[行政不服審査法25条・執行停止]現場編 「審査請求したんだから、撤去は止まるでしょう」の罠。あとで勝っても戻らない店と、結論が出る前に守る執行停止
争っている最中なら、普通は待ってくれる。
そう思いたくなります。
だって。
まだ、どちらが正しいか決まっていないのです。
だったら結論が出るまで、現状維持。
それが一番公平に見える。
ところが。
行政法は、そこで平然と言います。
――争うのは自由です。
――でも、処分は進めます。
待って。
それ。
あとで勝ったとき、もう何も残っていなかったらどうするんですか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の朝。
私は、机の上に置かれた赤い紙を見ていました。
正確には。
赤い紙ではありません。
白い紙です。
ただ。
読めば読むほど、頭の中で非常ベルが鳴るので、私には赤く見えました。
「先輩」
「何だ」
「これ、いつです?」
「何が」
「撤去」
「五日後」
「五日後!?」
「朝からうるせえな」
「五日後は朝からうるさくなって当然ですよ!」
相馬先輩は煙草をくわえたまま、新聞から目も上げません。
私はもう一度、通知書を見ました。
――道路占用物件除却命令。
差出人は、県の土木事務所長。
名宛人は、
松崎源太郎。
六十二歳。
駅前の県道脇で、小さな靴修理店を営んでいる男性でした。
店といっても、立派な店舗ではありません。
木造の小さな小屋です。
間口は二間ほど。
看板には、
『松崎靴店』
とありますが。
売っている靴はほとんどありません。
やっているのは、
かかとの交換。
革靴の底張り。
長靴の穴直し。
鞄の金具交換。
傘の柄まで直す。
もはや靴屋というより、
町の「捨てる前に一度ここへ持っていく場所」です。
源太郎さんは、その店を三十五年続けていました。
「道路の拡幅ですか?」
私は尋ねました。
「いや」
源太郎さんは帽子を膝の上で握りました。
「駅前の整備だそうで」
「工事が始まる?」
「そう言われた」
「いつです?」
「それが……」
源太郎さんは困ったように眉を下げました。
「来年かもしれんし、再来年かもしれん、と」
私は止まりました。
「五日後に店を壊せって言われてるのに?」
「はい」
「工事は来年か再来年?」
「はい」
「……先輩」
「聞こえてる」
新聞がぱたりと閉じました。
相馬先輩の顔から眠そうな感じが消えます。
「最初から話せ」
源太郎さんは頷きました。
店は県道沿いの土地に一部かかっている。
昔から道路占用の許可を受け、更新しながら営業してきた。
ところが今回。
駅前整備計画に伴い、更新が認められなかった。
さらに。
占用物件を撤去せよ。
期限は五日後。
従わなければ、行政上の強制手続に進む可能性がある。
「審査請求は?」
相馬先輩が聞きます。
「昨日出しました」
「どこへ」
「県庁へ。土木事務所で、知事に出すんだと教えてもらって」
私は頷きました。
処分したのは県の出先機関。
その上級行政庁に対して審査請求。
昭和六十三年。
異議申立てと審査請求が並んでいる旧制度の時代です。
今回は処分庁自身への異議申立てではなく、上級行政庁への審査請求。
そこまではいい。
「だったら」
源太郎さんが、少し安心したように言いました。
「もう大丈夫ですよね」
「え?」
「審査請求を出したから」
私は嫌な予感がしました。
「何が大丈夫なんです?」
「決まるまで、店は壊されないんでしょう?」
沈黙。
相馬先輩が私を見る。
私は相馬先輩を見る。
片桐所長が、奥の机から顔を上げました。
非常ベル。
脳内で最大音量。
「……誰か、そう言ったんですか?」
「いや。でも」
源太郎さんは当然のように言いました。
「こっちは不服だって申し立てたんですよ」
「はい」
「まだ、県が正しいか私が正しいか、決まってない」
「はい」
「だったら決まるまで待つのが普通じゃないんですか」
普通です。
ものすごく普通です。
人間の感覚としては。
でも。
行政不服審査法は、その普通を採用していません。
私は喉が乾くのを感じました。
「源太郎さん」
「はい」
「審査請求をしただけでは……」
一拍。
「処分は止まりません」
源太郎さんの顔から表情が消えました。
「……え?」
「除却命令の効力も、そのままです」
「でも、審査してるんでしょう?」
「はい」
「間違ってるかもしれないんでしょう?」
「はい」
「なのに壊すんですか」
答えに詰まりました。
相馬先輩が横から言います。
「そういう仕組みだ」
「そんな馬鹿な」
「馬鹿に見えても、そうなってる」
源太郎さんは椅子から半分立ち上がりました。
「じゃあ何のために審査請求したんです!」
怒鳴ったわけではありません。
でも。
その声には、怒鳴り声より重いものがありました。
三十五年。
店を続けた人です。
妻を亡くしたあとも、毎朝八時に店を開けた。
学校へ行く子の靴を縫った。
工場勤めの人の安全靴を直した。
革靴のかかとが減れば、
「まだ履ける」
と言って直した。
そんな小屋が五日後に消える。
そして半年後。
一年後。
審査請求で、
あなたの言い分には理由がありました。
と認められたとしても。
壊した店は、
裁決書から生えてきたりしません。
行政法。
そこ。
どうするの。
昨夜までなら、
執行不停止の原則。
はい重要語句。
と赤線を引いて終わっていました。
今は違います。
目の前に、
五日後に店を失う人がいる。
急に。
その原則が、とんでもなく冷たいものに見えました。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「続きは」
「え?」
「審査請求をしても止まらない。そこで終わりか」
私は瞬きをしました。
そこで終わり。
ではない。
止まらないのが原則。
でも。
止める仕組みがある。
「あ」
私は口にしました。
「執行停止」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「やっと出たか」
「ありますよね」
「ある」
「申立て」
「そうだ」
私は源太郎さんを見ました。
「まだあります」
「何が」
「店を五日後に壊されないよう、別に求める手続があります」
「審査請求とは違うんですか」
「審査請求の中で、本案の結論が出るまで処分の執行を止めてもらうんです」
「止められるんですか」
「可能性があります」
可能性。
そこは濁せません。
何でも申し立てれば止まる制度ではない。
でも。
何もしなければ止まらない。
その差は大きい。
片桐所長が立ち上がりました。
「現場を見る」
「今からですか」
「五日しかない」
「ですよね」
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。
「行くぞ」
「はい」
源太郎さんの靴店は、
駅から歩いて五分ほどの場所にありました。
私は見た瞬間、
思っていたより小さい。
と思いました。
木造平屋。
というより。
小屋。
というより。
大きな道具箱。
それくらいの店です。
引き戸を開けると、
革の匂いと接着剤の匂い。
壁には靴底。
工具。
糸。
金具。
古びたミシン。
そして棚には、
修理待ちの靴が十数足。
「これ、全部お客さんのですか」
「そう」
「五日で返せます?」
「無理だなあ」
源太郎さんは笑いました。
笑いましたが。
その笑い方は弱かった。
「このミシンは?」
「親父の代から」
「動かせます?」
「動かせんことはないが」
源太郎さんが鉄の脚を叩きます。
「一人じゃ無理だ」
相馬先輩が店の外へ出ました。
道路幅。
歩道。
小屋の位置。
隣の空き地。
向かいの店舗。
工事予定区域。
とにかく見ています。
私は源太郎さんから話を聞きました。
「壊されたら、別の場所で店を?」
「すぐには無理だな」
「借りられるところは」
「探してはいる」
「候補は?」
「一つあったんだけどね」
「はい」
「家賃が今の四倍だ」
それは厳しい。
「店を一度壊したら、建て直せますか」
源太郎さんは返事をしませんでした。
代わりに。
古いミシンを撫でました。
「たぶん」
しばらくしてから言います。
「そこで終わりだな」
その一言で。
私は理解しました。
これ。
ただの五日間の話じゃない。
壊されたあとで勝っても遅い。
金銭で埋めれば元通り。
とは簡単に言えない。
常連客は散る。
修理途中の品は移さなければならない。
道具もある。
営業場所を失えば、
そのまま廃業になる可能性がある。
つまり。
今ここで必要なのは、
最終的に誰が正しいかを決めることだけじゃない。
その結論が出るまで、
取り返しのつかない状態にしないこと。
「先輩」
「何だ」
「急ぎましょう」
「ああ」
「今日中に」
「やっと分かったか」
「最初から急いでます」
「さっきまで店のミシン見て感心してただろ」
「あれは現場確認です!」
「そういうことにしといてやる」
市役所ではありません。
その日は県庁へ向かいました。
そして。
なぜか。
そこに沢渡課長がいました。
「……課長?」
「朝比奈さん」
「なんで県庁にいるんです?」
「駅前整備の協議です」
「市役所の人ですよね」
「市役所の人間も県庁へ来ます」
「それはそうですけど」
この人。
本当に行政法イベントの発生地点に必ずいる気がします。
「松崎さんの件ですか」
沢渡課長が言いました。
「知ってるんですか」
「駅前整備に関連していますから」
「五日後に撤去って」
「県の処分です」
あ。
来た。
行政機関の縄張り線引き。
「市が決めたんじゃない」
「ええ」
「でも市の駅前整備計画が理由になってる」
「一因です」
「便利ですね、その距離感」
「行政というのは、便利さで権限を決めません」
相変わらず強い。
皮肉がテフロン加工されています。
何を投げてもくっつきません。
私たちは県の担当課へ通されました。
担当者と係長。
その奥に課長。
机の上には松崎さんの審査請求書の写し。
片桐所長が言います。
「執行停止を申し立てます」
担当者が一瞬、視線を上げました。
「除却命令についてですか」
「そうです」
「審査請求は受理しています」
「それとは別だ」
相馬先輩が言いました。
「五日後の撤去を止めろって話だ」
係長が少し表情を固くしました。
「審査請求をされたからといって、処分の執行が当然に停止するわけではありません」
「知ってる」
「でしたら」
「だから執行停止を申し立てるって言ってんだ」
相馬先輩。
圧が強い。
私は横で小さく頭を下げました。
すみません。
でも内容は合っています。
県の担当者が資料をめくりました。
「除却期限は既に告知されています」
「五日後です」
「駅前整備事業のため、物件整理は必要です」
「工事の着手日は」
片桐所長が聞きました。
「何です?」
「この場所の工事着手日だ」
少し間が空きました。
「具体的な日は、まだ」
「月は」
「来年度以降になる可能性があります」
「なら、五日後に壊さなければならない理由は」
さらに間。
私は思いました。
来た。
論点が、
感情から離れた。
源太郎さんがかわいそう。
三十五年続けた。
思い出の店だ。
もちろん全部大切です。
でも。
役所の机を動かすには、
別の形にしなければならない。
五日後に執行する必要性。
執行した場合の損害。
あとで元に戻せるのか。
止めた場合に公共にどんな影響があるのか。
そして本案。
審査請求そのものに、まったく理由がないような案件なのか。
感情を、
要件に翻訳する。
法律屋の仕事は、たぶんそこです。
「申立理由は?」
県の課長が聞きました。
片桐所長が私を見ました。
「こはる」
「はい」
来ました。
無茶振り。
私は資料を開きました。
「まず」
声が少し震えました。
でも続けます。
「この店は、単に荷物を置いているだけではありません。松崎さんの営業場所そのものです」
「はい」
「撤去されれば、同じ場所で営業を続けることはできません」
「それは処分の当然の結果でしょう」
「はい。でも、審査請求で半年後に取消しになったとしても、同じ状態へ戻せるとは限りません」
担当者がこちらを見る。
「店舗は木造で、老朽化しています。一度解体すれば再利用が難しい。大型の修理用ミシンや設備があり、修理途中の預かり品もあります」
「移転はできるでしょう」
「場所があれば」
私は言いました。
「現時点で代替店舗はありません。近隣で確保できそうな物件は賃料が大幅に上がります」
「営業上の損失は金銭評価できるのでは?」
う。
痛い。
そこを言われると弱い。
でも。
相馬先輩が横から言いました。
「靴一足の売上げの話じゃねえ」
係長を見る。
「三十五年あそこでやってきた修理屋だ。場所が消えて半年休めば、客は戻ってこねえ」
「それをすべて回復困難な損害と評価するかは別問題です」
「だから資料を出す」
相馬先輩は店の写真を机へ置きました。
修理待ちの靴。
ミシン。
狭い店内。
駅からの道。
近隣商店。
「それから」
私は言いました。
「緊急性があります」
「期限が五日後だから?」
「はい」
「期限は通知時から分かっていたはずですが」
「松崎さんは、審査請求をすれば撤去も止まると思っていました」
「それは制度の誤解でしょう」
「そうです」
私は認めました。
「誤解です」
ここはごまかさない。
「でも、誤解だったからといって、五日後に店が壊れればいいことにはなりません」
県の課長がこちらを見ます。
「朝比奈さん」
「はい」
「執行停止は、本案を先取りする制度ではありません」
「分かっています」
「審査請求に理由があるかどうかは、まだ審理していない」
「はい」
「駅前整備も公共事業です」
「はい」
「一人の営業のために、全体を止めるわけにはいかない」
空気が重くなる。
そこで。
片桐所長が口を開きました。
「全体を止めろとは言っていない」
短い。
全員が所長を見る。
「松崎さんの店の撤去を、本案の判断まで止めろと言っている」
「しかし」
「駅前整備工事全体の停止ではない」
所長は机の図面を指しました。
「この区画の工事着手日は決まっていない」
「……ええ」
「五日後にこの店を撤去しなければ、公共の福祉に重大な影響が出るのか」
誰も答えません。
「道路交通に危険があるのか」
「現時点で、差し迫った危険という意味では……」
「工事が止まるのか」
「直ちには」
「なら」
所長が言いました。
「止めた場合の不利益と、壊した場合の不利益を比べろ」
静かな声でした。
でも。
部屋の空気が変わりました。
これです。
法律知識で空気がひっくり返る瞬間。
情けをください。
ではない。
三十五年営業したんだから許してください。
でもない。
どちらの損害が、あとで戻しにくいか。
五日後の撤去を止めることで、
行政側に何が起こるのか。
逆に。
止めずに執行したら、
松崎さんに何が起こるのか。
そこを比べる。
県の課長が資料を閉じました。
「申立書を出してください」
「今日出す」
所長が答えました。
「資料も添えます」
私も言いました。
「店の現況写真、設備一覧、修理品の預かり状況、代替店舗の見積り、工事予定について確認できた資料」
「分かりました」
「期限が五日後です」
「承知しています」
「いつ判断を?」
少し嫌な質問です。
でも聞かなければならない。
課長は言いました。
「速やかに検討します」
相馬先輩が鼻を鳴らしました。
「役所の『速やかに』ほど怖い言葉はねえな」
「先輩」
「何だ」
「本人の前で言わない」
県の課長がこちらを見ました。
「少なくとも、執行してから検討するつもりはありません」
お。
私は少しだけ息を吐きました。
まだ勝ってはいない。
でも。
五日後に向かって一直線だった時計が、
ほんの少しだけ遅くなった。
廊下へ出ると。
壁際に沢渡課長がいました。
「聞いてたんですか」
「たまたまです」
「絶対たまたまじゃないでしょう」
「県との協議がありますので」
「便利だなあ、協議」
沢渡課長は無視しました。
「執行停止ですか」
「はい」
「本案だけ出して安心していた?」
「松崎さんは」
「朝比奈さんは?」
「私は……」
言葉に詰まる。
正直。
相談を受けた瞬間。
一瞬だけ、
審査請求したなら大丈夫。
と思いかけました。
現代の受験勉強でも散々やったはずなのに。
審査請求は、
処分の効力、
処分の執行、
手続の続行を、
原則として妨げない。
執行不停止。
「一瞬だけです」
「何が」
「一瞬だけ、私も安心しかけました」
「危ないですね」
「ぐっ」
この人。
傷口を正確に押してきます。
「不服を申し立てる制度と、処分を止める制度は別に考えたほうがいい」
沢渡課長が言いました。
「珍しく親切ですね」
「珍しくは余計です」
「でも、止めないのが原則なんですよね」
「そうです」
「なんでです?」
沢渡課長が少し考えました。
「不服申立てをしただけで、すべての行政処分が自動的に止まったらどうなります」
「……なるほど」
「営業停止でも、危険物の処分でも、何でも不服申立てをすれば止まる」
「行政が動けなくなる」
「そういうことです」
だから。
原則は止めない。
行政処分には、公の目的がある。
申立てがあったというだけで全部止めれば、
必要な行政まで止まる。
でも。
「その原則を貫くと、あとで救済しても間に合わない人が出る」
「だから例外がある」
「執行停止」
「そうです」
なんだ。
冷たい原則と、
人を救う例外。
そういう話ではない。
原則にも理由がある。
例外にも理由がある。
行政を止めすぎない。
でも、
救済が手遅れになるときは止める。
両方を見ている。
「行政法って」
私は呟きました。
「ずっと綱引きしてますね」
「何と何がです」
「行政をちゃんと動かすことと、人を雑に潰さないこと」
沢渡課長は少しだけ笑いました。
「それを綱引きと言うなら、そうかもしれませんね」
事務所へ戻った私たちは、
その日のうちに申立書を作りました。
いつもの不服申立書とは別です。
目の前の火を消すための書面。
私は最初、
こう書きました。
――申立人は三十五年間、地域住民に親しまれた靴修理店を営み、多数の常連客から信頼されている。
「消せ」
相馬先輩。
「全部ですか」
「そこじゃねえ」
「でも大事ですよ」
「大事だ。だが、それだけじゃ止まらん」
「じゃあ何を書くんです」
「壊したら、何が戻らねえ」
私はペンを止めました。
そして書き直します。
除却期限まで五日しかないこと。
店舗そのものが営業基盤であること。
解体後の原状回復が容易ではないこと。
設備移転に時間と費用を要すること。
代替店舗が確保されていないこと。
営業停止が長期化すれば顧客関係が失われるおそれがあること。
修理途中の預かり品が多数存在すること。
一方で。
対象地における具体的な工事着手日は決まっていないこと。
直ちに撤去しなければ道路交通や安全に重大な支障が生じる事情は確認できないこと。
そして。
本案についても、
長年継続してきた占用を今回直ちに終了させる必要性、
駅前整備との具体的関係、
他の占用物件との取扱いの差について、
なお検討すべき点があること。
「所長」
「何だ」
「これ」
私は書面を見ながら言いました。
「結局、先に負けると本番で勝っても意味がない、って話ですよね」
「雑だな」
「相馬先輩みたいなこと言わないでください」
「俺のせいにすんな」
片桐所長が書面を読みます。
「だが、間違ってはいない」
「ですよね」
「本案の裁決に意味を残す」
所長は申立書を机に置きました。
「そのための執行停止だ」
その言葉が、
妙に腑に落ちました。
本案で勝つ。
それだけでは救済にならないことがある。
家が壊されたあと。
店が潰れたあと。
資格を失って仕事を失ったあと。
あとから、
処分はおかしかったです。
と言われても。
時間は戻りません。
だから。
結論が出るまでの時間をどう扱うか。
それ自体が、
救済の一部になる。
三日後。
県から電話がありました。
私が取りました。
「はい。片桐行政書士事務所です」
『県庁の道路管理課です』
心臓が跳ねました。
「はい」
『松崎源太郎さんの執行停止の申立てについてです』
「はい」
相馬先輩がこちらを見る。
片桐所長も手を止めました。
『審査庁において検討した結果、審査請求について裁決があるまで、当該除却命令の執行を停止することになりました』
「……本当ですか」
『はい』
「撤去しなくていい?」
『現時点では』
そこは役所。
浮かれさせてはくれません。
『ただし、本案の審査請求について認容するとの判断ではありません』
「分かっています」
『また、道路管理上の事情に変更が生じた場合には、別途対応を検討することがあります』
「はい」
『その点は松崎さんにも伝えてください』
「分かりました。ありがとうございます」
電話を置きました。
「先輩」
「聞こえた」
「止まりました」
「ああ」
「店、壊されません」
「今はな」
「そこ大事なの分かってますけど、今くらい喜びましょうよ!」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「お前が二人分喜んでるから足りてる」
その日の夕方。
源太郎さんが事務所へ来ました。
「本当ですか」
「はい」
私は言いました。
「本案の結論が出るまで、撤去の執行は止まります」
「じゃあ」
「店、開けていて大丈夫です」
源太郎さんは、
しばらく何も言いませんでした。
「勝ったんですか」
「まだです」
私は首を振りました。
「そこは違います」
「まだ?」
「審査請求そのものの結論はこれからです」
「じゃあ、負けることも」
「あります」
「そうですか」
少し沈黙。
それから。
源太郎さんは笑いました。
「でも、明日は店を開けられる」
「はい」
「明後日も」
「はい」
「預かってる靴を返せる」
「はい」
「だったら」
源太郎さんは大きく息を吐きました。
「今日は、それで十分です」
十分。
また、この言葉です。
法律の仕事をしていると、
完全勝利だけが救済じゃないことがあります。
明日がある。
一週間ある。
説明する時間がある。
片付ける時間がある。
争う時間がある。
それだけで、
人は立ち直れることがある。
「これ」
源太郎さんが紙袋を机に置きました。
「何です?」
「直した」
中から出てきたのは、
革靴でした。
片方。
かなり古い。
私は首をかしげます。
「誰のです?」
源太郎さんが相馬先輩を指しました。
「え?」
「この前店へ来たとき、底が剥がれかけてたから」
全員の視線が、
相馬先輩の足元へ行きました。
「先輩」
「何だ」
「靴、片方違いますね」
「見るな」
「片方だけ預けたんですか」
「うるせえ」
源太郎さんが笑います。
「いい革靴だよ。捨てるにはもったいない」
相馬先輩が靴を受け取りました。
「いくらだ」
「いらん」
「そういうわけにいくか」
「今回の礼だ」
「仕事は仕事だ」
「じゃあ五百円」
「安すぎるだろ」
「店がなくなるところだったから、特別価格」
「……千円払う」
「五百円でいい」
「千円」
「頑固だなあ」
私は横から言いました。
「先輩、行政庁より頑固ですね」
「お前は黙ってろ」
片桐所長が靴を見ました。
「きれいに直ってる」
「でしょう」
源太郎さんが、少し誇らしそうに笑いました。
「まだ履けるものは直すんです」
その一言に。
私は少しだけ黙りました。
まだ直せるものは直す。
靴も。
行政の判断も。
ただし。
靴は壊してからでは遅い。
行政処分も、
執行してからでは遅いことがある。
だから。
審査請求という、
「その処分は正しかったのか」を争う道の横に。
執行停止という、
「決まるまで壊さないでくれ」という道がある。
夜。
源太郎さんが帰ったあと。
私は机に行政不服審査法の本を開きました。
「勉強か」
相馬先輩が言います。
「はい」
「珍しいな」
「毎日してます!」
「で、何を見る」
「執行停止」
「今日散々やっただろ」
「だから見るんです」
私はページをめくります。
そして。
固まりました。
「……あれ?」
「何だ」
「二十五条じゃない」
「は?」
まずい。
またやった。
頭の中にあるのは現代法。
行政不服審査法第二十五条。
執行停止。
でも。
ここは昭和六十三年。
旧法です。
ページを探す。
見つける。
「三十四条……」
「何ぶつぶつ言ってる」
「時代です」
「は?」
「時代が私を攻撃してきます」
「寝ろ」
現代の制度なら。
原則として審査請求へ一本化。
審理員。
行政不服審査会。
重大な損害。
そんな言葉が頭に並ぶ。
でも。
昭和六十三年の今。
ここで使うのは旧法。
異議申立てと審査請求が並立している時代。
執行停止についても、
今の条文をそのまま持ってきてはいけない。
今日、松崎さんを守ったのは、
未来の第二十五条ではない。
この時代の第三十四条です。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「今日の教訓は」
私は少し考えました。
「不服を申し立てたからって、処分が待ってくれるとは限らない」
「それだけか」
「あと」
源太郎さんの店を思い出します。
古いミシン。
修理途中の靴。
五日後という期限。
そして。
明日も開く店。
「あとで勝てても、先に壊されたら救済にならない」
所長が頷きました。
「だから止める」
「はい」
相馬先輩が、直してもらった革靴を履きました。
「お」
「どうです?」
「悪くねえ」
「似合ってます」
「気持ち悪い褒め方すんな」
「褒めたのに!」
先輩が数歩歩きます。
ぎゅ。
ぎゅ。
小さな音。
「あ」
私は言いました。
「右だけ音しますね」
「……するな」
「修理失敗ですか」
「縁起でもねえこと言うな」
片桐所長が一言。
「明日、持っていけ」
「またですか」
「まだ直せる」
その言葉に。
私は笑いました。
まだ直せる。
たぶん、
今日いちばん大事なのはそれでした。
行政の処分は、
一度出たら簡単には消えない。
不服を申し立てても、
原則として走り続ける。
それが行政を止めすぎないための仕組みです。
でも。
走らせたままでは、
救済そのものが無意味になることがある。
そんなとき。
法律は、
いったん止まれ。
と命じる余地も残している。
条文は冷たい。
執行。
停止。
処分。
効力。
どれも無機質な言葉です。
けれど。
その冷たい言葉が今日守ったのは、
古い木造の店でした。
親父さんから受け継いだミシンでした。
修理途中の十数足の靴でした。
そして。
六十二歳の職人が、
明日の朝、
いつもどおり引き戸を開ける時間でした。
「先輩」
「何だ」
「明日、靴屋さん行くなら私も行きます」
「何しに」
「経過確認」
「遊びだろ」
「違います」
「じゃあ何で財布持ってんだ」
「鞄の金具が壊れてて」
「客じゃねえか」
「地域経済への貢献です」
「便利な言葉使うな」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「営業時間中に行くな」
「はい」
「昼休みにしろ」
「所長も何か直します?」
「ない」
相馬先輩が所長の鞄を見ました。
「持ち手、切れかけてますよ」
所長が黙る。
私も見る。
確かに切れかけています。
「所長」
「何だ」
「まだ直せます」
「……そうだな」
明日。
松崎靴店は開きます。
本案の勝ち負けは、
まだ決まっていません。
駅前整備も止まりません。
いつか店を移らなければならない日が来るかもしれない。
それでも。
五日後にすべてを失う未来だけは、
いったん止まった。
不服申立ては、
時間を止める魔法ではありません。
だからこそ。
止めなければ救えないものがあるときは、
「本案とは別に、今を守る」という発想が要る。
私はノートの端に、小さく書きました。
――争っているだけでは止まらない。間に合わなくなる前に、止める理由を示せ。
その横で。
相馬先輩の革靴が、
また、
ぎゅ。
と鳴りました。
「……先輩」
「言うな」
「まだ何も」
「明日持っていく」
「執行停止ですね」
「何がだ」
「靴の使用を」
「お前の給料を止めるぞ」
「それは回復困難な損害です!」
「却下」
「まだ申し立ててません!」
奥で。
片桐所長が、
ほんの少しだけ笑いました。
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