[行政不服審査法21条・処分庁経由による審査請求]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、栗羊羹の気配が残っていました。
正確には。
羊羹そのものは、もうほとんど残っていません。
残っているのは、
包み紙。
竹の楊枝。
皿の上の、申し訳程度の欠片。
そして。
私の恨みです。
「先輩」
「何だ」
「私の分、もう少しありませんでした?」
「食っただろ」
「一切れです」
「三切れ取ろうとしてた」
「未遂です」
「現行犯だったぞ」
「刑法の話にしないでください」
相馬先輩は煙草をくわえたまま、新聞をめくりました。
机の向こうでは、片桐所長が今日の書類を整理しています。
私の前にはノート。
その上に、大きく。
――処分庁経由による審査請求。
と書きました。
昨日までだったら。
この言葉を見ただけで、
ああ、提出先の話ね。
直接でも経由でもいいのね。
はいはい。
で終わっていたと思います。
でも。
森岡さんが、
「今日が期限なんです」
と息を切らして駆け込んできたあとでは。
もうただの提出方法には見えません。
「じゃあ始めます」
「勝手にやれ」
「付き合ってください」
「嫌だ」
私は奥を見ました。
「所長」
「付き合え」
片桐所長が顔も上げずに言いました。
相馬先輩が新聞を畳みました。
「お前、最近それ覚えたな」
「適法な上申です」
「所長を審査庁みたいに使うな」
「では質問です」
「もう始まるのかよ」
私はノートの一番上に書きました。
まず。
審査請求をする相手。
審査庁。
森岡さんの件では、
処分をしたのは浜松土木事務所。
でも審査請求先は県知事。
「ここまでは昨日も確認しました」
「ああ」
「じゃあ森岡さんは、絶対に県庁へ直接行かなきゃいけなかった?」
「違う」
「そうです」
私はその横に、
大きく、
――処分庁を経由できる。
と書きました。
「これが今日の中心ですね」
「昨日の中心でもあっただろ」
「今日は理屈を掘ります」
「掘りすぎて穴に落ちるなよ」
「受験生に不吉なこと言わないでください」
行政不服審査法では。
審査請求をする行政庁と、
処分をした行政庁が異なる場合。
審査請求人は、
その処分庁を経由して審査請求をすることができます。
「つまり」
私は言いました。
「審査するのはA役所」
「うん」
「でも書類はB役所に出していい」
「B役所が処分庁ならな」
「そうです」
ここ。
当たり前のようでいて。
昨日、土木事務所の窓口でも混同されていました。
審査庁が県知事。
だから県庁へ出す。
それ自体は間違いではありません。
直接出してもいい。
でも。
それしか方法がない。
は間違い。
「審査庁と提出窓口を同じものだと思うな、ですね」
私が言うと。
片桐所長が頷きました。
「そこだ」
私はノートに囲みます。
――誰が審査するか。
――どこへ提出できるか。
別問題。
「受験問題だと、この切り分けを狙ってきそうですね」
相馬先輩が言いました。
「例えば?」
「『審査請求は必ず審査庁に直接しなければならない』」
「誤り」
「即答」
「昨日やったばっかりだろ」
「成長してる」
「普通だ」
その言い方は冷たい。
でも正しい。
私は次を書きます。
処分庁経由。
では。
処分庁に出された審査請求書はどうなるか。
「処分庁がそのまま審査する?」
私はわざと聞きました。
「違う」
相馬先輩が言います。
「審査庁へ回す」
「はい」
処分庁は。
受け取った審査請求書などを、
審査庁となるべき行政庁へ送付しなければならない。
「現代法なら」
私はノートの余白に書きました。
――直ちに送付。
「ここ、重要です」
「何がだ」
「経由って聞くと、一回処分庁で止めて検討して、それから送る感じがするじゃないですか」
「しねえよ」
「でも窓口の感覚としては、ありそうでしょう」
「まあな」
だから。
経由は、
処分庁がもう一度内容を審査してから上へ回す制度ではありません。
処分庁を通り道にできる。
その場合、
審査の主体はあくまで別の審査庁。
「森岡さんの件でも」
私は言いました。
「土木事務所が『うちの処分に文句があるのか。まずうちで審査しよう』とはならない」
「ああ」
「県知事宛ての審査請求として送る」
「そうだ」
ここで。
私の頭の中に、
昨日からずっと引っかかっている単語が出てきます。
異議申立て。
「先輩」
「何だ」
「ここ、旧法だと余計ややこしいですよね」
「言ってみろ」
昭和六十三年。
旧行政不服審査法では。
異議申立てと審査請求。
二つが基本的な不服申立てとして併存していました。
異議申立て。
基本的には処分庁自身に対してする。
審査請求。
処分庁とは別の上級行政庁などへする。
「だから」
私は言いました。
「処分庁へ書類を出した、というだけで異議申立てになるわけじゃない」
「そこは大事だな」
相馬先輩が頷きました。
「処分庁を経由した審査請求と」
「処分庁そのものにする異議申立ては」
「別物」
「はい」
ややこしい。
本当にややこしい。
同じ処分庁の窓口へ紙を持っていく場合でも。
一つは、
処分庁自身に見直しを求める。
もう一つは、
別の審査庁へ送ってもらうために提出する。
「見た目が似てます」
「中身は違う」
「受験生殺しですね」
「勝手に死ぬな」
「比喩です」
私はノートに二本の矢印を書きました。
旧法。
異議申立て。
処分庁へ。
処分庁自身が判断。
審査請求。
審査庁へ。
ただし処分庁を経由することもできる。
「昨日の森岡さんは後者」
「そうだ」
「浜松土木事務所へ提出したけど、あそこが審査するわけじゃない」
「県知事に回す」
「はい」
ここまで。
たぶん試験でも出ます。
でも。
昨日の森岡さんを救った本丸は、
もう一つ。
私はノートの次の欄に、
大きく、
――審査請求期間。
と書きました。
「来ましたね」
「お前が昨日、一番焦ってたところだな」
「はい」
旧法。
原則。
六十日。
現代法。
原則。
三か月。
「まずそこから」
相馬先輩が言いました。
「時代を間違えるな」
「はい」
私は二重線を引きます。
昭和六十三年。
六十日。
現代。
三か月。
「現代の感覚で三か月あると思ってたら、森岡さん完全にアウトでした」
「だから未来の知識を雑に持ち込むな」
「転生者への当たりが強い」
「知らねえよ」
でも。
本当に危ない。
現代行政法を勉強していた私は。
審査請求期間。
三か月。
と反射的に覚えています。
でも昨日の世界では、
六十日。
条文一つ分ではなく。
人生の一か月分くらい違う。
「森岡さんは、昨日が六十日目でした」
「ああ」
「県庁へ直接持っていこうとしてた」
「間に合わなかった」
「でも処分庁には間に合った」
「そこだな」
私は囲みました。
処分庁を経由した場合。
期間計算では。
処分庁に審査請求書を提出した時に、
審査請求があったものとみなされる。
「つまり」
私は鉛筆を置きました。
「処分庁に期限内に出せば」
「審査庁への到達が翌日でも」
「期間計算上は間に合う」
「そういうことだ」
ここ。
昨日までは、
ものすごく細かい規定だと思っていました。
提出先A。
経由先B。
みなし時点C。
問題集にすると、
ただの記号です。
でも。
森岡さんの顔を思い出す。
県庁に間に合わない。
もう駄目だ。
そう思っていた人にとって。
処分庁への提出時点で間に合う。
この一文は。
本当に、
一日を返す規定でした。
「所長」
「何だ」
「なんでこんな仕組みにしてあるんですか」
「遠いからだ」
短い。
でも分かります。
行政庁は、
住民の家の隣に全部あるわけではありません。
県庁。
本庁。
上級行政庁。
審査庁が処分庁より遠いことは普通にある。
もし。
処分庁への提出では足りず、
審査庁へ実際に届くまで期間内でなければならないとしたら。
住んでいる場所。
交通事情。
郵便事情。
そういうものが、
不服申立てのしやすさを左右してしまう。
「だから処分庁で受けて」
「うん」
「提出時を基準にする」
「そうだ」
「地味だけど公平なんですね」
片桐所長は一度だけ頷きました。
「手続は、そういうところで人を救う」
私は黙りました。
いいこと言います。
こういうときだけ。
「所長」
「何だ」
「今の、ノートに書いていいですか」
「勝手にしろ」
書きました。
――手続は、入口を公平にするためにある。
相馬先輩が横から覗き込みます。
「試験答案には使うなよ」
「分かってます」
私は次に進みます。
「じゃあ、ここでひっかけ問題です」
「誰にだ」
「先輩に」
「嫌な予感しかしねえ」
「森岡さんが昨日、審査請求書を普通郵便で県庁に発送した。でも県庁に届いたのは今日。期間は昨日まで。間に合う?」
相馬先輩が少し考えました。
「昨日発送しただけじゃ駄目じゃねえのか」
「そうですね」
原則として。
審査請求は、
審査庁に到達して成立する。
郵便局に出した時点ではありません。
「でも処分庁経由なら?」
「処分庁に提出した時点」
「はい」
ここが大きい。
単なる郵送と、
法が認めた経由提出は同じではない。
「昨日、森岡さんが土木事務所に持っていった」
「だから間に合った」
「そうです」
私は丸で囲みました。
――発送日ではなく、法が定める提出時点を見る。
「また細かい」
相馬先輩が言います。
「でもこれ、期限ぎりぎりだと致命傷ですよ」
「そうだな」
行政不服審査。
内容が正しいか。
処分が違法か。
不当か。
そこへ行く前に。
期間。
提出先。
方法。
入口で落ちることがある。
「だから受験問題でも」
私は言いました。
「実体法だけじゃなくて、こういう手続の起算点や提出時点を細かく聞くんですね」
「実務で死ぬからな」
「言い方」
「間違ってねえだろ」
間違っていません。
悔しいけど。
私は次の見出しを書きました。
現代法との比較。
「来たか」
相馬先輩が嫌そうな顔をします。
「また未来の話か」
「必要なんです」
現代。
平成二十六年全部改正後の行政不服審査法。
処分庁等を経由する審査請求は、
第二十一条。
審査請求先と処分庁等が異なる場合には、
処分庁等を経由してすることができる。
処分庁等は、
受け取った審査請求書等を、
直ちに審査庁となるべき行政庁へ送付する。
そして。
期間計算は、
処分庁等に提出し、または所定の陳述をした時に、
審査請求があったものとみなされる。
「つまり、ここは現代法にも残ってる」
「必要な仕組みだからな」
「はい」
でも。
制度全体は大きく変わった。
旧法。
異議申立て。
審査請求。
二本立て。
現代法。
原則として審査請求へ一本化。
「ここで昨日の土木事務所の混乱を見ると」
私は言いました。
「ちょっと改正の意味が分かる気がします」
「どういう意味だ」
旧法では。
処分庁へ出す。
と聞いたとき。
それが異議申立てなのか。
審査請求の経由提出なのか。
制度を知らない人には分かりにくい。
申立ての種類そのものが複数ある。
どこへ出すかも違う。
期間もある。
個別法の特則もある。
「住民から見たら」
私は言いました。
「まず入口が複雑なんですよね」
「ああ」
「現代法で原則審査請求に一本化された理由の一つは、こういう分かりにくさを整理するため」
「そういうことだ」
さらに。
現代法では。
審理員制度。
原処分に関与していない職員による審理。
行政不服審査会等への諮問制度。
公正性を高める仕組みが導入されています。
「昭和六十三年にはありません」
私は強調しました。
「だから今の森岡さんの事件に審理員を出したら時代錯誤」
「未来人しか知らねえ言葉を県庁で出すなよ」
「昨日は出してません」
「偉い」
「そこ褒められるんですか」
でも。
新旧を比べると。
一本化。
審理員。
第三者機関への諮問。
全部、
昔の制度で分かりにくかったり、
公正さに疑問を持たれやすかった部分に対する答えなんだ。
と見えてきます。
私はノートに書きました。
旧法の課題。
申立ての種類が分かりにくい。
処分庁自身が判断する異議申立てがある。
公正性への不安。
現代法。
原則審査請求へ一本化。
審理員制度。
行政不服審査会等への諮問。
「ただし」
片桐所長が言いました。
「今日の中心を忘れるな」
「はい」
「制度改正の話に逃げるな」
「逃げてません」
「森岡さんを救ったのは何だ」
私は答えました。
「処分庁経由の制度です」
「それから」
「処分庁への提出時を、期間計算上の審査請求時と扱うこと」
「そうだ」
所長はまた帳簿に目を戻しました。
必要なところだけ刺してくる。
ずるい。
私はノートの下へ、
試験注意点。
と書きました。
「ここから試験モードです」
「勝手にしろ」
「第一問」
「本当に問題形式にするのかよ」
「『処分庁と審査庁が異なる場合、審査請求は必ず審査庁へ直接提出しなければならない』」
「誤り」
「理由は?」
「処分庁を経由できるから」
「正解」
「景品は」
「栗羊羹の欠片」
「いらねえ」
「第二問」
「続くのか」
「『処分庁を経由して審査請求をした場合、審査請求期間は審査庁に審査請求書が到達した時を基準に判断する』」
「誤り」
「理由は?」
「処分庁に提出した時点」
「正解」
「景品」
「ありません」
「さっきより悪くなってるぞ」
「第三問」
「まだあるのか」
「『処分庁を経由して審査請求をした場合、処分庁は内容を再審査してから必要があると認めたときだけ審査庁へ送付する』」
「誤り」
「理由」
「直ちに送付」
「満点」
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。
「要するに」
「はい」
「通り道なんだろ」
「そうです」
「処分庁は」
「はい」
「受付できる。でも最終的な審査役じゃない」
「はい」
「だから抱え込むな」
「はい」
「期限は、そこに出した時点を見る」
「完璧です」
「じゃあ終われ」
「まだ一個あります」
「何だ」
「口頭」
相馬先輩が眉を寄せました。
現代法第二十一条では。
審査請求書を処分庁等に提出するだけでなく、
一定の場合には、
処分庁等に対して必要事項を陳述する方法も定められています。
そして。
処分庁等は、
その内容を録取した書面を審査庁へ送付する。
「ここは教材でも出てきます」
「口で言えば何でもいいのか」
「そういう雑な話ではありません」
必要事項。
方式。
録取。
そういうルールに従う必要があります。
「でも」
私は言いました。
「制度として、紙を持って直接審査庁へ行く方法だけに縛ってないんですよね」
「うん」
「入口を複数用意してる」
「そうだな」
処分庁経由。
書面。
場合によっては陳述。
その代わり。
どの時点で申立てがあったと扱うかを明確にしておく。
手続法というのは。
自由にしてください。
ではなく。
いくつかの道を用意したうえで。
この道なら、ここを通った時点で到達扱い。
と決めることで公平を作っています。
「冷たいですね」
私は呟きました。
「何がだ」
「ルール自体は」
昨日の森岡さんに、
かわいそうだから一日おまけします。
とは言わない。
県庁が遠かったから特別扱いします。
とも言わない。
誰にでも同じように。
処分庁を経由できます。
そこに提出した時点で期間上は審査請求があったものとします。
そう決める。
「人情で助けるんじゃない」
「制度で助ける」
片桐所長が言いました。
私はその言葉を、ノートに書きました。
――人情ではなく、入口を制度で平らにする。
「また試験答案に書けないやつが増えました」
「覚えるためならいい」
「所長、今日はよく喋りますね」
「うるさい」
「通常運転に戻った」
私はページをめくりました。
最後。
混同注意。
処分庁経由による審査請求。
異議申立て。
直接の審査請求。
この三つ。
「整理します」
私は三本並べました。
直接の審査請求。
審査庁へ直接提出。
処分庁経由の審査請求。
処分庁へ提出するが、審査するのは審査庁。
旧法の異議申立て。
処分庁自身に申立て、処分庁自身が見直す。
「昨日の受付担当は」
私は言いました。
「『ここは処分庁だから審査請求できません』と言った」
「ああ」
「半分正しくて、半分間違ってた」
「そうだな」
ここは審査庁ではない。
だから自分が審査するわけではない。
そこまでは正しい。
でも。
だから書類を受け取れない。
は違う。
「役所の説明って」
私は言いました。
「前半だけ正しいと余計に厄介ですね」
「何でもそうだ」
相馬先輩が言います。
「間違い丸出しなら気づける」
「はい」
「正しい話のあとに間違いが混ざると、人は信じる」
「怖いですね」
行政法の現場では。
「うちは審査するところではありません」
という一言に。
住民が、
じゃあここには出せないんだ。
と補ってしまうことがある。
だから。
論点を切る。
誰が審査するのか。
どこへ提出できるのか。
いつ申立てがあった扱いになるのか。
全部別。
法律は。
まとめて雰囲気で理解すると、
必ずどこかで足を取られます。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「一行」
「来ましたね」
私はノートの最後へペンを置きました。
今日の覚え書き。
考える。
処分庁。
審査庁。
経由。
期限。
送付。
私は書きました。
――審査する場所と、出せる場所は別。処分庁へ出した時点で期限は止まる。
相馬先輩が横から見ます。
「止まる、は雑じゃねえか」
「覚え書きです」
「法的には、審査請求があったものとみなす、だろ」
「分かってます」
「じゃあそう書け」
「長くなるじゃないですか」
「試験で雑な日本語に引っ張られるぞ」
ぐぬ。
正しい。
私は書き直しました。
――処分庁を経由でき、期限は処分庁へ提出した時に審査請求があったものとみなす。
「長い」
「先輩が言ったんでしょう!」
「覚えにくいな」
「もう!」
そのとき。
事務所の扉が開きました。
「こんばんは」
森岡さんでした。
「森岡さん」
「昨日はありがとうございました」
手には小さな紙袋。
「また羊羹ですか?」
「違います」
ちょっと残念。
出てきたのは。
古い革靴。
「……靴?」
「先生のです」
片桐所長が顔を上げました。
「俺の?」
「昨日、先生が土木事務所まで来てくださったとき、靴底が剥がれかけてたでしょう」
私は所長の足元を見ました。
「あ」
「見るな」
「本当だ」
「見るな」
森岡さんが笑いました。
「修理しますよ」
「いや」
「お代はいりません」
「それは困る」
「じゃあ」
森岡さんは少し考えました。
「審査請求が終わったら、その結果に関係なく代金をいただきます」
所長が少し黙りました。
「分かった」
森岡さんはしゃがんで靴の状態を見ます。
「まだ十分履けます」
「そうか」
「直せるものを、直さず捨てるのはもったいないですから」
私は。
その言葉に少しだけ笑いました。
昨日。
役所の処分も。
もう終わりだと思っていた。
県庁に間に合わない。
期限が来る。
捨てるしかない。
でも。
法律の中には。
遠回りに見えて、
ちゃんとつながっている道があった。
処分庁を経由する。
そこに出した時点で、
期限内の審査請求として扱う。
書類は審査庁へ送られる。
処分が取り消されるかは、
まだ分かりません。
森岡さんの日よけが残るかも。
まだ分からない。
でも。
少なくとも。
捨てなくていい段階で、
捨てずに済んだ。
「朝比奈さん」
「はい」
「昨日、帰って妻に話したんです」
「何をです?」
「県庁まで行けなくても、土木事務所へ出せば間に合ったって」
「はい」
「妻が言いました」
森岡さんが少し笑います。
「法律って、意外と親切なのねって」
私は。
すぐには頷けませんでした。
法律が親切。
たぶん。
そんな単純ではありません。
六十日という期限は冷たい。
提出方法も決まっている。
知らなければ、
昨日の森岡さんみたいに入口で諦めることもある。
でも。
だからこそ。
「親切というより」
私は言いました。
「冷たいまま、ちゃんと逃げ道を作ってる感じです」
「冷たいまま?」
「はい」
あなたは遠いから特別。
ではない。
あなたはかわいそうだから例外。
でもない。
誰でも処分庁を経由できる。
そこで出した時点を基準にする。
その冷たさは。
人を雑に区別しない冷たさです。
相馬先輩が言いました。
「お前、たまに変なこと言うな」
「褒めてます?」
「気のせいだ」
「またそれ」
森岡さんが笑いました。
片桐所長は修理に出す靴を脱ぎながら言いました。
「こはる」
「はい」
「今日のまとめ」
私はノートを閉じました。
「審査庁が遠くても、処分庁を経由して審査請求できる」
「それから」
「処分庁は書類を審査庁へ送る」
「それから」
「期間計算では、処分庁へ提出した時に審査請求があったものとみなす」
「旧法は」
「六十日」
「現代は」
「原則三か月」
「異議申立てとの違いは」
「旧法の異議申立ては処分庁自身への申立て。処分庁経由の審査請求は、提出窓口が処分庁なだけで、審査するのは別の審査庁」
所長が頷きました。
「それでいい」
よし。
今日は満点。
たぶん。
「じゃあ帰るぞ」
相馬先輩が立ち上がります。
「待ってください」
「何だ」
私は机の上を指しました。
「栗羊羹の最後の一切れ」
「俺のだ」
「何でですか」
「昨日、俺が切った」
「所有権の発生原因がおかしい」
「じゃあ所長」
相馬先輩が言いました。
「審査してください」
「却下」
「早い!」
私と相馬先輩の声が重なりました。
所長は残った一切れを取りました。
「所長!」
「何だ」
「それ、審査庁による横領です」
「行政法と刑法を混ぜるな」
「じゃあ不服申立てします」
「申立先は」
「所長」
「本人じゃないですか!」
またです。
でも今日は。
昨日より一つ分かっています。
「じゃあ先輩を経由します」
「俺に出すな」
「処分庁経由です」
「俺は処分庁じゃねえ」
「直ちに所長へ送付してください」
「羊羹をか?」
「はい」
「嫌だ」
「義務違反!」
片桐所長が最後の一切れを口に入れました。
「あっ!」
「送付先が消えたぞ」
相馬先輩が笑います。
「期限内に出したのに!」
「本案がなくなったな」
「こんな不服審査ある!?」
森岡さんが声を出して笑いました。
夕方の片桐行政書士事務所。
昨日は、
六十日の期限に追われていました。
今日は、
羊羹一切れで騒いでいます。
でも。
こういう夕方が来たこと自体。
昨日の時点では、
まだ分かりませんでした。
あのとき。
「県庁に間に合わないから終わり」
で諦めていたら。
森岡さんの処分は、
中身を見てもらう入口にさえ立てなかった。
処分庁を経由する。
たったそれだけの制度。
でも。
行政法というものは。
たいてい、
そういう地味な一行の中に。
人が諦めなくて済む一日を、
こっそり隠しているのです。
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