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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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161/282

[行政不服審査法24条・審理手続を経ないでする却下]現場編 「書き方が足りないから、もう終わりです」の嘘。直せる不備を門前払いする役所と、本案まで届ける“補正”の一手

挿絵(By みてみん)

 役所に出す紙は、少しくらい不格好でも、中身まで間違っているとは限りません。


 名前が足りない。


 日付が抜けている。


 どの処分を争うのか、書き方が曖昧。


 そういう紙を見ると、つい、


 ――駄目な書類。


 と一括りにしたくなります。


 でも。


 直せる紙と、


 どうやっても直せない紙は、


 同じではありません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の朝、私は一枚の茶封筒を前にして、盛大に首をひねっていました。


「先輩」


「何だ」


「これ、役所の文書なのに怖いです」


「役所の文書で陽気なの見たことあるか」


「そういう怖さじゃなくて」


 封筒から出した紙には、大きくこう書かれていました。


 ――補正命令書。


「命令ですよ」


「読めば分かる」


「もう少し優しい言い方なかったんですかね。『ちょっと直してくださいね』とか」


「県庁がそんな文書出したら逆に怖えよ」


「確かに」


 私は納得しかけて、やめました。


 その紙を持ち込んだのは、


 松浦善吉さん。


 五十八歳。


 市外れの県道沿いで、小さな金物店を営んでいる人でした。


 正確には。


 金物店兼、


 合鍵屋兼、


 鍋の修理屋兼、


 なぜか夏だけかき氷屋。


「最後だけ業種がおかしくないですか」


「孫がやりたいっちゅうもんで」


「なるほど」


 店の前には、古い木の看板が一本立っています。


 ――松浦金物店。


 それだけなら何の変哲もない。


 ところが、その看板の一部が県道の拡幅予定地にかかるとして、県の出先機関から許可更新を認めない処分を受けた。


 看板を撤去せよ。


 期限は一か月後。


「看板一本でしょう?」


 私が聞くと、松浦さんは苦笑しました。


「一本なんですがね」


「何か問題が?」


「あれがなくなると、店が見えんのです」


 県道から店までは、少し奥まっている。


 手前には倉庫。


 隣には大きな農機具店。


 松浦さんの店は、その陰に隠れるように建っています。


「知らん人は、その看板見て曲がるんですわ」


「なるほど」


「昔からのお客さんなら分かる。でも最近は、合鍵とか包丁研ぎとか、看板見て来る人もおる」


 つまり。


 看板一本。


 でも商売にとっては、


 一本ではない。


「それで、処分に不服があった」


「はい」


「審査請求をした」


「……したつもりです」


 私は嫌な予感がしました。


「つもり?」


 松浦さんが鞄から紙を出しました。


 便箋です。


 縦書き。


 青いインク。


 達筆。


 内容。


 ――このたび看板を撤去せよとのことでありますが、昔からここで商売をしておりますので困ります。道路工事の邪魔になる場所でもないと思います。どうかもう一度考えてください。


 以上。


「……先輩」


「何だ」


「これは」


「手紙だな」


「ですよね」


「しかもかなり丁寧だ」


「審査請求書では?」


「気持ちは審査請求だ」


「気持ちで行政手続きしないでください」


「本人に言え」


「すみません」


 松浦さんが申し訳なさそうに頭を下げました。


「県の人に、『不服なら県知事に審査請求できます』と言われたもんで」


「それで知事宛てに?」


「はい」


「処分を受けてから何日くらいで出しました?」


「三週間くらいです」


 私は指を折りました。


 昭和六十三年。


 旧行政不服審査法。


 現代なら頭の中に、


 三か月。


 と巨大な文字が出ます。


 でも今は違う。


 六十日。


 期間内には入っている。


 そこは助かった。


「で、そのあと来たのがこれですか」


「はい」


 補正命令書。


 私はもう一度読みました。


 審査請求書について所定の事項の記載を欠いているため、指定された期日までに補正すること。


 不足している事項も列挙されています。


 審査請求人の年齢。


 処分があったことを知った年月日。


 審査請求の趣旨。


 処分庁の教示の内容。


 審査請求年月日。


 押印。


「結構抜けてますね」


「すみません」


「責めてません」


 むしろ。


 住所と名前と理由だけで、よくここまで辿り着いたものです。


 行政不服申立て界の軽装登山。


 水筒だけ持って富士山へ来た感じです。


「期限は?」


 相馬先輩が聞きました。


 松浦さんが指を差します。


「明後日です」


「明後日!?」


 私は椅子から半分立ち上がりました。


「何で今日持ってきたんですか!」


「忙しくて」


「命令書ですよ!」


「店がありますし」


「いや、それは分かりますけど!」


「こはる」


 片桐所長が奥から言いました。


「怒るな」


「はい」


 そうでした。


 この人は行政書士受験生ではない。


 普通に暮らしている人です。


 補正。


 不適法。


 審査請求。


 そんな言葉を毎日見ているわけではない。


「それで」


 松浦さんが小さな声で言いました。


「もう駄目なんでしょうか」


「え?」


「県へ電話したんです」


「はい」


「書類が足りないと言われました」


「それで?」


「期限までに直らなければ、却下になることがあります、と」


 私は頷きかけました。


 そこまでは間違っていない。


「それから」


 松浦さんが続けました。


「担当の人に、『最初から正式な書類を出していないんですから、難しいですね』と言われて」


 私の頷きが止まりました。


「……最初から?」


「はい」


「正式じゃないから、内容は見てもらえないと?」


「そんな感じでした」


 相馬先輩が煙草を取ります。


 まだ火はつけません。


 こういうときの先輩は、


 煙草より先に面倒事へ火をつけます。


「誰だ、その担当」


「名前までは」


「電話するぞ」


「先輩」


「何だ」


「まず補正しましょう」


「分かってる」


 片桐所長が私を見ました。


「こはる」


「はい」


「これは何だ」


 補正命令書を指しています。


「審査請求書の不備を直せ、という命令です」


「なぜ直させる」


「え?」


 そこで。


 頭の中の行政法が、むくりと起きました。


 補正。


 不適法。


 却下。


 昨夜までなら、


 赤ペンで線を引いて、


 『補正可能なら補正命令』


 と書いて終わっていたところです。


 でも。


 今、目の前には松浦さんがいる。


 書き方を知らなかった。


 でも期限内に、


 処分に納得できないことを、


 審査庁へ伝えている。


 その紙を、


 形式が足りない。


 というだけで捨てるのか。


 いや。


「直せるから、です」


 私は言いました。


 所長が黙っています。


「不備がある。でも、直せない不備じゃない」


「続けろ」


「年齢を書けばいい。処分を知った日も確認できる。趣旨も、何を求めるのか明確にすればいい。教示内容も処分通知書を見れば書ける。押印もできる」


「つまり?」


「補正できる」


「そうだ」


 所長が言いました。


「門前払いする前に、直させる」


 あ。


 そこか。


 補正命令というのは。


 書類の欠点を責めるための命令じゃない。


 むしろ逆。


 中身を審理する入口まで、


 まだ戻れる。


 という意味なのです。


「松浦さん」


 私は言いました。


「まだ終わってません」


「本当ですか」


「はい」


「でも、書類が不完全だったんでしょう」


「不完全です」


「こはる」


 相馬先輩が言います。


「もう少し言い方考えろ」


「でも事実なので」


「お前、たまに所長より冷てえぞ」


「続きがあります!」


 私は補正命令書を机へ置きました。


「不完全だけど、直せます」


 松浦さんが紙を見ます。


「直せば?」


「審査の入口に戻せます」


「それなら……」


「ただし」


 片桐所長が口を挟みました。


「期限を過ぎるな」


 松浦さんの顔が引き締まりました。


「明後日」


「はい」


「今日中に作る」


「今日ですか」


「今日だ」


 短い。


 でも。


 こういう所長の一言は、


 時計の針まで速くします。


 私は処分通知書を確認しました。


 県の出先機関の長がした処分。


 教示には、県知事に審査請求できる旨が記載されています。


 旧法の世界。


 処分庁とは別の行政庁へ審査請求する。


 現代なら、


 審査請求へ原則一本化。


 審理員。


 行政不服審査会。


 そんな単語が反射的に並びます。


 でも。


 今は昭和六十三年。


 未来の制度は一ミリも助けに来ません。


「先輩」


「何だ」


「審理員は」


「誰だそれ」


「ですよね」


「また未来の役人か」


「はい」


「呼ぶな」


「呼んでません」


 頭の中に勝手に現れるだけです。


 平成の法改正、昭和の現場では完全な幽霊。


 私は気を取り直しました。


「まず、処分を知った日」


「六月十日です」


「間違いないですか」


「通知を受け取った日ですから」


「通知書あります?」


「これです」


 日付確認。


「次。何を求めます?」


「看板を、そのまま置かせてほしい」


「処分そのものを取り消してほしい?」


「はい」


「じゃあ、審査請求の趣旨はそこを明確にします」


「趣旨?」


「つまり」


 私は一度言葉を飲み込みました。


 論点で喋るな。


 相馬先輩の顔が、まだ何も言っていないのにそう言っています。


「役所に、結局何をしてほしいかです」


「ああ」


「『困っています』だけだと、そこが曖昧なんです」


「なるほど」


「処分を取り消してほしい。それをはっきり書きます」


「理由は?」


「それはもう少し整理します」


 私は便箋を見ました。


 昔から営業している。


 看板がなくなると客が来にくくなる。


 道路工事の支障になるとは思えない。


 感情だけではない。


 確認すべき事実がある。


「看板の場所、工事予定区域なんですよね」


「県はそう言います」


「実際の工事は?」


「道路の反対側から始めるって話です」


 相馬先輩が顔を上げます。


「誰から聞いた」


「近所の説明会で」


「資料あるか」


「あります」


 出てきました。


 県道拡幅事業説明資料。


 平面図。


 工期予定。


 確かに。


 松浦さん側の歩道整備は後期。


 少なくとも直ちに看板を撤去しなければ工事ができないようには見えません。


「面白くなってきたな」


 相馬先輩が言いました。


「先輩、その台詞、相談者の前で言うのやめません?」


「何でだ」


「不安になります」


「俺は法的に面白いって言ってんだ」


「もっと駄目です」


 でも。


 私も同じことを思っていました。


 補正は単なる穴埋めではない。


 ちゃんと入口を通れば、


 その先で本案を争える。


 看板を撤去させる処分は妥当だったのか。


 本当に今すぐ必要なのか。


 同じ県道沿いの他の看板はどう扱われているのか。


 そこまで行ける。


 逆に。


 補正しなければ。


 そこへ行く前に終わる。


 却下。


 門前払い。


「怖いですね」


 私は呟きました。


「何がだ」


 相馬先輩が聞きます。


「書類の不備って」


「今さらか」


「だって、本案がどれだけ強くても、その前で止まることがある」


「そういうもんだ」


 法律は、


 中身が正しければ何でも通してくれる、


 優しい先生ではありません。


 入口で必要なものが欠けていれば、


 中身を見る前に終わることがある。


 でも。


 だからこそ。


 直せる不備には、


 直す機会がある。


 そこが大事なのです。


 午後。


 私たちは県の出先機関へ向かいました。


 処分をした部署です。


 古い庁舎。


 磨り減った階段。


 廊下の突き当たりに、


 道路管理課。


 松浦さんの処分を担当した職員は、四十代くらいの男性でした。


「補正の件ですか」


「はい」


 相馬先輩が補正命令書を机に置きました。


「期限内に出す」


「それは県庁の審査担当へお願いします」


「分かってる」


「では」


「一つ聞きたい」


 先輩が止めます。


「松浦さんに、『最初から正式な書類じゃないから難しい』って言ったか」


 職員が少し困った顔をしました。


「私が?」


「電話したそうだ」


「まあ……正式な審査請求書ではありませんでしたので」


「だから?」


「必要事項が欠けています」


「それで補正命令が出たんだろ」


「ええ」


「なら、補正したらどうなる」


 職員が黙りました。


「補正されれば、その状態で審査されることになるでしょう」


「だよな」


「ただし、処分が覆るかどうかは別問題です」


「当たり前だ」


 相馬先輩が言います。


「俺たちも勝たせろとは言ってねえ」


 空気が少し変わりました。


「入口で落とす話と、中身で負ける話をごちゃ混ぜにするなって言ってんだ」


 私は心の中で、


 それ。


 と思いました。


 却下と棄却。


 似ている。


 字面も似ている。


 試験では、


 どっちだったっけ。


 と受験生を軽率に殺しに来る二文字。


 でも現場では。


 全然違う。


 却下。


 入口を通れない。


 棄却。


 入口を通って、中身まで見たが、理由がない。


 松浦さんはいま、


 処分の中身以前に、


 入口で靴紐がほどけているだけなのです。


 靴紐を結び直せる人を、


 山に登らせず帰す必要はない。


「担当さん」


 私が言いました。


「確認したいんですが」


「はい」


「今回の不備って、補正不能なんですか」


「いえ」


「できますよね」


「だから補正命令が出ています」


「ですよね」


「ええ」


「じゃあ、期限内にきちんと補正すれば、最初の紙が拙かったというだけで門前払いになるわけではない」


 職員は少し考えてから頷きました。


「その点は、そのとおりです」


 松浦さんが私を見ました。


 さっきまでより、


 ほんの少し顔が明るい。


「もう一つ」


 相馬先輩が言います。


「看板撤去の必要性について、本案では争う」


「それは県庁の審査担当で」


「ああ」


「処分庁としては、必要な処分だったと考えています」


「それも分かってる」


「では?」


 相馬先輩が平面図を机に置きました。


「松浦さん側の工事、後期だな」


 職員の目が止まりました。


「……現時点の工程では」


「反対側からだ」


「予定は変更されることがあります」


「変更されたらそのとき説明しろ」


「道路管理上、事前に整理する必要もあります」


「その理屈も審査で出せ」


「相馬さん」


「何だ」


「ここで本案まで始めるな」


 片桐所長でした。


 いつの間にか後ろにいます。


「今日は補正だ」


「分かってますよ」


「なら分けろ」


 分ける。


 その一言で、


 頭の中が整理されました。


 今日の問題は二つ。


 一つ。


 審査請求書の不備。


 もう一つ。


 看板撤去処分の当否。


 前者を直さなければ、


 後者まで辿り着けない。


 でも。


 前者に不備があったからといって、


 後者に理由がないことにはならない。


 別問題です。


「所長」


「何だ」


「それ、今日一番大事かもしれません」


「何がだ」


「入口の問題と、中身の問題を混ぜない」


「そうだ」


 片桐所長はそれだけ言いました。


 県庁の審査担当部署へ電話を入れました。


 補正方法を確認する。


 必要事項。


 提出部数。


 期限。


 提出先。


 一つずつ潰します。


 途中。


 電話の向こうから、


『期限までに補正されなければ、不適法として処理することになります』


 という声が聞こえました。


 私は受話器を握り直しました。


「逆に言えば、期限までに補正すれば?」


『補正された内容を確認します』


「補正可能な不備だから、命令が出ているんですよね」


『そうです』


「分かりました」


 受話器を置く。


 相馬先輩が言いました。


「何だ」


「何がです?」


「嬉しそうな顔してる」


「してません」


「してる」


「行政法の点と点がつながっただけです」


「それを嬉しそうって言うんだ」


 仕方ありません。


 テキストでは、


 補正命令。


 不適法。


 却下。


 三行です。


 眠い。


 ものすごく眠い。


 でも現場では、


 その三行の間に、


 松浦さんの店がある。


 看板がある。


 商売がある。


 そして、


 自分の言い分を中身まで聞いてもらえるかどうか。


 という問題がある。


 眠くなる暇がありません。


 事務所へ戻ったのは、午後三時過ぎ。


 そこから補正書を作りました。


「年齢、五十八」


「はい」


「住所」


「はい」


「処分を知った日」


「六月十日」


「教示内容」


「通知書どおり」


「押印」


「最後です」


 松浦さんが印鑑を取り出します。


 朱肉へ押す。


 紙へ。


 ぺたり。


「……これで?」


「形式上の不備は埋まりました」


「じゃあ勝てますか」


「それは別です」


 私は即答しました。


 相馬先輩が笑います。


「そこだけは成長したな」


「ぬか喜びさせないの大事ですから」


 そう。


 補正したから、


 看板を残せるわけではない。


 補正したから、


 審査請求に理由があるわけでもない。


 ただ。


 これでようやく、


 中身を争える位置に立った。


 それだけです。


 でも。


 松浦さんにとっては、


 その「それだけ」が大きい。


「門前で帰されなくなったんですね」


 松浦さんが言いました。


「はい」


「じゃあ、十分です」


「まだ十分じゃないです」


「え?」


「今度は中身で勝負です」


 私が言うと。


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「言うようになったな」


「見習いですから」


「見習いが一番偉そうだ」


 翌朝。


 補正書を提出しました。


 期限前日。


 県庁の審査担当者は、


 書類を一枚ずつ確認しました。


「年齢」


「はい」


「処分を知った年月日」


「はい」


「趣旨及び理由」


「はい」


「教示内容」


「はい」


「押印」


「はい」


 担当者が最後まで見て、


 書類を揃えました。


「補正として受け付けます」


 松浦さんが小さく息を吐きました。


 その瞬間です。


 横から声がしました。


「ずいぶん丁寧に直しましたね」


 振り向くと、


 沢渡課長。


「何でいるんですか」


「県と駅前整備の協議です」


「どこにでもいますね」


「朝比奈さんほどではありません」


 それ、褒められてませんよね。


 沢渡課長が補正書をちらりと見ます。


「松浦さんの件ですか」


「知ってるんですか」


「道路拡幅は市の駅前整備とも接続しますから」


 あ。


 また縦軸が一本つながりました。


 この町の工事。


 駅前。


 県道。


 市の再整備。


 別々に見えて、


 少しずつ同じ地図へ集まっています。


「最初の審査請求書、不備だらけだったそうですね」


「そうです」


「なら却下されても仕方がないのでは?」


 私は沢渡課長を見ました。


 試してる。


 この人。


 絶対分かってて言ってます。


「仕方なくありません」


「なぜです?」


「直せるからです」


「ほう」


「直せる不備なら、直す機会を与える。今回は補正命令が出た。だから期限内に直した」


「では、最初から完璧な審査請求書でなくてもいい?」


「いい、とは言いません」


「慎重ですね」


「最初からちゃんと書けるなら、そのほうがいいです」


「では何が違うんです?」


 私は少し考えました。


「不備があることと、救済を求める資格がないことは、同じじゃない」


 沢渡課長の目が少し細くなります。


「それから?」


「直せる不備と、直せない不適法も違う」


「例えば?」


 そこまで聞く?


 法理編の先取りを要求する悪い役所です。


「期間を完全に過ぎていて、救済される事情もないとか」


「なるほど」


「そういうものまで、年齢を書き足せば直る、みたいにはいかない」


「そうですね」


 沢渡課長が頷きました。


「では今回、県が本案を審理した結果、請求に理由がないと判断したら?」


「棄却」


「今ここで入口から追い返すなら?」


「却下」


「違いは?」


 私は答えました。


「中身まで見たかどうか」


 一拍。


 沢渡課長の口元が少し上がりました。


「分かりやすい」


「試験答案にはもう少しちゃんと書きます」


「受験生ですか」


「いえ、何でもありません」


 危ない。


 昭和六十三年で未来の行政書士試験を受ける女。


 説明不能。


 相馬先輩が横から言いました。


「課長。遊ぶな」


「勉強熱心なので」


「こいつは放っとくと役所の廊下で講義始めるぞ」


「始めません!」


「昨日、補正について俺に十分くらい喋ったろ」


「あれは整理です!」


「同じだ」


 松浦さんが笑いました。


 昨日まで、


 却下。


 という言葉だけで青くなっていた人が。


 今日は笑っている。


 まだ看板の問題は解決していない。


 県が処分を取り消すとも限らない。


 むしろ。


 本当の争いはここからです。


 でも。


 書き損じただけで、


 言い分ごと消されることは避けられた。


 それだけでも、


 一歩です。


 それから一週間後。


 県から松浦さんへ連絡がありました。


 審査手続きを進める。


 処分庁側にも関係資料を求める。


 看板位置と工事工程についても確認する。


 そういう内容でした。


 松浦さんは、その日の夕方に事務所へ来ました。


「まだ結果は出てないんですが」


「はい」


「これ」


 机の上に紙袋。


 相馬先輩の目が光ります。


「食い物か」


「先輩」


「何だ」


「相談者より先に袋へ反応しないでください」


 中身は。


 かき氷の蜜でした。


 三本。


 いちご。


 メロン。


 レモン。


「季節、秋ですよ」


「余ったんですわ」


「余りすぎです」


「孫が今年、調子に乗って仕入れまして」


 相馬先輩が瓶を持ち上げます。


「どうやって食う」


「氷削ればいいですよ」


「うちに氷削る機械ねえぞ」


「金物屋ですから貸します」


「商売が上手い」


「先輩、借りたら返してくださいね」


「分かってる」


 一番信用できない返事です。


 片桐所長は紙袋より、


 松浦さんの顔を見ました。


「県から連絡が来たそうですね」


「はい」


「本案に入った」


「本案?」


「看板の処分そのものを審査する段階です」


「ああ」


 松浦さんは何度か頷きました。


「つまり」


「はい」


「やっと話を聞いてもらえるところまで来た」


 私は笑いました。


「そういうことです」


「長いですねえ」


「まだ短いほうです」


「これで負けることも?」


「あります」


「朝比奈さん、今日はっきり言いますね」


「変に期待させると、あとで怒られますから」


 でも。


 松浦さんは嫌な顔をしませんでした。


「それでいいです」


「え?」


「最初の紙が下手だったから、看板の話まで聞いてもらえない。それが一番納得いかなかったんです」


 私は黙りました。


「ちゃんと見てもらって」


 松浦さんが続けます。


「それで駄目なら、次を考えます」


 そこなのだと思います。


 法律は、


 必ず望んだ結果をくれる制度ではない。


 けれど。


 入口で、


 あなたの書き方が下手だから、


 もう中身は見ません。


 と切り捨てないための仕組みがある。


 補正。


 なんとも地味な言葉です。


 行政法界でも、かなり地味な部類。


 スター性ゼロ。


 たぶん小学生の将来の夢にも出てきません。


 でも。


 その地味な一手が、


 人の言い分を、


 門の外から中へ運ぶことがある。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「今日の教訓は」


「え?」


「顔に書いてある」


 そんなに私は分かりやすいのでしょうか。


 私は少し考えました。


「入口で直せるなら、直してから中身を見る」


 所長が頷きます。


「それでいい」


 相馬先輩が言いました。


「じゃあ却下と棄却の違いは」


 私は咳払いしました。


「簡単に言うと」


「うん」


「却下は、入口で駄目」


「棄却は?」


「中まで見たけど駄目」


「雑だな」


「でも忘れませんよ」


 松浦さんが笑います。


「私も覚えました」


「本当ですか」


「はい。私は昨日まで、入口で転びかけてたんでしょう?」


「そうです」


「で、朝比奈さんたちに起こしてもらった」


「そんな大げさな」


「いやいや」


 松浦さんは補正命令書を畳みました。


「紙一枚で、店の看板の話をしてもらえなくなるところだったんですから」


 法律の言葉は冷たい。


 不適法。


 補正。


 却下。


 どれも、


 困っている人を励ますために作られた言葉には見えません。


 でも。


 冷たいからこそ、


 区別してくれる。


 直せる不備なのか。


 直せない不適法なのか。


 入口で止める話なのか。


 中身を判断する話なのか。


 かわいそうだから通す。


 役所が嫌いだから通す。


 そんな曖昧な話ではなく。


 直せるなら、直す。


 直したなら、中身を見る。


 理由がなければ、そのとき初めて退ける。


 その順番を守る。


 制度の冷たさは、


 ときどき人を締め出します。


 けれど。


 同じ冷たさが、


 雑な門前払いを止めることもあります。


「じゃあ」


 松浦さんが立ち上がりました。


「結果が出たら、また来ます」


「はい」


「今度は氷も持ってきます」


 相馬先輩が即答しました。


「頼む」


「先輩」


「何だ」


「事務所にかき氷機を常備する気ですか」


「夏は便利だろ」


「もう秋です」


「来年がある」


「気が長い!」


 松浦さんが帰ったあと。


 机には三本の蜜。


 補正命令書のコピー。


 そして。


 処分通知書。


 事件はまだ終わっていません。


 看板が残るかも分からない。


 審査請求が認められる保証もない。


 それでも。


 昨日まで、


 「書類が駄目だったから終わり」


 に見えていた話は、


 今日は、


 「直した。だからここから中身だ」


 に変わった。


 ほんの一段。


 でも。


 行政救済では、


 その一段を上がれるかどうかが、


 ものすごく大きい。


「先輩」


「何だ」


「いちごとメロン、どっちにします?」


「レモン」


「第三の選択肢!」


「選択肢が三つあるんだから当たり前だろ」


 私はため息をつきました。


「じゃあ所長は?」


「いらん」


「却下ですか」


「違う」


「じゃあ棄却?」


「どちらでもない」


「なぜです?」


 片桐所長は帳簿をめくったまま言いました。


「そもそも頼んでいない」


 私は止まりました。


「……対象外」


「そうだ」


「強い」


 相馬先輩が笑います。


「お前、何でも不服申立てにするな」


「勉強になるんですよ!」


「蜜で法律学ぶな」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 どうやら今日も、


 行政法は、


 教科書より先に生活の中へ出てきます。


 しかも。


 いちご味で。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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