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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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157/272

[行政不服審査法22条・誤った教示をした場合の救済]現場編 「県に審査請求してください」の罠。役所が教えた間違いと、その間違いで住民を門前払いさせない救済

挿絵(By みてみん)

 役所に「ここへ出してください」と言われたら、普通はそこへ出します。


 だって。


 道を聞いた相手が役所本人なのです。


 そこで道を間違えたからといって、


 ――あなたが間違った場所へ出したので手遅れです。


 なんて言われたら。


 それはもう、道案内ではなく落とし穴です。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の朝、私は赤鉛筆を一本、真っ二つに折りました。


「……あ」


 ぱきん。


 机の上に、赤い木片が転がります。


 相馬先輩が煙草をくわえたまま私を見ました。


「何やってんだ」


「行政法です」


「行政法は鉛筆を折らねえ」


「私の行政法は折りました」


「意味分からん」


 原因は、昨日から読んでいる不服申立ての整理表でした。


 審査請求。


 異議申立て。


 上級行政庁。


 処分庁。


 六十日。


 現代の頭では、


 審査請求。


 三か月。


 審理員。


 と並べたくなる。


 でも、ここは昭和六十三年。


 平成二十六年改正後の行政不服審査法を頭の中で開いた瞬間、時代錯誤という名の大型トラックにはねられます。


「先輩」


「何だ」


「未来では、こんなに分かりにくくないんですけどね」


「未来を基準に仕事すんな」


「はい」


 正論が痛い。


 そのとき。


 事務所の引き戸が、がらりと開きました。


「すみません」


 五十代くらいの男性が立っていました。


 日焼けした顔。


 紺色の作業着。


 両手で、大きな茶封筒を抱えています。


「あの」


 男の人は言いました。


「県へ出したら、市役所へ行けと言われまして」


 私は折れた赤鉛筆を見ました。


 相馬先輩も私を見ました。


「……来ましたね」


「何がだ」


「行政法です」


「だから行政法は歩いて来ねえ」


 男の人は、


 西川重吉さん。


 五十三歳。


 駅から少し離れた商店街で、小さな荷物運送の仕事をしていました。


 軽トラック二台。


 従業員は息子さんと、もう一人。


 駅前の店から荷物を集め、


 市場へ運ぶ。


 酒屋から飲食店へ瓶を届ける。


 家具屋の小さな配送も請ける。


 大きな会社ではありません。


 でも。


「この搬入口が使えないと、仕事にならんのです」


 西川さんが机へ置いたのは、一枚の通知書でした。


 ――市道一時使用に関する許可更新申請を不許可とする。


 駅前再整備区域。


 西川運送が長年使っていた裏通りの荷さばき場所について、今年から使用を認めない。


「理由は?」


 相馬先輩が聞きます。


「駅前整備です」


「またか」


 私も思いました。


 最近、この町は何でも駅前整備です。


 露店。


 看板。


 荷さばき。


 仮設店舗。


 たぶんそのうち、猫が昼寝していても、


 ――駅前環境整備事業の円滑な実施のため。


 で移動させられる気がします。


「代わりの場所は?」


「ありません」


「じゃあ、今は?」


「道の向こうに止めて、台車で運んでます」


「距離は?」


「片道百五十メートルくらい」


 百五十メートル。


 数字だけなら大したことがない。


 でも。


 一日二十往復すれば三キロ。


 酒瓶。


 米袋。


 家具。


 雨の日も。


 夏も冬も。


「息子が腰を悪くしましてね」


 西川さんは、少しだけ困ったように笑いました。


「このままだと仕事を減らすしかないです」


 切実でした。


 でも。


 今回、私の目を引いたのは不許可そのものではありません。


 通知書の一番下。


 不服申立ての教示。


 そこには、こうありました。


 ――この処分に不服があるときは、処分を知った日の翌日から六十日以内に、県知事に対して審査請求をすることができます。


「……県知事」


 私は呟きました。


「そう書いてあったから」


 西川さんが茶封筒からもう一枚取り出します。


「県へ出しました」


「いつです?」


「一か月ほど前です」


「受け取ってもらえました?」


「はい」


 さらに一枚。


 受付印。


 確かに県庁へ審査請求書を提出していました。


 ところが。


「昨日、電話が来まして」


「県から?」


「ええ。これは県で審査するものじゃない、と」


 私は眉をひそめました。


「それで?」


「市役所に相談してください、と」


「書類は?」


「県にあります」


 相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。


「通知書、貸せ」


 西川さんが差し出します。


 先輩は教示欄を読んでから、奥を見ました。


「所長」


 片桐所長が出てきます。


 通知を見る。


 審査請求書の控えを見る。


 受付日を見る。


 それから、一言。


「誰が処分した」


「市長名です」


 西川さんが答えました。


 所長は私を見る。


「こはる」


「はい」


「上級行政庁は」


 私は止まりました。


 市長。


 上級行政庁。


 県知事?


 いや。


 市は県の単なる下部機関じゃない。


 市長の上に県知事が上司として座っているわけではありません。


「……ない」


「そうだ」


 なら。


 この処分について一般法上の基本形で考えれば。


「異議申立て……」


「そうだ」


 私は通知書を見ました。


 県知事へ審査請求。


 書いてある。


 堂々と。


 かなり堂々と。


「これ」


 私は言いました。


「教示が間違ってません?」


「だから見てる」


 相馬先輩が言います。


「いや、だって」


 私は西川さんを見ました。


「西川さん、役所に書いてあるとおりに県へ出したんですよね」


「はい」


「自分で勝手に県を選んだわけじゃなく」


「そんなこと分かりませんよ。市役所の紙に書いてあったから」


 そのとおりです。


 普通の人は、


 処分庁。


 上級行政庁。


 異議申立て。


 審査請求。


 なんて分類表を枕元へ置いて寝ません。


 役所が、


 ここへ出してください。


 と言った。


 だから出した。


 当たり前です。


「県から戻されて」


 西川さんは言いました。


「もう一度、市役所へ出すんでしょうか」


「今、何日目です?」


 私は聞きました。


「処分を知ってから?」


「はい」


 西川さんは手帳を開きました。


 私は日付を確認します。


 数える。


 もう一度数える。


「……五十七日」


 喉の奥が、きゅっとなりました。


 旧法の申立期間。


 六十日。


 残り三日。


 いや。


 県へ出した書類がまだ県にある。


 今日市役所へ新しく作って出せたとしても――


「こはる」


 所長が言います。


「慌てるな」


「でもあと三日です」


「だから、慌てるな」


 片桐所長は、通知書の教示欄を指で叩きました。


「間違えたのは誰だ」


「市です」


「西川さんじゃない」


「はい」


「なら、法律が何も用意していないと思うか」


 私は黙りました。


 頭の中で。


 現代の行政不服審査法が、勢いよく手を挙げます。


 誤った教示。


 審査庁でない行政庁を審査庁として教示。


 送付。


 通知。


 初めから正しい審査庁に審査請求したものとみなす。


「二十二条……」


 思わず口から出ました。


 相馬先輩が眉を寄せます。


「何の二十二条だ」


「あ」


 しまった。


 未来人事故。


 私は口を押さえました。


「何でもありません」


「何でもない顔じゃねえ」


「私の中で法律が改正されました」


「戻せ」


「はい」


 昭和六十三年。


 現行法第二十二条は、まだありません。


 再調査の請求なんて制度もありません。


 ここで使うのは、


 旧行政不服審査法。


 そして。


 旧法にも。


 誤った教示をした場合の救済はある。


「所長」


 私は顔を上げました。


「正しいのは異議申立てですよね」


「ああ」


「でも市が、県知事への審査請求だと間違って教えた」


「ああ」


「それを信じて、西川さんは県へ審査請求した」


「ああ」


 相馬先輩が言いました。


「で?」


「県が『うちじゃないから知りません』で終わらせる話じゃない」


 所長の目が少し細くなりました。


「続けろ」


「県は、その審査請求書を市へ送る」


「うん」


「そして」


 ここです。


 この制度の、一番気持ちいいところ。


「最初から市へ異議申立てをしたものとして扱う」


 西川さんが顔を上げました。


「最初から?」


「はい」


「でも、私は県へ出したんですよ」


「市が、県へ出せって書いたからです」


「ええ」


「その間違いを、西川さんの不利益にしない仕組みがあるんです」


 言いながら。


 私は少し鳥肌が立ちました。


 受験生だった頃。


 こういう規定は嫌いでした。


 AがBに教示。


 Cに提出。


 送付。


 通知。


 みなす。


 矢印がいっぱい。


 登場人物がアルファベット。


 読んでいると、脳の中でAとBとCが勝手に席替えを始めます。


 でも。


 今は違う。


 Aは市役所。


 Bは本来の申立先。


 Cは県庁。


 そして真ん中に、


 腰を痛めた息子さんと荷物を運んでいる西川さんがいる。


 急に全部つながりました。


「市役所行くぞ」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「はい」


「県にも電話だ」


「はい」


「書類返してください、じゃねえぞ」


「分かってます」


「何て言う」


 私は答えました。


「正しい処理をしてください」


 相馬先輩が、にやりとしました。


「それでいい」


 市役所。


 総務課。


 沢渡課長は、今日も揺るぎません。


 こちらが台風でも地震でも、


 たぶんこの人だけは書類の角を揃えています。


「西川運送の件ですね」


「知ってました?」


 私が聞くと、沢渡課長は眼鏡を少し上げました。


「県から照会がありました」


「なら話が早い」


 相馬先輩が通知書を机へ置きます。


「この教示、間違ってるな」


「確認中です」


「確認するまでもねえだろ」


「行政文書ですから、確認はします」


 強い。


 この人は絶対に「たぶん」で仕事をしません。


 腹は立つけれど、嫌いにはなれない。


「処分庁は市長」


 私は言いました。


「この件について県知事が上級行政庁になるわけではない」


「そのとおりです」


「なら一般法上、この不服申立ては市に対する異議申立てになる」


「そうですね」


「通知書には県知事への審査請求と書いてある」


「そこは」


 沢渡課長が通知を手に取りました。


「誤記です」


「誤記」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「便利だな」


「事実です」


「誤記一個で、住民は県庁まで行ったんだぞ」


「それについては申し訳ないと思っています」


 意外でした。


 沢渡課長が、あっさり認めた。


 ただし。


「ですが」


 来ました。


 役所の「ですが」。


 この二文字の後ろには、だいたい分厚い壁があります。


「現時点で、市には異議申立書が提出されていません」


「県にあります」


「ええ」


「市が県へ出せと教えたから」


「それも承知しています」


「申立期間はあと三日です」


「承知しています」


「じゃあ今日、新しく出せって?」


 沢渡課長は答えません。


 私は机の上の通知書を見ました。


 何かがおかしい。


 この会話。


 西川さんが、間違った。


 という前提で進んでいる。


 違う。


 西川さんは間違っていない。


 少なくとも、


 役所の教示に従った。


「課長」


「はい」


「これ、新しく出させる話じゃないですよね」


 沢渡課長の目がこちらへ向きました。


「どういう意味ですか」


「県へ出した審査請求書を、市へ送ってもらう」


「……」


「そして、市に異議申立てがあったものとして扱う」


 相馬先輩が腕を組みました。


「最初から、だな」


「はい」


 そこが大事です。


 今日。


 市に届いた日から。


 ではない。


 県に間違えて出したから、一からやり直し。


 でもない。


 役所が誤って、


 県知事に審査請求してください。


 と教えた。


 本人はそれを信じた。


 なら。


 書類を正しい場所へ動かす。


 本人の権利を、役所の案内ミスで消さない。


「旧法には」


 私は言いました。


「そういう救済がありますよね」


 沢渡課長は数秒黙りました。


 それから。


 机の電話を取りました。


「県の担当へつないでください」


 早い。


「課長?」


「何です」


「認めるんですか」


「条文どおりなら、認めるも何もありません」


 受話器を肩に挟んだまま、沢渡課長が言います。


「こちらの教示が誤っていたのであれば、住民にやり直させる理由はないでしょう」


 乾いている。


 やっぱり乾いている。


 でも。


 今日は、その乾き方がありがたかった。


 かわいそうだから助ける。


 ではない。


 役所が間違えたから。


 法律どおり直す。


 それだけ。


 だから強い。


「もしもし、沢渡です」


 電話がつながりました。


「西川重吉氏の不服申立ての件ですが」


 沢渡課長は淡々と話します。


「はい。こちらの教示誤りです」


 言った。


 自分から言った。


 相馬先輩が少しだけ眉を上げます。


「県知事を審査庁として教示していますが、本来は当市への異議申立てです」


 少し間。


「はい。書面はそちらにありますね」


 さらに間。


「こちらへ送付願います」


 私は息を吐きました。


 それだけで。


 残り三日という数字が、少しだけ遠ざかった気がしました。


 電話を切った沢渡課長が言います。


「県から市へ送ります」


 西川さんが不安そうに聞きました。


「それで、間に合うんですか」


「間に合わせる、という言い方ではありません」


 沢渡課長が答えました。


「あなたが県へ審査請求書を出した時点を基準に扱うことになります」


「じゃあ」


「期間内です」


 西川さんの肩が落ちました。


 力が抜けたようでした。


「よかった……」


 小さな声。


 たった四文字です。


 でも。


 その四文字に、


 一か月分の不安が全部入っていました。


 私は思いました。


 これです。


 行政法の規定が、急に血を通う瞬間。


 送付。


 通知。


 みなす。


 テキストでは眠い。


 眠すぎる。


 でも。


 もし「みなす」がなかったら。


 西川さんは、


 役所が教えたとおりにしたのに、


 時間を失ったことになる。


 法律の機械みたいな言葉が、


 その時間を元へ戻す。


「ただし」


 沢渡課長が言いました。


「不服申立てが適法に扱われることと、不許可処分が取り消されることは別です」


 はい。


 そこはそうです。


 救われたのは、


 入口。


 まだ本丸ではない。


「分かっています」


 片桐所長が初めて口を開きました。


「次は処分の中身だ」


「ええ」


 沢渡課長が答えます。


「駅前再整備に伴う荷さばき場所の整理について、市には裁量があります」


「それも分かっている」


「西川さんだけを特別扱いすることはできません」


「特別扱いを求めてるんじゃねえ」


 相馬先輩が言いました。


「扱いを説明しろって言ってる」


「説明?」


「同じ区画の店の搬入はどうしてる」


 沢渡課長の視線が止まりました。


「商店街側の共同搬入口があります」


「使えるのか」


「登録事業者は」


「西川運送は?」


「……登録対象から外れています」


「なぜ」


「店舗を持つ事業者ではないためです」


 私は眉を寄せました。


 西川さんは荷物を運ぶ側。


 店ではない。


 だから共同搬入口は使えない。


 でも従来使っていた荷さばき場所も不許可。


「ちょっと待ってください」


 私は言いました。


「荷物を受ける店は共同搬入口を使える。でも運ぶ西川さんは事業者区分が違うから使えない?」


「現在の運用では」


「じゃあ誰が荷物を持ってくるんです?」


 沢渡課長が黙りました。


「店だけ搬入口へ瞬間移動させるんですか」


「朝比奈」


 相馬先輩が低い声を出しました。


「はい」


「言い方」


「すみません」


 でも。


 おかしいものはおかしい。


 駅前再整備。


 車両を整理したい。


 それは分かる。


 危険な駐車を減らしたい。


 歩行者空間を確保したい。


 それも分かる。


 けれど。


 荷物を受ける店には搬入口を用意して、


 そこへ荷物を届ける運送業者は対象外。


 しかも既存の荷さばき場所は使用禁止。


 制度同士が、


 きれいに手をつないで西川さんだけ外へ押し出しています。


「沢渡課長」


 片桐所長が言いました。


「異議申立てでは、その点も確認してもらう」


「分かりました」


「処分の理由だけじゃない。代替措置との整合もだ」


「担当課へ照会します」


「あと」


 所長は通知書を指しました。


「教示文」


「修正します」


「西川さんだけか」


 一瞬。


 沢渡課長が黙りました。


 私は気づきました。


 この通知。


 西川さん一人のために作った文章ではない。


 たぶん。


 同じ形式の通知を、何件も出している。


「課長」


 私が言いました。


「同じ様式、他にも使ってます?」


 沢渡課長は眼鏡を外しました。


 レンズを布で拭く。


 時間稼ぎではありません。


 この人は考えるとき、本当に眼鏡を拭きます。


「十二件」


「十二」


「今年度、同じ様式で出しています」


 相馬先輩が低く笑いました。


「一件の誤記じゃねえな」


「様式の設定ミスですね」


 沢渡課長が言います。


 冷静。


 でも顔は少しだけ険しい。


「全件確認します」


 私は思わず聞きました。


「不服申立てしてない人も?」


「当然です」


「どうして」


「誤った教示をした可能性があるからです」


 沢渡課長は眼鏡をかけ直しました。


「そのせいで不服申立てを諦めた人がいるかもしれない」


 その言葉に。


 私は少しだけ、この人を見る目を変えました。


 役所の壁。


 一度出した処分を簡単には覆さない。


 感情では動かない。


 でも。


 法理と事実が崩れれば、


 自分たちの仕事も切る。


 だから厄介で。


 だから頼もしい。


 三日後。


 県から市へ書類が届きました。


 西川さんが県へ提出した審査請求書。


 それは新しく書き直させられることなく、


 市への異議申立てとして扱われることになりました。


 県へ提出した日から。


 つまり。


 六十日の期間内。


 入口は守られました。


 さらに一週間後。


 市役所から連絡がありました。


 片桐所長。


 相馬先輩。


 私。


 西川さん。


 四人で総務課へ向かいました。


「結論から言います」


 沢渡課長が書類を置きました。


「従来の荷さばき場所について、全面的に元へ戻すことはできません」


 西川さんの顔が少し曇ります。


「再整備計画上、車両の常時進入を減らす必要があります」


 そこは変わらない。


 でも。


「共同搬入口の運用を変更します」


「運用?」


「店舗事業者だけでなく、登録された配送事業者にも時間指定で利用を認めることになりました」


 西川さんが目を見開きました。


「私も?」


「一定の時間帯に限りますが」


「朝は?」


「午前六時半から九時」


「昼は」


「十一時半から一時半」


 西川さんが指で何かを数えます。


 配送の時間でしょう。


「それなら」


 呟きました。


「かなり回せます」


 完全勝利ではありません。


 昔の場所へ自由に戻れるわけでもない。


 時間制限もある。


 登録手続も必要。


 それでも。


 百五十メートル先から、


 酒瓶を台車で何往復もする必要は減る。


「異議申立てについては?」


 相馬先輩が聞きます。


「この運用変更を前提に、処分の見直しを進めます」


「取消しか」


「そこまではまだ」


「だろうな」


 相馬先輩は肩をすくめました。


 沢渡課長がこちらを見ます。


「朝比奈さん」


「はい」


「ひとついいですか」


「何でしょう」


「今回の一番大きな問題は何だったと思います?」


 試験ですか。


 いきなり口頭試問ですか。


 私は少し考えました。


「不許可処分?」


「それもあります」


「共同搬入口の制度設計?」


「それも」


 違う。


 この人が聞いているのは、もっと前。


 私は机の上の通知書を見ました。


「入口を間違えて教えたこと」


 沢渡課長が頷きます。


「そうです」


 処分の中身がどれだけ不当でも。


 争う場所へたどり着けなければ。


 始まりません。


「行政が教示するというのは」


 沢渡課長が言いました。


「単に電話番号を書くことではありません」


 珍しく、この人が少し長く話します。


「どこへ、いつまでに、どう争えるのか。それを誤れば、権利そのものを失わせかねない」


 私は頷きました。


 そして。


 頭の中で。


 現代の制度がまた少しだけ顔を出します。


 審査請求への原則一本化。


 審理員。


 再調査の請求。


 誤った教示をした場合の救済。


 制度は変わる。


 名前も変わる。


 手続も変わる。


 でも。


 役所の案内を信じた人を、


 その案内の間違いで落とさない。


 その考え方は、


 ちゃんと残っていく。


 事務所へ戻った夕方。


 西川さんが大きな段ボール箱を抱えて来ました。


「お礼です」


「いや、まだ処分そのものは決着してませんよ」


 私が言うと、


「でも仕事は回せるようになりました」


 箱を開けます。


 中から出てきたのは。


 みかん。


 大量のみかん。


「……多くないですか」


「市場から配送頼まれたやつの、おまけです」


 相馬先輩が一個取ります。


「食えるやつか」


「当たり前でしょう」


「差し入れはこれだよ」


「先輩、花より露骨に喜びますね」


「花は腹に入らん」


「前も聞きました」


 片桐所長まで一つ取ります。


「所長も食べるんですか」


「悪いか」


「いえ」


 私はみかんを一つ手に取りました。


 小さい。


 少し形が悪い。


 でも皮をむくと、甘い匂いが広がります。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「今日の教訓は」


「役所の言うことを信用するな」


「違う」


「即答」


 片桐所長が言いました。


「役所も間違える」


「はい」


「だから?」


 私は少し考えました。


 そして。


「役所が道を間違えて教えたなら、その間違いまで住民に背負わせない」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 法律は冷たい。


 県へ送る。


 市へ送る。


 通知する。


 最初から申立てがあったものとみなす。


 文章だけ見れば、


 荷物の転送手続みたいです。


 でも。


 今日運ばれたのは紙だけじゃありません。


 西川さんが、


 期限内にちゃんと異議を申し立てた。


 その事実まで、


 正しい場所へ運ばれた。


 役所の間違いで、


 住民の時計を進めないために。


「先輩」


「何だ」


「みかん、五個目ですよ」


「数えるな」


「所長は三個目です」


「数えるな」


「私まだ一個です」


「早い者勝ちだ」


「異議があります」


「申立先が違う」


「誰ですか」


「みかんの持ち主」


 私は西川さんを見ました。


「西川さん。異議申立てします」


「何のです?」


「みかんの配分について」


 西川さんが笑いました。


「じゃあ、もう一箱持ってきましょうか」


「認容された!」


「お前の申立てじゃねえ」


 相馬先輩が呆れます。


 私は二個目のみかんを確保しました。


 今日学んだこと。


 行政法は、


 間違えない役所を前提にしているわけではありません。


 役所だって間違う。


 書式も間違う。


 教える相手も間違う。


 だからこそ。


 間違えたとき、


 そのツケを誰に払わせるのか。


 そこまで法律は決めている。


 少なくとも。


 役所自身が間違えて教えた道を歩いた人に、


「道を間違えましたね」


 とだけ言って扉を閉めるほど、


 冷たくはない。


 それを知っただけで。


 机の上であれほど眠かった、


 送付。


 通知。


 みなし。


 という三つの言葉が。


 今日は少しだけ、


 人を助ける言葉に見えました。

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