[行政不服審査法23条・審査請求の補正]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、焼き芋の匂いが残っていました。
正確には。
法律事務所としては、かなり甘い匂いが残っていました。
「先輩」
「何だ」
「書類から焼き芋の匂いがします」
「気のせいだ」
「さっき机で食べてましたよね」
「それは事実だ」
「じゃあ気のせいじゃないでしょう」
私は榊原源治さんからいただいた焼き芋の紙袋を、少し遠くへ移動させました。
理由。
六法に蜜がつきそうだから。
行政法の条文に焼き芋の蜜。
たぶん試験対策としては何の加点にもなりません。
机の上には、榊原さんの審査請求書の控え。
県から届いた補正命令。
そして私のノート。
大きく見出しを書きます。
――旧行政不服審査法二十一条。
――審査請求の補正。
「今日は補正です」
「知ってる」
「まだ何も説明してません」
「昼間ずっとそれやってただろ」
「現場と勉強は別です」
「お前の中ではな」
相馬先輩は煙草をくわえたまま、補正命令書を指で弾きました。
「で、結局なんだ」
「何がです?」
「空欄があったら、すぐ却下できない。そういう話だろ」
「だいたい合ってます」
「終わり」
「終わらせないでください!」
私はノートを引き寄せました。
今回、榊原さんが出した審査請求書には、
処分があったことを知った年月日。
その記載が抜けていました。
形式上の不備。
そのままでは適法な審査請求書とはいえません。
でも。
だからといって。
審査庁が、
――記載漏れですね。
――はい、却下。
と直ちに終わらせてよいわけではない。
「ここが今日の肝です」
私は二重線を引きました。
――補正することができるものについては、相当の期間を定め、その補正を命じなければならない。
「『できる』じゃないんですよね」
「ああ」
「『命じなければならない』」
「義務だな」
「はい」
これが大事です。
補正させてもよい。
ではない。
親切な審査庁なら直させてあげてもよい。
でもない。
補正可能な不備なら。
審査庁は、
相当の期間を定めて、
補正を命じなければならない。
「つまり」
私は言いました。
「補正の機会を与えるかどうかを、役所の気分に任せてない」
「そういうことだ」
片桐所長が帳簿から顔を上げずに答えます。
私はノートに書きました。
補正可能な不備。
↓
相当期間を定める。
↓
補正を命じる。
↓
補正されたら審理を続ける。
「じゃあ」
相馬先輩が言います。
「補正できない不備なら?」
「そこです」
私はペンを止めました。
補正制度があるからといって。
何でも直せるわけではありません。
たとえば。
そもそも不服申立ての対象にならないものを争っている。
申立資格そのものがない。
期限を過ぎていて、そのことについて救済される余地もない。
そういう、
あとから書き足せば治る種類ではない不適法まで、
補正命令でどうにかなるわけではありません。
「補正って」
私は言いました。
「壊れた橋を架け直す制度じゃないんですね」
「じゃあ何だ」
「橋の入口の看板が抜けてたら、書き足させる感じ」
「分かりにくい」
「自分では結構いいと思ったんですが」
「却下」
「補正させてください!」
相馬先輩が鼻で笑いました。
でも。
整理すると簡単です。
直せる不備か。
直せない不備か。
まずそこ。
榊原さんの件は、
処分を知った年月日の記載漏れ。
本人に確認すれば分かる。
書面に追記できる。
だから補正可能。
「所長」
「何だ」
「もし榊原さんが補正命令を無視したら?」
「その先を考えろ」
「はい」
相当期間を定めて補正を命じる。
それでも。
期間内に補正しない。
そうなれば。
審査庁は、不適法な審査請求として却下できる。
「つまり」
私は書きます。
不備発見。
即却下。
ではない。
不備発見。
補正命令。
それでも直らない。
そこで却下。
「順番ですね」
「そうだ」
片桐所長の返事は短い。
けれど。
この順番が重要です。
法理編で一番覚えておきたいのは、
補正制度は、
書類に甘い制度ではない。
ということ。
要件を無視していいわけではない。
不備は不備。
直さなければならない。
ただ。
直せる不備なら、
いきなり本案審理への道を断たない。
そのワンクッションを強制している。
「ここ」
私はノートを叩きました。
「制度の冷たさが、逆に優しいところですよね」
「また始まった」
相馬先輩が言います。
「何がです?」
「お前の『法律って冷たいけど優しい』論」
「大事なんですよ」
「はいはい」
「絶対聞いてないでしょう」
でも、本当にそうなのです。
補正命令は、
榊原さんが長年焼き芋屋をやってきたから出されるわけではない。
人柄がいいからでもない。
困っているから特別扱いされるわけでもない。
補正できる不備なら、
誰であっても、
原則として補正の機会を与える。
感情から離れているからこそ。
人を平等に入口へ戻せる。
「ところで」
私はページをめくりました。
「現代法だと二十三条なんですよね」
「また未来か」
「大事なんです」
私は大きく、
――昭和六十三年。
と書きます。
この物語の現在。
使うのは旧行政不服審査法。
審査請求の補正は旧法二十一条。
一方。
現代の行政不服審査法では、
審査請求書の補正は二十三条。
「内容は似てるのか」
相馬先輩が聞きます。
「核心は似ています」
「じゃあ何が違う」
「制度全体です」
私は矢印を書きました。
旧法。
異議申立て。
審査請求。
二本立て。
現代法。
原則として審査請求へ一本化。
さらに現代では、
審理員制度。
行政不服審査会などへの諮問制度。
そういう公正性を高める仕組みがあります。
「でも昭和六十三年には」
相馬先輩が先回りしました。
「ない」
「はい」
「審理員も?」
「いません」
「審査会も?」
「今の制度としてのものはありません」
「じゃあ書くな」
「だから比較してるんです!」
この先輩。
未来法への態度だけは一貫して冷たい。
でも。
今回の補正というテーマは、
新旧比較をすると逆に面白い。
制度の大枠は大きく変わった。
異議申立てはなくなった。
審査請求へ原則一本化された。
期間も変わった。
審理の仕組みも変わった。
それでも。
書面に直せる不備があれば、
いきなり門前払いにせず補正させる。
という考え方は残っています。
「つまり」
私は書きました。
制度の名前や構造は変わっても、
申立人の権利救済を形式ミスだけで失わせない。
その発想は続いている。
「ここは新旧共通の感覚ですね」
「感覚じゃなくて制度だ」
「分かってます!」
次。
相当の期間。
「これ、何日です?」
私は聞きました。
「知らん」
相馬先輩。
即答。
「いやいや」
「法律に七日って書いてあるのか」
「書いてません」
「じゃあ案件によるだろ」
そのとおりです。
相当期間。
つまり。
何日と一律に固定されているわけではない。
補正すべき内容。
必要な資料。
申立人の状況。
そういった事情を踏まえて、
補正できるだけの合理的な期間を定める。
「榊原さんは七日でした」
「あれくらいなら十分だろ」
「処分を知った日を書くだけでしたからね」
「じゃあ一日でもいいんじゃねえか」
「極端です」
「当日でも書けたぞ」
「実際その日に出しましたけど」
確かに。
でも。
実際に一日でできる。
と、
一日しか与えなくてよい。
は同じではありません。
相当な期間。
その言葉にも意味があります。
補正命令だけ形式的に出して、
実質的には直せないような短期間しか与えない。
それでは、
補正の機会を与えたことにならないでしょう。
「つまり相当期間って」
私は言いました。
「補正命令を出しました、というアリバイ作りじゃ駄目ってことですね」
「言い方は悪いが、そういうことだ」
所長が答えました。
私は丸をつけます。
補正制度の目的は、
補正命令書を一枚増やすことではない。
実際に、
直せる不備を直す機会を保障すること。
次。
今回の事件で混同しやすかったこと。
行政手続法との違い。
「ここ、現代の受験生が引っかかるところです」
「また未来か」
「試験対策です」
「俺は受けねえ」
「読者が受けます」
「誰だよ」
気にしない。
私は書きました。
行政手続法。
申請が役所に届いた。
形式に不備がある。
その場合。
行政庁は、
相当の期間を定めて補正を求める。
または。
その申請によって求められた許認可等を拒否する。
という構造になる。
一方。
行政不服審査法。
審査請求書に所定の記載事項の不備がある。
補正できるなら。
相当期間を定めて補正を命じなければならない。
「違いますね」
「ああ」
「行政手続法は?」
相馬先輩に振ります。
「補正させるか、拒否するか」
「行政不服審査法は?」
「補正できるなら、まず補正」
「正解です」
「偉そうだな」
「先生役ですから」
ここ。
試験ではかなり危ない。
どちらも、
申請書類に不備があります。
補正します。
という似た場面。
でも。
処理が違う。
「行政手続法のほうは」
私は言いました。
「申請そのものの入口」
「うん」
「行政不服審査法は、処分を受けた人が事後救済を求める入口」
「うん」
「だから同じ補正でも、制度の意味が違う」
「そういうことだ」
所長が頷きました。
ここで私は、一瞬止まりました。
「……あ」
「何だ」
「昭和六十三年」
「それが?」
「行政手続法、まだない」
相馬先輩がこちらを見ます。
「今さら何言ってんだ」
「比較説明してて、一瞬危なかったです」
そう。
行政手続法はこの時代、まだ施行されていません。
現代の受験知識として比較するなら意味がある。
でも。
榊原さんの現場で、
行政手続法七条を根拠に県へ何か言う。
そんなことをしたら完全に時代錯誤です。
「また未来法を持ち込むところでした」
「お前、未来で役所勤めしてたら事故ばっか起こしそうだな」
「現代なら現代法を使います!」
「今は?」
「旧法です!」
「なら覚えろ」
ぐうの音も出ない。
私はノートに大きく書きます。
――昭和六十三年の現場では行政手続法は使わない。
――比較は現代試験知識としてのみ。
これは本当に大事。
歴史もの法律小説の主人公としても。
受験生としても。
制度は、
内容だけでなく、
いつ施行されたか。
そこまで見ないと事故になります。
「じゃあ」
相馬先輩が言いました。
「補正命令が出れば、審査請求は絶対に助かるのか」
「助かる、の意味によります」
「逃げるな」
「逃げてません」
補正命令を受けて、
期間内に適切に補正する。
そうすれば、
その不備を理由に却下されることは避けられる。
でも。
審査請求の中身で勝てるとは限らない。
「榊原さんもそうでした」
「ああ」
「補正したから日除けが残る、じゃない」
「本案はこれからだ」
「はい」
ここは重要です。
補正は、
本案勝訴の制度ではない。
審査請求を、
ちゃんと審理の土俵に乗せるための制度。
それだけ。
でも。
その「それだけ」が大きい。
入口で終われば、
駅前整備の区域が第一期なのか第二期なのか。
三年後の工事なのに今すぐ日除けを外す必要があるのか。
そういう中身は、
一度も審査されない。
今回。
補正によって審査請求が生き残ったから、
県は本案の審理に入り、
市にも資料を求めることになった。
「補正って」
私は言いました。
「負けを勝ちにする制度じゃないんですね」
「当たり前だ」
「でも、勝負させてもらえるところまで戻す制度」
「まあな」
「それ、結構大きいですよ」
「だから法律に書いてある」
そう言われると身も蓋もない。
でも。
法律というのは、
身も蓋もないくらいでちょうどいいのかもしれません。
誰かが可哀想だから。
かわいそうじゃないから。
役所に好かれているから。
嫌われているから。
そういうもので入口が決まらないように。
次。
受験生が間違えやすいところ。
私はノートに三つ並べました。
一つ。
不備があれば即却下。
――誤り。
二つ。
補正命令は審査庁の裁量。
――誤り。
三つ。
補正命令が出れば、本案でも認容される。
――誤り。
「全部、今日の事件ですね」
「ああ」
「じゃあ四つ目」
相馬先輩が言いました。
「何です?」
「相当期間は必ず七日」
「誤りです」
「五つ目」
「まだあるんですか」
「焼き芋を差し入れされた場合、相馬が優先して食う」
「重大な誤りです」
「実務慣行だ」
「そんな慣行ありません」
私は無視して続きを書きます。
補正命令の要点。
補正できる不適法。
相当期間。
命令しなければならない。
期間内に補正されれば、審理へ。
補正されなければ、その不適法を理由に却下され得る。
「ここまでで」
私はペンを置きました。
「かなり整理できました」
片桐所長が帳簿を閉じます。
「まだ一つある」
「何です?」
「誰が補正を命じる」
「審査庁です」
「処分庁ではないのか」
「審査庁です」
「今回なら?」
「県側の審査庁」
「市役所では?」
「ないです」
「沢渡課長では?」
「もっとないです」
沢渡課長。
この前、
一般論だけ話して住民を不安にさせていましたが。
今回の補正命令を出す権限者ではありません。
そこも重要。
不服申立制度では、
処分庁。
審査庁。
上級行政庁。
それぞれ誰なのか。
そこを混ぜると、
一気に分からなくなります。
「審査請求の手続を進めるのは審査庁」
「うん」
「だから補正を命じるのも審査庁」
「そうだ」
私は矢印を追加しました。
処分庁。
処分をした行政庁。
審査庁。
審査請求を審理・裁決する行政庁。
「旧法だと」
私は言いました。
「上級行政庁があるかどうかで、不服申立ての形自体も変わることがあります」
「審査請求か異議申立てか、だな」
「はい」
現代なら原則として審査請求。
でも。
昭和六十三年の旧法では、
異議申立て。
審査請求。
二本立て。
今回。
県土木事務所長の処分について、
上級行政庁に対する審査請求という形を取った。
だから、
処分した側と、
審査する側が分かれている。
「川瀬さんの花売り台のときとは違うな」
相馬先輩が言いました。
「そうです」
川瀬さんの件は、
上級行政庁のない市長名義の処分。
そこで、
処分庁自身への異議申立て。
一方。
榊原さんの件は、
県土木事務所長の処分について上級行政庁への審査請求。
「同じ旧法でも」
私は言いました。
「誰が処分したかでルートが変わる」
「ああ」
「ここ、現代感覚だと結構ややこしいです」
「だから改正されたんだろ」
相馬先輩が何気なく言いました。
私は止まりました。
「先輩」
「何だ」
「今すごくいいこと言いました」
「気持ち悪いからやめろ」
「旧法の課題が、そこなんですよ」
異議申立て。
審査請求。
どちらを使うのか。
上級行政庁の有無。
個別法の特則。
制度が分かりにくい。
さらに。
異議申立てでは、
処分庁自身が自分の処分を見直す。
そこには公正性への不安もある。
そうした課題を踏まえて。
現代の制度では、
原則として審査請求へ一本化。
さらに審理員制度などが導入された。
「制度改正って」
私は言いました。
「昔の制度が全部駄目だったから変えた、というより」
「うん」
「使ってみて分かった不便や不安を、少しずつ直した結果なんですね」
「補正みたいだな」
「え?」
相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけます。
「制度そのものを補正してんだろ」
私は数秒黙りました。
「……先輩」
「何だ」
「今日二回目の名言です」
「二度と言うな」
でも。
ちょっと面白い。
旧法で出てきた課題。
複雑さ。
公正性への疑問。
それを後の法改正で直していく。
法律そのものも、
社会の中で補正され続ける。
もちろん。
法的な意味での「補正」とは違いますけど。
そう考えると。
制度って、生き物みたいです。
私はノートの最後に大きく枠を作りました。
今日の一行。
少し考えます。
――直せる不備なら、切り捨てる前に直させる。
「どうです?」
「まあ分かりやすい」
相馬先輩が言いました。
「珍しく褒めた」
「ただ」
「何です?」
「『相当期間』が抜けてる」
「細かい!」
「試験だろ」
「そうでした」
書き直します。
――補正できる不備は、相当期間を定めて、まず直させる。
片桐所長が一度だけ頷きました。
「それでいい」
よし。
私はその下に、
試験直前用。
と小さく書きました。
――不備→即却下ではない。補正可能なら補正命令。
「二行あるぞ」
相馬先輩が言います。
「一行の覚え書きと、試験直前用です」
「増やすな」
「必要です」
私はノートを閉じました。
窓の外はもう暗くなっています。
榊原さんの焼き芋屋では、
たぶん今ごろ、
最後の芋を焼いている時間でしょう。
日除けが残るか。
外すことになるか。
まだ分かりません。
審査請求も、
これから中身を審理するところです。
でも。
少なくとも。
書き漏らし一つで、
「あなたの話は聞きません」
とはならなかった。
行政不服審査法の補正制度は、
人の主張を正しいと認めてくれる制度ではありません。
勝たせてくれる制度でもない。
ただ。
直せるミスなら、
直す機会を与える。
そのうえで、
中身を見る。
それだけです。
でも。
人が制度に救済を求めるとき。
その「それだけ」がないと、
本当に大切な話まで入口で消えてしまう。
法律の言葉は冷たい。
不適法。
補正。
相当期間。
却下。
どれも、
焼き芋の湯気とは正反対です。
けれど。
冷たい言葉で、
順番が決められているから。
役所の気分で、
ある人には直させ、
ある人はすぐ追い返す。
そんな雑な扱いを止められる。
私は机の上の補正命令書を見ました。
紙一枚。
たったそれだけ。
でも。
その紙一枚が、
榊原さんの言い分を、
入口から本案へ戻した。
「こはる」
「はい」
相馬先輩が紙袋を持ち上げています。
「最後の焼き芋、食うぞ」
「待ってください」
「何だ」
「それ私のです」
「名前書いてない」
「口頭で意思表示しました」
「形式不備だ」
「民法の話を行政法に持ち込まないでください」
「補正しろ」
「何をですか」
「紙袋に名前を書け」
「今書きます!」
「遅い。もう食った」
「補正する機会を与えてないでしょう!」
相馬先輩は、焼き芋を半分に割りました。
「ほら」
「……半分?」
「補正後の処分だ」
「それただの食べかけです!」
奥で片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい」
「相当期間」
「何のです?」
「団子を出せ」
「まだあると思ってるんですか!」
「三十秒」
「短い!」
「二十九」
「勝手に期間を進めないでください!」
どうやら。
昭和六十三年の片桐行政書士事務所では、
補正制度そのものより先に、
差し入れの配分手続を法定する必要がありそうです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




