回復できます!」


「困難だ」


「大げさです!」


 片桐所長が鞄を持ち上げました。


 昨日見つかった、


 切れかけの持ち手。


「所長、それ」


「何だ」


「明日、松崎さんのところへ持っていくんですよね」


「ああ」


「営業時間中に?」


「昼休みだ」


「私も行きます」


「何を直す」


「鞄の金具」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「結局客じゃねえか」


「地域経済への貢献です」


「昨日も聞いた」


 事務所の明かりを落とします。


 外はもう暗い。


 駅前の向こう。


 松崎靴店にも、


 まだ明かりがついているはずです。


 本案の裁決は、


 まだ先。


 それでも。


 明日の朝。


 あの引き戸は開く。


 その時間を守ったのが、


 執行停止。


 私はもう一度、


 暗くなった机のノートを見ました。


 ――争うだけでは止まらない。手遅れになる前に、執行を止める。


 たぶん。


 今度この問題が試験に出ても。


 私はもう、


 忘れません。

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